2021-03-28

02 正義論/無責任の論理 岡野 八代

正義論/無責任の論理
正義論/無責任の論理

岡野 八代
著者情報
キーワード: 女性国際戦犯法廷, リーガリズム, 正義, 責任, 従軍「慰安婦」問題
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2002 年 2002 巻 56 号 p. 84-105,275
DOI https://doi.org/10.11387/jsl1951.2002.84


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抄録

The purpose of this essay is to explore the influence of "legalism" on the judicial judgment concerning the issue of ex-"comfort women." It is a very simple question that I would like to answer by examining the legal concept of justice within the context of contemporary North American political theory. That is, why can the government of Japan and most Japanese people believe that the government of Japan does not have to take any legal responsibility in response to the claims to justice from ex-"comfort women, " even though they say that it does have a moral responsibility? Why is it "not unjust" to ex-comfort women from the judicial point of view that the Japanese government has been refusing to take any responsibility for the horror of the Japanese military's institutionalization of sexual slavery during the War?

Firstly, I define the character of "legalism" in accordance with the criticism of "legalism" by Judith Shklar. She asserts that legalism treats law as an entity distinct from all political moral and values. She also equates the normal model of justice which legalism presupposes with distributive justice. When we look back to the history of theories of justice, Aristotle identified two forms of justice; one is distributive justice and the other, corrective. However, as we see in contemporary arguments on justice, especially after John Rawls' A Theory of Justice, the latter seems to have been curiously dismissed. Because distributive justice means proportional equality or fairness within the context of the particular political institution, it necessarily reflects the concept of common good within the community. 

On the other hand, corrective justice tends to be ignored or regarded as having nothing to do with the political. In this sense, we can understand the reason why Shklar equated the normal model of justice with distributive justice.
Thus, theories of justice, have been focusing on the matter of what just principles of distributive justice are. However, this tendency is blinkered to many issues about domination and past injuries which have not yet been rectified. If we are responsive to existing social relations where inequalities or domination have not been swept away, we need to take seriously the political problem on how we can reshape them as a crucial issue of justice.





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正義論/無責任の論理
岡野八代
 
キーワ-ド・女性国際戦犯法廷、リーガリズム、正義、資任、従軍「慰安婦」問題

はじめに 二つの判決/判断のあいだで

21世紀は、わたしたちの記憶に留めておくべき二つの対照的な裁判judg mentの狭間で幕が開いた。ーっは、主権国家体制を前提とした近代国際法を乗り越えようとする現代の国際法の動き1 )と連動しながら2000年12月に東京で開催された女性国際戦犯法廷である。そこでは、武力紛争下における女性に対する暴力は、「貞操」観念にきっく縛られた「名誉」に対する罪ではなく、一個の人格に対する権利侵害として位置づけ直され、戦時下における女性に対する暴力は戦争犯罪の一つである、との認識の下で判断がなされた2 )。日本軍性奴隷制を裁く「二〇〇〇年女性国際戦犯法廷憲章」が、「性奴隷制を含む戦時性暴力の被害女性や生存者に正義を回復することは、地球市民社会を構成する一人一人の道義的責任」であると宣言していることが、この裁判の特徴をもっとも如実に語っている。そして、判決においては、憲章に明記された上記の精神に則り、天皇裕仁は人道に対する罪において有罪、日本政府は「慰安所」制度の設置と運営について国家責任を負うと判断した(認定の概要200D。
もうーっは、1992年以来、韓国釜山市などに住む従軍く慰安婦〉、あるいは女子勤労挺身隊にされた女性たち10人が、山口地裁下関支部に、国会ならびに国際連合総会における公式謝罪と賠償を求めて提訴したいわゆる関釜裁判に対する高裁判決である。2001年3月の広島高裁において、政府の立法不作為を国家賠償請求により司法的に救済しようとした一審( 1998年4月)は覆され、「原告の心情には察するに余りあるものがあるが・・・補償問題に関する対応の在り方
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に関しては・・・立法府の裁量的判断にゆだねられている」との判断が下された3 )。その判断においてはまず、従軍<慰安婦〉制度が「制度」として存在していた当時の大日本帝国憲法の下では、国家は、自らの権力作用であるかぎり、それがたとえ違法行為であっても賠償責任は負わないとされていた点(国家無答責の原理)が指摘されている。さらに、原告側が大日本帝国憲法二七条4 )の解釈に援用しようとした日本国憲法二九条三項については、「生命・身体は、その本質上いかなる補償を伴ってもこれを適法に公共のために用いることは正義・公平に反しできないものであるから、国の行為による生命・身体に対する侵害は、日本国憲法二九条三項の解釈上、これを補償の対象に含めることはできないものと解するのが相当である」としている5 )。すなわち、二九条三項が定めているのは、公共のために適法に私有財産を用いた場合の損失補償なのであるから、そもそも生命や身体といった適法に公共のために用いることができないものは、補償の対象になるはずがないのである。
この両者の判断はともに、従軍<慰安婦>にされた女性たちからの正義への訴えに対して、法的に正しい判断としてわたしたちの前に提示された。しかしながら、女性国際戦犯法廷における判断とは逆に、関釜裁判高裁判決では、近代国家を構成しているconstitute憲法Constitutionの下で妥当な判断を下した場合、女性国際戦犯法廷の憲章で言われている「戦時性暴力の被害女性や生存者」である従軍く慰安婦〉にされた女性たちに「正義」を回復することは、法的には不可能とされる。すなわち、先述したように、「女性国際戦犯法廷」は、「道義的責任」があるからこそ、日本政府は国家責任を負うべきだ、と判断したのに対して、関釜裁判においては、道義的責任はあるものの、法的責任 は存在しない、と判断されたのだ。
関釜裁判高裁判決が、従軍<慰安婦〉問題について「道義的責任はあるが、法的責任はない」という日本政府の公式見解に適ったものであることは言うまでもないであろう。しかし、本稿で試みたいことは、本判決がたんに、日本政府の見解に従ったにすぎない、換言すれば、政治を前にして、つねに個々の裁判に要請されている責任ある判断を放棄した司法の敗北である、と考えることではない。そうではなく、むしろ、本判決の中に法的思考方法legalismに固有の論理、すなわち法的にはlegally責任ある判断を見てとることである。 
こでわたしたちが問題にしなければならないのは、なぜこうした判断が法的には責任ある判断であると考えられてきた/考えられているのか、その論理を明らかにすることなのだ。
かってシュクラーは法的思考方法について、とりわけ、ケルゼンに代表される純粋法学について、それがリーガリズムというーっのイデオロギーであるという理由で、批判した6 )。彼女によれば、リーガリズムを信奉している者たちは、「法を政治から守ろうと堅く決意するにあたって、自分たちもまた諸々の政治的価値のなかから一つを選択しているということを認めない」(Shklar 1964 : p. 8 / 13頁)。さらに リーガリズムの特徴について彼女は、つぎのように述べている。
法というものを、一切の政治的・道徳的・社会的な価値や諸々の制度とは全く異なったーっの概念的な型として扱いうる可能性は、全く自明のこととされている。法が「そこに」ある何か いかに、抽象的であれ、一つのはっきり区別された実体----であることは自明であると仮定されている。/法を「そこに」ある諸規範の自己充足的な体系として扱い、それを組成する諸々のルールの内容、目的、発展に全く関連づけることなしに同一であると確認できるidentifiableとする考えは、形式主義のまさに本質に他ならない(ibid. : pp. 33-34 / 51頁)。
すなわち、リーガリズムとはつぎのような考え方を意味しているのだ。法規範は、道徳や政治、つまり歴史的な拘束を強く受けざるを得ない社会的な諸価 値からは独立して存在しており、そうした諸々の諸価値が様々な社会的状況変化の影響を受けるのに対して、法はそのような歴史性を免れており、どのような状況下に置かれても不変の規範として引証可能である、と。しかも、リーガリズムは、 こうした考えを主義主張の一つと考えるのではなく、むしろ、法とはそういうものとして存在している、として、無批判に現在の法のあり方を肯
 
