2019-05-23

農業エコロジーの先駆 安藤昌益

農業エコロジーの先駆 安藤昌益

PART1 安藤昌益入門
農業エコロジーの先駆 安藤昌益
はじめに──18世紀 二人の先駆者

 日に日に深刻となる自然と人間との矛盾、その原因である合理主義と資本主義は、啓蒙の時代と呼ばれる18世紀にその起源をもつ。もともとキリスト教の人間観自体が、人間の自然に対する特権的位置を保証するものであったが、ルネッサンス期に芽生え、18世紀に本格化する人間の神からの自立とその結果としての科学主義の台頭は、人間が自然を客観化し、従属させ、支配しうるという驕慢な錯覚をより一層加速させることになった。
 試みに世界の思想家の生没年を棒状に示した一覧表を作ってみると、18世紀にもっとも集中していることがわかる。それは人間の神からの自立という精神革命の一翼をになった思想家たちの存在を前提とし、18世紀が「哲学の世紀」と呼ばれるゆえんともなっている。なかでも日本とフランスにおいて、この傾向が顕著なのは興味深いことである。しかもこの両国には、よく似た思想をもつ人物が、同時平行的に誕生している。これは両国の思想家たちが、共通して中国思想の影響を受けているためだとする見解もあり、興味深い見方であるが、ここでその当否に触れるのは、本稿の目的とするところではない。
 さて、この東西の類似の思想家の代表として、フランスのジャン・ジャック・ルソー(1712~78)と、わが国の安藤昌益(1703~62)の名をあげることができよう。この二人は、たんに同時代人であるだけでなく、人間の解放と不平等の撤廃をめざし、そのための手段として、自然の回復と農業の重要性を主張する点でも共通している。この両者は、資本主義やその前提としての産業革命以前に、早くもその危険性を直感し、人間の解放と自然との共生という観点を根幹にすえて思想を構築した。事実、その後この二人が危惧したとおりの歴史的・経済的展開がなされ、自然と人間との矛盾が極限状態にいたっている今日、あらためてそのラジカルな思想が注目されている。本稿では、このうち日本が世界に誇りうる唯一の独創的な思想家とされる安藤昌益に焦点をあてて、その人と思想について概観してみたい。

1、よみがえる昌益──発見から現在まで

 百年後を期して書き残された昌益の主著、稿本『自然真営道』(1)が発見されたのは、19世紀の末年、1899(明治32)年のことである。当時、第一高等学校の校長であった狩野亨吉(1865~1942)は、職務のかたわら、散逸しつつある貴重な古典籍の収集につとめていたが、この年のある日、本郷森川町の古書肆田中清造から『自然真営道』と題戔のある90冊余りの稿本を入手する。
 これは「北千住の仙人」と呼ばれていた橋本律蔵という篤学者が、「門外不出」「開けてみると目がつぶれる謀叛の書」と秘蔵していたもので、彼の死とともに人手に渡り、幾多の変転を経て、狩野の手に入ったものである。
 この本を一瞥した狩野は、その内容のあまりに破天荒なのに驚き、これはてっきり狂人の著作に違いないと思い、狂人研究の参考にと、精神病学者の呉秀三に数年の間、貸しておいたほどであった。しかし、あるとき、ふと思いつくことがあって、あらためて読みなおしてみると、理路整然、とても狂人の作とは思えず、「これ或は我が日本の国土が生むだ最大思想家にして、世界思想史上にも特筆すべき人物」(2)なのではないかと思うにいたる。
狩野は1908(明治41)年、京都帝国大学文科大学長の職にあったが、この年の1月、『内外教育評論』という雑誌に「大思想家あり」というタイトルで、はじめて安藤昌益の存在を公表する。これは取材記事で、話者は「某文学博士」とされ、匿名であった。ともかく、この記事によって初めて昌益の存在が紹介されたのである。しかも『日本平民新聞』が、「百五十年前の無政府主義者・安藤昌益」というセンセーショナルなタイトルで、この記事の内容を要約・紹介し、昌益の存在が世に広く知られるようになった。
 狩野は学長在職中、幸田露伴や内藤湖南などの民間学者を招聘するなど、画期的な大学運営をおこなった。このため、文部当局とも衝突し、ついにこの年の10月、病気を理由にその職を辞した。この辞職の一因と、これ以後の狩野の生き方に、昌益の思想的影響を指摘する向きもあるが、定かではない。いずれにしても、狩野はこの後、「隠れて生きよ」というエピクロスの言葉のままに、骨董の鑑定と売買を生業とする一市井人としてその生涯を終えることになる。彼はその後も古典籍の収集につとめ、本多利明・志筑忠雄などの独創的思想家を発掘し、『藤岡屋日記』などの貴重な文化財を世に紹介した。
 さて、教え子の保証人として借財に苦しむ狩野の暮らしぶりを見かねた吉野作造らの斡旋で、1923(大正12)年3月、稿本『自然真営道』は東京帝国大学に買いとられることになった。しかし、皮肉にもこの年の9月1日、東京を直撃した関東大震災による火災で、この人類的遺産は烏有に帰してしまう。
 このときの狩野の落胆ぶりを、内田魯庵は「典籍の廃墟」という文章で次のように紹介している。「東大図書館炎上と聞くや、狩野博士は浩嘆して曰く、大東大文庫八十万冊も要するに枯骨の墳墓であったが、独り自然真営道に至っては、眠れる獅子の生きながらにして、火葬されたようなものであった」(3)と。
 ところが灰塵に帰したと思われていた稿本『自然真営道』のうち、12巻が被災の前に三上参次によって借り出されており、無事なことがわかった。しかも残存した巻には、この大著の内容を総括した「大序」巻、ユニークな動物譚である第二十四巻「法世物語」、この大著中の眼目とされる第二十五巻「良演哲論」(現にこの3冊は他の巻とは表紙の色まで変えて区別されている)など、昌益思想を知るうえで欠くことのできないものがふくまれていた。これをそも天佑というべきか。
