皇道仏教という思想 --十五年戦争期の大陸布教と国家-
Title 皇道仏教という思想 --十五年戦争期の大陸布教と国家--
Author(s) 新野, 和暢
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C itation 人文學報 (2015), 108: 97-111
Issue Date 2015-12-30
UR L https://doi.org/10.14989/204504
Kyoto University
『人文学報』第108号 (2015年 12 月)
(京都大学人文科学研究所)
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皇道仏教という思想
――十五年戦争期の大陸布教と国家――
新 野 和 暢*
本稿は,十五年戦争期 (1931 年 9 月 18 日〜1945 年 8 月 15 日) における日本仏教思想の課題について論じるものである。明治から敗戦時期の国家的な思想問題の研究は,「国家神道」というテクニカルタームで課題が設定されてきた1)。この課題設置は,靖国神社や伊勢神宮などの神道と国家との間に起こった政治的な視座から語られることが多い。「国家神道」と無関係ではなかった日本仏教に対する思想研究は,戦時教学などの視座から研究されてきた。
戦争する国家に無条件に参画していった日本仏教は,十五年戦争期に至ると「皇道仏教」と自ら名乗るようになった。「国家神道」が戦後の用語であるのと対照的に,「皇道」や「皇道仏教」は,日中戦争前後から敗戦までの間頻繁に使われてきた“なじみ”のある言葉である。ゆえに,当時の日本仏教の思想構造を知る上で重要なタームと思われるが,直接的に扱った研究はあまり見られなかった。そこで,日本仏教から「国家神道」を捉え直す一つの試みとして,
「皇道仏教」の思想構造を明らかにしたい。とりわけ,中国大陸を目指した仏教の視座から検討することで,戦争に参画,協力する仏教の思想を見ておきたい。
1.四弘誓願と皇道
「皇道」とは,おおむね「天皇道」といった意味である。しかし,その概念や定義は様々である。用いる者それぞれによって変化する“曖昧さ”を持っている2)。「皇道仏教」の先行研究は,市川白弦『仏教者の戦争責任』(1970 年) が最初である。仏教を放棄し,「天皇教」ともいうべき姿へと変化した「皇道仏教」を批判した。後に続く研究はあまり見られなかったが,
1997 年に,Brian Daizen Victoria が Zen at War をアメリカで刊行すると,2001 年には同書邦訳の『禅と戦争 ―― 禅仏教は戦争に協力したか ――』が出版された。彼は「皇道仏教」を,
「「仏法」を完全に「王法」の指導のもとに置くことにあった。政治的に言えば,既成仏教教団
* にいの かずのぶ 名古屋大谷高等学校教諭
は国家とその政策に一切の異議も唱えることなく従順そのものであった3)」と説明し,仏法と王法とを一元化する教学「真俗二諦論」の枠内で,国策に追従していった姿を捉えた。こうした先行研究を踏襲しつつ,本論では仏教と天皇崇拝が結びついた思想を「皇道仏教」として扱い,さらに天皇と宗教との関係に注目することで,「天皇に帰一する仏教のあり方」としての
「皇道仏教」を確認しておきたい。
その一例として,禅宗などで拝読される「四弘誓願」が,「皇道仏教」へと変貌した姿をまずは見ておこう。
衆生無辺誓願度 (数限りない一切の衆生を救済しようと誓う) 煩悩無尽誓願断 (尽きることのない多くの煩悩を断とうと誓う) 法門無量誓願学 (広大無辺な法門をことごとく学ぼうと誓う)
仏道無上誓願成 (この上なく尊い仏道を修行し尽くして,かならず成仏しようと誓う)4)
ここには,仏教徒が精進すべき教えが端的に記されている。一切の衆生を救済すべく,煩悩を断ち切り,仏教を学び修行して悟りを得たいという願いがここに込められている。読経の際に曹洞宗や臨済宗など禅宗系で用いられているため,僧俗問わず知られている教えでもある。この「四弘誓願」を,曹洞宗僧侶の澤木興道 (元駒沢大学学長) は,1944 年に出版した『観音経提唱』の中で,次のようにアレンジした。
衆生無辺誓願度
朝敵無尽誓願断 (尽きることのない朝敵を断つことを誓う) 法門無量誓願学
皇道無上誓願成 (この上なく尊い皇道をつくして,かならず願いを成就することを誓う)5)
澤木は「煩悩」を「朝敵」に変更し,「仏道」を「皇道」にすり替えた。この改竄によって,
「皇道」を用いて朝敵を駆逐することを説いたのである。その理由を次のように述べている。
「煩悩無尽誓願断」 ―― 杉本五郎といふ中佐は,この煩悩の二字を朝敵と訳した。軍人として時局柄面白いと思ふ。煩悩は朝敵。闇取引も朝敵である。諸々の煩悩はこれ悉く朝敵 ―― 面白い。食い過ぎ,飲み過ぎ,妾狂い,―― みな朝敵である。勉強を嫌がるのも朝敵,朝寝坊しで(ママ)職務を怠るのも朝敵。煩悩を朝敵と訳したのは痛快である。時局柄斯ういふ工夫も悪くはない。
(中略)
それから「仏道無上誓願成」
