2023-11-26

第4章 混乱による被害の拡大 第1節 流言蜚語と都市

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第4章 混乱による被害の拡大

第1節 流言蜚語と都市

1 「流言」対象化の困難

大震災下での流言は、いつどこから発生し、誰を通じて、どのように伝わっていったのか。

事実の基本に属する問いではあるが、正確に押さえるのは大変に難しい。伝達プロセスに関係した主体を丹念にたどり、時点や場所などを確定する、遡及的で広範囲にわたる調査検証が必要だからである。しかし、関東大地震という災害の情報空間を満たしていた数多くの流言について、その一つ一つの伝達プロセスを徹底して究明することは不可能に近い。その理由の一

つに、まず「流言」という現象それ自体の捉えにくさと記録のされにくさがある。

 

(1) 流言の気づきにくさ

 第一に、流言は自覚されにくく、また、隠蔽されやすい。すなわち、流言であることは、事後的に明らかになる場合が多く、伝達プロセスに巻き込まれた当事者にしても、伝えたことにあまり触れたがらない傾向がある。

 そもそも、現場の人々の多くは、「流言」を「流言」として明確に意識しているわけではない。それゆえ、意識的な「伝達」や「阻止」の観念を持ちにくい。とりわけ、大地震のように、そもそも予測不可能で、地域全体が非常時の異常な緊張に包まれる環境においては、聞いたり伝えたりしている現場で「流言」と「情報」とを分けること自体が困難になる。 終的には、事実と異なる情報(「誤報」、「虚報」)であることが、流言の一つの重要な特質になるとしても、実際の流言は事実としての情報の断片を豊富に含み込んでいる場合が多い。その情報のどこが誤りであるのか確証されるのは、多くの事実が整理され照合された後になる。とても信じがたいことであっても、否定し説得するだけの証拠が示せないならば、未確認の情報として次に伝えられ、どこか別の場所へと流れていく可能性を保ちつつ、その集団にとどまるだろう。異常なほどの増殖・伝播は、流言を性格づける重要な定義要件であるが、広範囲への流布や意外な変形という事実もまた、後になってから判明することが多い。加えて、「皆がそう言っている」とか「他からも聞いたことがある」という状態自体が、その時点では伝聞を信頼してよい証しであるかのように受け止められる。そうした方向に機能してしまうことも忘れてはなるまい。  後から事実と異なる流言であったことが明らかになっても、慌てたとか混乱したという一般的な「逸話」にとどまって、なぜ混乱と誤りとが生み出され広まったのかの分析には発展せずに終わってしまうことも多い。実際、震災直後の流言が飛び交った情報環境について、思想家の土田杏村は、「僅かに二か月の間隔をしか置かないのに、五年か十年の日月を経過したほどの感じ」(『流言』,p.4)があると、それがあまりに遠くに感じられるようになった奇異さを振り返り、雑誌挿絵画家の田中比左良は、その渦中において「精神は緊張の度を通り越して逆上の域に達し」ていたが、「われ人ともに突拍子もない脱線振りだつたので、思ひ出す毎に苦笑を禁じ得ない」(主婦之友,p.218)と、全く他人事となってしまった状態を書き残している。体験者自身にして、その情報に振り回されたことが信じられないというほどの距離感を持ち、過ぎ去っ

たことと封印してしまう傾向が生まれがちなのである。

 

(2) 流言の押さえにくさ

 第二に、流言は押さえにくく、統制しにくい。権力をもって取り締まる側にも、その把握や対処において難しい問題を突きつける。

 そもそも、単に聞いたり伝えたりした情報を、聞いたあるいは伝えたという事実それ自体において取り締まることは難しい。当時の取り締まりを支えた法的な枠組みには、今日の軽犯罪にあたる比較的軽微な犯罪を取り締まる警察犯処罰令第2条第16項(「人を誑惑せしむへき流言浮説又は虚報を為したる者」は30日未満の拘留又は20円未満の科料)があり、改めて9月7日に出された治安維持のための緊急勅令(「人心を惑乱する目的を以て流言浮説を為したる者」は 10年以下の懲役もしくは禁固3,000円以下の罰金)があった。後から新たに出された勅令が、大地震直後に急激に増殖し過激化していった流言を、効果的に取り締まり得るものであったかどうかは疑わしい。法文にある「目的を以て」の一語は、意図的な騒擾の行為や謀略を裁く重要な文言ではあるが、他方において「流言伝播の事実のみに拘泥せば、当時都下の住民何人が之を為さざるものあらんや」(『大正大震火災誌』,p.580-581)といわれてしまう圧倒的な量的事実に、鋭く切り込むものではなかったからである。流言は、日常的にも繰り返されている誤解や誤読の、いわば集合的なエスカレーションであり、その意味で意図的な謀略を裁く法の枠組

みからはずれたところで急激に成長する。

 

(3) 流言のたどりにくさ

第三に、流言はたどりにくく、捉えにくい。

関東大震災の流言は、 も都市化された地域において、すなわち も人口が密集し、人口構成の異質性の高い地域において起こった。後に分析するように、短時間に広範囲でその流布が観察され、見方によっては不安感や差別に縁取られた民衆意識に基づく、「同時多発」的とも捉えられるような展開を示した。

もちろん、安易に同時多発という解釈に落とし込んでしまうのは、考察として中途半端である。新聞のようなマスメディアは機能不全に陥っていたが、避難民たちをはじめとして、救援者や警察や軍隊といった人の移動は、それ自体が情報の伝達媒体(メディア)であった。しかしながら、都市化された空間においては、すぐに「氏名不詳」の避難民や通行人から聞いたという形で、伝達プロセスを追いかけることができない行き止まりが生み出される。そして、聞く側にとって、そうした形での出所不明は実際の都市の日常的な経験と隣接しているがゆえに、情報を疑わしいものとして扱う条件とならない。このような要素もまた、大震災下の流言現象の確かな調査研究を妨げる条件として作用している。

調査解明や原因究明よりも、検挙取締に重点が置かれがちであったことを、一方的に非難するわけにもいかない。警視庁の報告書は「流言の出所並に其発展の経路、及び事実の内容に就きて厳密なる調査を遂げん」(同p.478)との努力をしたとも書くが、すぐに「流言者に対する取締は流言の調査より更に急務」という判断に傾いていく。傷害行為や殺人などと結びついた場合には、検察が告発すべき事件となり、警察の捜査の対象となるため、誰がどのように関わったのかのプロセスが明らかになる可能性もあるのだが、こうした資料が調書レベルの具体的な記述として公開され利用できるケースは少ない。また、これらが流言と深く関わっていた場合は、しばしば不特定多数が関わる集合的な事件となり、犯罪捜査として犯人が確定できない場合が生まれるなど、難しい特質を抱え込む。『大正大震火災誌』の記載は、裁くべき犯罪と結びついたレベルでも、そこに関わっていたはずの主体が調査を十分には組織できなかった証言と

して読むことが可能だろう。

 

 

2 流言蜚語の実態-警察に集約された記録を手がかりに-

 とはいうものの、体験者に対する改めての調査などは既に不可能であり、残された資料から流言の実態に迫る以外の方法はない。その際、官僚組織としての警察が残した記録は、手がかりとしての一定の有効性をもつ。各地域に配置された警察署という機構が、その連絡や報告のネットワークを通じて、混乱した中では も広範囲に及ぶ情報を集約し記録し得たからである。以下の考察において、警視庁編『大正大震火災誌』(1925年7月)を主に使うのは、そうした判断に基づく。

 いうまでもなくこの選択は、この資料の情報が も信頼できるということを含意せず、正しさを前提とするものでもない。個々のいわば観測点である警察署のそれぞれが、流言や虐殺に対する態度の点で無視できない違いをも抱え込んでいたと思われる(本報告書の鈴木論文参照)からである。そうした個別性が作用しているかもしれない可能性は視野に入れ、必要であれば具体的な偏りとして考慮されるべきである。他方で、報告義務などの点で官僚組織としての一定のフォーマットの共通性を有していたであろうとの仮定は、それほど不合理なものではない。であればこそ、警視庁編『大正大震火災誌』は読み込んで利用する価値のある資料だと考える。

 

(1) データの整理

流言の実態を概観するために、その記録を整理し、順序などを再編成し、いくつかの資料表を作成してみた。

 

表4-1 警視庁編『大正大震災火災誌』が記載する流言の事例

 

