2020-09-19

渡辺京二 - Wikipedia 逝きし世の面影

 



渡辺京二 - Wikipedia
渡辺京二
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渡辺 京二(わたなべ きょうじ、1930年8月1日 - )は、熊本市在住の日本の思想史家歴史家評論家


目次
1来歴
2経歴
3受賞
4雑誌への寄稿
5評価
6著書
6.1単著
6.2共著
6.3訳書
7評伝
8脚注
9外部リンク
来歴[編集]

日活映画の活動弁士であった父・次郎と母・かね子の子として京都府紀伊郡深草町(現:京都市伏見区深草)に生まれる[1] 。誕生日は8月1日となっているが、これは出生届の提出時に父が間違えたもので、実際の誕生は9月1日という[2] 。1938年(昭和13年)、当時かの地で映画館の支配人をしていた父を追って中国・北京に移住、その二年後に大連に移り、南山麓小学校から大連第一中学校へ進む。1947年(昭和22年)、大連から日本へ引揚げ、戦災で母の実家が身を寄せていた菩提寺の六畳間に寄寓する。

旧制熊本中学校に通い、1948年(昭和23年)、日本共産党に入党する。同年第五高等学校に入学するが、翌1949年(昭和24年)結核を発症、国立結核療養所に入所し、1953年(昭和28年)までの約四年半をそこで過ごした。法政大学社会学部卒業。書評紙日本読書新聞編集者、河合塾福岡校講師を経て、河合文化教育研究所主任研究員。2010年には熊本大学大学院社会文化科学研究科客員教授に就いた。

経歴[編集]
1956年(昭和31年)、ハンガリー事件により共産主義運動に絶望、離党する。
1998年、近世から近代前夜にかけてを主題とし、幕末維新に訪日した外国人たちの滞在記を題材として、江戸時代明治維新により滅亡した一個のユニークな文明として甦らせた『逝きし世の面影』[3]を公表した。
2010年には、北方における日本・ロシア・アイヌの交渉史をテーマとした『黒船前夜』を公表した。

受賞[編集]

『北一輝』により第33回毎日出版文化賞受賞。
『逝きし世の面影』により第12回和辻哲郎文化賞を受賞。
『黒船前夜』により第37回大佛次郎賞2010年度)を受賞。
『バテレンの世紀』により第70回読売文学賞2018年度)を受賞。

雑誌への寄稿[編集]
総合情報誌『選択』誌上で、『追想 バテレンの世紀』を長期連載した。2017年完結
熊本県に本拠を置く「人間学研究会」は、渡辺が組織した勉強会であり同会が発行する雑誌『道標』にもエッセイ、評論等を寄稿することがある。

評価[編集]
西部邁は『逝きし世の面影』について「渡辺京二さんが『逝きし世の面影』(平凡社ライブラリー)という本で面白いことをやっていまして、幕末から明治にかけて日本を訪れたヨーロッパ人たちの手紙、論文、エッセイその他を膨大に渉猟して、当時の西洋人が見た日本の姿――いまや失われてしまった、逝きし世の面影――を浮かび上がらせているのです。/この本を読むと、多くのヨーロッパ人たちが、この美しき真珠のような国が壊されようとしていると書き残しています。」と評した[4]

著書[編集]

単著[編集]
『熊本県人-日本人国記』 新人物往来社、1973年/言視舎(改訂版)、2012年
『小さきものの死 渡辺京二評論集』 葦書房(福岡)、1975年
『評伝 宮崎滔天』 大和書房、1976年、大和選書、1985年/書肆心水(改訂版)、2006年
神風連とその時代』 葦書房(福岡)、1977年/洋泉社MC新書、2006年、洋泉社新書y、2011年
北一輝』 朝日新聞社〈朝日評伝選22〉、1978年 - 毎日出版文化賞受賞(第33回 人文・社会部門)
朝日選書、1985年、ちくま学芸文庫(改訂版)、2007年
『日本コミューン主義の系譜 渡辺京二評論集』 葦書房(福岡)、1980年
『地方という鏡』 葦書房(福岡)、1980年
『案内 世界の文学』 日本エディタースクール出版部、1982年
新版 『娘への読書案内 世界文学23篇』 朝日新聞社〈朝日文庫〉、1989年 
再訂版 『私の世界文学案内 物語の隠れた小径へ』 ちくま学芸文庫、2011年
『ことばの射程』 葦書房(福岡)、1983年
『なぜいま人類史か』 葦書房(福岡)、1986年/洋泉社MC新書、2007年、洋泉社新書y、2011年
『逝きし世の面影』 葦書房(福岡)、1998年/平凡社ライブラリー(解説平川祐弘)、2005年 - 和辻哲郎文化賞受賞(第12回)
『渡辺京二評論集成I 日本近代の逆説』 葦書房(福岡)、1999年
『渡辺京二評論集成II 新版 小さきものの死』 葦書房(福岡)、2000年
『渡辺京二評論集成III 荒野に立つ虹』 葦書房(福岡)、1999年
『渡辺京二評論集成IV 隠れた小径』 葦書房(福岡)、2000年
『日本近世の起源 戦国乱世から徳川の平和へ』 弓立社、2004年/洋泉社MC新書、2008年、洋泉社新書y、2011年
『江戸という幻景』 弦書房、2004年
『アーリイモダンの夢』 弦書房、2008年
『黒船前夜 ロシア・アイヌ・日本の三国志』 洋泉社、2010年/洋泉社新書y、2019年 - 大佛次郎賞受賞(第37回)
『維新の夢 渡辺京二コレクション<1> 史論』 ちくま学芸文庫、2011年6月
『民衆という幻像 渡辺京二コレクション<2> 民衆論』 ちくま学芸文庫、2011年7月各・小川哲生編。編者は大和書房・洋泉社での元担当編集者。
『未踏の野を過ぎて』 弦書房、2011年11月
『細部にやどる夢 私と西洋文学』 石風社、2011年12月
『ドストエフスキイの政治思想』 洋泉社新書y、2012年。「作家の日記」論
『もうひとつのこの世 石牟礼道子の宇宙』 弦書房、2013年6月
『近代の呪い』 平凡社新書、2013年10月。講演録
『万象の訪れ わが思索』 弦書房、2013年11月
『幻影の明治 名もなき人びとの肖像』 平凡社、2014年3月/平凡社ライブラリー、2018年8月。巻末対談新保祐司
『無名の人生』 文春新書、2014年8月。口述筆記
『さらば、政治よ 旅の仲間へ』 晶文社、2016年6月
『父母の記 私的昭和の面影』 平凡社、2016年8月。回想
『私のロシア文学』 文藝春秋〈文春学藝ライブラリー〉、2016年8月
『新編 荒野に立つ虹』 弦書房、2016年12月
『日本詩歌思出草』 平凡社、2017年4月
『死民と日常 私の水俣病闘争』 弦書房、2017年11月
『バテレンの世紀』 新潮社、2017年11月
『原発とジャングル』 晶文社、2018年5月
『預言の哀しみ 石牟礼道子の宇宙Ⅱ』 弦書房、2018年11月
『ファンタジーの周辺 夢ひらく彼方へ』 亜紀書房(上・下)、2019年8月-10月

共著[編集]
『近代をどう超えるか-渡辺京二対談集』 弦書房(福岡) 2003年。有馬学中野三敏ら全7名
『女子学生、渡辺京二に会いに行く』(津田塾大学三砂ちづるゼミとの共著)、亜紀書房、2011年/文春文庫、2014年12月
『気になる人』 晶文社、2015年5月。インタビューした訪問記
『日本の国土 日本人にとってアジアとは何か』(共著)有斐閣 1982年