 さらに翌1924四(大正13)年には、稿本『自然真営道』「人相視表知裏巻」三巻の写本が、1925年には『統道真伝』(4)四巻五冊が、1932(昭和7)年には刊本『自然真営道』(5)が、まるで運命の糸にたぐりよせられるように、いずれも狩野の手によって発見・収集されている。じつは狩野は昌益と同郷の大館の出身であるが、それが確認されるのは、1974(昭和49)年に、昌益の晩年に関する新史料が発見されてからのことである。
 さて狩野はこの間、1928(昭和3)年に、昌益を紹介した最初の論文「安藤昌益」(6)を、岩波講座『世界思潮』に発表する。これは狩野の数少ない著述の一つであるとともに、60余年をへた今日においても、昌益研究史上に燦然と輝く珠玉の論文となっている。
 1930(昭和5)年には、狩野とともに昌益を研究していた渡辺大濤(1879~1957)が、『安藤昌益と自然真営道』(7)と題する最初の研究書を公刊した。これは過酷な治安維持法下において、昌益の思想を紹介した労作であり、戦後の昌益研究のいしずえとなった画期的な著作である。
 このほか、戦前においては三枝博音永田広志鳥井博郎堀勇雄羽仁五郎丸山真男などの進歩的な学者が、困難な条件のもとで昌益を研究し、優れた論文を執筆している(8)
 戦後の安藤昌益研究は、1950(昭和25)年、E・H・ノーマン(1909~57)の『忘れられた思想家―安藤昌益のこと』(9)の刊行からはじまる。日本生まれのカナダ人で、有能な外交官であり、優れた歴史家でもあったノーマンは、戦前から安藤昌益の存在に注目していた。この著作は、昌益を日本の民主主義的伝統として紹介したもので、岩波新書という入手しやすい叢書に収録されたこともあって、広範な読者にうけいれられ、昌益研究のすそ野を広げることに大きく貢献した。
 この年、八戸の地方史家、野田健次郎が、昌益の八戸居住を証明する新史料を発見した。じつはそれまで学会の一部に、昌益は狩野の創作した人物ではないか、という憶測があったのだが、この発見によって、昌益の実在が客観的な史料によって証明されたわけである。
 このあと1960年代前半にかけて、三枝博音らによって、昌益の主要な著作が次々と翻刻され、昌益研究を大きく前進させた。
 この時期のおもな研究は、家永三郎平林康之逆井孝仁稲垣良典林基西尾陽太郎笠井忠などによっておこなわれている(10)
 なお、『忘れられた思想家』が刊行された同じ1950年10月に、漢方医学家の龍野一雄は、浅田飴の創製で知られる幕末・明治の漢方医、浅田宗伯の処方集『方函』から安藤昌益創製の処方「安肝湯」の存在を発見し、安藤昌益が思想家としてだけではなく、医者としても注目すべき存在であることを紹介した(11)
 さらに1969(昭和44)年、山崎庸男が京都大学医学図書館の富士川文庫や東京国立博物館の図書室から、焼失した稿本『自然真営道』の後半部分(医学に関する部分)に相当する『真斎謾筆』(12)など関連資料を発見した。これは安藤昌益の医学の内容を知るうえで極めて重要な発見であった(13)
 また、60年代における昌益研究の広がりは海外にもおよび、1961(昭和36)年に、旧ソ連の日本学者ラードゥリ・ザトゥロフスキー『安藤昌益―18世紀日本の唯物論哲学者』(14)を、62年には北京大学の朱謙之が「安藤昌益―18世紀日本の反封建思想の先駆者」を発表している。とくに中国においては、その後も研究が継続され、1992(平成4)年には、山東大学で日中共同の安藤昌益シンポジウムが開催されるにいたる(15)
 60年代後半に入ると、尾藤正英奈良本辰也らによって昌益の主要著作の翻刻がおこなわれた。とくに奈良本のおこなった『統道真伝』の翻刻は、岩波文庫に収録されたこともあって、広範な読者に昌益思想を知らしめた。
 1970(昭和45)年には、渡辺大濤の『安藤昌益と自然真営道』が復刻され、翌71年には三宅正彦野口武彦によって、昌益の主要著作の翻刻や現代語訳がなされている。
 72年には、村上壽秋によって神山仙確の所持していた初刷りの刊本『自然真営道』(16)が発見され、74年には、石垣忠吉によって昌益の晩年の生きざまを物語る史料や、墓碑・過去帳が発見され、昌益の没年や子孫の存在も確認された。
 この時期のおもな研究は、尾藤正英寺尾五郎安永壽延三宅正彦柳沢南らによっておこなわれた(17)。また、60年代から70年代にかけて活発であった学生運動や左翼勢力の伸長を反映し、土着自生の革命的思想家としての昌益像が脚光を浴び、多くの研究者の関心を集めた。とくに70年代には、在野の昌益研究が活発に展開され、各地に昌益研究グループが誕生したり、専門の研究誌が刊行されるなど、在野の昌益研究が大きく展開した。
 1980年代に入ると、戦後、何度か企画されたものの、中絶の憂き目をみていた安藤昌益全集(18)が刊行され、ようやく昌益思想の全体像が公開されるにいたった。
 80年代後半から90年代にかけては、折からの環境問題の深刻化にともなって、昌益をエコロジー思想の先駆者として位置づける見方があらわれる(19)。これは昌益が自然と人間の関係という、すぐれて近代的な問題を、早くも18世紀中葉に鋭く洞察していたこと、そして、その解決の唯一の道が、農業にもとづく「自然世」(自然と人間の営為が矛盾なく統一された社会)の実現であり、その結果達成される農業エコロジーの思想を提唱したことが、今日的視点から注目され、評価されたことによる。
 以上、狩野による発見から百年におよぶ昌益研究史を概観してきたが、その特徴としていえることは、そのときどきの時代思潮を鋭く反映し、無政府主義・社会主義・民主主義・エコロジー思想など、各時代の先端的思想の先駆的・自生的・象徴的存在として昌益が評価・検討されてきたこと、さらにその研究が狩野亨吉渡辺大濤E・H・ノーマンなどの系譜につらなる在野の人々によって推進されてきたことである。
 こうした時代を越えて息づく昌益思想の社会的・歴史的背景はどのようなものであったのか、次節では昌益の生きた時代と昌益思想とのかかわりについて概観してみたい。

