日本の朝鮮植民地支配
1910年の韓国併合から1945年の日本敗戦までの35年間、日本は朝鮮半島を植民地支配した。当初は朝鮮総督府による武断政治が行われたが、1919年の三・一独立運動が起きてからは文治政治に転換した。1940年代の第二次世界大戦期には皇民化政策が推進され、朝鮮人に対する創氏改名、強制連行、徴兵制施行などが行われた。1945年8月、日本の敗北と共にその植民地支配も終わり、朝鮮は解放された。
1910年の韓国併合から、1945年の日本降伏まで、朝鮮半島は35年にわたって日本の植民地として支配された。この間、日本は漢城を京城(現在のソウル)と改称して朝鮮総督府を置き、現役の陸軍大将を総督として植民地支配を行った。朝鮮総督府は、土地調査事業と称して土地所有権の確定作業を進め、広大な土地を国有地として没収し、日本人の官僚や企業家に払い下げた。このように日本の朝鮮半島支配は、重要な米穀などの食糧資源と労働力の供給地として位置づけてたところに重点があったのであり、日本資本主義の成長を支えるための植民地支配であった。
その35年にわたる植民地支配は、1910年代の武断政治の段階と、1919年に勃発した三・一独立運動を期に、1920代に続いた文化政治の段階、そして1940年代の戦時下の軍政時代のおよそ三期に分けることができる。
武断政治 朝鮮総督は官制によって天皇に親任される現役の陸海軍大臣が任命されることとなっていた。軍人が朝鮮統治のトップに立つことから武断政治と言われるが、実態は、憲兵隊司令官が憲兵を指揮して、治安維持のみならず、戸籍管理や農政まで取り扱うという憲兵政治であった。また、朝鮮人は教育、官吏任用などで差別され、自治は認められず、言論・思想信条の自由・集会・結社の自由も認められていなかった。このような強圧的な支配は、朝鮮人の不満を強め、植民地化以前の抗日組織は満州や沿海州に移って抵抗を続けた。
三・一独立運動と文化政治への転換 1919年に世界的な民族自決の気運の高まりをうけ、三・一独立運動が起こった。学生や教会などの中から起こった独立を求める動きは、3月1日にソウルで独立宣言の発表へと盛り上がったが、日本の植民地当局は直ちに弾圧に動き、本国の原敬内閣は軍隊を派遣してこの独立運動を鎮圧した。三・一独立運動は弾圧されたが、本格的かつ全国的な独立運動の最初の動きとして日本当局に衝撃を与え、日本政府はそれまでの武断政治を改め、文化政治といわれる路線に転換した。1920年代は文化政治が行われ、朝鮮総督は現役の陸海軍大将を充てる規定から文官も可とする規定に改められ、憲兵も廃止されて警察に切り替えられるなどの措置が執られた。ただし、実際には朝鮮総督に文官がなることはなかった。また総督府の官吏に朝鮮人が任用されるなどの転換が図られたが、基本的には知事は認められておらず、むしろ日本人警察官による監視、日本語教育の徹底など、朝鮮を日本国内と同じにするというのがその狙いであった。
ある日本人の朝鮮同化への疑問 三・一独立運動は日本では「万歳事件」と言われ、反日的な一部の人間が起こした暴動に過ぎないと矮小化されて伝えられた。それを機に進んだ日本語教育の徹底などの同化策も日本国内で異を唱える人は無く、日本人はほとんど無自覚の中で朝鮮植民地支配が強化されていった。しかし、三・一運動の直後の5月に、読売新聞に日本の朝鮮植民地化に疑問を呈する次のような文が掲載された。
(引用)ある朝鮮人はつぎのようなありのままな質問を吾々に与えた。「日本は吾々のために教育を与えるのか、日本のために吾々を教育するのか、何(いず)れなのか」と。如何なる日本人も前者であると言い切るものはないであろう。実際その教育は彼らの衷心の要求や歴史的思想やを重んじて行う教育ではない。むしろかかることを否定し歴史を教えず、外国語を避け、主として日本語を以て、日本の道徳、また彼らには今まで無関係であった日本の恩恵を中枢として、彼らの思想の方向をさ更(か)えようとするものである。全然新たな教育の方針に対して彼らが親しみ難い情を抱くのも自然な事実であろう。彼らには略奪者と見えた者を、最も尊敬せよと言われるのである。彼らにはこれが解し難い奇異な矛盾に充ちた声に響くにちがいない。<柳宗悦『朝鮮とその芸術』所収 朝鮮人を想う Kindle版 位置No.298> 筆者の柳宗悦(やなぎむねよし 1889~1961)は日本の民芸運動の中心メンバーであり、日本人の手仕事の美しさを発見した人物であるが、朝鮮美術を早くから高く評価していた人でもある。慶州の石窟庵や、高麗青磁・李朝の民芸品を日本に紹介したことでも知られている。彼は三・一運動にも理解と同情を示し、事件直後の5月20~24日の読売新聞に発表したのが「朝鮮人を想う」だった。このような見解を公表したのは、ほかに吉野作造・石橋湛山ぐらいで、ごく少数であり、ほとんど無視され、朝鮮人の暴動を支持するものとして非難さえされた。しかし、植民地支配を否定する論者が当時の日本人にもいたことを忘れないようにしよう。
日本による朝鮮植民地支配に心を痛めていた柳宗悦は、それでも次のように希望を捨てなかった。
