2020-02-26

15 Hatano 浮島丸事件 小説『スニ(순이)覚書 2 김영주

浮島丸事件 覚書        2015.3.8 波多野

(大韓民国樹立以前のことなので、当時の呼称であった朝鮮、朝鮮人という用語を使用する。文中、下線は筆者。) 

―浮島丸事件とは 
 日本の敗戦直後に、日本にいた朝鮮人たちが帰国しようとして乗った船が、途中でアメリカ軍が設置した機雷に触れて沈没した事件。あまりにも急いで帰国しようとしたために、オンボロ船に乗ったのか、もう少し待っていればよかっただろうに。後に『エイジアン・ブルー 浮島丸サコン(事件)』(1995)という映画が作られたことも知ってはいたが、とくに関心を持つことなく、長年上記のように考えていた。 
 たまたま手にした韓国の小説『スニ』を読んだら、この事件はあたかも日本側(日本政府か海軍が組織として?誰かが個人的に?)意図的に起こしたもののように書かれていて大変驚いた。そういうことも含めて自分が何も知らなかったと気づき、調べてみることにした。 
まず『ウィキペディア』では、「19458241720分ごろ、舞鶴港(京都府舞鶴市下佐波賀沖300メートル地点)で、日本海軍特設輸送船浮島丸(4,730総トン、乗員255名)が、3,725の朝鮮人労働者とその家族を乗せたまま、米軍敷設の2,000ポンド音響式機械水雷(舞鶴鎮守府舞鶴防諜隊報告)に蝕雷して沈没、乗員25名(戦死扱い)、便乗者524の死者を出した事件。」とあった。日本海軍の船だった 

―韓国の10代向け小説『スニ(순이(김영주 キムヨンジュ著 ソジハム絵リジェム 2008 )への疑問 
少女、スニが父母とともに浮島丸に乗船し、船の沈没によって溺死する話。 
 1945年夏、青森県の下北半島では、まもなく上陸してくると予想される米軍との決戦に備えて、鉄道、トンネル、港、飛行場などを建設する工事がおこなわれていて、多数の朝鮮人労働者が動員されていた。スニはそれら労働者を収容する「合宿所」で生まれ、あちこちの合宿所を転々として育ったが、一度も「鉄条網」の外に出たことがない。日本の敗戦によって父母たちはこれで故郷に帰れると喜んでいるが、スニは鉄条網から出られる喜びの方が大きかった。(何てかわいそう!) 
 でも、え、鉄条網?朝鮮から徴用という名目で強制連行されてきた労働者の中には、逃亡を防ぐために鉄条網に囲まれた宿舎にいたものもあったかもしれない。しかし、父母と暮らす女の子が鉄条網の中に!? スニは11歳(数え年)だから、生まれてから10年間ずっとその中にいたという設定で、そこには多数の家族が暮らしていて、炊事係のおばさんたちもいるというが、そういう事実は聞いたことがなく、とうてい本当とは思えない。家族持ちの労働者は、たいてい小さな「組」に所属していた。 
江原道(カンウォンド)出身の母はもと日本軍従軍慰安婦で誰とも知れぬ日本兵の子どもを身ごもって捨てられた。京城(ソウル)の学生だったが徴用されて日本に来た朝鮮人男性の助けでスニを生み、後にその男性と夫婦になったという。母の話では13歳のとき普通学校(小学校)の校長に勤労挺身隊に行けば勉強もできるしお金も稼げると言われて志願したが、行った先は慰安所だったという。ところがスニの年齢から数えると、母が慰安所に行ったのは1935年以前だということになるが、日本国内で「女子挺身隊勤労法」が公布されたのは1944年であり、朝鮮で従軍慰安婦集め?が盛んになるのもずっと後のことだから、1935年以前に校長が児童に勧めるはずはない。またスニの義父になる男性は、やはり1935年より以前に日本に来ているはずだが、「国民徴用令」の発布は1939年、それを朝鮮でも実施したのは19449月のことである。したがってかれは「徴用で近くの部隊に来ていた」とあるが、徴用ではない。ほかにもこの小説には、強制的に引っ張られて来てあちこちの炭鉱を渡り歩いたというボルチュクじいさん、ひとりで強制的に連れて来られたという14の少年、人びとに朝鮮語を教えたかどで逮捕され、妻や子どもも含めて一家で連行され労働させられた人などが出てくるし、後には30年間強制労働をさせられたという人も登場するが、いずれも実際にはあり得ない話だ。 
 日本の植民地支配が始まってから、暮らしに困った朝鮮人が日本に出稼ぎに来るようになったが、初めのうちは渡航制限があって、1931年の日本在住朝鮮人は31万人である。その後100万人近くになるのは1939年で、この年に日本企業が朝鮮で労働者を「募集」することが許可された。1942年には「官斡旋」といって総督府が労働者を募集し始めた。15年戦争が始まって日本人の労働力が不足したからである。1944年、「徴用令」実施。敗戦の1945年に日本にいた朝鮮人は210万人と推定されている。(数字は労働者の家族を含む。)「募集」とか「官斡旋」とか言っても、その実態は員数が満たなければ村の役所が強制的に‘お前が行け’と指図し、主として貧しい家庭の男性が狙われた。しかし、スニの義父やボルチュクじいさんが1935年以前に来ていたとすれば、自発的な出稼ぎのはずで、その場合、大きな会社の宿舎かあるいは土建業者が経営する「組」に入る。「組」の中には朝鮮人が経営するものもあった。家族を呼び寄せたり結婚して所帯を持てば「組」の宿舎を出て家族で住むことになるだろう。いずれにしても家族そろって鉄条網の中に10年間、はあり得ない話だ。 
 『スニ』には美しい挿絵がたくさんある。男性は作業服だが、女性は白いチマチョゴリでコムシン(先が反ったゴム製の靴)をはいている。挿絵でそれとなく民族主義を強調しているのか?しかし、もし本当に鉄条網の中で暮らしていたなら、どうやって布地やコムシンを手に入れることができるか?些細なことではあるが、これは自己矛盾だ。 