2、昌益とその時代──昌益思想の背景

 徳川幕府が開かれた慶長8(1603)年から、昌益の生まれた元禄16年にいたる百年間は、応仁の乱(1467年)から島原の乱(1638年)にいたる長い内乱(この間、文録・慶長の役という朝鮮への海外侵略戦争もあった)が収束し、ようやく獲得した平和と、寛永16(1939)年の鎖国政策の完成によって、国民的エネルギーが国内に横溢し、経済活動が活発に展開した時期であった。
 いわゆる元禄時代は、こうした経済成長がその頂点に達した時代である。この元禄時代は、農業生産力の向上や商業的農業の発達によって、商品経済が発展し、商人階級が台頭した時代である。商人階級の台頭とその社会的地位の向上は、都市の形成と発展をもたらし、それを可能にした貨幣経済と流通機構の発達は、農村の自給自足経済を破壊し、農民の貧困と経済の空洞化をもたらした。
 こうして元禄期を頂点に、開発と経済成長は限界点に達し、農業生産は停滞ないし下降の傾向を示す。農業にその経済的基盤を求めてきた武士階級と幕藩体制は、危機的状況を迎えつつあった。八代将軍徳川吉宗の断行した「享保の改革」は、こうした事態にたいする総合的対策であった。しかし、この改革の本質は、農民収奪の強化による財政のたてなおしと、「諸事権現様御掟の通」という復古主義以外のなにものでもなく、なんらの根本的な解決にならなかったのである。
 昌益が生き、考え、憤った時代は、概略このような歴史の流れのなかにあった。つまり、貨幣経済の発展とその定着によってもたらされた経済合理主義による人間疎外、生産力の発展がもたらした余剰生産物の発生による非生産者階級の台頭と成長、その非生産者階級による農民搾取、その結果としての不平等の拡大、農村窮乏化と都市への人口集中など、元禄時代は、繁栄と華やかさの陰に、さまざまな社会的矛盾が顕在化した時代であった。
 こうした近世初期の歴史状況は、近代日本が、無謀で理不尽きわまるアジア諸国への侵略戦争のあと、経済至上主義の名のもとに高度経済成長を達成したものの、その歪みは社会の隅々にあらわれ、人心は荒廃し、自国はもとより、世界各地の自然環境まで破壊し続ける今日の状況を想起させずにはおかない。
 昌益の思想が、つねに現代的意義を失わず、注目を集めている背景には、彼が人間と自然の関係、あるいは人間同士の関係、また、食や性、生や死という人間や社会の根源的問題に深い洞察をおこなっていたからにほかならない。昌益の思想の背景には、このような深刻な社会的矛盾への凝視があったのである。
 江戸時代初期の百年間において、いかに激しい高度成長がおこなわれたかということが、この間の人口急増となってあらわれている。当初1000万人であった日本の人口が、この百年間に3倍の3000万人に急増したのである。その前提として、経済や生産力のすさまじい急成長があったのは当然のことである。
 この時期、大規模な土木技術によって推進された新田開発は、その極に達し、主要な肥料である刈敷を確保することさえ難しくなった。さらに無軌道な開発は、さまざまな自然災害を誘発し、社会的混乱を助長した。ついに1666(寛文6)年、幕府は「山川掟」と呼ばれる開発禁止令を発布するにいたる。
 また、この時期におこなわれた海陸の流通網の開発・整備は、貨幣経済の発達とあいまって、綿花・養蚕・藍・紅花・煙草・菜種などの商品作物の生産や特産地化を促進した。こうした非食農産物の生産増大は、結果的に食料生産の減少や自給自足経済の崩壊を招いた。その結果、飢饉の際に夥しい餓死者を生むと同時に、日常的にも貧富の差を拡大し、農村の疲弊と都市への人口流入をもたらした。
 またこの時期、日本各地で盛んにおこなわれた金銀銅山の開発は、深刻な鉱害を農村部にもたらしている。昌益の生まれた秋田藩は、領内各地に数多くの鉱山をもっていたが、昌益の生まれた二井田村も、近くに大葛金山があり、昌益の在世当時から鉱毒による被害のあったことが知られている。昌益の金銀発掘に対する激しい批判は、こうした二井田村の状況を反映していると指摘する向きもある。
 なお、この時期に確立した蝦夷地(北海道)や琉球(沖縄)にたいする侵略と支配を前提とする日本的華夷秩序は、アイヌや琉球にたいする差別や民族支配、搾取などを生んだ。昌益は、こうした無法にたいして激しく憤り、異民族支配や侵略行為を厳しく弾劾している。
 このように江戸時代初期の百年間は、秀吉がおこなった刀狩りによる兵農分離、石高制の導入と度量衡の統一など、天下統一によって構築された社会経済システムのうえに、家康から綱吉にいたる歴代の将軍によって実現された幕藩体制の確立と支配者間の抗争の終結、鎖国体制の確立などがもたらした国内自給システムが完成した時期であった。
 この時期、それまで各地の土豪や、土豪に隷属していた農民たちが、武士として城下町に居住するか、農民となって村に居住するかの二者択一(兵農分離)をせまられ、農村と都市、農民と武士、生産者と消費者が明確に分けられた。しかも、それまで土豪に隷属していた農民が、夫婦と子どもを単位とする自営農として独立したこと、それまでの谷間や山すその小規模な田畑から、大規模な新田開発によって肥沃な平野部に農地が拡大したこと、この二つがあいまって、農業生産力が飛躍的に増大した。この時期にいたってようやく農民の生活に余裕ができはじめる。一言でいえば、この時代は農民が誕生した時代であった。
 また、中世以来の惣村による自治的伝統を発展させ、日本的な村落共同体による自治組織が確立運営されるようになったのもこの時期である。昌益のいう「邑政」(農村自治組織)も、支配階級による不当な搾取を撤廃すれば、すぐにでも実現するだけの素地が、この時期の農村には存在していたのである。
 結論的にいえば、徳川幕府の成立から昌益誕生にいたる百年間は、社会的・経済的・文化的に大きな激動期であり、昌益が生きた時代は、こうした歴史の転換点に位置し、その矛盾がさまざまなかたちで露呈した時代である。昌益はこの時代にあらわれた自然と人間との矛盾や、人間社会の問題点を総合的に検討し、旧来の伝統教学の一つひとつを俎上にあげ、そのすべてを否定した。そして新たに誕生した独立自営農民の立場にたち、旧来のものにかわる新たな自然・経済・社会・文化観の構築をめざし、自然と人間の統一的な世界観である「自然真営道」を提示したのである。
 しかも昌益に特徴的なのは、たんに新たな思想を提示するにとどまらず、晩年その思想を自ら実践に移したことである。次節ではこの昌益の特異な生涯ついて概観してみたい。