訳書[編集]
イヴァン・イリイチ 『コンヴィヴィアリティのための道具』(渡辺梨佐と共訳)日本エディタースクール出版部、1989年/ちくま学芸文庫、2015年10月

評伝[編集]
三浦小太郎 『渡辺京二』 言視舎<評伝選>、2016年

脚注[編集]
^ 三浦小太郎『渡辺京二』p.19
^ 『父母の記』p.5
^ 小谷野敦は、同書の徳川時代の性に関する箇所を厳しく批判しているが(『なぜ悪人を殺してはいけないのか』新曜社)、渡辺は同書の新版あとがきで、「案の定こういった反論を予測していた」と述べ、直接小谷野の名を挙げて反論はしなかったが、ダークサイド(暗黒面)のない社会などなく、それでも江戸文明が持つのびやかさは今日でも注目に値すると記した。(新版が平凡社ライブラリーのことなら、刊行は2005年9月、小谷野論文の初出は『比較文学研究』2005年11月なので、小谷野論文を読んで書かれたものではない)なお同書新版は、数年間で十数版を重刷した。
^ 西部邁、黒鉄ヒロシ『もはや、これまで: 経綸酔狂問答』PHP研究所、2013年、79-80頁

外部リンク[編集]
渡辺京二 逝きし世の面影 - 松岡正剛の千夜千冊、2007年10月15日


渡辺京二



逝きし世の面影

葦書房 1998 平凡社ライブラリー 2005

ISBN:4582765521

誰が日本を見捨てのか。

何が日本を見殺しにしたのか。

ここに描かれているのは、一つの文明である。

その文明は、もう滅びたものなのだ。

では、われわれはその文明をどのように見ればいいのか。

そうなのだ、新たに遭遇する異色の光景と社会として、

ここに接するべきなのだ。







 一つの文明が滅んだのである。一回かぎりの有機的な個性としての文明が滅んだのだ。それを江戸文明と呼ぶか徳川文明と呼ぶか、歴史学はそんなふうには日本の近世を見ていないから、呼び名はどうでもいいのだが、しかしそのように呼びたくなるほど、われわれにとっての大きなもの、つまり日本文明の最も芳しいところが、喪失してしまったのだ。「逝きし世」となったのだ。

 バジル・チェンバレンは「あのころの社会はなんと風変わりな、絵のような社会であったか」と述べて、でも「古い日本は死んでしまった」と書いた。チェンバレンには、「日本には貧乏人はいるけれど、貧困は存在しない」と見えたのに、そのうち日本も、富国強兵・殖産興業をもって、わざわざ富裕階級とともに貧困階級をつくりだしてしまったのだ。そのためチェンバレンは、自著の『日本事物誌』(平凡社東洋文庫)を、古き日本のための「いわば墓碑銘たらんとするもの」と位置づけた。



 司法省の顧問として明治五年に来日したジョルジュ・ブスケも、『日本見聞記』(みすず書房)に、「日本人の生活はシンプルだから貧しい者はいっぱいいるが、そこには悲惨というものはない」と書き、日本人に欧米諸国の貧困層がもつ野蛮さがないことに驚嘆した。そのうえで、それらがしだいに失われていく日本を哀惜した。日本アルプスを“発見”したウォルター・ウェストンも同じだった。「日本が昔のように素朴で美しい国になることはけっしてあるまい」と、『知られざる日本を旅して』(新人物往来社)に綴った。

 日本に惚れた多くの外国人は、その後の日本の欧米化を残念がったのである。渡辺京二もまさにそのような感慨をもって、本書を叙述した。「文化は残るかもしれないが、文明は滅びる」。そこを哀惜した。

 仮に羽根つきや凧あげは残ったとしても、それはかつて江戸の空に舞っていた羽根や凧ではないものなのだ。蕪村の空(「凧きのふの空のありどころ」)は、そこにはない。渡辺は、正月の羽根つき・凧あげをいまの子供たちがプラスチックにしているからといって、それを「日本文化の継承」だというふうに“錯覚”することは、いさぎよく文明の滅亡を語り、それを「逝きし世の面影」だろうとみなすことよりも、ずっと苦痛であると感じた。

 本書は、その渡辺の苦渋とともに読まなければ、なんにもならない。発売以来、「こういう本こそ待っていた」と迎えられた一方で、「あまりにも過去の日本に対する懐旧に堕している」という批判も出たのだけれど、ぼくはまずは、『日本事物誌』も『ベルツの日記』(岩波文庫)も、モースの『日本その日その日』(講談社学術文庫)も読んでいない日本人が、本書によって文明的愁眉の問題に気づくことを、むしろよしとしたい。



 安政のころから日本を頻繁に訪れるようになった外国人たちが、どのように日本を見たかということについては、現代の日本人にはほとんど信じられないようなことがひしめている。

 自然の景色の美しさを称賛しているのなら、おおかたの予想がつく。そうではなく、たとえば港町そのものに、また、そこからちょっと離れた郊外の美しさに、かれらはほとほと目を奪われた。当時の日本人にとっても、その時期の版画や写真を見せられた現代の日本人にも、そこまで美しいとは思えなかったかもしれないのに、だ。

 たとえば、『エルベ号艦長幕末記』(新人物往来社)のラインホルド・ヴェルナーは、長崎が、「世界三大美港のリオデジャネイロ、リスボン、コンスタンチノープルよりずっと美しい」と書き、万延元年に通商条約締結のためにやってきたプロシアのオイレンブルク使節団のベルクは、その長崎の「郊外の美しさは譬えようもない。どこに足をむけてもすばらしい景観だった」と絶賛した(『オイレンブルク日本遠征記』雄松堂書店)。

 プロシアの商人リュードルフも下田に来て、「郊外の豊饒さはあらゆる描写を超越している。日本は天恵をうけた国、地上のパラダイスであろう」と書いた(『グレタ号日本通商記』雄松堂出版)。地上のパラダイスとまで言われると、まことにおもはゆい。

 安政六年に初代駐日イギリス大使として着任したラザフォード・オールコックは、その三年間の日本見聞記『大君の都』(岩波文庫)を読めばわかるように、必ずしも日本に甘くはなかったのだが、それでも随所で日本の景観の美しさには心底驚いている。それも、たとえば小田原から箱根におよぶ道路の「比類のない美しさ」に目を奪われた。

 オールコックは田園と日本農業のありかたにも唸った。「自分の農地を整然と保つことにかけては、世界中で日本の農民にかなうものはない」と書いた。これはオールコックがライバル視したタウンゼント・ハリスも同じで、ハリスはやはり水田のみごとさに驚いたあと、「私はいままで、このような立派な稲、このような良質な米を見たことがない」と兜を脱いだ。





王子の風景

江戸北郊のこの地は、異邦人が必ず

一度は訪れる名所だった。

 幕末維新の外国人たちが感心したのは、景観だけではない。子供たちの自由なふるまい、女たちの屈託のない素振りと姿、日用雑器やおもちゃや土産物の細工のすばらしさにも目を見張った。「デイリー・テレグラフ」の主筆で、『亜細亜の光』(岩波文庫)を書いたエドウィン・アーノルドは、「日本の最も貧しい家庭でさえ、醜いものは皆無だ。お櫃からにいたるまで、すべての家庭用品や個人用品は、多かれ少なかれ美しく、うつりがよい」と講演でのべた。