(引用)しかし私は人間になおも燃える希望を抱いている。いつか自然は人間の裡(うち)から正しいものを目覚ますにちがいない。日本がいつか正統な人倫に立つ日本となることを信じたい。・・・私はいつか真理によって日本が支えられる日の来るのを疑わない。私はいま若い日本の人々がこの理想に向かって努力している事を知っている。貴方がたは人間としての日本人をも拒(しりぞ)けてくださってはいけない。私の正しい観察によれば、個人として朝鮮の人々に憎しみの心を持つ人はほとんどないのである。・・・私は情において吾々の同胞が隣邦の友を忘れてはいないのを信じている。少なくとも未来の日本を形造る人々は理に疎く情に冷かでは決してないだろう。<柳宗悦『朝鮮とその芸術』所収 「朝鮮の友に贈る書」 Kindle版 位置No.433>
植民地支配の強化 1930年代には、満州および中国本土への日本軍の侵出拠点としてその統治は強化された。1940年代の戦争の時期になると、日本は朝鮮に対する皇民化政策を推進し、創氏改名や国内の労働力を補うための朝鮮人の強制連行や慰安婦の徴発が行われた。1942年5月、日本政府は朝鮮での徴兵制施行を閣議決定し、1944年に朝鮮で最初の徴兵検査が実施された。1942年6月に朝鮮総督として着任した小磯国昭は、「国体の本義の透徹」「道議朝鮮の確立」を唱え、朝鮮人が皇国臣民(日本の天皇の臣民)としての自覚を徹底すれば、大東亜の中で「光栄ある将来を開拓」できると述べた。<武田幸男編『朝鮮史』新版世界各国史2 山川出版社 p.312>
朝鮮人の強制連行 1939年~45年までの間の朝鮮から日本本土に労働者の強制徴用を行った。この間、朝鮮から日本本土に強制徴用された労働者は推定72万に達している。また中国からも約4万人が主として華北から日本本土に移送された。「募集」や「官斡旋」で連れてこられたことになっているが、その実態は拉致と同じだったケースが多い。彼らは炭坑、鉱山、土木工事などで従事させられ、労働条件は劣悪であった。脱走や暴動も起こったが、失敗すれば見せしめのリンチを受けた。こうして朝鮮人6万余人、中国人7千人が死亡したと言われる。<小林英夫『日本のアジア侵略』世界史リブレット p.71 山川出版社>/<外村大『朝鮮人強制連行』2012 岩波新書>
植民地支配下の参政権 日本の敗色が濃厚になる中、徴兵制施行や日本語教育の強化などの皇民化政策を推進するために、朝鮮人に対する一定の権利付与も必要であるという認識も生まれていた。1944年12月、小磯国昭内閣は政治処遇調査会を設置し、朝鮮・台湾への参政権付与を審議し、45年4月に衆議院議員選挙法・貴族院令を改正して選挙権を付与することが決まった。衆議院議員は朝鮮に23の定数が設けられたが、その選挙権は直接国税15円以上の納入者に限られた。参議院議員は尹致昊ら7名が推薦により選出された。しかしこの選挙権付与は戦争遂行のために、独立戦争を厳しく抑えつつ、植民地支配を持続しようとする狙いであったが、1945年8月、日本の敗戦によって実現しなかった。<武田幸男編『朝鮮史』新版世界各国史2 山川出版社 p.313>
つまり、1910年から36年間の日本植民地支配下の朝鮮における「臣民」には、参政権は与えられていなかった。朝鮮在住の日本人に対しても同様に選挙権は与えられていなかった。なお、日本に在住する朝鮮人には、1925年の普通選挙権制定により納税額にかかわらず選挙権が付与された(男子のみ)。日本による植民地支配の功罪を論じる前に、植民地においては参政権という人権が奪われていたこと、その末期にようやく認められたが、それも内地にくらべ著しく不平等で、しかも結局実施されなかった、ということを知っておくべきであろう。
朝鮮の解放 第二次世界大戦中の1943年12月の米英中首脳によるカイロ宣言では、「朝鮮は、適当な時期に独立すべきであること」とされていたが、1945年に入り日本の敗北が鮮明になってくると、米ソの思惑で、朝鮮の独立の時期について先延ばしされた。1945年8月15日、日本の無条件降伏が発表され、35年にわたる朝鮮植民地支配が終了した。朝鮮の人々は、この日を光復節として祝ったが、日本軍が撤退すると入れ替わりに、ただちに南部にはアメリカ軍が、北部にはソ連軍が進駐した。こうして、米ソがにらみ合う中、朝鮮の分断は次第に固定化され、1948年に南の大韓民国と北の朝鮮民主主義人民共和国という分断国家として独立することとなった。
韓国との国交樹立 朝鮮半島情勢はその後、冷戦がアジアに及んで熱戦となり、1950年から朝鮮戦争となった。アジアの共産化を阻止するため、アメリカは急きょ日本の主権を回復させて西側陣営に加えるため、1951年のサンフランシスコ平和条約を締結した。日本はアメリカを初めとする西側諸国とは外交関係を結んだが、ソ連・中国などの共産圏との国交回復はしないという、「片肺講和」となった。そして朝鮮半島の二国は戦争中であったこともあって講和はできず、大きくずれ込むこととなった。
大韓民国との間では、1960年にクーデタで実権を握った朴正煕独裁政権が経済復興のために日本との国交樹立を考えたため急速に動いた。おりからベトナム戦争が激化、朴政権はアメリカを支援して韓国軍をベトナムに派遣、その見返りとしての経済支援を、アメリカに代わって日本から受けるという、三国の関係を構築した。こうして日韓関係樹立の交渉が開始され、韓国・日本の双方で学生らの強い反対を押し切り、1965年6月に日韓基本条約が締結された。