13時頃

・富士山に大爆発、今なお噴火中。

1

・東京湾に猛烈な海嘯襲来する。

・更に大地震が来襲する。

15時頃

・社会主義者と朝鮮人の放火多し。

2

10時頃

・「不逞鮮人」の来襲あるべし。

・昨夜の火災は「不逞鮮人」の放火または爆弾の投擲。

・朝鮮人中の暴徒が某神社に潜伏。

・大本教徒密謀を企て数千名が上京の途上。

14時頃

・市ヶ谷刑務所の解放囚人が郡部に潜伏、夜に放火の企て。

・朝鮮人約200名神奈川で殺傷、略奪、放火。東京方面に襲来する。

・朝鮮人約3000名多摩川を渉って来襲、住民と闘争中。

・横浜の大火は朝鮮人の放火。略奪、婦女暴行、焼毀。青年団や在郷軍人団が警察と協力して防止。

・横浜方面より朝鮮人数十名ないし数百名、上京の途上。

・横浜方面より襲来の朝鮮人約2000名、銃砲刀剣を携帯し、すでに六郷の鉄橋を渡る。

・軍隊は六郷河畔に機関銃を備え、朝鮮人の上京を遮断せんとし、在郷軍人や青年団が応援。

・六郷河畔で軍隊に阻止された朝鮮人は、転じて矢口方面に向かった。

15時頃

・雑司ヶ谷の○○○○は向原○○○○方へ放火しようとし、現場で民衆により逮捕された。

16時頃

・大塚火薬庫襲撃目的の朝鮮人、いままさにその付近に密集せんとする。

・朝鮮人原町田に来襲し、青年団と闘争中。

・原町田来襲の朝鮮人200名は、相原片倉村を侵し、農家を掠め婦女殺害。

・朝鮮人2-300名横浜方面より溝の口に入って放火、多摩川二子の渡しを越え、多摩河原に進撃中。

・朝鮮人目黒火薬庫を襲う。

・朝鮮人鶴見方面で婦女を殺害。

17時頃

・朝鮮人110余名寺島署管内四ツ木橋付近に集まり、海嘯来ると連呼しつつ凶器で暴行、あるいは放火する者あり。

・戸塚方面より多数民衆に追跡された朝鮮人某は、大塚電車終点付近の井戸に毒薬を投入。

18時頃

・朝鮮人予てより暴動の計画ありしが、震火災の突発で予定を変更、用意の爆弾および劇薬物を流用し、帝都全滅を期す。井戸水を飲み、菓子を食べるは危険。

・上野精養軒前の井戸水の変色は毒薬のため。上野公園下の井戸水にも異状。博物館の池水も変色して金魚全滅。

・上野広小路松坂屋に爆弾2個を投じた朝鮮人2名を逮捕したが、その所持の2枚の紙幣は社会主義者より得たものだった。

・上野駅の焼失は朝鮮人2名がビール瓶に容れた石油を注いで放火した結果。

・朝鮮人約200名、品川署管内仙台坂に襲来し、白刃をかざして掠奪を行い、自警団と闘争中。

・朝鮮人約200名、中野署管内雑色方面より代々幡に進撃中。

・代々木上原方面において朝鮮人約60名が暴動。

19時頃

・朝鮮人数百名、亀戸署管内にちん入し暴行中。

・朝鮮人40名、八王子管内七生村より大和田橋に来襲、青年団と闘争中で銃声しきりに聞こえる。

3

01時頃

・朝鮮人約200名、本所向島方面より大日本紡績株式会社および墨田駅を襲撃。

04時頃

・朝鮮人数百名、本郷湯島方面より上野公園に来襲するので、谷中方面に避難せよ。荷物などは持ち去る必要なく、後日富豪より分配する。

10時頃

・兵士約30名、朝鮮人暴動鎮圧のため月島に赴いた。

4

15時頃

・朝鮮人、警察署より解放されたならば、速やかにこれを捕らえて殺戮すべし。

18時頃

・朝鮮人、市内の井戸に毒薬を投入。

21時頃

・青年団員が取り押さえて警察署に同行した朝鮮人は、即時釈放された。

・上野公園および焼け残り地域内には、警察官に変装した朝鮮人がいるので注意すべし。

 注:語句全部のそのままの引用ではなく、内容を損ねない程度に略記している。

 表4-1は、「概説」が言及している「流言の大要」を見やすく表にしたものである。原資料は、わかる限りではあるが時刻に言及している。これは警察署の事案発生の時刻を明示する報告様式を前提として、初めて可能になったものであろう。「戒厳令に関する研究」(1941)や警視庁警備部(1962)など多くの研究が、この記録をもとに流言の拡大を概観している。しかし、残念なことにこの資料は個々の流言の発生が観察された地域の情報を欠落させており、その結果、東京全体を一つの均質な情報空間であったかのような理解を生み出しかねない。現実には、流言は比較的狭い範囲での地域社会という生活の場のコンテクストと深く結びついて立ち現れる。それゆえ、位置情報を全く欠落させた、もともとの「概説」のまとめ方は不十分なものだったといわざるを得ない。

 同じ書物に載せられている警察署単位での活動報告の「流言の取締」の記載に戻り、改めて表4-2を作成したのは、そのためである。表4-2は原則的には表4-1と重なるものであるが、管轄警察署単位の地域の情報を入れ、発生認知の時系列に並べかえた。時刻が明示されているもののみに限り、日付しかわからないものや、「夕」や「未明」あるいは「午後」とあるものは、表4-3としてまとめた。ただし、個別署の記載で時刻が漏れていても、表4-1に記載されている内容と対応させることができる流言については、該当の時刻に配置してある。  もう一つ「災害時下殺傷事犯調査表」もまた、エスカレーションの実態を示す重要な資料となり得る。この記録も、改めて時系列の表につくり直した。それが表4-4である。

 これらをもとに、関東大震火災における流言の実態を概観してみよう。

 

 

表4-2 『大正大震火災』の各警察署からの流言の報告(時刻記載があるもののみ)

表4-3 『大正大震火災誌』の各警察署からの流言(時刻が不明のもの)

1

「同日薄暮、自ら本署に来りて保護を求め、或は、署員に依りて検束せる者等を合せて、支那人11名、鮮人4名、内地人5名を収せり」夕刻(神田・外神田)

「鮮人は東京市の全滅を期して爆弾を投ぜるのみならず、更に毒薬を使用して殺害を企つ」(巣鴨)

2

「鮮人放火の流言始めて起る」未明(淀橋・戸塚)

92日午前、士官学校の墻塀に「午後1時強震あり」「不逞鮮人来週すべし」との貼紙を為すものあり」午前(四谷)

「鮮人等は東京全市を焦土たらしめんとし、将に今夜を期して焼残地たる山の手方面の民家に放火せんとす」午後(牛込・早稲田)

「鮮人暴行の蜚語最も盛にして」午後(板橋)

「不逞鮮人等横浜方面より襲来し、或は爆弾を以て放火し、或は毒薬を井戸に投じて殺害を図れり」午後(四谷)

「鮮人暴行の流言始めて管内に伝はる」夕刻(麹町・日比谷)

「同日[2日]の夕刻、帝大教授某理学博士を鮮人と誤認し、明治神宮表参道入口附近に於て、将に危害を加へんとせるを、署員の救護に依り、辛うじて之を免れしめたる」夕刻(赤坂・青山)

「北町5丁目なる某家の押入中に放火せる鮮人ありとの急告に依りて、之を調査せしに、羅紗洋服地布片の焼け残りを発見せり、蓋し、同人が火災時に外出せる折、火気を防がんが為に拾得し来れるものにして、其臭気を嗅ぎたる附近の民衆は、之を出火と速断し、軈て又鮮人の放火なりと誤りたる」夕刻(赤坂・青山)

「鮮人等は爆弾を以て火災を起し、毒薬を井戸に投じて殺害を計れるのみならず、或は財物を掠め、或は婦女を姦する等、暴行甚しきものあり」夕刻(浅草・南元町)

「鮮人襲来」夕刻(本所・相生)

「鮮人が変災に乗じて放火・掠奪・強姦等の暴行を逞くせり」夕刻(本所・向島)

「其夜[2日夜]品川方面より管内に来れる某は、鮮人と誤解せられ、所謂自警団員の包囲する所となり、危急に陥りしかば、署員之を保護せんとしたるに、却て団員の激怒を買ひ、重傷を負ふに至り、遂に武器の使用に依りて、漸く其目的を達せるが如き事変をも生ぜし」夜(芝・愛宕)

「夜に入るに及び、下谷池ノ端七軒町は既に猛火の襲ふ所なり、今や将に根津八重垣町に於て其威を揮へり、管内は到底全焼を免れざるべし」との流言」夜(本郷・駒込)

「鮮人等は左袖裏に赤布を纏ひ、或は赤線を描けり。警察官は軍人に変装せり。鮮人の婦人は妊婦を装ひ、腹部に爆弾を隠匿せり」夜

(本郷・駒込)

「蜚語益々盛にして、放火・爆弾・毒薬等の説、紛々として起こる」(芝・愛宕)

「社会主義者が帝都の混乱に乗じ、電車の車庫を焼毀せんとするの計画あり」(巣鴨)

2日以降に至りては、毒薬の撒布、爆弾の投擲、殺人、掠奪等あらゆる暴行の状態を伝えたり」(王子)

「鮮人暴行の流言伝わる」(南千住)

3

「鮮人が放火掠奪或は毒薬を撒布せり」昼(下谷坂本)

93日の夕、鮮人に対する流言始めて喧伝せらる、即ち「大森・品川又は横浜方面より襲来せるもの2000人に達す」「300人乃至500人の鮮人管内に襲来せんとして今や将に其途上にあり」「管内各所は既に鮮人等潜入して強盗・殺人又は毒薬を井戸に投ずる等の暴行中なり」など」夕刻(麻布・鳥居坂)

「鮮人が暴行を為すの牒符なりとて種々の暗号を記したる紙片を提出し、或は元広尾附近に其牒符を記せるを見たりとて事実を立証するものあり」夜(渋谷)

「管内自衛警戒中の一青年は、不逞鮮人と誤認して通行の同胞を殺害」(麹町・麹町)

3日に及び其訛伝たりし事実漸次闡明」(麹町・日比谷)

「鮮人が井水に毒物を散布するの疑あり」(神田・錦町)

3日に至りては、流言益々甚しく、更に「強震再襲すべし」との説を為すものあるに至る」(赤坂・表町)

「便所の掃除人夫が備忘の為に、各路次内等に描ける記号をも、其形状に依りて爆弾の装置、毒薬の撒布、放火、殺人等に関する符徴なるべしとの宣伝」(四谷)

「是日[3日か]、霞ヶ丘の某は、自宅の警戒中、通行者に銃創を負はしめたる事実あり」(四谷)

3日に至りては、自警団の行動漸く過激となり、戎凶器を携へて所在を横行するに至る」(牛込・神楽坂)

2日午前10時半頃、30歳前後の婦人は上野公園清水堂に入り手休憩中、洋装肥満の男より恵まれたる餡麺麭を食したるに、忽ち吐血して苦悶せり」(下谷・上野)

「鮮人等毒薬を井戸に投じたり」「中渋谷某の井戸に毒薬を投じたり」(渋谷)

「鮮人の一群が吉祥寺巡査駐在所を襲へり」「八王子方面より300人の鮮人団体将に管内に襲来せんとす」(府中田無分署)

「鮮人等埼玉方面より箱根ヶ﨑村に襲来せり」「東京・横浜・埼玉方面に於ては鮮人の暴行甚しきを極む」(青梅)

4

「撒水用井水を飲みたる金子栄次郎等五名は之が為に吐瀉せしかば、大学病院に送りて救護すると共に井水を検査したれども異状を見ず」(神田・錦町)

「一ツ橋付近を徘徊せる鮮人申衡鐘なる者の挙動不審なるを認めて取調ぶるに「結義序文」と記載せる物を携帯せるを以て、不敢取之を警視庁に送致せり」(神田・錦町)

「鮮人等新宿方面巡査派出所を襲撃して官服を掠奪着用して暴行を為せり」(牛込・神楽坂)

「大井町方面に於ては鮮人既に管内に入れりとて警鐘を乱打するものあり」(品川)

「品川橋南側に於て鮮人を殺害せりとの報告に接し、直に署員を急行せしめたるに、実は漁師町の一青年の鮮人と誤解せられ、瀕死の重傷を負へりなりし」(品川)

「鮮人を使嗾する者は社会主義者なるべければ其患を除かんには之を膺懲するに若かず」

「鮮人三軒茶屋に放火せりとの報告に接し、直に之を調査すれば犯人は鮮人にあらずして家僕が主家の物置に放火せるなり」(世田谷)

「鮮人のの婦女等毒薬等を携帯して各所の井戸に之を撒布せり」(千住)

