2020-08-20

帝国日本の植民地を歩く 文化人類学者の旅ノート/崔 吉城 - 紙の本:honto本の通販ストア

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忘れたい過去,受け入れ難い遺産を,どう処理すればいいのか。
憎しみ(反日感情)や英雄(殉国者)はどのように作り出されるのか─。
日韓の狭間に生きてきた文化人類学者が,かつての植民地で見聞きし考えたこと。
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私は、日韓関係にはいつも潜在的危険性が内包されていて、表面的には良好な関係であっても、いつ爆発するか分からない爆弾のようなものであり、また、良好な状態が持続したとしても、それは長くは続かず悪化すると思っている。なぜ、韓国では反日感情が強いのか─。反日感情の根源は日本の植民地にあるのか。反日の原因はどこにあるのだろうか。反日の本質を知るために、反日感情を理解するために、私は植民地を研究することにした。本書では、主に現地を訪ね、直接見聞きしたものを中心に、日本の植民地だけではなく、世界史的な植民地を歩いて調査した事例を挙げてその意味を考察してみたい。(「はじめに」より抜粋)

目次:帝国日本の植民地を歩く 文化人類学者の旅ノート/崔 吉城 - 紙の本:honto本の通販ストア

帝国日本の植民地を歩く 文化人類学者の旅ノート
崔 吉城(著)


はじめに
Ⅰ 反日と嫌韓
 「日帝」の残滓/植民地からの「解放」/『醜い韓国人』/金日成の抗日運動/日本向けではない「反日」/民族主義と反日感情/伊藤博文と安重根/中国の反日との比較
Ⅱ 反日暴力
 旧朝鮮総督府庁舎をめぐって/日本植民地政府は「風水」を分かっていたのか/“十三人委員会”/旧朝鮮総督府庁舎解体撤去/抑圧政策を受け継ぐ
Ⅲ シンガポールの植民地遺産
 日帝支配がもう一年続いていたら/「連合軍の蛮行」/植民地時代を隠さないシンガポール/植民者ラッフルズの足跡/観光資源としての植民地遺産/「少なくとも今の日本人は、人を殺さない」
Ⅳ 展示された「戦争」 広島平和記念資料館と南京大虐殺記念館
 加害者意識なき日本人/「巨大な洗脳装置」/広島平和記念資料館/負の遺産をどうするか?/南京大虐殺記念館/ラーベの日記
Ⅴ 植民地残滓の肯定
 1 台湾・桃園神社
   唯一残る日本の神社/植民地の善悪二元論を超えて
 2 パラオ
   南国へのロマンチシズムと夢/パラオ国民が長生きできない理由/“後期植民地”現象/パラオの歴史はすべてが植民地史
 3 南アフリカ
   反日と親日の東アジアから遠く離れて/「アフリカのナポレオン」と呼ばれた男
Ⅵ 植民地と被植民地の狭間で
 1 アイルランド
   隣国間における植民地史/宗主国と植民地の認識の違い/悲劇的な植民地官僚ケースメント/植民地支配における近接性と近似性
 2 フィリピン
   監獄のような“楽園国家”/“独立運動の父”ホセ・リサール /“楽園の国”再訪/植民地の英雄は悲劇から生まれ……
注/参考文献
おわりに
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朴 仙容 1947年生、在日コリアン二世。㈱海龍 相談役
5つ星のうち4.0 読後感
2019年10月29日に日本でレビュー済み
民族的なエゴのないニューカマーの著者(崔吉城教授・東亜大学)の力作。反日・親日に対する新しい視点のアプローチだ。アジアには反日文化圏と親日文化圏があると著者は言う。反日文化圏は朝鮮半島から大陸へ広がる。中でも韓国の反日感情が一番強い。台湾や南洋などには親日文化圏が広がっている。台湾では植民地時代の日本文化が日常の中に残り、台湾総督府の庁舎は中華民国総督府に利用され、観光スポットになっている。対照的な反日韓国の朝鮮総督府は植民地化された屈辱の象徴、存在を放置できずに破壊した。なぜ韓国の反日感情はそれほど強いのか。著者は反日の本質を理解するために植民地を研究、現地を訪ねて直接見聞きしている。帝国日本の植民地だけでなく、列強の植民地も歩き、その地その地の事情・事例を挙げ、その意味を考察しているが、著者自身が反日だ、親日だと指差され、憎しみの対象にされたこともある。韓日の「かけ橋だ」と言われ、嬉しく受け取っていると、突然その立場から突き落とされた苦い経験も多いようだ。著者を中立な人と評す人がいる。問題意識は強いが、文中には中立や客観性を意識した言葉の繕いはない。誤解を恐れる記述もない。植民地を歩き、見たまま聞いたままを考え、韓国人の反日感情の根源を探求し、韓日関係の悪化原因を率直に綴っている。韓日両国人の相互理解を進める解説書として評価している。
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崔吉城
5つ星のうち5.0 山路と下川両先生の書評
2019年10月15日に日本でレビュー済み
崔吉城 先生
『帝国の植民地を歩く』、ありがとうございました。興味深い内容で、一気に読み通しました。以下、読後感を述べてみます。