定してしまうのだ。
よって、シュクラーによるリーガリズム批判を念頭に置くならば、「道義的責任はあるが」、当時の法体系と現在の法体系を参照する限り、「法的責任はない」という政府の公式見解は、「法を「そこに」ある諸規範の自己充足的な体系」として考えるリーガリズムの伝統の中では、ある意味で当然の帰結と言える。そして、だからこそ、日本政府とくわれわれ>日本国民の大半は、現政府には従軍く慰安婦>問題に対して「法的責任」がない、責任をとらなくても正義に反しない、と当然のように考えているのではないのか。しかしながらその一方で、従軍く慰安婦〉にさせられた女性たちは、はっきりと現日本政府を名宛人として、「正義」の回復を求めている。そして、政府の公式見解に対して「国家が責任を果たすことを怠って」いるとして「国家責任」をとるように訴えているのだ そして、女性国際戦犯法廷では国家責任があると判断され
 
日本政府がいう「法的責任」の下で語られる「正義」と、従軍<慰安婦〉にさせられた女性たちが訴える「正義」とは、いったいどのような関係にあるのだろうか。あるいは、両者はまったく異なる正義概念を使用しているのだろうか。なぜ、道義的責任があるにもかかわらず---日本政府でさえ、その責任は認めているのだ 、法的な観点に立てば「責任を取らなくても」正義に悖ることがないと考えられてしまうのだろうか。
本稿では、以上の問いに応えるために、関釜裁判における判断の核心には、わたしたちの責任の範囲を著しく制限する 「道義的責任はあるが、法的責任はない」 リーガリスティクな正義概念が存在することを指摘する。そのさいに、政治思想史上、とりわけ、現代の正義論においていかなる「正義論」が主流を占めてきたのかを考察することによって、従軍く慰安婦〉にさせられた女性たちからの正義への訴えかけに応答する契機は、政治思想史上の「正義論」にはほとんど見いだせないことを明らかにしたい。なぜなら、そのような批判的考察を経て、わたしたちは新たな正義概念の構築へと開かれることになるであろうから8 )。
以下では、第1節で現代「正義論」の前提を確認し、第2節でパラダイムとしての「配分的」正義をめぐる議論を取り上げ、第3節で、配分的正義を批判的に検討する。そして、配分的正義のバラダイムは、受動的/消極的正義 passive justiceと能動的/積極的不正義active injusticeという相補的な概念によって支配されており、その枠組みゆえに、現存する構造的な不正義、あるいは過去に為された不正義とそうした不正義を被ったひとびとに対する責任をいかに果たすか、という問題は、正義論の射程から排除されてきたことを指摘する。そのことによって、本稿が正義論の批判的再考のための布石となれば幸いである。

I現代「正義論」の前提

本論に入る前に、 もう一度、本稿での問いを確認しておく。
なぜ、従軍く慰安婦〉にさせられた女性たちの「正義を回復してほしい」という訴えに対して「道義的責任」があるにもかかわらず、日本政府は国家責任を果たさなくてもよい、と判断することは、法的な正義the legal concept of justiceに適った妥当な判断なのだろうか。なぜ、法的な観点にたっとlegally、日本政府が従軍く慰安婦〉問題に対して無責任であっても、正義に悖ることがないのだろうか。
たとえば、先述のシュクラーは、法的な思考様式における正義をつぎのように定義している。
正義は、善きものの極点、道徳の縮図なのである。・・・個人においては、それは公正、公平、各人に彼のものを与える性質を有している この場合、何が各人のものであるかを規定する諸ルールの体系がつねに存在すると確信されている。正義とは、諸原理のもとで、ルールを遵守し、権利を尊重し、債務を受け入れるということに与することである(Shklar 1964 : p. 113 / 170頁)。
すなわち、シュクラーに従うならば、リーガリスティクな正義概念の特徴は
以下の三点である。①正義とは、公平に、公正な手続きの下で各人に相応しいものを与えることであり、②その際には、何が各人のものであるかを規定する堵ルールの体系がすでに存在していることが前提されており、③したがって、正義とは、特定の社会を構成している諸原理の体系のもとで、ルールを遵守し、ルールに規定されている各人の権利を尊重し、権利に伴う債務を果たすことである。シュクラーは、 こうした正義論を正義の通常モデルthe normal model Of justiceとし、それを配分的正義distributive justiceと言い換えている(Shklar 1988 : p. 17 ) 9 )。
ところで、思想史を振り返るならば「正義」とは何かという問いは、プラトン以降西洋政治哲学の重要な問いの一つである。そして、わたしたちは、すでにアリストテレスが『ニコマコス倫理学』の第五巻において、共同体にとっての幸福や共通善を志向する状態である完全な徳としての一般的正義general justiceと、均等equal/fairに関わる特殊的正義particular justiceを分類していることを知っている。そこでの議論の焦点は、後者の特殊的正義であるが、 こでは後ほど現代の正義論の特徴を考える際の前提として、アリストテレスがこの特殊的正義をどのように語っていたかを簡単にではあるが確認しておこう。
周知のようにアリストテレスは、特殊な正義を、配分的正義distributive justiceと矯正(整正)的正義corrective/ rectificatory justiceにさらに分類している。配分的正義は、個人の価値に応じた配分を「正」とするものであり、そのためつねに共同体における個人の価値を巡る議論が配分的正義におけるテーマとならざるを得ない(0)。他方の矯正的正義は、市民相互の関係において不当な「利益」と「損失」とを整正し、均等の回復をめざすものである。よって、訴えが生じた場合、考慮されるのは当該の事件が当事者間に与えた「損得」であり、共同体における個人の価値は問題とならない1 1 )。
以上のアリストテレスの特殊的正義の定式から、なぜシュクラーが正義の通常モデルを、矯正的正義ではなく、配分的正義と考えているのかは明らかであ
矯正的正義は、,損失を量的に換算し、当該行為以前の加害者と被害者とのあ
 
 
いだの関係性を回復することを目的としている。「彼女たち/かれらの社会的地位や富、あるいは性質がどのようなものであれ、当事者は、その取引/交換 transactionを始める時点で等しいと見なされている。・・・裁判で行われることは、理に適った取引から逸脱したと考えられる一定の量を、一方の当事者から他方の当事者へと移行させることによって、当初の平等を維持することである。その総量は、原告側の損失か、被告側の利得のいずれかを表している。そして、賠償の模範的なケースにおいては、利得と損失は同一となろう」(Weinrib 1988 : pp. 980-98D。矯正的正義の場合においては、当事者間の双方向的な相互関係は、当該事象に直接内在しており、それ以外の外的な目的はいっさい排除されていると考られている。したがって、矯正的正義には「政治は不在である」と考えられてしまう傾向がある( ibid. : p. 992 ) 12 )。
他方で、配分的正義は、ある配分の原理にしたがって、社会的協働によって生じた財と、社会における義務を各人の「価値」に応じて配分しなければならない。誰がどのような基準の下で一一たとえば、「必要」に応じてなのか、「業績」に応じてなのか、「徳」に応じてなのか どれだけの財と義務に「値するか」を決定する配分の原理は、まさに政治的な議論とならざるを得ない。「配分的正義においては、ひとびとの間の関係は、比例関係としての平等a proportional equalityにしたがって彼女たち/かれらに事物を割り当てるという基準によって媒介される」ために、「配分的正義とは、政治的なるものの発祥地/拠点であるthe home研the political is distributive justice」 (ibid. : p. 988 )。
そして、じっさいに政治思想史において、矯正的正義はほとんど議論の対象にされてこなかった。矯正的正義ではなく、配分的正義が正義論の主要なテーマとなってきた理由は、配分的正義をめぐる議論においては必ず、特定の社会に生きる個人の善、共通善、社会的共同性を巡る価値判断が伴うからである。善goodよりも正rightを優先し、特定の社会への帰属や共通善から正義論を切り離そうという現代のリべラリズムの試みもまた、社会的共同性に対する価値判断の一つであると考えれば、リべラリズムにおけるアトミズムを早くから批判してきたチャールズ・テイラーの次の言葉は、配分的正義とは政治的なるものの拠点であることを言い得ているといえる。
配分的正義について様々な諸原理が提出される理由は、人間の善とは何かについての考え方の違い、さらには、善を実現するためにひとがどれほど社会に依存しているかについての考え方の違いにある。したがって、正義をめぐっての深い対立は、わたしたちがその正義論の根底にあるひとと社会に関する考え方を見定め、直視するとき初めて、明らかになるだろう(Taylor 1985 : p. 291 )。
このように、正義論といえば、配分的正義の諸原理をめぐる議論であると政治思想史上は考えられてきた。
それでは、現代の正義論において、配分的正義の諸原理はどのようにして導き出されてくるのかをつぎに考えてみよう。そのことによって、現代の配分的正義をめぐる議論の特徴を明らかにし、現代の配分的正義の論理が、シュクラーがリーガリズムとして批判する特徴を備えていることを指摘してみたい。