3、安藤昌益の生涯──思想家の生きざま

 昌益の生涯は、発見後百年を迎えた今日でも、そのほとんどの部分が不明のままである。史料的にはっきりと裏付けられているのは、次の二点にすぎない。
 一つは、延享元(1744)年から同3年、昌益42歳から44歳にかけて、陸奥国八戸城下十三日町(現青森県八戸市十三日町)に町医者として居住していたこと。
 もう一つは、宝暦12(1762)年10月14日に、羽後国秋田郡比内二井田村(現秋田県大館市二井田)において死亡したこと。昌益が死に先立つ数年間、二井田村で農民運動を展開し、死後、農民たちから「守農太神」として尊崇されるほどの影響力を持ったこと。
 この二点が史料的に確認されている。前者は八戸藩の記録である「藩庁日記」(20)などから地方史家の野田健次郎が、後者は昌益の没後、門弟たちと寺社権力との間におこった紛争のもようを記録した「掠職手記」(21)などの史料から地方史家の石垣忠吉が発見した。
 そのほか、これらの史料の記述から逆算して生年を確定したり、著作の序文の末尾や書簡の断片などにしるされた年月などの断片的なものに過ぎない。一言でいえば、昌益の生涯についてはほとんど不明といってよい。ここではこうした断片的な記述を年代順にならべ、あわせて先人の努力のあとをたどることによって昌益の生涯の輪郭を描いてみたい。
 狩野亨吉によって稿本『自然真営道』が発見された時点では、稿本『自然真営道』第二十五巻の「良子門人、問答語論」に「良中先生、氏ハ藤原、児屋根百四十三代之統胤ナリ。倭国羽州秋田城都ノ住ナリ」(22)とあり、「確龍堂」という号と「藤原良中」という名、「秋田城都之住」ということしかわからなかった。その後、狩野亨吉が苦心惨憺して『自然真営道』の表紙裏から門人の昌益宛ての書簡の断片を発見し、その記述から、ようやく本名が「安藤昌益」であることが判明した。そして「秋田に生れて医道其他の諸学を研究し、後奥州の八戸に移って医を業としてゐた」(23)ということが、これらの史料から推測されていたにすぎない。戦前の段階においてはここまでであった。
 八戸の地方史家上杉修は、渡辺大濤の『安藤昌益と自然真営道』を読み、戦前の段階で、八戸における昌益の動向や門人について調べていたが、さしたる成果は得られなかった。
 1946(昭和21)年の夏、旧八戸藩主南部家所蔵の「藩庁日記」などの諸史料が上杉修によって買い取られた。これは戦後、華族的特権を失った南部家が、所有する古文書類の買い取りを八戸市に求めたが、財政難を理由に断られ、屑屋に売り払われる寸前、すんでのところで上杉が手に入れたものという。
 1950(昭和25)年1月に刊行されたE・H・ノーマン『忘れられた思想家―安藤昌益のこと』の刊行が投じた波紋は、八戸にもおよび、昌益にたいする地元の関心を高めることになる。この年の春、「藩庁日記」を閲覧していた野田健次郎は、昌益の八戸居住に関する次のような記事を発見した。
 「藩庁日記」の延享元(1744)年8月9日の条の「一、射手病気に就き、御町医安藤昌益、去る六日より療治申し付く」という記録である。これは根城にある櫛引八幡宮に流鏑馬の神事を奉納にきた、かつての八戸領主、遠野南部氏の家臣である三人の射手が病に倒れ、八戸藩が町医者の安藤昌益に治療を命じたというものである。
 さらに、8月15日の記事に「一、八戸弾正殿役者三人、先頃病気にて御町医安藤正益に療治申し付け、快気仕り候に付き、薬礼として金百疋、正益へ差し出し候処、上より仰せ付けられ候儀故、受納仕らぬ由、御奉行に申し出づ」とあり、先の三人の射手が完治し、薬礼を払おうとしたが、昌益は藩からの命令であるからと、その受領を辞退したというのである。
 また、延享2年2月29日の条には、「御町医安藤昌益相談の上、薬用用ひ四、五日以来、少々快方御座候」という記事がある。これは中里清右衛門という八戸藩の家老が、生来の病弱に加えて大病し、以来体調が優れず、五人の医者と二人の座頭の治療を受けていたが、はかばかしくなく、昌益の治療を受けて漸く快方に向かっている、という藩への届け出の一部である。
 他藩の使者の治療を命じられたり、藩主の縁戚でもある重臣から望まれて治療をしたという記事から、昌益の医者としての技量がかなり高く評価されていたことがわかる。
 ところで、宝暦11年から13年にかけての八戸藩の「御用人所日誌」は、「宗旨改組合書上申御帳」の裏紙を利用していたが、このうち、宝暦11年の「御用人所日誌」の裏には、延享3年5月10日の「宗旨改組合書上申御帳」の八戸御町の記載があり、このなかの十三日町の部分に、浄土真宗願栄寺を旦那寺とする、昌益一家の記録が発見された。
昌益はこの年、四十四歳。男2人、女3人の5人家族で、十三日町という八戸城下の中心街の持ち家に居住していた。隣には昌益の弟子である大坂屋中村忠平が、その隣には忠平の兄の大坂屋忠兵衛が住んでいる。よそ者の昌益が、いきなり十三日町という繁華街に持ち家を持つことは困難であるから、昌益の八戸居住には大坂屋一族の経済的支援があったのではないか、という推測がされている。
 さらに1966(昭和41)年に、八戸市立図書館の西村嘉によって、八戸城下の文化人の活動状況が伺える「詩文聞書記」が発見された。この史料は「延享元年春」と表紙に記された八戸城下十六日町にある浄土宗天聖寺住職則誉守西の手になる詩文集である。このなかに確龍堂柳枝軒正信(昌益)の「人のあかほどに吾が身の恥づかしく風呂屋の火たき見るに付けても」という和歌と、昌益が数日間講演をおこない、八戸の文化人たちに深い感銘を与えた旨の記述があった。
 また、宝暦8年7月27日の「藩庁日記」には、昌益の門弟である北田市右衛門が、昌益の息子と推測される安藤周伯に治療してもらったが、また具合が悪くなったので、神山仙庵の治療を受けたことが記されている。
 さらに、宝暦13年2月29日の条には、安藤周伯が母を連れて勉学のため上京したい旨の願いを藩へ届け出、3月1日にそれが許されたという記録がある(24)
 こうした一連の記事から、安藤昌益は少なくとも延享元年以前、四十代のころ、八戸城下十三日町に町医者として生活し、その医者としての技量もかなり高いものであったこと、八戸の武士、商人、神官、僧侶などの知識層にかなりの影響力を持っていたこと、宝暦8年の時点では既に他所に移住していたこと、などが推測できる。
 こうして昌益の生年と壮年期における八戸での生活ぶりが確認されたわけだが、1973(昭和48)年初冬、今度は晩年の昌益の生きざまを物語る史料が大館市の地方史家、石垣忠吉によって発見された。
 大館市史編纂事業のために同市二井田の旧家、一関家所蔵の古文書を調査していた石垣は、その古文書のなかに「石碑銘」なる文書を見い出した。そのなかに「守農太神確龍堂良中先生」という文言を見つけた石垣は、確龍堂良中が安藤昌益の号であることを知っていたが、なぜ昌益に関する文書が二井田にあるのかということがわからなかったという。ところがさらに翌年早春、今度はいわゆる「掠職手記」と呼ばれる文書に出会う。このなかに「当所孫左衛門と申者、安藤昌益目迹ニ御座候処、昌益、午之年十月十四日ニ病死仕候」という文言を見い出した。十数年もの間、二井田小学校に奉職していた石垣は、この文書のなかに出てくる昌益の門弟たちの子孫の家をよく知っていた。一読してその文書の内容を理解した石垣は、雪解けを待って、昌益の眠る温泉寺に調査に出かけた。温泉寺には戊辰戦争の戦火を逃れた過去帳が十冊ほど残されていた。そのなかの14日の条に「昌安久益信士 宝暦十二午拾月 下村 昌益老」とあり、「掠職手記」の記述とぴったりと符合する。さらに「何度直しても本堂に背を向ける」という、いわくつきの昌益の墓碑も確認された。また「孫左衛門の家」という屋号を持つ安藤家に「昔、昌益という名の偉い医者がいた」という言い伝えがあることや、その偉い先祖の名をいただいた「安藤昌益」という跡取り息子までいることがわかったのである。これらをまとめると次のようになる。
 「掠職手記」に「近年昌益当所へ罷出、五年ノ間ニ、家毎ノ、日待・月待・幣白・神事・祭礼等も一切不信心ニテ相止」とあるように、昌益は宝暦8年・56歳ころに八戸から二井田村に移住し、数年で、それまでおこなわれてきた習俗や宗教行事を村ぐるみで廃止するなど、人々に深い思想的影響を与えた。その結果、村人は昌益の死後も、昌益を「守農太神」として尊崇し、「守農太神確龍堂良中先生在霊という石碑を建立した。
 生前から昌益の活動に憤懣やるかたない思いを懐いていた僧侶や神官などの宗教関係者は、昌益の三回忌のあと、昌益の遺族や門人たちに言いがかりをつけ、反撃にでた。この遺族や門人たちと寺社側の騒動の模様を記録したのが「掠職手記」と名付けられた史料である。
 この八戸と大館の史料の記述をまとめると、昌益は1703(元禄16)年に二井田で生まれ、少なくとも1744(延享元年)以前から46(延享3)年にかけて、八戸城下に有能な町医者として居住していた。1752(宝暦2)年に『統道真伝』「糺仏失」を執筆し、宝暦3年にはこれまで発見された唯一の刊本である『自然真営道』を出版。宝暦5年には稿本『自然真営道』第一巻の序文を執筆し、その著作のほとんどの部分を脱稿している。宝暦8年ころに故郷二井田に移住し、活発な農村運動を展開した。やがて村ぐるみで彼の思想の影響を受けることになった。この間、稿本『自然真営道』の総括的役割を担う大序巻を執筆し、業なかばで病を得、宝暦12年10月、60歳でその生涯を終え、死後も「守農太神」として村民から尊崇され、石碑が建立された。
 現在のところ、史料的に裏付けられている生涯の輪郭はこれだけである。このほか、禅寺で修行をしたとか、京都で医学修業をしたなどというさまざまな説がおこなわれているが、いずれも推測の域を出ない。
 これまで、昌益の研究史、昌益の生きた時代、昌益の生涯について概観してきたが、次節では昌益の思想、なかでもその母体となっている自然観について検討してみることにしたい。