5

「氷川神社方面には、鮮人等暴行を逞くせる事実あり、況や、三軒茶屋附近に於ては、鮮人との闘争既に開始せられたる」(赤坂・青山)

「青山墓地には、夜間密に、鮮人等の潜伏して陰謀を企つるものあり」(赤坂・青山)

「某白米店雇人等が不良青年と気脈を通じ、種々の流言を放てるを発見し、之れを検挙せる」(中野)

6

「鮮人数10名立川村を侵し、自警団と闘争を開けり」「長沼・多摩の両村に於ても暴行を逞うせり」(府中)

8

「収容の鮮人は衣食其他を給与して厚く保護を加へ、98日に至りて習志野収容所に引渡したり」(神田・西神田)

「鮮人等下広尾橋本子爵邸に放火せり」(渋谷)

「中渋谷某の下婢が陵辱せられたり」(渋谷)

11

「下渋谷平野某の雇人高橋某鮮人の為に殺さる」(渋谷)

 

表4-4 2日以降5日までの「災害時下殺傷事犯」一覧

所轄署

                    時刻

場所

罪名                        事実概要

検挙人数

被害人数

処理顛末

原順番 時間順

王子

9209

西新井村本木河出川金次郎方外十戸及上

殺人強盗窃盗詐欺

金品掠奪及殺害無銭飲食及窃盗を為す

7

19

105日送致

034

001

千住

9212

南足立郡花畑村字一近橋附

殺人未遂

日本刀及棍棒を以て全治二ヶ月を要する重傷を

2

1

97日送致

043

002

寺島

9217

吾嬬町

傷害

通行中の被害者を誰何し日本刀にて傷害す

1

1

1013日令状執行

054

003

大崎

9217時頃

大崎町桐谷星製薬会社付近

殺人未遂

不逞鮮人と誤信し棍棒玄能鳶口等を以て殴打傷

5

4

1012日令状執行

020

004

大崎

9217時頃

府下平塚村下蛇窪六九一先

傷害

不逞鮮人と誤信し棍棒等を以て殴打傷害す

5

1

1016日令状執行

022

005

大森

9217時頃

府下池上村路上

傷害

不逞鮮人と誤信し棍棒を以て傷害す

5

3

送致

024

006

世田谷

9217時頃

世田谷町太子堂電車軌道内

殺人

猟銃を以て射殺す

1

1

1019日令状執行

025

007

品川

921730

品川町南品川三先路上

傷害致死

鮮人と誤信し傷害死に致す

21

1

109日令状執行

015

008

大崎

921730

府下平塚村下蛇窪三三六先

傷害

不逞鮮人と誤信し木剣棍棒等を以て殴打傷害す

6

2

1016日令状執行

019

009

品川

9218

被害者主家裏通

殺人未遂

不逞鮮人と誤信し棍棒等を以て乱打傷害す

4

1

1014日不起訴

017

010

大崎

9218

府下平塚村二八八先路上

殺人未遂

不逞鮮人と誤信し鳶口鉞等を以て重傷を負はす

6

1

1016日令状執行

018

011

大崎

9218時頃

府下平塚村戸越八四二先路

傷害

不逞鮮人と誤信し銃剣等にて傷害す

2

1

1022日令状執行

021

012

大森

9218時頃

府下池上村路上

傷害

不逞鮮人と誤信し棍棒を以て傷害す

1

8

送致

023

013

府中

9219

千歳村烏山

殺人並傷害

鳶口、日本刀、竹槍、棍棒を以て殴打し一名を殺害す

15

17

107日より1125日までに令状執行

075

014

寺島

9220

荒川放水路四木橋際

殺人

鉄棒にて撲殺す

1

1

1010日令状執行

057

015

亀戸

9220

府下吾妻町亀戸鉄道ガード際

傷害

樫棒にて臀部を傷害す

1

1

105日不起訴

065

016

亀戸

9220

吾嬬町小村井一、一五七先

殺人

竹槍を以て殴打死に至らしむ

4

2

1028日令状執行

073

017

品川

922030

大井町一、二八五先路上

殺人

不逞鮮人と誤信し日本刀を以て殺害す

1

1

1013日令状執行

016

018

水上

9221

府下小松川町下平井平井橋上河筋

殺人

被害者が糞尿船に依り避難し来れるを鮮人と誤信し帆立棒等を以て撲殺

5

1

115日送致

013

019

亀戸

9222

吾嬬町葛西川六一七先

殺人

不逞鮮人なりと誤信し鉄棒にて殴打、即死せしむ

1

1

107日令状執行

067

020

亀戸

9222

吾嬬町亀戸二七六先

殺人

殺害す

4

1

105日令状執行

069

021

亀戸

9223

府下亀戸三、二一五先

殺人未遂

水中に溺れたる被害者に猟銃を発射したるも命

1

1

107日不起訴

072

022

中野

9223時頃

府下高井戸村下高井戸路上

傷害

通行中を傷害す

11

1

108日送致

026

023

亀戸

9224

吾嬬町葛西川八八五先

殺人

鮮人と誤認し殴打死に至らしむ

4

1

107日令状執行

068

024

品川

92

府下大井町一七三六路上

殺人

鮮人と誤信し日本刀を以て殺害す

1

1

915日送致

014

025

寺島

9300

南葛飾郡大畑荒川放水路河川堤下

殺人

斬殺撃殺等

7

4

1010日令状執行

046

026

千住

930120

千住町大橋北詰に於て

傷害

戦陣と誤認し手拳を以て頭部其他を殴打し全治十日間を要する傷害を加

1

1

106日不起訴

045

027

寺島

9303

吾嬬町木下放水路側地

殺人

隠れ居たるを日本刀にて斬殺す

1

1

1028日令状執行

058

028

寺島

9303

荒川停留場先

殺人

サーベルにて斬殺す

1

1

1028日令状執行

059

029

寺島

9303

吾嬬町木下放水路側地

殺人

日本刀にて斬殺す

1

1

1028日令状執行

060

030

寺島

93日未明

吾嬬町木下放水路堤

殺人

匕首を持ち逃げ来るを日本刀を以て斬殺す

1

1

1017日令状執行

055

031

亀戸

9305

吾嬬町亀戸二三九先

傷害             斧を以て頭部に切創を負はす

1

1

105日不起訴

066

032

 

 

寺島

9306

吾嬬町上大畑沿岸

殺人             足部をピストルを以て狙撃したるを他の多数人が死に至らしむ

1

1

1029日令状執行

061

033

 

寺島

9307-12

府下吾嬬町木下曳舟通

殺人             群衆に打倒され居るを日本刀を以て斬殺す

1

2

1019日令状執行

050

034

 

亀戸

9307

吾嬬町小村井一、一五七先

殺人             角材竹槍瓦を以て殴打死に至らしむ

6

3

1029日令状執行

074

035

 

寺島

9308

荒川放水路堤

殺人             撲殺す

1

1

不起訴

053

036

 

寺島

9309

寺島町玉ノ井

殺人             斬殺又は撲殺す

4

6

1010日令状執行

052

037

 

寺島

9310

白髯橋上

殺人             殴打し他の群衆が参加して打ち斬りし後川に投じ死に至らしむ

1

1

不起訴

048

038

 

寺島

9311時頃

寺島町玉ノ井

殺人並傷害 玄能を以て殴打し負傷せしめ又死に至らしむ

1

2

1019日令状執行

051

039

 

渋谷

9312

府下渋谷一七八二先道路

殺人未遂    殺意を以て傷害を加ふ

2

2

119日送致

027

040

 

寺島

9312

寺島町玉ノ井

殺人             群衆に乱打され打倒され虫の息となり居るを咽喉及腹を匕首を以て突き刺し死に至らしむ

1

2

1019日令状執行

049

041

 

寺島

9312

府下寺島町玉ノ井

殺人             杉丸太にて撲殺す

1

1

1029日令状執行

062

042

 

寺島

9313

府下寺島町玉ノ井

殺人             槍を以て刺殺せるも被告之を否認す

1

1

不起訴

047

043

 

麹町

931430

麹町区永田町二ノ一六先の路

殺人         不逞鮮人と誤信し日本刀にて殺害す

1

2

95日令状執行

002

044

 

亀戸

9315

亀戸町遊園地

殺人及殺人 石・棍棒、日本刀にて殺未遂     傷す

6

3

1014日令状執行

064

045

 

亀戸

9315

亀戸町境橋附近

殺人並傷害 巡査が同行中の三名を殺害し巡査に傷害を加ふ

1

4

送致

071

046

 

千住

9317

千住町二ノ八八一先道路

殺人未遂

被害者が鮮人を警察署に同行中之を殺害せんとして斧を以て全治二ヶ月以上を要する重傷を加ふ

3

2

1010日令状執行

036

047

 

寺島

9318

府下隅田町大倉牛乳点側

傷害

日本刀にて傷害す

1

1

1010日令状執行

056

048

 

日本堤

9319

浅草区今戸町三五先

傷害

日本刀及棍棒を以て重傷を加ふ

1

1

1214日送付

012

049

 

亀戸

9319

吾嬬町大畑五一

殺人

棍棒にて殴打殺害す

1

1

105日令状執行

070

050

 

三田

9321

芝区日ノ出町七先

殺人

鮮人を隠匿したりと憤り日本刀にて殺害す

1

1

912日令状執行

003

051

 

四谷

9321

四谷区塩町三七先

傷害

鮮人と誤信し日本刀を以て傷害す

1

1

1023日令状執行

008

052

 

象潟

9321

浅草区新谷町一四楽天地飛行館前

殺人

鮮人と誤信し殺害

2

1

1027日令状執行

011

053

 

三田

9321時頃

東京市河港課芝浦出張所倉

殺人

潜伏し居たるを日本刀にて殺害す

2

1

1020日送致

005

054

 

巣鴨

9321時頃

巣鴨町巣鴨橋際

毀棄傷害

指揮刀木剣竹槍棍棒等を以て傷害を加へ自動車を破壊す

21

2

1014日令状執行

028

055

 

千住

932120

南足立郡西新井村与野に五二先道路

殺人           棍棒猟銃を以て殺害す

2

1

97日令状執行

041

056

 

三田

9322

東京市河港課芝浦出張所倉庫内

殺人及び横 被害者が就寝し居たる同領強盗               倉庫内に鮮人一人潜伏し居たるを以て、鮮人を隠匿したりと称し、南浜橋の欄干に縛し、短刀棍棒等を以て殺害し及び懐中より金三十五円を奪取

6

1

1020日送致

006

057

 

千住

9322

千住町二丁目道路に於て

殺人未遂    日本刀及棍棒を以て全

治二ヶ月を要する重傷を

4

1

97日令状執行

042

058

 