悪化する日韓関係 日韓関係はこれによって開かれ、70~80年代以降、韓国経済も急成長し、両国の貿易関係も順調になり、日本では韓流ブームが起きるなど、両国関係は好転した。ところが、韓国経済が急成長を遂げる一方、日本はバブル経済がはじけて低成長時代に入り、日本と韓国の感情的な関係悪化が始まった。その認識のズレは、日韓基本条約に対する見方の違いに見ることができる。日本はこの条約によって大韓民国に対する経済支援を行ったことで戦争責任に終止符を打ったという立場を取り、さらにこの賠償をテコの一つとして70年代以降の韓国が経済急成長を成し遂げたことに、感謝の気持ち持って欲しいという自負もある。ところが、韓国内では日韓基本条約は朴正熙独裁政権が国民の強い反対にもかかわらず、強引に締結したものであるとしてそれを認めない機運は今も根強い。それが、日本の植民地支配への謝罪が完全には終わっていない、という意識の底流に存在している。従軍慰安婦と徴用工への謝罪と補償の問題、靖国神社問題、竹島(韓国名独島)問題などが依然として両国間に対立点として残っている。
また一方の北朝鮮とは、北朝鮮が金日成以来の世襲制独裁政治や核武装が続く中で、国交回復はさらに遠くなり、外交関係さえつくることをせずに、拉致問題もまた未解決のまま放置されている。日韓および日朝間の外交問題はあまりにもこじれ、解決が遠のいているといった感が強いが、現在の現象面だけで感情的に反応するのではなく、近現代の歴史を踏まえて解決の途を探るべきであろう。
参考 エズラ=ヴォーゲルの見方 韓国と日本の関係を考える際、韓国人の日本に対する悪感情を「反日」として斬り捨てるか、あるいは無視していたのでは話は前に進まないだろう。彼らが歴史と日本との関係をどう捉えているか、第三者の意見を見てみよう。その際、参考になるのが、かつて『ジャパン・アズ・ナンバーワン』や『アジア四小龍』などの著作で日本・韓国を含む東アジア地域の経済成長を分析したアメリカの経済学者エズラ=ヴォーゲルの次の言葉は聞くべき価値があると思う。
(引用)日本による浸透の深さと日本の植民地支配の抑圧的な性格のゆえに、韓国は以前の植民地支配者に対し、その他多くの旧植民地よりもはるかにふかい愛憎半ばする感覚を持っている。日本の世論調査はこの数十年の間、国民が最も嫌いな国は旧ソ連と韓国であると報じているが、韓国人の日本人に対する敵意はそれ以上のものであった。韓国人は植民地時代の日本人の残虐性と搾取、1923年の関東大震災後の朝鮮人虐殺、そして日本へ強制連行された朝鮮人工夫の奴隷のような扱いを非難しつづけた。韓国人は、日本人が日本に居住する韓国人の二世、三世に市民権を与えることや、過去の悪行に対する謝罪や、韓国人を基本的な敬意をもって扱うことをしたがらないことに怒りをあらわにしている。にもかかわらず多くの韓国人は、植民地時代にあっても大学、銀行、官公庁などの日本のエリート集団や機関に受け入れられたし、日本の言葉や文化に熟達しいることを誇りにしてきた。この激しい愛憎相半の感情は、韓国人をして痛烈な日本非難にはしらせ、また多くの韓国人の心底にある日本に対する憧憬を認めることを難しくさせることになった。韓国人の愛憎相半の感情はおそらく「愛と憎しみ」ではなく「尊敬と憎しみ」という言葉で最もよく描写できよう。いずれにせよ、あらゆる分野において、韓国ほど日本の成功を理解することによって利益を得た国は他にない。<エズラ=ヴォーゲル/渡辺利夫訳『アジア四小龍』1993 中公新書 p.70-71> だたし、この文が書かれた1990年代初めから、現在は30年が経過している。この間、工業力では韓国は日本を追い越し、特にITと音楽・映画などのソフト面でははるかに凌駕している観がある。とすれば、現在の韓国の若い世代に日本に対する「尊敬」の念はすでに失われているのではないだろうか。そして日本が朝鮮を植民地支配が抽象化された「憎しみ」としてだけ残る恐れがある。日本の若者が朝鮮植民地支配の「事実」を忘れ去ってしまえば、その「憎しみ」は解消されないままになってしまう。「尊敬と憎しみ」の相半する感情が(もしも)韓国の若者にある間に、憎しみの感情を解消する必要がある。そのためには少なくとも従軍慰安婦・徴用工問題での日本の為政者による腹を割った解決が必要に思われる。<2021/10/25記>
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일본의 조선 식민지 지배
1910년 한국 병합부터 1945년 일본 패전까지 35년간 일본은 한반도를 식민지 지배했다. 당초 조선총독부에 의한 무단정치가 이뤄졌지만 1919년 삼·일 독립운동이 일어난 뒤 문치정치로 전환했다. 1940년대 제2차 세계대전기에는 황민화 정책이 추진되어 조선인에 대한 창씨 개명, 강제연행, 징병제 시행 등이 이뤄졌다. 1945년 8월 일본 패배와 함께 그 식민지 지배도 끝나 조선은 해방됐다.
1910년 한국 병합 부터 1945년 일본 항복까지 한반도는 35년 에 걸쳐 일본 식민지로 지배됐다. 그동안 일본은 한성을 경성(현재 서울)로 개칭해 조선총독부를 두고 현역 육군대장을 총독으로 식민지 지배를 했다. 조선총독부는 토지조사사업 으로 칭하고 토지소유권 확정작업을 진행해 광대한 토지를 국유지로 몰수하여 일본인 관료나 기업가에게 불 내렸다. 이처럼 일본의 한반도 지배는 중요한 미곡 등 식량자원과 노동력 공급지로 자리매김한 점에 중점이 있었기 때문에 일본 자본주의의 성장을 지지하기 위한 식민지 지배였다.
그 35년에 걸친 식민지 지배는 1910년대 무단정치 단계와 1919년 발발한 3·1독립운동을 계기로 1920대에 이은 문화정치 단계, 그리고 1940년대 전시하 군정시대의 약 3기로 나눌 수 있다.
