必見! 『ONODA 一万夜を越えて』──反英雄の愚直な“30年戦争”
藤崎康 映画評論家、文芸評論家、慶応義塾大学、学習院大学講師
2021年10月18日
ONODA|アルチュール・アラリ|小野田寛郎|映画
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太平洋戦争末期の1944年、フィリピン・ルバング島に派遣され、終戦後も約30年間にわたり遊撃戦(ゲリラ戦)を続け、74年に日本に帰還した旧陸軍少尉、小野田寛郎(おのだ・ひろお:1922~2014)。「最後の日本兵」と呼ばれた彼の孤独な戦いを、フランスの新鋭監督アルチュール・アラリが映画化した。実話をベースにしつつも、アラリがユニークな着想によって脚色した傑作、『ONODA 一万夜を越えて』であるが、見事なのは、ジャングルで戦い続けた小野田の愚直なまでの一途さを、アラリが戯画として滑稽化するのでもなく、英雄として美化するのでもなく、いわば奇妙な“異人”を観察するような絶妙な距離感で描く点だ。
よって観客も、日本の敗戦をかたくなに<否認>するかのように戦闘を継続する小野田に、あるときは感情移入し、あるときは違和感を覚えるが、ともかく174分間、彼の言動から一瞬たりとも目が離せない(ここで言う<否認>とは、なんらかの<認知のゆがみ>のせいで、客観的な事実を受け入れようとしない心の動きを指す精神分析学の用語)。

なお青年期/前半の小野田を遠藤雄弥が、壮年期/後半の彼を津田寛治が演じるが、この二人一役のアイデアも効いている。着任後まもなく米軍の襲撃を受け、自らが率いる小隊を壊滅させられ動揺する若い小野田の内面を、感情の起伏が読み取りやすい演技で演じる遠藤雄弥。それに対し、少数の部下とともにルバング島で過酷なサバイバルを経験していく壮年期の小野田を、津田寛治はおおむね、感情の動きがわかりにくい無表情で演じる。そして小野田が、最後の部下にして戦友であった小塚金七上等兵(千葉哲也)を失い、無為と孤独に苦しめられ、次第に虚脱したような様子になる終盤においても、津田は小野田の内面を表す<顔の演技>を最小限にとどめる。
この無表情(表情の零度)ゆえ、彼が慟哭(どうこく)するシーンはかえって観客の意表をつく。巧みな反=心理主義的な演技設計だが、映画ジャーナリスト・林瑞絵のインタビューの中で、アラリは意図的に顔の大仰な芝居による感情表現を避け、役者の顔に不用意にカメラを寄せずに、引きのショットの長回しを多用した、という意味の興味深い発言をしている(「『ONODA』アラリ監督に聞く~「小野田寛郎は神話を生きた複雑な人物」」論座)。フィルム・ノワール(犯罪ミステリー)の秀作『汚れたダイヤモンド』(2016)で長編デビューしたアラリの、類いまれな演出力にあらためて感服する。
『ONODA』アラリ監督に聞く~「小野田寛郎は神話を生きた複雑な人物」

日本人が撮ると、どんなに史実に忠実に撮ったつもりでも(と言っても、小野田さん本人以外語れる人はいないのだが)、左右両派から撮り方に攻撃を受けるのは必定で、小野田さん自身の描き方についても、仮に日本人監督の作だったなら、同じ撮り方でも、あなたは、この程度の批評では済まないだろうと思う。
あなたの小野田さん自身に向けられた露骨な嘲笑、攻撃(当時、「軍国主義の亡霊」と罵倒した評論家もいた)を見ればわかるというもの。
そのような意味で、彼がフランス人の手で映像化されたことは、まさに良かったと思うのだ。
“サナエノミクス”のあの人をステレオタイプな右翼人としていますが、世にはリベラル層の他に、保守的な思想を持つ人達も一定数以上いるのですから、小野田さんをアンチヒーロー/反英雄として片付けるのは、一方的な見方でそれが全てではないのが実状でしょう。
