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Kaoru Manabe
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日本人が忘れてはいけない「7・23」
忘れてはいけないというより、そもそも何の日か知らない人がほとんどなので、なんとかして広めたいと思っている日である。
今から120年前の1894年7月23日未明、日本軍は朝鮮王宮に押し入り、国王を「擒(とりこ)」にした。これが日清戦争で日本軍が起こした最初の作戦行動である。
そもそも日清戦争の「宣戦の詔書」には、清国の内政干渉を排除するためとか、東洋平和のためにとか書いてあるが、実際に最初に日本軍がやったことは、戦争の大義名分を得るために、朝鮮国王の身柄を拘束して、日本軍に清国と戦うよう依頼させるのが目的であった。この極秘の作戦行動は徹底的に隠蔽され、「公刊戦史」からは抹消された。
また、日清戦争で最も多くの戦死者を出したのは朝鮮だったことも知られていない。もともと、清国と日本が朝鮮に出兵したきっかけは、朝鮮国内で起こった大規模な民衆の武装蜂起(第一次東学農民戦争)だった。しかし、日清両国の軍事衝突を避けるため、東学の指導者たちは朝鮮政府と和睦して兵を引き上げた(全州和約)。
ところが、前述の日本軍による朝鮮王宮占領事件以降、侵入してきた日本軍と戦う抗日闘争が全土に広がった(第二次東学農民戦争)。
この事態に対して、大本営は現地部隊に「ことごとく殺戮すべし」という殲滅命令を出し、さらに増援部隊を送って、東学農民軍を半島南西部の珍島まで追い詰めて虐殺した。数万人の朝鮮人が殺されたと言われている。これが日本軍最初のジェノサイド作戦である。
この殲滅作戦に参加した部隊でたった一人、戦死者が出たが、その戦死者も『靖国神社忠魂史』では清国軍と戦って戦死したと改ざんされている。
これほどの虐殺作戦を参謀本部は公刊戦史では3頁分しか叙述していない。
さらに、翌95年10月8日、今度は三浦梧楼公使と参謀本部の指揮の下、日本軍の京城守備隊と日本人壮士が朝鮮王宮(景福宮)に押し入り、国王の后である王后閔氏(日本では「閔妃」の名で知られている。諡号「明成皇后」)を惨殺、遺体を焼き捨てるという、凶悪事件を引き起こした。
朝鮮王宮占領事件や王妃殺害事件は、日本に置き換えると、江戸城(皇居)に侵入して、天皇を監禁、皇后を殺害するのと同じことである。
このことをほとんどの日本人は知らない。
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