2020-01-17

韓国における強制動員真相糾明活動の経緯と意義 ―2000年以降を中心に


韓国における強制動員真相糾明活動の経緯と意義
―2000年以降を中心に



1.はじめに//
*          2018年の末から韓日両国の間で生じた亀裂は外交貿易のみならず一般国民のレベルまで広がり、深刻な状況に処している。その根底には相手に対する認識不足があるといえよう。//
*          20181030日、韓国の大法院(日本の最高裁判所にあたる最終審)は太平洋戦争中に日本製鉄大阪製鉄所に動員された韓国人4人が同社を相手に起こした損害賠償訴訟において原告勝訴の判決を下した。その後も同大法院はその他類似した訴訟全てに対して同様な判決を出した。これが韓日関係悪化の原因であるという。しかしそれらの判決は、既に2012524日に同大法院が高等法院(2審)であった同様訴訟の原告敗訴判決に対して「破棄および差し戻し」と命じた判決を最終的に採択したものであった。//
「法治国家」なら自国の最高司法機関が出した判決を無視できない。//
 *韓国でなぜそのような大法院判決が出たのか、その答えは日本とはかなり異なる韓国の現代史にあると言えよう。それらの判決はいきなり突出したものではなく、1980年代末から政治民主化の運動に伴って台頭した「現代史再検討」(いわゆる「過去事清算」)の動きが背景にある。以下では、そのような韓国社会の変化や、その流れに沿って台頭した強制動員被害真相糾明の活動について運動史的方法で検討する。//
 
2.1990年代韓国の「現代史再検討」運動とその結果//
(1)前史//
 * 第2次世界大戦終結後、植民地支配から解放された朝鮮半島では米ソの冷戦対立に影響され二つの政府が樹立される。その結果、19506月から3年間も殺戮と破壊の戦争が起こり、朝鮮半島の分断体制が確定するとともに、当地の住民ほとんどが冷戦対立的な認識に填るようになった。以降三十数年間、その土壌の基で独裁政治が続いた。//
* クーデタによって軍事政権が出現した1961年以降、行き詰っていた韓日両国の外交正常化交渉は進展をみせた。両国政府は19656月に政治的な決着を見出し、一つの基本条約と四つの協定を結んで外交関係を樹立する。その協定らの中で特に争点になったのは「大韓民国と日本国間の財産及び請求権に関する問題の解決と経済協力に関する協定」(以後「請求権問題協定」)であった。//
「請求権問題協定」の締結後、 韓国では19711月に「対日民間請求権申告に関する法律」が公布され、1945815日以前日本の政府および法人に対する債権の申告を受付た。19741221日「対日民間請求権補償に関する法律」によって、死亡被害者に一人当たり30万ウォン、財産被害者に1円当たり 30ウォンずつ支援金を支払った(韓国法制処「国家法令情報センター・ホームページ」)。それに対して太平洋戦争時に日本の軍人・軍属や軍需企業・炭鉱・鉱山などに動員させられた被害者らは不満を持つ。//
*朴正熙政権の独裁体制がピークになっていた1970年代の半ばから政治民主化を要求する動きが徐々に現れる。1979年朴正熙暗殺は民主化への機会でもあったが、政治軍人たちの新たなクーデタによって独裁体制は続く。//
  1980年代半ばに再び立ち上がった民主化運動はやがて全国民レベルまで拡大し、198710月に直接選挙による大統領選びが可能な憲法に改正(その憲法改正によって1992年以降の大統領選挙で民主化運動系列から四人が当選)。 民主化運動の担い手を中心に冷戦対立構図の下で歪められた自国の現代史を見直せねばという認識が広まる。1986年に自国史を被支配民衆を中心に叙述した『韓国民衆史』二巻が初めて発行される。//
戦時強制動員の被害者・遺族たちが1965年「請求権問題協定」に異議を唱え始める。//

(2) 強制動員の被害者・遺族らの補償要求 //
197310月釜山で発足された太平洋戦争遺族会は当初から政府による「補償金」が少なすぎると抗議行動に出た。 1980年代末から民主化運動の高揚に影響される。その遺族会は19901月に「太平洋戦争犠牲者遺族会」に名称変更とともに社団法人となる。同年3月には全国大都市で韓国人の戦後補償を促すデモ行進を展開、同年5月に国会前で「韓国人戦後補償問題の解決を前提しない大統領訪日に反対」という断食闘争を行う(太平洋戦争犠牲者遺族会ホームページ「会の沿革」)。//
19905月に国賓訪日した韓国のノ・テウ大統領が日本政府に戦時期の強制動員関連の名簿提供を要請したのはそのような国内の動きに答えようとしたもの。//

