在日コリアン三世として生きる
【4】在日社会の「生きづらさ」
まずは「隣にいる他者」への想像力を
中垣内麻衣子 ライター
2020年11月07日
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在日コリアンのうち、「朝鮮籍」の人の割合は年々減少し、韓国籍の人が増加しています。その背景には、「朝鮮籍」にまつわる複雑な事情があるようです。
今回、話を聞いたのは、朝鮮半島出身の父と在日朝鮮人二世の母を持つ、安宿緑(やす・やどろく)さん。現在は、編集者・ライターとして働き、『韓国の若者』(2020年、中央公論社)、『北の三叉路』(2015年、双葉社)といった著書があります。「朝鮮籍」からやむなく韓国籍に変更した経緯とは、どのようなものだったのでしょうか。

「朝鮮籍」は無国籍と同じ
「元々、私は『朝鮮籍』(注)でした。ただ、これはいわゆる『国籍』ではなく、無国籍と同じで、難民同様に扱われることになります。戦後、在日朝鮮人は日本の国籍を喪失したのですが、その時便宜上『朝鮮籍』が付与されただけなんです」
サンフランシスコ講和条約が1952年に発効されると、在日朝鮮人たちは、一夜にして日本国籍を失いました。そして外国人登録証に「朝鮮」と記されることになったのです。その後、多くの人が韓国籍を取得していきましたが、様々な理由で「朝鮮籍」のままでいる人たちもいます。
「朝鮮籍だと、総連に頼めば、北朝鮮のパスポートを発給してもらえます。ただ、これも北朝鮮の国籍とは異なります。
かつては、再入国許可証という茶色い手帳があり、パスポートの代わりにすることがありました。でも海外の空港で『これは何なの?』と聞かれることが多く、『私たちはこういう立場なので、こういうものを持っているんです』と説明するのが面倒です。
一度パスポートがないまま、モンゴルに再入国許可証だけで渡航したことがあるんです。モンゴル大使館はパスポートがなくてもビザを出してくれたんですが、モンゴルの空港職員は当然ながら在日コリアンの事情など知るはずもなく、『パスポートがないじゃないか』と指摘してきました。モンゴル語なので何を言われているのか分からなかったんですが、恐らくそう言われていたんだと思います。正直強制送還になるのかと焦ったんですが、ビザと帰りのチケットの控えを見せてなんとか入国することができました」
(注)朝鮮籍:1952年、サンフランシスコ講和条約の発効に際して、旧植民地出身者は日本国籍を喪失し、朝鮮半島出身者は「朝鮮籍」となった。その後、年々韓国籍や日本国籍を取得する人が増えているが、様々な理由から「朝鮮籍」のままの人も少なくない。なお朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の国籍を保持していることとは異なる
韓国籍に「泣く泣く」変更
朝鮮籍だと海外に渡航するときに不便だという話はよく聞きます。安さんは、パスポートがないまま旅行したり、北朝鮮のパスポートをもらって旅行したりしていたようですが、それにも限界があったようです。
「ある時、アイルランドにどうしても行きたくて、会社から休暇をもらうことにしたんです。旅行まではまだ2カ月くらいあったので、その間にビザが下りるだろうと思っていました。
しかしIRA(アイルランド共和軍)が北朝鮮とつながっているという疑惑があるためか、北朝鮮のパスポートだとビザがおりなかったんですね。給与明細や職場の在籍証明など10通もの書類を用意して、難民でもIRAでもないということを証明しようとしました。でも、北朝鮮のパスポートを持っている以上、アイルランドは私を入国させるわけにはいかなかったようです。同じ書類を提出したところ、イギリスではすんなりビザがおりたのですが……」
北朝鮮のパスポートでは、憧れのアイルランドにどうしても入国できないと悟った安さんは長い逡巡の末、やむなく韓国籍に変更したといいます。