 フランス海軍の兵卒として慶応二年に来日したスエンソンは、日本の家が「いつも戸をあけっぱなしにしている」ことにびっくりし、行水などをする女性たちがあけっぴろげであることとともに、その開放感がいったいどこからくるのかを考えこんだ(『江戸幕末滞在記』講談社学術文庫)。イギリス公使館の書記官だったミットフォードは、そうした日本を「おとぎの国」「妖精の国」(エルフランド)とよぶしかなくなっている。

 スイスの遣日使節団長だったアンベールは、日本が何百年にもわたって質素でありながらつねに生活の魅力を満喫していることに、驚くとともに感銘をうけている。ルドルフ・リンダウの『スイス領事の見た幕末日本』(新人物往来社)には次のようにある。「何もすることもなく、何もしていない人々は、日本では数多い。かれらは火鉢のまわりにうずくまって、お茶を飲み、小さなキセルを吸い、満足な表情で話をしたり、聞いたりしている。そこには日本人のやさしい気質と丁寧な人づきあいとがあらわれている」。

 熊本に入って徳富蘇峰らに影響をあたえた英語教師のリロイ・ジェーンズは(その影響が熊本バンドとなった)、日本では乞食でさえ節度あるふるまいをしていると驚いた。大森貝塚の発見でも知られるエドワード・モースが『日本その日その日』に、いつもそこいらに置きっ放しにしていた自分の持ち物や小銭が一度も盗まれなかったことを、何度も書いていることは有名だ。

 こうして、日本について一〇冊以上もの感想や記録を綴ったウィリアム・グリフィスは(理化学教師として越前藩に招かれた)、「きっと日本人は二世紀半というもの、主な仕事を遊びにしていたのではないでしょうか」と冗談まじりで書いたのだ(『明治日本体験記』平凡社東洋文庫)。





元日風景(ワーグマン画 1865年)



大山神社の小犬たち(1873年)

 本書は、幕末維新の日本に滞在した外国人の感想記のみを素材にして、失われた日本の面影を案内するという方法に徹している。日本側からの目はいっさい紹介されない。渡辺の感想も、ほとんどない。

 この方法が、はたして日本社会や日本文化の研究として妥当であるかどうかなどということは、渡辺はまったく意に介さない。渡辺はあえてこのような方法をとったのだ。ぼくもそのつもりでしか本書を読まなかった。

 日本人がそうした「失われた日本の面影」をどう見ていたかということは、だから別の本で当たったほうがいい。とくに日本人による日本人論だ。これはかなり奇妙な分野をつくっているのだが、そして渡辺が大嫌いな分野なのだが、海外の目と比較するには手っ取り早い。たとえば南博の『日本人論』(岩波現代文庫)や築島謙三の『「日本人論」の中の日本人』(講談社学術文庫)などなどだ。ぼくも気分がのれば、それらをいつかとりあげたい。

 というわけで、本書はきわめて特別仕立ての本になっているのだが、それがかえって凡百の議論を忘れさせ、日本の面影に浸れるような結構になった。たとえば、かつての日本が「貧乏であっても貧困ではなかった」かどうかということは、経済指標などでは測れない。いくら欧米諸国やアジア諸国と比較しても、そんなことの説明はつかない。そういう「振り切り」を見せてくれるのである。



 ぼくは一九六七年から一九七三年くらいまで、「夏はソーメン、冬はいなりずし」という日々をおくったが、その途中で結婚し借金をして「遊」を創刊した。そんなぼくのまわりにお金のない連中ばかりが集まってきて、それでも一緒に仕事をしたいというふうになっていった数年間は、いまふりかえれば「最低の経済生活」だったけれど、「最も恵まれた日々」だったと思い出すことができる。

 そんなことは当然のことなのだ。安政期から明治中期までの日本に、貧困や苛酷があったのは当然である。むろん盗みもあったし、忌まわしい犯罪もあった。白土三平の『カムイ伝』(小学館コミック他)に如実なように、村落での圧政も少なくはない。けれども、その当時はまだ、それらを含んで広がる日本の類いまれな生活意識があったのも事実なのである。だから、問題は経済生活論でも衛生論でも失業問題でもないのだ。

 そこに「面影」として共有できる「日本」があったかどうかということなのだ。ところがその面影日本を認識できる目が、ある時期をさかいに急速に失われていったのである。渡辺が書きたかったことは、それだけだった。





江戸近郊の茶屋

 すでにタウンゼント・ハリスの通訳として安政の日本を見たヘンリー・ヒュースケンが、次のように書いていた。「いまや私がいとしさをおぼえはじめている国よ。この進歩は、ほんとうにおまえのための文明なのか」というふうに(『日本日記』岩波文庫)。

 長崎海軍伝習所に請われて教育隊長となったリドル・カッテンディーケも、「日本はこれまで実に幸運に恵まれていたが、今後はどれほど多くの災難に出会うかと思えば、恐ろしさに耐えない」と書いた(『長崎海軍伝習所の日々』東洋文庫)。カッテンディーケに伴った医師のポンペは『日本滞在見聞記』(雄松堂出版)に、日本に開国を強要したことは、「社会組織と国家組織との相互関係を一挙にうちこわすことになる」と自省をこめた。

 勝手に土足で座敷に上がってきて、この言い草はないだろうとも言いたくなるが、ここはとりあえず謙虚に耳を傾けておいたほうがいい。ポンペは、開国後の日本、とくに幕末の日本人がすでに堕落しつつあることを実感していたのだった。

 それなら、かれらは古きよき日本のどこを絶賛したのか。日本を訪れた外国人たちが、たんなる異国情緒や、エドワード・サイードのいうオリエンタリズムによって、日本を美化したにすぎなかったのかどうかということだ。



 安政五年に、日英修好通商条約を結ぶためにエルギン卿とともに来日した艦長オズボーンと秘書オリファントの感想記がある。

 そのなかで、オズボーンは「男も女も子供も、みんな幸せそうで満足しているように見える」と書き、オリファントは「個人が共同体のために犠牲になる日本で、各人がまったく幸福で満足しているように見えることは、まったく驚くべき事実である」と書いた。オリファントはさらに、「日本人は私がこれまで会ったなかで、最も好感のもてる国民で、貧しさに対する卑屈や物乞いのまったくない唯一の国である」という感想をのべた。

 いずれも『エルギン卿遣日使節録』(雄松堂書店)に収録されている言葉で、この言いっぷりに注目したのは、ぼくもよく知っている京都大学の横山俊夫だった。横山はこのような「日本贔屓」は十分に熟考したものでなく、正確な比較をしたものでもなく、たんに旅行者や滞在者が自動筆記のように感想を綴ったものだと結論づけた。

 オズボーンが江戸に上陸したその日の感想に、「不機嫌でむっつりした顔には一人も出会わなかった」などと書いているものを読むと、ぼくもきっとその程度のことだろうと感じるのだが、しかし渡辺は、それを言い出してはダメだと踏んばったのだ。その批評を持ち出してはいけないというのだ。とくに青木保のように、そういうことから「文化の翻訳不可能性」を引き出すのは、もってのほかだと言うのである。

