Hiroshi Matsuura
4 December 2017 ·
*「朝鮮学校の生徒語る『拉致は悪いことだけど、在日が強制連行されたことも忘れてはならない』」
… 週刊金曜日(1/26)より。
朝鮮学校高級部生徒が語る
私たちが朝鮮と日本の架け橋になりたい
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朝鮮総聯傘下で運営される朝鮮学校では日本で生まれ育った在日コリアンの学生たちが日々、朝鮮半島の言語、歴史、文化を学んでいる。「北の脅威」が喧伝されるなか、彼らは日本をそして朝鮮をどう思うのか。朝鮮への修学旅行から帰ったばかりの彼女たちにその思いを直接聞いた。
インタビュー・西野瑠美子
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西野 昨年七月の朝鮮民主主義人民共和国(以下、朝鮮)によるミサイル実験、そして一〇月の核実験宣言以降、在日朝鮮人をめぐる状況が悪化しています。ミサイル実験後、朝鮮学校の生徒たちへの嫌がらせが増えていると聞いていますが。
李明実(リ・ミョンシル) 私たちの学校では民族衣装のチマ・チョゴリが制服です。日本の高校生に「真っ黒、葬式みたい」と言われたこともありますが、そういうことは日常茶飯事。
西野 今もチマ・チョゴリで通学してるの?
鄭順香(チョン・スニャン) 一九九八年のいわゆる「テポドン一号」発射実験後、朝鮮学校の生徒への嫌がらせがエスカレートしたため、九九年四月からブレザーの第二制服が使用されるようになりました。通学の時にはどちらを着てもいいことになっています。
金聖姫(キム・ソンヒ) チョゴリの制服そのものをなくしてしまった朝鮮学校もあります。私の出身の中級部(中学校)もそうです。通学で使う沿線内での事件が頻発したから。でも後輩が全員ブレザーを着ている現実を見るとやっぱり悲しい気持ちになりますね
西野 チマ・チョゴリで通学するのはやっぱり不安?
崔慶実(チェ・キョンシル) 私は家が比較的近いので、チョゴリで通っています。第二制服だと日本の学生と同じになって埋もれてしまうのではないかという危機感もあります。日本の高校生に「朝高こわいよねー」とか根も葉もないことを言われたことがありますが、そういう言葉には絶対に負けたくない。
西野 危ないからという理由でブレザーを選ぶのは抵抗があるの?
金 小学生のとき、近所に住む先輩がランドセルと服を切られた事件がありました。その先輩のお母さんとうちの母が泣きながら話している様子を見てとてもショックでした。その時に恐怖心は今もぬぐえません。母校の壁に「チョン帰れ」といった内容の落書きをされたこともあります。中級部時代の同級生のなかには、電車内でチョゴリを切られたことが原因で日本の学校へ転校してしまった子もいます。そういった事件を目の当たりにしてきたので、私は第二制服で通学しています。
西野 制服一つにも気を張らなくてはいけないというのは本当に息苦しい社会です。それを見逃している社会がここにある。
鄭 保護者のなかにはもう第二制服だけでいいじゃないかと言う人たちもいますよ。
崔 オモニやアボジたちが心配する気持ちはわかるけど、私たちが強く生きたいと自分で思っているのだからそれを尊重してほしい。
李 私は日本に暮らしている以上、嫌がらせを受けるのはある程度仕方ないと思う。日本人と共存していかなくてはいけないけれど、そういった事件が起きるたびに通じ合えないのかなと悲しい気持ちになります。
金 でも日本の人たちに対して嫌なイメージだけをもっているわけではないですよ。朝鮮学校に通う生徒たちが主人公となっている『パッチギ!』という映画では、日本の学校と朝鮮学校の生徒がケンカしているシーンが出てきます。実際、私の父は学生時代に日本の大学生とケンカして鼻を折られたこともあります。映画に出てくる学生たちの「学校を守りたい」という気持ちは見習いたいけど、今はもう「拳で」という時代ではないと思う。最近では朝鮮学校を訪ねてきてくれる日本の高校生たちもいます。チョゴリ事件の話を、涙をポロポロ流しながら聞いてくれた子もいました。そのように気持ちを通わすことができる日本人に出会えると、本当に心強いです。
西野 『パッチギ!』は印象的な作品でした。少し前の時代が舞台ではあるけれども、そこに流れる川は、まったく過去の話ではない。鴨川を日本人の高校生が渡っていく場面からは強烈なメッセージが伝わってきました。朝鮮学校では高級部三年の時に朝鮮へ修学旅行に行くそうですね。皆さんも帰ってきたばかりだと聞きましたが、どうでしたか?
