2021-11-08

近代朝鮮と日本 (岩波新書) : 趙 景達: 2012 근대 조선과 일본 조경달

Amazon.co.jp: 近代朝鮮と日本 (岩波新書) : 趙 景達: Japanese Books



近代朝鮮と日本 (岩波新書) Paperback Shinsho – November 21, 2012
by 趙 景達 (著)
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19世紀前半、儒教的民本主義に基づく政治システムの朝鮮社会で、身分制が解体してゆく状況から説き起こし、1910年日本に併合されて大韓帝国が滅亡するまでの近代朝鮮の通史。朝鮮の政治文化に着目して日本社会と比較しながら、日朝修好条規、甲申政変、甲午農民戦争、大韓帝国誕生、日本の保護国化、国権回復運動等を描きだす。
Print length
288 pages
Language
Japanese
Publisher
岩波書店
Publication date
November 21, 2012
ISBN-10
400431397X
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Product description
内容(「BOOK」データベースより)
19世紀前半、儒教的民本主義に基づく政治システムの朝鮮社会で、身分制が解体してゆく状況から説き起こし、1910年日本に併合されて大韓帝国が滅亡するまでの朝鮮近代通史。政治文化に着目して日本社会と比較しながら、日朝修好条規、甲申政変、甲午農民戦争、大韓帝国誕生、日本の保護国化、国権回復運動等を描きだす。
著者略歴 (「BOOK著者紹介情報」より)
趙/景達
1954年東京都生まれ。1986年東京都立大学大学院人文科学研究科博士課程中退。専攻、朝鮮近代史・近代日朝比較思想史。現在、千葉大学文学部教授(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)
Product Details
Publisher ‏ : ‎ 岩波書店 (November 21, 2012)
Publication date ‏ : ‎ November 21, 2012
Language ‏ : ‎ Japanese
Paperback Shinsho ‏ : ‎ 288 pages
ISBN-10 ‏ : ‎ 400431397X
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4004313977
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Mr.Nobody
2.0 out of 5 stars 在日歴史学者の主観的な記述が目立つ書
Reviewed in Japan on May 20, 2019
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著者が在日の方であり、なおかつ、「日本に虐げられた朝鮮民族」という史観から記されている書物。当時の朝鮮の側から見れば、近代日本の朝鮮半島に対する立ち振る舞いが鼻持ちならないものであった、ということは十分に理解できるが、歴史的な学術書であるならば、なぜ、日本がそのような立ち振る舞いをしたのか、といった視点も必要であると思うが、単に日本の「朝鮮に対する侮蔑」とか、「(日本)が武威を誇る国であるから」という、短絡的な見方しかできていない。明治初期から日本がいかに朝鮮を侵略する動機を潜めていたか、強調することによって、後代の日韓併合を説明しようとしており、極めて民族色の強い歴史観である。著者が在日の方であるゆえ、そういう史観事態を持つのも必ずしも悪くはないし、そうした史観も一縷の歴史的事実の一側面は醸しだしはする。しかし、仮にも、新書とはいえ学術色の強い書物を出版する岩波書店から出版しているのだから、歴史的事実に対する客観性は担保した方が良いように思える。他のレビューワーの方も記しているように、民族感情から生じる、根拠の薄い「断言」が随所に目立つ。良く分からない史実、様々な家解釈が可能な史実は、「断言」を避けることが学問的な良心のように、私には思える。とは言え、朝鮮民族の立場に立てば、こ書に近い史観を持つのは、心情的には是認できるし、そうした隣国人の自国と日本との近代史に対する民族的な感情を理解するためには、また歴史の一側面を垣間見る、ということであれば、一読する価値はある。ただし、全てを鵜呑みにしないで、他の様々な立場から記された著者の歴史を繙いた方が、歴史的なバイアスからは逃れられるであろう。この著者は、この書物を上梓することによって、いかなる意図を持っているのか、ということも、日本人も感情的にならないで、「冷静」に考えていく必要はあるだろう。
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安楽子
4.0 out of 5 stars 歴史からは教訓を汲み取らなければならないと思う
Reviewed in Japan on December 23, 2019
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〇著者は1954年生まれの千葉大学教授。在日朝鮮人。客観的記述に徹しようと努力していることは感じられるが、民衆に対する素朴な信頼と、朝鮮という国への思い入れは隠さない。近代の日朝関係は、朝鮮人としてはさぞや歯がゆく無念だろうと理解できるし、同情もする。そうであればこそ、朝鮮人は歴史を研究し歴史から学んで、今後は二度と国を失うことのないよう、強く賢明な国になろうと努力すべきだと思うのだが、その方向の議論はあまり見られない。
〇例えば、なぜ朝鮮は独立を失ったのか?中国、ロシア、日本に囲まれ、しかも日本は朝鮮を支配下に置こうと言う強い意志を持っていたから、小国の朝鮮としては如何ともしようがなかった・・・と言っていたのでは、将来への教訓は導き出せない。問題は数多くあったはずだ。世界の情勢を見極める情報分析と判断ができなかった。国内(政府内)の政争がはげしく国論が一本化されなかった。リーダーの行動・判断も安易であり、人物を得なかった。地方官吏の腐敗など行政機構がよく機能していなかった。これらの事実は本書からも読み取れる。
〇得られる教訓は次のようなことのはずである。小国であればこそ、いっそうよく周辺の情勢、世界情勢の情報収集に努めなくてはならない。情報は慎重に分析して賢明な判断をするようにあらゆる努力を払わなければならない。ひとたび判断がなされたら国論を速やかに統一してしっかりと実行しなければならない。その時に安易に外国に頼ってはいけない。これらを自力でできるように人材と政治システムを整備維持するための努力を日常から怠ってはならない――考えてみれば、これらは、日本にも当てはまる教訓である。われわれ日本人が朝鮮史を読む目的は、隣国を理解することが一つ、隣国を他山の石として学ぶことがもう一つと、二重の目的があるように思った。