日本が朝鮮人を強制的に徴用したり、従軍慰安婦にしたり、そうでなくても植民地支配のために暮らせなくなった朝鮮人が出稼ぎに来ざるを得なかったことは事実であり、それを子どもたちに語り伝えることに異議はない。けれどもこのようにありもしない荒唐無稽な話を作って、これでもかこれでもかと「かわいそうに仕立てる」のには違和感がある。作家は史実に基づいてその枠内で想像を繰り広げるべきではないか。「日本の朝鮮支配はよくない」という結論は同じだから具体的なところで史実と違っていても構わないと、作者は思ったのかもしれない。けれども幼い読者は、今後史実とは違うことを基にして歴史を考えていくことになるのだ。どんな嘘でも大勢が信じればいつかはまるで事実かのように一人歩きしてしまうことの恐ろしさを思う。 

―沈没の原因 
 『スニ』より。日本降伏のニュースを聞いて、これで帰国できると「マンセー(万歳)」を叫んだスニたちは、その数日後に大湊港に行けば帰国船に乗れると聞き、会社が用意したトラックに乗って出発する。大湊港にはすでに北海道や下北半島に居た朝鮮人たちが大勢詰めかけていた。また帰国船はこの船しかなく、これに乗って帰国せず日本に止まるなら、今後食糧配給はしないと言われたせいで、人びとは我先にと詰めかけたのだ。いよいよ浮島丸に乗り、貨物室に押し込まれる。真夏の暑さの中、「モヤシを蒸す蒸し器のような」すし詰め状態だ。船はようやく出発したが、いつ釜山に到着するとも知れず、時間ばかりが過ぎていった。どうなっているのか尋ねようと船長に面会を求めても会わせてもらえない。24日、「船は飲料水補給のため舞鶴港に入港する、朝鮮人たちは全員船倉に入れ」と命じられる。甲板に居るものは棒で殴られたりして船倉に追いやられ、入り口の扉が閉められた。その船倉では、乗組員たちが「連合軍が別途の指示があるまで朝鮮人たちを帰国させるなと言った、初めから釜山まで行く燃料はなかった乗務員は命令に背けば軍法会議だから、仕方なく出航した」などと上で酒を飲みながら話しているのを聞いたと、噂が飛び交う소문이 난무。 
 突然爆音がして船が割れた。スニたちは海に放り出されアップアップしているとき、救命ボートに乗務員たちが乗って去って行く떠나가、その数100200。「助けて!」という叫びも空しくスニは海底に沈んでいった。 