「戦後、半世紀をはるかに超えているのに、韓国においてはまだ多くの国民の意識構造の中で植民地は終わていない」(p.26)という問題関心から出発した本書は、1970年代まで主流を占めていた植民地研究、具体的には井上清、遠山茂樹、家永三郎、大江志乃夫らの左派的、もしくはレーニン主義的立場の研究とは隔絶の差異を見せつけている。結論的に言えば、ホセ・リサールやガンジーを例に挙げながら、「植民地政府の恩恵を受け」つつ、彼らの内面的には「裏切りと報恩の葛藤が存在し」ていて、だからこそ一層、「民族主義的」立場を止揚して「人間の平等と平和を追求する」(p.176)立場からの歴史記述が必要だ、と説くことにある。この主張こそが、本書に一貫した立場である。この立場に賛同したうえで、いくつかの話題を取り上げてみたい。

1) 本書では、中心課題に植民地当局が建立した文化遺産の評価づけが大きな比重を占めている。ここで、評者が見聞した話を付け加えてみたい。中国東北部の長春には満州国皇帝の溥儀の宮殿が現存していて、今では観光名所になっている。しかし、この宮殿は仮の建物であって、終戦まじかには本宮殿を建てようとして、今の長春駅から南へ数キロの場所に敷地(公園)を用意し、その土台造りに着手していた。しかし、敗戦により計画は頓挫する。戦後、中国政府は、幸運にも残っていた設計図をもとに本格的な宮殿を建立する。現在、広大なその公園には復元された宮殿が威容をもって建っている。2010年、評者が吉林大学を訪れた時、そこの大学の先生に、こう質問した。「韓国では総督府の建物は日帝残滓ということで取り壊されたが、なぜ中国ではわざわざ復元したのですか?」その先生は笑って、「たぶん、もったいなかったからでしょう。」
その時、中国と韓国とで植民地遺産の扱いが違うのに、評者自身は戸惑ってしまいました。もっとも、歴史遺産は時の政治権力によって扱いが違います。1983年、中国の済南・曲阜にある孔子廟に行った時のこと。文化大革命が終わって7年後です。孔子廟内にあった康有為 (清朝末期の開明派)の銅像は無残に打ち砕かれたまま、そして東岳大帝を祀る岳帝廟はいまだ修復ならず、という状況でした。「文革四人組」による「四旧」打倒の爪痕、いまだ癒えずという状況は悲惨さを感じさせました。こうしてみると、時代によって、時の政権、権力の在り方によって、文化遺産は残されたり、復元されたりするものであって、韓国でも、いまは「日帝残滓」ということで破壊されていても、後世には復元されるのかも知れません。問題は、後世の人間が、いかなる歴史認識を持って植民地建造物に普遍的な美的価値を与えるか、ということになるでしょう。

2) この件で言えば、シンガポールのラッフルズの記述は興味がそそられました。軍政の問題と切り離して、文化遺産に関して本書に付け加えていえば、ラッフルズの業績は偉大です。ラッフルズ・ホテルはその一つですが、このほかラッフルズ博物館の存在も重要です。本書では触れられていないので、いささか補足しておきたい。ラッフルズを記念して命名された、この世界的に有名な博物館は、戦時中に危機に瀕しましたが、図書文献や展示品の散逸を防ぎ、その窮地を救ったのは、日本人学者の貢献でした(田中館秀三1944『南方文化施設の接収』、山路勝彦2004『台湾の植民地統治:無主の野蛮人という言説の展開』)。こうした学者の献身的行為でラッフルズの名は今もかがやき、文化遺産は守られてきました。文化遺産という観点から、こうした学者の存在は闇に消してはいけないと思いました。

