2019-09-18

今こそ生きる、戦後60年の加藤周一から後の世代へのメッセージ A message from late Shuichi Kato, 2005

https://www.youtube.com/watch?v=L3Gv2Q0769A

Peace Philosophy Centre: 今こそ生きる、戦後60年の加藤周一から後の世代へのメッセージ A message from late Shuichi Kato, 2005



Tuesday, December 29, 2015

今こそ生きる、戦後60年の加藤周一から後の世代へのメッセージ 

A message from late Shuichi Kato, 2005

日本の敗戦70年が終わろうとしています。10年前聞いて感銘を受けた「知の巨人」加藤周一氏(2008年12月5日没)の、「戦後60年」2005年8月に放送されたラジオインタビューの書き起こしを紹介したいと思います。この日の加藤氏のメッセージは10年後の今、日本が戦争の教訓を忘れ、米国に追従し、再び隣国を憎み、戦争への道を進みつつあるからこそ、そのような潮流を市民の力で止めるために聞くべきものであると思ったからです。
(一部、リスナーからのお便りなどは割愛しています。)


メッセージを抽出すると、

加藤周一 (1919-2008)


南京陥落のときは旗行列ができた。若い人に言う。「旗行列はするな」と。
若者に過去の戦争への「責任」はないが「関係」はある。
戦争は武器を持って戦場に行く人だけではできない。その人たちを支えるイデオロギー、価値観に支えられているからできる。
今も残る戦争の要因を調べないといけない。戦前と戦後の連続性を。そのために歴史を学ぶ。
たとえば南京虐殺の背景の一つに人種差別があるとしたら若者にとっては今もその人種差別が今も生きているかどうか調べることが大事。そのためには勉強すること。
人種差別がまだ生きているのに黙っているのなら消極的に支持しているので結果的に全責任がかかってくる。「関係ありません」じゃ済まされない。
政府はしばしば嘘を吐く。戦争になるとさらに。英語を学ぶのは日本語で書いていないことを暴くため。
ドイツ人がナチの犯罪を認めたように、日本は日本陸軍が中国でやったことを認めるべき。
平和をつくるには個人の精神の自立が大事。大勢に順応するのではなく自分の考えに歴史的事実を突き合わせて自分で考える。



―私の戦後六十年、今日は評論家で戦後日本について様々な角度から考えてこられました、加藤周一さんをご自宅のあります東京世田谷にお訪ねしました。喫茶店の二階で今お話しを伺っております。加藤さんはこのところ精力的に戦争についてまた高校生など若い世代との対話を重ねていらっしゃいますけれども、色んな方が戦争体験っていうのは若い人に伝わらないんじゃないかというふうにおっしゃる方もいらっしゃるんですが、その経験があるかないかということといのはとても大きなものでしょうか。


そうだろうと思いますがね、前に私は読者から論文を募って「私の昭和史」っていう小さなものを作ったんですけどね、昭和っていうのはずいぶん長いわけですよね。戦争は十年でしょう、長く見ても十年戦争。ほとんど九割―あるいは99パーセントかな。戦争の話なんですよ。私の昭和史っていうものを日本人に求めるとね、何を書くかっていうと戦争経験を書くんですよ。割と若い人は、戦争のときはまだ子供だったわけですけれど、子供としての戦争経験を書いて、大人の場合は大人としての戦争経験を書くんです。だから十五年戦争っていうのは日本のその時代を通ってきて、非常に大きな中心的問題なんですよね。で、どう中心であったかというのは人によって違うけど、とにかくほかのあらゆる経験を圧倒するような強い経験であったというのは言えるんじゃないかと思います。


―加藤さんご自身の戦争のご体験というと、東京におられたんですよね?


そうですね。ほとんど…まあ、非常事態のときは信州に疎開しましたけどね。


―そうすると東京大空襲のご体験が?