「父も朝鮮半島の北部出身ですし、父の弟や親戚たちも北朝鮮にいます。私は何度も北朝鮮に渡って、彼らと交流してきたため、北朝鮮に愛着があったんですね。大学時代には短期留学もしましたし。なので、なんとなく韓国籍になるのが嫌でした。でも北朝鮮のパスポートでは、アイルランドに行けない。
周囲に相談したところ、親族に『北と南で分断されている以上、どっちも真の祖国の姿であると言えないのでは』と言われ、確かにこの状況で片方にこだわるのも不自然だなとは思ったんです。それでもまだ納得しきれなかったのですが、気の進まないまま韓国籍に変更しました。
国籍の変更は、まずは韓国領事館で韓国籍取得の申請を行います。書類の手数料は50円、わずか3分ほどで発行されます。その後、居住地域の区役所に行って外国人登録証明書記載事項の変更をし、その証明書を領事館に提出すれば韓国籍取得が完了となります。早くてたった1日です。
なぜ韓国籍に変えるのが簡単なのかと言うと、韓国は『朝鮮籍の人々も我々の国民』『北朝鮮も我々の領土』という立場を取っているからなんです。逆に、北朝鮮も『韓国は我々の領土』と言っているのですが……。
意外にもあっさり韓国籍になって、納得はできませんでしたが、領事館がすぐに臨時のパスポートを発行してくれたおかげで、アイルランドに行くことができました。このときは、私という人間は何も変わっていないのに、パスポート一つで対応が全く異なることに理不尽さを覚えました」
本籍地を「独島(竹島)」に登録
韓国籍に変更したものの、これで万事解決というわけにはいきませんでした。正式なパスポートを発行してもらうためには、韓国に本籍地を登録する必要があるのです。
「韓国籍を取得してから、臨時のパスポート(臨パス)を何度も発行してもらっていました。正式なパスポートを発行するためには、本籍地を変更しないといけないのですが、本籍地は北朝鮮のままにしておきたいと思ったんです。
ところが、あるとき『臨パスを発行しすぎです。本籍地を移してください』と言われてしまいました。そんなこと言われても、韓国には所縁のある場所がありません。そこでいっそ、南北共同で領有権を主張している独島に本籍地を置こうと思ったんです。『朝鮮半島で唯一統一してる場所なのでは』と。
実は、私は2012年に独島に上陸しているんです。鬱陵島(うるるんとう)に行って、そこからフェリーで独島に行くツアーがあるんですが、天候と波の関係上、島に上陸できるのは年に5回ほどで、周囲を船でぐるっと回って帰って来ることが多いんですよ。でもその日は天気が良くて、運良く独島に上陸できました。
一度行ったこともあった上に、韓国のSNSで独島を本籍地にできるという情報を見つけていたのです。しかし領事館の職員がまだ若くて、事情を知らなかったようで、『独島を本籍地にするのは無理です』と言われました。そこで『ネットにできると書いてあった』と粘って何とか申請してもらいました。結果、独島に本籍を登録できたんです」

とはいえ、「独島は我が領土」といった主張があるわけではないそうです。
「独島は、実態はただの岩礁であるにもかかわらず、概念上では日本と朝鮮半島の紛争の象徴です。そうやって朝鮮半島と日本に片腕ずつ引っ張られている様子がある意味、さんざん双方に振り回されてきた自分自身と重なりました。
便宜上は韓国領土としての登録ですが、領有権がはっきりしない場所を本籍地にしたのは、登録事項や国籍で私の中身は何も変わらず、これからも縛られてはならないという個人的な戒めのためです。……というのが半分で、あとは面白そうなので申請してみたらできてしまったというのが半分です。実際に上陸しているので、矛盾はしないはずです。
日本も朝鮮半島も、それぞれのバイアスをかけて私を見るでしょう。韓国からは『北のスパイ』、逆に北朝鮮からは『韓国のスパイ』という目で見られます。日本では、右翼からは『反日』呼ばわりされる一方、いわゆる〝被差別者〟らしい振る舞いをしないので、左翼からは『利用できない在日』とみなされます。
