2013-07-05

社会科学者の時評: ■ 永続敗戦論-敗戦にも敗戦した日本帝国の今- ■

社会科学者の時評: ■ 永続敗戦論-敗戦にも敗戦した日本帝国の今- ■:

2013.6.20
■ 永続敗戦論-敗戦にも敗戦した日本帝国の今- ■
日本経営学界を解脱した社会科学の研究家 @ 19:01:41 ( 歴史の記憶をたどる )
政治/経済 » 政治

◎ 白井 聡『永続敗戦論-戦後日本の核心-』 ◎

 【この国では,誰が,誰を,いったいどのように,侮辱しつづけているのか?】

①「素人の元外交官」に日本野球機構コミッショナーを任せた過ち

最近のニュースでとくに騒がしかったのは,日本野球機構コミッショナーの加藤良三(1941年9月13日生まれ,元外交官)が,こういう無責任な事件を起こしていたことである。

「2011年から採用されたNPBの統一球が,3年目の今季秘密裏に『飛ぶように』調整されたことが明らかになり,大騒動になっている。全球団が統一球を使うわけだから特定のチームが得をすることはなく,ボールが飛ぶか飛ばないかということじたいは,さほど問題ではない。問題は,ボールの調整をNPB内部だけでこっそりとおこない,その事実を公表しなかったばかりか,『変更はない』と球界関係者やファンを欺き続けてきたことだ」。
 注記)「3年間プロ野球を混乱に陥れた,加藤良三コミッショナーの責任は重い」。
     http://diamond.jp/articles/-/37523



その後,加藤コミッショナーのいいわけを聞いていると,「不祥事ではないが失態」となどとわけの分からぬ,筋のまったく通らない逃げ口上に終始してきた。記者会見における「加藤コミッショナーの一問一答」のうつけぶりには,プロ野球界の関係者のみならず,日本社会の構成員もみなが,一様に呆れ返っていた。それでも加藤は,年収2千4百万の年収をもらえる〔それ以外に企業役員としての所得も複数あるとのこと〕この名誉職(まさに名誉な仕事で,実質はなにもやっていない・できないことが,今回は暴露されてしまったが)の地位から離れたくない様子,未練たらたらの顔つきをみせていた。

加藤は,外交官として主にアメリカ方面の仕事をしてきた経歴の持主である。そのせいで,つまり,野球の母国であるU.S.A. 関係に近しい仕事を「天下り先」の仕事としてゲットできて,幸せな気分であったと思われる。だが,今回においてみごとにバレてしまった「NPB(Nippon Professional Baseball)の統一球」問題事件に対面した彼の顔つきは,どうみても,組織の頂点に経った人間のものではなかった。最近はよく「ガバナンス」ということが強調される時代であるが,加藤の場合は,それ以前・以外の次元におけるものにみえ,それも「組織のてっぺんに立つ管理の専門家」(一般論)としても「日本職業野球というスポーツ界を代表する指導者」(具体論)としても,この両方に不適合な人材である事実を,みごとにさらけ出していた。
 出所)http://www.npb.or.jp/commissioner/

② 白井 聡『永続敗戦論-戦後日本の核心-』太田出版,2013年3月

本書の書評が『朝日新聞』2013年6月16日朝刊「読書」欄に出ていた。この本の評者は,水野和夫(日本大学教授・経済学)である。白井は「政治哲学・社会思想」を専攻する若手の大学教員である(文化学園大学助教,1977年生まれ)。最近は,まだ大学の常勤職に就いていない研究者も含めて,白井のような若手の学究が,とてもよい研究書を公表してきている。今回の,この白井『永続敗戦論-戦後日本の核心-』は,本ブログ筆者にいわせれば,いまや反体制派研究集団として絶滅したかのようにみえるマルクス〔主義的〕科学者群に代わって,生きのいい「体制批判学の視点」を披露した。しかも,一般書としても読めるきびしい論旨を展開した著作が,この本である。

戦後体制が「1940年体制」に始まっていたとすれば,そのあいだにたしかに介在していたはずの「敗戦」=「戦後日本の核心となるそれ」が霞んだまま,早,満68年目に入った。日本国憲法について現政権は,アベノミクスの政治的応用のつもりらしいが,憲法を改正して「ふつうに美しい国」にしたいと欲望している。ところが,現状における日本の経済・政治・社会は,現に立っている基盤そのものがすでに液状化現象を来しているにもかかわらず,いったい,なにがもっとも緊急を要する政策を必要としているかついて,まったく無知・無関心でいられるらしい。

