2016-03-20

女工と娼妓を比較する-『女工哀史』を読む 1- (松沢呉一) -3,697文字- | 松沢呉一のビバノン・ライフ

女工と娼妓を比較する-『女工哀史』を読む 1- (松沢呉一) -3,697文字-

2016年03月10日17時45分 カテゴリ:連載 • セックスワークを考える • 連載 •吉原炎上間違い探し • 連載 • 性風俗史

このシリーズはもともと「『吉原炎上』間違い探し」の一部として公開したものなのですが、あまりに長く、また、『吉原炎上』から離れてしまうので、今回は独立させました。この部分で記述されたことの一部は「『吉原炎上』間違い探し」シリーズに組み込んでいるのですが、こちらにもそのまま残っているところがあります。つまりは重複しているってことなのですが、文脈と文章は違っているので、お許しください。
なお、特記無き写真はすべて本文とは関係のないイメージ写真です。

女工の実情を暴いたノンフィクション『女工哀史』

vivanon_sentence明治時代、娼妓や芸妓になれるほどの器量がなく、学歴も技能もない女子がまとまった現金収入を得るには、女工になるのがもっとも確実な方法であった。
工場で働くには身体検査があって、病気持ちでは働けなかったが、小学校も行っておらず、見た目が美しくなく、粗野な言動しかできなくても、体さえ丈夫であれば雇ってくれたのだから、遊廓より、ずっと広く門戸を開いていたわけだ。
しかし、女工の生活は、娼妓の比ではなく悲惨であった。その実情は、かの細井和喜蔵著『女工哀史』に活写されている通りだ。
女工哀史 (岩波文庫 青 135-1)女工哀史』は明治時代、大正時代の女工の実態を生々しく描いていノンフィクションである。
「前借で縛られ、自分の意思で辞めることはできなかった」「自由に外出することもできなかった」「稼いだ金のほんの一部しか手にできなかった」などなどの遊廓批判に対して、私は「それらはすべて日本中の多くの産業で行われていたことであり、遊廓に限ったことではない。それらはすべて改善すべき点を含んでいたのは事実として、なぜ遊廓だけの問題だったように言うのか。時にデマまで入れ込み、あまつさえ現在の性風俗産業否定にまでつなげるのであれば、日本の現在の工業、日本の近代化も全否定しなければ筋が通らない。この糞道徳主義者が。何を言われているのかわからんのだったら、『女工哀史』を読んで一から出直せ」といったことをこれまでに何度か書いている。
しかし、『女工哀史』の具体的な記述を取りあげて、遊廓と比較したことまではなく、また、他の人が近代に入ってからの日本の産業と遊廓を比較しているのをあまり見たことがないため、この機会にこの作業をやっておくことにした。

今も続くダブルスタンダード

vivanon_sentence「いかに女工の環境がひどかったとしても、遊廓が容認されるべきではない」という意見は当然あるだろう。しかし、よりひどい女工に目を向けず、遊廓に対してはデマまで弄して否定するとなれば、そのダブルスタンダードの欺瞞を問われてしかるべきである。
遊廓のみの問題かのようにすることで、あらゆる産業で行われていたことを見ないようにしているだけなのではないか。
さらに過酷な労働が大規模に行われていたにもかかわらず、そちらに目を向けず、こと遊廓のみを問題にするダブルスタンダードは当時から存在していた。なぜこのようなダブルスタンダードが成立していたのか。
以降、具体的に見ていくが、これは細井和喜蔵自身が「公娼制度撤廃論者」に対して『女工哀史』で問うていることなのだ。なぜ彼らはその問いに向かい合うことがなかったのか。
そして、なぜ今もそのダブルスタンダードを駆使する人たちが多いのか。より過酷で大規模な問題に目を向けると都合が悪いからだ。そのことを見ていくためにも、まずは事実を知るべきだろう。

