2020-02-24

2002 Hatano Y 「東学農民運動を知っていますか?


Hatano Y
Sun 23/02/2020 15:37

Y Park;
최 QS


2020.2波多野 学習会 問題提起 .doc
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学習会 2020年1月18日
「東学農民運動を知っていますか?-日本人の近代史認識の問題点と日韓条約」
波多野

今日お話しするのは三つです。

  1. ひとつは日韓条約の問題点。
  2. そのつぎは韓国の民主化運動について。
  3. 三つめは日本人の近代史認識、日本人がどのように近代史を学んで受け止めているかという話をしたいと思います。


1] 日韓条約について 

日韓基本条約・日韓請求権協定は1965年に結ばれました。結ばれるまで15年ぐらいかかっています。なぜそんなに長い時間がかかったかと言うと、いろいろ意見が合わなかったんですね。
一番の問題点は歴史認識で、日本は自分たちが韓国を植民地にしていたことは合法的であると思っている、韓国の方はそもそも日本が無理やりに押し付けたのであって最初から合法的ではないと思っている、そこがまったく食い違っているわけです。

もめている間に韓国では海に李承晩ラインを引いて、線の中に入った漁船をつかまえるということもありました。それから請求権問題、請求権問題と言うと韓国が植民地時代にひどい目にあったのでその賠償を請求するのだと思いがちですが、それだけではなくて日本が韓国に請求する、それは向こうに工場や会社を建てたりいろいろ財産があったのをみなほったらかして引き揚げてきたので、それを返せ、その賠償をしろという要求もあったんですね。
いろいろ駆け引きがありました。ほかに文化財返還の問題もありますが、それは端折りまして、非常に難航したのですが1965年になって妥結します。朴正熙大統領のときです。
当時韓国は非常に貧しかったです。植民地時代の後遺症があるうえに3年間の朝鮮戦争で国中が焼け野原になって大変貧しくてお金が必要だったんですね。そのため歴史認識には目をつぶってとにかくお金さえもらえばいいというのが韓国政府の立場だったようです
日本の方はと言うと、最初から上から目線だったんですね。全然悪いと思ってなくて、植民地時代にいっぱいいいこともしてやったじゃないか、その分どうしてくれるんだという態度なので、お金だけで済むならまあお金やってもいいやという感じになったんだと思います。
ちょうどそのとき、アメリカも関係あるんです。アメリカは長い間ベトナム戦争をしていて泥沼化していた。評判は悪いし、国内では反戦運動が起こるしお金はかかるし、どこかに手伝ってもらいたい、たとえば韓国に軍隊を派遣してもらいたいと思います。すると当然韓国はアメリカにお金をくれと言うでしょう。ところがアメリカにはそういう余裕はないからアメリカとしては日本にお金をあげてもらって韓国に軍隊を派遣してもらうと好都合だ。すると日本にも何かしてやらなくてはならないから、たぶんその代りに日本に沖縄返還を約束したと思います。沖縄返還は少し後になりますが。そんなこともあって65年に結ばれた日韓条約は妥協の産物で、歴史認識問題がはっきりしたとか、そういうことではなくてうやむやのまま結ばれたんですね

日本は悪いことはしたと思っていませんから、賠償金は払いません。けれどお金はあげましょうというので、「独立祝い金・発展途上国支援金」という名目でお金を出す。けれどもそれは現金をあげるのではなくて、その分を品物で、あるいは役務と言って日本人の技師などが技術援助をするということです。そしてそれは経済発展に使えということでした。

少し前後しますが、条約の内容は、日本は日韓併合条約は以前は有効でしたが、
「もはや無効」とし、韓国は「そもそも無効」としています。これは平行線のままうやむやになって締結されました。韓国の個人への補償、未払い給与とか軍人恩給といったものですが、日本は個別に払うと言ったんですね。しかし韓国は一括払いを要求し、書類がどうとかでうやむやになり、結局それは払わずに「独立祝い金」になったわけです。日本が韓国に残して来た財産は放棄することになりました。

当時、日本でも韓国でも反対運動が起こりました。日本ではそのころ朝鮮半島の
二つの国のうち、大韓民国はアメリカの傀儡のような国であり、朝鮮民主主義人民共和国の方が正統な国であるという考え方がかなり強かったです。この条約は北の方を無視して韓国だけを正統な政府と認めるという内容なのでそういう点で反対がありました。韓国ではそもそも歴史認識がなってないということと、お金は全部ひも付きになっていて結局また日本企業が韓国に進出してくるということで非常に激しい反対運動が起こりましたが、朴正熙大統領は戒厳令を出して抑えたのです。ですから非常に無理に結んだ、欠陥の多いものだったのです。