4、循環と調和──昌益の自然観

 安藤昌益は、その主著である『自然真営道』の書名が示すように、「自然」をその思想のキーワードにしている。ここではまず昌益における自然とは何かについて検討してみたい。
 昌益は、その思想の集大成ともいうべき稿本『自然真営道』「大序」巻の冒頭で、その自然観を次のように述べている。
 「自然トハ互性・妙道ノ号ナリ。互性トハ何ゾ。曰ク、無始無終ナル土活真ノ自行、小大ニ進退スルナリ。小進木・大進火・小退金・大退水ノ四行ナリ。自リ進退シテ八気互性ナリ。木ハ始メヲ主リテ、ソノ性ハ水ナリ。水ハ終リヲ主リテ、其ノ性ハ木ナリ。故ニ木ハ始メニモ非ズ、水ハ終リニモ非ズ、無始無終ナリ。火ハ動始ヲ主リテ、其ノ性ハ収終シ、金ハ収終ヲ主リテ、其ノ性ハ動始ス。故ニ無始無終ナリ。是レガ妙道ナリ。妙ハ互性ナリ、道ハ互性ノ感ナリ。是レガ土活真ノ自行ニシテ、不教・不習、不増・不減ニ自リ然ルナリ。故ニ是レヲ自然ト謂フ」(25)
 つまり昌益によれば、根源的な存在である土が大小進退の自己運動をおこなって、木・火・金・水の四つの元素になる。さらにこの四つの元素が、相互に転化・作用しあって八気となり、この八気の循環と相互作用によって、宇宙・自然の森羅万象が調和と有機的関係のもとに営まれるとする。
 昌益は万物を生み育て、さらに分解・再生させ万物の存在基盤となる土の作用と、万物の発盛枯蔵をつかさどる春夏秋冬の四季という自然現象から、木火金水の四行を体験的にイメージしたのであろう。
 陰陽五行説に影響され、それに依拠したようにみえる昌益の自然観は、その前近代性と限界とをよく指摘される。しかし、今日の合理主義・科学主義の立場から昌益の自然観をとらえ、批判してみたところでさしたる意味はない。むしろ、昌益がそうした時代的制約のなかで、本来は弁証法的な性格をもっていた陰陽概念をゆがめ、差別の根拠とした支配的イデオローグの作為と欺瞞性を指摘したこと、そして新たに方向性を異にするだけの同等な存在として「進退」という概念を提示するという進歩性をこそ評価しなくてはならないであろう。
 また五行説についても牽強付会な俗説を排し、五行説が本来もっていた唯物論的な性格を回復する。具体的には進退概念をさらに発展させ、互性(万物に内在する相互転化・相互作用)というすぐれて弁証法的な概念を確立する。そしてこの互性概念を五行説に適用し、土に他の四行を統括するより根源的存在としての地位を与えた。五行説を四行説に改変して、弁証法的に再構築したのである。これはたんに数合わせの操作などではなく、極めて重要な質的な改変にほかならない。
 つまり昌益は、当時、荒唐無稽な思弁に堕していた陰陽五行説に、本来の弁証法的・唯物論的な性格を回復・付与させたのである。ここに昌益が思想史上に果たした重要な役割の一つがあることを確認しなければならない。
 さて根源的物質である土活真が、進退・退進の自己運動(昌益は自行・自感という)をして、宇宙(昌益は回日星月と表現する)・転定(=天と海。昌益は天尊地卑に象徴される天地という語句の差別性と固定的な観点に反対し、新たに転定の文字を当ててその対等性と運動性を強調した)・万物が形成され、森羅万象が営まれるとするが、この土活真の生成活動を直耕(後述する「人間の直耕」に対する「転定の直耕」)と呼ぶ。昌益はこれを次のように表現している。
 「(土活真が)転ニ升リ、升降、央土(大地)ニ和合シテ、通・横・逆(通は上から下、横は左右、逆は下から上への運動・作用の方向性を表現する)ヲ決シ、穀・男女・四類・草木、生生ス。是レ活真、無始無終ノ直耕ナリ。故ニ転定、回・日・星・月、八転・八方、通横逆ニ運回スル転定ハ、土活真ノ全体ナリ」(26)
 さて、昌益は「男女ハ小ナレドモ転定ナリ」とか「人ハ自然ノ全体ナリ」というように、転定(大宇宙)に対して、人間を小転定(小宇宙)ととらえている。さらに転定と小転定たる人間は、単に大小の関係にあるだけではなく、相互に作用・規定しあっているとする。転定と小転定は相関関係にあり、転定における土活真とその展開としての四行の作用、つまり転定の直耕(自然のはたらき)は、小転定たる人間の誰もが日常、炉における煮炊きや顔面において目の前に確認できるとする。昌益は次のようにいう。
 「転定ノ八気・互性ノ妙気行(はたらき)ハ、悉ク炉内ニ備ハルナリ。是レ何ノ為ゾ。人、穂莢ノ穀(穀物)ヲ煮テ食ハンガ為ナリ。転下・万国・万家異ナレドモ、炉ノ四行・八気・互性ノ妙用ニ於テ、只一般(まったく同じ)ナリ。此ノ一般ノ炉ニ助ケラル人ナル故ニ、人ノ業ハ直耕(農業)一般、万万人(すべての人)ガ一人ニ尽シ極マルコト、明ラカニ備ハル其ノ証、是レ炉ナリ。……嘆、明ラカナルカナ。活真、人ノ身内ニ備ハル。四府蔵・八気・互性・通横逆ノ妙行スル活真在リテ、自知・自行シテ為ル所ナリ。故ニ家内ノ炉、腹内ノ府蔵、与ニ相同ジ。府蔵ノ八気・互性ノ気行、面部ニ発現ス」(27)
 すべての存在が土活真という根源的存在から生じたとする昌益の一元論は、必然的に万物は等価・同等のものであるという観点を導き出す。昌益はこの本来、等価・同等なものを人為的に差別することを「二別」と名づけきびしく批判する。昌益は次のようにいう。
 「男女ハ万万人ニシテ只一人ナル明証ノ備ハリ、面部ヲ以テ自リ知レテ在リ。面部ノ八門(目耳鼻などの諸器官)ニ於テ二別(差別)無キコトハ、是レハ上ニ貴キ聖王ノ面部トテ、九門・十門ニ備ハル者無ク、是レハ下賤シキ民ノ面部トテ、七門・六門ニ備ハル者無ク、面部ニ大小・長短・円方ノ小異有レドモ、八門ノ備ハリニ於テ、全ク二別有ルコト無シ。是レ人ニ於テ、上下・貴賤ノ二別無キ自然・備極ノ明証ナリ。四行・進退・互性・八気ノ妙道ニ、外無ク内無ク、微シモ二別無キ所以、是レナリ。故ニ、人身ノ尺・心・行(人間の身体・心情・行動)ニ大違無キ所以ナリ。本是レ転定・活真、一体ノ為ル所ナリ」(28)
 こうした顔面や内臓における人間の同一性は、さらに生物としての人間の食行動についても確認される。昌益は人間の食と、食を通じての自然とのかかわりについて次のようにいう。
 「転定・活真、一歳・八節ノ妙行ハ、穀・万物、生成ノ為ナリ。此ノ穀ハ、只人食ノ為ナリ。是レ転定・活真ノ直耕ナリ。此ノ故ニ転定、回・日・星・月ノ八運、八気、通横逆、自行ノ妙道、互性ノ気行ハ、穀・人・四類(鳥獣虫魚=動物)・草木生成スル活真ノ直耕ナリ。……直耕トハ食衣ノ名ナリ。故ニ転定・人・物ハ、食衣ノ一道ニ尽極ス。其ノ外ニ道ト云フコト絶無ナリ。故ニ道トハ直耕・食衣ノコトナリ」(29)
 「食ハ、人・物与ニ其ノ親ニシテ、諸道ノ太本ナリ。故ニ転定・人・物、皆、食ヨリ生ジ食ヲ為ス。故ニ食無キ則ハ、人・物、即チ死ス。食ヲ為ス則ハ、人・物、常ナリ。故ニ人・物ノ食ハ即チ人・物ナリ。故ニ人・物ハ人・物ニ非ズ、食ハ人・物ナリ。分キテ人ハ、米穀ヲ食シテ人トナレバ、人ハ乃チ米穀ナリ。人ハ唯食ノ為ニ人ト成ル迄ナリ。曾テ別用無ク、上下・貴賤、聖(聖人)・釈(釈迦)・衆人(直耕する民衆)ト雖モ、食シテ居ルノミノ用ニシテ、死スレバ本ノ食ト為リ、又生ジテ食スル迄ノ事ナリ。故ニ言語モ、聖・釈モ、説法モ教解モ、鳴クモ吠ユルモ、皆食ハンガ為ナリ。故ニ世界ハ一食道ノミ」(30)
 人間や動物にとって欠かせない食物の獲得が、人間や動物の直耕にほかならない。昌益が人間の直耕、すなわち食物を生産する農業やそれに従事する農民を至尊のものと位置づけるのは当然である。昌益は農民について次のようにいう。
 「(農民は)直耕・直織シテ安食・安衣シ、無欲・無乱・無法ニシテ自然・転定・直業ノ直子ナリ。……転定・万穀生ノ直耕ヲ継ギテ自ラ耕織シテ、即チ転定ノ家督ナリ。故ニ……人倫ノ養父母ナリ」(31)
 「転下ニ君臣・工匠・商家(士・工・商)ノ三民無クシテ、耕農ノ一家スラ行ハルル則ハ、転下ノ人倫微シモ患フル事無シ……耕家無キ則ハ、三民忽チ滅却」(32)
昌益は、こうした食物を得るための直耕のほかに、子孫を残すための男女の交合も直耕と考える。昌益は次のようにいう。
 「夫婦交合ノ道ハ天地・自然・進退ノ感和ニシテ、男女生生無限・活真・自感ノ妙道也」(33)
 「和合ハ夫婦ノ道、生生ノ本ニシテ、万用ヲ逹セシム」(34)
 「人ハ自然真感ノ小転定ニシテ、感和・妻合スルハ乃チ人ノ花咲キ子ヲ結ビ真仏ヲ生ズルナリ。男ハ二八ニシテ自リ知リ、女ハ二七ニシテ自リ知ル。乃チ自然ノ真伝ナリ。……故ニ男女通心シテ子ヲ生ミ、人倫ノ相続ハ転定ノ生生ニ継ギテ、直耕シテ人間常中ス」(35)
 昌益は、個体を維持するための食行動と、種を存続させるための生殖行動を最重要のもの、根源的なものと考えたのである。
 以上をまとめると次のようになる。
 昌益の自然観の特徴は、まず第一に、それが気一元論であるということ。昌益は根源的物質である土活真が、無始無終の自己運動を展開して、宇宙の森罹万象があらわれるとし、これを「転定の直耕」と呼ぶ。転定宇宙のすべての存在は、もとをただせば一気の発現・変化したものが有機的に結合し、構成されたものである。したがって、それらに優劣や差別はないというのが昌益の考え方であり、ここから徹底した平等主義が導き出される。
 第二に、宇宙である大転定に対して人間を小転定ととらえ、農業と男女の交合を人間の直耕としてその思想の根幹に位置づけた。それはいずれも個体と種の維持にとって欠かせないものである。この食と性の重視がラジカルな農本主義と人間観の根拠となっている。
 次節ではこうした特異な自然観を敷衍した昌益の社会思想について見ていくことにしたい。