千住

9322時頃

府下南綾瀬村柳原一六一先道路

殺人             日本刀棍棒を以て殺害す

11

7

912日より18日までに令状執

037

059

 

亀戸

9324

吾妻町請地鉄道線路付近

殺人         鉞及ステッキにて撲殺す

6

2

1031日令状執行

063

060

鳥居坂

9401

芝区三田小山町小山橋河中

殺人

被害者が発作的に精神に異状を来し河中に投身自殺を図りたるも死にきれず下流に泳ぎ居たるを鮮人と誤信し河中に飛込み日本刀を以て殺害す

1

1

1025日令状執行

007

061

巣鴨

9401時頃

被害者宅

殺人

不逞鮮人が潜伏し居れりと附近の者が騒ぐや被害者不逞鮮人と誤信して射

1

1

97日令状執行

029

062

千住

9402

南足立郡江北村鹿浜九三

殺人

鮮人と誤認し棍棒にて殺害す

7

1

108日令状執行

044

063

千住

9408時頃

府下南綾瀬村柳原一四七田

殺人

日本刀棍棒を以て殺害す

2

1

1012日令状執行

038

064

千住

940930

南足立郡綾瀬

殺人

日本刀棍棒を以て殺害

2

1

039

065

王子

9411

南千住字通新町巡査派出所

殺人

巡査の保護中なる被害者を日本刀を以て殺害す

18

1

1021日送致

035

066

麹町

9412

麹町区中六番町四六大本教本部付近路上

傷害及び暴行

傷害及び暴行を加ふ

3

1

1016日送致

001

067

三田

9412

芝区日ノ出町七先

殺人

鮮人を隠匿したりと憤り日本刀にて殺害す

1

4

912日令状執行

004

068

千住

941330

南足立郡花畑村字一近橋

殺人

日本刀棍棒を以て殺害す

10

5

1010日、

11日令状執行

040

069

巣鴨

9415時頃

巣鴨中学校前附近

傷害

被害者を鮮人なりと称して日本刀にて上肢に斬り

2

1

1010日令状執行

030

070

駒込

9421

本郷区駒込肴町路上

殺人未遂

鮮人と誤信し殺害せんとして重傷を加ふ

13

4

917日令状執行

009

071

坂本

9423

下谷区三輪町一一五先路上

殺人

鮮人と誤信し日本刀及び棍棒等を以て殺害す

6

1

114日送致

010

072

巣鴨

9424時頃

西巣鴨町字向原三四二六先

傷害

被害者を偽軍人なり又は社会主義者なりと称し、巡査之を偽軍人にあらざることを立証したる為、鳶口其他を以て軍人及巡査に重軽傷を負はしむ

4

2

憲兵隊に移牒令状執行

031

073

王子

9508-12

被害者宅

強盗及恐喝 棍棒を以て脅迫し米其他価格百六十六円の物を

1

3

1024日送致

033

074

巣鴨

9519時頃

西巣鴨町池袋一先道路

傷害             酔気に乗じ附近に警戒中の被害者を殴打負傷

2

2

921日送致

032

075

出典:原資料は『大正大震火災誌』(警視庁,1925)の「災害時下殺傷事犯調査表」p.591-602で、発生の時間順に並べ替えた。

 

 

(2) 流言の発生と終熄

 流言の発生から終熄に関して、これまでの多くの研究が、1日の午後1時ごろに既に流言が起こったとしている。これは表4-1とともに、概説の「流言蜚語の初めて管内に流布せられしは、9月1日午後1時頃なりしものの如く」(p.445)との記述を踏まえたものであろう。ただ個別警察署報告で見ると、この午後1時に対応するものは明らかでなく、どこで 初の発生が認知されたのかがわからない。個別署の報告では、日本橋区の久松警察署の14時ごろに管内で起こったという報告が も早いことになる。そうした点では、若干の不整合が存在しているが、いずれにせよ午前1158分の 初の直撃の後、1時間から2時間足らずの間に流言が発生している。

 しかし、1日の段階は、状況としてそれほど切迫したものではなかったと考えられる。というのも、1日16時の事例に関して、渋谷署は「署員をして偵察せしめ全く其憂なきを確めたれば民衆に諭して漸く其意を安んぜしむを得たり」(p.1284)と書き、18時の愛宕署の場合も、警視庁の命もあって「制・私服の警戒隊員を挙げて、芝園橋・芝公園其他の要所を警戒」したものの、「遂に事無きを以て、同七時之を解除せり」(p.1000)と結んでいるからである。すなわち、1日の日暮れ前の段階では、警察は流言の発生を認知しながら警備を継続する必要のある危険とは捉えていなかったのである。

 各警察署が何時、その管内で流言の発生を認知したかを一覧表にしたのが、表4-5である。ここでは1日のうちに、8つの警察署管内で流言の発生が認知されていることがわかる。2日の午前中に7つの警察署管内が加わり、午後になると28の警察署管内に広がった。しかしながら、流言の発生や取り締まりについて個別署の記述では触れていない12の警察署管内でも、表4-4とつきあわせてみると、浅草区の日本堤警察署や東京水上警察署のように殺傷事犯が検挙され、その「事実概要」からは流言の存在が想定されるものもある。また、谷中警察署からの報告もないが、『関東大震災の治安回顧』には、治安維持令違反者1名の流言の谷中警察署長による報告が載せられていて、12の警察署管内では流言がなかったとも、認知されていなかったとも一概には言いにくいような資料間の矛盾がある。

 

表4-5 各警察署内における流言発生の認知

 

14

日本橋・久松警察署

1

 

 

16

渋谷警察署、王子警察署

2

 

1

18

1840分頃

20

芝・愛宕警察署

淀橋警察署戸塚分署小松川警察署

1 1

1

6

その他

神田・外神田警察署、巣鴨警察署

2

 

2

05 10 12時午前

小石川・富坂警察署

牛込・神楽坂警察署、牛込・早稲田警察署、淀橋警察署、中野警察署小石川・大塚警察署、本所・相生警察署四谷警察署

1

3

2

4

1

4

2 3 5

1

5

7

午後

14

1425

16 1630分頃

夕刻

17

18

19

20

板橋警察署

本郷・本富士警察署、本郷・駒込警察署、品川警察署大崎分署、府中警察署品川警察署

赤坂・青山警察署、浅草・象潟警察署、大森警察署、八王子警察署芝・高輪警察署、世田谷警察署

浅草・南元町警察署、本所・向島警察署、麹町・日比谷警察署芝・三田警察署、麻布・六本木警察署、寺島警察署、青梅警察署、青梅警察署五日市神田・錦町警察署

神田・西神田警察署、赤坂・表町警察署、亀戸警察署、府中警察署田無分署、千住警深川・西平野警察署、南千住警察署日暮里分署

28

その他

下谷・上野警察署、南千住警察署

 

3

1030分頃夕刻 18

その他

京橋・月島警察署

麻布・鳥居坂警察署日本橋・掘留警察署麹町・麹町警察署、下谷・坂本警察署

1 1 1

2

5

 

流言の記載無し

日本橋・新場橋警察署、京橋・築地警察署、京橋・北紺屋警察署、下谷・谷中警察署、浅草・日本堤警察署、浅草・七軒町警察署、本所・太平警察署、本所・原庭警察署、深川・扇橋警察署、深川・洲崎警察署、東京水上警察署、八王子警察署町田分署

12

 

 

 

62

 

 

 

流言の終熄について、報告書は「漸く平静に帰するを得たり」、「数日にして鎮撫の功を奏したり」、「人心漸く安定するを得たり」、「其の声を潜むるに至れり」、「其跡を絶ちたり」、「日ならずして鎮静せり」等々の言葉で、統制し得たことを語っている。これも警察という組織の性格によるのであろう。多くは時期について明記していないものの、5日前後からしばらくの間に平穏に戻ったと書くものが目立つ(大森、神田錦町、中野、日暮里、八王子、愛宕、三田、月島、赤坂青山、府中、巣鴨など)。他方、「九月中旬」(向島、戸塚、渋谷)「十月」(世田谷)

「十月初旬」(麹町)などという形で記しているケースもあり、1か月以上の間、消えては生まれていた可能性は高い。

 表4-1は4日の段階で終わっており、また、3日や4日の事例として挙げられているものは少数となっている。これだけを見ると5日以降には流言が終熄したのだろうという印象を与えかねない。しかし、表4-2表4-3の個別署の記述からだけでも、3日4日に入ってからかなりの流言が記録されており、また、5日以降も11日あたりまでは警察署としても流言を認知し、それに対応していたことがわかる。さらに、『関東大震災の治安回顧』には、9月15 日に至って流言のために治安維持令違反で谷中署に検挙された者の報告要旨が載せられており、また、地方新聞の記事などを見ても、9月5日段階で流言の終熄が論じられないことは明らかである。警視庁の概説部分が、4日で記載を終えているのは、「三日以来、自警団の取り締まりを励行し」(早稲田、月島、大塚)というような記載に対応する警視庁の個別署宛命令が2日に出されたこと、また内閣告諭が5日に、さらに流言取り締まりの法令が7日に出されたということを意識したものであろう。現実には、10月ごろになってからようやく「潜伏期」(エドガー

ル・モラン,『オルレアンのうわさ』)に入ったと捉えられる。

 

(3) 流言はどのように流れてきたか

 流言増殖のピークは、2日の午後から夜をまたいで3日の明け方にかけてであった。表4-1表4-2ともに、その間に場所や人数、襲撃方法などの項目を変えた同工異曲の流言が飛び交い、かなり広い範囲で混乱が広がっていたありさまがうかがえる。この点は、震災後の雑誌等々に載った、様々な体験談の記述などとも符合する部分がある。

それでは流言伝播の経路として、どのような見方が出されているか。

 警視庁の『大正大震火災誌』は、あまり伝播経路を明確に論じていない。少し踏み込んでいるのは、「戒厳司令部詳報第三巻」(『関東大震災政府陸海軍関係史料巻 陸軍関係史料』,1997 所収)の「付録(変災当初に発生したる流言蜚語に就て)」である。

ここでは、流言を

イ.         江東方面に属するもの

ロ.         東京西部に属するもの ハ. 市内一般に属するものの3種に分類して、その「出所原因」について考察するとともに、「要するに江東方面及横浜方面の分は全く独立したる流言と見做すことを得べく、東京西部のものは横浜方面より流布せられたるものと解するを得。而して市内一般に属するものは両者の侵入と、一部警察官の独断的の好意的宣伝とに原因するものと認めらる」(p.159)と論じている。吉河光貞は『関東大震災の治安回顧』において、こうした先行する考察を踏まえつつ、東京市内における流言伝播の経路を