 バラダイムとしての「配分的」正義

現在の正義を巡る議論の興隆が、1971年に発表されたロールズの『正義論』に端を発していることはここで確認するまでもないであろう。また、『正義論』の画期的性格については、既に多くの研究によって言及されているので、立ち入ることはしない。第2節では、「政治的なるものの拠点」とまで言われる配分的正義が、ロールズに代表される現在主流の正義論においてはむしろ「政治的なるもの」の排除として----ー正義の諸原理は、政治的な論争には巻き込まれてはならない---・--機能してしまっており、シュクラーによって批判されるリーガリスティクな正義論であることを明らかにするために、ロールズの正義論の出発点である「正義の環境」に焦点を当てる。
ロールズの正義論は、つぎのような関心の下で展開されている。まず、 あらゆる個人は、他者の善のために自らの善の構想が犠牲にされることなく、平等
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に自由な道徳的人格として尊重されなければならない。しかしながら、そうした個人は一つの社会において他者と同じように自由に自らの善を追求することを保障されているがゆえに、じっさいには個々人の自由を制限することは避けられない。その場合、この制限は、自由を行使しようとする主体にとっては外在的なものであるのだから、強制という性格を持つ。 こに、個人にとっての自由の制限と相互的な強制が、配分的利益をもたらすような形をとるべきである、という正義を適用すべき基本的な状況が設定される(cf.ヘッフェ1994 :
391頁)。
ロールズ自身によれば、 こうした正義の環境the circumstances Of justice は、資源のおだやかな希少性の下で、ひとびとがそれぞれによく似た ーズと関心を抱いており、自分の関心に従って行為する一方で、互いに有利になるような協力が生じるような環境と定義されている(Rawls 1971 22 )。ロールズの関心は、そのような環境を正義論の前提として仮定することによって、あたかも、社会的地位、共同体、宗教、階層、属性を考慮することのない「無作為に抽出されたある者の視点から」選択をし、すべての個人にとって理に適っているreasonableと納得できる正義の原理を導き出すことであった(ibid:pp.
139 / 107 )。各個人が自らの願望にそった原理を選択する完全な自由を保ちつつ、すなわち、自然や社会の偶然性から独立して-----自律的に一一原理を選択したのであれば、その原理は正義に適っているはずだからである(ibid. : pp. 255 / 197 )。
ロールズの正義論の出発点にこうした仮想的なーっの理想状態が設定されるのは、現実の社会において「各人は、誕生したときにある特定の社会の、ある特定の地位に自分が置かれており」、さらには「この地位の性質は、そのひとの人生の見通しに実質的な影響を与える」ことを問題にしつつ、なお、自律的な個人の自由と平等を確保するために必要な、手続き上の方法論であるからである(cf. ibid. :pp. 13/10)。だが、先ほどテイラーが述べたように こうした正義の環境にもまた、現代リべラリズムに特徴的な「ひとと社会に関する考え方」が反映されている。
リべラリストのひとりとしてロールズもまた、ある社会において、ひとが自然や社会の偶然性から独立して、自律的に個人の生の目的・人生設計を選択し得る原理を模索していることはすでに確認した13 )。そのさい、ロールズが仮定している自律的個人とは、じっさいの経験的世界においてはどうであれ、自由で平等に扱われるべき個人であり、そうであるからこそ、ロールズが構想する社会は、各人が自らの自由を追求しながらも協力し得る社会として構築される。ではそうした社会において、自由で平等な諸個人は、他者との関係でいかなる責任関係の中に置かれているのであろうか。
まず、自由な個人という理念によって含意される責任とは、その個人が合意した上で行ったこと、あるいは、自発的に自らがなした行為に対する責任に限定される。責任が、個人の自由意志に基づいて行われた行為の範囲に限定されていることが意味しているのは、たとえば属性などを理由に意志に反して責任を負わされることがなくなるために、「個人は自らの運命をコントロールすることが可能となる」ということである(瀧川1999a : 120頁) 14 )。すなわち、個人の自由を保証するためには、責任をとるべき対象は個人の意志に基づいた行為に限定されなければならない。そして、幾度も確認したように、ロールズの正義論において、個人は何よりも社会の偶然性から自由に、つまり自律的に選択し得る存在として想定されているために、「自らの自由な選択の結果について、その責任を取る」といった自己責任の原則が、厳守されることが可能となるのだ。自由であるからこそ、そこに個人の責任が生じる。あるいは、責任を取る/取り得る個人は、自由なのだ。
つぎに、平等な諸個人という理念は、自由と責任の連関と密接に関係しており、あらゆる人は、個人の選択・自由意志に基づいた行為以外の属性、すなわち、性差や人種、出自などを理由に責任を問われることがない、という責任概念を含意している。平等を保証するためにも、責任は自己責任に限定されなければならないのだ(ibid. )。たしかに、ロールズにおける正義の諸原理の中には、格差原理が含まれており、社会の構造に刻み込まれた不平等を是正してゆく契機を持っている。しかし、かれの構想は、不平等を生み出す社会構造を変
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革するというよりも、その構造から生ずる不平等を不平等が生じてしまった後に、不平等な財の配分によって是正しようとする。社会における大きな個人間格差は、むしろ、自己責任という原則の機能不全を招くであろうから。よって、あくまで、正義の諸原理を貫いているのは、社会に対する責任ではなく、自己責任の論理であることは強調しておいてよい。
 リーガリスティクな正義とく無〉責任の論理
 こまでわたしたちは、アリストテレスによる正義の分類に触れ、ロールズにおける「正義の環境」という正義の諸原理が抽出される正義論の前提に焦点を当てながら、そこから導き出される社会と他者とのあいだに結ばれる責任関係が、自己責任の原則が貫かれる関係であることを明らかにした。第三節では、本稿の初発の問い、すなわち、なぜ、法的な観点にたっとlegally、日本政府が従軍<慰安婦〉問題に対して無責任であっても、正義に悖ることがないのか、という問いに応えてみたい。そのため以下では、配分的正義を中心とした正義論を三つの観点から批判する。
第一に、そもそも現代の政治理論において正義論を牽引してきたのが、配分的正義であり、アリストテレスがもうーっの特殊的正義として提起していたはずの矯正的正義には関心がまったく示されていない、という問題がある。法における形式主義の積極的意味を追求するワインリプを参照することで確認したのは、一つの行為がなされ、そのためにその行為以前の当事者間の関係性が破綻した場合、その行為以前の関係を回復するrestoreことが非常に容易になされ得る、と確信されていることである。アリストテレスも関係の修復を、算術的比例によって、つまり損得の計算によってなし得ると考えたように、そこにはいっさいの道徳的・政治的判断は介入しないのだ、と。しかし、こうした確信がほとんど盲信に近いことは、現在とくに少年法の分野を中心に関係修復的正義/司法restorative justiceが注目されていることからも明らかである15 )。
まず、こうした盲信は、複雑な外界との関係のなかで育まれるひとのアイデンティティに関する議論を全く考慮に入れていないことから生じている。なによりも、ある出来事について責任が問われるのは、その過去が取り返しがっかないからに他ならない。「過去の変更不可能性は責任実践の前提条件でさえある」(瀧川1999b : 1709頁)。そして、取り返しのつかない たとえば、従軍 <慰安婦〉にさせられ、1991年になって初めて公式に被害を訴えた金学順さんの言葉、「私の人生がこんなになったのは日本のせいです」を思い出してみよう-ー--ー結果をもたらされたその人は、「今ここ」にはもう存在しない。なぜなら、「今ここ」にいる彼女は、ある出来事によってもたらされた取り返しのつかなさのために、自らの生きる目的や人生設計という日常の選好を左右する「高階の欲求」にも、また変容を被っているのであるから(大川2000 : 206頁)。だからこそ、取り返すことのできない決定的な変容に対して、いかなる責任がとられるべきかについては、ワインリプのいうような被害における損失と加害における利得が一致することを前提とした数量的な計算ではなく、道徳的・政治的判断を下さざるを得ない。
たとえば、第二次世界大戦中の合衆国における日系アメリカ人の強制収容に対するリドレス(賠償)を巡って、ミノウははっきりと、賠償によっては社会的関係性は修復され得ないとして、つぎのように述べている。
金銭あるいは、その他の財をもってしても、それはせいぜいのところ、その侵害行為の後の不作為と沈黙とを終わらせるにすぎない。さらには、金銭は、失われたものとは通約不可能であり続ける。たとえ理念の上でさえ、そして、言うまでもなく実際上は、賠償は、侵害以後の被害者の回復、あるいは、[かれらがそれ以前に結んでいた]社会的関係性の修復には届かない( M ⅲ ow 1998 : pp. 102ー103 )。
さらに問題は、矯正的正義においては、かならずある時点が行為の起点として設定され、訴えがなされた時点と比べ、当事者間の関係性がいかに変容したのか、という比較がなされなければならない。しかし、 こでも、当事者間の関係性において、いったいどこに関係性の起点を置くのか、という判断は、「事後的に」過去に遡るしかないために、じつは現在における道徳的・政治的
 