무단 정치
조선총독 은 관제에 의해 천황에 친임되는 현역의 육해군 대신이 임명되게 되었다. 군인이 조선통치의 선두에 서서 무단정치라고 불리지만 실태는 헌병대 사령관이 헌병을 지휘하고 치안 유지뿐만 아니라 호적 관리나 농정까지 취급한다는 헌병 정치였다. 또 조선인은 교육, 관고임용 등으로 차별되어 자치는 인정되지 않고 언론·사상신조의 자유·집회·결사의 자유도 인정되지 않았다. 이러한 강압적인 지배는 조선인의 불만을 강화하고 식민지화 이전 항일조직은 만주나 연해주로 옮겨 저항을 계속했다.
삼·일독립운동과 문화정치로의 전환
1919년 세계적인 민족자결의 기운이 높아져 삼 ·일독립운동이 일어났다. 학생이나 교회 등 중에서 일어난 독립을 추구하는 움직임은 3월 1일 서울에서 독립선언 발표로 떠올랐지만 일본 식민지 당국은 즉시 탄압으로 움직였고, 본국의 원경 내각은 군대를 파견해 이 독립운동을 진압했다. 삼·일 독립운동은 탄압되었지만, 본격적이고 전국적인 독립운동의 첫 움직임으로 일본 당국에 충격을 주었고, 일본 정부는 지금까지의 무단 정치를 바꾸어 문화 정치 라고 불리는 노선으로 전환했다. 1920년대는 문화정치가 열렸고 조선총독은 현역의 육해군 대장을 충당하는 규정에서 문관도 허용하는 규정으로 바뀌어 헌병도 폐지되어 경찰로 전환되는 등의 조치가 취해졌다. 다만 실제로는 조선총독에게 문관이 되지는 않았다. 또 총독부의 관우에 조선인이 임용되는 등의 전환이 도모되었지만, 기본적으로는 지사는 인정되지 않고 오히려 일본인 경찰관에 의한 감시, 일본어 교육의 철저 등 조선을 일본 국내와 동일하게 한다는 것이 그 목적이었다.
한 일본인의 조선동화에 대한 의문
삼·일독립운동은 일본에서는 '만세 사건'이라며 반일적인 일부 인간이 일으킨 폭동에 불과하다고 왜소화되어 전해졌다. 이를 계기로 진행한 일본어교육의 철저 등 동화책도 일본 국내에서 다르다는 걸 몰랐고, 일본인은 거의 무자각 속에서 조선 식민지 지배가 강화됐다. 그러나 삼·일운동 직후인 5월 요미우리신문에 일본 조선 식민지화에 의문을 제기하는 다음과 같은 글이 게재됐다.
(인용) 한 조선인은 다음과 같은 흔한 질문을 고들에게 주었다. 「일본은 착각을 위해 교육을 주는지, 일본을 위해 착각을 교육할 것인가, 무엇(없음)일까」라고. 어떠한 일본인도 전자라고 단언할 것은 없을 것이다. 실제로 그 교육은 그들의 충실한 요구나 역사적 사상을 중시하는 교육이 아니다. 오히려 걸리는 것을 부정하고 역사를 가르치지 않고, 외국어를 피하고, 주로 일본어를 통해, 일본의 도덕, 또 그들에게는 지금까지 무관계였던 일본의 혜택을 중추로 하여, 그들의 사상의 방향을 떠나려고 하는 것이다. 전혀 새로운 교육 방침에 대해 그들이 친숙한 정을 안는 것도 자연스러운 사실일 것이다. 그들에게는 약탈자로 보인 자를 가장 존경하라고 한다. 그들에게는 이것이 풀기 어려운 기이한 모순에 충만한 목소리에 영향을 줄 수 있다. <야나기 무네요시 『조선과 그 예술』 소수 조선인을 생각하는 Kindle판 위치 No.298>
필자의 야나기 무네요시(야나기무네요시 1889~1961)는 일본의 민예운동의 중심 멤버이며, 일본인의 수공예의 아름다움을 발견한 인물이지만, 조선미술을 일찍부터 높이 평가하고 있던 사람이기도 하다. 경주의 석굴암 과 고려청자 ·이조의 민예품을 일본에 소개한 것으로도 알려져 있다. 그는 삼·일 운동에도 이해와 동정을 보여 사건 직후인 5월 20~24일 요미우리 신문에 발표한 것이 '조선인을 생각한다'였다. 이런 견해를 공표한 것은 그 밖에 요시노 작조·이시바시 히토야마 정도로, 극히 소수이며, 거의 무시되어 조선인의 폭동을 지지하는 것으로 비난마저 있었다. 그러나 식민지 지배를 부정하는 논자가 당시 일본인에게도 있었던 것을 잊지 않도록 하자.
일본에 의한 조선 식민지 지배에 마음을 아파하고 있던 야나기 무네요시는, 그래도 다음과 같이 희망을 버리지 않았다.