5、差別と支配の根絶
──昌益の社会思想

 前述したように、昌益は宇宙・万物は土活真という一気の展開したもので、すべての存在は同等・等価なものであるとする。つまり現象として確認されるさまざまな変化や差異は、根源的な一気の発現のしかたの違いであって、本質的なものではないというのである。
 昌益は、この相互に関連・変化する自発的で有機的な関係を「自然」、その自然を前提にした社会を「自然世」と呼んだ。昌益はこの自然世について次のようにいう。
 「自然ノ世ハ転定ト与ニ人業ヲ行フテ、転定ト微シモ異ナルコト無シ……真ニ転定ノ万物生ノ耕道ト、人倫直耕ノ十穀生ズルト与ニ行ハレテ、無始無終ニ転定・人倫一和ナリ。転定モ自リ然ルナリ。人倫モ自リ然ルナリ。故ニ自然ノ世ト云フナリ。……各々耕シテ子ヲ育テ、子壮ンニナリ能ク耕シテ親ヲ養ヒ子ヲ育テ、一人之レヲ為レバ万々人之レヲ為テ、貪リ取ル者無ケレバ貪ラルル者モ無ク、転定モ人倫モ別ツコト無ク、転定生ズレバ人倫耕シ、此ノ外一点ノ私事無シ。是レ自然ノ世ノ有様ナリ」(36)
 「自然ノ人倫ニハ、上モ無ク下モ無ク、王モ無ク民モ無ク、仏モ無ク迷ヒモ無ク、統ベテ無二ナリ」(37)
 つまり自然世においては、転定の運行にしたがって、人間本来の営みである直耕(農業)に励み、自然と一体になって生活し、階級や支配などの不当な差別はないとする。
 一方、こうした自然状態を歪め、差別や支配を正当化する作為を「私制」とか「私法」といい、その私法にもとづく社会を「法世」と呼んで対峙させる。では、自然にしたがって直耕に励み、支配や搾取のない平等な自然世が、不平等な法世に変わったのはどうしてなのか。
 昌益はその原因を「聖人」と呼ばれる支配階級とそのイデオローグに求めている。昌益は次のようにいう。
 「聖人ハ不耕ニシテ、衆人ノ直耕・転業ノ穀ヲ貪食シ、口説ヲ以テ直耕・直職ノ転子ナル衆人ヲ誑カシ、自然ノ転下ヲ盗ミ、上ニ立チテ王ト号ス」(38)
 「(聖人は)転道ヲ盗ンデ衆人ノ直耕ヲ掠メ取リ、私法ノ学術ヲ制シテ、押ヘテ以テ上ニ立チ、不耕貪食ニシテ賁リ衣テ栄曜ヲ為ス」(39)
 「(聖人は)自然ニ背キテ自然ノ転下ヲ掠押シ、自然・転定ノ直耕道ヲ盗ンデ耕サズシテ貪リ食ヒ、自然ニ之レ無キ君臣ヲ立テテ衆人ノ上ニ立チ、王業ヲ始メテ、自然ニ乱ノ名モ無キ直安ノ世ヲ兵乱ノ世ト為シ、后世乱乱ニ止ムコト無シ。是レ自然無事ノ世ヲ大変ノ世ト為ス」(40)
 「聖人ノ教ヒハ、衆人ヲ誑カシ、天下ヲ盗ミ、己レヲ利スルノ大偽ナリ」(41)
そのうえ聖人は、貨幣制度を創始して人間社会を欲望の巷とし、不平等と欺瞞を拡大した。貨幣経済の悪弊について、昌益は次のようにいう。
 「金ヲ掘リ取リ金銀銭ヲ鋳テ天下ノ通用ト為ス、聖人ノ為ス所ニ始マル所ノ者ナリ。是レ乃チ大イニ自然ヲ失ル」(42)
 「金ノ通用成リテ以来、欲心始メテ発リ、万人凡テ金ヲ以テ諸用ヲ弁ジ栄華ヲ欲ス。故ニ欲心盛ンニ妄行ノ世ト為ル」(43)
 「聖人出デテ金ノ通用ヲ始メテ以来、自然ノ人行・心情、反覆シテ利欲ノミニ倒惑」(44)
社会を乱した聖人と並んで、「聖釈」と一括される釈迦をはじめとする宗教者や、支配階級に奉仕する学者たちも「不耕貪食」者として指弾される。昌益は次のようにいう。
 「聖人・釈迦ト云フ者ノ為ルコトヲ省ヨ。嘆切レ果テタル誑衆・迷世・利己ノ戯罪ナリ」(45)
 「釈迦、不耕ニシテ衆ヲ誑カシ、心施ヲ貪リ食フテ、自然・直耕ノ転定ノ真道ヲ盗ム」(46)
 「釈・達(達磨)……直耕者ノ心施ヲ貰イ、之レニ救ハレナガラ……衆生ヲ救フト云フハ、迷妄・顛倒シタル戯言ナリ」(47)
 「仏氏ノ法、末世ニ至リ僧ハ虚偽ニ辛苦シ、衆人ハ僧等ニ誑カサレ迷倒ス。転下ノ邪魔、世界ノ怨、乱世ノ根、之レニ過ギタルハ無シ」(48)
 「字書・学問ハ、不耕貪食シテ転道・転下・国家ヲ盗ムノ根ナリ」(49)
 「字書・学問ハ転道ヲ盗ムノ器具ナリ。真道ハ炉・面ニ備ハルコトヲ知ラズ。故ニ文字・書学ヲ用ユル者ハ、転真ノ大敵ナリ」(50)
 要するに本来、二別(人為的な差別)のない自然を歪め、自然に反する作為(私法・私制)によって支配と搾取を正当化し、制度化した聖人や、こうした支配階級に奉仕し、衆人(民衆)の目を眩ます宗教者や学者などの不耕貪食者の欺瞞を、昌益は徹底的にあばきつくしたのである。昌益は、こうした不耕貪食者の教学や悪行にたいする否定を「破邪顕正」という。昌益は『統道真伝』や稿本『自然真営道』前半の「学問統括ノ部」においてこうした諸学の欺瞞・本質を暴露し、完膚なきまでに攻撃している。