3) アイルランドのケースメントの歴史的位置づけは、日本人には馴染みが浅かっただけに、貴重な紹介です。70年代の日本で紹介されても、植民地統治に加担した人物の典型として片付けられてしまうでしょう。ここで思いされるのは、独立宣言(3・1)の唱道者で、かつ建国大学(満州国)にいた崔南善であり、有名なダンサーであった崔承喜です。こうした人たちが、ケースメントとともに、再評価されるのは、「善と悪」との二分法では歴史は語れないという基本的事柄があることです。

本書の一番の評価点は、この論点を真正面から論題に据えたことにあります。植民地統治者と一般住民との間に立つ人物、すなわちコラボレーターに光を与えることによって、歴史記述はいっそう深みを増してきます。こうして、21世紀、人類学者が組み立てる歴史研究がさらに発展し、「善悪の彼岸」に到達できるよう願っています。本書が、そのための導き手になることを期待してやみません。

下川 正晴先生の書評
10月16日 15:45 ·

韓国の「反日」を、辺境から、考える!!!
崔吉城『帝国日本の植民地を歩く』(花乱社)を読み始めた。以前、韓国語版を読んだことがある。著者は歴史学者ではなく、文化人類学者である。つまり、思考が柔軟である。笑笑。フィールドワークを通じて感知した「反日意識の形成」考察がまことに興味深い。
ソウル大を卒業し、広島大学などで研究を重ねてきた崔教授は「反日だ、親日だと言われ、時には『日韓の架け橋』とも言われた」人物である。そのアンビバレンツな立ち位置が、民族感情の形成史研究を平衡感覚のあるものにした。
第1章「反日と嫌韓」は、一般的に「反日文化圏」と見なされる朝鮮、中国などでも地域によって色合いの違いがあることを指摘した。典型的な例が旧満州、樺太、中央アジアの朝鮮人の日本に対する視角である(写真参照)。文末にサハリン在住の韓国人のコメントが載っている。「日本がそのまま支配していれば、大金持ちになっていたのに」と言ったというのである。こういうコメントを平気で紹介するのが、崔教授の真面目である。
僕はソウルの大学で客員教授をしていた頃、似たような発言を耳にした。MBCテレビの女性レポーターが、独島(竹島)問題取材のために鬱陵島に出かけて、島民をインタビューした。すると、ある老女が「鬱陵島もそのまま日本領土だったら、もっと発展していただろうに」と言ったのだという。もちろん、彼女はその話を放送しなかった。笑笑
日本にしろ、韓国にしろ、何処にしろ、辺境に行くと、国家の正統的な言説が突き崩される証言に遭遇する。崔教授はそういうフィールドワークを重ねてきた碩学である。考えるヒントがあちこちに散りばめられた良書である。
菅野 修一
20時間前 ·

最近、崔吉城先生の最新の『帝国日本の植民地を歩く』(花乱社)1600円 を読ませていただいた。
 私は、チェキルソン先生の本は『恨の人類学』『朝鮮出身の帳場人が見た慰安婦の真実』『朝鮮戦争で生まれた米軍慰安婦の真実』を読んでいるが、今度の本はタイトルとは異なって南アフリカ共和国、アイルランド、フィリピンなども含めて、世界各地を旅して、旧植民地国の人々の旧宗主国に対する感情を調査した旅行記のような体裁をとったノートであった。ホセ・リサールやセシルローズやラッフルズなど、日本の高校の世界史B教科書ではおなじみの人物が登場し、それだけでも世界史B学習者にはとりつきやすいと思う。
 その結果、結論は言わずもがなで、韓国だけが異常に旧宗主国日本に対する反日意識が高いとしている。何故そうなるのかについては、マスコミ、教育の問題、反日意識が韓国の政治抗争の道具として利用される傾向などがあげられており、したがってまだ意識の上で植民地状態を逃れられていないという分析であった。
 そして、旧ヨーロッパの植民地には、本国人の白人が今でも現地で生活している例が一般的だが、旧日本植民地では満州国も含めて、日本人は一掃されたという指摘もある。
 私は日本の植民期間が短かったことも理由であると思うが、旧植民地側が中国や朝鮮のように、かつて高い文明を保持していたのを、山県有朋などの(田舎者のー半藤一利氏)明治政府の指導者がこれを理解していなかったことが大きな原因であると思う。朱子学などは全く理解できなかったわけだ。(この話については、これからもつづきを書きたい)。
 学術論文ではなく旅行記の体裁で読みやすく、そのうえ大変内容的に斬新な良い本なので、(ただし近所の本屋には未だ無いようなので注文になるが)、是非、買って読むと良いと思います。決してお若いとは言えないチェキルソン先生が若い時期のレヴェストロースのように、研究のためなら地球の反対側までも飛び出していくという行動力には、大きな敬意を表したいと思います。
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海市渡
5つ星のうち3.0 書評:李相日
2020年6月30日に日本でレビュー済み
「古い友人である韓国の評論家から書評が送られてきた」ということで、著者の崔吉城氏より代理投稿を依頼された。李氏には了承をもらっているとのこと。翻訳は崔氏。
なお、星の数は、李氏の文意を汲みつつ付けた。