金 朝鮮に行ったのは二回目。初めて行ったときより親近感を感じました。滞在期間の一〇日間は、主体(チュチェ)思想塔や故金日成(キム・イルソン)主席の生家・万景台(マンギョンデ)など平壌(ピョンヤン)市内の観光地を回りました。米国による経済制裁で厳しい状況のなかにあっても、平壌市民は私たちを温かく迎えてくれました。旅行を通して「私のルーツはここにあるのだ」ということを実感しました。
崔 私は一昨日帰ってきたばかりです。平壌のホテルにはフロアことに洗濯や掃除の世話をしてくれる「階(チュン)のオモニ」と呼ばれている方がいるのですが、以前訪問したときと同じオモニだったんです。私のことをちゃんと覚えていてくださってとても嬉しかった。私は朝鮮人だけど日本に住んでいます。日本に住んでいかなければならない。日本がこんな状況だから、自分の祖国についていろいろ考えます。でも、朝鮮にいた一〇日間は、何の疑問も持たずにいられました。それに、同じ世代の学生たちと交流して、当たり前だけど、同じ民族で同じ人間だということを実感しました。
鄭 私は今回の訪問が初めてでした。中国の大連からチャーター便で行ったのですが、本来は万景峰(マンギョンボン)92号に乗って訪朝するはずでした。日本政府によって船の入港が禁止されたため、飛行機で行かなければならなくなったのです。先輩からは、船の中でいろいろ話せて良かったと聞いていたのでとても残念でした。何で自分達は船で行けないのか ... これが、私たちが置かれている現実だと思った。私の外国人登録証の「国籍」欄には「朝鮮」と書かれています。これは「=朝鮮民主主義人民共和国」という意味ではありません。日本と国交がないからです。朝鮮半島が分断されていない植民地時代に日本に渡ってきた人びとの「国籍」欄には解放後すべて「朝鮮半島出身者」という意味で「朝鮮」と書かれましたが、その後、日韓の間で国交が結ばれ「韓国」表記が作られました。そのような記号としての「朝鮮」表記をなぜ維持し続けているのか。そうしたことを朝鮮で深く考えました。朝鮮では十六歳で軍隊に入る人がたくさんいます。日本に住む私としては驚くようなことでしたが、彼らにとって「国を守る」ということは普通のことなのです。かつて、自分の国を守れなかったために植民地にされた。だから絶対に守らなくてはという想いが強いのです。
李 私は八回目でした。向うに親戚がいるので、日本に住んでいる親戚と一緒に訪問したのです。
西野 八回!
李 だから、到着した時にはほかの友達よりかなり冷静でした。「ああ、着いた」みたいな(笑)。
西野 数年前とは大分、平壌市内の様子が変わっていたでしょ?
李 はい。平壌の女性もおしゃれになってきたし、街も華やかになりました。でも、経済状況が厳しいことは変わらない。なのに私たちに寒い思いをさせないようにと電力供給を宿泊先のホテルに優先してくれたようです。
西野 受験勉強で大変な時期に一〇日間も旅行することについて難色を示す生徒はいなかったの?
鄭 なかにはしぶしぶ行った子もいました。でも行くとやっぱり楽しいから、帰ってきてからはみんな「もっといたかった」と言っていました。
李 初期部の頃から朝鮮について聞かされていたので、実際に行って自分の目で見ることによって感じることが多かった。進路についてあまり深く考えていなかった友人も、将来は在日コリアンのためになる職に就きたいと考えるようになった子もいます。
鄭 本人が嫌がるよりも親が反対するケースが多かったです。
西野 反対の理由は?
金 万が一、滞在中に何か起きたら帰って来られなくなると。朝鮮学校には韓国籍や日本籍の生徒もいますが、「国籍」に関係なく親たちは一貫して心配していました。なかには放射能で危ないんじゃないかとか、冗談でなく心配していた親もいたようです。
西野 お母さんたちは社会のなかでいろいろな苦労をしてきたから、心配も多かったのでしょうね。ところで、五月に総聯と民団の和解宣言がありましたが、七月のミサイル実験を理由に民団側が和解を撤回し決裂してしまいました。これについてはどう思いますか?