「仏道といふと妙な気がする。坊さんに関係したことは縁起が悪い。仏道といふと死人を連想する」 ―― 斯ういふ厄介な奴があるから面白い。そこで杉本中佐はこの仏道を皇道と訳した。訳し方が面白い。これを新しく皇道と訳して参究するのも面白いであろう。ところがまあ日本の国体,詰り「神惟の道」といふものは絶対なもので,天壌無窮で,八紘一宇で,実にこれはもう大したものだ。これは大したことだということが日本人には分かってをる。分からんものはない。
さういふ意味から仏道無上誓願成は皇道無上誓願成と言ってよい。
まことにこの度の戦争は皇道を世界一杯に拡げることである。この日本の皇道,即ち仏道をアジアはおろか,全世界に遠慮なく弘めねばならぬ。我々はこの道によって三民主義を
破り,民主主義を破り,自由主義をやぶらねばならぬ。これが我々日本国民なのである6)。
澤木は,「軍神」と崇められた陸軍軍人の杉本五郎の遺書を出版した『大義』7) の文中に記してあった,杉本流の「四弘誓願」を追認したのである。杉本の改竄を,「面白い」と言いながら肯定した。「皇道」を全世界に拡大し,三民主義や民主主義を排撃することが,日本人に課せられた使命であると主張した。つまり,菩薩による救済が説かれている「四弘誓願」が,彼らによって,「戦勝を誓う願文」へと変貌を遂げたのである。このように,仏教を「皇道」と同一視するあり方が「皇道仏教」の基本的な特徴である。
2.真俗二諦を表象する天牌
次に,天皇への崇拝と仏教信仰の対象が異なっていることを認めながらも一元化していく形を確認しておこう。車の両輪のように,仏教 (真諦) と国家 (俗諦) の論理が互いに資(たす)け合うと考える「真俗二諦論」という教学の項目がある。この考え方は,戦争を否定する仏教と国策の間にある矛盾の克服に寄与した。仏教の非戦論から戦争肯定へと転換させた思想構造を研究対象とする「戦時教学」研究の分野で欠かせない論理である8)。そして,日中戦争以後に見られる戦争肯定の論には,国策を肯定していくあり方に加えて無条件に天皇へ帰依する思想が見られる。その点を踏まえて,阿弥陀信仰と天皇崇拝を一元化した表象である「天皇尊牌」(天牌) を所属寺院に下附した真宗大谷派の動きを確認していきたい。
天牌と呼ばれる天皇尊牌は,雲形位牌に似た形状をしている「仏具9)」である。真宗は教学的に「神祇不拝」があり習俗や迷信を否定するばかりでなく,儀式作法としても位牌を用いる必要がない。そのため天牌と位牌とを同一視しないが,その線引きは判りづらい。真宗大谷派本山 (東本願寺) の阿弥陀堂内 (北余間) にはかつて,「亀山院恒仁尊儀」と書かれた天牌と,須弥壇上の本尊両脇に「今上天皇聖躬万歳」(祖師前側) と,「明治天皇尊儀」といった先代の天皇の「尊儀」(御代前側) と書かれた天牌が奉安されていた。それは,本願寺の寺伝に由来している10)。そして,亀山天皇の天牌に加えて「今上天皇聖躬万歳」(今上天皇天牌) や「明治天皇尊儀」といった天牌が本山や別院に奉安されていった11)。本論で扱う天牌問題では,亀山天皇天牌に見られるような本願寺伝に由来する天牌を直接的に指しているのではなく,当時の今上天皇との関係性を決定づけるような天牌奉安を取り上げる。日本仏教史を見ると,天皇の位牌を寺院に安置し皇室との関係性を主張することは珍しい行為ではなかったが,包括寺院 (宗派) が被包括寺院 (普通寺院) に対して組織的に下附したことは大谷派の特徴であった。日露戦争が始まってからおよそ一年二ヶ月後の 1905 年 4 月 21 日に普通寺院 (助音地の寺格以上) への下附を始め,天牌奉安寺院の数を増加させていったという歴史的経緯を持っている12)。
同じ本願寺草創の寺伝を持つ西本願寺には,「今上皇帝聖躬万歳霊牌」と「先帝尊儀霊牌」のほか,公家方位牌を安置していたが13),西本願寺 (浄土真宗本願寺派) は被包括されている普通寺院にそれらを下附することはなかった。
3.教育勅語との同一視
ここに,1922 年に大谷派が天牌の意義を説明したパンプレットがある。この公式見解をもとに天牌奉安の意味を確認しておきたい14)。
そもそも,親鸞に始まる真宗は教義上,祈祷をしない。憑代(よりしろ)としての位牌は用いる必要が無い。大谷派はその点に注意を払いながら,次の様に天牌を説明している。
蓋(けだ)し,かやうに牌天(てんぱい)を奉安(ほうあん)いたしまする意(い)味(み)は,普(ふ)通(つう)にいふ祈(き)祷(とう)のためではありませぬ。上御(かみご)一人(いちにん)の聖(お) 躬(からだ) が幾久(いくひさ)しく千(ち)代(よ)に八(や)千(ち)代(よ)に栄え(さかえ) 給(きゅう) はんことは 私達(わたしたち) の 心底(こころぞこ) から湧(わ)いて出(で)る願念(ねんがん)であり,この願念(ねんがん)が頑固(かたくな)な 私達(わたしたち) の胸(むね)に起(おこ)るのは 全(まった) く恩皇(こうおん)の無(む) 窮(きゅう) にまします 所(ところ) に依(よ)りますから, 私達(わたしたち) はその恩皇(こうおん)を報(むく)いたいといふ 心(こころ) をも含(ふく)めて,牌天(てんぱい)を奉安(ほうあん)するのであ
ります15)。