 かれらには、オリエンタリズムを差っ引いてもなお余りある日本観察があったと思うべきだと、渡辺は断定するのである。



 先にも書いたけれど、オールコックの『大君の都』は必ずしも日本に甘くはない。そこには、日本を訪問した外国人の多くがこぞって日本を「楽園」扱いしていることを批判した箇所が少なくない。

 東洋的専制主義が、中国とともに日本に満ちていることも指摘した。とくに知的道徳においては、日本がヨーロッパ十二世紀のレベルにとどまっていることを容赦なく指弾した。それにもかかわらず、オールコックは日本を見て、「ヨーロッパ人が、どうあっても急いで前に進もうとしすぎている」ことを実感せざるをえなくなり、「アジア人がしばしば天上のものに霊感をもとめている」ことに驚き、そこに「ヨーロッパ民族の物質的な傾向に対する無言の抗議」があることに気がつくのだ。そして、いささか都合がよすぎる反省ではあるが、次のように日本の役割について綴った。

 「これらは、ヨーロッパの進歩の弾み車の不足を補うものとして、そしてまたより徹底的に世俗的・合理的な生存を夢中になって追求することへの無言の厳粛な抗議として、この下界の制度のなかで、ひとつの矯正物となるかもしれない」。

 何をオールコックはえらそうなことを言っているのかと思いたくもなるだろうが、また日本の役割が「無言の抗議」にあるなどと見ることに、どうしようもないアングロサクソン的な傲慢の態度を感じたくもなるだろうが、しかしそれでも、オールコックは当時の日本に脱帽するところがあったのだ。問題があるとすれば、そのことを「無言」ではなく、「有言」として、日本が世界に示さなかっただけだということになる。



 以下はちょっとした感想だ。

 いったい「見捨てる」とか「見殺しにする」とはどういうことなのだろうか。そのことを問うてみたい。価値がわかって必要を感じていながら見殺しにすることが、見捨てることであって、黙殺することであるとするのなら、欧米列強は、アジアを見捨て、日本を見殺しにしたのである。

 カール・ポランニーが、欧米社会から自立した市場システムは、欧米社会に矛盾を激化させるよりなお速く、きっとアジアの途上国を見殺しにするだろうと予測し、イヴァン・イリイチが「資本の本性」と「利潤の自由」という観念の実行こそ、どんなヴァナキュラー(辺境的)な地域をも変質させ、見捨てることになるだろうと分析したことは、「逝きし面影」の放棄をとっくの昔にみずから選択して体験せざるをえなかった日本の近代史からすると、その主張さえ遅きに失したというべきなのである。

 しかし、実際のところは日本を見捨て、日本を見殺しにしたのは日本人自身であったのだ。イリイチは「資本市場主義のプラグをさっさと抜きなさい」と言ったけれど、かつてそのプラグを入れることすらしていなかった日本は、いったんプラグを入れるとその快楽に痺れ、三つ四つどころか一〇〇のプラグを入れっぱなしにした。厚化粧をし、ハイテクに走り、かつての大事なことを次々に忘れた。

 これではいまさらプラグを入れたことを、そのプラグを抜きがたくなったことを憂いてもしょうがない。日本人は何もかもを見て見ないふりをして、いまなお日本を見捨て、日本を見殺しにしつづける。問題があるとしたら、ただひたすらそのことにある。

 もはや欧米を詰ってもムダである。たとえば文化人類学が「異文化を自国の文化コードで読み解いてはならない」と言っているじゃないかなどと、その程度のことを知識人が言い出したところで、なんの力もない。



 渡辺京二が本書を上梓したのち、ジャーナリストや書評家たちから、「あれはただ、昔の日本はよかったと書いただけじゃないか」と批評されたことがある。渡辺は静かに反論した。『荒野に立つ虹』(弦書房)に収録されている。

 渡辺が述べたことは、かつて日本には「親和力」があったということ、それは文明であって、かつその文明は滅んだのだということ、だからこれらをわれわれは「異文化」として新たに解釈しなくてはならないということだった。

 幕末の外国人たちが見た日本は「逝きし世」だったのである。逝っちまったのだ。それなら、その逝きし世の面影はもう戻らないのか。そのままでは戻らない。渡辺は「異文化」として学ぶべきものだと言う。つまりは、いまや「面影日本」の本来的な研究と再解釈と、そしてそこにひそむ方法を感知することだけが、一挙に、そしてただちに要請されているだけなのである。

 ぼくがかつて、四国の四国村で「日本再発見塾・おもかげの国」(古田菜穂子プロデュース)を一年ほど続けたのも、NHKの八回の人間講座を「おもかげの国・うつろいの国」と題したのも、それを『日本という方法』(NHKブックス)にまとめたのも、いまは「連塾」で、その「ニッポン」をもう四年にわたって語り続けているのも、まさにそのことだった。

 日本人は、日本の歴史が「近代」のところで極端に分断されたことを、もう少し知ったほうがいい。その切断の前後を海外の滞在者による記録だけで埋めればいいというわけではない。渡辺も本書ではその案内作業にみごとに徹したが、ほかのところでは、近代以降の日本が西郷や北一輝によっても、吉本隆明や谷川雁によっても蘇生できなかったことに、多くの思索と執筆を費やした。もって知るべきである。





嘉永6年の下田港



附記¶本書はもともとは「週刊エコノミスト」に『われら失いし世界』と題されて連載されていた。そのためか、繰り返し、似たようなテーマが展開されている。しかしそれが、なんだかこの日も、あの日も、その縁側の光景に立ち会えたような気分になって、心地よい。そういう著書なのだ。本書は葦書房によって刊行されたのち、長らく絶版になっていたのだが、さきごろ平凡社のライブラリーに入った。

 著者の渡辺には、何冊かの著作がある。葦書房からは「渡辺京二評論集成」として、『日本近代の逆説』『小さきものの死』『荒野に立つ虹』『隠れた小径』がまとめられている。近著には『日本近世の起源』(弓立社)、『江戸という幻景』(弦書房)がある。ぼくが最初に渡辺京二を読んだのは『北一輝』(朝日選書)だった。



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2019年5月31日に日本でレビュー済み
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ひじょうな労作であることは間違いない。
ただ、めちゃくちゃ長い上にめちゃくちゃ読みにくい。
なぜ読みにくいかというと、集めた外国人の手記を粉々に砕いて部分部分に埋め込んでしまっているからであり、元々の資料の文章がまるで部品のように扱われてしまっているからだ。

この本が言わんとすることのひとつには、「かつて日本に存在した文明(注:「江戸文化」などといわず「文明」とするのは本書の用語である)は小さなコード毎に細分化され、一部は今も残り、一部は廃れてしまったが、いずれにせよ全体の大きな構造としての”文明”は失われてしまった」ということを丁寧に整理された資料の中からつまみあげて行くことにあると思うのだが、その著者自身が素材をコード化・細分化して自らの設計図に埋め込むようなことをしてしまうのはいかがなものだろう。
その記述の仕方には資料への冷酷さを感じるし、「逝きし世」が持っていたあたたかさや豊かさとは逆のものを感じずにはいられない。

もう1つ気になったことは、引用する資料が1850年~1890年代までの比較的長い期間を対象としており、時代的にはペリー来航前後~明治30年頃までと日本の位相が大きく変わった時期を扱っているのにも関わらず、場合によってはそれらが並列つなぎに引用されてしまっていることである。
これは令和元年と昭和55年の日本の世相を同列に記載する危うさを指摘すれば足りると思う。