いま問題になっている徴用工問題ですが、新日鉄や三菱重工に元徴用工が要求し
ているのは「反人道的な不法行為」に対する慰謝料ですが、この問題は日韓条約締
結のときには全然論じられていません。したがって日本政府が日韓条約で解決済み
というのは間違っている、新しく取り組むべきではないかと思います。
結論として日本は植民地支配が悪かったとは認めないまま結びました。韓国では
1965年には経済優先で結んだけれども果たしてそれでよかったのかという見直しが進んでいるのです。わたしは日本が変わるべきではないかと思うのですが、それ
はまたあとでお話しします。

2] 韓国の民主化運動と名誉回復

簡単な略年表を作っておきました。ざっとおさらいします。
1948年に済州島の「4・3事件」。南だけの単独選挙をすると分断が固定されるというので蜂起した反対運動で、結局3万人以上が亡くなる悲劇でした。そういうのを押さえつけて48年に李承晩が大統領になりました。50年から53年の朝鮮戦争のときには大量の虐殺がありました。体制に反対しそうな人、反対した人ではなくて反対しそうな人をあちこちで大量に虐殺したのです。李承晩大統領は戒厳令とか国家保安法を強化して押さえつけました。何度か大統領選挙がありましたが、そのたびに票の水増しとか反対票を捨てるとか食べてしまうとか、不正選挙をしました。
そういうことに耐えられなくて1960年4月に「4・19革命」という、学生たちがデモを始めて全国で大きな反対運動があって、李承晩大統領を退陣に追い込みます。李承晩は12年間も大統領だったんですね。1960年は日本でも安保闘争をしていたころで、わたしは学生が終わったころでしたが、韓国はすごいなあと思ったことを覚えています。
そのあと、ちょっとこれまでのことを見直そうという動きがあったんですが、翌1961年にはもう朴正熙のクーデターがあって軍事政権ができました。そのときに日韓条約が結ばれてベトナムに派兵し、経済優先で「漢江の奇跡」と言われる高度成長を成し遂げるわけです。一方で独裁政治に反対する労働運動や学生運動が盛んになります。71年ぐらいになると都市部では野党の方が強くなります。朴正熙は国家非常事態宣言を出して労働者の運動などを押さえつけました。72年には維新クーデター、これまで大統領は選挙で選ばれていましたが、統一主体国民会議というのを作ってそこで大統領を選ぶ。大統領の権限が強化され独裁の道を突っ走ります。73年金大中事件、朴正熙が自分のライバルを抹殺しようとしたのです。「維新反対闘争」が続き、逮捕とか拷問とか、謎の死とか、そういうことがしばしばありました。それでも78年の総選挙では、野党が与党を上回り独裁政権も危なくなってきて、そして79年、釜山・馬山で起こった大規模な学生たちのデモに対して朴正熙は軍隊を投入して弾圧するのですが、それがあまりひどいということだったのか、身内に射殺されます。在職期間18年でした。
それで「ソウルの春」と言って、民主化の動きがほんのちょっとあったのですが、80年、またしても軍のクーデター。全斗煥が権力を握って非常戒厳令を出します。それに対して5月18日、光州の学生や市民たちが「戒厳解除・全斗煥退陣」を要求すると全斗煥は軍隊を投入して徹底的に弾圧しました。しかしその後も抵抗運動は続き、87年には学生や市民・労働者による「6月市民大抗争」、史上最大規模のデモが起こって、ついに大統領直接選挙・任期5年とするという新憲法が公布されます。87年の大統領選挙では金大中と金泳三が出たために共倒れになって全斗煥の仲間で軍人の盧泰愚が当選します。
しかしつぎの金泳三大統領のときには「歴史の見直し」が掲げられて「5・18民主化運動等に関する特別法」が制定されて、光州の抵抗した人たちの名誉回復がなされます。「暴徒」ではなく、「民主化運動をした革命の闘士」という位置づけになり、97年に光州事件の「5・18」は国家記念日になりました。

「済州4:3」についても、ようやく公然と語れるようになって真相調査が進められ、2002年盧武鉉大統領が国家として申し訳なかったと謝罪し2014年、「4・3」は国家追悼の日と定められます。あとでお話しする東学も「暴徒」と言われていましたが、2004年に「東学農民革命軍の名誉回復に関する特別法」が制定され、現在は写真のような慰霊碑があちこちに建てられています。
たびたびのクーデター、独裁政権の暴力を乗り越えて、労働者・学生らが逮捕・
拷問されたり、割腹自殺・焼身自殺をするなど多くの犠牲があって民主化を勝ちとった韓国では、いま過去の政府による過ちを見直し、名誉回復・被害への補償が進められています。その情熱的で粘り強い闘いはみごとだと言うしかありません。