(1)   江東方面に属するもの

(2)   小石川、牛込方面に属するもの

(3)   市内西部に属するもの

(4)   市内一般に属するもの の4つの系統に分けることができるとした上で、「震災勃発の当夜横浜市内の一角から発生した流言が、主流となつて伝播し、忽ち東京市内に波及して同市内各地に於ける流言の支流を統合し、怒濤の如き奔流となつて千葉、埼玉、群馬、栃木、茨城各県下へ拡大するに至つたのである。斯かる意味に於て、横浜市内は流言発生の根源地なりと謂ふことが出来る」(p.25)とまとめている。改めて「小石川、牛込方面に属するもの」を立てた理由は、横浜での流言の種となった立憲労働党(山口正憲)の本部がここにあり、そこに使者がもたらした情報を重視したからである。その点からも、横浜からの伝播を重視した解釈である。

 著者は、伝播論的な把握だけでこの流言現象を理解するのは不十分であると考えるが、確かに「北東」すなわち「江東方面」と、「南西」すなわち「東京西部方面」とにおいて流言が拡大していた事実は、資料の再整理からも観察できる。

表4-4に挙げられている事例は殺傷事件にまで激化したという点で、表4-1表4-2表4-3が映し出している流言空間の中でも、 も痛ましい結果に結びついてしまった例である。他方でこの記録は、場所について他よりも詳しい情報を有しているので、伝播や増殖に関するやや踏み込んだ解釈を可能にする。そこから推測すると、流言の増殖とそのエスカレーション(激化)が、東京市の中心部に広がる被災消失地からみて、図4-1に示すように「北東」と「南西」の方向で起きていた事実が浮かび上がってくる。北東とは、千住から寺島町、吾嬬町あたりを指す。表4-4の 初に挙げられている9月2日の午前9時の「殺人強盗窃盗詐欺」は、王子警察署の報告の事件と対応するものであろう。それによると「尾久町方面に於ける土工親分二十名の如きは、二日以来南足立郡江北村西新井村の農家十四戸より食料品を強奪せるを始め、或は、掠奪・窃盗を為し、或は物資配給所を襲撃し、或は殺人を為す等、純然たる暴徒なりしを以て、翌三日直に之を検挙」(p.1300)とある。この比較的早い段階で実際に起こった犯罪行動の風聞や断片的な知識が、東京の北東部で2日夕刻から夜にかけて、数多く起こった「不逞鮮人襲来」の流言の下敷きの一つとして作用した可能性は考えられる。南西とは、表4-4で見ると、9月2日17時ごろからの大崎町や平塚村での暴行事件に現れてくるもので、池上村や南品川や大井町の「路上」での傷害や殺人事件も、同じ方向で生まれた流言空間に属しているように思われる。これは、北東部とは違い、被害の大きかった横浜からの避難民などの現実的な媒体が考えられる。表4-2表4-3をあわせてみると、既に14時から1430分ごろには、品川署管内で横浜の「放火」や東京に向かう「襲撃」の様々なバージョンが語られている。これらの情報が漂う中で日が暮れていって夜となり、周辺地域での不安がさらに高まっていったという解釈もできよう。

 

図4-1 北東と南西のエスカレーション

 

(4) 流言の時間

 表4-4の殺傷事件にまで至ったケースの記録を少し加工して、日中(5時から17時前まで)と夜間(17時から5時前まで)とに分けて数を数えてみたのが表4-6である。すると、やはり夜間における殺傷事件の発生が、日中の時間のほぼ2倍となっている。避難生活をしている人々にとっても、夜は不安が増幅する時間であったと思われる。

 

表4-6 殺傷事犯の犯行時刻

注:件数総計が表4-4と異なるのは、犯行時刻の記載がない1件を除いたためである。

 

先に表4-4の9月2日の夕方近くに大崎署管内でいくつかの事件が認知され、場所として平塚村の路上での傷害・殺人未遂事件が4件ほど挙げられていることに触れた。既に紹介した田中比左良はこの平塚村の住人であり、「竹槍さわぎ」『主婦之友』(p.218-219)は、そのあたりを満たしていた雰囲気の証言として読むことができる。少し紹介しておこう。「それは九月二日の日暮前の出来事」であったという。「恰度その日は兄が不在で、私は町に出て、米麦味噌醤油缶詰その他当分困らないだけの兵糧を買ひ込んで来て、縁側へそれをおろし、ホッと一息ついた時である。矢庭に警鐘が乱打されだした。」みな慌てふためいて、露地に駆け込んで来て、口々に暴徒がそこまで来ている、みな逃げろと叫んでいる。「いまにも露地の角へ血刀ひつ提げた暴徒が現れさうです。併しまだ半信半疑の心持でゐると、今度はパチパチ銃声が聞えだした。警鐘を無茶苦茶に叩きだした。もはや疑ひの余地が無くなった。」

 そこで田中は、女たちに今買ってきたばかりの食料を持たせて、品川方面へ逃がしておいて、自分はとりあえずとどまっていると、男は逃げるなと方々で連呼している。内心逃げたかったが、敵に背を見せるのもキマリも悪いとの男の虚栄心も混じって、田中は意を決して踏みとどまり、附近の草原に集合した。

 「先づお尻をからげた。手拭で鉢巻をした。一間半程の竹槍を急造した。またたく間に百姓一揆ができ上りました。百姓一揆ならまだしも何れを見ても白面細骨の腰弁一揆だから甚だ以て頼り少ない。併し指揮者だけは本職で附近に住む休職陸軍少佐の老いぼれ爺さんであるが昔取った杵柄で鷹揚迫らない態度で、人々に士魂を注ぎ込んでゐたところは一寸感服した。併し総勢三十騎足らずである。附近の戸数に較べてこんな筈はないとよくよく調べてみると独身の者か、でなければ所謂お調子者が多かった。なんにしても我々の一隊は、この部落の 前線にあたるので、正直なところ身の中がうすら寒かった」。結局、斥候の様々な報告に緊張したり安心したり、警官の自動車や軍隊の出動に元気を出して、口数が増えたりしていたという。

 興味深いのは、日暮れ時の流言の噂に始まった2日の夜の不気味な心象風景である。「日は暮れた。電灯なしのまっくら闇である。ただ東の空のみは今尚ほ炎々と焦げてゐるので、その赤い光が人々の頬や竹槍を照らして、時刻が進むにつれて空気は陰惨を増して行く」との感想である。ただ暗いだけの夜ではなく、東京がまだ燃え続け、その炎の明るさが遠くに見えていた不安な夜であったことも、考慮に入れられてよい。同じ夜について、もっと都心に近い、しかし郊外の千駄ヶ谷に住んでいた和辻哲郎は、次のように書く。「東方の火焰は漸次鎮静し始め、十二時頃には空の赤さがよほどあせて行つた。漸くその頃に、延焼の怖れはもうなからうと思ひ出したのである。しかし煙はまだ依然として立ちのぼつてゐる。全然安心したのは、火の色がどこにも見えなくなった暁方の四時頃である。」(p.201-202

 身内に品川へ逃げろと指示した田中が、迎えにいったのは日時が明記されていないが、その日の夜ではなかったはずである。ひょっとすると7日の治安維持令が出されてからだったかもしれない。「その夜私は嫂達を迎ひに品川に行つたが、途中到るところ竹槍党に誰何されて、命からがら戻つて来ました。品川はまた平塚村以上の騒ぎ」だったと書いている。後に触れるように、この暗い中での「誰何」(呼び止めて名前や身元を確かめること)という実践が、また呼び止める側、呼び止められる側を問わず、不安を暴走させ誤解を増幅させていったのである。

 

3 増殖と昂進のメカニズム

 流言が増殖し昂進したメカニズムについて、表にまとめたものを含めて、以上の事例に則して改めて検討してみたい。

 この流言現象の全体の特徴は、特定の主体が発した一つの情報が、特定し得る伝達経路を通じて波のように伝播していったというよりは、複数あるいは多数の主体が絡みあい、情報が乱反射しつつ拡大し、一部では統制がとれないほどに過激化したと捉えるのが正確である。

 資料とした警視庁の報告書『大正大震火災誌』は、20世紀初頭に日本に輸入された群衆論のパラダイムを下敷きに、流言を非合理な異常事態における、いわゆる「心理的群衆」の「衝動性」、「被誘性」、「軽信性」等々の観点から捉えたが、今日の流言研究から考えると不十分であるといわざるを得えない。その後の研究の展開は、情報の特質としての「あいまいさ」の果たす役割を掘り下げて、「単純化」、「平均化」、「強調」等々の連鎖的変形におけるルールを見つけ出し(オルポートなど)、あるいは「集合的な問題解決」の主体的な努力において生まれた、意味づけの暴走とでもいうべきメカニズムにおいて、流言の生成と展開のプロセスを捉えている

(シブタニなど)。

 情報という言葉は、今日ではあらゆる事柄に対する知識内容を包括する実に一般的な名詞になってしまったが、その原義は、判断を下したり行動を起こしたりするときに、その決定を左右するような、状況に関する重要な知識のことを指した。震災では、災害状況下で避難といった差し迫った切実な問題状況に置かれた主体にとって、生存・生活の維持において重要な便宜や状況に関する知識が、後者の意味での意志決定を左右する「情報」として求められたのである。流言現象は、単なる誤報と誤謬の衝動的で受動的な蔓延ではなく、一面において迫り来る

状況に前向きに取り組む、そうした積極的な主体性の表れだったのである。

 

(1) 情報の「空白」

 流言増殖のメカニズムを考える場合、第一に踏まえられるべきは、人々にとって情報の不足あるいは欠乏と感じられる事態が生み出されたことである。

 よく知られているように日刊の大新聞社17社のうち、倒壊を免れたのは東京日々新聞・報知新聞・都新聞の3社のみであったが、残った社にしても翌日に謄写版などで形式的な号外をわずかに出し得たに過ぎず、4日に頒布が再開されるまでのほぼ3日間は新聞の空白状態であった。電話もまた、業務を中心ではあったけれども普及していたものが、突然に通じなくなる。情報の欠乏が不安に結びついていくにあたり、日常的な情報享受を支えていた枠組みが、突然に破壊された点は大きい。そして、その枠組みは必ずしも意識されていたものではなかった。すなわち、毎日の習慣となりつつあった新聞が読めなくなり、電話が通じないという事態は、それ自体が「異常」を印象づけ、「非常時」の意識を際立たせるメッセージであったことを見落としてはならない。その点では、例えば、メガホンや貼り紙など別な手段で正しい情報を伝え、与えさえすれば十分であると単純に置き換えることができない。流言の基底にある不安について考えるならば、日常的な枠組みそれ事態が揺るがされ、失われたということそのものが生み出してしまった意味を無視するわけにはいかないのである。

