2016-03-20

籠の鳥より不自由だった女工-『女工哀史』を読む 4- (松沢呉一) -3,056文字- | 松沢呉一のビバノン・ライフ

籠の鳥より不自由だった女工-『女工哀史』を読む 4- (松沢呉一) -3,056文字-

2016年03月14日19時11分 カテゴリ:連載 • セックスワークを考える • 連載 •吉原炎上間違い探し • 連載 • 性風俗史

なぜ行動が制限されたのか

vivanon_sentenceなぜ工場は女工をそこまで縛り付けたのか。
遊廓と同じで、そうした方が経営者にとっては都合がいいからだ。休みの日にフラフラ外に出かけて体力を消耗したのでは、仕事に差し支える。
遊廓の場合、娼妓を守る必要があったという妓楼の説明は誇張もあるにせよ、間違ってはいない。娼妓が事故に遭ったりしたら、損をするのは妓楼である。
同じことは女工にも言える。すでに説明したように、製糸工場より、紡績工場の方が環境が悪い。製糸工場では通勤の女工もいたのに対して、都市型の紡績工場では全寮制が多い。田舎から出てきて、右も左もわからない女たちが外を出歩くことにリスクが伴ったのは事実かと思う。だから、自由を奪っていいというものではないとして。
熾烈な労働力確保の中で、女工の引き抜きも行われていたため、フラフラ外を歩いていたら他の工場から引き抜かれてしまう。
さらには、公娼や私娼は工場よりもっと環境がいいことを知れば、そちらに移動するかもしれない。事実、そうしたのが多かったのは、「娼妓になる前の性病感染率」でも書いた通り。娼妓の前職の11%が女工という数字を出したが、そもそも女工は職業があった、つまりは食べていくことができた。公娼では「より稼ぎたい」「楽をしたい」というだけでは働けず(そういう規則だった)、私娼に流れる率が高かったはず。それでも娼妓の一割強の前職が女工であった。
前借がなければ、工場側は女工が辞めることを止めることはできない。前借があったとしても、明治以降の年期制度は、借金と労働は別ということになっていたのだから、他で前借を得て、工場の前借を返済すればいい。
経営者としては、情報自体を遮断したいということもあったろう。娼妓は茶屋や個室で客に接するため、情報を完全に遮断することは難しかったのに対して、工場では身体を拘束すれば、これが可能になる。だから、女工が購読する雑誌にさえもチェックが入り、知恵をつけそうな雑誌は購読させなかったと『女工哀史』にある。遊廓でも、廃娼派の出版物を読んでいたら叱られただろうが。

交換が容易だった女工

vivanon_sentence結局のところ、遊廓でも工場でも、「労働力をどうきれいに使い切るか」を踏まえた管理がなされていたわけだが、それぞれの仕事内容や規模の違いによって、管理の仕方や程度が違ってくる。その違いは、おおむね女工に対してより過酷に表れた。
娼妓の方が前借が高いだけでなく、娼妓は女工ほど人材の交換が容易ではない。器量が必要であり、性格も問われる。一人前になるには客あしらいや作法を教育する必要もある。客は妓楼につくのと同時に、個人につく。とくに人気のある娼妓は代用を確保しにくい。
これは今の風俗店やキャバクラでも同じで、女の子が入れ替わろうとも同じ店に通う客がいる一方で、お気に入りの女の子が移動すると一緒に移動する客たちがいる。となれば、「いつでも交換できる」というわけにはいかず、一人一人を大事にしなければならない。
女工にも技能はあるわけだが、単純労働のため、比較的交換は容易である。使っている数も、ひとつの工場で数百から数千となれば、一人一人を粗末に扱うことになる。
親と娘という疑似家族が成立している遊廓と違い、また、小規模な徒弟制度とも違い、工場の経営者は工員を使い捨ての労働力と見なしており、女工個人の身を案じて外出させないわけではなかったと推測できる。
それが娼妓よりも女工の環境を悪化させたわけだ。

監獄よりもなお辛い

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女工たちは外出もままならない。となれば、仕事以外の時間は敷地内にある寄宿舎で過ごすしかないが、ここでも厳しい規則に縛られ、親族が電話をしても取り次いでもらえない。手紙を出そうにも内容をチェックされて、工場に対する批判や不平が書かれていると破り捨てられる。実家から食べものが送られてくると取り上げられる。
遊廓ではここまでひどいことはなかっただろう。客と手紙のやりとりをしているし、大正時代ともなれば電話で営業もしていたわけで。
女工哀史』には、女工たちが口にする歌にこんなものがあったと書かれている。

籠の鳥より 監獄よりも 寄宿ずまひは 尚辛い

籠の鳥」は娼妓の代名詞である。しかし、それよりも女工の寄宿舎生活は辛い。
自分らが置かれた環境の過酷さを強調するために、広く過酷さが知られている遊廓や監獄を持ち出しているだけ、また、その実態を知らないから言えているだけのようにも思えようが、細井和喜蔵は、より具体的に、女工たちの方が娼妓たちよりずっと辛い環境に置かれていたことを説明している。

女工の暮らしは豚小屋暮らし

細井和喜蔵は、寄宿舎を「豚小屋」と呼んでいる。娼妓が「籠の鳥」であるなら、女工は「豚小屋の豚」だと。見たこともない遊廓のことを想像で批判する人たちと違い、細井和喜蔵は工場の現実を見ていたからこそ、こう呼んだのである。
そもそも労働時間が長いため、女工たちにとっての寄宿舎は寝る場所でしかなかったのだが、それにしてもひどい環境で、個室なんてものは望むべくもなく、何十人もの女工たちが大部屋に詰め込まれ、一人当たり一畳か二畳しか与えられない。
個人の所有物は風呂敷ひとつだろうから、一畳あれば寝ることはできるが、二十六畳の部屋に三十三人を住ませていた寄宿舎もあったそうだ。『女工哀史』にはその事情が書かれていないのだが、おそらくこれは昼夜二交替制の工場だろう。これなら寝ているのは三十三人のうちの半数なのだから、一人当たり一畳以上確保できる。

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