2023-10-25

이노우에 테츠지로 - 위키백과, 井上哲次郎, Inoue Tetsujirō

이노우에 테츠지로 - 위키백과, 우리 모두의 백과사전

이노우에 테츠지로

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이노우에 테츠지로(일본어井上いのうえ 哲次郎てつじろう1856년 2월 1일(안정 2년 12월 25일)-1944년(소화 19년12월 7일)는 일본의 철학자시인이다. 는 손헌(巽軒). 형이상(形而上, Metaphysical)이라는 한역어의 고안자이며, 기독교를 일본의 국체와 양립할 수 없는 것으로 파악하고 기독교도는 국가에 불충한 것이라고 공격했다.

치쿠젠국 태생. 서양철학을 일본에 소개하여 제국대학에서 일본인 최초의 철학 교수가 되었다. 또한 동양철학 연구의 개척자이기도 하며,[1][2] 정치적 이데올로그였고, 신체시 운동의 선구자이기도 하다. 대동문화학원 제2대 총장 등을 역임했다.

치쿠젠국 다자이후에서 의사 후나코시 토시타츠(船越俊達)의 3남으로 태어났다. 메이지 원년 하카타에서 영어를 배우고 1871년 나가사키의 영학숙 광운관에 입학. 1875년 동경개성학교에 입학. 1877년 동경대학에 입학해 철학과 정치학을 전공했다. 1880년 졸업, 졸업식 학생대표를 맡았다. 이후 문부성 어용괘(御用掛)가 되어 『동양철학사』를 편찬하기 시작했다.

1882년 동경대 조교수. 동년 토야마 마사카즈야타베 료키치와 『신체시초』를 간행했다. 1884년 독일 유학(하이델베르크 대학교라이프치히 대학교베를린 대학교),[3] 1890년 귀국해 동경제국대학 문학과 교수가 되었다. 1891년 박사학위를 받고 1895년 동경학사회원(제국학사원의 전신) 회원으로 임명되었다. 1898년 동경제대 문과대 학장이 되었고 1923년 퇴직했다. 1924년 10월부터 1925년 11월까지 초대 귀족원 제국학사원회원의원을 지냈다. 1925년에는 대동문화학원 제2대 총장에 취임했다.

하라 탄잔에게서 배운 불교에서 힌트를 얻어 이노우에 엔료 등과 함께 원융실재론을 제창했다.[4]

국가주의의 입장에서 종교에 대한 국가의 우월성을 주장했다. 기독교도 우치무라 칸조가 교육칙어 봉독식에서 천황 친필 서명에 절하지 않은 불경사건 당시 기독교를 격렬히 비난하고 우에무라 마사히사와 논쟁했다. 그 밖에도 체제 측의 이데올로그로서 메이지 정부의 도덕주의 사상계의 칼잡이 대장 노릇을 했다. 그러나 국민도덕으로서의 교육칙어에 한계를 느끼고 세계도덕을 설파하기에 이르렀으며, 원융실재론을 원용하여 국민도덕과 세계도덕의 모순을 해소하고자 했다.

1927년 『우리 국체와 국민도덕』[5]에서 “삼종신기 가운데 검과 거울은 없어졌고, 지금 남아있는 것은 모조품”이라고 썼다가 토야마 미츠루 등 국가주의자들에게 불경이라고 비판받아 책은 발매금지 처분되고 공직을 사직했다.