的な判断からは無関係ではあり得ない。さらに、行為の起点を設定し得た しても、その起点から派生した諸々の帰結のなかで、何が賠償の対象となるのかならないのかは、やはりつねに、その時々の判断に任されている(Rosenfeld 1992 : ppユ85-194 )。
それにも関わらず、矯正的正義が政治的イシューではなく、あたかも予め設定された計算表によって解決可能であるかのように語られてきた一-ーあるいは、矯正的正義がそもそも問題として語られてこなかった のは、「何らかの出来事が生起し、その出来事から受けた何かを不正と感じ、その不正の感覚を社会問題として言い表す者の存在、その者たちの声」が、政治的な議論の場からかき消されていたからに他ならない(大川1999 : 9頁, cf. Shklar 1988 : pp. 35-40 )。
第二に、現代の正義論の特徴である自己責任は、過去からの声に応えられないだけでない6 )、現存する社会における不正を改革していこうとする正義の要請にも応えられない。この限界は、そもそも自己責任とは、現実はどうあれ個人は平等で自由である/あたかもすべての人は平等で自由であるかのように扱われなければならない、という規範的な想定から演繹されているにも関わらず、その理念的な自己責任の原則を、現実の社会の構成原理としても採用してしまう、というズレから生じる。
ロールズの関心は、社会の基本構造を、自由で平等な道徳的人格に基づかせながら構築することであった。この関心はかれの社会契約論的アプローチから必然的に生まれてくる関心である。なぜなら、もし社会制度がまったく新しく構築されるとすれば、合理的なひとびとはいったいどのような制度に合意するのだろうか、と問うことは、社会の基本構造に対して関心を向けることにならざるを得ないからである。しかしながら、ヤングが正確に批判するように、社会の基本構造に焦点が合わされることによって正義論は、皮肉にも現実の社会制度を批判的に検討し、そのうえでよりよき方向へと改革していく、といった緊張感を失ってしまう。ャングが端的に定義している社会正義、すなわち、
「制度化された支配と抑圧の除去」ではなく(Young 1990 : p. 15 )、配分的正義が現代の正義論におけるパラダイムとなっているのは、現代の正義論の大半が、現状をまず括弧に入れ、「あたかも」新しく社会制度を作り上げることが可能であるかのように議論を展開するからである。したがって、正義に適った原初状態から導かれた原理や諸ルールの体系の中に、過去の不正に対しては言うまでもなく、現在の社会構造の中に残存する支配や抑圧に対抗し得る原理が含まれているはずがないのである。関心は、これから不正が行われないための原理はどうあるべきかであって、かって行われた、あるいは現在行われている不正にどう立ち向かうかではない。「ロールズとかれの後継者たちは、配分的正義に焦点を当てることのによって、あまりに多くの支配を巡る論争点に対しては目隠しをされ続けているのだ」(Sapiro 1999 : p. 232 )。
最後に批判されるべき点は、シュクラーが批判するリーガリズムの問題である。換言すれば、何が各人のものであるかを規定する諸ルールを発見し、そのルールは政治的、道徳的な価値とは独立して存在していると仮定し、よって、その発見されたルールに従っていさえすれば、正義に適った状態である、と考えてしまうことの問題である。第一、第二の批判点とも密接に関係しているリーガリズムの問題を詳しく検討するために、まず、シュクラ-の『不正義の相貌』における議論を引き受け、さらに展開させているヤックの主張を長くなるが参照してみよう。
法的な判断legal judgmentとは、社会における意見の相違や軋轢が存在する場合に、そうした状態に対応し得る諸規範を発見し、かっ適用しようとする。同じように、正義について最も有力な理論は、正義に関する基準をめぐって、すなわち、どの基準を最良のものとして選択するかをめぐって競合する複数の主張に対して判断を下せるような規範を発見し、それを適用しようとする。・・・裁判官たちが裁きを下そうと努力することによって実際になしていることは、正義の受動的な徳 the passive virtue of justiceを働かすことができるようにと、手助けをすることである。というのも、そうした努力によって、わたしたちが忠実に、かっ公平無私に従うことができる、はっきりと確定された一連の基準となる法が、わたしたちに与えられるからである。判断を下そうとする道徳哲学者、政治哲学者の努力もまた、同じような目的を達成しようとしている。わたしたちに、はっきり 確定された一連の規範を与え、その規範に従い正義についての競合する諸見解を評価することで、かれらは、正義にとって不可欠の基準を選択する際に、正義の受動的な徳が行使されることを可能にしているのだ。正しい基準から逸れてしまわないためには、わたしたちは、ただ、忠実に、かっ公平無私にそうした一連の規範に従っていれさえすればいいのだ( Yack 1996 : pp. 196ー197 )。
ャックによれば、正義を考えるさいに、わたしたちの日常の社会・政治生活における経験を反映した二つの対照的な反応が存在し、それぞれの反応は異なる正義論へと結びついている。ャックは、その二つの正義論を、シュクラーの『不正義の相貌』における不正義の分類に習いつつ(Shklar 1988 : esp.pp. 40-50 )、積極的正義と受動的正義とに分類する。受動的正義とは、能動的に自ら既存のルールを破る積極的不正義を行わないこと、つまりルールに従っている状態を意味し、他方で、積極的正義とは、その原因が何であれ他者の苦痛や、自らが手を下したわけではない社会の不正をただ傍観している状態 シュクラーにおける「受動的不正義」を働いている状態 を脱し、人びとが被っている苦痛や不正を積極的に除去していこうとすることである。「積極的正義とは、わたしたちのあいだにそうした熱情を喚起するのであり、他者に対する危害を避けるために自らの力と能力を最大限に発揮しようとする者たちの徳であ ラい換えれば、シュクラーが受動的不正義と呼ぶところのものを避けようと最大限の努力を為す者たちの徳である。対照的に、受動的正義は、より冷めたcolder、わたしたちにはより馴染み深い正義の形態であり、法とすでに承認された標準的な正義に忠実に偏りなく従うひとびとの徳である。言い換えれば、積極的不正義を避ける人びとの徳である」(Yack 1996 : p. 192 )。
ロールズが正義の諸原理を発見し得ると考え、合理的個人がその原理に従い行動することが正義に適った状態だと考えたように、受動的正義とは、すでに規範として承認された正義と法に忠実である、という徳を意味している。この徳に対応する不正義とは、既存の法や正義を破ることであり、積極的な不正義 active injusticeである。すなわち、自らが能動的にルールを破らない限り、正義の状態は保たれる、と判断するのが、受動的な正義感覚である( cf. Yack 1991 )。
しかし、 こで第一、第二の批判を思い出そう。つまり、自ら積極的に既存の正義の原理を破らないことは、積極的に社会から支配や抑圧を除去することと決して同じではない、ということだ。同じではないどころか、むしろ、受動的正義を正義という徳そのものである、と考える正義感覚は、わたしたちがいかなる場合に正義を求め、また、どのようにしてじっさいに不正義がなされるか、についての感覚を鈍磨させてしまう。
まず、わたしたちがく通常〉、正義を求める場合を考えてみよう。その場合の正義は、配分的正義パラダイムが想定するような、「公正としての正義」ではないはずだ。つまり、ある行為がなされた/ある出来事に巻き込まれた事後に、自らが被ったと感じている不正、加害、苦痛を取り除いてくれ、というために、わたしたちは正義に訴えるのではないだろうか。「わたしたちが不正について不平を述べるとき、わたしたちは、自分たちの生活に影響を与えるような権力が利用され続けてきたことに不平を述べているのだ。正義がなされることを要求するとき、わたしたちは、ある特定の権力の行使を求めているのであって、それによって、他者からの危害に苦しんでいる状態を正し、そうした受苦を防いでくれるよう求めているのだ」(Yack 1996 : p. 199 )。
不正・加害・受苦を被った、がゆえに、わたしたちは正義に訴える。この単純なわたしたちの正義感覚が、正義の通常モデルに反映されていないのは、正義の通常モデルが不正義についてあまりに無頓着であるからに他ならない。なぜなら、正義の原理が設定される正義の環境には、そもそも不正義は存在していなかったのだから。しかし、じっさいわたしたちが生きている社会は「抜きがたい不平等からなる世界」であり、そのために、わたしたちの「不正義の感覚と不正義の源泉はけっして無くならない」(Shklar 1988 : p. 84 )。特定の個人に責任を帰すことができない構造的な不平等ゆえに、ある者が配分を決定する権力を握り、配分を行い、その他の者は、はその者の決定に依存せざるを得ない状態において、わたしたちは不正義を被っていると感じる。さらに、そうした状態は、何らかの規範に背いている訳ではないから「不正ではない」、 正義の通常モデルに従って判断されるなら、なおさら、わたしたちはそこに不正義を感じるであろう。だが、その場合の不正義とは、ある者の不正義の感覚や受苦を積極的に除去しようとはしない不正義、つまり、シュクラーやャックが看破したように、正義の通常モデルにおいては看過しても「不正ではない」と判断されてしまう受動的不正義である。ャックは、現代社会において構想されるべきであるのは、そうした受動的不正義を取り除く正義、つまり自己責任の原則からは導き得ない正義であり、かれは、そうした正義を法的な正義とは区別して、積極的正義と言い換えるのである。