 では自然に反する二別(差別)を前提にした法世を、どうしたら自然世に戻すことができるのか。昌益は「私法盗乱ノ世ニ在リナガラ自然活真ノ世ニ契フ論」において次のようにいう。
 「上下盗乱ノ世ニ在リテ、自然活真ノ世ニ達スル法有リ。……失リノ上下二別ヲ以テ、上下二別ニ非ザル法有リ……上ノ領田ヲ決メ、之レヲ耕サシメ、上ノ一族、之レヲ以テ食衣足ルトスベシ。諸侯、之ニ順ジ……万国凡テ是ノ如クシテ、下、衆人ハ一般直耕スベシ。……税斂ノ法、立テザル故ニ、下、侯・民ヲ掠メ取ルコト無ク……上下在リテ二別無シ。……若シ耕道ニ怠ル侯・民有ル則ハ、之レヲ制シテ耕サシメ、之レヲ上ノ政事ト為ス。……諸国ノ不耕貪食ノ遊民ヲ停止シテ、其レ相応ノ田地ヲ与ヒテ耕サシム。……金銀ノ通用ヲ止ム。……字書・学問……賞罰ノ法ヲ止ム。凡テ悪事ヲ為ス者之レ有ル則ハ、其ノ一族之レヲ捕ヘ、先ズ食ヲ断チテ飢苦ヲ為サシメ、異見ヲ加ヘテ一タビハ之レヲ免シ、飢苦ニ懲リテ再ビ悪事ヲ為サズ、能ク耕ス則ハ可ナリ。若シ弁ヒズ、再ビ悪事ヲ為サバ、一族之レヲ殺ス。……上ハ上ノ領田ヲ耕サシメ、安食衣シテ、只、直耕怠慢ノ者ヲ刑ムル則ハ、下ニ耕ヲ怠ル者出ヅルコト無シ。……此ニ於テ無欲・無盗・無乱・無賊・無悪・無病・無患ニシテ活真ノ世ナリ」(51)
 昌益がいうには、歪められた法世をいきなり二別のない自然世に戻すことは難しい。そこで、とりあえず上下という二別は認め、すべての者に田畑を与えて直耕させる。上と称されるものは、諸侯や衆人が直耕に励んでいるかどうかの監視だけをその役目とする。上をふくむすべての者がそれぞれに必要なものだけを生産して生活する。自給自足が原則であり、支配機構も不要だから税金の徴収はない。また、余剰生産物を売買することもないから、貨幣は不要である。賞罰を規定した法律や生活からかけ離れた学問も必要がないから消滅する。悪事をはたらく者や直耕を怠ける者の処断は一族の者にまかされる。これを邑政(村落自治)という。こうしてすべての人間が直耕に励み、自給自足の生活をすれば、搾取や差別のない自然世と同様の暮らしが実現できるという。
 昌益は、他者から利益を掠め取る商業や、自然を略奪・破壊する鉱工業を否定し、人間にとって必要不可欠な食料を生産し、真の価値を生み出す産業として農業を中心とする第一次産業だけを認めた。昌益は次のようにいう。
 「自然ノ人ハ直耕・直織ニシテ、原野・田畑ノ人ハ穀ヲ出シ、山里ノ人ハ材、薪木ヲ出シ、海浜ノ人ハ諸魚ヲ出シ、薪材、魚塩、米穀互イニ易エ得テ、浜・山・平・里ノ人倫与ニ皆、薪・飯・菜ノ用、不自由ナク安食・安衣ス……金ハ万欲・万悪ノ太本ナリ。之レ出デシヨリ転下黒暗・乱欲・妄悪ノ世ト為ル……故ニ此ノ商道ハ、不耕ニシテ利ヲ巧ラム諸悪ノ始メナリ。(商家は)悉ク無益有害、世ニ無クシテ人用ノ欠ケザル栄用ノ事ノミ業ト為シ、利欲ノミニ泥ミ、人性ヲ知ルコト無」(52)
 昌益は自然を破壊せず、自然と調和する生き方は農林漁業だけであり、それこそが基本であり、他の産業は有害無益であると主張した。
 こうした自然との調和・共存をめざす昌益の思想は、現在の逼迫した環境問題、それを引き起こした近代化論に対するアンチテーゼとして極めて重要な意味をもつ。人間の真の豊かさとは何かが問われている現在、昌益の思想がもつ意味をもう一度、虚心に見つめ直すことが必要なのではなかろうか。
 科学技術の進歩とか経済発展といったところで、所詮は環境を破壊し、自らの首を絞め、墓穴を掘っているだけのことにすぎない。文明の進歩といったところで、南の富を北の人間が収奪し、宝(自然)を奪ってゴミに変えているだけのことである。安藤昌益がいう二別や不耕貪食のスケールが、地球的規模に拡大し、深刻さを増している今日、昌益の思想が現代に問いかけるもの、昌益の思想が現代に持つ意味を、今こそわれわれ一人ひとりが考え直さなければならないのである。
 安藤昌益は、今日のわれわれが直面している環境問題を、早くも250年前に鋭く洞察し、その解答を導き出している。それは昌益のいう「転人一和ノ直耕」すなわち「自然と人間の調和」であり、そしてそれを実現する道は、直耕すなわち農業をおいてないという。「農業ノ道ハ、万国・人倫、自然具足ノ妙道ニシテ、天下ノ太本」(53)と喝破したのである。
 まさに昌益は、農業エコロジーの主導者であり、自然と人間の調和という基本問題に果敢に挑んだ先駆者であった。

〔注〕

安藤昌益の著書名と巻数、「安藤昌益全集」からの引用の所在は以下のように略記した。
稿本『自然真営道』第一巻→稿自1
『統道真伝』糺聖失→統・聖
安藤昌益全集第1巻63ページ→全①63