각주[편집]

  1.  今西順吉 (2001). “井上哲次郎の開拓者的意義”. 《印度學佛教學研究》 (日本印度学仏教学会) 49 (2): 526–532. doi:10.4259/ibk.49.526ISSN 0019-4344NAID 130004027246. 다음 글자 무시됨: ‘和書’ (도움말)
  2.  桑兵(著), 村上衛(訳) (2013), “近代「中国哲学」の起源”, 《近代東アジアにおける翻訳概念の展開 京都大学人文科学研究所附属現代中国研究センター研究報告》 (京都大学人文科学研究所附属現代中国研究センター): 151 다음 글자 무시됨: ‘和書’ (도움말)
  3.  留学生時代自著『懐旧録』 (春秋社松柏館, 1943)p296-319
  4.  井上克人 (2014년 mar월). “明治期アカデミー哲学とその系譜 : 本体的一元論と有機体の哲学”. 《国際哲学研究》 (東洋大学国際哲学研究センター) (3): 81–94(p.84). doi:10.34428/00006689ISSN 2186-8581NAID 120005448534. 다음 글자 무시됨: ‘和書’ (도움말);
  5.  NDLJP:752684

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井上哲次郎

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
井上 哲次郎
人物情報
生誕1856年2月1日
安政2年12月25日
筑前国御笠郡太宰府
(現・福岡県太宰府市
死没1944年12月7日(88歳没)
東京都小石川区表町
(現・文京区小石川
国籍日本の旗 日本
出身校東京大学文学部
学問
研究分野哲学
研究機関東京帝国大学文科大学
大東文化学院
学位文学博士(日本・1891年)
称号東京帝国大学名誉教授(1923年)
特筆すべき概念現象即実在論
主要な作品哲学字彙』(共編・1881年)
新体詩抄』(共編・1882年)
『教育ト宗教ノ衝突』(1893年)
『日本陽明学派之哲学』(1900年)
『国民道徳概論』(1912年)
学会帝国学士院
哲学会
国際仏教協会
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井上 哲次郎

選挙区帝国学士院会員議員
在任期間1925年10月10日 - 1926年11月16日[1]
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井上 哲次郎(いのうえ てつじろう、1856年2月1日安政2年12月25日) - 1944年昭和19年)12月7日)は、明治時代日本哲学者詩人。号は巽軒(そんけん)。通称「井の哲(イノテツ)」[2]

西洋哲学を日本に紹介し、東京大学で日本人初の哲学の教授となった。また東洋哲学研究の開拓者でもあり[3][4]、保守派・体制派のイデオローグでもあり、新体詩運動の先駆者でもある。大東文化学院第2代総長、貴族院議員なども務めた。

生涯[編集]

旧姓・船越。筑前太宰府(現在の福岡県太宰府市)に医師船越俊達の三男として生まれる。少年時代、地元の儒者に四書五経を学ぶ[5]明治元年博多に出て英語を学び、1871年に長崎の英学塾広運館に入学。1875年、東京開成学校に入学。

1877年、東京大学に入学、哲学及び政治学を専攻。フェノロサ中村正直横山由清原坦山らに学ぶ[5]。1880年、卒業(生徒総代として答辞を述べた)。文部省御用掛になり、「東洋哲学史」を編纂し始める。

1882年東京大学助教授。同年外山正一矢田部良吉と『新体詩抄』を刊行。1884年ドイツに留学(ハイデルベルク大学及びライプツィヒ大学ベルリン大学[6]テーヌルナンスペンサーミュラーらを訪問し[5]、とくにフィッシャーエルトマンヴントツェラーに学ぶ[7]。1890年帰国、帝国大学文学部哲学科教授。1891年博士授与(森林太郎北里柴三郎仙石貢などを含め総員69名)。1895年、東京学士会院会員に任命された(のち帝国学士院会員)。1898年東京帝国大学文科大学学長。1923年退官、東洋大学教授。1924年10月から1925年11月まで、初代の貴族院帝国学士院会員議員を務めた。1925年には、大東文化学院総長(第2代)に就任した。

1927年、『我が国体と国民道徳』[8]で、「三種の神器のうち剣と鏡は失われており、残っているのは模造である」とした部分が、頭山満ら他の国家主義者から不敬だと批判され、発禁処分となって公職を辞職。