皇恩とはおおむね,「天皇の恩」といった意味であるが,ここでは天皇の無限の働きによって「湧き出る念願」と言い,「報いたいという心」が起こると論じている。そして,次のように奉安の意味を具体的に説いている。
私達はその皇恩を報いたいといふ心をも含めて,天牌を奉安するのであります。これ思(ママ)を喜ぶものの自然に致すところでありまして,一はこれによつて皇恩を忘れぬやう,一はこれによつて国体の精華と仰せらるる教育勅語の聖旨を奉戴するやうに,これを形に表して礼拝し奉るのであります16)。
ようするに,天皇の恩に報いるという目的を達成するために天牌が存在するのであって,かつ,
「教育勅語と同等」であると述べている。そして,国家体制との一致を説く考え方は次のように深められている。
我国の学校には何処にも必ずその講堂に両陛下の御真影が奉安してあります。天牌奉安はこの御真影奉安と一つことであります。そして天牌は御真影と等しく実に尊儀なものであります。それゆえ,敢てわが浄土真宗の信徒に限らず,苟も日本の国民たる以上は,たとひその宗教を異にするとも,必ず天牌に対し奉つて礼敬の思ひを欠いてはなりませぬ。否,もつと進んで,朝夕この天牌に礼拝することを御縁として,皇恩の無窮を報じ奉るやうに各自の本務を努めねばなりませぬ17)。
天牌奉安は「天皇の御真影」の奉安と同じであると説いている。つまり,天牌は天皇そのものを表象しているので,これを礼拝することは即ち皇恩に報いる行為であると述べている。
では,天牌は教学上どのように位置付けられたのだろうか。この問題について『天牌と国民』では,「殊に浄土真宗の信徒は,真俗二諦の宗風に従うて胸には麗しき信仰の花を咲かせ,身には皇國忠良の民たるの実を表すべきであります18)」と,真俗二諦論をベースにした説明がなされている。ただし,事情は若干複雑である。
わが浄土真宗の教は阿弥陀一仏によつて私達が永遠の生命を與えらるることを喜ぶのでありますが,この点は全く我国体と一致してをります。
と,真宗教学と国体との一体性が説かれている。阿弥陀仏の働きを喜ぶことと国体とが全く「一致」しているというのである19)。即ち阿弥陀仏の働きを喜ぶ真宗門徒 (真諦に相当) と,皇
恩を喜ぶ国体 (俗諦に相当) の「一致」である。そして,次のように補足説明がなされている。
外国の憲法は人民が主権者の権力を制定したのでありますが,日本の憲法は君主が人民に権力を與へて下されたのであります。それゆえ,私達御仏の垂れたまへる御慈悲を喜ぶものは,殊に上御一人の垂れたまへる恩恵をいよいよ深く喜ぶのであります。20)。
親鸞を宗祖として仰ぐ真宗教学と,天皇を唯一絶対として仰ぐ思想を比較した場合,絶対的な「一」を仰ぎ「喜ぶ」という点で「一致」を見るがゆえに,真宗と国体の一体性が成立していると説いている。いわば,「真俗二諦の一致」とも言うべき論が立てられているのである。そして,この「一致」という考え方は,恩を喜ぶという文脈からも説明が加えられ,「忠孝といひ,大和魂といひ,武士道といひ,其他みな日本の道徳は恩義の観念を重んじています」「御恩を重んずる浄土真宗とわが国民思想とは大なる関係を認めねばなりませぬ」21) と,報恩の視点を強調している。
この様な使命を持っていた天牌であるが,付記しておきたいことは国内だけでなく海外寺院にも奉安されたことである。「朝鮮」の釜山別院には 1885 年に「尊牌」(今上天皇聖躬万歳・孝明天皇尊儀の天牌) が下付された22)。上海別院 (1886 年 12 月,「孝明天皇天牌」),台北別院 (1922 年),済南布教所 (1919 年 12 月 3 日),間島 (中国) の靖国寺23),群山布教所などに奉安されていたことがわかっている24)。「開教」の場にも天皇崇拝と真宗が合一した形の「皇道仏教」が持ち込まれたことは,見逃せない事実である。
4.大陸布教と大陸布教政策
(1) 大陸布教の始まりと国家
近代日本仏教による「海外開教」は,真宗大谷派の小栗栖香頂が 1870 年代に中国・上海へ渡り,中国仏教家と交流を持ったことに始まる。その後,海外へと生活の場を移す日本人に伴いながら,宗教各派が海外に拠点を設置していった。「海外開教」は移住した日本人のコミュニティー形成に寄与する形の他,戦争する国家の戦略に沿ったものもあった。その典型が「台湾開教」である。
日清戦争が勃発してから 3ヶ月後の 1894 年 10 月 30 日,浄土真宗本願寺派は同派所属僧侶の木山定生を台湾に派遣し,軍隊の慰問や葬儀等にあたらせた。これが従軍布教の始まりである。従軍布教を足がかりにしながら,台湾が割譲された 1895 年 4 月 17 日以後,「台湾開教」は本格的になった。曹洞宗は 1896 年 2 月に 6 人の僧侶を派遣して以来,台湾に既存する 70 余りの仏教寺院を曹洞宗に帰属させながら勢力を拡大した。
日本は中国での布教権を持たなかった。ゆえに「大陸布教」は,天津などの租界や占領地などで行われた。「大陸布教」を管理する最初の法規は,1906 年の「清国及韓国ニ布教師ヲ派遣スルトキハ教規宗制中ニ規定ノ件」(訓令 336) である。宗教各派 (包括法人) が定める規則の中に「開教」の管理・監督項目を設けさせるにとどまり,直接の管理は包括法人に任せた。