 日本における戦後補償要求訴訟//
1990年以降、太平洋戦争時の総動員体制下で様々な被害にあった韓国人たちのカミングアウットが広がる。被害者たちは日本各地の裁判所で日本の政府や企業を相手に戦後補償要求の訴訟を起こした(日本での訴訟については内海愛子、「戦後補償裁判一覧」、『戦後補償から考える日本とアジア』、日本史リブレット68、山川出版社)。//
* 日本各地の関連活動家たちは、各訴訟において韓国人原告を支援する活動を展開。彼らはその一方、韓国政府の日本政府に対する要請に協力すると共に各地での調査結果を交流する「朝鮮人・中国人強制連行・強制労働を考える全国交流集会」を1990年から1999年まで毎年開催した(金英達・飛田雄一編『1990朝鮮人・中国人強制連行・強制労働資料集』;全国交流集会「世話人会」のホーム・ページ)。//
 * 日本における訴訟の結果:ほとんどが1965年の「請求権問題協定」締結直後に成立させた日本国内法「財産及び請求権に関する問題の解決並びに経済協力に関する日本国と大韓民国との間の協定第二条の実施に伴う大韓民国等の財産権に対する措置に関する法律」(法律第144号)を根拠に棄却された。//

韓国における戦後補償要求訴訟//
1990年代に日本の裁判所で訴訟を起こした原告・弁護士らは日本では勝訴できないと把握し、韓国の法院(裁判所)で希望を託して訴訟を再開する。その最初の試みとして200051日釜山地方法院で日本の最高裁判所で係属中の三菱重工業廣島工場訴訟(韓国人原告5名)と同様の訴訟が提起された。(この訴訟の弁護団には当時釜山市にいた文在寅さんも加わった。)//  2005228日、ソウル地方法院で太平洋戦争時に日本製鉄大阪製鉄所、釜石製鉄所、八幡製鉄所などに動員された韓国人4人が後継法人である新日鉄住金を相手に補償を要求する訴訟を起こす。ほかにも、強制動員被害者やその遺族らによる同様の訴訟が韓国各地の裁判所で展開されることになる。しかし、それらの訴訟は第2審まで日本の裁判所における同様訴訟の判決を援用して原告敗訴となった。 (韓国での訴訟の結果は山本晴多弁護士ホーム・ページを参照)//

(3)法制化に繋がった「現代史再検討」運動//
*韓国の「現代史再検討」運動は、 独裁政権の暴圧により民衆が受けた暴力、死亡および行方不明などの被害を調査して、その真相究明と共に被害者の名誉回復を目指すようになった。活動家たちは各事件の被害者団体と協力して国会における立法活動を行うようになる。//

「現代史再検討」運動関連の法律//
 次の <表1>は上記の趣旨で1990年代から2010年まで韓国国会で成立した法律の中で代表的なものをあげたもの。これらを見ると当時韓国の「現代史再検討」運動の結果がわかる。それらの中には太平洋戦争期の強制動員被害に関するものもある。//
  
<表1> 1990年以降成立した「現代史再検討」運動関連の法律
   
  *最初に成立した法律は1980年光州民主化抗争の被害者に対する補償法であった。その他の事件に関する法律も1990年代の半ばから徐々に成立し、2000年代に入ると堰を切ったように出来上がった。太平洋戦争時の強制動員被害者を調査および支援する法律は1965年「請求権問題協定」では解決にならなかったという認識を基にする。/
 *ほとんど期限付きの特別法であり、それぞれ対象事件の真相調査および被害者名誉回復・補償を目指すもの。1、2、5~8番はすべて軍事独裁の下で起こった民主化抗争運動。4番は解放直後の単独政府樹立に反対する済州島民への武力弾圧事件。3、11、14番は朝鮮戦争時の民間人虐殺事件。10、15、16番は太平洋戦争時の強制動員被害を対象にする。    //
  政府傘下に事件の真相を調査し被害者を選定する「委員会」形態の実務組織をおくように定めている。//