3] 日本人の近代史認識

この漫画みたいな絵はポーランドのユダヤ人が描いた絵です。かつて教職にあったとき、こういう絵を見せると生徒はショックを受けました。高校生は『アンネの日記』やアウシュヴィッツのことは知っていますが、日本がした悪いことは何も知らないので、ヒトラーと裕仁Hirohitoさんが同じように扱われているのは、生徒にとってショックです。「日本は何か悪いことしたの?そんなこと聞いてないよ。」
日本は正しかった、悪いことなんかしてなかったとずっと思っているので、悪いことしたことを話すとショックで、「先生、そんなことを言わないで」と言います。なぜそうなのかというと、例えば教科書には朝鮮の植民地支配のことは何も書いてありません。「併合した」「土地調査事業をした」そして欄外に小さく「戦時中に労働者を連行した、慰安婦もいた」とあります。
韓国の教科書ならその記述は何ページもあるわけです。よほど注意して朝鮮について調べようと思って読まないと見過ごします。植民地支配ということはどういう状況なのか、生徒は何も学べません。教科書はほんとに心がこもってないです。
なぜそうなのかをもうひとつ、東学を例にとってお話しします。東学とは農民の宗教団体です。初めは朝鮮政府の圧政に抵抗して反乱を起こしますが、それを鎮圧するために清と日本が朝鮮に出兵すると、今度は日本にも抵抗します。それが日清戦争のきっかけになりました。そのことは教科書に書いてあります。けれども東学と日本軍が戦ったことは何も書いてありません。日本は清と戦争する一方東学とも激しく戦います。日本軍には大本営から「皆殺しにしろ」と命令が出ていて、猟銃と弓矢や竹槍しか持っていない農民軍と何カ月も戦います。兵士たちは「何人殺した」とか、「百発百中で愉快だった」「家を焼いた」「大いに拷問した」とか言いながら殲滅します
それに対して東学側では戦うにあたって「なるべく殺すな」と言っているのです。倫理的にとても高いです。結局追い詰められて農民軍は全滅しその死者は約3万人と言われます。ところがこの戦いは日本の歴史に載っていません。中塚明先生はじめ研究者の方々が探されたのですが、資料はいっぱいあるのです。

しかし公式の戦史ではそれらをすべて抹殺して記録に残していません。東学との戦いでの戦死者は一人ですが、それさえも清との戦いで死んだことになっています。
朝鮮人は頑張った、能力もある、努力もした。そのことを日本人は知らない。
れを抹殺して「朝鮮人は死せる民」(新渡戸稲造)「自らの力で運命を切り開く力は皆無」(司馬遼太郎)と嘘をまき散らし、教科書にも書かないから、朝鮮人は無力で弱い存在だ、生まれながら日本人は上で、朝鮮人は下だという根強い蔑視感が生まれました。

上の三つの話をつなげて理解してくださるといいのですが。いま日本と韓国との
関係が悪いです。関係をよくするには、相手をよく知って尊敬し愛さなければならない、そうしなければ友好は結ばれないのではないかと思っています。


参考書 

中塚明・井上勝生・朴孟洙『東学農民戦争と日本』高文研
中塚明『日本人の明治観をただす』高文研
高井弘之『「徴用工問題は解決済み」は本当か』第四企画

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朴様
(CC 崔様 BCC 朴様)
今日は風が強かったですが、温かい日でしたね。お変わりなくお過ごしのことと思います。

「帝国の慰安婦」の再読、ようやく終わりました。前に読んだとき、あちこち、とてもたくさん傍線が引いてあったり、書き込みがしてありました。2015年2月4日と、11月27日付のインタビュー記事、高橋源一郎さんの「記憶の主人になるために」という記事(朝日新聞)なども挟んでありました。共感を持って読んだのですね。
記録を見ると、
  • 1975年に広田和子「従軍慰安婦看護婦」 
  • 83年 山谷哲夫「沖縄のハルモニ」 
  • 87年 川田文子「赤瓦の家」 
  • 2007 윤정모 「에미 이름은 조센삐였다」を読んでいるように、
かねてからこのことには関心があり、ナヌムの家も訪ねてお話を聞いたことがあります。