1944年、小石川の自宅にて没する[5]。自宅は太平洋戦争の空襲で焼失したが、書庫だった土蔵が史跡「井上哲次郎旧居跡」として現存する[9]。墓は雑司ヶ谷霊園にある[5]

思想[編集]

形而上」(Metaphysical) などの漢訳語の考案者でもある。1881年初版の学術用語集哲学字彙』では主編者を務めている[10]

師の原坦山から学んだ仏教にヒントを得て、現象即実在論(円融実在論)を井上円了らとともに提唱した[11]

国家主義の立場から宗教に対する国家の優越を主張した。キリスト教徒内村鑑三教育勅語奉読式において天皇親筆の署名に対して最敬礼しなかった不敬事件に際しては、キリスト教を激しく非難し、植村正久と論争した。また他にも、戦陣訓に関与するなど、体制側のイデオローグとして政府の道徳主義の思想界における切り込み隊長となった。しかしながら、国民道徳としての教育勅語には限界を覚え、世界道徳を説くに至り、現象即実在論を援用して、国民道徳と世界道徳との矛盾を解消しようとした。

[編集]

新体詩抄[編集]

外山正一矢田部良吉と刊行した『新体詩抄』は、新体詩運動の先駆けとなった。

孝女白菊詩[編集]

井上の漢詩『孝女白菊詩』は、狩りにいって行方不明になった父を慕う孝女を詠った詩である。これは、西南戦争の済んで間もない1880年から1881年頃、井上がドイツ留学をはばまれ憤懣やるかたなく、空想のおもむくままに書いたフィクションの詩であり、1884年(明治17年)発行の「巽軒詩抄(金編)」に採録されている。

これに刺激を受け、落合直文が『孝女白菊の歌』を作り、全国的に感涙を呼んだ。独訳英訳もされた[5]。現地の阿蘇には碑や墓などが、関係ない処に作られている[12]

井上は、ドイツ留学時代にゲオルク・フォン・デア・ガーベレンツ宅で知り合ったカール・フローレンツにも『孝女白菊詩』の解説をした[6]。フローレンツは井上の勧めで来日して東京帝国大学のドイツ語教師となり[6]、ドイツにおける日本学研究者としても活躍した[13]

親族[編集]

  • 吉田熊次 - 長女の夫。教育学者、倫理学者。東京帝国大学教授。

栄典・授章・授賞[編集]

井上哲次郎
位階
勲章等

著作[編集]

全集など[編集]

単著書[編集]

共著書[編集]

  • 新体詩抄 初編』 外山正一矢田部良吉仝撰、井上哲次郎ほか、1882年8月
    • 新体詩抄 初編』 外山正一、矢田部良吉仝撰、井上哲次郎ほか、1884年12月再版
    • 吉野作造編輯代表 『明治文化全集 第十二巻 文学芸術篇』 日本評論社、1928年10月 / 明治文化研究会編 『明治文化全集 第二十巻 文学芸術篇』 日本評論社、1967年11月 / 明治文化研究会編 『明治文化全集 第十三巻 文学芸術篇』 日本評論社、1992年10月、ISBN 4535042535
    • 山宮允編 『日本現代詩大系 第1巻 創成期』 河出書房、1950年9月 / 河出書房新社、1974年9月
    • 新体詩抄 初編』 外山正一、矢田部良吉仝撰、世界文庫〈近代文芸資料復刻叢書〉、1961年4月
    • 長谷川泉著 『私たちの日本古典文学 25 文明開化』 さ・え・ら書房、1963年12月 / 長谷川泉著『日本の古典文学 20 文明開化』 さ・え・ら書房、1975年5月、ISBN 4378016206
    • 『新体詩抄 初編』 外山正一、矢田部良吉仝撰、日本近代文学館〈特選 名著複刻全集近代文学館〉、1971年7月
    • 森亮ほか注釈 『日本近代文学大系 52 明治大正訳詩集』 角川書店、1971年8月、ISBN 4045720529
    • 矢野峰人編 『明治文学全集 60 明治詩人集1』 筑摩書房、1972年12月、ISBN 4480103600
    • 『新体詩抄 初版・再版』 外山正一ほか著、国文学研究資料館〈リプリント日本近代文学〉、2009年3月、ISBN 9784256901618
  • 外国語研究要論』 礒部弥一郎編輯、磯辺弥一郎、1891年9月
  • 増訂 釈迦牟尼伝』 堀謙徳合著、前川文栄閣、1911年4月
  • 釈迦牟尼小伝』 堀謙徳合著、前川文栄閣、1911年9月
  • 『修身科講義録』 穂積八束、吉田熊次共述、東京府内務部学務課、1911年9月
    • 『修身科講義録』 東京府内務部学務課編、大空社〈日本教育史基本文献・史料叢書〉、1991年4月、ISBN 4872366050
  • 我国体観念』 黒板勝美共述、陸軍士官学校高等官集会所〈陸軍士官学校本科生徒課外講演〉、1925年11月
  • 『戦陣訓本義』 中山久四郎共著、広文堂書店、1941年6月