「満洲」で活動する宗教に対しては,1922 年 5 月 15 日の勅令第 262 号「関東州及南満洲鉄道付属地ニ於ケル神社廟宇及寺院等ニ関スル件」がある。中国の租界地等では,各領事官による簡単な大使館館令に基づいて,届出などの事務処理を行うのみであり,「大陸布教」の全体を包括するような法規は整備されていなかった。転機が訪れたのは,「満洲国」に対する治外法権の廃止である。1931 年 9 月 18 日の満州事変を経て,翌 1932 年 3 月 1 日に「満洲国」の建国が宣言されていたが,日本は満鉄附属地と関東州に治外法権を持ち続けていた。治外法権廃止 (1937 年 12 月 1 日実施) によって宗教行政も「満洲国」へ移譲されることになった。そのため 1936 年 11 月 6 日に「在満洲国及中華民国神社規則」(以下,在中満洲国神社規則) と「在満洲国及中華民国寺院教会廟宇其ノ他ノ布教所規則」が出され,中国と「満洲国」を対象とする法規を制定した。そして,治外法権が撤廃された同じ日に,これら 2 つの法規の文面から,
「在満洲国」の文言を削除する改訂が行なわれ,「在中華民国神社規則」と「在中華民国寺院教会廟宇其ノ他ノ布教所規則」へと名称が変更された。この改定によって中国国内を法域とする大陸布教法規が出来た25)。
なお,国内法においては,日中戦争が始まってから約 2 年後の 1939 年 4 月 8 日,近代日本における最初の統一的な「宗教法」である宗教団体法が公布されている26)。同法によって宗教団体は総力戦体制に公式に組み込まれた。政府は「皇道精神」を涵養する担い手として期待した。
(2) 大陸布教に介入する陸軍
日本の陸軍は「大陸開教」を管理した。1938 年 5 月 27 日に「北支那方面軍特務部長」の名で出された「宗教団体ノ対支活動指導ニ関スル件」27) によって,「直接の布教は第二義的にすること」「宗教団体の統制」「軍の監督権」「各宗教団体に大陸布教の計画等を軍部へ報告させる」という四つの命令が「大陸布教」に下された。文部省宗教局はこの命令に基づき,1938 年 8 月 1 日に「対支布教ニ関スル件」を宗教各派管長に機密扱いで通達した28)。これは,「大陸布教」を陸軍の統制下に置く決定的な命令であった。
本法の目的は「布教師ヲシテ住民ノ宣撫ニ当ラシメ対支文化工作ニ寄与セシムルコト」にあり,「相当大規模ノ日本語学校又ハ医療施設等ヲ為スコト」や「現地ノ情勢ニ鑑ミ当分ノ間ハ宗教ノ宣布ハ之ヲ従トスルコト」29) と定められ,宣撫工作と「対支文化工作」が開教者の任務になった。「対支文化工作」とは,文化交流や文化保護などを通じで中国民衆の反日思想を懐柔する工作を指す。それを実行するために,「開教者」が大陸に渡る前段階から軍の許可を必要とし,現地では軍特務部の文部省派遣員と常に連絡を取り合うことが義務づけられた。つまり,開教者が陸軍特務部の一員として徴用されたに等しい状況に陥ったのである。
この様に現地に赴任して活動する「大陸布教」は統制されていったが,内地の僧侶が「開教地」を慰問する際にも,宣撫工作は行われた。例えば,1938 年 1 月 13 日から 3 月 9 日にかけて真宗大谷派「法主」の大谷光暢が中国東北部や「満洲国」などを慰問した際,敵兵を含めて「供養」する「怨親平等の法要」を行ったり,病院や日本語学校 (日語学校),特務機関などを訪問したりしている。この慰問は記録映画『東洋平和の黎明』(1938 年) として製作され上映された。
5.大陸布教の思想
(1)「皇恩の万一」
盧溝橋事件からおよそ一年後の 1938 年 9 月 1 日,真宗大谷派は次のように仏教連合会主催
「支那開教講習会」への参加を呼びかけた。
東洋平和の黎明漸く萌さんとする今日,その占領地域に於ける宣撫親善の工作は切実に要請され,皇軍進撃の跡を引き受けて支那民衆の精神・文化の工作は夙に宗教家の任務と称せらるるところ,御一派に於ては逸早く開教使員を動員して或は日語学校を開き,或は難民療養所を設置し,或は宣撫官に採用せられたるあり,着々使命達成に邁進しつつあるが,文部当局に於ても屡々宗教団体協議会を開き,再々通牒を発して監励せらるる所があつた。
御一派に流れを汲む者は,ただに之等の依頼に止ることなく,卒(マ)先(マ),此の重貴を擔つて立ち,宗教家の本分を盡し,以て 皇恩の萬一に報ずる所あらねばならぬ。
占領地における宣撫工作で成果を挙げてきたことを誇りながら,その動機付けとして,「皇恩の万一」を掲げている。「皇恩の万一」は聞き慣れない言葉であるが,「万一」とは「万教帰一」のことである。無数にある教えが,唯一の根源的な教えに集約されるという意味である。つまり全ての宗教が「皇恩」に帰一するという思想がここに語られているのである。真宗教学からいうと,阿弥陀仏の働きが,種々の教えが帰一される表象である。
では,実際に「大陸布教」に従事した者はどう考えていたのだろうか。例えば,「満洲開拓地の弥栄村」の弥栄本願寺 (大谷派) を建立した本多賢純は 1942 年 10 月に「入植 10 年」を記念して次のように語っている。