名著という評判ではあるが、そういう先入観はなしに読んだ方がよいと思います。
わたしは、もっと深い満足感を得られる本はたくさんあるという点で、ふつうでした。
42人のお客様がこれが役に立ったと考えています
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2018年2月4日に日本でレビュー済み
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必ずしも失われた文明ではなく、今の日本人にもこの本で書かれた心性は受け継がれて生きている。しかしいくつもの近代的コードでばらばらに分断され、完結した全体を失っているため、現代の日本人が幸せを見つけるのは、大変だ!
37人のお客様がこれが役に立ったと考えています
コメント 違反を報告
2018年4月11日に日本でレビュー済み
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ここにある記述が、嘘である真実であると言う事を抜きにしても、目を見開かれる本である。
33人のお客様がこれが役に立ったと考えています
コメント 違反を報告
2017年10月6日に日本でレビュー済み
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江戸時代中期~末期にかけての外国人訪問者の書いた手記をふんだんに引用して、客観的視点から江戸時代の日本の姿を描き出そうとした力作。
全ての日本人が読むことが望ましいと言える本はそうそうないが、コレはその中の1冊だろう。
人として本当の幸せは・・・。考えさせられますね。
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2018年7月27日に日本でレビュー済み
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読み終えての感想は
「タイムマシンがあったら江戸時代に行ってみたい。」
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2015年12月24日に日本でレビュー済み
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われわれ日本人の良くも悪くも独特で特異な思考や思想と感覚感性がいかにして培われ受け継がれてきたのか
明治の開国文明開化で失われた日本人の美徳や、時代が変わった今も日本人の根底に流れ続けている「日本人らしさ」など
江戸末期~明治期日本に滞在した外国人の体験や感想といった客観的事実を積み上げた民族研究書ではありますが
日本人としてのアイデンティティがどこにあるのか改めて見直した一冊であり、繰返し読みたくなる本です

現代日本は「日本人であることの誇り」を忘れつつありますが、未来の日本人を育てる教育関係者に特にお薦めします。
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ベスト50レビュアー
2020年4月15日に日本でレビュー済み
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"私の意図はただ、ひとつの滅んだ文明の諸相を追体験することにある。外国人のあるいは感激や錯覚で歪んでいるかもしれぬ記録を通じてこそ、古い日本の文明の奇妙な特性がいきいきと浮かんで来るのだと私はいいたい。"1998年発刊の本書は【西洋化で失われ分断された文明】を幕末維新の日本に滞在した外国人の感想のみを素材にして案内した名著。

個人的には歴史を学ぶと(現代風解釈の時代劇とかで)当然の様に感じであろう【江戸から明治。西洋化における断絶や歪み】が気になっていることから本書も手にとりました。

そんな本書は、チェンバレンやハ-ン、シッドモアやバードといった数多くの明治前後に日本を訪れて、様々に記録した外国人、いわば【外部の眼差しで】"昔は良かった"的な短絡思考ではなく【確実に失われた日本の面影を】『陽気な人びと』から始まり『心の垣根』まで14章にテーマをわけて、丁寧かつバランスよく紹介しながら【浮かび上がらせようと試みている】のですが。

既に何冊か、例えば近年では漫画化もされているバードなどを先に読んでいないと、本書は【それを前提として書いている】気がしているので読み難く感じるのではないかと思いました。(幸いにも私の場合は全員ではありませんが、何人か既に読んでいたので、内容を『客観的に振り返るような楽しみ』がありましたが。)

また、著者が冒頭で述べている様に、本書の意図は【歴史の真実や諸問題を明らかにする】とかではなく、誤っているかもしれない外国人の視線を追体験する事で、過去に【確かにあった日本文明を感じる】事に注力しているのですが。単純な言葉に置き換えるのは難しくも、表紙のイラスト他、本書で紹介される【陽気かつ天真爛漫なご先祖様たち】の姿を眺めながら【既に失われた文明】を『過度に美化したり』表面だけなぞって『都合よくねつ造する』のではなく。ちゃんと【覚えておく大切さ】を考える機会となりました。

