2020-07-02

書評『忘却の引き揚げ史』下川正晴著 弦書房|三浦小太郎|note



書評『忘却の引き揚げ史』下川正晴著 弦書房|三浦小太郎|note

書評『忘却の引き揚げ史』下川正晴著 弦書房
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三浦小太郎2019/04/03 09:25



 この一冊の中に「引揚げ体験」という、戦後日本がごく少数の例外を除き黙殺してきた重大な歴史の闇が描き出されている。そこにはあまりにも痛ましい数々の惨劇と共に、その運命に立ち向かった多くの人々の姿も記録されている。本書が描いた世界は、現在中東で起きている事態や、そして将来朝鮮半島やアジア全域における近未来の大変動にもまっすぐにつながっていくものだ。
 毎年8月15日を迎えるころ、テレビ、新聞をはじめとするいわゆるマスコミは「戦争」を特集することがもはや「季節のご挨拶」のようになっている。しかし、そこで語られるポイントは、著者で元毎日新聞記者、下川正晴が厳しく指摘するように、空襲、原爆、沖縄戦にほぼ集約され、「引揚げ」が語られることはあまりに少ない。

「引き揚げの歴史には、戦前と戦中と戦後が交錯し、加害と被害の歴史が重なる。引き揚げの歴史を検証することは、日本近現代史を国際的視野で捉え直すことにつながる。現在の日本とか世界の来歴を正確に理解することにつながる、というのが私の論点だ。」
「日本の近現代史を再考することは、大日本帝国の生成と崩壊過程、そして戦後を検証することである。旧大日本帝国の海外領土で何が起きたのか。帝国崩壊後の引揚げは、戦中戦後の国際政治とどういう関連があったのか、戦後日本人の戦争認識、世界認識にどういう影響を与えたか、を考えることだ」(「忘却の引揚げ史」以下同)

 本書で提起された問題は多岐にわたっており、とてもその全てを論じることはできないが、いくつかの論点に絞って、下川氏の問題提起をたどっていきたい。
二日市保養所 

 ソ連軍が日ソ中立条約を一方的に破り、満州に侵攻、朝鮮半島北半分に至るまで占拠していく過程で、居留民に多くの犠牲が出たことは今更言うまでもない。まさに彼らは「難民」として、命がけで日本を目指すしかなかったのだが、その過程で、多くの女性がひどいレイプを受け、望まぬ妊娠を強いられた。しかし、当時の日本では、法律で堕胎は基本的に禁じられていたのである。

あるあまりにも痛ましい記録を本書は紹介している。引き揚げ当初、ソ連軍に何度も暴行された女性が博多に降り立った。彼女の両親もまた本人も、ひそかに堕胎してくれるよう頼み、医師たちは迷った挙句手術に踏み切るが、その結果は失敗で、母胎も胎児も死亡した。当時堕胎が禁止されていたため、手術の経験も設備も不充分だったのである。娘の両親は、「やはり恥多くとも、産んで育てるべきだった」と悔やんだ。

このような体験を経て、法律云々を語って手をこまねいていたとしたら、それは臆病な偽善者と言われても仕方があるまい。医師たちや関係者は、中絶のための専門病院を秘密裏に作ることを決意する。1946年3月25日、福岡県筑紫郡二日市町の旧愛国婦人会県支部武蔵野温泉保養所を借用し、医師、従業員、機会をそろえたうえで「二日市保養所」が建設された。

これは単なる現地だけの自発的な行動ではなかった。本書には、民官連帯による引揚者への救援活動を、当時の厳しい情勢下まさに「危機管理」の見本というべき形で担った人々がいたことが記されている。そして驚かされるのは、皇室が戦争末期から、かなり高いレベルで満州の情勢などをつかみ、その対策を講じようとしていたことである。当時の宮内省では、満州における情報収集や報告が定期的になされていたことが、高松宮殿下の日記に最も詳しく表れており、殿下ご自身も、開設後間もない4月17日、二日市保養所に、医師や看護婦を激励するために訪問されている。そのこと自体が、事実上この手術を政府が承認していることを医師たちに確信させたのだった。

この二日市保養所でどれほどの堕胎手術が行われたのか、現在ではほとんど知るすべがない。もちろんここだけではなく、引揚者に対する堕胎は全国的に行われていたことを本書は明らかにしている。だが、今のところ数的な根拠は、中絶手術の担当医だった秦禎三が、1997年に講演会で証言した「400人から500人」という推定値以外には根拠ある数字は見つからないようだ。保養所は1947年4月の段階で入院患者はほとんどいなくなり、秦は同所を辞しており、その年の夏には同所は閉鎖されている。保養所におけるカルテや診療記録は、今はほとんど残されていない。本書ではほかに九州大学において、1000人近い堕胎が行われた証言も紹介されている。

