(15) Nobuhiko Utsumi - 私が親から聞かされてきた戦争体験も、 今や私が語り伝えていていかなければ、 誰も話さなくなり、...

Nobuhiko Utsumi
15 hrs ·
私が親から聞かされてきた戦争体験も、
今や私が語り伝えていていかなければ、
誰も話さなくなり、
私が戦争を語る最後の世代になりました。
天皇や元号に「寛容」な40代、50代の人たちは、
それが寛容ではなく、無知だと知るにはもう手遅れなのでしょうか。
2015年7月22日
朝日新聞記事より
『『あと1日戦争が長引いていたら、なかった命だった。1945年8月15日に出撃を命じられたが、終戦を迎えて命拾いした90歳の元特攻隊員が、長い沈黙を破り、自らの体験を若い世代に語り始めている。命が軽く扱われるのが戦争だという意識が、多くの人から薄れてきたと感じるからだ。
埼玉県熊谷市の沖松信夫さん(90)。日中全面戦争のきっかけとなった盧溝橋(ろこうきょう)事件から78年を迎えた今月7日、東京都内の中国大使館に講演者として招かれ、こう語った。
「日本国民として生まれたからには、死にたくないと言えば非国民とみなされた。特攻隊員は、命を惜しんではいけなかった」
「平穏な生活が一番幸せなんだと、特攻を命じられて初めてわかった」
■同期が「戦果」
広島県呉市生まれ。静岡県の浜松陸軍飛行学校で重爆撃機の操縦士になった。終戦の3カ月前、埼玉の熊谷陸軍飛行学校に新設された特攻隊「第262振武隊」隊長に任命された。「怖くはなかったが、お袋が泣くだろうなと思うと眠れなかった」と振り返る。
重爆撃機は8人乗りだったが、800キロ分の爆弾を積むと想定して4人だけ乗り、米艦船に見立てた船に体当たりする感覚を訓練した。同期が特攻として「戦果」を上げたという記事が新聞に載ると、「俺もすぐ行く」と心の中で叫んだ。
8月10日ごろ、上官から15日午後3時に沖縄へ出撃することを命じられた。いよいよ自分の番か。死を覚悟した。「自分の一撃が米軍の本土上陸を遅らせられるなら」と、言い聞かせた。
「明日でこの世ともおさらばだ」と考えながら昼食をとっていた14日、延期の知らせを受けた。理由は伝えられなかった。翌15日、待機を命じられていた民家でラジオから流れる玉音放送を聴いた。死なずにすんだ。
■安堵と怒りと
こんな助かり方があったのか――。でも、喜べなかった。何のために戦争したんだろう。体当たりしていった仲間の命は何だったのだろう。安堵(あんど)と怒りで、ラジオを聴き終えた後も一人、立ったまま泣いた。
どうして日本は戦争に突き進んだのか知りたいと思い、戦後、東京大に進んだ。近代国家としての日本の歩みを学ぶほどに、領土を広げるために武力で近隣諸国を圧迫するやり方は間違っていたと思い知った。
その後、熊谷市の定時制高校で社会科の教員を務めたが、自らの経験は、生徒にも家族にも語ることはほとんどなかった。凄惨(せいさん)な戦場を見ていない自分に何が語れるのか、という気持ちがあった。
■「繰り返さぬ」
話すようになったのは、軍国主義の痛みを知る同世代が減り、命を軽んじる過ちは繰り返さない、との教訓がないがしろにされていると感じたからだ。元軍人がつくり、平和憲法維持を訴える「日中友好8・15の会」の代表幹事も務める。
「戦中は特攻ばかりでなく、死んで当然という考え方がはびこっていた」と沖松さん。「ただ、70年間の日本の平和は仲間が命を捨てて築いたのだ。それを重く受け止めてほしい」と憤る。
2年ほど前から、地元の中学や高校で講演するようになった。「先生に『天皇のために死ね』と言われるのが当たり前だったんだよ。何が正しくて、何が間違っているのかを判断するために、しっかり学んで」と話すと、生徒は真剣なまなざしを向けてくれる。
沖松さんは言う。「あの日生き延びたから今の私はある。命が続く限り、反戦を訴える」』』
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ASAHI.COM
(戦後70年)今だから私は語る 命・平和「重く受け止めて」 元特攻隊員・沖松信夫さん:朝日新聞デジタル
あと1日戦争が長引いていたら、なかった命だった。1945年8月15日に出撃を命じられたが、終戦を迎えて命拾いした90歳の元特攻隊員が、長い沈黙を破り、自らの体験を若い世代に語り始めている。命が軽く扱...
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