その時は本郷の東京大学の医学部の附属病院に勤めていたんですよ。ところがね、附属病院にある年齢以上の、老人でもないけどね、相当年齢の進んだ人たちが何人が残ってた。私みたいな若い医者もいたんですが、みんな病人ないし病気あがりとかそういう健康上の障害でいわゆる兵士になれんような人はね、ちょっと残ってたんですよね。普段の三分の一くらいかな、合わせた数は。すごい人手は不足してるわけです。看護婦は全員いたんですけどね。医者は三分の一くらいしかいなくて、そこに大空襲がくるでしょ。近所の人は―まあ大きな病院ですから―病院に来たわけですよね。大学の校内に入って、たちまちベッドがいっぱいになっちゃってね。そこで床に寝かすわけですがたちまち床もいっぱいになっちゃって。だからしょうがないから廊下に一列に寝かして、やっと通れる空間を残して、後の床は全部病人を寝かしていたんですよ。それでも入りきらないっていう状態なんですよね。それを非常に少数の医者がまあできることをしたわけだ。それはほとんど昼夜兼行になりましたね。あのくらい少ししか寝なかったことは我が生涯の中でないですよ。朝から晩まで、もちろん家には帰らないわけですよ。私は病院の中に泊まり込んでましたから。だから朝起きると病院なわけだ。ただちに仕事にかかるわけですから。かろうじて昼食をとるかとらないかという状態で真夜中に達して、でまだ続いて、だから寝る時間はほとんどなくて、ちょっとでもあればねもう頭がくらくらしてきますから。そうしたら三十分か一時間が寝てまた仕事って感じが一週間くらい続いたかな。


―集まってくる方の様子はどんな感じで?


主として火傷ですね。火傷っていうのは体液が染み出しちゃうんですよ。液体が減るから循環血液が濃くなって、ある程度以上減れば血圧が下がって致命的になるわけ。だから何がなんでもどうしてもある程度の血圧を維持するためには輸血しなきゃならない。ところが輸血の血がないわけですよ。だからたちまち使いきっちゃうから、あとはリンゲル液のようなものを作って注射するわけですよ。で、まあ一時は血液の代わりになるわけですがやっぱり血液じゃなきゃ漏れるのが早いんですよ。だから入れてもまたすぐ足りなくなっちゃう、そういうイタチごっこみたいな。


―薬もなくて助けられない状況の人たちをいっぱい目の当たりにしたときに、一人の医者としてはどういう気持ちになるものですか。


どういう気持ちにもならないですよ。こっちも死にもの狂いですから。あんなに働いたことはない。まあ強いて言えば一種の連帯感はあったな、被害者同士の。こちらも全力で、寝てる人たちを、火傷になった人たちも何の罪もないわけで、その人たちをできるだけできれば助けたかったわけですから。そういうことはもっと徹底した形で広島で起こるんですね。広島で爆弾が破裂したときにいたわじゃないですが、医学的調査のために九月になってから行ったんです。もうひどいんですよね。それでも広島の中心部がやられて周辺部の病院が少し残ってて、あるいは病院じゃなくて学校とか郵便局とかでも壊れずに残ってるところがあればそこに患者を入れて。患者は周辺部の人たちですね。それもやはりできるだけのことをするって言っても手が限られてるから、やはり輸血は重大な手段なんですができないんですよね。それでも医者ができるだけのことはしたわけですよね。


―広島を体験した方が、広島では生きたものは何もなかったとおっしゃっていたんですが。


そう。落ちた後の中心部は一か月半経っても生きたものは何もないです。もちろん生きたものは人間、犬、猫だけじゃなくて虫もいないんだよ。夏だけど蚊とか蠅とかもいないんですよ。真夏だけども雑草も生えないんですよ。木は全部葉がないか、黒く焼けちゃってるわけ。