結びにかえて:積極的正義の構築に向かって

本稿では、現代正義論を牽引してきた配分的正義をパラダイムとする正義論が、ある社会の構造に刻まれてしまっている不正や過去になされた不正に対して応答することが不可能な責任体系を想定していることを明らかにした。そして、一般的に正義が配分的正義として理解される限り、わたしたちは、自分が自由になしたわけではない行為の責任を取る必要もないし、責任を取って欲しいという呼びかけに応えないという選択をしたとしても、それは積極的に既存の規範に背くことでもなく、正義に悖ることもない。したがって、配分的正義論を正義の通常モデルとする正義論の立場に立てば、日本政府が従軍「慰安婦」問題に対して無責任であっても、正義に悖ることがないという結論が導かれるのである。
しかし、第三節で三つの観点から批判したように、一見わたしたちにとっても馴染み深いこの正義の通常モデルは、「正義の環境」という実際には存在しない環境を前提としたうえで導き出されてくるものであり、現実に不正がなされている、さらには不正を被ってきた多くの人びとが存在する社会をいかに変えていくのか、という要請に対しては応えることができない。そもそも、支配や抑圧が現存することが、正義のモデルを構築するさいに想定されていないのだ。従軍く慰安婦〉問題がわたしたちにもたらした光は、正義の通常モデルと呼
ばれる受動的な正義は、歴史的に形成されてきた現存の社会構造に抜き難く埋め込まれている不平等や、抑圧、支配関係を前にしても、変革に向かう方途を示してくれない、ということを明るみにだした。なぜなら、そもそも正義の諸原理を導き出すさいの前提( =正義の環境)が誤っているのだから。そして、なぜそのような誤りを犯してきたのか、については、すでにシュクラーによって端的に指摘されている。「正義の通常モデルは、不正義とその犠牲者とはいったいどのようなものなのか、について本当には探求してこなかった」のだ、と(Shklar 1988 : p. 49 )。
従軍く慰安婦>問題は、主流の正義論が、リーガリスティクな思考方法によって正義論の射程を狭め、不正義とは「不合理さ、貪欲さ、恐怖、無関心、攻撃性、そして不平等」から生じていることから目を逸らしてきたことを、わたしたちに告げている( ibid. )。本稿では、 シュクラーを参照しながら、正義の通常モデルを批判することに終始した。今後筆者に課せられているのは、正義に適った社会を前提にするのではなく、不正が行われ、そして現に不正を被っている人が存在することから出発することで、ヤックの提起した積極的正義のモデルを構想する、という課題である。その課題は、換言するならば、「道義的責任はあるが、法的責任はない」とする現在の日本政府の見解が端的に表している、分断された道義的責任と法的責任を架橋するような新たな正義論を模索することになろう。

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1 )現代における国際法の新たな流れとして、阿部( 200D参照。阿部によれば、近代国際法の支配的理論である自由主義思想は、法規範を普遍的で客観的、かつ中立的なものとして提示するが、しかしその「「中立性」のヴェルの陰に控えていたのは、端的にいって、国家=支配ェリート中心主義・欧米中心主義・男性中心主義・現在中心主義という政治的価値であった」(ibid . : p. 19 )。こうした近代の国際法概念に対し、国家のための国際法ではなく市民にとっての国際法を模索する阿部は、国家の強制力を持たない民衆法廷であっても、あるいは、民衆法廷はそうした一国の強制力・利害関係から自由であるがゆえに逆に、それは、国際法に対して高い規範的価値を付与するのだ、として注目すべき理論を展開している。
2 )一九四九年のジュネープ第四条約二七条においては、女性に対する暴力は、「保護」と「名誉」という観点から規定されていた。つまり、「名誉パラダイムを用いることで、
 