(인용) 그러나 나는 인간에게 여전히 불타는 희망을 안고 있다. 언젠가 자연은 인간의 밑에서 옳은 것을 깨울 것임에 틀림없다. 일본이 언젠가 정통한 인륜에 서는 일본이 될 것을 믿고 싶다. ··· 나는 언젠가 진리에 의해 일본이 뒷받침되는 날이 오는 것을 의심하지 않는다. 나는 지금 젊은 일본 사람들이 이 이상을 향해 노력하고 있다는 것을 알고 있다. 여러분은 인간으로서의 일본인도 거부해 주지 말아야 한다. 나의 올바른 관찰에 따르면 개인으로서 조선 사람들에게 증오심을 가진 사람은 거의 없다. ··· 나는 정에 있어서 고들의 동포가 이웃의 친구를 잊지 않는 것을 믿고 있다. 적어도 미래의 일본을 형성하는 사람들은 합리적으로 정신에 차가워서는 결코 없을 것이다. <야나기 무네요시 『조선과 그 예술』 소수 「조선의 친구에게 주는 서」 Kindle판 위치 No.433>
식민지 지배 강화
1930년대에는 만주 및 중국 본토에 대한 일본군의 침출 거점으로서 그 통치가 강화되었다. 1940년대 전쟁 시기가 되면서 일본은 조선에 대한 황민화 정책을 추진해 창씨 개명 과 국내 노동력을 보충하기 위한 조선인의 강제연행과 위안부의 징발이 이루어졌다. 1942년 5월 일본 정부는 조선에서의 징병제 시행을 각의 결정하고, 1944년에 조선에서 최초의 징병 검사가 실시되었다. 1942년 6월 조선총독으로 착임한 오이소 국소는 “국체의 본의의 투철” “도의조선의 확립”을 주창하고 조선인이 황국신민(일본의 천황의 신민)으로서의 자각을 철저히 하면 대동아 속에서 “광영 있는 장래를 개척”할 수 있다고 말했다. <다케다 유키오편 『조선사』 신판 세계 각국사 2 야마가와 출판사 p.312>
조선인의 강제연행
1939년~45년 사이의 조선에서 일본 본토에 노동자의 강제징용을 실시했다. 그동안 조선에서 일본 본토에 강제징용된 노동자는 추정 72만에 달했다. 또 중국에서도 약 4만명이 주로 화북에서 일본 본토로 이송됐다. ‘모집’이나 ‘관알선’으로 데려온 것이 되어 있지만, 그 실태는 납치와 같았던 경우가 많다. 이들은 탄광, 광산, 토목공사 등에서 종사되었으며 노동조건은 열악했다. 탈주와 폭동도 일어났지만 실패하면 보이는 린치를 받았다. 이렇게 해서 조선인 6만여명, 중국인 7천명이 사망했다고 한다. <고바야시 히데오 '일본의 아시아 침략' 세계사 리블렛 p.71 야마가와 출판사 >
식민지 지배하의 참정권
일본의 패색이 짙어지는 가운데 징병제 시행이나 일본어 교육 강화 등 황민화 정책을 추진하기 위해 조선인에 대한 일정한 권리 부여도 필요하다는 인식도 태어났다. 1944년 12월, 오이소국 소내각은 정치 처우 조사회를 설치해, 조선·대만에의 참정권 부여를 심의해, 45년 4월에 중의원 의원 선거법·귀족원령을 개정해 선거권을 부여하는 것이 정해졌다. 중의원 의원은 조선에 23개의 정수가 마련됐지만 그 선거권은 직접 국세 15엔 이상의 납입자로 한정됐다. 참의원 의원은 윤치호 등 7명이 추천으로 선출됐다. 그러나 이 선거권 부여는 전쟁 수행을 위해 독립전쟁을 엄격히 억제하면서 식민지 지배를 지속하려고 하는 목적이었지만, 1945년 8월 일본의 패전에 의해 실현되지 않았다. <다케다 유키오편 『조선사』신판 세계 각국사 2 야마가와 출판사 p.313>
즉, 1910년부터 36년간의 일본 식민지 지배하의 조선에 있어서의 「신민」에는, 참정권은 주어지지 않았다. 조선 거주 일본인에 대해서도 마찬가지로 선거권은 주어지지 않았다. 덧붙여 일본에 거주하는 조선인에게는 1925년의 보통선거권 제정에 의해 납세액에 관계없이 선거권이 부여되었다(남자만). 일본에 의한 식민지 지배의 공죄를 논하기 전에, 식민지에 있어서는 참정권이라는 인권이 빼앗기고 있었던 것, 그 말기에 드디어 인정되었지만, 그것도 내지에 비해 현저하게 불평등하고, 게다가 결국 실시되지 않았다는 것을 알아 두어야 할 것이다.
조선 해방
제2차 세계대전 중인 1943년 12월 미·영중 정상에 의한 카이로 선언 에서는 “조선은 적당한 시기에 독립해야 한다”고 여겨졌지만, 1945년 들어 일본의 패배가 선명해지자 미소의 의혹으로 조선의 독립 시기에 대해 앞당겨졌다. 1945년 8월 15일 일본의 무조건 항복이 발표되어 35년에 걸친 조선 식민지 지배가 종료되었다 . 조선 사람들은 이날을 광복절로 축하했지만 일본군이 철수하자 바꿔 즉시 남부에는 미군이, 북부에는 소련군이 진주했다. 이처럼 미소가 서로 싸우는 가운데 조선 의 분단 은 점차 고정화되어 1948년 남한 대한민국과 북한의 조선민주주의인민공화국이라는 분단국가로 독립하게 되었다.
한국과의 국교수립
한반도 정세는 그 후 냉전이 아시아에 이르러 열전이 되어 1950년부터 조선 전쟁이 되었다. 아시아의 공산화를 저지하기 위해 미국은 급히 일본의 주권을 회복시켜 서쪽 진영에 더하기 위해 1951년 샌프란시스코 평화조약을 체결했다. 일본은 미국을 비롯한 서방 국가와는 외교관계를 맺었지만 소련·중국 등 공산권과의 국교회복은 하지 않는다는 ‘편폐강화’가 됐다. 그리고 한반도의 양국은 전쟁 중이었던 것도 있어 강화는 할 수 없고, 크게 어긋나게 되었다.
대한민국 과의 사이에서는 1960년 쿠데타에서 실권을 잡은 박정희 독재정권이 경제부흥을 위해 일본과의 국교수립을 생각했기 때문에 급속히 움직였다. 오리로부터 베트남 전쟁이 격화, 박 정권은 미국을 지원해 한국군을 베트남에 파견, 그 보상으로서의 경제 지원을, 미국을 대신해 일본으로부터 받는다, 삼국의 관계를 구축했다. 이렇게 한일관계수립의 협상이 시작되어 한국·일본 쌍방에서 학생들의 강한 반대를 밀어 1965 년 6월 한일 기본조약이 체결됐다.