―加藤さんの様々な体験のベースにはやはりそういう東京大空襲、広島で見たものというのは濃く基礎にはあるわけですね。


そうですね。もう一つ今でも私が戦争体験として、私の出発点になったって言っているのは、二人友達が死んでるんですよ。一人は高校のときの同級生。徴兵されて死んじゃったんですね。もう一人は医学部の同級生で、私は医学部を卒業してたら大学病院で学ぶということができたんですが、大部分の健康な医者は皆いきなり軍隊に配属させられて、でそこで戦死しちゃったんです。医者は船に一人ずつ乗せるんですよ。海軍に行ったやつはね、どんなに経験がなくても潜水艦とか駆逐艦とかがあれば一人ずつ乗せるわけ。それから輸送船は輸送船で一人配属されますね。死亡率が非常に高かったな。それが無理だっていうのは当時でも我々はわかっていたんですよ。非常に高い確率で船が沈むということはね。要するにある程度の制海権を持たずに輸送船を出港させること自体がばかげているわけですよね。無意味なることに犠牲にされたので、当然友達を失ったショックを同時に、そういうことを命令した権力に対する極度に強い反発を感じましたね。どうして彼が殺されて、私が殺されなかったのかってことを考えますよね。その理由は全くのくじ引きみたいなものですよね。つまり死は全く不合理なもので、全く理由のないただの残酷な偶然だな。戦争に対して批判的でしたからね。そういう人がだんだん減ってきてほとんど最後のほうは本当に話ができないんです。みんな満州国は日本の生命線だ、今度の戦争は聖戦だと謳っているわけですから。大変な孤立感でしたね。だから私の戦争体験と言えば日本国内で経験したこの孤立感ですね。


話は飛びますが現在の状態でもいろいろ部族闘争とかがあったよね。スンニ派とシーア派なんかの争いがあって、だからそれを止めるために、人の命を救うための人道的介入とかってありますよね。しかし戦争じゃなくても、今でもたとえばアフリカの場合では部族間の衝突で大勢の人が死ぬことがあるけど、しかし今でもマラリヤとかエイズとかの死亡率は非常に高いんですね。そういうことの援助に限らず、まだまだやるべきことは日本に限らず世界にはあるんです。マラリヤで死ぬ人はほっといたのに、部族衝突で死ぬ人がいるという理由でそこに軍事力介入するっていうのはちょっと偽善的なんじゃないかと。マラリヤには治療法も薬もあるんですね。薬を大量に投じればことは済む。伝染経路も蚊だということが分かっています。マラリヤを撲滅しようと思えば可能なんです。もちろんお金も技術者の援助も必要ですよ。しかし戦争にかかる金を考えれば、その金の何分の一かの金を投じれば人が救えると思うんですね。


―私の祖父も南京で戦病死していたという話を後で聞いたんです。戦争に行って戦いで死んだのかなと思っていたんですが、一人苦しい思いをしながら、水がほしいと言いながら、病院で病死をしたと聞いた時、非常に切ない思いをしたんですがそういう方は多かったんですね。


はい。まあこれは第一次大戦でもそうなんですが、直接弾に当たって死ぬという意味での戦死よりも戦病死のほうが遥かに多い。これは日本に限らず国際的にです。大抵の兵士は戦病死しています。それは十分な手当てがなくて、非常に悲惨な状態で、そこに英雄的で勇ましい感じは全然ないんですね。


