2018-01-09
特集:〈少女像〉 | Fight for Justice 日本軍「慰安婦」―忘却への抵抗・未来の責任
特集:〈少女像〉 | Fight for Justice 日本軍「慰安婦」―忘却への抵抗・未来の責任
5 〈平和の少女像〉はなぜ座り続けるのか
5-1 朝鮮人「慰安婦」は、なぜ少女が多かったのか?
5-2 朝鮮人「慰安婦」の特徴は?
5-3 〈平和の少女像〉は「反日」の象徴なのか?
5-4 アメリカで「慰安婦」少女像のせいで、日系人や在米日本人の子どもがいじめられている?
5-5 アメリカの日本人や日系人コミュニティは、「慰安婦」問題をどう受け止めているのか?
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-1 朝鮮人「慰安婦」は、なぜ少女が多かったのか?
朝鮮人「慰安婦」の実像を伝える〈平和の少女像〉
2011年に韓国ソウルの日本大使館前に建てられた〈平和の少女像〉(正式名称「平和の碑」)は、「慰安婦」被害者として名乗り出て水曜デモで平和を訴え続けていた被害女性たちが、若い頃に日本軍慰安所に連れて行かれたことを少女の像で表現したものです(*1)。その後、韓国各地や米国、カナダ、オーストラリア、中国にさまざまな〈平和の少女像〉が続々と建てられています。
ソウルの日本大使館前の平和の少女像(正式名称「平和の碑」)。隣にあるのは24時間、少女像を守る学生たちのテント。
〈平和の少女像〉は、朝鮮人「慰安婦」の多くが10代の少女だった頃に、植民地朝鮮から戦場に連行されたので、その実像を反映していると言えます。もちろん朝鮮人「慰安婦」には、29歳で沖縄に連行されたペポンギ裵奉奇さんのように、成年だったり、あるいは公娼出身だった女性たちもいたので多様性がありましたが、少女が多かったのは朝鮮人「慰安婦」の特徴の一つです。
〈慰安婦=少女〉は1990年代の韓国がつくったイメージ?
ところが最近、この〈少女像〉を例にあげて、〈慰安婦=少女〉イメージは韓国で1990年代に挺身隊と「慰安婦」を誤解したことからつくられたものとか、「韓国の被害意識を育て維持するのに効果的だったための、無意識の産物」とか、「慰安婦」にされた少女は「少数で例外的」などという歴史修正主義的な主張が韓国から現れました(*2)。つまり、〈慰安婦=少女〉は、1990年代の韓国の被害意識がうみだしたイメージにすぎないと強調しています。
さらにさかのぼると、「連行時に処女で、詐欺や暴力で拉致された」というのは韓国の運動がつくった家父長的な「モデル被害者」像であり、それは「娼婦差別」であるばかりか、そうではない日本人「慰安婦」との間に民族対立(分断)を持ち込む「反日」的な「民族言説」であると主張した日本のフェミニストもいます(*3)。
被害女性の証言こそが〈慰安婦=少女〉の証拠
では、改めて連行時の年齢に関して、まず、日本では十分に紹介されていない被害女性の証言からみましょう。
韓国では、韓国在住の被害者の証言集が6冊(*4)刊行されています。表1はこの6冊の被害者たちの生年と連行時の年齢の一覧表です。被害者合計78人のうち73人が未成年でした。10代前半の幼い少女も少なくありませんでした。
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これは韓国在住の被害者に限りません。日本在住者のソンシンド宋神道(ソン・シンド)さんは17歳のときに連行されましたし、朝鮮民主主義人民共和国に在住した被害者でも、パクヨンシム朴永心(パク・ヨンシム)17歳、リゲウォル李桂月(リ・ゲウォル)15歳、カククムニョ郭金女(カク・クムニョ)17歳、チャンスウォル張秀月(チャン・スウォル)17歳、リサンオク李相玉(リ・サンオク)17歳と連行時は10代でし*5た(リジョンニョ李宗女リ・ジョンニョは21歳)(*5)。また、1944年8月にビルマのミッチナーで朝鮮人「慰安婦」20人が米軍の捕虜になりましたが、その2年前に朝鮮から連行されたときの年齢は20人中12人が未成年でした(*6)。
次に、被害証言のなかから、連行時の年齢や様子に関する具体的な証言部分をみましょう(*7)。
朴永心(パク・ヨンシム)さん