今,私共の愛山護法の標點こそは,背私向公の御精神に立脚して国家目的を諦観し,仏教文化を顕現し,東亜道義宣揚のため,大東亜建設の聖業達成に與へられた角度より,夫れぞれ挺身赴難する報恩の捨身行そのものであります。即ち皇國の為め,興亜の為め,己を捨てて無碍の大道に精進する,それ自ら愛山となり,護法となる實踐であります。
臣民の規範として「背私向公」と御示し下さった聖徳太子様の御教示を案じ奉つて,現代時局に處する佛教徒の生き方こそは,天下國家の御仕事のため,背私向公,以つて天下の憂に先だちて憂へ,天下の楽しむの熱情と襟度を持して,殉國報恩の捨身行に挺身赴難すべきである事を,しみじみ痛感させて頂くので御座ゐます30)。
と,真宗の教えが「皇恩」に帰一していくという考えを示している。「愛山護法」とは,本多が所属する東本願寺 (本山) を愛し,仏法を護持するという意味であり,真宗の教えを堅持することに他ならない。しかし彼は,「愛山護法」を「国策に挺身する」ことであると理解している。そして,この思想的根拠については,「背私向公の御精神に立脚して」と述べながら,聖徳太子の「十七条の憲法」の第 15 條,「私に背き公に向かう,是臣の道なり」を拠り所にしている。この当時,聖徳太子の言説を根拠にして仏教の護国性を説く仏教家も多く,そうした説は「大陸布教」を動機付けする際にも用いられた。
そして,「帰一」という思想は,天皇と仏教の「一致論」にも見られる。大谷大学教授を務めた稲葉秀賢は,
念仏の信仰にあつては自らの力に依つて越えるのではなく,佛に依つて越えしめられると喜び常に如来の願力を思ひ浮へて凡てを佛に帰せしめてゆくのであるから,そこには常に苦しい汗でなく,楽しい汗が流されてゆくのである。皇国民の生活は如何なる職域にあつても 天皇に帰一し奉るのであるから,凡てが上御一人の為であり,み国の為であつて,その為に流す汗が苦しい汗であつてはならぬ。全身全霊を捧げてみ国の為に尽す背私奉公の精神は,実に念佛者が如来に依つてせしめられるを喜ぶ如く,御稜威の然らしめ給ふところと喜んでゆくべきである。そして自己の全体を打ち込んで御奉公するのである。ここに真実の国民の姿がある31)。
と論じた。そして,大谷派の暁烏敏は,次のように天皇に帰一することが仏教であると力説している。
萬歳は永遠の生命であり,無量寿であり,阿弥陀であります。阿弥陀の信心は萬歳の信心であります。印度仏教における南無阿弥陀仏の信心は,日本精神における 天皇陛下萬歳の信心であります。梵語に南無阿弥陀仏といふのと日本語に 天皇陛下萬歳といふのとは,人間中心の願求と信心として同一のものであります。そして同一の救済の力であります32)。
彼が説く信心は,南無阿弥陀仏の「名号」が「天皇陛下萬歳」と同一の働きを持っていると解釈するものであった。さらに,戦闘行為を行う軍人の進撃や戦勝,戦死する場面を想定して,
「天皇陛下萬歳と叫ぶとき,叫ぶもの自身がこの萬歳の声に摂取せられ往生するのである」とまで言い切っている。つまり,阿弥陀仏と天皇は全く同一の働きを持っているため,「萬歳」
と叫ぶ言葉によって極楽浄土へ往生することが決定すると説いたのである。
(2) 仏教を完成させた日本
聖徳太子信仰と国家の関係性についてもう少し見ておこう。龍谷大学教授を務めた佐々木憲徳は 1942 年 6 月に「皇道仏教」について論じた『恩一元論』を出版した。ここで「皇室が仏教御帰依をたまはりしため,皇室の御蔭によりて日本仏教が成長発展した33)」と,「皇道仏教」を定義し,「かくの如くにして生々発展してきた皇道仏教といふものは,全然印度仏教や支那仏教などと,根本的に相異るところが存在して居ることは,自明の道理といはなくてはならない34)」と論じた。インドで生まれた仏教が,中国を経て日本に伝わった後に仏教として完成したと見る歴史観である。この説は佐々木だけが持っていた歴史観ではない。宗教学者で浄土宗僧侶の矢吹慶輝が 1934 年 12 月に発表した『日本精神と日本仏教』には,日本仏教と儒教が日本に伝わり「日本化」して,「混じりけの無い純粋な仏教思想」が完成されたと捉える見方が提示されていた。
その興隆が皇室から出で,日本史上の大人物は之に依つて其信念を錬り,日本の國體國風に合致して深く民心に浸潤し,日本人から出た各宗の宗祖を至る處で崇拝され,文學藝術は勿論,地理,人情,風俗,傳説,言語に融け込んでゐて,國民の潜在意識中にすら流れてゐるのが何よりの證據である35)。
矢吹は,聖徳太子が仏教に帰依して以来,皇室が仏教を庇護したことによって仏教が興隆し,国体や国風に合致したがゆえに日本文化の形成に多大な影響を与えたと見た。そして,この論を深めたのが,浄土宗僧侶の椎尾辨匡である。
日本仏教が他國の仏教と觸れ方の違ひがあると云ふことをはっきりと認識しなければならない。それを印度,支那の傳へだとすれば寧ろ此方は端くれですから,支那の方がもう少ししつかりやつて居り,印度の方がもつと立派であることになるのですが,實際は逆で印度に行つて,印度の佛教が幾らかあるとそれが佛教のやうな気がしますけれども,それは出来損ひである,支那のも出来損ひであつて,却て日本に釈尊在世の佛教に近付くものが出来たと言ふことが出来るのであります36)。