強制動員被害に関する法律//
10番:「日帝強占下強制動員被害真相糾明等に関する特別法 」 //
議員立法を目指して200110月に提出された同法案が20042月にようやく成立する。この法律に基づいて200411月に政府傘下の調査機関として「日帝強占下強制動員被害真相糾明委員会」が設置され、活動を始める。//
15番:「太平洋戦争前後強制動員犠牲者支援法」//
20077月に成立。目的は197412月の「対日民間請求権補償に関する法律」による補償が「十分でなかったことを考慮し人道的な次元で慰労金を支援」すること。成立背景は、20042月に強制動員被害者たちが政府の外交通商部を相手に韓日会談の記録公開を求めて起こした訴訟でソウル行政法院が原告一部勝訴の判決が出て、韓国政府が20058月から関連の外交記録を公開したことにある。  //
16番: 対日抗争期強制動員被害調査及び国外強制動員支援に関する特別法//
10番の特別法による調査機関(委員会)の存続期限は20103月までとなっていたため、2010322 日に被害申告の真相調査や被害者慰労金支給の事務を続ける必要性が認められ、上記の法律が成立・施行される。//


3.強制動員被害真相究明法制定運動と「韓日会談」外交記録公開要求運動//
(1)強制動員被害真相糾明法の制定運動//
  200051日、日本の最高裁判所で係属中の三菱重工業廣島工場訴訟の韓国人原告5名が韓国の釜山地方法院で同様の訴訟を起こす。//
2000 9, 韓国人強制動員被害の真相糾明に関心が多い韓国挺身隊問題対策協議会、民族問題研究所、歴史問題研究所、太平洋戦争犠牲者補償推進協議会(以下「補推協」)などの活動家たちが会同し、従来この問題について韓国の公的機関が一度も真相調査をしたことがないとそ、関連研究者や被害者たちと協力して強制動員の真相を究明する法律を制定する必要性に同意して「日帝強占期強制動員の真相を糾明する会」(以下、「真相糾明の会」)を発足する(補推協 、「日帝強制動員被害者全国大会資料集 -正しい真相糾明のための提案書-」、 国会憲政記念館、2004614)。//
背景:1990年代日本での戦後補償要求訴訟がほとんど敗訴。199911月に米国民主党議員が旧日本軍が中国で行った各種行為に関する記録を収集・公開する内容の「日本帝国政府の情報公開法案」を提出。20006月にドイツの政府と企業が第2次大戦時の強制労働被害者を支援するために100億マルクの基金を運営する「記憶・責任そして未来財団」を設立するとのニュース。//
2001年の4月から5月にかけて「真相究明の会」に数名の国会議員たちが超党的な形で協力を表明するともに、韓国労働組合総連合と「民主化社会のための弁護士会」も合流した。同年926日にあった会合で「真相究明の会」は「日帝強占下強制動員真相糾明等に関する特別法制定推進委員会」(以下、法制定推進委)へと拡大改編すると公表。同年1012日、同名の法案が議員有志らによって韓国国会で正式に提出される(法制定推進委『特別法推進速報』創刊号、2002114)。//