訳書[編集]

編書[編集]

  • 哲学字彙 附清国音符』 東京大学三学部、1881年4月
  • 増訂 英華字典』 羅布存徳原著、藤本次郎右衛門、1884年7月
  • 哲学叢書』 集文閣ほか、1900年10月第一巻第一集 / 1900年11月第一巻第二集 / 1901年1月第一巻第三集
  • 日本倫理彙編』 蟹江義丸共編、育成会、1901年5月王陽明の部(上) / 1901年8月陽明学派の部(中) / 1901年11月陽明学派の部(下) / 1902年5月古学派の部(上) / 1901年12月古学派の部(中) / 1902年6月古学派の部(下) / 1902年6月朱子学派の部(上) / 1902年10月朱子学派の部(下) / 1903年1月折衷学派の部 / 1903年6月独立学派の部
    • 『日本倫理彙編』 蟹江義丸共編、臨川書店、1970年1月-1970年3月(全10巻)
  • 武士道叢書』 有馬祐政共編、博文館、1905年3月上巻 / 1905年6月中巻 / 1905年12月下巻
  • ABCびき日本辞典』 三省堂、1917年6月
  • 『日本陽明学』 蟹江義丸共編、大鐙閣、1922年6月上巻・中巻・下巻
  • 『武士道集』 春陽堂〈大日本文庫〉、1934年12月上巻 / 大日本文庫刊行会〈大日本文庫〉、1940年12月中巻

脚注[編集]