大変なご労作です。訴訟になってどれほど残念に思われ心痛められたことかとお察しいたします。

そのころチェキュスンさんから、「朴裕河さんを日韓合同授業研究会の交流会にお招きしてはどうだろうか?」という提案が個人的にわたしにあり、日本側の集まりで、「どうかしら?」と話したことがありました。
そして何人かから猛烈に反対されました。一人は在日の方で「あれを認めたらわたしたちの立場がない」ということで、もう一人は総連や朝鮮学校とよく連絡されている方でした。「読んだの?」と尋ねた返事はよく覚えていませんが、たぶん「あんなの、読まない」ではなかったかと思います。その他の人は黙っていましたが、たぶん読まないまま、韓国の挺対協の主張をうのみにしていたのではないかと思います。(大雑把な言い方をすればたいていのメンバーは「左翼」ですが、韓国の「左翼」の言うことに同調してしまったのでしょう。)韓国側の韓日合同教育研究会でもチェキュスンさんに賛成する人はたぶん少なかったようです。

そんなこんなでしばらく時が過ぎました。ソウルの日本大使館前の少女像は一度見に行きました。あの子が慰安婦になることを強制されたなら、「かわいそうに」と思います。けれども
日本大使館に向かってにらむように置かれていることは、何か気持ちがざらつくようで、気がかりでした。昨年GMZ近くの自由の橋に行ったときも、少女像が置かれていて、横に置かれた椅子(これも彫刻)に並んで座り写真を撮ったりする人もいましたが、そういう気にはなれません。また昨年東学のツアーに行ったときも、居残って「水曜集会に行く」と意気揚々と言う方もありましたが、行ってどうするのかなあ?そうすることで日本の体制側に反対するつもりなのでしょうね。
先日お渡しした「순이』という小説について書いた文を見ていただきたいのですが。「慰安婦の娘のかわいそうな少女」というシンボルを作ってこれでもかこれでもかとかわいそうに描いてあり、それが矛盾だらけ、こういうものが通用する世界に違和感を覚えました。けれどもあの文はわたしたちの会報には載せてもらえませんでした。挺対協の方針に逆らうことになるからかもしれません。
おっしゃるとおり、朝鮮人慰安婦にはさまざまな状況があり、年齢も、そうなった道筋もさまざまなのに、あの少女像に収れんされてしまうこと、シンボル化されていることに違和感があります。ひとたびシンボルになってしまうと、ほかの状況もあったでしょう?ということは困難になります。


独島問題についても同様です。わたしは、たぶん江戸時代にはどちらの国の島ということもなく、漁民たちが好きなように行き来していたのではないか?日露戦争に際して日本が島根県に編入したことの正否は論じてもいいと思いますが、
だからと言って古来から韓国の領土ともいえないのではないか?この問題は歴史学者たちが、あるいは環境問題や漁業問題として考える、話しあうべきではないかという考えです。けれども韓国では独島を『民族の誇り』にかかわるものとしてシンボル化してしまい、学校教育でも重視しています。シンボルになると、それを論じること自体が困難になってしまいます。

日本は絶対悪(加害者)、韓国は絶対善(被害者)という図式が出来上がってしまうと自由な検証や思考が困難になります。
朴裕河さんも書いていらっしゃるように、植民地時代にもいろいろな生き方がありました。

金時鍾さんは自分がいかに熱心な皇国臣民であったかということを苦い思いとともに書いていらっしゃいます。また日本人以上に熱心に子どもを皇国臣民に仕立てようとした朝鮮人教師もあったようです。

鄭敬謨先生も、中学時代に日本に修学旅行に行ったとき、汽車の中で朝鮮人だとわからないように「創氏改名」した友だちの名前を大声で呼んだ、日本名に変えた友だちが羨ましかったと、こちらが聞けばどうにも申し訳なくなる屈折した話を聞かせてくださいました。
そういう子どもがそのまま成長すると、特攻隊に志願したりするようになりました。韓国では兵士として日本軍に参加した人には補償があり、特攻隊にはないのですね。(慰霊碑も建てられない。)以前、調査でお会いした方が自分の兄は特攻隊ではなかったことを証明したいと躍起になっていらっしゃったことがありました。誰しも進んで死にたいわけではありませんが、当時、日本人以上に日本人らしくなろうと、そして立派に死んで見せてやろうと思った青年たちがたくさんいたことはとても痛ましいです。ましてB/C級戦犯になって処刑された方も。そういう方たちを責められるものでしょうか?