* 特別法制定推進委と強制動員被害者団体は協力して法律制定運動に乗り出す。200224日、法制定推進委は国会の議員会館会議室で関連活動家や研究者を招待して「韓・米・日の連帯公聴会 日帝下強制動員被害真相糾明の行方は」を開催。当日その会場では全国各地の被害者・遺族らによる「特別法制定を目指す『独立軍』発足式」も行われた(法制定推進委『特別法推進速報』第4号、200226)。//
2002727日から83日まで法制定推進委の執行委員会は全国の関連者に特別法制定の支持を促すため「平和を守る全国巡礼」を行い、ソウルをはじめ全国各地を回りながら被害者・遺族に直接会って法制定の必要性を訴えた(『特別法推進速報』第11号、2002819日)。//
200212月の大統領選挙で進歩陣営から蘆ムヒョン氏が選出。特別法制定推進委は翌年20032 17日、議員会館会議室で2003年の法制定運動の方針を確認する「2003年度事業計画報告会」を開催。当日の事業計画報告会では全国各地から来た被害者・遺族たちや日本から「日本製鉄裁判支援委員会」のメンバーたちも参加した中で、「国会対策、マスコミ対策、裁判対策、国民請願運動、出版活動、国際活動」などの運動方針が報告された(『特別法推進速報』第16号、2003217日)。2003年度は20045月の総選挙を控えた最後の会期なので、法制定に総力を注げるという覚悟。このうち「裁判対策」とは国内の地方法院で提訴した関連の訴訟と第2項でみるソウル行政法院での外交記録公開訴訟に関すること。//
   非常策を打ち出す執行委:20037月、法制定推進委の執行委員会は同年8月の「光複節」(解放・政府樹立日)まで強制動員被害者の「国籍放棄運動」を展開する。既に年老いた被害者たちが被害補償要求を代弁してくれない国家の国籍は維持する必要がないという論理。同年秋の国会本会議で特別法案が上程されるるようにと促す。  //
マスコミ対策:法制定推進委は各マスコミに813日まで全国の被害者たちが署名した「国籍放棄書」を青瓦台(大統領府)に伝えると公表(『連合ニュース』2003731日)。813日当日は、特別法制定推進委の執行委員と被害者団体の代表らが青瓦台を訪ねて署名名簿を伝えるとともに、KBSテレビ放送の生番組「市民プロジェクト」に出演して国籍放棄運動まで展開する理由と特別法制定の必要性を訴えた(『OH MY NEWS2003816日)。828日にはKBSテレビのドキュメンタリー番組「追跡60分」のスタッフとともに与野党の政策委員長を電撃訪問をして「強制動員被害真相糾明法」の制定に対する各党の立場を聞きだし、その録画を96日に放送。//
  国会での法案審議着手:20031024日に国会第3会議室で開かれた第9次国会運営委員会で「過去事真相究明に関する特別委員会構成を決議する案」を議論し本会議に上程するか否かを審議する特別委員会を設置すると決める。その特別委員会が同年128日に関連法案7件を具体的に審議するための「法案審査小委員会」を構成すると合意する。同年1216日にその「法案審査小委員会」が「強制動員被害真相糾明特別法」ほか2件を本会議に上程すると決める。(韓国国会 「第243回国会運営委員会会議録」第9, 2003.10.24;「第243回国会過去事真相糾明に関する特別委員会会議録」第5号, 2003.12.
8.;「第244回国会過去事真相糾明に関する特別委員会会議録」第6号, 2003.12.16.)//
  いよいよ2004213日の国会本会議に「強制動員被害真相糾明特別法案」が上程され、その日の午後に圧倒的な賛成を得て特別法は成立した。//

(2)1965年「請求権問題協定」関連の外交記録公開要求運動//
 「請求権問題協定」関連記録の公開要請//
2002617日、 法制定推進委は外交通商部長官(日本の外務大臣に当たる)宛に1965年「請求権問題協定」関連で韓日両国政府が会談した記録を情報公開法に基づき公開せよと要請書を送付。 それに対し、外交通商部は同年628日に 「韓日協定記録の情報公開要請に対する回答」(外交通商部アジア太平洋局、文書番号「아일20320-53102002628日)を法制定推進委に送り、外交文書公開審議会の結果、「国家の安保と利益および私生活侵害」を理由に公開しないと伝えた。しかし 基本的に「外交文書公開に関する規則」によると生産後30年が過ぎた文書は公開することになっていた。//
*同年711日、法制定推進委は「公共機関の情報公開に関する法律」第16条などに依拠して外交通商部長官宛に「韓日協定記録の非公開決定に対する異議申請」(法制定推進委文書「2002-0711-012002711日)を送付した。これに対し、外交通商部は同年88日に「外交文書公開審議会会議録公開要請に対する回答」(外交通商部アジア太平洋局、文書番号「아일20320-5417」、200288日)を 法制定推進委宛てに送り、「韓日関係に悪影響を及ぼす」恐れがあるために「公共機関の情報公開に関する法律」第7条に依拠し公開しないと伝えた。 //
* 法制定推進委は行政訴訟の準備に着手する。そして日本で戦後補償要求訴訟をしていた原告100名を請求人にして, 韓日の「請求権問題協定」に関する記録に限って情報公開を請求する要請書を95日付けに外交通商部長官宛に送付する(被害者および遺族100名、「情報公開請求書」 200295日)。これに対し、外交通商部は923日に請求者代表宛に「情報公開請求関連」(外交通商部アジア太平洋局、文書番号「아일22000-5509」、2002923日)という回答を送付し、「公共機関の情報公開に関する法律」第7条に基づいて公開しないと拒んだ。//