  1. ^ 『官報』第4271号、大正15年11月17日。
  2. ^ 杉山亮「明治期における儒教言説に関する一考察 : 井上哲次郎『儒学三部作』について(1)」『法学会雑誌』58 (1)、首都大学東京都市教養学部法学系、2017年。CRID 1050001338272964736。138f頁。
  3. ^ 今西順吉「井上哲次郎の開拓者的意義」『印度學佛教學研究』第49巻第2号、日本印度学仏教学会、2001年、526-532頁、doi:10.4259/ibk.49.526ISSN 0019-4344NAID 130004027246
  4. ^ 桑兵(著), 村上衛(訳)「近代「中国哲学」の起源」『近代東アジアにおける翻訳概念の展開 京都大学人文科学研究所附属現代中国研究センター研究報告』、京都大学人文科学研究所附属現代中国研究センター、151頁、2013年。
  5. a b c d e f ふるさと人物誌36 近代日本哲学の父 「井上 哲次郎(巽軒)」(いのうえ てつじろう(そんけん)) | 朝倉市”. www.city.asakura.lg.jp2022年9月3日閲覧。
  6. a b c 留学生時代自著『懐旧録』 (春秋社松柏館, 1943)p296-319
  7. ^ 伊藤吉之助井上哲次郎生誕百年記念会」『哲学』、日本哲学会、1955年。doi:10.11439/philosophy1952.1955.preface1
  8. ^ NDLJP:752684
  9. ^ 文京区 井上哲次郎旧居跡”. www.city.bunkyo.lg.jp2022年9月3日閲覧。
  10. ^ 哲学字彙』 - コトバンク
  11. ^ 井上克人「明治期アカデミー哲学とその系譜 : 本体的一元論と有機体の哲学」『国際哲学研究』第3号、東洋大学国際哲学研究センター、2014年3月、81-94(p.84)、doi:10.34428/00006689ISSN 2186-8581NAID 120005448534
  12. ^ 内田守「珠を掘る」 1972年
  13. ^ Kramer, Hans Martin「編集企画1:外国における日本研究事情 ドイツにおける日本学と日本研究--歴史、現状と課題」『研究室紀要』第28号、東京大学大学院教育学研究科 教育学研究室、2002年6月、79-89頁、doi:10.15083/00017575ISSN 02857766NAID 110000197871
  14. ^ 『官報』第2545号「叙任及辞令」1891年12月22日。
  15. ^ 『官報』第4636号「叙任及辞令」1898年12月12日。
  16. ^ 『官報』第6181号「叙任及辞令」1904年2月12日。
  17. ^ 『官報』第508号「叙任及辞令」1914年4月11日。
  18. ^ 『官報』第3223号「叙任及辞令」1923年5月1日。
  19. ^ 『官報』第5395号「叙任及辞令」1901年6月28日。
  20. ^ 『官報』第6595号「叙任及辞令」1905年6月26日。

関連文献[編集]

  • 関皐作編 『井上博士と基督教徒 一名「教育と宗教の衝突」顛末及評論』 哲学書院、1893年5月 / 1893年7月続編 / 1893年10月収結編
    • 関皐作編 『井上博士と基督教徒』 飯塚書房〈教育宗教衝突論史料〉、1982年10月[正]・続編・収結編
    • 関皐作編 『井上博士と基督教徒 正・続』 みすず書房〈Misuzu reprints〉、1988年11月、ISBN 4622026864 / 関皐作編『井上博士と基督教徒 収結編』 みすず書房〈Misuzu reprints〉、1988年12月、ISBN 4622026872
  • 巽軒会著 『青桐集』 大倉広文堂、1933年7月
  • 巽軒会編 『井上先生喜寿記念文集』 冨山房、1931年12月
  • 塩谷温ほか編輯 『巽軒井上先生米寿祝賀集』 友枝高彦、1943年12月
  • 『巽軒年譜』 井上哲次郎生誕百年記念会実行委員会、1954年11月
  • 東京都立日比谷図書館編 『井上文庫目録 付書名索引』 東京都立日比谷図書館、1964年10月
  • 東京大学百年史編集室編 『加藤弘之史料目録・井上哲次郎史料目録』 東京大学百年史編集室、1977年2月
  • 平井法、佐尾裕子 「井上哲次郎」(昭和女子大学近代文学研究室著 『近代文学研究叢書 第54巻』 昭和女子大学近代文化研究所、1983年4月)
  • 真辺将之 「井上哲次郎」(伊藤隆季武嘉也編 『近現代日本人物史料情報辞典 2』 吉川弘文館、2005年12月、ISBN 4642013466
  • 大原敏行『明治長編詩歌 孝女白菊 -井上哲次郎・落合直文から ちりめん本、鷗外、画の世界までー』(創英社、2015年)
  • 杉山亮『井上哲次郎と「国体」の光芒 官学の覇権と〈反官〉アカデミズム』(白水社、2023年)

外部リンク[編集]


学職
先代
加藤弘之
哲学会会長
1916年 - 1944年
次代
桑木厳翼
先代
外山正一
日本の旗 東京帝国大学文科大学長
1897年 - 1904年
次代
坪井九馬三