純潔、潔白、処女性という観念と結びつき、女らしさというステレオタイプ」が、人道法の中にもしつかりと根づいていたのである。だが、1977年に、ジュネーブ諸条約・第二選択議定書において、「名誉」に対する侵害から女性を保護する、といった名誉パラダイムは、「個人の尊厳に対する侵害」パラダイムへと転換を遂げている。この点については、クマラスワミ( 2000 ) 146ー164頁を参 
3 )関釜裁判高裁判決に関しては、2001年度法社会学会学術大会( 2001年5月13日於お茶の水女子大学)第一分科会(『国家の責任/成員の責任』)の報告においていち早く判決文を重要資料として提供してくださった大越愛子さんから多くのご教示を得た。ここに記して感謝に代えたい。
4 )大日本帝国憲法二七条とは、第一項「日本臣民は其の所有権を侵さるることなし」、第二項「公益の為必要なる処分は法律の定むる所に依る」として、臣民の所有権を定めた規定である。
5 )二十九条三項の解釈をめぐっては、とくに予防接種事故に対する補償請求おいて、本判決が依拠する「国の行為による生命・身体に対する侵害は、日本国憲法二九条三項の解釈上、これを補償の対象に含めることはできない」という見解が判例上も学説上も有力である。その趣旨は、「私有財産権」の収用について定めた二十九条三項を、生命・身体の特別の犠牲に対する補償に適用するのであれば、あたかも生命・身体までも補償さえすれば収用できることになりかねないからである。ただ、「生命・身体に対する侵害についても、二十九条三項を根拠として補償請求できる」という「肯定説」も学説としては存在しており、また、地裁レヴェルでは、「財産権の特別犠牲に比べて不利に扱われる合理的理由はないため二十九条三項の類推適用を認めるべきであるという立場」(一九八四年東京地裁)、「財産権の侵害に補償が行われるのなら、本来犯してはならない生命、身体への侵害に補償がなされるのは当然であるから、二十九条三項の勿論解釈をとるべきであるという立場」( 1987年大阪地裁)を採用した判決が下されている。肯定説を採る学説にいては、生命・身体の重要性からすれば勿論解釈が妥当であるとする、辻村( 2000 ) 285頁を参昭 
6 )自然法論に対する批判から始まるケルゼンの純粋法学については(ケルゼン1975 )、純粋法学の限界は、「先験的な当為命題の記述のみにかかわり、事実世界に属する現実とは切り離されている」点と、「一切は事実の世界に属するか意思の世界に属するかの
 
いずれかであって、その中間にある、言語を通じて制度的に構成された社会的事実の世界などといったものは思考の可能性の外側にしかなかった」という点である、と指摘する中山( 2000 ) esp. 17-25頁(強調は原文)を参照。また、ケルゼン自身は、つぎのように純粋法学がなぜ「純粋」と呼ばれるかを説明している。「それが法の「純粋」な学と名づけられるのは、純粋法学が法の認識のみに注意を傾け、厳密には法と呼べない一切のことがらを、その認識対象から排除しようと努めるからである。純粋法学の目的は、法律学を諸々の異質な要素から解放することである。これが純粋法学の方法論の根幹にあるものである」(cited from ibid. : p. 2 )
7 )「女性国際戦犯法廷」判決要旨2 5を参照。「一般的国際法のもとでは、国家は、国家の行為に起因し、かっ他者の正当な利益を害するすべての不法行為について国際法上の責任がある。国家が国際法的不法行為を犯すとは、国際法の適用可能な規範に違反する行為を国家が行うことである。日本国家は条約に基づく責務と国際慣習法に基づく責務の両方に違反する行為をしてきた。ある行為が、国家の国際的責務に違反する行為である場合、国内法では合法と認められていても、それによって国際法のもとでは合法と認められない」(認定の概要2001 : 237ー238頁)。
 こうした議論を踏まえて、今後筆者が考えてみたいことは、リーガリスティクな思想や政治思想史のなかで論じられてきた正義論からは応答することが困難であると思われる従軍く慰安婦>問題は、逆にリーガリスティクな思想や主流の正義論の限界を露わにしているのではないか、ということである。そして、そうした限界を問い返すことこそが、彼女たちの呼びかけに応答することであることを確認し、ある不正や不正を被ったひとびとに対する責任が果たせないことを「致し方ないのだ」として無責任に容認してしまうことに対抗し得る正義概念を「政治的正義」として提起してみたい。本稿では、紙幅の関係上そこまでは論じることができなかった。
9 )シュクラーの正義の通常モデルについて詳しくは、大川( 1999 ) 46-53頁を参昭 
10 )アリストテレスの言葉を借りれば、「共同的なもろもろの事物の配分にかかわるところの配分的な「正」は常に上述のような[ギリシア数学における幾何学的比例、現在の意味における比例-筆者-- ]比例に即している。事実、共同的な資材に基づいて配分の行われる場合にしても、その正しい配分は当事者たちの寄せた資材の相互の間に存する比とまさに同じ比に即して行われるであろう」(アリストテレス1973 : 1131b頁)。
 「よきひとがあしきひとから詐取したにしてもあしきひとがよきひとから詐取したにしても、また、姦淫を犯した者がよきひとであるにしてもあしきひとであるにしても、それはまったく関係がない。・・・法はかれらをいずれも均等なひとびととして取り扱う」 (ibid. : Ⅱ 32a頁)。
(2)ワインリプが議論の前提としているのもやはりアリストテレスであるが、アリストテレス自身は、単純な損得による均等化は困難であることに気づいている。たとえば、それは、かれが矯正的正義は応報ではない、と述べる点にも見受けられる。なぜなら、矯正的正義においては、法は当事者を均等なequalひとびととして扱い、もつばら問われるのは、一方が何をしたのか、他方がどのような不正を蒙ったかであるといっているにも関わらず(アリストテレス1973 : 1132a頁)、のちには、「支配的な位置にあるひとが殴打した場合には、彼は殴打をもって報いられることを要しないし、もし支配者を殴打したのであれば、彼は単に殴打されるにとどまらず、その上になお懲罰を受けなくてはならぬ」と述べているからである(ibid. : p. 1132b20 )。この点について、アームソンは、「手足を失うような損害を補償する場合は、矯正の正義の適用は容易ではない。アリストテレスもこのことは認めていて、このような場合には損得という用語自体が不自然であると言う。 これは、現在でもよく議論される問題であり、アリストテレス
の頃とさほど変わっていない」と論じている(アームソン1998 : 128-129頁)。
13 )さらに詳しくは、「公共性の哲学としてのリべラリズム」を論じる(井上1999 : esp. chap. 3 )を参照。また、規範としてのリべラリズムが、「現在の社会は、じっさいに個人を平等で自由な存在として扱っている」という記述の様式へと移行していった場合に、そもそもリべラリズムが持っていた批判力が失われ、ある者たちに対する抑圧へと反転してしまうことを批判した、岡野( 200Dも参昭 
14 )ーっの行為の責任がある個人に帰せられるということは、カントにしたがうならば、ある人がある行為-一-その行為は行いと呼ばれ、法則のもとにある-----の創始者causa liberaeとみなされるという判断である。したがって、自己責任はつねに自由な人格を前提としており、自由な人格と帰責能力が存在するがゆえに、自分の運命を自分でコントロールできる、という自己支配の能力が導き出される(cf.有福1985 )。
15 )関係修復的正義(回復的司法)については、歴史的、組織的に社会に深く刻み込まれた不正義によって社会が分断されている状態を未来に向かっていかに変革していくのかという観点から、たとえばアパルトヘイト以後の南アフリカ共和国における真理和解委員会の取り組みを論じる、Minow ( 1998 )と、Rotberg & Thompson ( 2000 )を参照。また、現在日本でも、少年法の分野において、回復的司法は新しい司法の動向して注目されている。なお、少年法における回復的司法に関しては、葛野尋之さんから多くのご教示をいただいた 
 こでの「過去」とは、けっして「かって現前していたwas presentもの」だけを意味していない。むしろ、 こでの「過去」とは、これまで一度も現前してこなかったものの「痕跡」という意味である。たとえば、文中に触れた金学順さんの言葉は、その言葉に出会う前にはわたしにとっては一度たりとも現前していたことはなかったのであり、現在わたしが出会っている彼女の言葉は、彼女の「過去」というく非在〉の痕跡でしかない。
〔引用文献〕
阿部浩己( 2001 )「女性国際法廷が映し/創り出したもの 国際法学の地平一一一」季刊戦争責任資料第32号.
有福孝岳( 1985 )「支配の基礎とその逆接 支配・自由・責任-ーー」大森荘蔵ほか編「行為、他我、自由』岩波書店.
アリストテレス( 1973 )『ニコマコス倫理学』(高田三郎訳)岩波文庫; The Ⅳな加〃  cんeの2 Ethics , trans. by H . Rackham, Harvard University Press, 1926.
アームソンJ . O. ( 1988 )「アリストテレス倫理学入門』(雨宮健訳)岩波書店.
ヘッフェ,オトフリート( 1994 )『政治的正義』(北尾=平石=望月訳)法政大学出版局.
井上達夫( 1999 )『他者への自由』創文社.
ケルゼン,ハンス( 1975 )「正義とは何か』(宮崎=上原=長尾=森田訳)木鐸社.
クマラスワミ ラディカ( 2000 )クマラスワミ報告書研究会「国連人権委員会報告書女
 
 
 
Minow, Martha (1998) , Between Vengeance and Forgiveness , Boston : Beacon Press.
 