パクヨンシム朴永心さん(パク・ヨンシム、1921年ピョンアンナムド平安南道生まれ)は、1939年に奉公先に日本人巡査がやってきて「お金を稼げる仕事がある」と騙され、「17歳の年、私は、同じ村の22歳の娘と一緒に平壌駅に連れて行かれました。駅にはすでに、十数名の娘たちが待っていました。私と同じように誘われ、それを信じて集まった娘たちでした」と語りました(その後、中国・南京の日本軍慰安所、ビルマのラシオを経て中国雲南省の拉孟守備隊の慰安所へ)。
パクトゥリ朴頭理さん(パク・トォリ、1924年キョンサンナムド慶尚南道生まれ)は、日本人男性3人などに「日本の工場に入れる」と騙され、「連行されたのは十七歳になった年、1940年に間違いないと思います。……暑くも寒くもなかったということだけ覚えています」
と回想しています(台湾・彰化の慰安所へ)。
金福童(キム・ボットン)さん
キムポットン金福童さん(キム・ボットン、1926年キョンサンプクド慶尚北道生まれ)は、「ちょうど私が16歳になった年の1941年でした。姉さんたちは、日本人の奴らに連れて行かれないようにみんな嫁に出しました」が、ある日区長と班長が日本人と一緒に家を訪ね、母に「テイシンタイ(挺身隊)に娘を送るので出しなさい」と脅かされ、「行く外しかたがなかった」と述べました(台湾を経て広東、シンガポール、マレー半島、インドネシア等の南方地域の慰安所へ)。
ハサンスク河床淑さん(ハ・サンスク、1928年チュンチョンナムド忠清南道生まれ)は、工場で稼げると朝鮮人男性二人に騙され、「家を出る時、私は数えの17歳だった(1944年)。その時、妹は15歳で、蚕から糸をとる工場で仕事をしていた。弟が12歳だった。家を出たのは、五月の端午の節句の頃、陰暦では6月頃だった」とはっきりと連行時の様子を記憶しています(中国漢口の積慶里慰安所へ。朝鮮解放後に置き去りにされ中国に残留した)。
こうした具体的な証言を通じて、朝鮮のさまざまな地方から10代の少女をはじめとする若い女性たちが、詐欺や脅迫、誘拐などの手段によって「慰安婦」のターゲットにされたことがわかります。
〈慰安婦=少女〉をつくった日本政府・軍の「慰安婦」徴集政策
朝鮮人に少女が多かったのは、以下のような政策的な裏づけがありました(*8)。
第一に、日本人女性の「慰安婦」徴集が「満21歳以上で、性病のない、売春女性」に制限された結果、植民地女性の徴集は「未成年、性病のない、非・売春女性」が多くなったというように、民族別に「慰安婦」徴集の特徴が異なっていたことです。これは明らかな民族差別です(吉見義明氏による。Q2参照)。
第二に、植民地からの徴集が国際法(婦女売買禁止国際条約)の適用除外とされたことです(*9)。
第三に、日本軍将兵の性病対策という側面から、性経験のない未婚の少女たちがターゲットにされたことです。
加えて、当時の朝鮮人女性の平均結婚年齢(推定)が18・45歳(1935年)、21・46歳(1940年)(*10) と早婚だったので、結婚前の10代に徴集しようとしたと推察できます。
表2 戦前(植民地期)の朝鮮人/日本人女性の平均結婚年齢
1925年 1930年 1935年
朝鮮人 19.6歳 19.2歳 18.5歳
日本人 24.0歳 24.0歳 24.6歳
出典:中谷忠治・河内牧「朝鮮に於ける女子の未婚残存率に関する若干の統計的考察(2)」朝鮮総督府『調査月報』1944年8・9月号
このように、朝鮮人「慰安婦」に少女が多かったのは、植民地支配を背景とした戦時中の日本政府・日本軍の民族分断的な「慰安婦」徴集政策の産物であり、被害女性たちの証言からも実証できるのに、それから半世紀後たって韓国の被害意識がつくったイメージとか、「モデル被害者」像と強調するのは、資料や証言を無視した詭弁ではないでしょうか。日本人「慰安婦」との違いは民族対立ではなく、政策による民族別の特徴であると言えるでしょう。
成人で公娼出身の日本人「慰安婦」が名乗るのが難しかったように、成人で公娼出身の朝鮮人「慰安婦」が多数いても名乗らなかった可能性もありますが、それを示す資料があまりありません(日本人「慰安婦」の資料は一定あります)。
さまざまな証言や資料から朝鮮人「慰安婦」の全体像をみると、その過半数が連行された当時一〇代の少女だったことは、歴史的な事実でした。したがって、〈平和の少女像〉は朝鮮人「慰安婦」の実像を記憶として継承した芸術作品と言えます。
(金富子)