―実際は輸送船で亡くなったり戦病死をなさったりということが多いわけですから、まあかっこいいものではないということですね。


それはそうですよ。戦争はかっこよくない。全然ね。ただ問題は、戦争は突然起こるんじゃなくて1931年の満州国に始まりまして、1937には盧溝橋事件から上海事変になってそこから南京。戦線が全中国本土の拡大するという形になるわけです。南京に入城したときには南京陥落の旗行列ができました。東京にいたわけですから、それも私の戦争経験の一つです。爆撃だけじゃなくて旗行列も見たんですよ。私とその旗行列の人たちとの唯一の違いはね、私は1937年12月の南京陥落のときに東京が焼け野原になるのは時間の問題だと思っていたことです。ところがその旗行列の人は祝ってるんですから、だからもちろんそうは思ってなかったですよ。1941年12月8日、日本軍がパールハーバーを攻撃したときも旗行列です。それはアメリカの軍艦をたくさん撃沈したから。私は、今はアメリカの軍艦を撃沈してもアメリカを攻撃すれば東京が、日本が滅びるのは時間の問題だと思っていました。それがただ一つの、でも重要な違いだったんですね。今の若い人たちによく聞かれるんですがね、「どういう風に事を進めますか」と。やっぱりね、「旗行列するな」って。今日戦争に勝っても、その結果がどうなるかっていうことをもう少し冷静に見破る能力を養うべきだと思いますね。そして見破れば旗行列はしない。そう言いますね。


~~~~~


―「私の戦後六十年 だからこそあなたに伝えたい言葉」。今日は評論家の加藤周一さんにご自宅があります東京世田谷でお話しを伺っております。加藤さんは精力的に高校生などと対話をしてらっしゃいますが、高校生たちからくる質問はどういうものが多いですか?


間接的にも直接的にも言われますが、「我々には責任がない」というやつですね。私の答えは「その通り」。「君には責任がない」と。十五年戦争の責任はないし、南京虐殺を認めても今の大学生、高校生にその責任はないということは認めるわけですね。しかし責任がないっていうのは関係がないっていうわけじゃない。責任がないっていってもそれは直接的な責任がないっていうわけであって。たとえば中国における非常にたくさんの人の人命の破壊とか、そういう現象がなぜ起こったかと言うと非常に複雑な要因があるんですよ。しかしその要因の一部は無くなった、変わった、だから今はない。だからあなた方には確かに関係がないかもしれない。でも一部は今でもある。それは関係がある。それは識別しなきゃならない。どういう理由は今でも生きていてどういう理由は無くなっているかを区別しなきゃならない。もしも今でもある理由があればそれと戦わなきゃならない。それは義務でね、もし戦わなければ前の戦争の責任が続いてるっていうことになる。だから直接戦場での戦争行為に責任がないけれども、戦争というは武器を持って戦場に行く人だけでは決してできない。その人たちを支えるイデオロギー、価値観が背後にあるから、それに支えられてるからできるんです。故郷を守るとか、祖国は神の国だからとかいろいろありますね。


でそれを検討するには第一にまず歴史だ。歴史を学べ。歴史はは過去のことだから私たちには関係がないというのは粗雑な考え方で、関係あるかないかを調べるのが歴史学だ。たとえばなんだけど、南京虐殺の背景のひとつはね、人種差別かもしれない。そうしたらあなたたちの問題は今その人種差別は生きてるか生きてないかの問題だ。もし生きてるのに黙ってそこに座ってるのであれば関係のないことで座ってるんじゃなくて、関係大ありなことに対して黙ってる。つまり消極的に支持してることになるので結果的に全責任がそこにかかってくることになる。そんなに簡単に逃れられない。「関係ありません」じゃない。関係があるから、どんな関係があるかをはっきりさせなきゃならない。それには勉強する必要がある。


しかし人種差別は一例であってね、それだけじゃないと思いますね。別の見方をすれば戦争は政府とか将軍とかあるいは大学のある種の教授とか、要するに上のほうの偉いひとが決めることでしょと。しかしお偉いさんが決めただけじゃ戦争にはならないんでね、そこを庶民が支持するから戦争になる。そうしない庶民がどういう考え、どういう態度から生まれてくるかを検討しなきゃいけない。戦争の枠はなぜ成り立つのか。誰がそれを作って、だれがそれを支持するのか。それは支持する側の検討が必要になると思うんです。だから「することがない」じゃない。「我々に関係がない」じゃない。関係は大ありだと思いますね。