악화되는 한일관계
한일관계는 이에 따라 열려 70~80년대 이후 한국 경제도 급성장해 양국의 무역관계도 순조롭게 되어 일본에서는 한류 붐이 일어나는 등 양국 관계는 호전했다. 그런데 한국 경제가 급성장을 이루는 한편, 일본은 버블 경제가 처음으로 저성장 시대에 들어가 일본과 한국의 감정적인 관계 악화가 시작됐다. 그 인식의 차이는 한일 기본조약에 대한 견해의 차이로 볼 수 있다. 일본은 이 협약에 따라 대한민국에 대한 경제지원을 한 것으로 전쟁책임에 종지부를 쳤다는 입장을 취했고, 이 배상을 테코의 하나로 70년대 이후 한국이 경제급성장을 이룬 것에 감사의 마음을 가지고 싶다는 자부심도 있다. 그런데 한국 내에서는 한일기본조약은 박정희 독재정권이 국민의 강한 반대에도 불구하고 억지로 체결한 것으로서 그것을 인정하지 않는 기운은 지금도 뿌리깊다. 그것이 일본의 식민지 지배에 대한 사과가 완전히 끝나지 않았다는 의식의 저류에 존재하고 있다. 종군 위안부와 징용공에 대한 사과와 보상 문제, 야스쿠니신사 문제, 다케시마(한국도 독도) 문제 등이 여전히 양국간 대립점으로 남아 있다.
또 한 북한이란 북한이 김일성 이후 세습제 독재 정치와 핵무장이 이어지는 가운데 국교회복은 더욱 멀어지고 외교관계만 만들지 않고 납치문제도 미해결 그대로 방치되고 있다. 한일 및 일조간 외교문제는 너무 뒤틀리고 해결이 멀고 있다는 느낌이 강하지만, 현재의 현상면에서만 감정적으로 반응하는 것이 아니라 근현대의 역사를 근거로 해 해결의 길을 찾아야 한다.
참고 에즈라 보겔의 견해
한국과 일본의 관계를 생각할 때, 한국인의 일본에 대한 악감정을 '반일'로 베어버리거나 혹은 무시하고 있었다면 이야기는 앞으로 나아가지 않을 것이다. 그들이 역사와 일본과의 관계를 어떻게 파악하고 있는지 제3자의 의견을 보자. 그 때 참고가 되는 것이 과거 '재팬 아즈 넘버원'과 '아시아 사소룡' 등의 저작으로 일본·한국을 포함한 동아시아 지역의 경제성장을 분석한 미국 경제학자 에즈라보겔의 다음 말은 들어야 할 가치가 있다고 생각한다.
(인용) 일본에 의한 침투의 깊이와 일본의 식민지 지배의 억압적인 성격 때문에, 한국은 이전의 식민지 지배자에 대해, 그 외 많은 구식민지보다 훨씬 부드러운 애증 중반하는 감각을 가지고 있다. 일본의 여론조사는 지난 수십년 동안 국민이 가장 싫어하는 나라는 구소련과 한국이라고 보도했지만 한국인의 일본인에 대한 적의는 그 이상이었다. 한국인은 식민지 시대의 일본인의 잔학성과 착취, 1923년 관동대지진 후 조선인 학살, 그리고 일본에 강제 연행된 조선인 궁리의 노예와 같은 취급을 계속 비난했다. 한국인은 일본인이 일본에 거주하는 한국인의 2세, 3세에 시민권을 주는 것, 과거의 악행에 대한 사과나, 한국인을 기본적인 경의를 가지고 다루는 것을 원하지 않는 것에 분노를 나타내고 있다. 그럼에도 불구하고 많은 한국인들은 식민지 시대에 있어도 대학, 은행, 관공청 등 일본의 엘리트 집단이나 기관에 받아들여졌고, 일본의 말과 문화에 숙달한 것을 자랑스러워 왔다. 이 격렬한 애증상반의 감정은 한국인을 해서 통렬한 일본 비난에 빠뜨리고 또 많은 한국인의 마음 속에 있는 일본에 대한 동경을 인정하는 것을 어렵게 하게 되었다. 한국인의 애증상반의 감정은 아마 '사랑과 증오'가 아니라 '존경과 증오'라는 말로 가장 잘 묘사할 수 있을 것이다. 어쨌든 모든 분야에서 한국만큼 일본의 성공을 이해함으로써 이익을 얻은 나라는 별로 없다. <에즈라=보겔/와타나베 리부역 『아시아 사코류』1993 중공신서 p.70-71>
다만 이 글이 쓰여진 1990년대 초부터 현재는 30년이 경과하고 있다. 그동안 공업력에서는 한국은 일본을 추월하며 특히 IT와 음악·영화 등의 소프트 면에서는 훨씬 능가하고 있다는 견해가 있다. 그렇다면 현재 한국의 젊은 세대에 일본에 대한 '존경'의 생각은 이미 잃어버린 것이 아닐까. 그리고 일본이 조선을 식민지 지배가 추상화된 '미움'으로만 남을 우려가 있다. 일본의 젊은이가 조선 식민지 지배의 「사실」을 잊어버리면, 그 「미움」은 해소되지 않는 채로 되어 버린다. '존경과 증오'의 상반되는 감정이 (만약) 한국의 젊은이에게 있는 동안 증오의 감정을 해소할 필요가 있다. 그러기 위해서는 적어도 종군 위안부·징용공 문제에서 일본의 위정자에 의한 화를 낸 해결이 필요할 것으로 보인다. <2021/10/25기>
===조선총독부
1910년 한국 병합에 의해 경성(현 서울)에 설치된 일본의 조선통치기관. 당초는 무단정치를 하고 1919년 삼·일 독립운동을 계기로 문화통치로 돌아섰다. 36년간 일본 조선 식민지 지배의 통치기간으로 이어졌지만 1945년 일본 패전으로 사라졌다.