さらに、朝鮮学校に通ったりせずに日本社会で生きてきた在日コリアンからは『差別されてこなかった』『苦労知らず』、韓国人からは『北朝鮮の支持者』または『日本人』といったように、それぞれのバイアスで私を見るのです。何の得もないのに『元・朝鮮青年同盟中央委員』とかいう肩書きをプロフィールに入れているのもそうした人々をおちょくるための逆説的な社会実験です」
朝鮮学校では〝俯瞰する目〟が養われる
安さんの父は戦前に朝鮮半島の北部で生まれ、日本に渡りました。そこで在日朝鮮人の母と結婚します。
「父は北朝鮮に生まれ育ち、19歳のときに結婚しました。しかし親に決められた、好きでもない相手と結婚せざるを得なかったため、結婚生活が嫌になってしまったようです。1920~30年代に妻子をおいて出奔しました。一旗揚げようと中国やロシアに渡ってから来日し、母と再婚したんです。
母は在日朝鮮人二世です。高校までは日本の学校に通っていて、ずっといじめられていたそうです。そのせいか、愛国心や民族意識を強く持っていました」
愛国心が強かった母は、安さんを幼稚園から朝鮮学校に通わせます。安さんは、朝鮮学校と日本社会を行き来することで早くから「俯瞰する姿勢」が養われたといいます。
それよりも朝鮮学校に通うと〝俯瞰する目〟が養われます。校門を一歩出れば、日本社会。二つの世界を往復していると、『私たちは違う』『狭間に生きている』という感覚を抱き、双方を俯瞰する姿勢が養われるんです。
朝鮮学校に通っていない在日コリアンは、私たちのことを『(同胞ばかりの環境で)差別されずに育った』『温室育ち』、または『従北派』と思っている人が多いようなのですが、私たちにも私たちなりの苦労があります。
それに朝鮮高校を卒業して就職しようとしても、履歴書にずらっと『朝鮮学校』が並んでいるんです。もちろん他に保有資格があれば話は別ですが、韓国語が必要な職場でもない限り、特にこれといった利益もなく、むしろ不利なことも少なくないと思います。朝鮮高校を卒業しても大学受験資格はもらえないですし」
前回の記事では、韓国学校に通っていたニューカマーの女性を紹介しました。韓国学校でも、朝鮮学校と同じように、民族教育が行われています。しかし両者は、通っている生徒や教育内容において大きく異なるようです。
「韓国学校は、日本に駐在している韓国人の子どもが多いです。ただ在日でも韓国学校に入る人はいますよ。朝鮮学校と違って、先生がネイティブなので、韓国語を習得したい人には向いていると思います。英語にも力を入れていて、総じて韓国学校の教育レベルは高いと思います。あと、親が朝鮮総連を嫌っていると、子どもを韓国学校に入れたりします」
朝鮮大学校の就職事情とは
朝鮮大学校を卒業後は、総連で機関誌を編集する仕事に就きました。日本の大学では、学生たちが自主的に就職活動をしますが、朝鮮大学校では事情が異なるようです。
「朝鮮大学校を卒業すると、朝鮮総連の傘下の組織に配置されるんです。一応、どこがいいか聞いてもらうことはできて、7割くらいの人は希望を通してもらえていたはずです。
私の時代は、ほとんどの学生が総連で働くか、同胞の企業で働くことになっており、日本の会社に入る人はいなかったと思います。
私はあまり勤労意欲がなく、大学卒業後にやりたいことも特にありませんでした。そもそも働くことの意味が分からなくて……。ただ、文章を書いたり、編集したりすることは好きで、趣味で同人誌を出したり、大学のときも新聞委員をしたりしていたので、メディアの仕事ならできるんじゃないかと思いました。それに総連のメディア部門なら土日休みだと聞いて、これなら趣味の演劇とも両立できるだろうと思ったんです。