 さらに、旧町内のつきあいや情報の共有を保つ地域もないわけではなかったが、首都東京は一般に流入者を多く抱え、様々な場所に通勤階級のいわゆる住宅地を広げつつあった。大都市の多くの場所において、近隣のつきあいが希薄なものになっていた傾向は否めない。それは近隣ネットワークを通じての情報伝達があまり重要ではなく、頼られていない日常を意味する。震災による情報途絶のもとで、この衰弱した伝達回路が再び活性化した。しかし、その性格は既に根本において変化していたといわざるを得えない。

 牛込区南町に住んでいた穂積重遠は、震災前の地域において人間関係がいかに希薄なものであったかを、次のように語っている。

85戸ほどの小さな町であつて、住民は割合に変動が少く、随分と古くから引続き住んでいる人が多いのだが、扨て同町内の交際といふ様な事は殆ど絶対になかつたのである。商家の多い町ではこんなことはなからうと思ふが、何しろ私の町には商家といつたら米屋さんと洗濯家さんが一軒づつあるだけで、他は所謂勤め人が多いのであるから、各家の主人は早出晩帰、家は謂はば各人の寝室に過ぎない様な次第であつた。それ故『向三軒両隣』の交渉のないのは勿論、ことによると隣人の名さへ知らない様な有様、朝夕に街頭で出会つても御辞儀一つするではなし、第一町内の人か否かの見分けが附かなかつたのである。」(『改版町会規約要領』,東京市役所,192510,p.4

 流言とともに治安問題化した「自警団」が、単純な集団主義の現れや共同体的結合などではなく、穂積が指摘しているような見知らぬ者たちの集合という群衆論的な構造を、その基底に持っていることは見落としてはならないだろう。先に言及した、中心被災地の「北東」(千住、江東方面)と「南西」(品川、大崎方面)に現れた二つの流言空間にしても、都市の拡大による異質性を抱え込んだ地域という点で共通している。すなわち、いわば「群衆」化しやすい要素を持っていたのである。「北東」に関しては、中国人・朝鮮人労働者の増加を受け止めた地域であり、また、「南西」の大崎町や平塚町は第一次大戦中に工場が多く設立され、人口が急増した地域でもあった。

 

(2) 情報の分断もしくは断片化

そこにも関連するが、第二に、上述のような情報の「不足」、「欠乏」、「空白」状態は、何の知識も書かれていない「白紙」状態ではなかった。矛盾する知識が散りばめられた情報空間であり、思いこみや先入観や固定観念までもが既に書き込まれていて、いわゆる白紙とはほど遠い。むしろ無秩序といっていいような特質を持つ。

 図4-2及び4-3(『大正大震火災誌』の口絵19「各種の宣伝札」)に掲げられているような、警視庁や戒厳司令部から幾度となく出されたビラなどもまた、この断片的で統合されていない情報空間の活性化に力を貸した。流言の統制に関わる指示や掲示され撒布された警視庁その他からのメッセージをまとめたのが表4-7であるが、これらもまた、後に触れるように流言の統制に一定の力を発揮したともいえる反面、それ自体が流言を生み出す、いわば「種火」ともなった。もう少し後の段階であるが、外地を含む各地で発行された諸新聞の号外もまた、同じように流言を生み出す種火となったことも忘れてはならない。

 

 図4-2 震災当時の宣伝札     図4-3 震災当時の宣伝札

(『大正大震火災誌』口絵19       (『大正大震火災誌』口絵19

 

表4-7 警察・戒厳司令部等から指示・掲示・貼付・散布(流言蜚語関係のみ)

 

宣伝文の内容

発信者

備考

91

 

 

中央気象台の報告に依れば今後大地震無し、火災は漸次鎮静しつつあり。

中央気象台の報告に依れば東京湾内に於て海嘯の虞なき見込

警視庁

謄写版ビラ各

5000枚、17

30

新聞記事に就ては人心の不安を増大さるる如き風説は努めて避けられ、是を安定せしむべき各種の事情は努めて速報を期せられ候様、徹底的に御配慮を相願度

内務省警保局

  懇談書

 

不逞者取締に関する件 

 

 92

災害時に乗じ放火其他狂暴なる行動に出つるもの無きを保せず、現に淀橋、大塚等に於て検挙したる向あり。就ては此際之等不逞者に対する取締を厳にして警戒上違算なきを期せらるべし。

警視庁各署宛

17時頃命令

若し不穏の徒あらば署員を沿道に配置して撃滅すべき署員を散乱せしめず、要所に集中して之に備ふべき 

警視庁

18時過ぎ個別署宛命令

93

急告

不逞鮮人の妄動の噂盛なるも、右は多くは事実相違し訛伝に過ぎず、鮮人の大部分は順良なるものに付濫りに之を迫害し、暴行を加ふる等無之様注意せられ度し

宣伝文の2、謄

警視庁宣伝隊            写版ビラ、06時頃

急告

昨日来一部不逞鮮人のも同ありたるも、今や厳重なる警戒に依り其跡を絶ち鮮人の大部分は順良にして何等凶行を演ずる者無之に付濫りに之を迫害し暴行を加ふる等無之様注意せられ度。又不穏の点ありと認むる場合は速に軍隊警察官に通告せられ度し。

宣伝ビラ警視庁

30000

朝鮮人の妄動に関する風説は虚伝に亙る事極めて多く、非常の災害に依り人心昂奮の際、如斯虚説の伝播は徒に社会不安を増大するものなるを以て、朝鮮人に関する記事は特に慎重に御考慮の上、一切掲載せざる様御配慮相煩度、尚今後如上の記事あるに於ては発売頒布を禁止せらるる趣に候條御注意相成度

警視庁警告書                  

現在の状況に鑑み、特に左の諸件に注意するを要す。

一、不逞団体蜂起の事実を誇大流言し、却て紛乱を増加するの不利を招かざること帝都の警備は軍隊及び各自衛団に依り既に安泰に近づきつつあり。

 関東戒厳司令

 官告諭

 

 

94

今回の災害に依り最も必要なる物資に付ては計画円満に進行し、既に市民各位に対する配給を着々実行しつつあり、此際最も重大なるは人心の平静を得るにあるを以て不逞鮮人の暴動、強震の再来等の風説に惑ふことなく、軍隊警察に事の真否を質し、平静裡に行動せられんことを望む

警視庁宣伝隊         宣伝文の7

 

95日夜より鼠賊の潜入を防ぐ為、警察と軍隊と協力し市内外の各要所に検問所を設け、一々通行人を査問し、厳重なる警戒を加ふることとなりたるを以て、一般民衆は可成夜間は戸外に出でざる様せられたし

警視庁宣伝隊       宣伝文の15

関東戒厳司令官令第二号  軍隊の増加に伴ひ、警備完備するに至れり、依って左の事を命令す。

一 自警の為団体若くは個人毎に所要の警戒方法を執りあるものは予め最寄警備隊憲

 

95

兵又は警察官に届出其指示を受くべし。

                戒厳地域内に於ける通行人に対する誰何、検問は軍隊憲兵及警察官に限り之を行ふものとす。

                軍隊憲兵又は警察官憲より許可あるに非ざれば地方自警団及一般人民は武器又は凶器の携帯を許さず。

警視庁宣伝隊       宣伝文の16

今次の震災に乗じ一部不逞鮮人の妄動ありとして鮮人に対し頗る不快の感を抱く者ありと聞く。鮮人の所為若し不穏に亙るに於ては速に取締の軍隊又は警察官に通告して其処置に俟つべきものなるに民衆自ら濫りに鮮人に迫害を加ふるが如きことは固より日鮮

同化の根本主義に背戻するのみならず又外国に報ぜられて決して好ましきことにあらず。

内閣告諭                2

 

門柱、板塀等に記せる符合に就て

12a 2ⓟ 1B ⓚ 1m ○ W3   r u ◎ m ⓟ  

先日来各所の門柱板塀等に右の如き符合を記しあるを以て鮮人の不正行為の暗号ならむと、一般のもの非常に不安の念を抱き居たるところ、当庁に於て調査の結果右は中央清潔会社の人夫等が得意先の心覚へ及便所所在地の方向、個数等の符合に用ひたるものなること判明せり

警視庁宣伝隊       宣伝文の17

青年団諸君未曾有の大災害に際し各位が連日連夜能く警備の任務に服し奮闘努力せられたるは感

 

96

謝に堪へざる処なり。幸ひ軍隊の出動と警察力の充実とに伴ひ漸く秩序恢復の緒に就くを得たり。且つ鮮人の襲来或は大地震の再来等種々の風評ありしも調査の結果多くは全く根拠なき流言蜚語なること判明したるを以て各位は須らく意を安じて冷静に秩序の維持に助力せられむことを切望して已まず。

警視総監告諭            30000

此の拡張は別に新に恐るべき事柄が起つた為ではない。罹災者が次第に此の地方に入り込むに従ひ、色々の虚報流言が行はれ、人心を不安にする事があるのを取締るのと、

地方民は決して流言に迷はさるることなく、避難民は地方民に対し不都合の行動を採ることなく、何れも地方官公吏、警察官に信頼して平時の如く落着いて、軍隊の厄介になる様な事をしてはいけない。

二、戒厳を令せられても、直接の取締は警察官が之に任ずるのであることを忘れてはいけない。

関東戒厳司令

飛行機撒布官告諭

 

有りもせぬ事を言い触らすと処罰されます朝鮮人の凶暴や、大地震が再来する、囚人が脱監したなぞと言伝へて処罰されたものは多数あります時節柄皆様注意して下さい

警視庁宣伝隊       宣伝文の18

本七日左の緊急勅令が出ました

 

97

出版、通信其他何等の方法を以てするを問はず、暴行、騒擾其他生命、財産、身体に危害を及ぼすべき犯罪を扇動し、安寧秩序を紊乱するの目的を以て治安を害する事項を流布し、又は人心を惑乱するの目的を以て、流言浮説を為したるものは十年以下の懲役、若くは禁固、又は三千円以下の罰金に処す。

附則 本令は公布の日より之を施行す。

警視庁宣伝隊       宣伝文の19

夜間交通禁止は虚報

関東戒厳司令 戒厳司令部情部情報部 報第1

出典:『大正大震火災誌』,警視庁,1923;『関東大震災の治安回顧』,法務府特別審査局,1949;『関東大震災政府陸海軍関係史料巻 政府・戒厳令関係史料』,日本経済評論社,1997より作成

 

 