政府が言うことを支持するというときに、政府はどこの国でもしばしば嘘を吐くんですね。そういうことを念頭に置くべきなんですよ。戦争に関して政府が言うことを、支持する前にそういうことを検討すべきなんです。嘘か本当かね。まずそのための目を養う必要がありますし。必要があれば英語を学んで、英語の新聞を読んだりして。だから英語を学ぶ目的は、買い物に行ったときに流暢な英語で買い物をするためじゃないの。そうじゃなくて日本語で書いてないことがあったときにそれを暴くためには英語の文献が必要な時があるから。それを読むために英語を習わなくちゃ困ると思うんですね。


戦争っていうのは嘘の塊なんですよ。これはもう今まであまり嘘を吐かなかった政府でも嘘を吐くんですね。例はいくらでもありますが、日本で言うならば大本営の発表ですね。開戦になると「敵艦をいくつ撃沈して大勝利だ」って言って軍艦マーチをやってね、ニュースを流すわけですよ。でも嘘なわけですよね。だからそれを聞いてても戦況が分からないわけですよ。負けてる戦争を勝った勝ったと報道するわけですから。それは日本だけではなくて、それほど極端な嘘ではなくてでもね、たとえば連合軍がノルマンディーに上陸するでしょ。記念日があるくらい有名な出来事ですね。司令官はアイゼンハワーですよね。上陸作戦は成功するわけですけども、しかしね、その、『ヘラルド・トリビューン』が第一面の見出しに「ノルマンディー上陸成功」というのが載るわけですよ。しかし死傷者の数は中の記事を読むと書いてあるのね。やっぱり本当はもっと多かった。それはアメリカの練達のジャーナリストから聞いたんだけどね。やっぱりね、それはちょっと小さく書いてたと。ちょっとした嘘ですよね。味方の損害を小さく書いて。本当にはなかなか書かないですよ。


―加藤さんはそういう嘘かどうかを見破る知識というか、癖というか、習慣というか、そういうのはどうやったら若い人は身につくんでしょうか。


それは訓練しなきゃ本当はうまくならない。医者だって病気を治したいという願望と、治るか治らないかというのはまったくの別問題ですよね。つまり治したいという願望に影響されないでこれは治るか治らないかということを考える能力を発展させなきゃしょうがない。戦争でも同じです。客観的に自分の国のいいところも悪いところも見なきゃならない。客観的に過去の事実をはっきり見ることが必要だと思うんですよね。ドイツ人がナチの犯罪について認めたように、日本は辛くても日本陸軍が中国でやったことを認めるべきだと思うな。それが今の日本がどこまで変わったかということを求めているわけですね。その証拠は十分に出ているのかどうか、それは現在の問題だと。歴史意識は大事。


―今の問題であり、これから将来に向かっても日本という国が戦争を起こさないんだということを周りの人は保障がほしいんですよね、きっと。


そうです。事実、日本は例外的だった。六十年間一度も大規模に、正式に戦闘に参加しないで、だれも日本人が自衛隊を含めて死ななかったし、また自衛隊の発砲でほかの国の人を殺していないんです。つまり誰も殺してないし誰も殺されてない。そういう国は非常に稀。そういう意味で戦争は本来は一番核心の部分は殺し合いですから、殺し合いには手助けまでで直接は参加しなかった、それは九条のお陰ですよ。できなかったことを幸いにしてと考える人と、それを不幸にしてできなかったと考える人がまあ二通りあるわけだけども、私も今どちらか正しいかという議論に立ち入るよりも私が言いたいのは、それはよかったと考える人たちはアジアの近隣諸国からまた戦争をやるかもしれないという疑いをかけられることはなく先に進めると思うんですよ。しかし不幸にして日本人は戦いに参加できなかったという考え方の人は、もし上手くやればもう一遍戦争ができるようにするでしょ。それをしたら日本人は絶対にもう一度武器をとってくることはないという保証はどこにあるんだと、彼らが疑うのは仕方がないと、それを覚悟しなきゃならない。覚悟をしないでそういう風に考える人は不用意だと思うんです。そう考える以上は覚悟しなきゃならないのは、その代わり近隣諸国の人たちが日本人がもういっぺん動くかもしれないという疑いを持つことは避けられない。それを覚悟しなきゃならない。必ずしもそうなるとは限りませんよ。だから日本人がもう一度戦争するとは言えないけれど、ただ周りの国の人たちがそういう可能性を想定するのは仕方がないと思いますね。


―先ほど若い人たちも責任はないかもしれないけど関係がないんじゃないだよとおっしゃいましたが、今の若い世代に加藤さんから何かメッセージありませんでしょうか。