独立運動の闘士たちは立派でした。けれども人は日常を生きなければならず、だれもが尹奉吉になれるわけではないでしょう。
それに慰安所を経営したり、女性をだまして連れて行ったり、植民地体制の中でお金を稼ぐためにいろいろなことをした人も多かった。
そのような人たちが韓国ではまるでいなかったかのように、すべての人が独立運動をしたかのように語られるのも不思議です。
以前歴史の教科書に「壬辰倭乱のとき、朝鮮人は老若男女を問わず一丸となって戦った」と書いてありました。わたしは景福宮が焼かれたとき、奴婢の文書が焼けて奴婢は喜んだ、という記録を見たことがあるので、「この記述には何か資料があるのですか?」と尋ねると、ある歴史の教師が「国民の統合のための歴史教育だから、資料はなくてもいいのだ」と言われて驚いたことがあります。
いまそのことがしきりに思い出され、韓国人が新しい神話を作って、それを信じ込もうとしているように思えます。

慰安婦の話に戻ると、挺対協の態度を見ると、まるで日本を憎む、日本に対して怒る、そのことに快感を覚えているように思われます。自分が被害者=絶対善 であるとする立場では怒ることは快感であり、いつまでも持ちつづけていたい感情なのかと思われます。そういう態度であれば、相手の方も硬化します。和解とは程遠いですね。
以前、ある韓国人の友人と話していてほとんど喧嘩のようになったことが思い出されます。イラク戦争のころでした。米軍の空爆で息子を失ったイラク人の母、戦死した米軍兵士の息子を失ったアメリカ人の母、その悲しみは同じでしょうとわたしが言うと、彼女は違うというのです。イラク人の母の方が悲しむ権利があるのだと。読書好きで感性豊かと思っていた友人でした。これは韓国人に共通の感情でしょうか?

もう一つ、慰安婦問題に関しては、男性対女性の関係もぜひ問題にしたいと思います。
かつて韓国が貧しかったころ、日本の男性を相手にする「妓生観光」が盛んでした。韓国はそれで外貨を稼いでいました。79年にわたしが初めて韓国に行ったとき、日本では「女が韓国に行ってどうする?」と言い、韓国のガイドは「女性が来てくれて嬉しい(妓生観光ではないから)」と言いました。そのことを挺対協の人たちはどう思うのか、聞きたいですね。

「声」も読みました。浅野豊美さんの文から、日韓交渉の問題点について知らなかったことを多く学びました。添付したものは、先日私が話したものですが、日韓条約交渉についての勉強が足りませんでした。
プリワイバリの社長さんの文、鄭宇盛さんの文もよかったです。

『和解のために』を開いてみると、ここにも傍線がたくさん引いてありました。もう一度読んでみます。

とりとめもなく書きました。
何の肩書もない、一市民ですが、日韓の和解に役立つことがあれば何でもしたいと思います。 波多野淑子

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From: Y Park
Sent: Wednesday, February 5, 2020 9:23 PM
To: Hatano Y
Subject: Re: 立命館のシンポジウム

波多野さま

それじゃあ本を取り寄せてみるようにします。今しばらくお待ち下さい。韓国語でも大丈夫ですね?

いろいろ思いを書いていただきありがとうございます。そうですね、私もまだいただいた本を読めてないので読んだところでまた話ましょう。

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나의 iPhone에서 보냄


2020. 2. 3. 오후 10:53, Hatano Yoshiko 작성:

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朴様
メールありがとうございます。
いましていることや読んでいる本などが一段落したら、『帝国の慰安婦』をもう一度読みます。反論の御本を送っていただけるのなら大変ありがたいです。

いま読んでいる1冊は韓国で出された『조선을 떠나며』という本で、敗戦後朝鮮に住んでいた日本人たちの動向を書いたものです。(チェキュスンさん推薦) 植民地時代にさんざんいい思いをしていたはずの日本人たちが、敗戦によって天地がひっくり返り、貧窮のどん底に落とされる。 自分が他人の土地に住んでいるという自覚もなかったために、大きなショックを受ける。そして受けた被害ばかりが記憶される。という構造で、その能天気ぶりにはあきれるばかりですが、一人一人にとってはとてもつらいことだっただろうと思われます。とくに女性たちは大変だったでしょう。
引揚者だった、もう亡くなった先生たちからもっと話を聞いておけばよかったと思います。

そしていつの世も女性の性的な被害はあります。昔わたしが住んでいた福岡県の二日市にそういう女性の事後処理をする施設があったことものちに知りました。
今度の立命館のシンポジウムではそういうことが話題なのですね。
「慰安婦問題」も男性対女性の問題ではないかと思われるのですが、そういう視点は少数派のようですね。

「慰安婦問題」を韓国対日本の問題にして、少女像をシンボル化し、憎しみをあおるやり方には賛成できません。

またお話を伺いたいです。 波多野

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