そして、民間や一部の官僚の努力、皇室の活動を別とすれば、日本政府は全体としてこの引揚げ同胞に対しては無策だった。この点を著者は次のように批判しているが、このような視点こそ、歴史への反省を通じて未来につながる問題意識を提示するものである。

「問題は、日本政府が戦争遂行にあたって敗戦の事態を考慮せず、敗戦後の引揚げすら想定せず、その場しのぎの対応をとったことにある。これは非常事態への対応策の不備として、現在にも通用するテーマだ。ソ連政府は、満州で起きた自国兵による性暴行に対して、何らの謝罪も補償も行っていないが、日本政府はそれを要求するための基本的な数値(レイプ件数、不法妊娠による中絶件数)すら持っていない。いや、公開していないというべきか。」
「満州にいた国民にとって、大日本帝国はある日、突然、崩壊した。『平和国家日本』が崩壊しない保証がどこにあるのだろうか。被害の直撃弾を受けるのは、国民ひとりひとりである。」
泉靖一 危機の文化人類学

この時の救援運動に、後にアンデス文明の研究家として知られる、文化人類学者で朝鮮半島育ちの泉靖一が大活躍していたことは、私は本書で初めて知った。そして、ここで紹介される泉の姿は、たとえば杉原千畝やオスカー・シンドラーに匹敵する、いや、彼らをはるかに上回るヒューマニズムと、同時に戦略眼と行動力を兼ね備えたものである。そのあまりにもダイナミックな活動、そして彼をめぐる多くの人々による、妊婦のみならず、孤児たちの救援を含む引揚者救援活動全体を知るためには、ぜひ本書をお読みいただきたい。とても、部分的な引用では尽くせない大事業であり、しかも、泉をはじめほとんど全員が、自らの功績を語ること殆どなく一生を終えていったことに、すべての読者は深い感銘を覚えるはずである。

ただ、ここでは一例をあげておく。1946年、分断された朝鮮半島において、北からの引揚者が当時の南に大量に殺到してきた。彼らの多くは栄養不良で、特に幼少児たちは、米軍が配給するコーリャンやトウモロコシが受け付けられず、餓死者が続出していた。当時朝鮮半島は分断直後、政治的にも混迷しており、博多からソウルへの通信もしばしば遮断された。朝鮮半島出身で、博多・ソウル間の連絡を含め活動していた泉は、事態を打開するために、密航の罪すらいとわず朝鮮半島に渡り、資金調達や難民救援に参加した。しかし、当時日本から朝鮮半島への許可なき密航は当然違法、米軍に逮捕されピストルを突き付けられた。そのとき泉は、こう答えたという。

「戦争で負けるということは、こんなに悲しい情けないことか、ということをはじめて見て知った。同胞が死ぬか生きるかの瀬戸際の運命を背負って、裸同然で北朝鮮から南朝鮮へ逃げてくる。おぶわれて、たどり着く。歩けなくて、はってくる。薬と金があったら、この人たちの何人かが救われるのです。しかし今、ソウルの救済病院には一銭のお金もない。それを知っていて、黙って見殺しにできますか。もし貴下がその立場に立たれたら、やはり僕のようになさったでしょう。私は(朝鮮半島への)再渡航は罪になることも知って渡りました。どうぞ私に、どんな罪でも与えてください。潔く受けましょう。」

幸い、この米兵は泉氏の心情を理解し、そのまま釈放してくれたのだった。泉はこのような勇気と同時に、避難民の心に寄り添うような言葉で彼らに語り掛ける文章力をも備えていた。引揚船の中で配布された泉の文章には、具体的名情報と対策を過不足なく伝え、かつ、傷つけられた人々の心に静かに呼びかけるものとなっている。

「不幸な御婦人方へ至急ご注意!
皆さん、ここまで御引き揚げになれば、この船は懐かしき母国の船でありますから、まずご安心ください。
さて、今日まで数々の嫌な思い出も御ありそうですが、茲で一度顧みられて、万一これまでに「生きんがために」または「故国に還らんが為に」心ならずも不法な暴力と恐怖により身を傷つけられたリ、又はその為、身体に異常を感じつつある方には、再生の祖国日本上陸の後、速やかにその憂悶に終止符を打ち、希望の出発を立てられるために乗船の船医へ、これまでの経過を内密に忌憚なく打ち開けられて、相談して下さい。
本会はかかる不幸なる方々のために船医を乗船させ、上陸後は知己にも故郷へも知れない様に、博多の近く二日市の武蔵温泉に設備した診療所へ収容し、健全なる身体として故郷へご送還するようにして居りますから、臆せず、惧れず、ご心配なくただちに船医の許まで御申し出ください」