Rosenfeld, Michel (1992) , "Deconstruction and Legal Interpretation" in ed. Cornell et . al, Deconstruction and the Possibility of Justice, NY : Routledge.
Rotberg, I . R. and Thompson, D. (2000) , Truth V . Justice, Princeton and Oxford : Princeton University Press.
Sapiro , Ian (1999) , Democratic Justice, New Heaven and London : Yale University Press.
Shklar, Judith (1964) , Legalism , Cambridge, Massachusetts : Harvard University
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  (1988) , Faces of Injustice, New Heaven : Yale University Press.
 
Taylor Charles (1985) , "The Nature and Scope of Distributive Justice, " in Philosophy and The Human Science : Philosophical Papers 2, Cambridge and NY : Cambridge University Press.
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Young Iris, M. (1990) , Justice and the Politics of Difference, Princeton : Princeton University Press.
 
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to trivialize, excuse, marginalize and obfuscate crimes against women, particularly sexual crimes. I want to consider in this paper the new perspectives that will be opened by the spirit of this tribunal.
Politics of State Responsibility: An International Law Perspective
Abe, Kohki
Breaking five decades of silence, Asian women courageously emerged in the public arena as survivors of Japanese military sexual slavery. The immediate response of the Japanese ruling elite was a blatant disregard of their voices and yet another imposition of silence. Under the circumstances, one fundamental challenge facing international legal scholarship is to make an inquiry into the legal implication of silence consistently forced on victimized survivors. ft necessarily ignites a process of re-examining the value premises which dictate the purposes and beneficiaries of the international law.
Behind the forced silence is classical liberalism, the dominant theory of international legal studies. Justifying legal regulation based on the ideas of consent, liberty and equality of states, classical liberalism continuously reproduces the preeminent concept of elitism in international society. The fulcrum of this theory may be broken down into four "isms": euro-centrism, andro-centrism, statism and presentism. Under the pretense of objectivism and stability of legal order, classical liberalism strenuously backs up the ruling elites' inhumane response of suppressing survivors' desperate calls.
Vibrant streams increasingly visible in international legal scene in the 1990', represented inter alia by the Australian-led feminist school, effectively debunks the value premises of mainstream international legal studies, thus leading a world-wide movement to "open up" otherwise closed international law. Deliberately un-silencing voices of the "Others", i.e. non-Europeans, women, citizens and the past(and the future) generations, the new movement has brought forth a welcoming progress in international law in such areas as human rights and humanitarian law. Commonly observed in a number of litigations filed by survivors of Japanese military sexual slavery against the culpable government is a call for the deconstruction of international law so that the voices of the Others are secured therein. Clearly, their call synchronizes the world-wide legal movement to reshape international law.
This essay is intended to portray the value premises and legal implications behind international law arguments presented in connection with the issue of Japanese military sexual slavery. Reference is made as well to a Peoples' Tribunal, the Women's International War Crimes Tribunal 2000 in Tokyo, which in the view of the author, is a manifestation of the dynamic process to open up international law to citizens and women, whose agonies have been unheeded in the state-centered, patriarchal international legal scene.
Summery of "A Theory of Justice/ A Theory of Irresponsibility"
Okano, Yayo
The purpose of this essay is to explore the influence of "legalism" on the judicial judgment concerning the issue of ex- "comfort women." It is a very simple question that I would like to answer by examining the legal concept of justice within the context of contemporary North American political theory. That
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is, why can the government of Japan and most Japanese people believe that the government of Japan does not have to take any legal responsibility in response to the claims to justice from ex. "comfort women," even though they say that it does have a moral responsibility? Why is it "not unjust" to ex-comfort women from the judicial point of view that the Japanese government has been refusing to take any responsibility for the horror of the Japanese military's institutionalization of sexual slavery during the War?
Firstly, I define the character of "legalism" in accordance with the criticism of "legalism" by Judith Shklar. She asserts that legalism treats law as an entity distinct from all political moral and values. She also equates the normal model of justice which legalism presupposes with distributive justice. When we look back to the history of theories of justice, Aristotle identified two forms of justice; one is distributive justice and the other, corrective. However, as we see in contemporary arguments on justice, especially after John Rawls' A Theory of Justice, the latter seems to have been curiously dismissed. Because distributive justice means proportional equality or fairness within the context of the particular political institution, it necessarily reflects the concept of common good within the community. On the other hand, corrective justice tends to be ignored or regarded as having nothing to do with the political. In this sense, we can understand the reason why Shklar equated the normal model of justice with distributive justice.
Thus, theories of justice, have been focusing on the matter of what just principles of distributive justice are. However, this tendency is blinkered to many issues about domination and past injuries which have not yet been rectified. If we are responsive to existing social relations where inequalities or domination have not been swept away, we need to take seriously the political problem on how we can reshape them as a crucial issue of justice.


Divided Society and Security of Life
Saito , Jun-ichi
From the 1880's to the 1970's, the concept of the social could have a stable reality. The social (welfare state) and the national(nation state) were seemed as an almost same entity in this period. In the end of 1970's, however, the concept of single and integrated national society began to loose its reality, and to divide itself into two distinct parts; "two-thirds society" and "one-third society". The former consists of people who can keep "job security" and sufficient security of life provided by private pensions, private medical insurance and so on, while the population of the latter are deemed as the so-called "underclass". Poverty, incivility and quasi-criminality are connected implicitly in describing them as a irresponsible and therefore risky group. The system of social security underwent radical changes in these twenty years in the direction of diminishing itself into the minimum level. With the decline of the one national society, those who are excluded are no more seen as an integral part of "us" but as a superfluous population. We could say that exclusion and abandonment have replaced inclusion and integration. We have to pay attention to problems caused by this kind of new social division, because the social criticisms in focusing on integration and assimilation of welfare. national state have lost its effectiveness largely. It seems to me that divided society is our new reality.
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引用文献 (45)
1) 現代における国際法の新たな流れとして、阿部 (2001) 参照。阿部によれば、近代国際法の支配的理論である自由主義思想は、法規範を普遍的で客観的、かつ中立的なものとして提示するが、しかしその「「中立性」のヴェールの陰に控えていたのは、端的にいって、国家=支配エリート中心主義•欧米中心主義•男性中心主義•現在中心主義という政治的価値であった」(「中立性」: p. 19)。こうした近代の国際法概念に対し、国家のための国際法ではなく市民にとっての国際法を模索する阿部は、国家の強制力を持たない民衆法廷であっても、あるいは、民衆法廷はそうした一国の強制力•利害関係から自由であるがゆえに逆に、それは、国際法に対して高い規範的価値を付与するのだ、として注目すべき理論を展開している。


2) 一九四九年のジュネーブ第四条約二七条においては、女性に対する暴力は、「保護」と「名誉」という観点から規定されていた。つまり、「名誉パラダイムを用いることで、純潔、潔白、処女性という観念と結びつき、女らしさというステレオタイプ」が、人道法の中にもしっかりと根づいていたのである。だが、1977年に、ジュネーブ諸条約•第二選択議定書において、「名誉」に対する侵害から女性を保護する、といった名誉パラダイムは、「個人の尊厳に対する侵害」パラダイムへと転換を遂げている。この点については、クマラスワミ (2000) 146-164頁を参照。


3) 関釜裁判高裁判決に関しては、2001年度法社会学会学術大会 (2001年5月13日於お茶の水女子大学) 第一分科会 (『国家の責任/成員の責任』) の報告においていち早く判決文を重要資料として提供してくださった大越愛子さんから多くのご教示を得た。ここに記して感謝に代えたい。