 3日になってから東京に親類や友人の安否を確かめようと出かけた和辻哲郎の「地異印象記」に、「辻々のはり札で軍艦四十隻が大阪から五十万石の米を積んで急航する、いふ風な報知をよむと全身に嬉しさの身ぶるひが走つた。しかしかういふ気持の間にも自分の胸を も激しく、また執拗に煮え返らせたのは同胞の不幸を目指す放火者の噂であつた」(p.202-203)とある。前半の「はり札」は、多少内容のズレはあるものの、警視庁宣伝隊が配ったものであろう。しかし、この「嬉しさの身ぶるひ」と、後段の噂に対する激しく煮えかえった思いとが、他の多くの被災住民においても隣接していたであろう事実も見落とせない。不法行為や無法なふるまいへの義憤は、表4-7の9月2日の警視庁各署宛命令の「現に淀橋、大塚等に於て検挙したる向きあり」との言明や、9月3日の民衆に配られた宣伝文の「多くは事実相違し」の曖昧な一節などを、全否定ではないのだからそうした事実もあると読む不安と融合していった。

 この情報空間には、断片的で一時的な知識が絶えず書き込まれているという一例としてもう一つ、同じ和辻のエッセーにおいて、震災時に現れた「雲」をめぐる解釈の変化を挙げておきたい。その解釈が見知らない他者から与えられ、一時信じられ、さらに次の解釈が別な見知らない人物からもたらされ、揺れ動くありさまが記録されているのが興味深い。簡単にたどってみよう。

 和辻は 初の大きな揺れの後、ともかく家族と庭に出て避難し、野宿を覚悟し始めた三度目くらいの余震の後、「印袢纏の職人風の男」から「大島爆発の噂」を聞く。「その男に注意されて見ると、南の方に真っ白な入道雲が一際高くムクムクと持ちあがり、それが北東の方に流れて、もう真東の方までちょうど山脈のように続いてゐる。真蒼な空に対照してこの白く輝く雲の峰はいかにも美しかつた。」和辻は、 初の振動から15分も経っていないと思っていたので、この短い間に大島の噴煙が東京に来るのは不思議だとも思ったが、「その時には他にこの雲に対する説明の仕方が思ひつけなかつた」こともあって、なるほど先ほどの爆発音も大島の噴火だったのかと考え、一応の納得をする。

 ところが、「多分二時過であつたかと思ふ、千駄ヶ谷から東北方に当つて更に一層大きい入道雲が現はれた。我々はそれをも爆烟と考へることはできないので、多分それは普通の夕立雲であらうと噂し合つた。やがてその雲の中から雷鳴かとも思はれる轟音が聞こえてくる。」地震が怖くて家に入れないのに、夕立に見舞われてはかなわないなと思って見ていると、一向に動かない。音も雷鳴にしてはうねりが小さく、大島の噴煙だと言われたものと同じようにも見える。「自分はまた様子を探りに通りの方へ出た。そこで誰に聞いたか忘れたが、南の方のは目黒の火薬庫の爆発の煙であり、東北の方のは砲兵工廠の爆発の煙であるといふ説明を聞いた。後日になつてこの両者の爆発はいずれも嘘であると解つたが、この時には目黒の火薬庫の爆発をいきなり信じた。それは大島の爆発よりもよほど合理的に思へた。」雲に気づいた後から爆音を聞いたようにも思い、多少腑に落ちないところもあったが、「一時間位はこの説明に満足してゐた」という。

 3時か4時半ごろになって、「自分は鉄道の踏切へ出掛けて行つて、東京の方からぞろぞろ帰つて来る人に火事の様子を聞かうとした。」そこで、踏切番の老人から、神田や日比谷の大火、日本橋や浅草、本郷、麹町が燃えていることを聞く。そして「あの雲は火事の煙であると。自分が大火に愕然としたのはこの時である。なるほどあの入道雲は火事の煙かも知れない。これは容易ならざる大火である。」しかし、その時はまだ、この火事が堀をも飛び越え、不燃性の建物をも焼きつくす猛烈なものであることまでは、想像していなかったと書く。

 「夕方には南方の大きい入道雲が何時の間にか消えて、北東の高い入道雲がやや東方に移りつつますます大きくなつた。さうして日が傾くと共に雲の根が赤くなり始めた。」夜まで空にそびえ立ち、どこからも見えた雲は、和辻個人の中でも刻々と解釈を変えたが、それを見上げていた多くの人々の中でも「噴火」、「爆発」、「放火」等々の説明を根拠づけるものとして言及され続けただろう。和辻自身も「南に高く現はれた入道雲が何であつたのかは、その後いろいろ聞き合はせて見たが、まだはつきり解らない。あれは横浜の煙だつたと云ふ人があるが、或はさうであつたかも知れぬ」と、事実にはたどりつけないまま同時代のエッセーを終えている。  関東大地震は、穂積の表現を借りれば、「寝室街」に住んでいた住民を「街頭へゆすぶり出し」、隣や向かいの人々と顔を合わせて「大変ですね、おけがはありませんか」に始まるコミュニケーションの回路を開いた。緊張に満ちた不安感を下敷きにして、普段はつきあいのない見知らない者とのコミュニケーションが始まる。第二次世界大戦の空襲下の日記などでも、空襲警報が鳴ると、見知らぬ者同士が誰からともなく話し始めるという記述が見えるが、それは和辻が外の道に出たり、踏切のところに行ったりした行動の周辺にも見られる。情報を求めたという以上に、実は自ら話すことで不安を紛らしていたとも解釈し得る。であればこそ、そうしたコミュニケーションは、実は非常に断片化し、相互に矛盾するような情報を生み出し、流言を活性化

する素材を供給しているのである。

 

(3) 解釈の生産者たち

 第三に、生活拠点を失った避難者たちが多く生み出され、そうした人々の不安に裏打ちされた理解や、知識の不足が流言伝達のプロセスに環流した。その環流というか乱反射も、災害下の流言を考える場合、無視できない論点である。上述の和辻のケースでは、それほど過激化したものに接続してはいかなかったが、条件次第では集合的で狂暴なものにもなり得る。

 家屋の崩壊によって、あるいは火災によって、街頭に放り出された人々の不安が、流言の受容において果たした役割は大きい。鈴木淳『関東大震災』(ちくま新書,2004)は、当時44歳で銀行員であった染川春彦(藍泉)の『震災日誌』から、机の前にいたときの冷静な判断と、露天に座し、線路脇に避難した街頭生活を経ての感情に惑わされた判断の違いについて触れている(p.191-192)。

 地震それ自体が、予期できなかった信じがたい出来事であったが、火災についても人々が適切な知識を有していたとはいえない。流言の主題の一つとなった「放火」と「爆弾」については、大規模な火災に関する知識のなさから生まれたという要素もある。先に触れた和辻哲郎は、それまで知っていた火事はせいぜい2時間くらいで鎮火できるものであって、遅くまで消せない火事があるということなど想像すらできなかったと書いている(p.191)。そこに書かれている以下に述べる深川森下町の女性の話も、恐らくここかしこにあった普通の経験だろう。その女性は1日の 初の地震ではたいした火事を出さなかったので、やれ良かったと思い、出入りの職人がかけつけてきたときなど「明日にも屋根屋をよこして貰いたい」などと呑気な話をしたほどだった。ところが、「その内に電車通りの向ふから火が出た。火足が早いので、何一つ取り出すひまもなく」逃げることになった。一度鎮火したり、焼け残って安心していたところに、また別のところから火が迫ってきて焼け落ちてしまう。こうした状況に対して、誰かによる「放火」という説明がなされ、それが原因として状況理解にはめ込まれていく危険性は理解できる。

 「爆弾」という話題も、同様の大火に対する知識のなさを背景にしている。延焼のさなかに多くの爆発音などがすることなど、ほとんどの人にとって全く経験していない出来事だった。先に挙げた和辻哲郎は「大砲のような大きい爆音が三度ほど 初に南の方で聞こえた」とき、恐らくはどこかの薬品の爆発であったそれを、その時はそんな理由など全く想像できず、むしろ「自分にはそれが何かの合図のように思へた」(p.191)と書く。そうした思いつきをもし誰かが口にして、聞いた人々がそうかもしれないと共鳴すれば、いったい誰の合図なのかという犯人探しをめぐって、流言が立ち上がる。専門家は「筆者(大島義清工学博士)の目撃したもので其の近傍の人は爆弾と騒いだものの、実は地下の瓦斯管の爆発であつたものが沢山にある」

(『大正震災志』上,p.324)と証言している。

 

(4) 解釈の暴走と増殖

 第四に、つまりは聞き手の想像力の過激化、読者の解釈の暴走ともいえるプロセスが、流言にはつきまとう。そのあたりが、問題の現れ方を複雑にしている。これは、第二に触れた論点、すなわち、この情報空間が断片の寄せ集めであることと、時に矛盾するものも含まれていることと密接に関わっている。つまり、足りない部分や欠落している情報を補うかのように、あるいは「認知的不協和」(フィスティンガー)を軽減して筋道だった解釈を生み出すために、新しい話題がその「空白」に書き込まれていくのである。

 その点では、警察や軍などの統制主体だけが流言のもととなる情報の生産者ではない。むしろ非常事態の生活者や、あるいは避難を余儀なくされた民衆もまた、流言のもととなる知識を生産していく。いくつかの記録が証言している「不穏記号」の流言は、この好例である。すなわち、町の路次の塀や、家の門柱などに白墨等で書いてある記号が、襲撃のための暗号であるという噂が起こり、警察に通報された。しかし、実際には、牛乳や新聞の配達人あるいは汲み取り業者の心覚えのための記号であった。既に存在していた街角の落書きまがいの印が、特別の意味を担う「暗号」として浮かび上がってきたのは、何よりもそこにいて不安を抱える人々が、普通の日常では全く気にも止めなかったものに改めて注目してしまい、新しい解釈とを生み出したからである。  この話題について触れているのは品川署の「不安に襲はれたる民衆は、疑心自ら暗鬼を生じて、牛乳・新聞の配達人、肥料汲取人等が心覚えの為に路次に記し置きたる符号をも、鮮人が放火・殺人又は毒薬の撒布を実行せんが為の目標なりと信じて」(p.1233)動揺したとの報告や、渋谷署の「同日(3日)の夜に及びては或は「鮮人が暴行を為すの牒符なり」とて種々の暗号を記したる紙片を提出し、或は元広尾附近に其牒符を記せるを見たりと事実を立証するものあり」、これも3日のものだが四谷署の「便所の掃除人夫が備忘の為に、各路次内等に描ける記号をも、其形状に依りて爆弾の装置、毒薬の撒布、放火、殺人等に関する符徴なるべしとの宣伝」に接したなどの報告に現れている。その他、海軍法務局が記録している例(「朝鮮人関連情報」, 『関東大震災政府陸海軍関係史料巻 海軍関係史料』,1997年2月,p.103-104)や、赤羽火薬廠爆薬部から海軍省副官への報告で、恐らく町内会からの通報をもとにしたもの(『北区史 資料編 現代1,199512,p.650;同上『海軍関係史料』,p.110)、内田良平の見聞などに、このいわば不穏な記号のことが触れられている。

