2019-09-07

歪む社会 歴史修正主義の台頭と虚妄の愛国に抗う


歪む社会 歴史修正主義の台頭と虚妄の愛国に抗う 
単行本(ソフトカバー) – 2019/2/6
安田浩一 (著), 倉橋耕平 (著)



商品の説明

内容紹介

なにがリアルで、なにがフェイクなのか?
通説をねじ曲げ、他者を差別・排除し、それが正しいと信じる。そんな人たちが、なぜ生まれるのか?
『ネットと愛国』のジャーナリスト・安田浩一と『歴史修正主義とサブカルチャー』の社会学者・倉橋耕平が、90年代から現在に至る右派の動向について徹底討論!
内容(「BOOK」データベースより)

通説をねじ曲げ、他者を差別・排除し、それが正しいと信じる。そんな人たちが、なぜ生まれるのか?『ネットと愛国』のジャーナリスト・安田浩一と『歴史修正主義とサブカルチャー』の社会学者・倉橋耕平が、90年代から現在に至る右派の動向について徹底討論!


登録情報

  • 単行本(ソフトカバー): 256ページ
  • 出版社: 論創社 (2019/2/6)
  • 言語: 日本語
  • ISBN-10: 4846017915
  • ISBN-13: 978-4846017910
  • 発売日: 2019/2/6

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    3件のカスタマーレビュー

    5つ星のうち4.4
    5つ星のうち4.4
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    3件中1 - 3件目のレビューを表示
    トップレビュー

    くまじ

    ベスト100レビュアー
    5つ星のうち4.0見事に提示された「ネトウヨ」の全体像2019年3月18日
    Amazonで購入
     「歴史修正主義とサブカルチャー」青弓社の倉橋耕平氏と「ネットと愛国」講談社の安田浩一氏の対談により、現在の日本のネット右翼に関わる全体的な見取り図を簡潔に得ることができる。ちなみに筆者は先週、笠原十九司氏の「南京事件論争史」平凡社を読んで、日本国の支配構造・それに与する人間たちが東京裁判の時点で破綻した同じ与太話を70年にわたって何度も反復し人民一般を愚弄し続けていることを再認識させられたのだが、そのような問題が本書によりさらに幅広い一般的なものとして見て取れた。
     それにしても「ネトウヨ」と同じことを言っているような議員や官僚や経営者は一体どういう了見で「ネトウヨ言説」を実践しているのだろうか?と疑問に思ってしまった。この辺り、取材対象の心情に寄り添って「何故?」を解き明かしていくのは安田浩一氏の得意とするところだろう。本書でも対談の過程で倉橋耕平氏の熱い動因が語られる場面があり、安田氏はあとがきでもそのことに触れているが、やはり倉橋氏が心情を語ったのも安田氏との対話という場のなせる技だったのではないか?読者としては読み応えを感じた部分でもあり、対談の妙といっても良いかもしれない。話を戻すと「ネットと愛国」ばりに権力者「ネトウヨ」に寄り添いながらその内面を明らかにしていくような本は読者にとっても面白いのではないか。「さらば、ヘイト本! 嫌韓反中本ブームの裏側 」ころから新書 大泉 実成 (著), 木村 元彦 (著), 加藤 直樹 (著), 梶田 陽介 (著)なんかもそういう要素があってその部分が面白かったし。自分とは全く異なる境遇で、全く異なる選択をした人物の在り様について知ることは、自分の見聞を拡げるという点で、読書の楽しみそのものである。

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    abeshine

    5つ星のうち5.0良書...2019年4月9日
    Amazonで購入
    非常に面白かったです。
    現在の日本の空気(右傾化)に違和感を感じてる人は読んだ方がいい!

    12人のお客様がこれが役に立ったと考えています
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    アマゾン customer

    5つ星のうち4.0現在のこの国を覆う異常性がどのような原理で作られているのか、ヒントを教えてくれる本2019年2月11日

    90年代頃から力を強めてきたネット右翼や歴史修正主義・排外主義を掲げる勢力が、どのような道をたどって現在のような形を取ることになったのか、2人の論者の対談形式によって解説されている。
    歴史学、社会学、現代思想系の専門書を年間に2~300冊ほど読み、さらにTwiiter等のネット事情を常にチェックするぐらいのリテラシーを持つ人であれば、目新しい情報はほとんど無いだろう。既知の情報をまとめただけ、とも言えるが、その程度の勉強すら怠っている人にとっては、現在の日本の惨状をもたらした存在の概要を知るにあたって便利な本ではないだろうか。