また、活劇(『007/ノー・タイム・トゥ・ダイ』)に対して、シリアス劇のアクションを比較されてますが、楽しんで見るのと切迫必死感の映像を観るのでは、モードチェンジも必要かなと思う。
次は→孤独な“戦争”を続行させた<洗脳>による呪縛
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孤独な“戦争”を続行させた<洗脳>による呪縛
ところで小野田は、<国家=天皇のために自己を犠牲にして尽くす>、という戦時中の滅私奉公精神を典型的に体現した大日本帝国陸軍軍人であり皇軍兵士であった(映画では描かれないが、小野田は帰国の際に「天皇陛下万歳」を叫んだ)。
しかし彼は、ある意味で、イレギュラーな<戦争機械>でもあった(ここで言う<戦争機械>とは、戦闘用に身体的・心理的訓練を受けた戦闘員を指す)。というのも、高所恐怖症のため特攻隊員の資格を得られなかった小野田は、陸軍中野学校二俣分校に入学し、残置諜者(ざんちちょうしゃ:戦地にとどまりスパイ活動を行なう者)、および遊撃戦(ゲリラ戦)指導の任務を与えられ、当時アメリカの植民地であったフィリピンに派遣されたからだ。
つまり彼は、非正規軍的戦闘(ゲリラ戦・パルチザン戦争という“秘密戦”)を行なう訓練を受けた情報将校としてルバング島に着任したのである。そして本作のキーパーソンの一人である、陸軍中野学校の上官、谷口義美元少佐(イッセー尾形、好演)は、当時の日本軍の戦陣訓とは真逆の、「君たちには死ぬ権利はない。玉砕、自決は絶対禁止だ、死ぬことはまかりならぬ、ヤシの実を齧(かじ)ってでも生き延びよ、スパイになっても生き残れ」という意味のメッセージを、小野田らの脳内に深くインプットする。
本作の急所と言っていいほど、この谷口による小野田の<洗脳>シーンは重要だ。以後、小野田が孤独な“30年戦争”を愚直に続行するのは、この谷口の洗脳による呪縛が解けなかったからである。この洗脳/被洗脳の関係は、麻原彰晃とサリン実行犯のそれに酷似しているように思える(もっとも、当時は日本人の多くが“天皇教”=忠君愛国思想に洗脳されていたわけだが)。
しかも、徹底抗戦によってフィリピンを防衛せよ、絶対に迎えに来るから、と対米サバイバル戦思想を小野田に吹き込んだ当の谷口は、戦後ひっそりと古本屋を営んでいた。敗戦後、戦中に信奉していた大義を捨て(裏切り)、民間人に“転向”した谷口元少佐のもとを訪れた鈴木紀夫(仲野太賀)──小野田をルバング島で発見し彼の日本帰国に尽力した冒険家の青年──が、彼に小野田さんを帰還させてください、と説得するところは、鈍いサスペンスを放つ異様な場面だ。
そこで鈴木と対面する、かつてのカリスマ性がすっかり影を潜めた谷口は、やや困惑した様子で、小野田のことは何も知らない、何も覚えていないと言いつのる。
もとよりスパイ養成学校の幹部であるゆえ、その谷口の応答が演技(虚言)なのか否かはわからないが、しかし彼はやがて、責任感からか負い目からか、あるいは長い目で見た保身のためからか、小野田の日本帰国に助力することに同意し、鈴木らとともに現地におもむき、小野田に任務解除命令を与える。
昭和天皇とも重なる上官=イッセー尾形
かくして小野田は投降し、孤独な戦争を終了させ、祖国に帰還する。ラスト近くの、ヘリコプターでルバング島に到着した谷口、鈴木らが小野田を迎えるシーンでも、アラリの眼となった彼の実兄トム・アラリのカメラは、感傷を排するような、付かず離れずの距離で彼らの姿を写すのだが、そうした被写体との不即不離の距離感ゆえに、その場面にはかえって静かなエモーションが立ち上がる──。