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 私は本書を読みながら韓国の反日主義者たちが崔吉城教授を親日派とすることを理解する。私自身が如何に反日主義者であるかということにもなる。ページを紐解きながら日帝植民地史を思い出して恥辱が浮上し、総督府庁舎の〈撤去〉が〈破壊〉という認識にいたっては驚く。
 崔教授は日帝植民地研究者である。欧州の大国がアフリカやインド、東南アジアなど未開発地域を植民地にしたのは、先進諸国の発展と実力が後進国を圧倒し、領土を侵略し、経済的に開発したのは種族を超えたものとして理解する。そこに人間云々を考慮する余地はない。しかし後進の〈倭国〉が一足早く近代化し、優位に立って先進国の朝鮮を襲い、王朝の脈を切り、総督府と憲兵隊の威圧で朝鮮語を抹殺し、創氏改名した。その流れでは朝鮮半島は日本の領土、今の沖縄のようになるほどであった。日本植民地36年は(註:実は35年足らず)、事実だけではなく、恥辱である。
 著者も反日主義者隊列に一度割り込まなければならない。客観的とか研究の次元という言い訳はいらない。〈歴史的事実と感情的な真実の間〉と考えてほしい。〈事実〉だけ注視しては情緒的な真実を理解し難い。「実際」という埃は飛ばされてしまう。もっと大局的に見てほしい。それが知的成長である。
 私(李)は日韓の「事実と真実」を論じている。私は知識を科学的に整理するWisswenschaftをドイツで勉強した知識人であり、情緒と哲学のイデオロギーから物事と現実を客観的に見ており(評論活動50年)、進歩精神に基づいている。保守意識とは距離が遠い。私は日本の植民地史とは無関係、近隣関係で自由でよい。ただ私は保守反日主義者の名分を借りて極右と極左の二分論理を使ってみた。
 崔教授は被植民地出身の劣等意識を伏せて、日本の権威を借り、植民地の歴史の英雄と犠牲者を介して、植民地支配と被支配の間に、いわゆる植民地の歴史の遺物を見ている。それは揺れるアイデンティティー、コンプレックスから中立性と客観性を借りての研究に過ぎない。仮面をかぶったに過ぎない。本人自ら植民地の歴史の証人であろうとし、さらに日韓の間で生け贄になって神話的人物になろうとする。
 植民地研究は彼の突破口である。中立、客観的調査の姿勢といい、植民地の〈英雄〉を調べている。イェーツのような詩人、被植民地人でありながら、植民地官僚になり処刑(アイルランド独立幇助大逆罪)されたケースメント(R. Casement1864-1916)のような人物を発掘している。それはまさに崔吉城教授自身を反射投影している。
 私は、植民地問題は、謝罪と許し、中立的、客観的、研究によって越えていくべきだと思う。崔吉城教授が標榜する学術中立性を評価する。容易ではない。慰安婦問題は戦争中に起きた戦争犯罪とみるのが正しい(2020.6.28)。
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酒井董美
5つ星のうち5.0 他国を侵略することは害悪である。
2020年1月22日に日本でレビュー済み
 著者は文化人類学者。1940年韓国京畿道揚州生まれ。広島大名誉教授、現・東亜大教授である。
 本書は題名の通り、第2次大戦時代、日本の植民地だった国々を訪問し、それぞれの国の人びとが、どのように日本を感じているかを確かめ、冷静に分析した労作である。内容は以下の6章から成っている。反日と嫌韓、反日暴力、シンガポールの植民地遺産、展示された「戦争」広島平和記念館と南京大虐殺記念館、植民地残滓の肯定、植民地と被植民地の狭間で。
著者は「はじめに」で…日本植民地だけではなく、世界史的な植民地を歩いて調査した事例を挙げてその意味を考察してみたい。私自身が反日だ、親日だと言われ、時には日韓の〝架け橋〟とも言われたが、その橋から落下してしまうようなことも多かった。…と書いている。「おわりに」では…私は日韓の狭間で生きる。ある出版社は私に「中立派」だというタイトルを付けてくれた。光栄である。…としている。そして次のように両国を観察し、分析している。
 祖国である韓国に対して…私は八月十五日を、解放記念日であり、同時にもう一つの暗黒の始まりとして重く受けとめるべきであると思う。(中略)…戦後指導者たちが南北の民族分断を固め、朝鮮戦争、独裁軍事政権への暗黒の道を辿ることへの批判として受け止めたからである。韓国は反独裁民主化によって独立したのであり、解放によって独立したとは思えない。(86ページ)…と述べている。一方、日本について、原爆ドームを見る人びとを…戦争を起こした日本人自身がこの展示を観ながら、日本人が加害者であったことをまったく意識していない。(90ページ)…と手厳しい。
 本書によって、両国の中に占める歴史問題をはじめ、考えなくてはならない課題がいろいろと見えてくる。両国の為政者にこそ必読を勧めたい書でもある。
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현대시대를 살아가는 이들에게- 근대에 관한 또 하나의 해석, 
<帝国日本の植民地を歩く>를 읽고
YoonSeok Heo