 はっきりと書いてはいないが、初めから朝鮮人を釜山に連れて行く予定はなく、わざわざ船に乗せて舞鶴港で殺そうとした、殺した、と言っているようにも受け取れる。まさかそんなことが!とびっくりしたが、前述のとおりすべてが事実だとも思えず、やむを得ず、もう少し調べることにした。 

―ウィキベディアより 
「釜山に行って日本人を移送してくるとされていた浮島丸に対し、大湊警備府から朝鮮人労働者とその家族を乗せて行けと命じられる。下士官たちは今ごろ朝鮮に行けば帰れなくなると反対したが、大湊警備府の命令により、朝鮮人たちを乗せて、822日午後10時ごろ大湊港を出航した。しかし連合軍が825日以降の100トン以上の船の航行を禁じ、航行中の船は最寄の港に入港せよと命じたため、舞鶴港への入港が決定された。音響機雷に対しては掃海艇による先導が必要であったが、連絡が不十分だったため、浮島丸は先導のないまま湾内に進入して機雷に触れてしまった。しかしあらかじめ沿岸ぎりぎりを航行していたこと、また乗船者の大部分をデッキに誘導していたため結果として救助活動が迅速におこなわれ、被害の拡大が防げた。(乗船者の9割が助かった。自力で岸に泳ぎ着いたものもあり、付近の漁民たちが小船を出して救助した。) 
一方、浮島丸は機雷に触れたのではなく、内部の爆発によって沈没したとする「自爆説」もある。 
1992年、賠償金と衆参両院の謝罪を要求する訴訟が韓国人生存者らによって提訴され、沈没原因と被害者は強制連行の結果、事件に遭遇したか否かが争点になった。2004年、最高裁は「機雷による沈没」として国の責任はないとする決定を下した。」 

自爆説があることに驚いた。また、小説では朝鮮人たちは船倉に押し込められていたとしているのに反して、ウイキペディアでは、「あらかじめデッキに誘導していた」미리 갑판에 유도했다とある点は大きく異なっている。もっと調べなければならない。 

―金賛汀著『浮島丸釜山港に向かわず』(かもがわ出版 1994年、1984年講談社版の再刊)より。 

 金賛汀は「在日朝鮮人の間には長きにわたって、日本の海軍軍人が朝鮮人引揚者を釜山まで運ぶのを嫌って舞鶴湾内で自ら爆弾を仕掛け自爆させたという風説があり、それがほぼ‘真実’として信じられて」おり、自分もそう思っていたという。しかし1968年ごろ、知人の記者が浮島丸艦長、鳥海金吾に取材したところ、鳥海は自爆は絶対にあり得ないと述べたと聞き、やはり蝕雷かと思うようになった。けれども1983年、舞鶴市の「浮島丸殉難者の碑」(後述)の前でおこなわれた追悼集会に参加したことをきっかけに、もう一度事実を明らかにしたいと思い立って、もと海軍の将校、士官、下士官、兵、朝鮮人の生存者たちを対象に精力的にインタヴューを重ねていく 

事件はなぜか日本ではまったく報道されなかった。一方朝鮮では『釜山日報』が 
918日、「朝鮮人はデッキには上がれず日本人は全員伝馬船に乗って船を離れ5,000の朝鮮人が命を失った。これは‘陰謀’だ」とする記事を掲載た。その後日本政府は一貫して‘蝕雷’による事故だという認識を示している。 
大湊海軍警備府は818日に浮島丸による朝鮮人帰国を企画し翌19日、海軍省から許可を得た。 
しかし、浮島丸の乗組員たちは敗戦後すぐに復員できると思っていたので、突然の釜山行きの命令にはたいていが不服だった。いま朝鮮に行けば捕虜にされて帰れなくなるかも知れないという恐れもあった。かれらの要求もあって、艦長・航海長らは海図(米軍および日本軍が敷設した機雷の位置を示したもの)の不足のため機雷に触れる危険性、燃料不足などを挙げて航行不可能であると言ったが、参謀らは「天皇陛下の命令だ」と出航を迫り、兵たちに対しては軍刀を抜いて脅した。政府が朝鮮人帰国の件で「朝鮮人集団移入労務者の緊急措置の件」を指令したのは91日のことである。したがってこの浮島丸による朝鮮人送還は、大湊警備府独自の命令だったわけだ。 