近代化という西洋化で【失われた何か】を感じたい方へ、また江戸から明治において【歪められ何か】を考えたい人にもオススメ。
7人のお客様がこれが役に立ったと考えています
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2019年8月10日に日本でレビュー済み
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江戸末期、明治初頭、日本を訪れた外国人たち記した日本の姿がこれでもかというくらい書かれている。
その中の一つ、「第十章 子どもの楽園」
『彼らの身体は頑丈で丸々と太っていて、その赤い顔が健康と幸福を示していた。』クラークP389
『子供たちは大人からだいじにされることに慣れている。』ネット―p390
『日本ほど子供が、下層社会の子供さえ、注意深く取り扱われいてる国はすくなく』ネット―P390
『私は日本は子供の天国であることを繰り返さざるを得ない。世界中で日本ほど、子どもが親切に取り扱われ、そして子供のために深い注意が払われる国はない。ニコニコしているところから判断すると、子どもたちは朝から晩まで幸福であるらしい』モースP390
『彼らほど愉快で楽しそうな子供たちは他所では見られない』カッティンディーケP392
『家庭でも船でも子供を打つ、叩く、殴るといったことはほとんどなかった』ツュンベリ P393
『私は日本の子供たちがとても好きだ。私はこれまで赤ん坊が泣くのを聞いたことがない。子供た厄介をかけたり、言うことを聞かなかったりするのを見たことがない。』イザべラバード P394
「子供を可愛がるのは能力である。だがその能力はこの女人だけが授かっていたのではない。それはこの国の滅び去った文明が、濃淡の差はあれ万人に授けた能力だった。」筆者P419
この国は子どもの楽園だったようです。今の日本はどうでしょうか?
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感想・レビュー246
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ネタバレ
JFK
JFK
幸福感とは、物質的なことでなく、生活を楽しむ姿勢や親和性や根底に流れる寛容性であること、またそれは上機嫌な表情となって現れるということを江戸末期明治初期に来日した外国人の観察を通して知る。
ナイス★4
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2020/07/04
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semimaru_book
semimaru_book
すぐに何かに役に立つかはわからないのだけれど、いつかは必ず思い出すだろう。 読後、そういう確信を抱かせてくれる本に時折出会うことがあって、この一冊はそんな幸せな出会いのひとつになった。 江戸末期から明治期にかけての日本の習俗を、異邦人が書いた文章から再構成しようという著者の試みは、その習俗がもはや失われてしまったという点で、何処かに徒労の気配を宿す。だが、この国に数十年生きていれば、この本では「失われた文明」とされている人々の姿が、現代にあっても形を変えて生き残っているのを、きっと思い出すはずだ。
ナイス★11
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2020/06/17
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かいゆう
かいゆう
江戸後期から明治初期にかけての日本はどんな様子だったのか。日本に滞在した外国人の記録から知る日本は興味深いものだった。広がる田園風景と四季の花、人々の大きな笑い声、質素ながらも幸せなように見える家族。外も内も無くおっぴろげ。外国人を怖がる様子もない。尊王だの攘夷だの不穏な情勢についても記述があるかと期待したが、江戸から明治への移り変わりについては、外国人や一般の民の声が無かったのが少々残念である。
ナイス★27
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2020/06/07
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金吾
金吾
ネタバレ○明治維新前後の日本の風俗を訪日外国人の目を通じまとめた本です。近代化以前の一般的な日本を知るのにいい本です。悲惨さを感じさせない貧乏や無欲、無邪気、むき出しだが不快でない好奇心、陽気、平等精神、子供・動物への優しさ等ややいい面を強調しているのかなと思えるような内容で正に逝きし世の面影と感じました。また日本人の本質がかくのごときであるならば愉快だなと思いました。あと日本女性は男たちの醜さから程遠いという記述には笑いました。
ナイス★58
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2020/05/11
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みこ
みこ
江戸後期から明治初期の日本を訪れた外国人の体験談から、近代化により失われた文明を読み解く。全体的に光の部分に焦点を当てているけれど、それもまた真実。当時の庶民は丁寧で親切、その一方で好奇心旺盛でよく笑うと言うのが意外だった。今よりずっと苦しい生活のはずなのに、どうして笑えるのだろう?でも貧しい人々にこそ、精神的な自由と豊かさがあった。質素な生活の中でも祭や行事を楽しみ、四季の自然を愛で、子供や動物を慈しむ人生。それがいつからか贅沢なものになってしまった。逝きし世の面影というタイトルがしっくりくる本だった。
ナイス★29
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2020/05/09
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ちー読
ちー読
明治から以降は大きく変わってしまったので、江戸時代までの日本は、正に、失われた文明ですね。それを『逝きし世の面影』と表現するセンスの美しさ。大部の本だけれども、読みやすい文体で、存外に早く読み終わってしまいました。オリエンタリズムとはまた違う、外国の当時の日本への評価が、独特の文化を持つ国としてある種の好意を持たれていたというのが、ちょっと嬉しいです。
ナイス★7
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2020/04/18
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AICHAN
AICHAN
図書館本。文体が古く読みづらい。偉そうな調子の文章が鼻につく。しかし、内容は立派。幕末から明治初期に来日した欧米人の目から見た当時の日本人の生活や習俗を紹介している。外国人の目に映った日本人はみな陽気で明るく、農民でさえも満ち足りた生活を送っていた。貧乏人は確かに存在するが、相互扶助によって貧困は存在しなかったという。この江戸期という文化の上に現在の日本は乗っかっているのだと著者は解く。確かにそうだ。
ナイス★82
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2020/04/09
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RYU
RYU
幕末維新の日本に滞在した外国人の文献を読み解き、失われた日本の面影を辿る。18世紀初頭から19世紀の日本にはユニークな文明が確かに存在していたが、近代化につれて滅ぶ。それとともに日本人が失ったものを追体験する。庶民の日常に関するエピソードが多々。身分的差異は画然としていても差別として不満の源泉となることのないような親和感に貫かれていた。また、自然が四季の景物として意識の中で馴致され、日本人は生の充溢を味わい親和と共感の感情を育てていた。
ナイス★8
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2020/02/15
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キーコック
キーコック
「江戸時代」を見聞した外国人が残した記録をもとに、美しく特異な江戸文明を記した名著。 西洋資本主義帝国主義の隆盛からして、江戸文明の崩壊は必然だったかもしれないが、もしも現存していればと願ってしまう。しかし解説で語られた通り、江戸を懐かしいと思うということは、我々の中に江戸がかすかに残っているということ。文明は滅びたが日本は確かに江戸の上に立っているのだ。
ナイス★11
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2020/01/08
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undine
undine
大切に少しずつ読んでようやく読了。読み始めの頃は、文体が読みづらく感じられたが、内容は深く、広く、外国人の目に映ったかつての失われた日本の姿を知ることができた。既に失われてしまった文明に対する愛しさと懐かしさで胸を締め付けられる思いがした。日本の良さを褒めたりするばかりの本ではないが、この本を読み終えて日本を大切にしたいとする思いを深くしました。
ナイス★12
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2019/11/09
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Hiroaki  Taira
Hiroaki Taira
幕末から明治初期に来日した欧米人が著した見聞録や紀行文を通じて当時の日本(人)の生活や習俗を解き明かした大著。今まで江戸時代の一般民衆は封建制の下で抑圧された生活を送っていたものと思っていたが、外国人の目に映った日本は妖精の国であった。人々は皆陽気に明るく暮らしており、最下層の農民でさえも、満ち足りた生活を送っていた。貧乏人は存在するが、貧困は存在しないという言葉に尽きる。鎖国の下箱庭の中の妖精のように、日本人は慎ましく且つ陽気に生活していたのであり、それは近代化と共に滅んでしまった一つの文明であった。
ナイス★12
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2019/10/10
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yuki
yuki
近代以前の日本の人々の生活を外国人の目から描いた姿を網羅しています。子供たちを包みこんでいくようなやさしさや女性の強さに関する記述に勇気づけられます。石牟礼道子さんの作品を読む中で知った筆者だったのですが、失われていく文化への哀しみが感じられます。
ナイス★14
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2019/10/02
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ごん
ごん
既に滅亡した徳川後期文明について著者は幕末から明治期に訪れた異邦人からの視点で描きだしていきます。そこで描き出された近代化前の日本人の姿は魅力に富んでいますが、近代化後の日本人と明らかに断絶していて、この文明は既に滅亡した文明なのだと感じざるをえません。 近代化が地球規模で進行した当時、徳川後期文明は滅びを宿命づけられていたのかもしれませんが、この文明の末裔の一人として「逝きし世」に思いをはせてしまいました。
ナイス★12
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2019/08/31
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ゴロチビ
ゴロチビ
幕末から明治期にかけて日本を訪れた外国人達による記録から、当時の日本にはあったが現代は喪ってしまった文明の面影を描こうとしたもの。外国人によって描かれた在りし日の日本は、我々にとってもほぼ未知の世界でとても面白い。著者は明治以降の西洋の価値基準に影響された日本人が江戸文化を低評価するのが気に入らないらしく、外国人達による高評価をありのままに受け止めることを主張する。著者による評価のし直しの後でも、女性についての考察等、細かく見れば素直に同意出来ない部分もある。結局は自分がどういう視点に立ってるかだと思う。
ナイス★13
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2019/08/09
ゴロチビ
ゴロチビ
チェンバレンの言うこの国の国民性は今でも全く変わってないと思う。曰く「知的訓練を従順に受けいれる習性、国家と君主に対する忠誠心、付和雷同を常とする集団行動癖、外国を模範として真似するという国民性の根深い傾向」思わず笑っちゃう程言い得ている。