 한 동안 페이스북을 멀리했다. 앞으로 휘말릴 집단적 정념과 그로부터 파생되는 갈등이나 분노를 생각하면 벗어나고 싶었다. 한동안 놓았던 다른 책을 공부하려면 페이스북에 있는 좋은 글까지 찾아 읽을 시간이 도저히 턱없이 부족해 보였다. 또 하나는 좀 더 마음에 평온을 되찾고 싶었다. 어떤 한 사물에 내 자신을 투영하기보다는 그로부터 한 발짝 떨어져 바라보고 판단은 섣불리 내리지 않으려 애썼다. 그동안 내가 해야 할 일에 집중했다. 그동안 폭우도 쏟아지고 부동산 문제 등 끊임없는 시사적 이슈가 쏟아져 나왔지만, 이에 일희일비하기보다는 내 삶을 더 챙겨야 했다. 다가오는 미래의 청사진을 구체적으로 계획하고 실행하기 위해서라도 자잘한 사건보다는 큰 흐름의 역사와 추세와 트렌드를 읽으려 노력했다.  
 군복무 때 느긋하게 여러 이슈에 대해 글을 썼었고 이를 좋게 봐주셨던 선생님들이 계셨다. 특히 일본 東亞대학에 다니는 崔吉城교수님이 나한테 과분한 관심을 가져주실 뿐더러 내가 사는 전주의 주소로 본인이 쓰신 <帝国日本の植民地を歩く>를 보내주셨다. 비록 코로나 바이러스가 발발한 이후 휴가가 전면통제가 되어 전역이후에나 책을 집게 되었다. 이 책이 원어가 일본어라 아직 원숙치 못한 일본어 실력으로(ㅎㅎ..) 피상적으로 독해했지만 그 내용을 온전히 이해하지는 못했다. 그러나 한국과 일본, 동남아시아나 싱가포르, 아일랜드, 남아프리카 등을 오가며 식민지 문화유산과 정신문화를 탐구한 노학자의 열정과 특유의 ‘중립적(中立的)’ 시선은 우리 한국인들도 한번 음미해보셨으면 좋겠다. 일본어가 어느 정도 익숙한 독자들에게 추천해주고 싶다. 문화여행기이자 대중서의 느낌이라 부담 없이(물론 일본어가 된다면) 읽을 수 있다.
 이 책이 주장하는 바, 한국의 강한 ‘반일’ 문화나 정서는 일본의 또 다른 식민지였던 대만이나 전쟁의 폐해를 겪었던 동남아시아권의 국가들의 ‘친일’ 적 사고관이랑 대비된다. 그리고 이에 대한 차이는 어디서 오는 걸까? 결국 전후(戰後) ‘식민지’, ‘제국주의’ 라는 추상적 관념과 그로부터 비롯되는 문화유산이나 잔해들을 바라보는 시선의 차이일 것이다. 그리고 이는 ‘근대’ 시대로부터 파생된 것들이다. ‘현대’ 시대를 살아가지만 우리는 결코 근대적 유산이랑 단절된 채 생활하지 않는다. 근대 ‘이성’과 ‘합리성’을 바탕으로 하는 제도나 규범, 문화 등은 현재에도 원리원칙과 보편성에 호소하며 국가에도 유효한 영향력을 발휘하고 있다. 여전히 자본주의 경제와 복지국가의 틀 속에 살아가는 현대의 우리들은 근대적 요소를 빌려 물질적 혜택에 젖어 살아간다. 
 오늘 또한 8.15 광복절이자 종전일이고, 어제는 위안부 피해자들을 기리는 날로 식민지 제국주의로부터 희생된 개개인들의 삶을 떠올리고 위로하는 날이다. 우리는  집단과 국가의 이상을 떠올리며 제국주의 가해자였던 일본을 손쉽게 비난하고 규탄하지만 정작 우리 공동체 안에 손쉽게 개인을 묵살하고 배제하려는 분위기를 문제 삼지 않는다. 과연 한국은 일본과 다르게 도덕적으로 우월하다고 말할 수 있을까?