作中の谷口元少佐についてさらに言えば、日本の敗戦を<否認>し続け、あくまで皇軍の兵士たらんとした小野田とは対照的に、“転向/変節”によって戦後を<生き延びた>という意味では、谷口はいかにも陸軍中野学校の士官らしい、柔軟なサバイバル術を身につけた人物だったのかもしれない。
なお、いま、わざわざ「作中の(谷口元少佐)」と書いたのは、実際にはサバイバル戦の心得を小野田の中にインプットしたのは、フィリピン防衛戦部隊の師団長、横山静雄陸軍中将であった。
そもそも谷口の人物像については、史実から完全に逸脱しない限りで、アラリは大きな創作/脚色を施している。それはつまり、谷口による小野田の洗脳にこそ、アラリが本作における、ひいては実在の小野田の“戦争”における核心がある、と考えたからだろう。さらに想像を膨らませれば、谷口/尾形は、昭和天皇とも重なる人物にも思えてくる。私見では、戦前・戦中の天皇裕仁は、自身の意図がどうであれ、国民を戦争に動員する記号(象徴!)=現人神(あらひとがみ)として機能したのだから。
ちなみに昭和天皇を主人公にしたアレクサンドル・ソクーロフ監督(露)の傑作、『太陽』(2005)では、イッセー尾形その人が裕仁を演じている(必見!)。これは単なる暗合だろうか……。また、小野田が高所恐怖症だったことも、私の調べた限りでは確認できなかったので、ひょっとしてこれもまた、アラリが小野田の人物像をイレギュラーな<戦争機械>として造形するための創作だったのではないか、と思ってしまう。あくまで推測だが。<星取り評:★★★★★+★>
彼の戦争・戦中は他界するまで継続した
<付記>
*作中では部分的にしか描かれないが、実在の小野田は現地軍との銃撃戦で多数の軍人や住民を殺傷している。その点でも彼は、英雄視されてはならない<影>を抱えた<戦争機械>、すなわちアンチヒーロー/反英雄であった。
むろん、戦後の“出世&金儲け教”に洗脳された多くの日本人には望むべくもない、究極のアウトドア派ともいうべき、そのサバイバル能力、すなわち長期にわたる緊張と無為と退屈に耐えうるメンタルと肉体の強靭さは、感嘆すべきであるにせよ、帰国後も靖国神社に参拝したり、日本会議の代表委員に名を連ねたり、かの田母神俊雄元航空幕僚長を支持したりと、ステレオタイプな右翼人──“サナエノミクス”のあの人のような戦前・戦中の愛国主義者の劣化コピーのごとき──となった。
そしてまた、フィリピンに着任した1944年から小野田の生きた約70年間の<戦争>は、なんとも奇妙な時間の停滞・滞留にも思われる。そうした“延長戦的”時間のあり方を、収束しつつある(?)、あるいは終わりなき(?)“コロナ戦争”を生きながら、なしくずし的に“ニューノーマル”に洗脳されていく私たちの時間感覚と比べてみたい気もするが、それはまた別の話だ。
*後半、私服のフィリピン軍兵士の放つ、漁獲用の銛(もり)のような武器が恐ろしいが、画面の奥の兵士らが手前の小野田らに向かって射る、そのロープ付きの矢は小塚に重傷を負わせ、その傷がもとで彼は死に至る。また、標的に銃弾が被弾する瞬間を一拍置いて撮るアラリのアクション描写も冴えるが、見映えのしないジェームズ・ボンド(ダニエル・クレイグ)が自動小銃を何百発も撃ちまくる雑な活劇(『007/ノー・タイム・トゥ・ダイ』)にうんざりした数日後に観た本作のアクション演出には、心底、興奮させられた。
*本作の魅力の一つは、熱帯植物が鬱蒼と生い茂るジャングルや、薄青や薄紫にかすむ海辺や山並みをとらえる自然描写の素晴らしさだ(ロケ地はカンボジア)。また黄土色の野原に登場する小野田が背負った、草や枝を束ねたカムフラージュ用の隠れ蓑がビジュアル的に強い印象を残す。




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