 泉のこのような感性は、彼が青年時代、朝鮮半島で得た様々な体験が反映しているはずである。父親は、日本の朝鮮統治に対し、その傲慢さ、朝鮮人を見下す態度があることに深い憂慮の念を抱き、そのことを息子に常に教育していた。そして泉は、済州島を探検した際、同僚が遭難する事件にあい、そこで島のシャーマン(巫女)たちが、遭難者の安全を占うさまに直面した。当時の陸軍や日本人たちは、このような行為を迷信と笑い軽蔑していたが、泉は、結果として遭難者は助からなかったにせよ、朝鮮民族の中には、自分が全く知ることのなかった、前近代の魅力的な伝統文化が息づいていることに感動したのである。これこそ、将来の文化人類学者としての泉の原点だったはずである。

 しかしこの済州島は、後に、北朝鮮の影響を受けた左派と、彼らを撲滅しようとする右派との激しい内戦に巻き込まれ、多数の死者を出す4.3事件を迎える。戦後、済州島を再訪した泉が観たものは、その傷跡が生々しく残る時代だった、良き文化が暴力で滅ぼされていった悲劇に直面した時の泉の想いと、後にインカ帝国やアンデス文明に取り組んでいった時の姿勢とは、決して無縁のものではなかったはずである。
今も続く「引き揚げの悲劇」と拉致問題

そして本書には、まさに現代の拉致問題に直結する事例が記されている。こような歴史こそ、この8月に我々国民が共有すべきものである。そして、ここで触れられている天内氏の妹は今もなお北朝鮮にとらわれたままかもしれないのだ。

「1945年8月9日、ソ連が満州に侵攻してきた。天内みどり(83)は当時12歳。(中略)日本人学校に連行された。日本の敗戦を知った自餅住民らが、竹やりを手に校舎内に入り込んできたが、大人たちが何とかなだめた。ほっとした天内が一人で校庭に出ると、どこからか朝鮮語の歌が聞こえてきた。校舎の陰から現れたのは、4,5人の少年兵だった。彼らが担いだ棒に、16歳くらいの少女が裸でさかさまにつるされていた。直感的に日本人だと思った。(中略)『見てはいけないものを見た」母には話せなかった。』

「収容所での暮らしが始まった。食べ物といえば、コーリャンが10粒ほど浮かんだおかゆ。病弱な母の代わりに綿摘みや豆腐売りを引き受け、焼き芋などを買って飢えをしのいだ。」夜中になるとソ連兵が現れ「マダムダワイ(女を出せ)」と騒いだ。そのたびに、若い女性が叫び声をあげながら連れていかれた。(中略)数人の日本人と一緒に、収容所を脱出し、釜山を出て佐世保港にたどり着いたのは1年後のことだ。教職に就き28歳で結婚。しかし夢の中でしばしば「マダムグワイ」という声にうなされた。」

「まさか君は大丈夫だよね」と夫が言った。当時、引揚者は生きるために体を差し出したという偏見があった。娘二人を授かったが、夫に触れられると震えるようになり、夫婦仲はぎくしゃくしたままだった。夫との死別を機に、引き揚げ体験を本にまとめた。目撃した性暴力もありのままに書く記した(中略)『伝えないと、なかったことにされてしまう。』それが、生き残った者の義務と感じている。」(中略)

「天内の妹、木村かほるは、1960年2月27日、秋田市内から忽然と姿を消した。当時、看護学院三年生、卒業式を間近に控え、実家近くの日赤病院への就職が決まっていた。(中略)妹と北朝鮮の拉致を関連付ける情報は数件あるが、2007年にバンコクから届いた情報が有力だ。平壌に拉致されたタイ人女性10人のうち、3人から得られた日本語教師に関する証言だ。その特徴がいずれも妹と酷似ている。天内が自費出版した本を読んでそのことがよくわかった。」(同)

 この文章に余計な解説をつける必要はあるまい。天内氏にとって、また妹君にとって、いや、この日本にとって、いまだに「引揚げ」は終わってはいないのである(終)

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三浦小太郎
1960年東京生まれ。雑文家。著書に「嘘の人権 偽の平和」(高木書房)「秀吉はなぜバテレンを追放したのか」(ハート出版)「渡辺京二」(言視舎)共著に「西部邁 日本人への警告」(イーストプレス)現在、アジア自由民主連帯協議会事務局長。




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