ナイス★7
08/09 18:47
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Kyohei  Matsumoto
Kyohei Matsumoto
古き日本の面影を知るためには、過去に外国人が残した日本への旅行記を見てみるのが一番良い、ということで、過去の外国人の日本に対する評価が様々に集められた本である。そこで浮かび上がる日本は、明るく無邪気で礼儀正しく、多くの外国人が憧れた美しい国であったということ。もう失われた光景かもしれないが、過去の日本は美しかったんだなと思わされざるを得ないし、今ではなくて江戸時代に生まれたかったという思いを禁じえなかった。西洋の"個"という概念が日本を違う国にした。"個"を見直したくなる内容だった。
ナイス★12
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2019/07/28
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ikedajack
ikedajack
江戸から明治にかけての外国人による日本の文化についていろいろな分野で述べられています。日本人が失ったものを改めて再認識できます。
ナイス★10
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2019/07/27
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おせきはん
おせきはん
江戸時代末期から明治時代にかけて日本を訪れた外国人の残した文献から、当時の日本の様子を解き明かしています。身分社会ではあったものの、当時の日本人が好奇心旺盛、陽気で幸福感に満ちていたなど、近代化を経て変わっていく前の日本の様子が紹介されており、興味深い内容でした。当時から特定の宗教に対する信仰心が薄かったこともわかりました。
ナイス★28
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2019/07/14
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sou65406459
sou65406459
幕末明治期の日本人を描写した欧米人の記録から、江戸期の日本人という文明が如何様なものであったか解き明かそうとする作品。膨大な記録から江戸人と自然とのつながり、人生観など現代人と全く異なる、でも連続した人々の特質が章を進むごとに見えてくる。 単なるオリエンタリズムではない諸外国人の記録は、美しく異質な世界の一端を我々に見せてくれる。
ナイス★8
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2019/06/22
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H.A
H.A
幕末から明治初頭に日本を訪れた外国人の日記などの記述から、江戸末期の「文明」を紐解こうとする労作です。著者に言わせると、近代以前の文明が変貌し姿を替えて現代まで続いているというのではなく、近代以前の文明は明治期頃に滅びてしまったと言います。それほど今と江戸末期では断絶があり違いがあります。本の体裁は文庫本で約600頁で、14章に分かれそれぞれの章で当時の文明において特質すべき特徴となっていたことを豊富な外国人が記した文献を頼りにフォーカスしていきます。
ナイス★8
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2019/06/10
H.A
H.A
例えば第2章は「陽気な人びと」では当時の日本人(主に農民や商人)が陽気で幸福感に満ち満ちていた様子が語られます。一般的に(少なくとも私は)江戸時代は封建制度で庶民は厳しい暮らしを強いられそこには悲惨とか苦悩とかそんなイメージを漠然と抱いていましたが、どうやらそうではないらしいのです。オズボーン(日英修好通商条約を結んだエルギン卿使節団の一員)は「不機嫌でむっつりした顔ひとつとて」なくとまで言っています。翻って今の日本を考えるとなんと不機嫌に覆われた顔が多いことかと思ってしまいます。

ナイス★4
06/10 21:11
H.A
H.A
短絡的に結論に飛び付くと日本の近代化は人びとを幸せにしなかったと言い切れそうです。近代化以前の日本文明は近代化後の西洋文明に衝撃的だったようです。 このようなテーマで今まで知らなかったほんの150年前までの文明に様相が明らかにされていきます。 この本の帯には「読書人垂涎の名著」と銘打たれています。読書の楽しみの一つは新たな知識をもたらしてくれること。その意味ではまさに「読書人垂涎の名著」と言えると思います。本を読むことが好きな人には是非手に取ってもらいたい一冊です。

ナイス★4
06/10 21:12
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らぱん
らぱん
知的好奇心が湧く刺激的でとても面白い文明論だ。明治維新前後に来日した異邦人の文章から文化と文明を考えていく。その言説は毀誉褒貶の両論を採り、様々なバイアスを考慮した上で類推し、およそ江戸時代末期ごろの日本と日本人の様子を現出させている。今よりも生き生きとして楽しそうだ。そして近代以降はこの文明からの進化変化では無く断絶があると理解した。続いている文化はあるが違う文明なのだ。ここに憧憬や感傷を持つだけではなく、持続可能な未来社会を考える現実的な手掛かりを模索できないだろうか。多くの示唆をもらえた良書。↓
ナイス★52
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2019/05/03
らぱん
らぱん
↑この著作は当初は連作の予定であり、本書で端境期の江戸時代末期を俯瞰後に近代に深く分け入り踏み込もうと計画されていたようだ。そのためだろうか、序章で述べられているほどには近代論にはなっていない。とは言え、人の姿や町並みや暮らしぶりなど非常に面白く、読み応えがあることは確かだ。江戸や近代については別の著作があるようなので探してみたい。

ナイス★29
05/03 04:02
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平成の最後にふさわしい本。これまで持っていた「一般的な日本人はこういうものだ」という考えが覆ってしまった。「幸福で気さく」であるとか「絶えず喋り続け、笑いこけている」「好奇心むきだし」といった性質は今の日本人からかけ離れているように思える。そして現代に生きる日本人よりもよほど幸せそうな、ある種のパラダイスであったかのような外国人の記述に驚きを禁じ得ない。幕末は坂本龍馬らの活躍ばかり後世に伝わっていたようだが、資本主義の限界もささやかれる中、このすでに滅んでしまった文明について再考する意味は大きいと思える。
ナイス★11
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2019/04/30
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nobidora
nobidora
幕末~明治初期に訪日した外国人たちによる、日本観の記録を整理・検討した素晴らしい仕事。決して「古き良き日本の賛美」でも「旧態依然とした未開の過去の否定」でもないことは最後まで読めば分かるはず。この頃の日本には自然との調和、コスモスにおける代替可能な部分としての自分、そして自然と一体化することによって完成する生の形、があった。これは西欧化、近代化(この語が適切かどうかは作者に怒られてしまうかも)によって破壊され、自己実現という栄光と宿痾を抱えて生きなければならなくなり、これらに私たちは頭を悩ませている。
ナイス★10
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2019/04/28
nobidora
nobidora
本書とはほとんど関係ないが記録として。通勤時の数十分で2週間程度かけて何とか読み終わった。各章の区切りは数十ページだが、第一章がいきなり一番難しい抽象的な話なので、そこで挫けてしまうかも。

ナイス★1
04/28 15:45
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あしぶえ
あしぶえ
徳川後期に完熟した一つの文明。「あらゆるものの調和、平和、底抜けの歓喜、さわやかな安らぎの光景」と欧米人が評価した世界は資本主義の荒波の中で自滅した。こういう歴史を辿ったのは日本だけはないだろうが、その墓碑として確かな傑作。内向き志向の「クールジャパン」や国家主義と混ぜこぜにしたら作品が泣く。
ナイス★40
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2019/04/27
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おたま
おたま
渡辺京二氏はこの書で西欧中心に作られた近代文明(それはもろん明治以降の日本も含まれるわけだけれど)、そうした近代を相対化するための一つの媒介として江戸末期から明治初期に確かに日本にあった一つの文明を紹介している。自分の置かれている社会を、ちょうど精神分析のように外部の目(幕末から明治初期にかけて日本を訪れた外国人の目)を通して客観視し、そこに自分達では気付けなかった文明を再現する。それは現在の日本に住む我々にとっても瞠目の社会であり、新しい社会を構想するための一つの手がかりとなるのではないだろうか。
ナイス★42
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2019/04/24
おたま
おたま
やはり明治という時代に西欧近代社会を理想として「欧化」していった、そのことに理由はあると思います。その時に日本人の多く、少なくとも上層部の人々は、江戸時代の価値観を乗り越えるべき「封建社会」として否定したのではないでしょうか。渡辺さんは、その否定したものの中に、実は自分たちの気付かなかった豊かな世界があったのだと述べていると思います。

ナイス★3
04/27 22:46
Lara
Lara
西欧化、西欧偏重は、三百年の鎖国があったから、急いだのでしょうかね。渡辺京二氏の著作を読むと、なんだか理想的な日本があったのだと、思いこんでしまいます。ありがとうございました。