白井は,日本は「1945年以来,われわれはずっと『敗戦』状態にある。『侮辱のなかに生きる』ことを拒絶せよ」と呼びかけている。この侮辱は,それでは「誰から誰に対する」「なにからなにに対する」『侮辱』なのか。いま,日本の社会のなかには,制度・組織・人がヒト:他者を侮辱する場面が頻発している。こういってもなんのことが理解しにくいと思うが,この本をひもといてみれば,すぐに実感できる。目次を紹介する。
 出所)右側写真は,白井 聡。http://ameblo.jp/genten-nippon/entry-10863084020.html より。

第1章 「戦後」の終わり
第1節 「私らは侮辱のなかに生きている」――ポスト3・11の経験
第2節 「戦後」の終わり
第3節 永続敗戦

第2章 「戦後の終わり」を告げるもの――対外関係の諸問題
第1節 領土問題の本質
第2節 北朝鮮問題に見る永続敗戦

第3章 戦後の「国体」としての永続敗戦
第1節 アメリカの影
第2節 何が勝利してきたのか?

エピローグ- 3つの光景

「私らは侮辱のなかに生きている」とは,最近の出来事でいうとすれば,たとえば自民党議員の高市早苗が,つぎのような反響を惹起させる発言をしていたことに,端的に表現されている。

☆ 永続敗戦論-敗戦にも敗戦した日本帝国の今- ☆

自民党の高市早苗政調会長が「原発事故によって死亡者が出ている状況ではない」とした,自身の発言の撤回と謝罪に追いこまれた。福島の反発も強くダメージを広げないため政権として幕引きを急いだ結果だ。菅 義偉官房長官は6月19日の記者会見で,欧州訪問中の安倍晋三首相からの指示内容を明らかにした。「首相からは『発言に注意し政調会長としての職務にこれからもしっかり努めるように』との話があり高市氏に伝えた」。


出所)http://www.kobe-np.co.jp/news/zenkoku/compact/201306/0006089230.shtml 

高市氏が発言した翌18日,菅氏は「前後をみるとそんなに問題になるような発言ではなかった」と擁護した。だが,野党だけでなく自民党内からも激しい批判が噴出。党福島県連幹部は19日午前に党本部を訪れ撤回と県民への謝罪を求める抗議文を提出し,福島県選出の森 雅子少子化相は高市氏に直接抗議した。官邸スタッフは「仮に閣僚だったら大問題になる発言。安倍内閣への風向きが大逆風になる」と危機感を抱く。菅氏は高市氏と電話で連絡をとりあい,石破茂幹事長による厳重注意で収束を図る検討に入った。
 注記)http://digital.asahi.com/articles/TKY201306190493.html

「仮に閣僚だったら大問題になる発言」をした高市早苗は,2011年3月11日に起きた東電福島第1原発の大事故によって,生活を破壊された福島の人びとに対して,同情のカケラもない,残酷なものいいをした。それでいながら,自身がその無神経さにまったく気づかないという常識外れの言動をしていた。「死者が出ていないとか」いっていたが,「3・11」では津波で多くの死者・行方不明者が出ているだけでなく,その余波・影響・心労を受けて命を早く終わらせてしまった人びとも大勢いる。また,原発事故の現場はこれからも,放射性物質の高度汚染のために半永久的ともいっていい,事後の対策が続けられるほかない状況に置かれている。

以上,政治家(国会議員)から庶民に放たれている《侮辱》,それも弱者の立場にある「原発事故の被害者・被災者たち」に対する「非情な発言にみる《侮辱》」の実例であった。

③ BOOK asahi.com「書評『永続敗戦論-戦後日本の核心-』白井 聡著(2013年6月16日,[評者] 水野和夫 日本大学教授・経済学) 

