2016-03-20

女工は性的肉体をも提供していた-『女工哀史』を読む 7-(松沢呉一) -3,210文字- | 松沢呉一のビバノン・ライフ

女工は性的肉体をも提供していた-『女工哀史』を読む 7-(松沢呉一) -3,210文字-

2016年03月20日11時36分 カテゴリ:連載 • セックスワークを考える • 連載 •吉原炎上間違い探し • 連載 • 性風俗史

夜の相手もする女工たち

vivanon_sentenceそう簡単に単独の外出はできなくても、遊廓ではたいていの商品が入手でき、着物やかんざしのような贅沢品も買え、懇意の客にねだれば買ってきてもらうこともできた。
客との恋愛は御法度とされていながら、身請けされれば、借金を返済してくれ、なお色をつけてもらえるため、楼主にとっても歓迎すべきことであり、相手が金持ちで、身請けの可能性がある限り、本気で好きになったところで咎められない。
対して女工たちは男と知り合う機会もない。工場内では男子工員たちがその相手になり得が、男子寄宿舎に女子は入れず、女子寄宿舎は男子は入れず、工場の外でデートをすることも難しい。それがバレると罰金である。それでもやる人たちはやっていた。
「恋愛が女工たちの唯一の娯楽であった」というより、「セックスが女工たちの唯一の娯楽であった」とさえ言えて、このことをよく表す文章はのちほど見ていく。
工場で御法度なのは、末端の労働者同士の恋愛沙汰であり、工場長や組長といった役付は、やりたい放題だった。目をつけた女工に言い寄り、断られると、重労働を強いるなどの嫌がらせをする。まさにセクハラである。さらには、自由に呼び出す権利があることをいいことに、個室に呼び出して半ば強引に関係する。
これに対する処罰規定もなく、細井和喜蔵自身が知る話として、数十人の女工に手を出し、そのうちの数人は妊娠し、それでも出世した例が書かれている。

女工の性的実情

vivanon_sentence女工哀史』でも、その事情がわかるように書かれてはいるが、戦前のことのため、それでもなお控えめに書いているのではないかとも思われる。これは稀な例では決してなく、広い範囲で行われていたことが他のデータからも推測が可能だ。
「娼妓になる前の性病感染率」にあったように、女工の梅毒感染率は高かった。工員同士のセックス、役付の男たちとのセックスが広範囲で行われていたことを示唆しよう。もちろん、これも工員になる前からの感染が含まれているわけだが、酌婦同様の感染率だったってことはそれだけでは説明できない。
「女工よりも娼妓の方がマシだった」と言うと、「そうは言っても、娼妓はセックスの相手をしなければならない。貞操を犠牲にしていたのだ」と反論する人がいそうだが、事実を知らないだけ。知ろうとしないだけ。女工たちもまた同じであったのだ。
娼妓は、客に縁切りを告げて、出入り禁止処分にすることもできたが、女工ではそんなことはできるはずがなく、イヤな相手でも断りにくい。その点でも女工の方が過酷だったとも言える。
ただし、一方的に女工が被害者で、泣き寝入りするしかなかったという見方は必ずしも正しくないかもしれない。
女工哀史』には、寄宿舎主任が自分の愛人になった女工を「世話係」という役に引き立て、その世話係の女工が他の女工の金を窃盗していたなんて話も出ている。寄宿舎は男女別だったが、寄宿舎主任ともあればどうにだってできたのだろうし、女工の中にも、権力のある立場の男にすりよって甘い汁を吸おうとするのがいたわけだ。いつの時代も同じだ。
さらに驚くべき実態が書かれた本もあって、これについてはまた別立ての原稿で説明する。

公娼は美を求める自由があったと細井和喜蔵は書く

vivanon_sentence『女工哀史』を読む 3」に、細井和喜蔵が娼妓と女工を比較した一文を引用した。あれには続きがある。

公娼は自由が無いと言ふけれど、それは外面的な観察であって今すこし内面的に考へて見るがいい、彼女達は女としての生活欲望中最も大きな意味のある「美」の享楽はかなり自由であって、物質生活に事欠くやうな憂ひはない。女郎に於ては大抵な生活欲は満たされるけれど、労働婦人には殆ど此の自由がない。併し彼女達が如何にこの物質的「美」の享楽に憧れてゐるかは、女工出身の醜業婦が他の職業出身者より一ばん永続するてう(ママ)事でも証明される。序で乍ら浅草千束町と亀戸に於ける某銘酒屋店各一軒の私娼十人に対する勤め高を挙げれば左の通りだ。
仲居  一ヶ月
女優  二ヶ月半
町娘  六ヶ月
夫有ち 一ヶ月半
田舎出 七ヶ月(最高四年)
女工  二ヶ年半(最高五年)
公娼に於いては私娼の如く廃業が容易ではないと思ふが、此点は採聞する機会がなかったから詳しい事実は判らないが、併し大阪松島高砂町の某小楼で、抱妓七人のうち五人までが近藤、天満、和歌山、西の宮、泉尾等、何れも紡績女工出身者であった偶然には唯々おどろくのほかはなかった。

美を求めることができなかった女工は、年期を終えたあと、売春をすることによって美を求めるという話。
千束と言えば今は吉原のソープ街がある住所だが、当時の吉原は住所も吉原で、千束は吉原に近接する地域を指す。銘酒店というのは私娼で、公娼における貸座敷のこと。私娼では、表向きは別業種になっていることが多く、その筆頭が銘酒屋だったため、銘酒屋は私娼の代名詞となった。

女工にとって、苦界の公娼は天国だった

公娼では、原則すべての娼妓に前借があったため、自分の意思でやめることは難しい。対して私娼では、前借がある女たちばかりではなく、彼女たちはやめようと思えばやめられたため、ここにあるように、働いた期間に差が生じ、「何年働いたか」によって、その前職がどの程度辛かったのかを計ることができるというのが細井和喜蔵の考えである。
大阪の松島は遊廓、つまり公娼だ。そこの話を聞いているのだから、「採聞する機会がなかった」という表現は変だが、松島遊廓は住所も松島町のはずなので、高砂町の小楼というのはその周辺の私娼なのかもしれない。吉原における千束だ。
最高年数は「前職が女工」である。飛び抜けて長く、これだけは年単位。女工を三年もやった人間であれば、私娼で三年は働ける。女工に比べれば、苦界は天国ってわけだ。

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