椎尾は,中国とインドの仏教は「出来損ない」であって,唯一,日本仏教のみが完成された仏教であるとまで言い放っている。
このように,彼らが提唱する「皇道仏教」の共通点は,聖徳太子の存在を基本に据えて構築
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する仏教史観にある。佐々木も,「皇道仏教の正體としては,聖徳太子の御制定になつたところの「十七條憲法」をあげねばならなぬと思ふ。37)」と述べており,仏教を庇護した聖徳太子の存在を「皇道仏教」の出発点として捉えた。聖徳太子を皇室の代表者に置き換え,あたかも皇室が仏教を完成させたかのような論調は,暁烏敏にも見られる。
日本の仏教は日本の國の國民を印度の國の精神になす為でもなければ,支那の國の心にするためでもなければ,西方十萬億仏土のあなたのお浄土の住人にするためでは決してなかつたのであります。日本を明かにし,日本人をして真実に皇祖皇宗の御心を自覚するやうに聖徳太子様が日本の國に仏教を採用せられたのであります38)。
と,浄土への往生を切り捨てて天皇や皇室の大御心を自覚することに仏教の目的があると論じた。そして,このような理解をもとにした大陸布教の思想が,仏教学者の稲津紀三の論に見られる。
單に佛教を持つて行くのでなく,皇道に依つて進化した佛教を持つて行つて,佛教を通じて皇道精神を彼等の上にも深めて行くと云ふやうな行き方が,結局日本佛教徒としての望ましい行き方ではないかと思ふのであります39)。
「皇道」によって「進化」した仏教を中国人に教化すべきだと説いている。これは単に,日本に仏教を伝えた中国に感謝するという意味ではなく,これまで見てきたような思想的背景を持って,「大陸布教」の動機付けがなされた重要な視点である。
6.ま と め
今から約 2500 年前に釈迦によって説かれた教えは経典として編纂され,中国大陸を通じて日本に流入した。仏教を庇護した聖徳太子を日本仏教史の黎明に位置づける歴史観は,十五年戦争期になると皇室と仏教を結びつけられる根拠になり,天皇に帰一する仏教として「皇道仏教」が確実なものになっていった。天皇の御稜威によって「完成された仏教」へと変貌を遂げた「皇道仏教」を中国へ逆に伝えるという考え方は,「海外開教」の根拠を補完する理論となった。総力戦体制下においては,国や日本人という民族を強調しながら国家総動員体制を確実にしたが,仏教もまた,国や日本人を強調した仏教を提示した。この様な「皇道仏教」は,
「日本国仏教」もしくは「日本人仏教」とも言うべき姿であったと言える。
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注
1 ) 「国家神道」という用語は,GHQ (連合国軍最高司令官総司令部) が「神道指令」(1945 年 12 月) で「State Shinto」と用いたのを,「国家神道」と翻訳したのが始まりである。「神道指令」の目的は,軍国主義の精神を支えた政教関係を破壊し,信教の自由を確立することにあった。
「神道指令」の作成に携わった GHQ の宗教課に所属していた,ウィリアム・P・ウッダードの手記によると,事の顛末は概ね次のような経緯を辿った。すなわち,ウッダードは原案で,「State Cult」を用いることを提案した。しかし,GHQ は「State Sinto」と記した。その理由は,「国家神道」と国家機関である神社神道 (Shrine Shinto) を同義と見なしたからである。だからこそ,国家から神社神道を分離することが「国家神道」解体を意味すると判断したのである。本稿では,この経緯と日本仏教の視点を持つことを考慮して国家神道を「国家神道」と表記した。なお,本稿は拙著『大陸布教と皇道仏教』2014 年 2 月をもとにした。
2 ) 「皇道」について,神道家は神道の立場から解釈し,軍人は「皇軍の道」として捉え,政治家は国家指導の精神と説いた。そして仏教は,「皇道仏教」という概念を生みだした。「皇道仏教」を誰が造語したのか不明であるが,主に 1930 年代後半から敗戦までの間,仏教教団や仏教家の口から公然と語られた。代議士として政界にも影響力を持った浄土宗僧侶の椎尾辨匡は,1938 年に発表した論文「皇道仏教」(『護国仏教』大倉精神文化研究所編,1938 年 1 月) で,「日本佛教=皇道仏教」であることを提唱しているし,日蓮宗では,天皇を本尊として仰ぐ「天皇本尊論」を主張する「皇道仏教行道会」(高佐日煌会長) が 1938 年 9 月に発足して日蓮宗内に一定の影響力を持った。真宗大谷派は,1943 年の「決戦宗議会」と銘打った大谷派宗議会で「皇道真宗」と名乗り,戦争協力をさらに押し進めた。
3 ) ブライアン・ヴィクトリア著『禅と戦争 ―― 禅仏教は戦争に協力したか ――』2001 年 5 月,
135 頁。
4 ) 四弘誓願の括弧内は筆者による現代語訳。
5 ) 澤木興道著『観音経提唱』1944 年 11 月。現代語訳は筆者による。改変しなかった文節の現代語訳は省略した。
6 ) 前掲『観音経提唱』153〜154 頁。