訴訟と結果//
20021011日、 法制定推進委と強制動員被害者100名はソウル行政法院で 韓国外交通商部長官を相手に 情報公開法に基き「日韓会談」文書公開を要求する訴訟を起こす。 当時韓国の当該運動の雰囲気を象徴する出来ことであった。//
2004213日、ソウル行政法院の法廷101号にて以下のような判決が出た。//
判決文の要旨:(2)… 国民の知る権利は憲法上の表現の自由の内容であるとともに、自由民主主義国家で国民の主権を実現する核心となる基本権であり、人間の尊厳と価値および人間らしい生活をする権利と関連がある ・・・(中略)・・・ 上記文書らは請求権協定第 2 条第 1 項により原告たちが日本政府や日本企業に対する個人的な損害賠償請求権が消滅されたか否かを判断する有力な資料になると見られる・・・原告たちが年老いたため彼らの個人請求権があるか否かを判断受ける期間が長くはないし、上記文書らは生産されてから 30 年以上が過ぎたため当時の外交機密が一部含まれたとしてもそれを非公開対象にしてその秘密性を維持しなければならない客観的な必要性が大きく減少したと見るべきである・・・、上記の文書らの公開によって・・・外交関係に多少の不便が生じるとしても韓日の間にある歴史的な特殊性に照らし合わせると、これは国家的に受忍できることと見られる。・・・(ソウル行政法院2004 213日判決;大法院インターネット・サイト「総合法律情報」)//
「国民の知る権利」を優先して原告側の訴えを一部認めた判決。 外交通商部は上告をあきらめて、行政法院の判決に従って該当する外交文書 「19611215日 一般請求権小委員会 第7次会議録」, 「第6次 韓日会談請求権委員会会議録 第1次~11次」などを公開。//
  市民運動により外交記録公開を実現した最初の事例。外交文書開示にともなって韓国政府は「対策班」を立ち上げる。その結果、第2章の <表1>の「太平洋戦争前後強制動員犠牲者支援法」が制定される。//


4.韓国政府傘下の強制動員被害真相糾明委員会の活動//
1)真相糾明委員会の出帆と組織//
*前述してみたように、2004211日に韓国国会で「日帝強占下強制動員被害真相糾明特別法」が成立した。同法は同年35日に法律第7174号として公布、96日に施行されたが、911日には同法の施行に関わる各種事項を定めた施行令(大統領令)が施行された。そして同年1110日には国務総理の傘下で同法の施行機関である「日帝強占下強制動員被害真相糾明委員会」(以下、「真相糾明委員会」)が設立された。同委員会の活動期間は真相調査開始後2年であったが、2年間2回の延長ができるようになっていたので、実質上は6年であった。//
*委員会の構成:大統領が任命する委員長(1名)の下に事務局をおき、行政課と4つの調査業務課が事務局に属した。各種業務を審議・決定する委員会議は委員長ほか8人の委員で構成。//
*委員会の任務:強制動員の被害調査および真相調査、真相調査報告書作成、関連資料の収集と分析、被害者及びその遺族判定、真相調査と被害判定の不能決定、被害者の遺骸発掘と収拾及び返還。//

同委員会の事務局は発足後、関連法律の改正および制定による2回の模様替えがあった。//
20071210日「太平洋戦争前後の国外強制動員犠牲者等支援に関する法律」成立。
 従来の委員会の中に新たに「犠牲者及び遺族判定審査分科委員会」、「障害等級判定分科委員会」、「未収金被害審査分科委員会」を設置し、該当案件の審査をして下記の支援を行う。 強制動員され死亡あるいは行方不明になった被害者の遺族に一人当たり2000万ウォンを、生還した被動員者には一人当たり500万ウォンを慰労金として一括支給するという内容。後に、生還しても障害を負った者には年間医療支援費80万ウォン、 生活対策として毎月の生活支援費7万ウォンを支給すると追加。//
2010322日「対日抗争期強制動員被害調査及び国外強制動員支援に関する特別法」成立//
20042月の特別法による従来の委員会は存続期限が20103月までだった。被害申告の 真相調査や
被害者慰労金支給などの事務を続ける必要があったため20103月に上記の法律が成立・施行。委員会の名称もこの特別法名の通りに変わる( 以下、同様の委員会はすべて「真相糾明委員会」)、事務局も新たに調査審議室と支援審議室という2室構成となって関連の事務を続けた。存続期限は201512月末まで。//