1) 対米従属を続けていきたい人だらけ
本書『永続敗戦論-戦後日本の核心-』の内容は,この書名以上に刺激的である。読んだあと顔面に強烈なパンチを見舞われ,あっけなくマットに仰向けに倒れこむ心境になった。こんな読後感は初めてである。本書にいう「永続敗戦」とは,「敗戦を否認しているがゆえに際限のない対米従属を続けなければならず,深い対米従属を続けているかぎり,敗戦を否認し続けることができる」状況を指す。本書の目的は「永続敗戦」としての「戦後」継続を「認識のうえで終わらせること」にある。

現実には「永続敗戦」の構造は,政官財学そしてメディアを中心に執拗に維持されている。官邸に陣どる外交アドバイザーが,米日関係を「騎士と馬」に擬(なぞら)えていたり,3・11による原発事故にさいして,日本気象学会のトップがその主体性において屍と化した発言をしたり,財界のトップに至っては原発の建屋爆発後に「千年に一度の津波に耐えているのは素晴らしい」といい放っているのは滑稽でさえある。本書はそう批判している。


著者の白井は,「平和と繁栄の時代」が終わったのだから,それを与件としてしか成立しえない「戦後」も終わったと確信する。9・11によって米国がカール・シュミットのいう「例外状態」に突入したように,小泉総理大臣が北朝鮮を電撃訪問したことで,日本も同じ状態に入ったと主張する。ここで「例外状態」とは戦争状態をいう。

本書は,経済学にも重い課題を突きつけている。1956年に経済白書が「もはや戦後ではない」と宣言したが,この国の「戦後」は続いていたのである。この誤認に,バブル崩壊後政府の目的と化した「成長戦略」が失敗に終わった理由もある。「永続敗戦」を甘受した結果,「世界によって自分が変えられてしまう」ことを,断固拒否する著者の姿勢を,評者は断固支持する。そうしないと,TPP参加や沖縄問題などどれも失敗に終わるに違いあるまい。

--以上の書評は,なかなかパンチの効いた紹介になっている。『敗戦という侮辱』を反省しえなかったこの国は,その後半世紀以上も経過したいまでも,社会のあちこちで侮辱される人びとが多くいる状況を抱えたまま,いまさらのようになにも変えられないでいる。観方にもよるが,体制派の中心部分に陣どっている社会層の人たち,いいかえれば,日本国のエスタブリッシュメント(エリート支配体制層)にとっては,まさに戦慄すべき論調・内容が充填されているのが,この白井『永続敗戦論-戦後日本の核心-』である。

21世紀に入るだいぶ以前から,マルクス主義を主とした反体制集団は,息もたえだえになってしまっていた。現状のなかでのこのような著作による体制批判,それも事実に即し,現実をみつめ,本質をつかみ,根柢から批判する論者の登壇は,既成・伝統の体制派支配集団にとっては大きな脅威である。独裁国に学問の自由がないことは,歴史を通貫する真実である。「3・11」のとき,日本最高の頭脳集団と思われていた人士たちが,非常事態にときに周章狼狽するその姿をみせつけられ,本当に情けなかった。彼らが露呈させていたその体たらくの程度たるや,原発事故に絡みついていただけに,エリートとしてもつべき信頼感を一気に崩壊させるのに十分に過ぎた。

ところで,若手の研究者が日本社会の体たらくな様相に向かって,このように真摯に対面し,事実から目をそらさず,空論・虚説を論破することになれば,大きな危険がともなうことも必至,不可避である。本当のことを語らず,ウソをバラ撒いていても一向に恥じることさえしらないこの国家体制を,本気で批判するとなれば,これへの反発・反動・反撃が必らず,いつか・どこかから湧き出てくると予想・用心しておかねばならない。

原発事故の関係でいえば,小出章裕を代表格にする「熊取六人衆」(京都大学原子炉実験所原子力安全研究グループ6人の総称:通称)の存在を想起してみればよい。原子力村から蛇蝎のように嫌われ,その多くが万年助手(助教)の地位に留めおかれ,1人も教授にはなれなかった(助教授1人,専任講師1人)。このひとつの事実をみても,しかもこの例は原子力村内の問題〔村八分〕であっただけに,なおさらのこと,その方面の組織全体の特性を代表的に現わしていた実例であった。

白井 聡『永続敗戦論-戦後日本の核心-』は,本文B6判で2百頁ほどの分量の本であるが,戦後史の歴史空間に広く言及している。天皇・天皇制に対する基本的な批判もある。靖国に対する論及もある。このへんの記述内容を,つぎのブログの整理に聞いてみたい。