    この本で新鮮な功績として取り上げるに値する箇所は2つある。
    どちらも本の後半部分にあたる箇所だが、1つ目は安田氏が野中広務に取材した際に、野中が沖縄について語ったとされるエピソード(P224)。野中をはじめとしたかつての自民党保守系大物議員たちが、右派的な傾向を持ち合わせていたとしても、一方で最低限のレベルで忘れようとはしていなかった戦争への抵抗の意思、人間の尊厳への眼差しがここからは読み取れる。かつての世代と現在のかの党があまりにかけ離れてしまっている現在を、あらためて知ることができる。この‟落差”を読み飛ばしてしまうと、戦後日本の政治における「保守」という存在が本当はどのようなものであったか、見誤ってしまうだろう。
    2つ目は、「そこまで言って委員会」などの地方TV番組(いわゆる「在阪メディア」)が持つ「アンチ東京=アンチ中央」の感覚が、中央集権主義への批判となる肯定的側面(反権力性)を持ちつつも、逆にその「本音トーク」「ぶっちゃけ」自体が前に出すぎることで差別主義へ加担してしまう両義性がある点を指摘したこと(P236)。そうした表層的な「反権力性」を口実とした差別・排外行為が蔓延しているのが現在なのであるが、やはりここのところはちゃんと意識しておかないと右派勢力のモチベーションを理解できないはずだ。つまり、排外的な言説に動員される側のネット右翼たちは、おそらく半分は本気で、自分たちを「反権力」の立場に置いて行動しているだろうからだ。もちろん彼らこそが権力側について差別を行っているので、それは倒錯した事態と言えるのだが。だがこの連中の「本気度」の高さをどれだけリアルに想定できるかで、左派やリベラルの対策は変わってくるだろう。残念ながら奴らはマジでやっているのだ。
    (ちなみに本書ではそうした連中と違い、信念ゼロの金目当ての右派言論人の存在も指摘されている)

    これらの指摘以外にも先に述べたように、現在の目を覆わんばかりの日本の惨状を知るにあたって、本書は良いまとめだと言える。悪しきポピュリズムで一方的な主張を偽装するサブカルチャーの手法による言論破壊、従来の学問的な精査をすり抜けて一般市民が自由に発言できるツールとしての役割を果たしたインターネット、議論に値しない右派の歴史修正主義的言説をさも一つの学説のように見せかけるディベートの流行など、特に90年代頃の日本社会で流行した様々な現象が、現在のネット右翼をはびこらせる要因としてそれぞれ繋ぎ合わせられる部分は、なるほどと思わせられるだろう。
    ただし繰り返しになるが、まともに勉強している人であればこういうことは、たとえ正確な言語化は無理であったとしても、感覚的なところで薄々気付いていたはずだ。もしもこの本を読んで「なるほど」と初めて思ってしまうのであれば、それはいかにこれまで何も勉強してこなかったかを証明することでもある。そういう意味では自分の勉強量が一定の基準に達しているかどうかを測定できるという効果も、この本にはあるだろう。(著者たちにとってはまったく迷惑な話だと思うが)

    残念だと思われる点も挙げておきたい。
    2019年1月2日に某氏によってツイートされた内容が触れられているにもかかわらず、発行は2019年2月6日。つまりそれだけ速報性の高い本であると呼べるが、それだけ急いで作られたせいなのか、誤字が目立つ。

    P39  15行目 「自由」いう論壇誌 → 「自由」という論壇誌
    P51  注25の7~8行目 顕在化することなった → 顕在化することとなった
    P130 15行目 大きなおおきなフリップボード → 大きなフリップボード(※この箇所で「大きな」という語を2回繰り返す必然性が分からない)

    そして、もっとも良くないと思われる誤字が、P109にある。ここでは『帝国の慰安婦』を擁護する知識人に対する著者の批判が書かれているのだが、上野千鶴子「『帝国の慰安婦』のポストコロニアリズム」の文章が、著者の発言の中に取り込まれる形でカギカッコ引用されている。次の文章だ。(最初と最後を※で括っておく)