9月6日になって、警視庁宣伝隊が「門柱、板塀等に記せる符号に就て」という宣伝文を配布したのは、このタイプの流言に対処するためである。

 しかしながら、我々はこの話を現代ではあり得ない馬鹿げたエピソードとして一蹴するわけにはいかない。というのも、図4-4に掲げたように、実は現代においてもまた、同

図4-4 現代における「マーキング」の例種の話題が静かな日常の奥で繰り返されてい

表札に張られたシールの意味をめぐって、あるマンションの管る事実があるからである。    理組合から配布された「お知らせ」に掲載されていたもの。雑

誌などからの引用だと思われるが、出典不明である。

 

(5) 歴史をたぐり寄せる

 第五の論点として、流言は人々の潜在意識や無意識の層に抑えこまれているものを浮上させ、普段はあまり意識していない歴史のたぐり寄せる。ある意味で「精神分析」的でありる意味では「神話」論的でもあるこのような広がりもまた、単純な誤報論から見落とされがちな論点である。

 例えば、「井戸」への毒薬の投入という話題は、もちろんライフラインとしての水の確保という切実な実際問題と関わっている。しかし、それほどには遠くない過去の「コレラ」をめぐる記憶が動員されたと考えることも可能である。実際に井戸水の消毒のために石灰が投入する方法があったが、明治10年代には「コレラ流行は医者や警官が井戸に毒薬を入れ、また、患者の生き肝を投入したからだ」という流言によって、千葉県の鴨川では医師が殺害される事件が起こった。井戸が、水道が普及しつつある都市空間において、どのような位置にあったのかについては改めて検証を要する論点だが、井戸の重要性が急に注目されたことは間違いない。  井戸と毒薬という話題の結合は、あるいは消毒の必要という知識の裏返しであったかもしれない。また、表4-2の2日18時ごろに聞知された「博物館の池の水の変色」、「魚類の死」、「井戸の変色」など、観察された具体的な異変を説明するものとして呼び出された可能性もある。災害時の避難所などにおける衛生消毒の必要は、実際に警備当局でも意識していたが、クロール石灰による消毒を計画するに際し、「井水消毒は時節柄鮮人問題と関連し民衆の誤解あるべきを虞れ、宣伝ビラを応用し、町会青年団等の応援に依り出来る限り理解に努めたり」(自警,1923 11月号,p.60)と書いている。

 表4-1及び表4-2の事例の中に現れる「大本教」の流言も、ある意味では過去の知識のたぐり寄せである。「大本教は二三年前大地震を予言して幾分我々を不安に陥れたが」(p.183)と前出のエッセーにおいて和辻哲郎が書いているように、教祖のお筆先の解釈から大正11年にあたる年の「建て替え」、すなわちある種の破局と救済を予言した出口王仁三郎の話題は、報道などを通じて社会に広まっていた。何もなくその年その日が過ぎれば、この種の予言は忘れられてしまうが、共通の知識としては残り、大地震後の会話の中で言及され、流言へ内容として流れこんでいった。

 さらに、もっと近い過去の知識の引用となるが、著者は地震が起こる直前の9月1日朝の朝日新聞朝刊などもまた、この流言空間の拡大において、素材となるものを提供していたのではないかと思う。図4-5にあるように、ここには「怪鮮人」、「陰謀団」、「水平社員」、「騒ぐ」、

「巡査部長」、「女を襲ふ」といった文字が踊っている。とりわけ注目に値するのは、「怪鮮人 三名捕はる 陰謀団の一味か」という後に暴走することとなった流言との関連を疑わせるような字面であり、「元巡査部長 女を襲ふ 被害者十数名」の記事の中の「偽刑事が頻々と現はれ」という記述である。偽刑事の話題が、次に述べる警察官に変装したという論点と重なっていることが気にかかる。もちろん、1970年代にフランスの地方都市で起こった女性誘拐の話の中に動員された反ユダヤ人主義のテーマ(エドガール・モラン,『オルレアンのうわさ』参照)と同じく、「不逞鮮人」、「鮮人襲来」という話題の中の民族差別や対立が、植民地体制や支配に根ざす歴史的な構造につながっていることを無視することはできない。しかしながら、雑誌記事がある神話的な原型を提示することで展開した女性誘拐の噂が、女子高校生のおしゃべりにおいて増殖し発展していったことを考えると、このような「怪鮮人」の文字が不特定多数の読者に「きっかけ」を提供してしまったことも考えられてよい。

図4-5 震災前の最後の新聞紙面から(『東京朝日新聞』9月1日朝刊)

(6) 都市の不安

 第六に、流言増殖のメカニズムの中で、都市における相互の異質性が暴走してしまった局面に再び注目しておこう。それは、「変装」というテーマの流言への導入に象徴的に現れている。  表4-1によれば、4日に至って警察官への変装という話題が流言に現れる。表4-2と対応させてみると、それは21時ごろに下谷上野警察署にもたらされたもので、「上野公園内及び焼残地なる、七軒町・茅町には、鮮人にして警察官に変装し、避難民を苦しめ居るを以て、警察官なりとて油断すべからず」という流言だった。時刻不明ではあるが、実は既に2日の段階で本郷駒込署が「鮮人等は左袖裏に赤布を纏ひ、或は赤線を描けり。警察官は(や?)軍人に変装せり」という流言を認知している。「赤布」、「赤線」という表象には、社会主義のイメージも掛け合わされていると思う。もちろん、表面的には朝鮮人の謀略や陰謀という主題を強調するものであるが、他面において、住民や避難民たちと警察及び軍隊との懸隔というか、ある種の不信の関係を暗示する流言である点にも注意すべきであろう。どこかで住民や避難民たちが抱えている問題を、警察や軍隊といった当局が対応してくれていないという不満が、この流言には影を落としている。警察や軍隊への反感の表出としてみれば、第二次大戦中の流言などにも同じタイプを見い出すことができる。

 実際に警察官自身が、自警団から「誰何」を受け、身体検査されたりした事例もあった。牛込の神楽坂警察署の報告には、「其日(4日)更に「鮮人等新宿方面巡査派出所を襲撃して官服を掠奪着用して暴行を為せり」との流言行はるるや、更に警察官に対しても疑懼の情を懐き、制服巡査を道に要して身体の検索を為すものあり」と記されている。

 しかし、「変装」という話題の導入がもっと悲劇的な方向へと展開したのは、これが見知らぬ他者に対して、無限に懐疑的になり得る回路を開いてしまったことである。軍人や警察官だけでなく、避難民を装った、あるいは日本人の振りをしたといった変形は、非常に容易である。結局のところ、都市空間のあちこちに簇生した自警団の「検問所」において、人々は自分がいかに怪しいものではなく、害を与えるような存在ではないかを、容易には証明することができないような困難と直面することになった。

 例えば、作家の生方敏郎は、4日の朝に自宅の様子を見るため、避難先の郊外から市内に戻るとき、ここかしこで自警団の検問に捕まった。「近道したいと思い小道に入ると、まもなく道をさえぎって綱をひき、五、六人木刀や槍、日本刀などものものしく持って、自警しているのに引っかかりました。私は問わるるままに自分の住所姓名をつげて、そこは難なく通過しましたが、またその先々に関所があるのです。ようやく自分の家へたどりついて近所の人々とも話し、用をたして、再び郊外へ帰ろうとすると、さっそく自警につかまりました。まだ自分の家を出たばかりです。「あなたはどこへ行きます」「あなたはだれです」何人もが一度に言うので、私もちょっとまごつきました。私がへどもどしてようやく答えて、額の汗をふきながら、よくよく見ると、みな町内の知った人たちですから、「いやあ、きみたちでしたか。えらい権幕で聞かれる、すっかりまごついちゃった」と言うと、なかの一人、荒物屋さんがマジメな顔で「いくらお知り合いのなかでも、きょうは別です」」(『日本の百年5 震災にゆらぐ』,p.71)。このケースは「お知り合い」の笑い話で終わったが、警察署の記録からも推察されるとおり、言葉がうまくしゃべれなかったり方言の強い人々が尋問され、あるいは暴行された事例なども少なくなかった。

凶暴化し無法化した自警団と、そうしたエスカレーションを起こさなかった自警団との条件の違いは、これまでの研究において明らかにされてはいないが、重要な課題である。その中で、都市の持つ異質な人口集団という特質がいかに克服されたか、また、克服されなかったかが問

われる必要があろう。

 

(7) 被災者の主体性

 後に深刻な被害や犯罪の問題に結びつかなかったために、警視庁等々の治安部局の報告書には現れていない流言に触れておきたい。マスメディアの報道が発達した今日においてこそ、議論されてよい論点を含んでいるからである。

 写真家の三宅克己は、「天災勃発」(『カメラ』,192310月号)というエッセーで、「丸の内で避難者の写真を写した者が、大勢に袋擲に遭ふたの見て来た」と云ふ友人からの噂に触れている。また、田中純一郎は『日本教育映画発達史』の中で、日活の「関東大震災実況」という動画の撮影の際、「殺気だった罹災者の中には、ひとの難儀を見世物にするつもりかと喰ってかかる者もあり」(p.51)と書く。三宅克己自身も各地方から「名を救護に借りて、其実事変の見物に来たやうな心掛の」青年たちが、パールカメラなどを携帯して満員の乗合自動車などに割り込み「車窓より首を差し延べ、市中を眺めて「アー素敵素敵」とか「愉快愉快これは意外」だとか、聞くにも堪へぬ無遠慮なる方言を敢てする」光景に怒り、こうした輩こそ「暴利商人火事場泥棒にも増した不埒漢として、大いに懲戒す可き者」だと断じている(p.514-515)。同様の感情は、和辻哲郎もまた、水筒と写真機を肩にかけて見物気分でいる紳士に「思はず撲りつけてやりたい衝動を感じた」(p.202)と書いている。

 ここには被災当事者としての主体的で積極的な生活感覚からの「ヤジ馬」批判があるわけだが、また、今日においてはテレビをはじめとする様々なマスメディアの報道姿勢の批判にも通

じる論点が含まれているように思う。

 


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