2)被害申告の受付と被害真相調査//
      被害申告の受付と判定//
200521日~630日と2005121日~2006630日に二回にわたり、強制動員被害調査の前提となる国民の被害申告を全国の自治体と 委員会事務局および在外公館で受け付けた。200712月に「太平洋戦争前後の国外強制動員犠牲者等支援に関する法律」が成立してから、200841日~630 日に第3回目の被害申告を受け付けた。合計3回にわたって受け付けた被害申告は合計226583件であった。その内に被害判定ができたのは218639件。<表2>は被害申告の受付結果を被動員類型別に示したものである。これら類型別の申告を個別に調査をして被害の判定を行った。//
<表2> 被害申告受付件数と内訳//

      被害事件の真相調査//
真相糾明委員会は被害申告の内容を判定するとともに、被動員形態別に代表的な事件に対する真相調査を行った。存続期間中に行ったその調査結果をまとめると次の表3、表4のようである。//

<表3> 軍人・軍属動員に関する真相調査//

<表4> 労務動員などに関する真相調査
申請(調査)主題
調査開始
調査完了

      慰労金・支援金の審査および支給//
*慰労金などの申請受付は20089月から20126月まで行われ、計95,487件が受理されたが、途中の法律改正によって201411日から2014630日まで追加の申請を受けつけると計17,421件の新たな申請があった。2回にわたる慰労金申請の総計は112,556件。//  201512月までその112,556件に対する審査を行い、支給決定となったのは全体の64.5%である72,6 31件であった。そのうち、慰労金の支給決定となった類型は「死亡・行方不明」が17,880件、「負傷・障害」13,993件であり、支援金の支給決定となった類型は「未収金支援」16,228件、「医療支援」24,53 0件であった。なお、支給決定の対象外となった件は被害事実が確認できないか、重複申請にあたる場合であった。慰労金・支援金の総額は約6,200億ウォンにのぼる。(対日抗争期強制動員被害調査及び国外強制動員支援委員会『委員会活動結果報告書』(要約本)、6465頁)//


5. 終わりにー今後の展望 //

2012524日、韓国大法院は三菱重工業を被告とする訴訟の下級審判決(20092月の釜山高等法院判決)が「法理の誤解、違法」であると破棄・差し戻しにした。
判決の要点:1965年「請求権問題協定」は「日本の植民地支配の賠償を請求する協議ではなくサンフランシスコ講和条約第4条に基づいて韓日両国間における財政的・民事的な債権・債務関係を政治的合意によって解決するためのもの」であり、「日本の国家権力が関与した反人道的な不法行為や植民地支配とつながる損害賠償請求権が適用対象に含まれたと認め難い」。「完全そして最終的に解決」されたというのは何であるか明確でない。//
  その後、高等法院であった類似した訴訟の再審ではこの差し戻しの判決論理が用いられて原告がすべて勝訴。被告・日本企業らは大法院に上告するが、20181030日以降に出た大法院の最終判決は原告勝訴であった。20125月の大法院判決が画期となったのである。//

人間の価値観やその集合である法制度の解釈は短時間には変わらない。しかし、前述して見たように、 1990年代から韓国では民主化運動の流れをくむ「現代史再検討」の動きや強制動員被害者たちの補償要求が徐々に高揚して、結局は強制動員真相糾明を目指す法律制定運動が展開された。その結果として、政府傘下に真相糾明委員会が設立され、11年間存続しながら活動をした。これら二十数年の間に蓄積された出来事が20125月大法院にて破棄・差し戻しの判決を導いたと考えられる。// 

* 一方、1990年代以降多くの日本市民たちが韓国人強制動員被害者の補償要求訴訟を支援したり、韓国における強制動員真相糾明の活動を支援したことは注目に値する。 1990年代の「朝鮮人・中国人強制連行・強制労働を考える全国交流集会」開催。さらに、200410月に韓国で真相糾明委員会が設立すると全国レベルの「強制動員真相究明全国ネットワーク」を結成して韓国での真相糾明活動に協力した。両国社会はこのような貴重な交流実績に注目し、いっそう活用していくべきであろう。//
* 最近の韓日両国の対立に対する日本社会の反応をみると、非常に冷戦対立的な思考に基づくものが少なくない。が、上記のような韓国の大法院判決で見られる問題意識は、第2次世界大戦後の冷戦対立構図の下で成り立った条約体制を如何に克服するのか、にあると言えよう。旧態依然な批判ばかりするよりも、むしろ一緒にその解決策を模索していく取り組みが必要なのでは。//

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