ただそこに高卒で働いている同級生に電話で聞いたら『土日は休みではない』と言われてしまい……それで朝鮮大学の教授に『やっぱりやめたい』と伝えようとすると被せるように『ふざけるな』と返されてしまいました。まあ当たり前ですよね、配置云々以前に、人として。それ以上断る勇気がなく、結局そのまま働き始めました。
東京にある総連の中央本部には、愛国心が強い、優秀な人が配属されることが多いので、私のように愛国心もやる気も乏しい人は珍しかったですね。いや、愛国心は結構ありましたね。『なんでこんな奴がここにいるんだ』というような存在でした。

職場には、30歳を超えると残りづらい雰囲気がありました。そもそも女性は結婚したり、出産したりして辞める人が多く、30代で独身だと全年齢向けの機関誌である『朝鮮新報』の編集部に異動したり、全く別の部署に異動することも。
ずっと朝鮮総連にいるつもりはなかったものの、キャリア志向でもないし、この先どうしようかな、留学でもしようかなと迷っているときに、当時の家の事情で仕事を離れるようになりました。そうして韓流雑誌などを手伝いながらフラフラしている時に、縁あって日本のとあるメディアで働き始めました」
在日社会の「生きづらさ」
現在は日本のメディアで働く安さん。在日社会は「生きづらい」と感じることも多々あったようです。
「在日の社会にも、『ホモソーシャル』なところがあります。例えば、朝鮮学校では、学校側が委員長を選ぶのですが、委員長になるのは原則的に男子です。その学校に男子生徒がいる限り、たとえ優秀ではなくても男が委員長になります。女は副委員長で、女房役という扱いですね。
また、北朝鮮本国と同じように、〝台所は女の領分で、男は何もやらなくていい〟という文化があるんです。九州だといまだに〝男子厨房に入らず〟という文化が残っているようですが、まさにそんな感じです」

男子生徒が委員長になったり、性別役割分業が残っていたり……。在日コリアンの社会にも、「男社会」といえるところがあるようです。
また、安さんは〝未婚の女性は肩身が狭い〟と感じることもあったといいます。女性は結婚・出産したら一線を退いて、〝家庭を守る〟といった風潮は日本社会にも残っていますが、在日コリアンの社会ではこの傾向がより顕著だといいます。
「恐らく、在日朝鮮人以外の少数民族もそうなんじゃないかと思うのですが、『子孫繁栄してなんぼ』という感じなんです。結婚して、子どもを持っていないと『いないもの』として扱われます。日本社会よりもそういった風潮が強いと思います。もちろん在日にも結婚していない人たちはたくさんいるのですが……。
子孫繁栄して、後代に民族の文化を伝えることが良いこととされるので、日本人と結婚してはいけないという価値観もまだ残っています。無理にでもお見合いをして、朝鮮人同士で結婚しようとするんですね。私の母も『日本人と結婚したら縁を切る』と言っていました。
私も一度、お見合いをしたことがあります。在日って焼肉屋、金融業、パチンコを家業にしているところが多いのですが、焼肉屋とお見合いしたんです。
私は自分の仕事を伝え、『月に何度か徹夜で家に帰れない日がある』『日中は働いているので家にいない』と伝えたら、それだけでNGでした。『家業を手伝えない嫁はいらない』ということのようです。それで子どもを産んで、代を継ぐということが前提になっています。私より下の世代だと少しは変わってきているかもしれませんが……。こういった風習にも、ホモソーシャルな文化にも私は全くなじめませんでしたね」
これまで日本社会での「生きづらさ」について話を聞いてきましたが、在日コリアンの社会の中にも「生きづらさ」があるようです。
さて、ここまで複数の在日コリアンの声を拾ってきましたが、置かれた環境や成育歴によって、様々な思いや葛藤を抱えていることがわかりました。差別や分断が残る私たちの社会で、まずは「隣にいる他者」への想像力が涵養されることを願います。(おわり)
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