• 本稿は、岡本有佳・金富子責任編集『増補改訂版 〈平和の少女像〉はなぜ座り続けるのか』に収録された同名の論考に加筆したものです。正確には同書をお読みください。
*1 岡本有佳「コラム:《少女像》はどのようにつくられたのか」Fight for Justiceブックレット3『Q&A朝鮮人「慰安婦」と植民地支配責任』御茶の水書房、2015年。
*2 朴裕河『帝国の慰安婦』朝日新聞出版、2014年。同書をめぐる問題については、鄭栄桓『忘却のための「和解」―『帝国の慰安婦』と日本の責任』(世織書房、2016年)や、特集『帝国の慰安婦』事態参照。
*3 上野千鶴子『ナショナリズムとジェンダー』青土社、1998年。
*4 韓国挺身隊問題対策協議会・挺身隊研究会編『証言―強制連行された朝鮮人軍慰安婦たち』はタイトル・著者名・出版社に多少の変動があるが、第一集~第六集まで出版されている(1993年・97年・99年=ハヌル、2000年・01年、04年=プルピッ)。ほかに中国に連行された被害証言集が2冊ある。
*5 アクティブ・ミュージアム「女たちの戦争と平和資料館」(wam)編、西野瑠美子・金富子責任編集『証言 未来への記憶―南北在日コリア編 上』明石書店、2006年、および同書『下』2010年。
*6 詳しくは金富子「朝鮮人「慰安婦」に少女は少なかった?」前掲Fight for Justiceブックレット3参照。吉見義明『従軍慰安婦』岩波書店、1995年も参照。
*7 注5と同じ。
*8 注6と同じ。
*9 注6と同じ。
*10 日本「内地」は朝鮮に比べて四歳強年長だった。中谷忠治・河内牧「朝鮮に於ける女子の未婚残存率に関する若干の統計的考察(二)」朝鮮総督府『調査月報』8・9月号、1944年。
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5-2 朝鮮人「慰安婦」の特徴は?
日本軍「慰安婦」として主に誰が犠牲にされたでしょうか。 それは植民地支配、占領地支配と差別が深くかかわっています。「慰安婦」にさせられた人たちは、朝鮮人、中国人、台湾人、フィリピン人、インドネシア人、マレー人、ビルマ人、チモール人、ベトナム人、タイ人、チャモロ人、オランダ人、インド人、日本人など多岐にわたっています。このうち日本人以外の人たちが多く犠牲となったことが「慰安婦」問題の一つの特徴を示しています。
慰安所で両耳を掴まれ暴行された時の様子を語るフィリピンのエステリータ・バスバーニョ・ディさん(85歳)。日韓「合意」後初めて、韓国以外の被害者らが来日し、日本政府に対し、「すべて国の、すべての被害者が受け入れられる解決策を改めて示す」ことを要請した。撮影:岡本有佳(週刊金曜日2016年11月18日号記事より)
「慰安婦」被害者に朝鮮人が多かった理由
戦地で性病が増えたため、その実態を大本營陸軍部研究班が調査(1940年)したものがあります。戦地で性病にかかったときの相手を「相手女」しているのですが、その比率をみると、日本人12.2%、中国人36.0%、朝鮮人51.8%です(*1)。研究班は「朝鮮女の活躍は他を圧倒しあり」と言っています。これは議論の余地はあるのですが、日本人以外の女性たちが主として被害に遭っている、つまり「慰安婦」にされている、という数値としてみることができます。
ではなぜそうなのでしょうか。日本軍は、日本「内地」から移送する場合、満21歳以上、前歴が「醜業婦」であることを条件としました。しかし、朝鮮や台湾ではこの条件はなく、より広範な、また未成年などより若い女性たちが犠牲になったのです。これはあきらかに人種差別、民族差別です。
朝鮮人や中国人などの「慰安婦」は、数が多かっただけでなく、より苛酷な状況に置かれる傾向がありました。たとえば、大都市の比較的めぐまれた慰安所には日本人女性が多いのに比べ、遠方や中小都市の慰安所には朝鮮人やそこの現地の人が入れられる場合が多いのです。前線に近いところに配置される傾向もあります。期間も、ソンシンド宋神道さんのように1938年に送られ日本敗戦まで帰れないという長期間のケースもあります。朝鮮人や台湾人の場合、故郷から遠く離れた慰安所に連れていかれるので、結果として拘束期間が長くなる傾向があります。また、地元の女性の場合、部隊が移動して慰安所が閉鎖されると放り出されることもありました。
