2019-09-25

NHK高校講座 | 世界史 | 第37回 近現代の朝鮮半島



NHK高校講座 | 世界史 | 第37回 近現代の朝鮮半島




第37回
近現代の朝鮮半島

世界史監修:東京大学准教授 三ツ井 崇

1.朝鮮の開国と近代化 2.韓国併合と日本の植民地支配 3.分断国家の成立と南北関係




「マジカル・ヒストリー倶楽部」にようこそ!
今回のミッションは、「近現代の朝鮮半島」です。

眞鍋さん 「日本から最も近いお隣の国だからね。どんな歴史があるのか気になるね。」

永松さん 「今回は、約140年前から現在に至るまでの朝鮮半島の歴史がわかるツアーです。」





今回のビューポイントは、

1.朝鮮の開国と近代化
2.韓国併合と日本の植民地支配
3.分断国家の成立と南北関係

の3点です。

旅の舞台は、朝鮮半島。時代は、19世紀後半から現在までです。

韓国を代表する空港、インチョン(仁川)空港は、アジアの拠点空港として世界的に広く知られています。空港のある仁川市は、19世紀末に朝鮮で近代化の拠点となった都市です。その理由はどのようなものだったのでしょうか。
北緯38度付近の軍事境界線で、朝鮮半島は南北に分断されています。これは一体なぜなのでしょうか。

マジカル・ヒストリー・ツアー、現在まで続く激動の朝鮮半島の歴史が分かる旅へ、出かけましょう!





眞鍋さん 「朝鮮半島に関しては、長く続いた朝鮮王朝の時代まで、日本の江戸時代の頃までは勉強したよね。」

永松さん 「江戸時代、日本と朝鮮は平和な関係でしたよね。しかしその後、欧米列強が東アジアに進出し、日本は開国します。そして、明治維新を経て、近代国家に生まれ変わりました。朝鮮は、その日本の影響を受け、開国していくんです。」

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1.朝鮮の開国と近代化




マジカル・ヒストリー・ツアー、最初に訪れるのは、ソウルから約60キロメートル離れたインチョン(仁川)空港です。世界各地と韓国を結ぶ、アジアを代表する空港です。
空港がある仁川は、19世紀に日本や欧米に対して港を開きました。

港町 仁川は、どのようにして栄えていったのでしょうか。時間をさかのぼって、マジカル・ジャンプ!





19世紀、朝鮮王朝は、清に貢物を贈ることによって王位を認められる「冊封体制」という東アジアの伝統的な国際秩序の中にありました。一方で、欧米列強に対しては海禁政策をとり、国を閉ざしていました。
しかし、イギリスと戦ったアヘン戦争(1840〜42年)での敗北によって、清王朝の力が弱まり、東アジアの国際秩序が変化します。

19世紀半ば、清は欧米列強に対して開国します。
続いて日本も、1854年にアメリカと日米和親条約を結び、開国しました。





1875年、日本の軍艦による江華島(こうかとう:カンファド)事件を契機に、明治政府は伝統的な国際秩序を保つ朝鮮に対して強い圧力をかけます。そして、朝鮮に不利な内容を含む日朝修好条規(1876年)を結びました。

日朝修好条規によって、釜山(プサン)・元山(ウォンサン)・仁川が開港します。
それを見たアメリカ・イギリス・ドイツなどの欧米列強も、朝鮮と不平等な内容を含んだ条約を結びます。
こうした状況の中、開港を機に朝鮮は、近代化を目指して歩み始めました。
港町仁川には、日本や西洋の文物が数多く流入し、海外と朝鮮を結ぶ貿易港としての役割を果たしていきます。

やがて朝鮮では、清との冊封関係を維持しつつ近代化を目指す勢力と、日本と結んで近代化を目指す勢力が争うようになりました。





そのような中 1894年、朝鮮国内で、政権を倒し西洋や日本を追い出そうと呼びかける反乱「甲午(こうご)農民戦争」が起こりました。
この反乱の鎮圧などのために、日本と清が朝鮮半島に軍隊を送り、朝鮮領内で衝突します。こうして1894年、日清戦争が勃発しました。
朝鮮半島における主導権をめぐって両者が戦ったこの戦争は、日本の勝利に終わりました。