 현대가 근대랑 다른 가장 큰 차이는 개인과 집단 간의 관계설정이다. 근대가 집단의 이상적이고 보편적 가치, ‘유토피아’적 비전을 내세우면서 개인의 가치는 축소되는 경향을 띄었다면 현대는 이에 저항한다. 현대시대는 나와 너의 다름에 있어 상호존중의 가치가 우선되면서 공동체나 가족의 기능도 근대에 비해 축소되었다. 
근대의 이성과 합리성만으로는 현대사회를 살아가는 사람들이 겪는 정신이나 문화적 갈등, 피로가 해결되지 않는 것이다. 집단보다 개인의 개별성과 다양성이 우선시됨에 따라 근대역사에 대한 비판적 시각도 조명되었다. 
 하지만 한국은 타(他) 피식민지배국과 다르게 식민지적 구성요체나 요소에 대해, 관제적 교육을 통해서든 언론을 통해서든 현대보다는 근대적일지 모르는 일원적이고 도덕적인 가치판단에만 의거해 해석하고 받아들였다. 구(舊)조선총독부청사 폭파사건이 이를 단적으로 보여준다. 대만이나 싱가포르에서도 식민지 시절 축조되었던 건축유산에 대해 철거논쟁이 있었지만, 세계문화유산으로서의 가치나 이를 철거하고 도시개발로 얻을 수 있는 이익 등과 같은 여러 판단기준을 두고 내부토론을 통해 문화유산의 보존을 결정했다고 한다. 똑같이 식민지배를 받고 고통을 겪었던 국가이지만, 아픈 기억을 어떻게 대하고 승화시키는지에 대해 현대적 가치에 입각하면 어느 쪽이 과연 성숙한 태도일까. 
 이 책은 그 외에도 제국주의 시절, 당시 식민지배국의 질서에 순응하면서도 그 부조리에 저항했던 여러 역사적 인물들을 조명하고 현지답사와 문화유적지의 추적을 통해 근대역사를 바라보는 세계인들의 시선과 태도를 파악한다. 다원적 가치가 공생하는 평화로운 세계를 모색하는 到来人(도래인)이자 한-일 간 架け橋(가교)로서 앞으로의 최 교수님의 연구, 저술활동도 기대되게 만드는 대목이다. 
 기억은 언제나 본질적으로 사실과 다르게 모든 역사를 담을 수 없으며 두드러진 특징만을 취사선택하는 경향이 있다. 하지만 불완전한 기억이라도 역사의 큰 서사에서 담을 수 없는, 파편적일지라도 중요한 인간적 가치가 내포될지 모르는 개인들의 기억은 때로는 알지 못했던 역사를 드러내며 현대로의 진보에 있어 큰 역할을 해왔다. 이러한 기억에 선의라 할지라도 집단의 의도나 목적, 당위가 개입되는 것은 잘못된 역사가 드러났을 때 수정하는 유연성을 결여시키고 오히려 더 큰 사회적 충돌의 가능성을 잉태한다. 이번 광복 75주년은 한-일 모두 반사적인 비판보다는 근대역사 앞에 마주앉아 겸허한 마음을 새기며 역사를 반추해 현대를 어떠한 시대로 이끌어야 할지 생각하는 계기가 되었으면 한다. 
다시 한 번, 책을 선물해주신 최교수님께 감사의 말씀을 전합니다.




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