7 ) 『大義』は 1938 年 5 月に発売されると瞬く間に 130 万部以上を売り上げる大ベストセラーになった。
8 ) 主な研究のうち論文では,信楽峻麿「真宗における聖典削除問題」(1977 年),福嶋和人「真宗仏教人の戦争観 ―― 暁烏敏の場合 ――」(1978 年) など,まとまった研究では,『近代真宗教団史研究』 (信楽峻麿編,1987 年),福嶋寛隆監修の『戦時教学と真宗』全三巻が 1988 年から 1995 年にかけて刊行。日蓮宗は,日蓮宗現代宗教研究所が中心となって「戦時教学」を検証し,『平成十六年度第十五回法華経・日蓮聖人・日蓮教団論セミナー「教団の歴史から学ぶ平和と戦争」資料 (書籍・論文等抜粋)』(2005 年) などの研究成果を発表している。真宗教団の「戦時教学」の頂点は,宗教団体法が実施された 1940 年に,本願寺派が同派所属寺院に命じた「聖典削除」が断行された頃である。親鸞撰述の「聖典」のうち国体に抵触すると思われる用語を伏せ字 (不拝読) にすることの決定を下し,信仰の自立性を自ら放棄していった。
9 ) 天牌を仏具と判断するか否かは判断を要する。仏具でないものが本尊脇に安置されるはずがないという考え方から,「仏具」と表記したが,『真宗』(1931 年 1 月 5 日) に示された「末寺法式作法 天牌奉安式と御祥忌法要」の説明で,「一般に仏供と称してゐるものを,天牌に供へるときは霊供といひ,祖師其他御歴代に供へるときは御影供といふのである」とある点を考慮すると
「霊具」と言えそうでもある。
10) 親 鸞 入 滅 後 10 年 目 に あ た る 1272 (文 永 9) 年 に 大 谷 本 廟 が 創 立 さ れ る 際,亀 山 天 皇 (1249〜1305 年) が勅願寺に指定し「久遠実成阿弥陀本願寺」という寺号を下賜したという伝承がある。
11) どの天牌がいつ頃から奉安されたのかという歴史的経緯は詳らかでないが,1798 (寛政 10) 年 4 月 1 日の寛政度両堂再建の遷仏式で遷仏と同時に天牌が連枝の手で安置されているし,1890 年の両堂再建の際にも大谷光勝法主 (厳如上人) が天牌を説明している。
12) 1913 年 9 月 15 日になると寺格の条項が撤廃され,大谷派全寺院が天牌奉安の対象になった。
13) 『本願寺通紀』(1785 年,玄智著)
14) 先行研究で林弘幹は,「この時代の政治体制 (天皇制) と本願寺の寺伝とが結びつき,さらに教義面からは真俗二諦論でもって国家体制と教団との協力体制が出来上がったということである。」(林弘幹「天牌安置の歴史と実態」,『教化研究』73/74 号,448 頁) と指摘している。
15) パンフレット『天牌と国民』,奥付はないが大谷派機関紙で紹介されていることから,発行が
1922 年であることがわかる。
16) 前掲『天牌と国民』
17) 前掲『天牌と国民』
18) 前掲『天牌と国民』
19) 大谷派の「真俗二諦論」については 1886 年 8 月に制定された「真宗大谷派宗制寺法」第 19 条に,「皇上ヲ奉戴シ政令ヲ遵守シ世道ニ背カス人倫ヲ紊サス以テ自己ノ本業ヲ励ミ以テ國家ヲ利益ス之ヲ俗諦門ト云フスナハチ真諦ヲ以テ俗諦ヲ資ケ俗諦ヲ以テ真諦ヲ資ケ二諦相依テ現当ニ世ヲ相益ス是ヲ二諦相資ノ法門トス」と定められていた。真諦 (仏教) と俗諦 (世俗) とが相資けるという意味で,真諦と俗諦が対等な関係性の中で真宗を社会的存在に位置づけるような教学の項目である。
20) 前掲『天牌と国民』
21) 前掲『天牌と国民』
22) 1886 年 2 月 17 日には,尊牌の披露が行われた。
23) 『真宗』1931 年 9 月 20 日には,靖国寺の天兒昊在勤より,「万一の場合本尊・天牌を領事館に遷座する予定と連絡ある」と掲載されていることから,天牌奉安されていたことがわかる。
24) 1937 年 10 月 25 日付で天牌奉安を申請 (二番型) したことが真宗大谷派教学研究所未整理資料によって判っている。なお,1910 年 8 月 22 日の「韓国併合」以前の朝鮮国に設立された別院には,「韓国皇帝」の尊牌も合わせて安置された。1889 年,「京城」に布教所 (釜山別院支院,後に「京城別院」) が設置されると,「韓国皇帝」と「韓国皇太子」の尊牌を奉安した。1906 年 11 月 18 日には「韓国皇帝」揮毫の扁額「大韓阿弥陀本願寺」を賜った 『(宗報』1910 年 8 月 25 日)。その理由は「これは我真宗に於ては,王法為本と唱へ,韓国の人民を教導するには,先づ韓廷の朝旨を遵守せしめ 韓帝陛下の万歳を祈念せしむる為なり,此尊儀を奉安することも是非直接 陛下に言上して,宗門の儀式を定めんと欲するなり」『(真宗』1898 年 12 月 15 日) とある。
25) この勅令を受けて関東庁は具体的な規則として「関東州及南満洲鉄道付属地神社規則」(関東庁令第 78 号,1922 年 10 月 26 日) と「関東州及南満洲鉄道付属地寺院教会廟宇其ノ他ノ布教所規則」(関東庁令第 79 号) を定めた。日本宗教に対する法規であるが,内地の「神社非宗教論」を踏襲して神社を宗教から分離する内容も盛り込まれた。