そうですね。前の世代から渡された、近代日本の日本人全体の共同責任ってものがあるんでね。それはその中に持続している面がたくさんあって、そんなに戦前と戦後で全く切れてるんじゃない。その切れたと思うことはまず第一に錯覚ですね。その錯覚と幻想を破ってね、現実を直視するべきだと。それは歴史を学ぶということなんで。不幸を生み出した条件が、過去に存在した条件の中で、今もある条件がたくさんあるんですね。それを段々に潰していくよりしょうがないですね。そういうことを具体的に行っていくことが非常に必要なことだと思いますね。そうでなければ本当の友好関係は作れない。ただ、日本の連続性をわたしは弁護しないし、だから周りの国が認めてくれというわけでもなくて、そういう弁解はしませんがね、ただ日本国が戦後に移っていくときね、占領下でしょ。で占領下でもっていきなりね、同時に冷戦下なんですよ。そして米国の占領政策は占領したときにもあれだけ犠牲を払ってやった戦争ですから日本ともう一回戦争をしたくないと、だから武装解除、そして戦争能力のはく奪、この二点は徹底してるわけですね、この憲法は。


日本人も戦争が嫌になってたからそれを受け入れたと思います。でも日本人が喜んで受け入れたかそうでないかは別にして、ただ客観的にあれは占領軍にとって日本の武装解除を進めるためのものですよね。ただそこに冷戦が被ったために急に占領政策が変わるわけですよ。で日本の武装解除が第一とか国家神道的イデオロギーに関して急に寛大になるわけ。高級官僚を巣鴨で解放するのはそういうこと。そういう解放をして、日本の経済を早く建て直して、冷戦で対ソビエト包囲網の一環として日本をもういっぺん再現すると。武装解除のむしろ逆なわけだから。警察予備隊も日本側が求めたんではなく、アメリカ側が強制したんですね。それに日本人は乗った。対日理事会の中で日本の戦争責任をもっと厳しく追及する予定を考えるのがソ連にありましたし中国にありましたしオーストラリアにありましたし、色んなところにあったんですよ。それは米国が全力を上げて抑えて、理事会を引っ張って、対日政策を今の線にやったわけ。その中では日本の自由度はある程度ありますよ。しかし占領下ですからね、占領軍が方針を変えたらしょうがないわけですよ。それが妙に連続性が強くなりすぎた、だからすべての責任があいまいになっちゃった。


―最後に21世紀に生きる若い人たちに、「ここから始めたらどうだ」「ここが突破口で平和な国を作るためにはこれが大事だ」ということを一言お願いします。


まあ、これだけの難しい時代を通り過ぎてきた経験っていうものから何も学ばないのはもったいない話だよね。学ぶとすれば個人の精神の独立だな。


―個人の精神の独立。


だから人の言うこと。大勢がどっちに並んでるかっていうことを見てね、いつもその大勢に順応するんじゃなくて、自分の考えを個々に歴史に関して歴史的事実を突き合わせて自分で考える。過去のことに限らず将来の生き方でも現在の状態でも、人の言うことじゃなくて、先生がこういったからとかじゃなくてね、ましてや加藤周一がこう言ったからって絶対に信じないで。それは全部間違っているかもしれない。自分で検討したり拒否したりできるようになることだな。明治維新のころね、福沢諭吉が「一身独立して一国独立す」って言ったんですね。だから人が言ったことを、官僚が、将軍が、政府が言ったことに「はいはい」とただ信じてるんじゃなくて、独立して検討して拒否することは拒否する、受け入れるものは受け入れる、その精神の独立が大事ですよね。それは口に出して言える場合と言えない場合、色んな状況がありますしそれもまた社会によって違うと思いますが、ですが考えてないことは言えないからね。まず第一に独立の考えを持たなければ独立の言葉は出てこないわけですから。まず精神が独立すること。そういう個人が出てこない限り一国の独立ってこともないでしょう。結局属国に終わるということだと思います。属国に終わりたくなければ個人がね、人の言うことだからって顔色を窺ってなくてね、自分の考えをはっきりと持つこと。それとできればそれを言うこと。なぜなら使わない自由はないのと同じ。


(終)







投稿者 Peace Philosopher 時刻: 4:04 am
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ラベル: Article 9, Healing and Reconciliation in Asia, In Japanese 日本語投稿, Kato Shuichi 加藤周一

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