金 やっと手を取り合えると思っていたのに、本当に残念でした。と同時に、そんなに簡単に決裂していいのかとも思いました。
李 私はそんなにショックではなかった。なぜかというと、これは南北朝鮮が統一しなければ解決できないことだと思うからです。私の家の近所には、姉は総聯、弟は民団の役員をしている姉弟がいます。普段は仲の良い姉弟なんです。それを見てもわかるように在日コリアン一人ひとりの心は問題ないのです。だから、根本的な問題が解ければ、総聯と民団も仲良くなれるはずです。
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西野 決裂したことは残念だけど、将来、変わりうる可能性はあると思いますよ。時代は確実に動いていますから。ところで、日本人拉致問題についてはどう思いますか?
崔 本当に信じられないし、絶対にそんなことはしていけないと思う。
李 拉致は本当にいけないことだと思います。でも正直、被害のことばかり強調する日本の報道には少し違和感を感じます。
金 拉致の事件を聞いて本当にショックでした。私たちは被害者たちの痛みを知らなくてはいけないと思う。でもその一方で、植民地支配下で日本に強制連行された朝鮮人の痛みもちゃんと語ってほしいし、わかってほしいという思いもあります。
西野 日本で朝鮮人として生きることについて、皆さんもいろいろ考えているようですが、在日コリアンのなかには日本に帰化する人もいますね。
崔 自分のアイデンティティを追及するのは、私が在日朝鮮人だからです。私は朝鮮人だから、記号であっても「朝鮮籍」は当たり前です。自分が守らなくて誰が守るのかという気持ちがあります。
鄭 そういう問題を考えると自分のなかには矛盾はたくさんあるし、悩みも多いです。帰化したら楽なんだろうなということは何度も思いました。帰化しても民族的なアイデンティティは十分守れるという人もいます。帰化した後も本名で活躍している在日コリアンが少なくないのも事実です。でも私たちは過去の日本による植民地支配の影響で、ここに住まざるをえなくなった朝鮮人の子孫です。日本の社会全体が過去に向き合っていない今のような状況で日本に同化してしまうのは、筋が違うんじゃないかと思います。
李 在日朝鮮人として生まれたからこそ考えることは本当にたくさんあります。日本で日本人として生まれていたら、こんなにアイデンティティについて悩まなかったと思う。でも、それは良かったと思うけど。在日コリアンたちが日本人に同化されそうになっている現状については、本当に悲しく思っています。そういう状況を食い止める役割を、私たちが果たしていきたい。この学校に通っている友人たちとそういう道を一緒に歩んでいきたいと思っています。
西野 これからどんな社会でありたいと思いますか?
金 私は日本人の学生と交流して学ぶことがありました。不安はあるけど、私たちが日本と朝鮮の架け橋にならなくちゃいけないと思う。日本の報道は相変わらずひどいし差別はあるけど、親世代の強い心は見習いながらも、喧嘩はお父さん、お母さんたちの世代で終わりにしたいです。両国が国交を正常化して関係が改善されたら、お互いを認め合える存在になれると思うのです。そういう時代が早く来てほしい。
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2006年12月12日、朝鮮中高級学校(東京・北区十条)で。
「朝鮮学校」
初級部(小学校)、中級部(中学校)、高級部(高校)と東京にある朝鮮大学校をあわせて、28都道府県に約120の朝鮮学校がある。朝鮮総聯の指導の下にあるが、実際に学んでいる生徒たちや親の所属団体、思想などは問われない。朝鮮籍、韓国籍のほかに日本籍、ダブルの子どももおり、ごく少数ではあるが韓国からの駐在員や中国朝鮮族の子どもたちもいる。授業では朝鮮語が使われ、日本語と英語の科目もある。中級部から女子生徒はチマ・チョゴリの制服を着ることになっているが、通学時の嫌がらせなどが問題となり、ブレザーの第二制服が作られた。
「万景峰(マンギョンボン)92号」
1992年に造られた朝鮮と日本を往来する唯一の貨客船。92年6月に新潟に初入港して以来ほぼ月に2~3回運航されている。新潟港から朝鮮の元山(ウォンサン)市までは片道約32時間ほど。日朝往来の専用貨客船としては71年「万景峰」号、79年「三池淵(サミョン)」に継ぐ3隻目。こういった定期貨客船は当初は在日朝鮮人たちが朝鮮へ帰国するために運航されていたが、現在は短期訪問を目的としている。65年に在日コリアンの再入国許可が認められ、79年から朝鮮への短期訪問が開始された。2004年末まで433回にわたって約19万2000人の同胞、学生が訪朝している。06年7月5日、朝鮮によるミサイル発射実験を理由に日本政府は半年間の日本入港禁止措置を出した。
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