2)『雑感 ストリング』というブログの紹介(2013年6月10日)

「白井 聡『永続敗戦論』の感想(M&R研究会運営委員会用)のダイジェスト」は,以下のように本書を紹介している。

a)「抜粋の抜粋」

(A) 「本書がとり組むのは『戦後』を認識の上で終わらせることである」(白井『永続敗戦論』31頁)。

(B)「問題とされるべきはむしろ,加藤が「敗戦『後』論」という枠組で問題を提起していることである」(47頁)。→「永続敗戦」がこれに対置される。

(C)「『反米か親米か』という罠」(123-124頁)。

(D)「江藤〔淳〕は,占領軍の検閲の問題を執拗に論じながら,その非難の矛先は,検閲を実行した米国ではなく,検閲システムの存在に無自覚なまま『戦後民主主義』を支持した者たちに向けられていた」。「しかしそれは政治的には不当ではない。なぜなら,どのような国家であれ国家が本来的な意味での正義を体現することなどないからである。国家はその本性からして悪をはらみ,他国や他国民を手段化するものである以上,その政策が進歩なり正義なりを根本的に条件づけることなどありえない。したがって,検閲によって統制されたかたちで始まった戦後民主主義が正義の基礎,戦後日本の思想的基盤であることなどありえない。これが戦後民主改革に希望の根拠を見出した人々に対して,江藤が放った批判の核心であった」(125頁)。


出所)江藤 淳,http://blue.ap.teacup.com/97096856/2643.html

(E)「戦前のレジームの根幹が天皇制であったとすれば,戦後レジームの根幹は永続敗戦である」(165頁)。

(F)「里見〔岸雄〕の国体論」。「里見の理論は国家を二つの社会によって構成されるものとしてとらえており,それはモダンな論理構成をもっている」→「『利益社会』の原理」と「謙虚な君主(=天皇)に対する臣民一同の感激」(171-172頁)。

(G)「片山〔杜秀〕の結論,この戦後日本に『とてつもない空白がある』という結論は,正しい。しかし,その原因がどこにあるのかについての議論は納得できるものではない。すなわちポツダム宣言の内容がこの空白をつくり出したのではない」(174頁)。

b)「感想・雑感」

「本書がとり組むのは『戦後』を認識の上で終わらせることである」,「『戦後』の概念を底の底まで見通すこと」である(31頁)。

「永続敗戦レジーム」=「『とてつもない空白がある』世界の『原因がどこにあるのか』」。この「とてつもない空白がある」世界を,「空白」が満たされた・はっきりした価値関係との対比で考えるだけでは--たとえば「ポツダム宣言の内容がこの空白をつくり出した」という類の片山のように--,江藤 淳が批判した「戦後民主主義者」と同様の構図にしかならない。価値関係の特定の様式同士の差異であり,価値関係そのものにまで届かない。

「どのような国家であれ国家が本来的な意味での正義を体現することなどない」(125頁)。これが,国家の「バグ」でなく,国家の「仕様」だということ。「とてつもない空白がある」世界を(はっきりしてようがゆるかろうが),「価値」そのもの「国家」そのものと関係させる必要があるのだ。「とてつもない空白」を,なにかはっきり・くっきり充填されたものからの距離欠如としてだけでなく,「とてつもない空白がある」というスタイルによる(いわば「持続的な蓄積」の)構造としてとらえること。これこそ「「戦後」を認識の上で終わらせること」なのだと思う。
 注記)http://string.txt-nifty.com/string/2013/06/post-d1b8.html

④「戦闘教師『ケン』激闘永田町編」というブログの紹介(2013年3月14日)

『未完のレーニン』で名を馳せた白井さんの新著『永続敗戦論-戦後日本の核心-』。政治・社会思想を専門とする白井さんが時事評論に挑戦白井節ともいえるネオ・ボリシェビズムが,気持よいほどに炸裂している。ボリシェビズムの本質は暴露主義にあり,現政権の不正を暴き立て権力の正統性を失墜させることで,相対的にみずらの権力を正当化させる手法である。