ナイス★2
04/28 18:43
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行商人
行商人
江戸末期から明治期に訪れた外国人には、日本と日本人がどのように見えたのか、数々の事例と資料をもって紹介した書。評価は思った以上に高かったが、だから日本は素晴らしいとか、あの頃は良かった、という意図で書かれていないところが好感。当時の日本は今とまったく違ったのだなとしみじみ感じた。そして当然ではあるが、現代の価値観を持つ自分にはとても住めそうにない所だな、とも。
ナイス★7
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2019/04/07
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ちろ
ちろ
タイムスリップして風呂屋に行き、「明るいニヒリズム 」というものを肌で実感してみたく思った。
ナイス★3
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2019/03/02
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空木
空木
歴史小説読み始めた頃に「江戸好きにおすすめ」と言われてるのを見て軽い気持ちで読み始めたらお堅い内容で一同挫折しました。お堅いものだとわかった上で再度読んでみたら興味深い内容でした。この本読んでると明治維新要らなかったんじゃないかと思ってしまう。幸せそうな江戸時代。
ナイス★7
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2019/02/22
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ソングライン
ソングライン
文化は滅びることなく変容するだけのものであるが、生活様式などの文明は滅びるものと語る作者の、開国以前に存在した、江戸末期の日本文明を表わした大著です。自国の民が自身の文明を語るのは客観性に欠けるため、幕末から明治初期に日本を訪れた欧米人の残した記録をもとに当時の生活、慣習を紹介していきます。この時代の無邪気、自由、真面目さという日本人の愛すべき気質を外国人たちは、自分たちが近代において、失ってきたものと懐かしみ、また、これらの気質を今後の日本人が失っていくであろうと、哀しみの視線を向けています。
ナイス★30
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2019/02/08
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Die
Die
面白かった。 生まれるなら幕末が良かったと思うくらい昔の日本に魅力を感じた。 今の世界に憂いも感じるが、もう戻ることはできない。
ナイス★7
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2019/01/31
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ケイトKATE
ケイトKATE
“私はいま、日本近代を主人公とする長い物語の発端に立っている。物語はまず、ひとつの文明の滅亡から始まる。”という印象的な出だしから始まる本書は、江戸時代末期から明治時代に、日本を訪れた外国人の目から見た日本社会が描かれている。本書を読んだ時、江戸時代について士農工商で知られる身分社会で多くの人々が抑圧されていたと学んだことが、間違いだったことに驚かされた。確かに当時の日本は身分社会であった。だが、その社会の中で一人ひとりが楽しんで生きていた。
ナイス★21
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2019/01/20
ケイトKATE
ケイトKATE
やがて、明治維新による社会の近代化と効率化により、日本は飛躍的な進化を遂げた反面、それまでに根付いていた文明を棄ててしまった。私は本書を読んだ時、夏目漱石の“皮相上滑りの開化”という言葉が思い浮かんだ。現在でも、“成長”や“進歩”こそ日本の生きる道であることを説いている人物を見るが、はたして、それで一人ひとりが幸せに繋がるのか疑問に思う。本書は、日本の未来について一考するに読むべき本だと思った。

ナイス★8
01/25 12:14
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60%主義でいこう
60%主義でいこう
日本人って世界からみると こうだったんだ❗
ナイス★5
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2019/01/18
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tadawo
tadawo
本書に描かれている日本人に対して現代の日本人たる自分が受けた印象は、当時の外国人が当時の日本人に受けたものによほど近いように思う。現代の日本人と当時の日本人との断絶を感じずにはいられない(わずか150年前なのに)。いったいどのような歴史的経緯をもって、このようなユニークな文明が形作られたのか、さらに興味が広がった。
ナイス★8
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2019/01/14
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ヨードー
ヨードー
「恐らく日本は天恵を受けた国、地上のパラダイス」「貧乏人は存在するが、貧困なるものは存在しない」「東洋のいかなる地域においても、日本ほど飲酒がさかんなところを見たことがない」「芸術愛好国であるフランスも、音楽国であるドイツも、さらには保守的なイギリスさえもが日本装飾芸術に屈した」「日本女性は男たちと同様、大の喫煙家だ」傑作です。
ナイス★9
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2019/01/13
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dexter4620
dexter4620
礼儀や文化、粋を大事にする社会、江戸。是非再読したい名著🇯🇵
ナイス★5
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2018/12/15
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Ryo
Ryo
江戸末期〜明治期にかけて、一つの文明が近代化という世界の波に飲まれ滅んだ。独創的かつ洗練された日本文明は、今でも我々の中に引き継いでいるように感じていた。だが、当時日本を訪れた欧米人の目を通してかつての日本を覗いてみると、そのイメージは大きく変わる。実際今の我々の価値観は当時の欧米人にずっと近い。本書を通して、当時の日本人に現在の我々を探すのだが、それらは庶民の中に余り見いだすことができない。この本は、かつての日本を知るという意味でも面白い本だが、新しいものに出会った時の心の持ち方の本としても面白い良書。
ナイス★14
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2018/12/08
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Mayu
Mayu
第1章が自分にはすごく難しくて未消化で、一つの文明の滅亡、というのが大仰なようにも感じ難航しました。が、読み進めるうちに日本の前近代について自分は大分間違った理解をしていたかも、と思い、数々の西洋人の賛辞に、自然環境が失われてしまったのは致しかたないとしても、このように美しい心根のような物が現代の日本人である自分にも残っているか、と思うと恥ずかしいような気持ちになりました。勿論、この本は単なる古い日本礼賛ではなく、むしろその逆と言っても良いかもしれませんが、自分の道徳観、倫理観といったものが、西洋の近代
ナイス★16
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2018/12/07
Mayu
Mayu
思想に大きく影響を受けていること、逆に現代において尚、例えば宗教についてなど、当時外国人達がどうしても理解できなかった日本人特有の思想というか、物事の感じ方のようなものが、自分の中に生きていることも感じました。

ナイス★4
12/07 20:46
Mayu
Mayu
読み終えて、この本の詩的なタイトルが改めて胸に迫る内容でした。未消化の箇所に再挑戦したいのと、この方の別の著作も読んでみたいです。

ナイス★5
12/07 20:51
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KN
KN
外国人の記述を通して江戸社会を再構成する試み。その狙いは近現代世界の相対化である。日本は応仁の乱以前と以降でまったく別の国に分かれるという話を聞いたことがあるが、明治維新以前と以降でもほとんど別の国だなという印象をもった。信仰の章はとくに胸に迫るものがある。著者あとがきも必読。
ナイス★12
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2018/11/11
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シュラフ
シュラフ
日本の近代化は明治維新からはじまる。近代化=進歩 という考えからすれば、明治維新というものは肯定的な評価となる。わたし自身もそう信じて疑わず。だけれども明治維新という近代化によって日本が失ってしまったことも大きい。その失われた世界(逝きし世)の面影が、当時の外国人らによって情景たっぷりに描かれている。すべてが素晴らしかったわけではなかろうが、簡素ながらも精神的な豊かさのある社会があったことが分かる。欧米からの脅威に対抗すべく近代化を選択したのはやむなき判断だが、それが日本人にもたらした不幸の歴史が哀しい。
ナイス★37
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2018/10/11
エドワード
エドワード
確かに維新はご一新、文明開化で世の中は激変しました。しかし、人々の暮らしの細かな部分には、江戸の風俗が根強く残り、むしろ、世界を知ることで、和洋折衷、和魂洋才といったものの考え方が浸透して独特のたおやかな文化が生きづいていたのが明治だと思います。夏目漱石の作品の背景に描かれる生活の風景に特にそれを感じます。外国人の眼に映った美しい日本は恐らくそのようなものでしょう。それは戦後しばらくまで残っていたのですが、高度成長期に破壊されたのだと思います。

ナイス★4
10/13 21:18

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