1910년 한국 병합 에 따라 기존 한국통감부를 확충해 경성( 조선왕조 의 도한 성 .현재 서울)에 설치했다. 이후 1945년까지 일본 조선 식민지 지배의 중심기관이 된다. 총독은 천황에 직속해 한국의 정치·군사의 전권을 잡고, 육해군의 대장으로부터 임명되게 되었다. 초대 총독에게는 육군 대장사내 정장이 임명되었다(데라우치는 이미 조선통감으로 재임하고 있어 또 육군 대신 겸무였다).
무단 통치에서 문화 통치로
조선총독부에 의한 통치는 헌병을 주체로 한 군인에 의한 강압적인 무단정치 였지만, 1919년 조선민중이 독립을 요구하고 3·1독립운동을 일으키자 총독은 문관임용도 가능하게 하는 것으로 바뀌어 ' 문화정치 '라고 불리는 소프트한 통치 방식으로 바뀌었다. 조선총독은 ‘육해군 대장’을 충당하는 규정에서 문관도 임용할 수 있다고 개정되었고, 그 병권은 폐지되어 조선군 사령관에게 위양되었다. 그러나 실제로 조선총독은 1919년 해군 대장사이토미가 임명되어 그 이후에도 육군대장이 임명되었기 때문에 군인의 명예 포스트화했다.
황민화 정책에
이른바 문화정치 하에서 총독부 관우에는 일부 조선인도 임용되는 등 일정한 융화를 도모했지만, 기본적으로는 자치는 인정되지 않고, 일본인 경찰관에 의한 경찰 제도, 일본어 교육의 강화 등에 의한 황민화 정책 의 추진 등 식민지 지배 강화를 도모했다. 또 쌀 증산 등 일본 자본주의를 지지하는 식민지로서의 자리매김이 더욱 강화됐다.
1940년 이후 일본이 전면적인 전쟁 상태에 들어서자 조선에 대해서도 ' 대동아공영권 '을 지지하기 위해 황민화 정책은 더욱 강화되어 창씨 개명 · 조선인의 강제연행 · 징병제 실시 등의 조치가 취해졌다.
조선총독부 해체
1945년 8월 14일 일본 포츠담 선언 수락으로 식민지 지배가 끝나 조선총독부도 9월 9일 이후 소멸했다.
조선총독부의 건물은 조선왕조의 왕궁인 경복궁을 거의 파괴하고 가리도록 건조되어 있었다. 제2차 세계대전 이후에도 대한민국 정부청사가 되어 조선전쟁 때 소실되었지만 곧 재건되어 1983년부터는 국립중앙박물관으로 이용되고 있었다. 그 무렵부터, 조선 총독부의 건물을 해체할지 보존할지, 격렬한 논의가 되어 갔다.
한국의 국민감정으로는 총독부의 건물은 얼마나 중후한 문화재라고 해도 기분 좋은 식민지 시대의 상징이었던 것이다. 논의 결과 김영삼 대통령 때 의회에서 해체하는 것이 의결되어 1995년 8월 15일에 식전을 치르고 첨탑 부분을 제외하고 해체공사가 시작되어 다음 해까지 구 건물은 철거되어 다시 경복궁이 복원되었다. 조선총독부를 상징하는 중앙의 푸른 첨탑은 천안시의 독립기념관으로 이축됐다. 이처럼 현재는 구조총독부 건물을 볼 수 없다.
※오오무라 차향 『컬러판 유적이 말하는 아시아』 2004 중공신서 p.98-108에 1995~96년의 구조총독부 해체공사를 만났을 때의 사진과 기사가 있다.
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무단정치(조선)
1910년부터 일본의 조선 지배로 현역 군인이 조선총독으로 통치한 것. 1919년 3·1운동을 계기로 문화정치로 전환했다.
군인에 의한 통치를 의미하며 1910년에 시작되는 일본의 조선 식민지 지배 에서 조선총독부 에 의한 통치가 그에 해당한다. 1919년 삼·일 독립운동이 전개되어 이듬해 문화정치 로 전환될 때까지 이어졌다.
총독부의 장관인 조선 총독 은 천황에 직속되어(즉 본국의 내각과는 독립적으로) 한국의 정치·군사 모두를 장악해, 육해군의 대장이 임명되게 되어 있었다. 그 통치는, 헌병대 사령관(아카시 모토사부로)이 경무총장을 겸무해, 보통 경찰과 일체화가 되어 치안 유지 외에 호적 사무나 농작물의 작부 강제 등 민중의 생활도 장악하는 것으로, 이른바 「무단 정치」였다. 이런 통치방침은 1919년 삼·일독립운동이 일어나 ' 문화정치 '라 불리는 소프트한 통치로 바뀔 때까지 이어졌다.
덧붙여 중국사에서는 당말부터 송요의 군인인 절도사에 의한 통치 등도 무단 정치 라고 한다.