    ※※※
     僕にとって疑問なのは、上野千鶴子がこうした学問の「前提」がなっていない本を「『帝国の慰安婦』が歴史書として読むに値しない、という批判は、主として「実証史学」の水準(事実の認否)で行われている。だが僕の目からみれば、『帝国の慰安婦』がもたらした学問的なインパクトは、「実証」の水準にではなく、「語り」と「記憶の水準」にある」と評してしまう点です。
    ※※※

    そして上野の文章の原文は、以下のものだ。

    ※※※
    『帝国の慰安婦』が歴史書として読むに値しない、という批判は、主として「実証史学」の水準(事実の認否)で行われている。だがわたしの目から見れば、『帝国の慰安婦』がもたらした学問的なインパクトは、「実証」の水準にではなく、「語り」と「記憶の水準」にある。
    (上野千鶴子「『帝国の慰安婦』のポストコロニアリズム」、『対話のために 「帝国の慰安婦」という問いをひらく』クレイン P245-246)
    ※※※

    つまり、原文では「わたしの目から見れば」と書かれていた箇所が、なぜか本書では「僕の目からみれば」と、一人称の表記が変わってしまっているのだ。おそらく校正の時のミスだろう。
    これは単純な誤字の問題であり、ささいなミスであるかもしれない。重箱の隅をつついている自覚はあるが、しかしそれでもカギカッコ付きの引用は原文に沿って正確に写さなければならないという原則がある以上、見逃してはいけない部分だろう。
    ましてやこの箇所では、『帝国の慰安婦』の事実誤認を批判の対象として扱っているため、余計に目立つミスとなってしまっている。ここはもっと丁寧にチェックしてほしかった。
    (なお内容レベルでの疑問点を挙げるならば、上野の『帝国の慰安婦』擁護がどのように批判されるべきであるのか、この箇所からは意味を掴み取ることは難しかった。著者は「「語り」と「記憶の水準」を評価するには、あまりにも事実をないがしろにしている。あるいは、「学問的なインパクト」欲しさに当時者の証言を利用してよいわけではない」とだけ書いているが、そこまで言うのであればせめて具体的な例示が欲しい。対談であり、この話題のみに限定した章でないことは承知しているが、逆に言うとおそらくこの箇所は著者がどうしても一言残しておきたい、という部分としてこの対談の話題のレベルからは浮いてしまった箇所なのではないだろうか。また、上野の言う「学問的なインパクト」というのは、そのインパクト狙いで『帝国の慰安婦』の著者が自己の主張を述べているという意味ではなく、本の受け手側が論点とすべき箇所、という意味で言っているのではないだろうか。「論点を見誤っている」というのが上野の言いたいことだろう。何か両者の間で大きなすれ違いを感じてしまう)

    それから誤字レベルではない、もう一つの大きな問題点と思われる箇所。
    P216から続く「スピリチュアル系」と右派的言説の関係を述べた部分で、「そもそも宗教自体が何かの証拠があって言説が組みたてられているわけではありません」という一文は、大きな誤解を招くのではないか。「カルト宗教」や「近年の新興宗教」といった限定付きの表現ではない。「宗教」と書く以上、これはいくらなんでも対象としているものが大きすぎるだろう。ここは宗教学研究、スピリチュアル研究の人々が文句を言ってよい箇所だろう。

    最後の問題点として、全体的な対談の構成である。2人の著者の対談形式ではあるが、実質的には1人の著者が大量に語って結論を出し、そして次にもう1人の著者がまた大量に語って結論を出し、そして再びもう1人の著者が・・・というパターンの繰り返しなのである。1人の著者が1ページ以上の膨大な発言をするところも多く、対談というより演説文を読んでいる気分になる。
    これでは対談の意味が無いのではないか。お互いの対話によって変化・創造される文脈というものがこの対談には、ほとんど無いように見える。
    対談形式というのは読みやすさを狙ったものなのだろうが、本当にその「読みやすさ」以上の効果が無いのは残念である。

    本レビューの後半では色々と批判的なことも書いたが、著者2人の危機感と、歴史修正主義・排外主義への怒りにはもちろん賛同する。
    著者たちが挙げるネット右翼的言説への対抗は、果たして有効であるのかという疑問も残るのだが、しかしこの現状に違和感を感じている人、そしてその違和感の要因がうまく結び付かないという人はぜひ読んでみてほしい。現在のこの国を覆う異常性がどのような原理で作られているのか、ヒントを教えてくれる本だろう。

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