26) 同法成立の前史として,「第一次宗教法案」1899 年 12 月 9 日,「第二次宗教法案」1927 年 1 月
17 日,「第一次宗教団体法案」1929 年 2 月の 3 度法案が提出されたがいずれも廃案となっており,草案を含めると五度目の法案だった。
27) アジア歴史資料センター Ref. B05016115700,41〜42 コマ。
28) アジア歴史資料センター Ref. B05016115700,50〜52 コマ。
29) アジア歴史資料センター Ref. B05016115700,51 コマ。なお,本法規の立案過程の資料には「?」が付されているヵ所や,宗教活動を二次的とすることを表記している横に,「コノ心掛ニテハ成功セズ ヨロシク殉教者タルベシ」という,閲覧した官吏によると思われる走り書きがある。
陸軍の発案に対して宗教局官吏は疑問視していたのかもしれない。
30) 本多賢純著『心田開発』1942 年 10 月,16〜17 頁。
31) 『真宗』真宗大谷派宗務所,1941 年 6 月
32) 暁烏敏著『万歳の交響楽』1937 年 11 月,47 頁。
33) 佐々木憲徳著『恩一元論』1942 年 6 月,5 頁。
34) 前掲『恩一元論』7 頁。
35) 矢吹慶輝著『日本精神と日本仏教』1934 年 12 月,27 頁。
36) 椎尾辨匡「皇道仏教」,(『護国仏教』) 1938 年 12 月,33 頁。
37) 前掲『恩一元論』7 頁。
38) 暁烏敏著『神道・仏道・皇道・臣道を聖徳太子十七条憲法によりて語る』1937 年 6 月,
102〜103 頁。
39) 「仏教と大陸問題 (討議会速記録)」,(『日本仏教学協会年報』12 号),1940 年 12 月,343 頁。
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皇道仏教という思想 (新野)
要 旨
本稿は,十五年戦争期 (1931 年 9 月 18 日〜1945 年 8 月 15 日) における日本仏教思想の課題について論じたものである。当時の仏教が自ら名乗った「皇道仏教」というテクニカルタームによってアプローチした。「皇道仏教」はおおむね,「天皇の道」を意味する「皇道」と仏教とを合一させた造語である。「皇道仏教」の表象の一つである真宗大谷派の「天牌」や,「大陸布教」の視座を交えることによって,戦争する国家に参画,協力する日本仏教の思想に迫った。
この方法によって,天皇に帰一する仏教の思想や,大陸を経て流入した仏教が聖徳太子ら皇室の庇護によって,「完成された仏教」となったと捉え,大陸布教によって逆輸出すると主張したことなどがわかった。彼らが主張した「皇道仏教」は,「日本国仏教」や「日本人仏教」とも言うべき思想だった。
キーワード:皇道仏教,国家神道,大陸布教,戦時教学
Summary
This paper approaches Japanese Buddhist thought during the Fifteen-year War through the idea of Kōdō Bukkyō, a neologism Buddhists used to describe themselves. It consists of two words: kōdō (the imperial way), and Bukkyō (Buddhism). Tempai, religious implements of the Shin sectʼs Ōtani branch, are symbolic of this notion. Focusing on them and “continental propagation,” I will discuss the “Japanese Buddhism” that participated and cooperated with a state at war.
Japanese Buddhists during this time thought that their religion had reached its complete form in their country thanks to the protection of the imperial family, and advocated re-exporting it to the Asian continent. Their Kōdō Bukkyō was an ideology that promoted a Buddhism of the “Japanese nation” and “Japanese people.”
Keywords : Kōdo Būkkyō (Imperial-Way Buddhism), State Shinto, Asian continental propagation, Senji Kyōgaku (war-time Buddhist doctrinal studies)
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