4) 大日本帝国憲法二七条とは、第一項「日本臣民は其の所有権を侵さるることなし」、第二項「公益の為必要なる処分は法律の定むる所に依る」として、臣民の所有権を定めた規定である。


5) 二十九条三項の解釈をめぐっては、とくに予防接種事故に対する補償請求おいて、本判決が依拠する「国の行為による生命•身体に対する侵害は、日本国憲法二九条三項の解釈上、これを補償の対象に含めることはできない」という見解が判例上も学説上も有力である。その趣旨は、「私有財産権」の収用について定めた二十九条三項を、生命•身体の特別の犠牲に対する補償に適用するのであれば、あたかも生命•身体までも補償さえすれば収用できることになりかねないからである。ただ、「生命•身体に対する侵害についても、二十九条三項を根拠として補償請求できる」という「肯定説」も学説としては存在しており、また、地裁レヴェルでは、「財産権の特別犠牲に比べて不利に扱われる合理的理由はないため二十九条三項の類推適用を認めるべきであるという立場」(一九八四年東京地裁)、「財産権の侵害に補償が行われるのなら、本来犯してはならない生命、身体への侵害に補償がなされるのは当然であるから、二十九条三項の勿論解釈をとるべきであるという立場」(1987年大阪地裁) を採用した判決が下されている。肯定説を採る学説にいては、生命•身体の重要性からすれば勿論解釈が妥当であるとする、辻村 (2000) 285頁を参照。


6) 自然法論に対する批判から始まるケルゼンの純粋法学については (ケルゼン1975)、純粋法学の限界は、「先験的な当為命題の記述のみにかかわり、事実世界に属する現実とは切り離されている」点と、「一切は事実の世界に属するか意思の世界に属するかのいずれかであって、その中間にある、言語を通じて制度的に構成された社会的事実の世界などといったものは思考の可能性の外側にしかなかった」という点である、と指摘する中山 (2000) esp. 17-25頁 (強調は原文) を参照。また、ケルゼン自身は、つぎのように純粋法学がなぜ「純粋」と呼ばれるかを説明している。「それが法の「純粋」な学と名づけられるのは、純粋法学が法の認識のみに注意を傾け、厳密には法と呼べない一切のことがらを、その認識対象から排除しようと努めるからである。純粋法学の目的は、法律学を諸々の異質な要素から解放することである。これが純粋法学の方法論の根幹にあるものである」(cited from 「純粋」: p. 2)


7)「女性国際戦犯法廷」判決要旨25を参照。「一般的国際法のもとでは、国家は、国家の行為に起因し、かつ他者の正当な利益を害するすべての不法行為について国際法上の責任がある。国家が国際法的不法行為を犯すとは、国際法の適用可能な規範に違反する行為を国家が行うことである。日本国家は条約に基づく責務と国際慣習法に基づく責務の両方に違反する行為をしてきた。ある行為が、国家の国際的責務に違反する行為である場合、国内法では合法と認められていても、それによって国際法のもとでは合法と認められない」(認定の概要 2001: 237-238頁)。


8) こうした議論を踏まえて、今後筆者が考えてみたいことは、リーガリスティクな思想や政治思想史のなかで論じられてきた正義論からは応答することが困難であると思われる従軍 <慰安婦> 問題は、逆にリーガリスティクな思想や主流の正義論の限界を露わにしているのではないか、ということである。そして、そうした限界を問い返すことこそが、彼女たちの呼びかけに応答することであることを確認し、ある不正や不正を被ったひとびとに対する責任が果たせないことを「致し方ないのだ」として無責任に容認してしまうことに対抗し得る正義概念を「政治的正義」として提起してみたい。本稿では、紙幅の関係上そこまでは論じることができなかった。


9) シュクラーの正義の通常モデルについて詳しくは、大川 (1999) 46-53頁を参照。


10) アリストテレスの言葉を借りれば、「共同的なもろもろの事物の配分にかかわるところの配分的な「正」は常に上述のような [ギリシア数学における幾何学的比例、現在の意味における比例-筆者-] 比例に即している。事実、共同的な資材に基づいて配分の行われる場合にしても、その正しい配分は当事者たちの寄せた資材の相互の間に存する比とまさに同じ比に即して行われるであろう」(アリストテレス 1973: 1131b頁)。


11)「よきひとがあしきひとから詐取したにしてもあしきひとがよきひとから詐取したにしても、また、姦淫を犯した者がよきひとであるにしてもあしきひとであるにしても、それはまったく関係がない。…法はかれらをいずれも均等なひとびととして取り扱う」(アリストテレス 1973: 1132a頁)。


12) ワインリブが議論の前提としているのもやはりアリストテレスであるが、アリストテレス自身は、単純な損得による均等化は困難であることに気づいている。たとえば、それは、かれが矯正的正義は応報ではない、と述べる点にも見受けられる。なぜなら、矯正的正義においては、法は当事者を均等な equal ひとびととして扱い、もっぱら問われるのは、一方が何をしたのか、他方がどのような不正を蒙ったかであるといっているにも関わらず (アリストテレス 1973: 1132a頁)、のちには、「支配的な位置にあるひとが殴打した場合には、彼は殴打をもって報いられることを要しないし、もし支配者を殴打したのであれば、彼は単に殴打されるにとどまらず、その上になお懲罰を受けなくてはならぬ」と述べているからである (アリストテレス 1973: p. 1132b20)。この点について、アームソンは、「手足を失うような損害を補償する場合は、矯正の正義の適用は容易ではない。アリストテレスもこのことは認めていて、このような場合には損得という用語自体が不自然であると言う。これは、現在でもよく議論される問題であり、アリストテレスの頃とさほど変わっていない」と論じている (アームソン 1998: 128-129頁)。


13) さらに詳しくは、「公共性の哲学としてのリベラリズム」を論じる (井上 1999: esp. chap. 3) を参照。また、規範としてのリベラリズムが主「現在の社会は、じっさいに個人を平等で自由な存在として扱っている」という記述の様式へと移行していった場合に、そもそもリベラリズムが持っていた批判力が失われ、ある者たちに対する抑圧へと反転してしまうことを批判した、岡野 (2001) も参照。


14) 一つの行為の責任がある個人に帰せられるということは、カントにしたがうならば、ある人がある行為-その行為は行いと呼ばれ、法則のもとにある-の創始者 causa liberae とみなされるという判断である。したがって、自己責任はつねに自由な人格を前提としており、自由な人格と帰責能力が存在するがゆえに、自分の運命を自分でコントロールできる、という自己支配の能力が導き出される (cf. 有福 1985)。


15) 関係修復的正義 (回復的司法) については、歴史的、組織的に社会に深く刻み込まれた不正義によって社会が分断されている状態を未来に向かっていかに変革していくのかという観点から、たとえばアパルトヘイト以後の南アフリカ共和国における真理和解委員会の取り組みを論じる、Minow (1998) と、Rotberg & Thompson (2000) を参照。また、現在日本でも、少年法の分野において、回復的司法は新しい司法の動向して注目されている。なお、少年法における回復的司法に関しては、葛野尋之さんから多くのご教示をいただいた。


16) ここでの「過去」とは、けっして「かつて現前していた was present もの」だけを意味していない。むしろ、ここでの「過去」とは、これまで一度も現前してこなかったものの「痕跡」という意味である。たとえば、文中に触れた金学順さんの言葉は、その言葉に出会う前にはわたしにとっては一度たりとも現前していたことはなかったのであり、現在わたしが出会っている彼女の言葉は、彼女の「過去」という <非在> の痕跡でしかない。


阿部浩己 (2001)「女性国際法廷が映し/創り出したもの-国際法学の地平-」季刊戦争責任資料第32号.


有福孝岳 (1985)「支配の基礎とその逆接-支配•自由•責任-」大森荘蔵ほか編『行為、他我、自由』岩波書店.


アリストテレス (1973)『ニコマコス倫理学』(高田三郎訳) 岩波文庫; The Nichomachean Ethics, trans. by H. Rackham, Harvard University Press, 1926.


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大川正彦 (1999)『正義』岩波書店.


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