現代日本でも非常に泥臭いながら,NK党が「米国のいいなりはやめよう」とか「大企業の横暴を許すな」と主張するのは,ボリシェビズムの伝統に由来する。白井節に「ネオ」が冠されるべきなのは,従来のボリシェビズムが粗雑な論理と低劣な言語でもって,大衆を教化・煽動することを目的としているのに対して,十分な理論武装をもって大衆を啓蒙しようとする点にある。

3月12日の衆院予算委員会で,安倍首相が東京裁判について「大戦の総括は日本人自身の手でなく,いわば連合国側の勝者の判断によって断罪がなされた」と述べたことに象徴されるように,保守派による「敗戦の否定」と左派による「戦争の全否定」こそが,戦後日本を構築したレジームの核心であると喝破するところから始まる。

自民党結党時に表明された「党の使命」には,以下の文言があった。

国内の現状をみるに,祖国愛と自主独立の精神は失われ,政治は昏迷を続け,経済は自立になお遠く,民生は不安の域を脱せず,独立体制は未だ十分整わず,くわえて独裁をめざす階級闘争は,ますます熾烈となりつつある。思うにここに至った一半の原因は,敗戦の初期の占領政策の過誤にある。占領下強調された民主主義自由主義は,新しい日本の指導理念として尊重し擁護すべきであるが,初期の占領政策の方向が主として,わが国の弱体化に置かれていたため,憲法を始め教育制度その他の諸制度の改革に当たり,不当に国家観念と愛国心を抑圧し,また,国権を過度に分裂弱化させたものが少なくない。この間隙が新たなる国際情勢の変化と相まち,共産主義及び階級社会主義勢力の乗ずるところとなり,その急激な台頭を許すに至ったのである。

自民党は,デモクラシーとリベラリズムを「新たな指導理念」として尊重はするものの,戦前の明治帝政に対する熱い憧憬を隠すことなく占領軍によって帝政を廃せられたがゆえに,コミュニストの跋扈を許したかのような言説になっている。実は,この精神構造は,現在の安倍氏らの主張とまったく同じであって,右翼がよく口にする「戦後民主主義が日教組を生んで日本の教育を堕落させた」もまた,その延長線上にある。

その彼らも,デモクラシーやリベラリズムを否定するわけではないが,それはあくまで対米従属の手段(ファッショ枢軸同盟から自由主義陣営への転向)であって,主体的に選択したものではなかった。つまり「自由と民主」が西側陣営(実質的には日米同盟)に属するための旗印でしかない以上,日本の官僚や保守主義者たちが,デモクラシーとリベラリズムの価値を率先して追求することは無用であり,「西側の一員」として認められる程度の形式だけ整えればよいという話になる。

その象徴が,福島原発事故にさいしての,緊急時迅速放射能予測ネットワークシステム( SPEEDI )の扱いであった。開発に30年と100億円以上が費やされ,維持運営に年間7億円が投入されているにもかかわらず,肝心の放射能汚染予測のデータは国民に秘匿され,米軍にのみ提供された。結局のところ,SPEEDI は原発立地にさいして,住民の安心を担保するための「見せ玉」に過ぎず,しかも隠蔽したことについて,誰も責任をとっていない。このことは「人民の人民による人民のための政府」という近代国民国家の原理が,日本においては,今日もなお根づいていないことを示している。

戦前の明治帝政は,憲法上あらゆる主権を天皇に集約させた独裁体制であったが,その運用において天皇みずからには主権を行使させず,輔翼者が代行することになっていた。明治維新からしばらくは元老が代行していたが,元老が死に絶えると官僚が担った。人民を支配し動員するための「天皇親政」という顕教と天皇は,あくまで藩閥や高等官僚の傀儡に過ぎないという「立憲君主制」の密教に分かれていたのが,明治帝政の本質であった。美濃部達吉の「天皇機関説」が昭和になって叩かれたのは,密教部分が表沙汰になってしまい,「いってることと違うじゃねぇか!」との批判に抗することができなかったためであった。この二重性の原理が否定されたとき,明治体制もまた存続できなくなった。

だが,敗戦によって明治帝政は否定されるが,二重性の原理は継承されてしまう。天皇主権は国民主権に書き換えられたものの,国民の主権行使はせいぜいのところ,投票所で候補者の名前を書くくらいのものでしかなく,それはすでに半分は戦前に具現化していたものだった(男子普通選挙)。実態としては,憲法に「国権の最高機関」明記された立法府の権限はきわめて限定的であって,戦前と同じに行政府とそれを御する高等官僚が実権を握っている。