조선총독 교체
삼·일독립운동 은 일본의 통치자에게 강한 충격을 주고 폭력만으로 조선을 지배하는 불가능을 자각시켰다. 1918년 미소동으로 사원 정장 내각이 쓰러져 대신에 성립하던 원경 내각은 조선통치의 혼란수습과 안정을 도모하기 위해 조선총독 하세가와 호도를 경계하고 다시 해군 대장사이토미를 임명했다. 사이토실은 1919년 8월에 취임해, 27년 12월에 야마나시 반조(육군 대장)에 양도했지만, 야마나시가 조선미를 둘러싼 뇌물 사건으로 사임했기 때문에 29년 8월에 재임되어, 31년 6월까지 그 지위에 있었다. 거의 사이토실 조선총독의 임기였던 1920년대를 '문화정치' 시기라고 한다. <강재히코 '조선근대사' 1986 헤이린사 선서 p.201->
사이토미와 그 아래 정무총감이 된 미즈노 연타로는 착임 일찍 서울역에서 폭탄 세례를 받고 있다. 두 사람은 무사했지만 30여 명이 중경상을 입었다. 폭탄을 던진 것은 노유강 우규는 20년 11월 사형이 되었지만, 그 공판에서 조선총독 사이토실이야말로 심판되어야 한다고 주장하며 판사 이하 모두 놀랐다고 한다.
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미츠오 신마사
의화단 사변 후, 20세기 초에 서태후 등에 의해 행해진 청나라 최말기 위로부터의 개혁. 일정한 근대화를 도모해 청나라의 연명을 도모했지만 성과를 올리지 않고 1911년 신돼혁명으로 쓰러졌다.
의화단 사건 (북청사변)에서 베이징을 의화단에 점령받아 청조정부는 거기에 밀려 외국에 대해 선전포고를 했지만 8개국 연합군이 베이징에 침공했기 때문에 광서제 와 서태후 는 서안으로 피난했다. 아직 의화단 사건이 이어지는 가운데, 1901년 1월에 청조의 실권을 쥐고 있는 서태후는, 광서제의 이름으로, 청조 정부의 개혁을 실시해 태세를 재조정하는 것을 선언했다. 그 후 8개국 열강 사이에서 같은 해 9월 베이징 의정서를 체결, 외국 종속도를 깊게 하면서 청나라의 개혁운동인 '광서신정'이 진행됐다.
서태후 주도의 마지막 개혁
청나라의 실권은 서태후 와 보수파의 한인 관료가 붐비고 있어, 황제 광서제는 유폐중이었기 때문에, 「광서신정」이란 광서제가 실시한 신정이라는 의미가 아니라, 광서 년간에 행해진 개혁, 이라고 하는 의미이다. 또 그 내용도 한때 그녀가 장례식으로 떠난 강유위 등의戊戌의 변법 내용을 다시 태운 '위로부터'의 재검토에 지나지 않았기 때문에 청나라의 재기에는 이어지지 않고 그 '마지막 개혁'이 되어 끝났다.
미츠오 신정의 요점
1901년 1월 서태후는 “외국의 장점을 취해 중국의 단점을 떠나 부강을 도모한다”며 고위관들에게 의견구신을 요구했다. 이를 출발점으로 삼아 청나라는 '살아남기 위한 신정'을 시작했다. 신정을 추진한 것은 나오사키 총독 고세개 , 양강 총독 리우스이치, 호광총독 장지동 등이었다. 그 주요 내용은
신군 건설을 중심으로 하는 군대의 근대화(당초 36개 사단을 예정. 청말까지 14사단이 편성되었다.)
상부(상공업성)의 신설, 상회나 회사의 설립 장려, 상법의 제정 등으로 이루어지는 실업 진흥.
각 현에 초등학교, 부에 중학, 성에 대학, 또 사범학교, 각종 실업학교의 설립, 학제의 공포, 학부(문부성)의 설치 등의 교육 개혁.
과거의 폐지 ( 1905년 9월 2일). 그 대신 대량의 유학생의 외국, 특히 일본에의 파견에 의한 신형 관료의 육성 등.
「청나라의 열강에의 종속이 결정적이 된 시기에 드디어 행해진 이 신정은, 다양한 변화를 중국 사회에 가져와, 그것이 청나라의 묘구멍을 파게 되었다. 」
헌법 대강의 발포
그 실무에 해당한 것은 袁世凱 등의 관인 관료이지만, 어디까지나 청조의 지배를 연명시키기 위한 개혁에 그쳤다. 때때로 1905년에 일어난 러일전쟁 에서는 청조의 발상지인 만주에서 일본과 러시아의 격렬한 전투가 이뤄졌지만, 청은 어느 쪽에도 주지 않았다. 러일전쟁의 해에 청에서는 마지막 과거가 행해졌고, 다음해에는 과거의 폐지를 결정했다. 또 일본과 구미에 사절단을 파견해 헌법 제정을 준비하고, 1908년 9월에 헌법대강을 발포, 9년 후에 의회를 개설할 것을 약속했다. 또 근대를 어필하기 위해서도, 족족 금지령을 내놓았다. 그러나 청조정부는 제국주의 열강의 외압과 내부의 손문들의 혁명운동에 대처하지 못했고, 1908년 11월 광서제와 서태후가 잇따라 사망하고 불과 2세의 선 통제(溥儀) 가 즉위했다.
辛亥혁명
그동안 손문은 청조타도, 공화정수립을 주장 해 조직한 중국동맹회를 중심으로 각지에서 무장봉기를 기획했지만 모두 진압되어 손문 자신은 해외에 거점을 옮겨 화교의 조직화와 자금원조와 국제적인 지원을 호소하고 있었다.
1911년 청조정부가 시코쿠 차관단의 차관을 바탕으로 철도 국유화 정책을 내세운 데 민족자본이 반발하고, 신군이 더해져 사천폭동 에서 무창봉기 로 발전, 반청조의 결기는 2년 1월 1 일 손문 을 임시대 총통 으로 삼은 중화 민국이 성립했다. 청조의 실력자로 북양군벌을 이끌었던 조세개 는 선통제에 다가가 1912년 2월 12일 퇴위시켜 이에 따라 청조도 끝을 고했다. 이는 청조의 멸망뿐만 아니라 시황제 이래 2천년에 걸친 중국의 왕조 지배, 황제 지배가 끝난 것을 의미했다.
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