眞鍋さん 「この頃になると、清だけではなくて、西洋や日本の影響も強く受けるようになったんだ。」

永松さん 「そうなんです。日清戦争の後、朝鮮は清との冊封関係を解消し、国号を『大韓帝国(1897〜1910年)』と改めました。この頃から、今度はロシアが朝鮮半島に進出してくるんです。」

眞鍋さん 「今度は、ロシアか。」

永松さん 「日本は、朝鮮半島の主導権をめぐって、ロシアと戦うことになります。この戦いの結果が、朝鮮半島に大きな影響を与えるんです。」

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2.韓国併合と日本の植民地支配




マジカル・ヒストリー・ツアー、続いては、ソウルで最も有名な繁華街と言われているミョンドン(明洞)を訪ねます。世界各地から多くの観光客が訪れる人気スポットです。

この町には、かつて日本人が多く住んでいたといいます。
それには、どのような背景があったのでしょうか。謎を解き明かすために、マジカル・ジャンプ!





朝鮮半島に影響力を強めるロシアと、それを阻止しようとする日本が朝鮮半島の権益をめぐって対立し、日露戦争(1904年~1905年)が勃発しました。
日本軍は、奉天での戦いや日本海海戦に勝利します。そしてポーツマス条約を結び、講和しました。その結果、日本はロシアに韓国の支配を認めさせました。
1905年、日本は韓国の外交権を手に入れ、韓国は日本の保護国となります。

韓国国内では、言論や教育などを通して民族の力を強めようとする「愛国啓蒙運動」や、武力による抵抗運動「義兵闘争」が活発化しました。
日本はこれらを抑圧します。





1910年、日本は韓国併合を行い、現在のソウルに朝鮮総督府を置いて植民地統治を進めました。
ソウルのミョンドンは、この時代に日本人の居住区となり、「明治町」と呼ばれ商業の中心地となりました。

一方、朝鮮の人たちの間で民族自決を求める声が高まり、1919年3月1日以降「三・一独立運動」と呼ばれるデモやストライキが朝鮮各地で発生します。朝鮮総督府は、この運動を軍隊や警察の力で鎮圧しました。
その後、日本は朝鮮の人たちに対して、言論・文化・経済活動の自由をある程度認めるようになります。そうすることで、支配の安定を図ろうとする狙いがありました。





1937年、日本は日中戦争に突入します。さらに、第二次世界大戦にも参戦しました。
すると、朝鮮半島の統治のしかたに、再び変化が表れます。

朝鮮は、日本の大陸政策における重要な拠点とされ、朝鮮の人々を戦争に動員するために「皇民化(こうみんか)政策」がとられました。
家族制度を日本とほぼ同じものに改める創氏改名(そうしかいめい)が行われ、その過程で、朝鮮人が日本人風の氏名に変えさせられるケースもありました。

また、日本は戦争の長期化により国内の労働力が不足したため、多くの朝鮮人を日本の炭鉱や工場の労働者として動員しました。当時、慰安婦として、戦場に送られた女性もいました。
これらのことは、現在も人権上の問題として、内外から指摘されています。

1945年、日本が降伏し、第二次世界大戦が終結しました。
そして、35年に及んだ日本による朝鮮半島の植民地支配も終わりました。
しかし、戦争終結後も朝鮮半島の人々にはさらなる苦難が待っていました。


眞鍋さん 「ミョンドンって、観光客にも人気の楽しいお買い物スポットだけど、昔は日本人の居住区だったんだね。」

永松さん 「それは、僕も意外でした。」

眞鍋さん 「朝鮮半島の人たちにとっては、苦しい時代だったんだよね。でも、戦争が終わった後も、まだ朝鮮の人々には苦難が待ち受けていたということ?」

永松さん 「第二次世界大戦後、今度はアメリカとソ連が、朝鮮半島で激しく対立します。それが、さらなる悲劇を生んでしまうんです。」

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3.分断国家の成立と南北関係




マジカル・ヒストリー・ツアー、最後は、朝鮮半島の北緯38度線付近にある軍事境界線を訪れます。
ここは、幅4キロメートル、東西250キロメートルにわたる非武装地帯になっています。

どうして、このような境界線ができたのでしょうか。時間をさかのぼって、マジカル・ジャンプ!





1945年8月、第二次世界大戦の終戦間際に日本に宣戦したソ連は、中国東北部・満州から朝鮮北部に兵を進めました。
一方で、ソ連が朝鮮半島全土を占領することを恐れたアメリカは、北緯38度線を境とする分割案を提示します。南側はアメリカ、北側はソ連が分割占領しました。

この頃から、アメリカを中心とする資本主義陣営と、ソ連を中心とする社会主義陣営が世界を二分する冷戦構造が築かれていました。





1948年、大韓民国(韓国)と朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)が、それぞれ成立します。
そして1950年、北朝鮮が韓国領内に侵攻したことを発端として、朝鮮戦争が勃発しました。
米軍を中心とする国連軍と北朝鮮軍による戦いは、一進一退の戦闘が続きました。そして1953年、休戦協定が結ばれ、現在の軍事境界線が築かれました。





その後、南側の韓国は、軍人によって統治される軍事政権が続きました。
朴正煕(パク チョンヒ)政権(1963〜79年)は、事実上の軍事独裁を続けるとともに、国の経済成長を最優先する政策をとります。

1965年、朴政権は、日韓基本条約を結び日本との国交を正常化します。このとき、日本から韓国へ経済協力が決められました。
さらに、ベトナム戦争でアメリカに協力した韓国は、アメリカからの多額の援助もあり急激な経済成長を成し遂げます。首都ソウルを流れる川の名前にちなんで、「ハンガンの奇跡」と呼ばれています。

この間、民主化を求める動きが強まり、1980年代末に国民の選挙によって盧泰愚(ノ テウ)大統領(1988〜93年在任)が選出されました。
こうして、韓国では、軍事独裁政治が終わりを告げました。





一方北朝鮮では、朝鮮戦争の後、金日成(キム イルソン)に権力が集中し社会主義による国づくりが本格化しました。
しかし、1970年代から経済状況が停滞し、現在でも国民の生活は困窮しています。

1994年、金日成が亡くなると、その子どもの金正日(キム ジョンイル)が最高指導者の地位を受け継ぎました。
その金正日の死後、2012年からは、彼の子どもの金正恩(キム ジョンウン)が指導者になり、現在でも一族による独裁体制が続いています。

半島の分断後、長く対立が続いていた韓国と北朝鮮ですが、1972年以降 変化が起こります。
断続的に対話が行われるようになり、2000年、韓国の大統領が北朝鮮を訪れました。朝鮮戦争後、初めての南北首脳会談が実現します。このとき、将来の平和的な統一を目指すことが合意されました。

しかし朝鮮半島には、現在でも未解決の問題が数多く残っています。


眞鍋さん 「冷戦後、ドイツはベルリンの壁が壊されて統一されたけど、朝鮮半島は今も分断が続いているんだね。日本にもすごく影響が大きな話だから、これからどうなっていくのか、気になるよね。」

永松さん 「平和的に解決されるといいですね……。」

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Deep in 世界史




マジカル・ヒストリー倶楽部の歴史アドバイザー、三ツ井 崇先生(東京大学 准教授)に歴史の深いお話をうかがいます。

三ツ井先生 「日本で、韓流ブームが起こったことは有名ですよね。韓国のドラマや音楽が、たくさん入ってきたのを私も覚えています。本当に影響力がすごかったなと思いますね。一方、韓国においても、日本に対する関心というのは、結構あるんですよ。」

眞鍋さん 「そうなんですか!」

三ツ井先生 「書店に行くと、日本関連の書籍がたくさん並んでいて、本当に日本に対する関心が強いなと思いました。ところが1998年までは、韓国では日本の大衆文化の受容というのは、実は禁止されていたんです。」

永松さん 「そんなに最近まで禁止されていたんですか。」

三ツ井先生 「1998年以降は段階的に開放していますが、なぜ禁止されていたかということが問題になるんですね。その背景には、韓国の人々の植民地期における文化的抑圧の記憶というものがあります。やはり、近代の葛藤の歴史が、文化の領域にまでも反映されていたということになるわけです。」





三ツ井先生 「歴史に対する理解というのは難しいかもしれませんが、現状としては全体的に知識が不足していると言わなければなりません。いろいろな葛藤や緊張があるからといって歴史を回避するのではなく、むしろ積極的に知ることで葛藤に向き合ってこそ、未来が見えてくるのだと思います。」

眞鍋さん 「お互いが、お互いの置かれている立場や考えを理解しないと、話が平行線になってしまいますからね。」

三ツ井先生 「そうですね。」

二人 「先生、どうもありがとうございました。」


次回もお楽しみに!

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