それは,あるベテラン議員がかつて大蔵省のエリートを辞して国政に立候補しようとしたさい,先輩に「命令する立場(大蔵官僚)から命令される立場(政治家)に行くバカがあるか!」と諭された,という故事からも想像できよる。

白井氏は,戦後の二重性を「敗戦」という視点から説明する。敗戦の責任を回避した戦後エリートは,「非軍事による平和と繁栄」という顕教(アメ)と「無制限かつ無期限の対米従属」という密教(ムチ)があり,これを上手に使い分けることで国民を慰撫すると同時に,国民主権の実質がないことを隠蔽してきた。ところが,日本の経済力低下で「繁栄」に影が差し,東アジアの勢力均衡が崩れることで,対米従属の正当性に疑問が付されるところとなっている(対米従属を維持するために対立を煽る構図)。戦後日本の「永続敗戦」レジームもまた破綻しつつある。これが筆者(引用されている白井のこと)のみかたである。

白井さんの議論は,結論では分かれるところもあるが,問題意識において私(引用しているブロガーのこと)が日々考え,あるいは,本ブログ(同上ブロガーの)で記事にしているところと,恐ろしいくらい軌を一にしている。本稿(同上ブロガーの)も「書評なのか」「自分の見解なのか」「曖昧になってしまった」ところがある( ← 以上については,当方ブログ「社会科学者の時評」も,この項目を読んでいてそのとおりと感じた。なお,このブロガーに対しては,白井の参照箇所にはきちんと〈頁〉を付しておいてほしかった・・・)。

私(引用しているブロガーのこと)は現場の人間であるがために,つねに対案代案を意識しながら記事にしている。そのため竹を割るような議論にはなかなかならないが,その点,白井さんは理論家らしく純粋に,理論的整合性を追求するがゆえに非常に明快に説明され,日本国家の本質が分かりやすくまとめられている。

靖国神社の成りたち(旧幕軍や西郷軍の死者を排除することで成立)や,戦前の政治史(政府の翼賛団体として発足した政友会の系譜)などをさらに抑えてゆけば,もっと深みが増してゆくだろうが,若手の論客にそこまで要求するのは酷かもしれない。戦後日本を構築するレジームと精神構造の全体像を捉える基本図書にもなりうるパワーを秘めていることは,たしかである。

白井さんのさらなるご活躍を祈念いたします。

 【追 記】--欧州でもたとえば,オーストリアの場合,1938年のアンシュルス(独墺併合)にさいして,国民の大半がこれを歓迎し,その後も成人国民の9人に1人までがナチスに入党し,10人に1人のドイツ本国よりも熱烈に支持する歴史を有する。


出所)http://yosukenaito.blog40.fc2.com/blog-entry-2869.html
“1938年3月13日,ひとつの民族,ひとつの帝国,1人の総統” とでも訳したらよい,ドイツ語が下部に書いてある。

だが,戦後再独立するといち早く「ナチスによる最初の犠牲者」を宣言し,その「黒の歴史」を封印してしまった。1991年にようやく,加害者としての側面を公式的に認めるに至ったが,全般的には「被害者」としての認識が一般的である。
 注記)http://kenuchka.paslog.jp/article/2628305.html

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 【参 考; 2013年6月21日補記】 本日とりあげた著作,白井 聡『永続敗戦論-戦後日本の核心-』(太田出版,2013年3月)は,笠井 潔『8・15 と3・11-戦後史の死角-』(NHK出版,2012年9月)と深い関連性をもっている。発行時期の関係でいえば,その間に半年の間隔があるが,内容的に観て,なんらかの濃い相互の対応関係がある。白井は同書の末尾に,こういう「断わり書き」を入れていた。「*本書は『 at プラス』13号(2012年8月)に掲載された論文「永続敗戦論-『戦後』をどう終わらせるのか」をもとに書き下ろしたものです」。白井『永続敗戦論-戦後日本の核心-』は第1章(本文17頁,注は 207頁)で,笠井『8・15 と3・11-戦後史の死角-』から引用している。


出所)http://www.ohtabooks.com/publish/at/


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