細井和喜蔵とは何者か

vivanon_sentence女工哀史』は戦前版も所有しているのだが、伏せ字があるため、戦後、最初に出た昭和二九年の改造社版を元本にする(伏せ字を埋めたのは小説家の藤森成吉。細井和喜蔵を改造社に紹介し、この本が世に出るきっかけを作った人物であり、この戦後版には藤森成吉の「あとがき」も掲載されている)。
女工哀史』という作品を理解していただくため、まずこの本の著者である細井和喜蔵について紹介しておく(以下、序文に書かれている内容を中心にまとめている)。
細井和喜蔵は、一八九七年、京都府に生まれた。婿養子の父は和喜蔵が生まれる前に実家に帰り、母は七歳の時に水死。面倒をみてくれていた祖母も十三歳の時に亡くなり、小学校五年で学校に行けなくなって機屋の小僧になり、以来、十二年間、職工をしていた。
大阪の工場にいた時に、小指を機械で潰してしまうのだが、それに対してなんの補償もなく、それどころか「ぼんやりしているからだ」と叱られる。そのことをそのまま受け入れ、恨むこともなかったのだが、やがては工員の待遇に疑問を抱くようになり、組合運動に身を投じる。
ブラックリスト入りしたため、大阪では雇い入れる工場がなくなって上京、亀戸の工場で働き始め、しばらくは静かにしていたのだが、この工場でも労働争議が起きて、和喜蔵も巻き込まれてしまう。争議には勝利したものの、仲間たちから排斥され、病気のためもあって辞職。
これ以降、文筆に専念しようとするのだが、関東大震災のために妻も失職して兵庫県へ。
序文にはそう書かれているのだが、妻の回想によると、関東大震災のどさくさにまぎれて、亀戸では社会主義者たちが虐殺される「亀戸事件」が起きており、組合活動家である細井和喜蔵に忠告する人があって逃げたというのが実際のところらしい。
たしかに、妻が失職したからと言って、わざわざ兵庫県の山中にまで行くのは不自然である。そんなことを本に書いたら発禁になりかねないため、妻の失職ということにしたのだと思われる。
兵庫県の能勢にある工場で働くことになり、十二時間の労働のあと執筆し続けて完成したのが『女工哀史』であった。原稿が完成して、再度上京、一九二四年(大正13)、雑誌「改造」に原稿の一部が掲載され、翌年、本にまとまった。
ここまでが序文に書かれていることだが、出版からわずか一ヶ月後、二八歳で細井和喜蔵は病死。この本の評判をほとんど知ることもなかったわけだ。
主たる死因は結核であった。密閉された空間で二四時間暮す工場労働者に多かった病気である。つまり、工場労働者だったがために亡くなったのかもしれず、文字通り命を削った作品なのである。
「自序」で、細井和喜蔵は、製糸女工についても研究したい旨を書いている(注)。『女工哀史』は買い取りのため、印税は受け取れなかったにしても、知名度があがって原稿依頼が増えただろうから、文筆で食うことができ、遠からずこの「研究」は実現したはずである。夭逝したことが今の時代にあっても惜しまれる。
注:『女工哀史』が取りあげているのはおもに紡績工場と織布工場の女工事情である。繊維業が身近になくなった今の時代には、どれも同じようなものだろうとも思えてしまうのだが、製糸工場は、『あゝ野麦峠』の舞台もそうであるように、群馬や長野など、養蚕が盛んな地域にあった。対して紡績工場は、どちらかと言えば都市型である。製糸工場は近隣の農村部から人を集められるのに対して、大規模な紡績工場は全国から金で人を集める必要があるなど、さまざまなところに違いがあって、それを細井和喜蔵は確かめたかったのだろうと思われる。『女工哀史』ではその差を区別せず、女工すべての環境が自分の見聞したものと同様であったとしているところがあるのだが、あくまでこの本で記述されているのはもっとも環境の悪かった女工たちの暮らしぶりであったことは意識して読んだ方がいいかと思う。

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(残り 697文字/全文: 3719文字)

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