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Inoue Tetsujirō

From Wikipedia, the free encyclopedia
Inoue Tetsujirō
BornFebruary 1, 1855
DiedNovember 7, 1944 (aged 89)
OccupationPhilosopher

Inoue Tetsujirō (井上 哲次郎, February 1, 1855 – December 7, 1944) was a Japanese philosopher, poet and educator. He is known for introducing Western philosophy in Japan and for being a pioneer in Eastern philosophy. He became the first Japanese professor of philosophy at Tokyo Imperial University, and also served as the 2nd President of Daito Bunka Academy.

He condemned Christianity as fundamentally incompatible with the theocraticpolytheistic Japanese polity and thus considered its followers "inherently disloyal" to Japan. He compiled A Dictionary of Philosophy (哲学字彙Tetsugaku jii), which was first published in 1881, again in 1884, and finally in 1912.

Biography[edit]

Inoue was born on February 1, 1855, in DazaifuChikuzen Province (present-day Dazaifu, Fukuoka Prefecture), the third son of physician Funakoshi Shuntatsu.[1]

After moving to Hakata to study English in 1868, he studied Western studies at Kōunkan in Nagasaki. An outstanding student, he was sent to Kaisei Academy in Tokyo in 1875, after which he proceeded to Tokyo Imperial University to study philosophy. In 1878, he was adopted by Inoue Tetsuei. After graduating from Tokyo Imperial University in 1880,[1] he composed Chinese poems, one of which inspired the composition of the poem White Aster by Ochiai Naobumi.

He helped introduce Western philosophy in Japan and became the first Japanese professor of philosophy at Tokyo Imperial University. He was also a pioneer in Eastern philosophy.[2][3]

He was also a member of the International Education Movement. He wrote a commentary on Japan's Imperial Rescript on Education, wherein he encouraged the Japanese people to support the state and imperialism.[4] Inoue's support of imperialism established him as opposed to the ideas of other proponents of International Education, such as Shimonaka YasaburoNoguchi Entaro, and Izumi Tetsu.

Inoue was the most prolific and prominent promoter of bushido ideology in Japan before 1945, authoring dozens of works and giving hundreds of lectures on the subject over almost half a century.[5]

See also[edit]

References[edit]

  1. Jump up to:a b Nihon dai hyakka zensho. Shōgakkan (Shohan ed.). 2001. 井上哲次郎. ISBN 4-09-526001-7OCLC 14970117.
  2. ^ Imanishi, Junkichi (2001). 井上哲次郎の開拓者的意義 印度學佛教學研究 第49巻第2号. The Japanese Association of Indian and Buddhist Studies 日本印度学仏教学会. pp. 526–532.
  3. ^ 桑, 兵 (2013). 近代「中国哲学」の起源 近代東アジアにおける翻訳概念の展開 京都大学人文科学研究所附属現代中国研究センター研究報告. 京都大学人文科学研究所附属現代中国研究センター. p. 151.
  4. ^ Dummings, William E. Education and Equality in Japan. Princeton University Press, Princeton, NJ; 1970.
  5. ^ Oleg Benesch. Inventing the Way of the Samurai: Nationalism, Internationalism, and Bushido in Modern Japan. Oxford: Oxford University Press, 2014. ISBN 0198706626ISBN 9780198706625
  • Eddy Dufourmont.Is Confucianism philosophy ? The answers of Inoue Tetsujirō and Nakae Chōmin, in Nakajima Takahiro ed.,Whither Japanese Philosophy? II Reflections through other Eyes (UTCP Booklet 14), 2010, p. 71-89.

http://utcp.c.u-tokyo.ac.jp/publications/pdf/UTCPBooklet14_04_Dufourmont.pdf

External links[edit]

Les Sectes bouddhiques japonaises, E.Steinilber-Oberlin, K. Matsuo, Paris 1930, pp. 293/4


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