大湊の海軍警備府はなぜ急いで朝鮮人を帰国させようとしたのか。「乗れる船はこれだけだ。これに乗らないものには今後食料を配給しない」と誰か(誰?)が言ったのは事実のようだから、よほど帰国させたかったのだろう。下北半島では朝鮮人を苛酷な条件の下で働かせていたことから、朝鮮人の暴動を恐れたためか?この謎は解けていない。 

21日、米軍が「82418時以降、大型船舶の航行を禁じ」たことが大湊海軍警備府に伝えられる。出航を伸ばせば朝鮮に行かなくて済むと、下士官たちは考えたのかも知れない。港に集まった朝鮮人たちを2日も3日も待たせた後、22日夜、浮島丸は出航した。艦内の秩序は乱れ、酒を飲むものもいた。敗戦直後のことでまだ爆弾はたくさん積んでいたが、下士官たちは自爆装置があったとは考えられないと言うただみな自分のことで精一杯で朝鮮人のことなど考えていなかったと言う。(士官たちは、朝鮮人たちが強制連行されて来ていることも知らなかった。) 
乗組員の話では、浮島丸はエンジンが優秀で鳥海艦長の操舵技術もすぐれていて、何度も機雷を回避したことがあった。しかし、機関長は初めから沿岸を航海して舞鶴あたりに入港する予定だったという。24日夜浮島丸は舞鶴港に入る。舞鶴防衛隊の信号所からは「水路、掃海ズミニテ安全ナリ」と知らせてきた。いきなりドカンと爆発が起き、船は二つに折れて沈んでいった。米軍が舞鶴湾に投下した機雷は音響機雷と磁気機雷を合わせて116個。掃海しきれず、舞鶴湾内では820日~113日の間に浮島丸を含め、8件の蝕雷がある。しかし浮島丸は直前に通過した船の後ろを同じ航路で進んでいたため、蝕雷の可能性は少なかったという。多くの朝鮮人は、日本兵が朝鮮人を殺すために仕組んだ自爆だと信じたが、信憑性はない。乗組員たちは蝕雷と思っており、自爆説さえ知らなかった。自爆の可能性があるとしたら、釜山に行きたくない誰かが個人的に爆発させたのか?しかし、米軍の航行禁止令が出ているのだから釜山には行けず、わざわざ自爆させる必要はない。沈没の原因も謎のままである。 
舞鶴入港のとき、朝鮮人たちは船内に入れと言われたが、それは入港作業の邪魔 
になるからだった。しかし甲板に残っていた朝鮮人もいた。 
朝鮮人は何人乗っていたか。公式発表では3,735名とあるが、乗客名簿は作られ 
ていなかったらしく定かではない。6,000人ぐらいではなかったかという説もある。したがって死亡者数524名というのは、家族が遺体を確認して氏名を申告した者だけの数で実際にはもっと多かったかも知れない。浮島丸は1950年に半分だけの引き揚げ作業がなされたが、その目的は船の再利用であった。そのとき、発見された遺体は103柱とされている。1954年、今度は鉄の回収を目的に残り部分の引き揚げ作業がおこなわれ、245柱の遺骨を収集した。遺骨を拾い洗う作業をしたのは少数の日本人以外は自発的に集まってきた朝鮮人たちだった。 