(1)安藤昌益の主著。101巻93冊。昌益が、その中期から最晩年に執筆したものを弟子の神山仙確が編集したものと推測される。最晩年の著述で絶筆でもあり、最高の思想的到達点である大序巻と、この著作の眼灯とされる第二十五巻「良演哲論巻」を境に、第一巻から第二十四巻までの伝統教学批判にあたる「古書説妄失糺棄分」と、第二十六巻から百巻までの独自の自然哲学や医学論を展開した「本書分」と呼ばれる二つの部分からなる。発見者である狩野亨吉の手もとから、東京帝国大学図書館に移管された直後、関東大震災で焼失。事前に貸し出されていた大序、第一巻から第九巻、第二十四巻「法世物語巻」と第二十五巻「良演哲論巻」の12冊が東京大学総合図書館に現存ずる。他に写本であるが第三十五巻から第三十七巻の「真道人相巻」三巻が慶応大学の三田情報センターに架蔵されている。
(2)渡辺大濤著『安藤昌益と自然真営道』(注4参照)序4ページ。狩野亨吉による昌益発見にまつわる事績は、この「序」に詳しく記されている。
(3)川原衛門著『追跡安藤昌益』178ページ(図書出版社、1979年)。同書によれば「典籍の廃墟」は『改造』大正13年4月号と5月号に掲載されているという。
(4)中期の昌益を代表する著作。糺聖失・糺仏失・人倫巻・禽獣巻・万国巻の4巻5冊からなる。儒教・仏教・道教・神道・医学など伝統教学に対する批判・弾劾の書。
(5)初期の昌益を代表する著作であり、現存する昌益の著作のうちで公刊された唯一の著作。3巻。江戸と京都の版元が合版(共同出版)で出した前刷り本(村上本、後注16参照)と、京都の版元の単独出版である後刷り本(慶応本・天満宮本)の3組が現存する。
(6)岩波講座「世界思潮」3(岩波書店、1928年)所収。この論文は『狩野亨吉遺文集』(岩波書店)、現代日本思想大系第27巻『歴史の思想』(筑摩書房)に再録されている。
(7)木星社書院から刊行されたこの本は、1970年に勁草書房から他の渡辺大濤の2編の論文とともに復刻されている。またその勁草書房版を底本に、鈴木正氏による解説「不死鳥・安藤昌益―1995年」を付した農文協版が1995年に復刻されている。
(8)例えば、三枝博音「安藤昌益の医学」(1937年)、永田広志「安藤昌益の唯物的世界観」(1936年)、鳥井博郎「江戸中期の自然観と安藤昌益の『自然真営道』」(1936年)、堀勇雄「安藤昌益とその学説」(1936年)、丸山真男「昌益と宣長における『作為』の論理の継承」(1941年)などが挙げられよう。
(9)安藤昌益を広く一般に紹介した不朽の名著。前年の1949年、『安藤昌益と日本封建制の解剖』のタイトルで「日本アジア協会紀要」に執筆されたものを、大窪愿二が翻訳したもの。岩波新書の上下2冊本として刊行されたが、後に「ハーバート・ノーマン全集」第3巻『安藤昌益』(岩波書店、1977年)に他の論文2編とともに収録された。
(10)例えば、家永三郎「安藤昌益の思想」(1951年)、平林康之「安藤昌益について」(1953年)、逆井孝仁「安藤昌益の封建制批判とその背景」(1955年)、稲垣良典「安藤昌益と自然法思想」(1957年)、林基「近世後期の時代と人物―安藤昌益を中心として」(1959年)、西尾陽太郎「自然真営道の三巻本と百巻本の関連について」(1959年)、笠井忠「十八世紀日本の唯物論―安藤昌益をめぐって」(1963年)などが挙げられよう。
(11) 「臨床医としての安藤昌益」(「綜合医学」第7巻20号、医学書院)。
(12)関東大震災で焼失した稿本『自然真営道』本書分(注1参照)の医学部分の後人による忠実な写本。失われた安藤昌益医学の全容が確認できる貴重なもの。天・地・人の三巻。この資料は「安藤昌益全集」第15巻(農山漁村文化協会、1986年)に全文が翻刻されている。
(13) 山崎庸男「安藤昌益学派の医書ついて」(「史学雑誌」79編第2号、山川出版社、一九七〇年)。なお安藤昌益の医学を継承したと思われる一連の医学資料は「安藤昌益全集」(農山漁村文化協会)第14、15巻に翻刻収録されている。
(14)後年、村上恭一によって邦訳された。『一八世紀日本の唯物論者 安藤昌益の世界』(雄山閣出版、一九八二年)。
(15) このシンポジウムの記録は、『安藤昌益 日本・中国共同研究』(農山漁村文化協会、1993年)にまとめられている。また、中国でも『安藤昌益・現代・中国』(山東人民出版社、1993年)として公刊されている。
(16)各巻の巻末に「神山仙庵」の捺印があり、巻一の前半部分に墨・朱・薄墨による後人の書き込みがある。巻三に「暦道ノ自然論」と題された暦論(暦批判)があり、この部分が検閲に抵触し、共同出版者である江戸の松葉清兵衛は、この出版から手を引き、実際には市中に流通せずに改版されたと推測されている。後に京都の小川源兵衛が単独で刊行した後刷り本では、この部分が「国々自然の気行論」に改刻されており、実際に公刊されたのは、この後刷り本と考えられる(前注5参照)。
(17) 例えば、尾藤正英「安藤昌益と本居宣長」(1968年)、寺尾五郎『先駆安藤昌益』(1976年)、安永壽延『安藤昌益』(1976年)、三宅正彦「安藤昌益の社会変革論」(1970年)、柳沢南「安藤昌益の数論と気論」(1977年)などが挙げられよう。
(18)「安藤昌益全集」には安藤昌益研究会の編集にかかるもの(全21巻22冊、別巻1、農山漁村文化協会、1982~87年)と、安藤昌益全集刊行会が編集したもの(全10巻、校倉書房、1981年~)の2種類があるが、後者は第1巻刊行後十数年を経るも2巻を刊行するのみで未完。以下、本稿で全集と称するのは前者、すなわち農山漁村文化協会版を指す。
(19) 昌益思想のエコロジー的側面を強調した研究者には、西村嘉、寺尾五郎、安永壽延などがいるが、昌益をわが国のエコロジー思想の源流として日本思想史上に、はっきりと位置づけたのは西村俊一である(『日本エコロジズムの源流―安藤昌益から江渡狄嶺まで』農山漁村文化協会、1992年)。
(20)この史料をはじめ、以下の八戸関係の史料は、すべて「安藤昌益全集」第16巻下に収録されている。
(21) この「掠職手記」と「石碑銘」は、「安藤昌益全集」第14巻に翻刻・現代語訳が収録されている。
(22)稿自25(全①178)。
(23) 『安藤昌益と自然真営道』18ページ。
(24)古方派の医師、山脇東門(山脇東洋の子)の門人帳の宝暦13年の条に「陸奥南部安藤周伯享嘉、同年十二月二十五日江戸に於て国領帯刀取次二十八歳」という記載がある。
(25) 稿自・大序(全①63)。
(26)稿自・大序(全①65)。
(27) 稿自・大序(全①75)。
(28)稿自・大序(全①80)。
(29) 稿自・大序(全①82)。
(30)統・聖(全⑧172)。
(31) 稿自・四(全③208)。
(32)統・聖(全8三三七)。
(33) 真斎謾筆・人(全⑮414)。
(34)統・万(全⑫211)。
(35) 統・仏(全⑨187)。
(36)稿自1(全②98)。
(37) 統・仏(全⑨57)。
(38)統・聖(全⑧108)。
(39) 稿自6(全④141)。
(40)統・人(全⑩305)。
(41) 稿自2(全②339)。
(42)統・聖(全⑧139)。
(43) 統・聖(全⑧141)。
(44)統・聖(全⑧143)。
(45) 稿自3(全②430)。
(46)統・仏(全⑨106)。
(47) 稿自7(全④292)。
(48)統・仏(全⑨89)。
(49) 稿自25(全①280)。
(50)稿自・大序(全①95)。
(51) 稿自25(全①273)。
(52)統・聖(全⑧142)。
(53) 稿自4(全③152)。

No comments: