2019-09-06

朝鮮人徴用工の手記 | 鄭 忠海, 井下 春子 |本 | 通販 | Amazon



朝鮮人徴用工の手記 | 鄭 忠海, 井下 春子 |本 | 通販 | Amazon




mjsalsa

5つ星のうち5.0日本人と朝鮮人の関係に驚き。

2016年7月13日

私の母も同じ時期東洋工業で働いていた。朝鮮人徴用工に対し日本人が丁寧に対応している事がこの本(日記)で詳しく綴られている。作者が人格者であるからかもしれない。原爆、終戦、朝鮮への壮絶な帰国。すごいドラマである。

38人のお客様がこれが役に立ったと考えています
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徴用工の手記から見える植民地朝鮮の労働者




http://sengonet.jp/archives/1847


<映像’19 「ある徴用工の手記より ~日韓の間に何が起きているのか~」>MBS(毎日放送)HPより 
https://www.mbs.jp/eizou/backno/190728.shtml


MBS(毎日放送)のドキュメンタリー番組 <映像’19 「ある徴用工の手記より ~日韓の間に何が起きているのか~」が2019年7月28日(日)に放送された。番組では、現在の韓国徴用工問題=日韓の亀裂状態のもとを辿るかたちで、韓国徴用工の手記を映像化し、当時の徴用工の暮らし・思いを伝えている。また、背後には何十万という数の徴用工たちがいて、中には強制的な連行や危険な労働環境をとおして、命を落としたり、心身に傷を負った人もいたのだ、と知る。ごく簡単に紹介する。



鄭忠海(チョン・チュンヘ)『朝鮮人徴用工の手記』(河合出版 1991年)映像’19より




『ある徴用工の手記より―日韓の間に何が起きているのか』

鄭忠海(チョン・チュンヘ)という青年が徴用され広島の軍需工場で働かされた体験を綴った本を手がかりに、朝鮮人労働者の動員の過程を解き明かし、現在の韓国徴用工問題までを振り返る。

朝鮮人の労働者はどのようにして日本国内に動員されるようになったのか。1910年以降増加傾向にあった朝鮮人の内地への移動が、国内の治安上の問題を起こしているとして、1934年の政府の閣議決定の内容では、むしろ抑制しようとしていたことが確認できた。

1937年に日中戦争がはじまり国内の労働力が不足しだすと、動員政策の変更を迫られて1939年7月に国家総動員法に基づく「国民徴用令」が施行された。その年の動員計画では、学校卒業予定の男女や農村の人々を徴用し軍需工場などで働かせることが決まった。

植民地朝鮮人については動員目標を8万5千人とした。ただ徴用令は出されず、募集が1942年2月まで、官のあっせんが1944年8月までで、1944年9月になってから徴用令による動員がなされた。

ただ手法の違いはあっても、時として暴力や脅迫に伴うものがあったと、あきらかになっている。たとえば、『朝鮮人強制連行調査の記録』(柏書房)には多くの証言が掲載されている。


1942年7月動員された証言 映像’19 より


日本人警官2名と面事務所の役人が来て連行されていった。「既に15名の青年が連行されていました。行きたくないと拒否すると、おまえが行かなかれば親兄弟を皆殺しにするぞと、脅しました」(1942年7月動員)

日本人の巡査が、用があるから来いと呼びつけた。「留置場に放り込まれた。翌日、トラックで全羅南道の冷水港に連れていかれ船に乗せられ、ようやく手錠を外された」(1943年7月動員)

外務省の外交史料館の資料にも朝鮮人が無理強いされていた様子が描かれていた。「出動ハ全ク拉致同様ナ状態デアル。ソレハ、然シ、事前ニ於イテソレヲシラセレバ、彼ラハ逃亡スルカラデアル。ソコデ夜襲、誘出、各種ノ方策ヲ講ジテ、人質的略奪拉致ノ事例ガ多クナルノデアル」(日本の内務省嘱託職員の朝鮮出張報告書 1944年7月)

「朝鮮人に自己決定権がなかったこと。労働力を日本の戦争に使ってしまったのが大きな問題」(外村大東大教授)

1944年になると、閣議決定で朝鮮人を29万人動員する計画を立てた。これは限度を越える負担となった。

*鄭忠海の手記
「突然私にも徴用令状が来た。いま日本全土で空襲がはじまり、焦土作戦だという。わざわざ爆撃を受けにいくようなものであり、死に場所を求めてくことになる」―鄭忠海『朝鮮人徴用工の手記』(河合出版 1991年)

鄭忠海は25歳で徴用され、ソウルから釜山へ向かい船で博多に向かった。「もしかしたらこれが最後の故郷の見納めかと思い、同胞たちは先を争って船の上甲板に上がった。ある物は叫び、涙を流していた」



戦前の東洋工業(映像’19より)
彼らの行き先は広島の東洋工業(現マツダ)だと知らされた。到着すると早速訓示があり、かつては三輪オートバイを製作していたが、最近は99式小銃を作り、重要な軍需工場となっている、各人はそれぞれの工場の配置になると伝えられた。



鄭忠海(チョン・チュンヘ)の手記 映像’19 より



1945年3月に朝鮮人徴用工のリーダーとなるべく鄭 忠海は奈良の「西部国民勤労訓練所」で数ヶ月の訓練を受けることになる(皮肉なことに現在、航空自衛隊の基地になっている)。

広島に戻った鄭 忠海は8月6日の原爆の様子を克明に記憶していた。また、ラジオの前で天皇の降伏の放送を聴いた時には、内心飛び上がるように喜んだが、今のこの場所では喜ぶこともできず、だからといって悲しむこともできない微妙な立場だった、と吐露している。

実は鄭 忠海の子息が日本で暮らしている、という。その後の暮らしはどうだったのだろう。

韓国に戻っても苦労続きで、日本人が経営していた銭湯で働いて、朝鮮戦争が始まると兵隊に連れて行かれたという。「私が覚えていたのは父の背中の荷物に乗せてもらったこと、その上を砲弾が飛んでいたのを記憶している」




広島の病院へ療養に来ていた鄭忠海(右) 映像’19より
鄭忠海は朝鮮人被爆者として、戦後もたびたび広島の病院へ療養に訪れていて2003年に87歳に亡くなった。



日韓条約では植民地支配責任については日韓で意見が折り合わず、経済協力として決着した。1965年の日韓請求権協定は過去の克服を目指すものではなかった、と研究者の間では評価されている。

徴用工問題は2013年にソウル高裁で日本製鉄に慰謝料を支払う判決があり、2018年の韓国最高裁で、慰謝料請求権は残っているとして、徴用工原告と遺族への賠償が判決として出された。

軍需会社法(1943年)によれば労働者を徴用とすることが可能だという(当時の日本製鉄も軍需会社として指定)。実態として募集や官あっせんであっても徴用工として認められるという。(外村大東大教授)



徴用工訴訟の李春植(イ・チュンシュク)さん(95) 映像’19 より
韓国では今、徴用工たちの韓国政府の責任を追求する裁判もおこなわれているという。



メディア、企業も含めて日本人の対応はどうなのか? 「韓国社会の反応がレベルが低いかのように見ている。かつて植民地支配の朝鮮を蔑視していたが、今でもそれを再現しているかのようだ」(太田修同志社大教授)

以上簡単に内容を紹介したが、徴用工だった方の手記を糸口にしたすぐれたドキュメンタリーだ。番組のなかで、かなり細かい記録の手記を書かれた人がいる、と翻訳者の方も話されていたが、その具体的な記述や感想が当時の状況を伝えていて活きている。

この問題は実際の当事者が尊厳を取り返すために告発している、ということもあるのだが、被害を受けた人々の当時の実態を知ることが重要だとあらためて思い知らされた。問いかけるのは日本の朝鮮の植民地支配の責任なのである。いまだにそのことに頬かむりしている日本政府と社会の恥ずべき姿があらわなっている。

(編集部)


徴用工裁判の弁護士 映像’19より



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Tags:アジアドキュメンタリー番組元徴用工問題強制動員朝鮮植民地植民地支配裁判記録証言韓国












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「徴用工問題」から日韓関係考えるドキュメンタリー「映像’19 ある徴用工の手記より~日韓の間に何が起きているのか」がMBS毎日放送で28日深夜放送~ネットの反応」「MBSだからどうせ韓国擁護プロパガンダ番組なんだろ?」


2019.07.27政治
「徴用工問題」から日韓関係考えるドキュメンタリー「映像’19 ある徴用工の手記より~日韓の間に何が起きているのか」がMBS毎日放送で28日深夜放送~ネットの反応」「MBSだからどうせ韓国擁護プロパガンダ番組なんだろ?」

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韓国大法院(最高裁)は昨年10月30日、日本企業に対して元徴用工に賠償を命じる判決を出した。判決をきっかけに日韓関係は悪化の一途をたどる。徴用工の手記を基に「徴用工問題」から両国の関係を考えるドキュメンタリー「映像’19 ある徴用工の手記より~日韓の間に何が起きているのか」が28日深夜(29日午前)0時50分、MBS(大阪市)で放送される。

 判決は日本の企業、新日鉄住金(現日本製鉄)に元徴用工の原告1人当たり慰謝料1億ウォン(約900万円)を支払うよう命じるもので、その後も他の日本企業について同様の判決が続く。戦後74年、韓国側が未解決とする徴用工問題。一方、日本政府は、1965年の日韓請求権協定で「賠償問題は完全かつ最終的に解決されている」と主張している。

 太平洋戦争の末期の44年9月、日本は当時、植民地としていた朝鮮半島でも国民徴用令による戦時徴用を開始。鄭忠海(チョン・チュンヘ)さんも同胞とともに内地(日本)へ動員された。日本の敗戦後に帰国した鄭さんの当時の心情を記した日記が、日本人翻訳家の目にとまり、90年に「朝鮮人徴用工の手記」というタイトルで日本で出版。鄭さんはあとがきに「祖国が日帝植民地治下から解放されていつしか45年、今は過去の怨恨(えんこん)がきれいに清算されて、日韓両国が善隣友邦として相互に協力提携していければと願っている」とつづる。

 番組では、朝鮮人強制動員の歴史を日本の公文書で振り返るとともに、日韓請求権協定締結の経緯や内容、また新日鉄住金訴訟の原告らにも話を聞いて、「徴用工問題」に迫る。

 津村健夫ディレクターは、歴史的な経緯をたどるためにも「当時の様子が事細かく書かれた鄭さんの手記を基に番組を作った」という。

また「事実を知った上で問題に取り組まなければならない。そうした事実はドキュメンタリーで時間をかければ、細かく伝えることができると思う。事実を順に追って理解することで、問題を考える契機にしてほしい」と話している。【用貝成子】

https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190727-00000007-mai-soci






MBS ホームページより

ある徴用工の手記より ~日韓の間に何が起きているのか~
1991年に日本で出版された「朝鮮人徴用工の手記」という本がある。1944年に11月に朝鮮で徴用された鄭忠海(チョン・チュンヘ)さんが、戦後書いた手記だ。鄭さんは広島の工場で小銃を作る仕事をさせられた。
労務環境はそれほど悪くはなかったが、日本が米軍の空襲で受けた惨状などを見る目は、怨恨に貫かれている。
「罪のない市民たちが犠牲になったのだから哀しいことだけれど、彼ら自らが招いた災いであり、誰も恨むことはできないだろう」。

番組では、この本の内容を映像化して、当時の徴用工の暮らし・思いはどんなものだったかを伝える。また、鄭さんという一人の徴用工の後ろには、何十万という数の徴用工たちがいて、中には強制的な連行や危険な労働環境をとおして、命を落としたり、心身に傷を負ったりした人もいる。去年10月の韓国大法院の判決をきっかけに日韓両国の関係が悪化する中、日本での取材以外にも韓国でこの問題に関りのある人々にも直接話を聞く。一次資料に当たるなど、事実に基づいて番組を制作・放送することで、関係改善の一助としたい。


https://www.mbs.jp/eizou/






管理人
ネットの反応

名無し
そもそも「徴用工問題」なんて無いよ
「応募工を元にした詐欺問題」ならともかく

名無し
※当番組はフィクションです

名無し
どうせDQNメンタリー

名無し
たぶんそうw

名無し
まーたウリナラファンタジー原作かwww

名無し
番組スポンサーどこですか?

名無し
偏向の予感

名無し
まずは日韓基本条約の内容を放送しろよ

名無し
ファンタジーな国のドキュメントになんの価値が・・

名無し
どっちよりなんだろ

名無し
考えるまでも無いww

名無し
反日反安倍の天下のMBSやで

名無し
MBSだからどうせ韓国擁護プロパガンダ番組なんだろ?

名無し
毎日系列が作るんだから中身はお察しw

名無し
現在訴えを起こしてる連中は募集工であった部分は隠すんだろうね

名無し
ねつ造報道で有名なMBSですか

名無し
MBSのドキュメンタリーといえば札付きサヨク・ディレクター斉加尚代が記憶に新しい
今日もせっせと会社の金で反日に勤しんでいる事だろう

名無し
MBS毎日放送は恥ずかしい反日放送局。韓国側です。

名無し
MBSだと日本が悪い 
めでたしめでたし
といった結末になるぞ

名無し
夜中にコソコソやるのは、朝日や毎日が英語版で嘘八百並べ立てるのと根が一緒

名無し
日本が払った金の使い道までやるんだよね?








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朝鮮人徴用工の手記
2008年02月05日 | 読書日記など
『朝鮮人徴用工の手記』
   鄭忠海・著/井下春子・訳/河合出版1990年

ある一人の日本人に対して、恩人などといえる心にゆとりのある人が書かれた本といっていいのではないでしょうか?



東洋工業に徴用されたという。下「」引用。
「長い年月を経過したが、生涯忘れることが出来ない思い出なので書き残しておこうと思う。
 一九四四年末、敗戦の色濃くなってきた日本は、朝鮮の青年男女たちをいろいろな名目で徴用して、東南アジアの戦場に、軍需工場に、あるいは炭鉱にと動員していた。私も同年十二月初め、徴用され、日本の広島市仁保(にほ)町向洋(むかいなだ)にある東洋工業株式会社に配属された。
 東洋工業は、戦前“マツダ(松田)”という三輪オートバイを製作していたが、戦争が起きると九九式小銃を作る軍需工場に姿を変えたという。」

女子挺身隊として徴用された女性たち。下「」引用。
「年ごろの娘たちも女子挺身隊の美名のもと、各戦線に動員されるなど戦局は緊迫していた。聞くところによれば、女子挺身隊として動員された乙女たちは、戦場で軍人の慰安婦にされたという。」

日本人ではこれを否定する人たちがいます。

--広島原爆投下による『きのこ雲』を四国の料亭で見ていた中曽根康弘。
料亭で働いていた芸者たちは、女子挺身隊として、そのまま居残り、芸者の仕事をしていたという本もあったと思います。
また、女子挺身隊でも、愛人のようなことをさせられた人たちは、裕福な生活ができたと書く本もありました……。少し優遇されたにすぎませんが、当時飢えていた庶民との差は大きいかもしれません……。

原爆に被爆。下「」引用。
「時刻は八時十分過ぎころ。西側の比治山山頂を眺めていると、稲光りでもない閃光がピカッと光った。真っ暗な夜中に空中から落ちる照明弾のようでもある。光った瞬間、目の前が真っ暗になり、顔がほてって熱く、バリバリという音だけが聞こえる。意識を失ってその場に倒れてしまった。」

命の恩人……。下「」引用。
「私はの命の恩人が岡田和江さんだというのは、本来なら私も広島方面に疎開作業にでて、重火傷を負っていたのが、火を見るよりもあきらかだ。私が今この手記を書けるのも、むろん岡田さんのお陰だ。彼女こそ私の恩人であると同時に、我が家門の恩人である。」

韓国には死者どうしの結婚「冥婚」の慣習があるという。
--工場で死んだ男女は交互に並べられて焼かれたという。
しかし、工員には女性が多かったという。

検索してみると、日本にもあるようです。
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