 金賛汀の粘り強い調査によっても沈没原因は確定できなかった。「乗船者の大部分をデッキに誘導していた」とは言えないようだが、朝鮮人を殺す目的で甲板から追い出して船室に押し込めたり、沈没直前に乗組員たちが小船に乗って立ち去った事実はないことが分った。日本側乗組員にも死者のほか、多くの負傷者が出ている。関東大震災のときの朝鮮人虐殺の記憶や強制連行・強制労働の経験が新しい朝鮮人たちが、日本人が殺そうとしたと思い込んだのも無理はないが、この船の釜山行きは本来朝鮮にいる日本人たちを連れてくることが目的だったことを考えると、途中での自爆はありえないはずだから、思い過ごしだったようだ。 
けれども同時に見えてきたものは、上官から兵にいたるまで日本人たちの朝鮮人乗客に対する無関心である。かれらは、自分たちがどうやって、命令に逆らって軍法会議にかけられることなく、生き延びるかで精一杯で、乗客である朝鮮人たちの気持ちを思いやったり、その安全を図ろうとしたりしたようすは見られなかった。自分の命がかかっている瀬戸際だから、それは止むを得ないことだったかもしれない。けれども、日本の朝鮮支配の初めからあった、官民あげての朝鮮人を人と思わない人格無視の土壌がそのような感性を養ってしまった面もあるのではないだろうか。 
政府サイドでは、強制連行してきた人を、戦後、責任を持って帰国の世話をするのが当然であるにもかかわらず、政府は浮島丸の死者に対する当然の礼儀でもある遺骨収集・調査・遺骨送還などの一切に無関心であり、沈没の責任もないとしている。 
 唯一の救いは、下波佐賀部落の人びとが直ちに漁船を出して何往復もしながら救助にあたり、わずかな食料を分け与えたり、草履を与えたりしたことである。

それに関してもう一冊の本がある。 

―『爆沈・浮島丸 歴史の風化とたたかう』(品田茂著 高文研 2008)を読んで 

京都府舞鶴市には、「浮島丸殉難者追悼の碑」がある。中央に赤子を抱いたチマチョゴリ姿の女性が立ち、足元に苦悶の表情を浮かべた男性たちがいる。この像は地元の中学校の美術教師ら28人が作ったもので、事件から23年目の1978年8月24日に除幕式をおこなった。周囲は追悼公園になっている。追悼碑が作られるまでには、民族差別をなくそうという目的で始めた日韓・朝交流の歴史を学ぶ取り組みの中でこの事件を知った舞鶴市民たちの、事件を風化させまいとする粘り強い努力があった。その後も追悼会は毎年開かれていて、そのような動きの結果、1992年、平安京遷都1200年の記念として、京都市の市民団体が『エイジアン・ブルー 浮島丸サコン』の映画製作を企画し、製作・上映にも舞鶴市民たちが協力して、1995年に完成した。残念ながら見ていないのだが、下北半島での朝鮮人の強制労働や浮島丸沈没を描いた、当時の日本人のあり方を問う作品のようである。 

以上見てきたように 浮島丸沈没の原因はいまだ判明しておらず、当時としては防ぎ得ないことだったかもしれない。けれども、これまたいまだに解明されていないのは、大湊海軍警備府がなぜ朝鮮人たちを急いで帰国させようとしたか、それもいま帰国しなければ今後食料は配給しないと脅迫して追いたてたかという点である。そのように急がなければ、浮島丸は掃海が不十分な舞鶴港に入港することもなく、悲劇は起こらなかった。一部の人たちが述べているように「朝鮮人が暴動を起こすのを恐れた」からであるなら、それ以前の朝鮮人連行や苛酷な労働条件および人を人と思わなかった日本人の態度に大きな問題がある。また、前述どおり事故が起こってからの日本側の対応も不誠実だった。以上の二点は、日本政府として誠実な原因究明や対応がなされるべきだったし、これからでもすべきだ。 
一方、韓国側では小説『スニ』のように事実に基づかない「思い込み」による過剰反応が見られる。日本に対する要求が説得力を持つためにも、事実を究明してそれに即した報道をすべきだと思われる。 
 また韓国の人びとが強制連行や浮島丸事件などについて日本政府の責任を問うとき、その要求に充分に応えていない政府を持っていることを残念に思い、過去の日本人の行為を恥じつつ、せめて民間レベルで償いをしようとしている多くの日本人がいることも知ってもらえれば、両国の友好に役立つのではないかと思う。 


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