そして、軍が決定した慰安所料金も日本人と朝鮮人と地元の女性との間に明確な格差があり、日本人「慰安婦」被害者は将校用の慰安所が多いことから、朝鮮人「慰安婦」などはより劣悪な環境に置かれる傾向があります。
日本軍の都合で遠い海外へ連れて行き、日本敗戦とともに、日本軍は女性たちを放り出してしまいました。遠く離れた異国に連れていかれ、故郷に帰ることができないケースも多かったのです。
中国や東南アジアの占領地の住民の比率も高いのですが、朝鮮人の比率も高かった背景には、日本が植民地化のなかで朝鮮に公娼制度を持ち込み(*2)、それが定着・拡大し、人身売買組織ができあがっていったということがあります。つまり、植民地支配下でとくに若い女性たちは教育をあまり受けられず、貧しい状況に置かれていたのですが、誘拐や人身売買で連行されていくルートが準備されていたということです。
なお、日本人の場合は人身売買により遊廓などで拘束されていた女性が「慰安婦」にされたのですが、貧しい家庭出身の女性たちでした。これは明白な階級差別であったということを付け加えておきます。
日韓「合意」は問題解決にならない
2015年12月28日に発表された日韓「合意」では、「当時の軍の関与の下に、多数の女性の名誉と尊厳を深く傷つけた問題」であるとし、「日本政府は責任を痛感」すると述べていますが、「河野談話」同様、「軍の関与の下に」とし「軍が」とは言っていません。「慰安婦」制度を作った責任の主体は誰なのかが曖昧なままです(*3)。
政府出資の10億円は、支援金であり、賠償ではありません。つまり、法的責任を認めていないのです。業者が介入した場合にも軍が主体で業者は従属的な役割をしました。軍に責任があるならば政府は被害者に賠償しなければならないのです。
歴史教育など再発防止措置については、いっさい約束せず、この点は「河野談話」より後退しました。
それどころか、日本政府は〈少女像〉の撤去を要求しています。〈少女像〉というのは再発防止のためにつくられた記念碑です。それを加害者側が撤去するように要求するのは、あり得ないことです。問題を解決しようとするなら言ってはならないことだと思います。
日韓「合意」は、被害者の意向を無視したものです。加害者側が「最終的かつ不可逆的に解決された」ということも言ってはいけないことであり、それを言えるのは、当事者である被害者だけです。結局、日韓両国政府が手を組んで被害者に「もうこれ以上は言うな」と押さえ込む構図をつくりました。
それでもいま、韓国の「慰安婦」被害者たちは、日韓「合意」に反対し、真の名誉と尊厳の回復のために闘っています。また、朴裕河著『帝国の慰安婦』による名誉毀損に対しても闘い(*4)、民事訴訟で勝訴の判決を勝ち取りました。今回の日韓「合意」では「慰安婦」問題は解決されません。あらためてやり直しをすべきだと思います。
(吉見義明)
※本稿は、岡本有佳・金富子責任編集『増補改訂版 〈平和の少女像〉はなぜ座り続けるのか』(世織書房)に収録されたものです。
*1 大本營陸軍部研究班「支那事変ニ於ケル軍紀風紀ノ見地ヨリ観察セル性病ニ就テ」。出典:女性のためのアジア平和国民基金編『政府調査「従軍慰安婦」関係資料集成』第二巻、龍渓書舎、1997年、77頁。
*2 宋連玉「植民地朝鮮にも公娼制度はあった?」Fight for Justiceブックレット3『Q&A日本軍「慰安婦」と植民地支配責任』御茶の水書房、2015年。
*3 吉見義明「真の解決に逆行する日韓「合意」―なぜ被害者と事実に向き合わないのか」『世界』2016年3月号参照。
*4 日本軍と「同志的な関係」、戦争の「協力者」、「自発的に行った売春婦」などという朴裕河著『帝国の慰安婦』の記述について、2014年6月に①出版等禁止と被害者らとの接近禁止の仮処分②名誉毀損による損害賠償(民事)③名誉毀損(刑事)を提訴。その結果、2015年2月、34三ヵ所の記述削除の仮処分決定。同年11月、ソウル東部地方検察庁は、名誉毀損罪で被告を在宅起訴。2016年1月13日、原告九名に対し合計9000万ウォン(約900万円)の支払を命じる勝訴判決が出た(被告は控訴)。
■参考文献
吉見義明『従軍慰安婦』(岩波新書)。とくに「植民地・占領地の女性が慰安婦にされた理由」160~168頁参照。
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