○以下は、私なりに整理した本書のポイントです。ご参考までに。
〇日本には古くから朝鮮にたいする侮蔑感があったという。それは江戸時代の朝鮮通信使のころから見られたし、明治以降は遅れた小国として露骨に見下げる気持ちがあった。それは日本人の支配層から民衆まで、また政府側から反政府側(自由民権運動者たち)、さらには福沢諭吉にまで共通に見られた。それが進んで、時期と方法はさておき、いずれ朝鮮は日本の属国とすることが望ましいというぼんやりとしたコンセンサスが形成されていたらしい。著者は、日本は一貫してこのような国家意思・民族意思にしたがって朝鮮にたいして行動し併合に至ったと言いたげである。
〇他方、朝鮮の側でも、日本に対する蔑視があった。儒教の本家であるはずの中国が異民族の支配を受けているからには自分たちこそが儒教の正統を継ぐものであるとの小中華思想を持っていた。そうなると日本は粗暴な蛮族でしかない。しかし西欧の圧力を受けて開国し急速に近代化を進めていることは認めていた。したがって、開明改革派は日本と結んで朝鮮の近代化を進めようとした。金玉均らである。
〇近代の朝鮮は、外戚である閔氏による勢道政治(売官、政治の私物化、腐敗が激しい)、大院君(民衆に人気はあったが、陰謀家であり排外主義者であった)、高宗親政(大韓帝国。権力と権限が皇帝に集中されたが、巧みにこれを行使できる明君ではなかったらしい)と変遷した。
〇朝鮮には儒教的民本主義が根強くあり、民の支持があればこその王であるから、王は民の声をよく聞き慈愛をもって民に向かうことを理想としていた。したがって上訴・直訴が当然のこととして要因されていた。ここは理想主義的で良いようにも見えるが、かえって国論の統一を妨げたようにも見える。
〇なお、なぜ大韓帝国という名称を採用し、朝鮮を採らなかったかと言うと、中国(明?)に封じられた朝鮮のイメージを嫌い、昔の三韓を統一して成った国であるとした方が帝国としてのイメージにふさわしいと考えたことがあるらしい。
〇日清・日露戦争のいずれも、その原因は朝鮮の支配権・権益にあった。日清日露に勝利した日本は、朝鮮の保護国化、併合と進む。しかし、これらの協定(保護協定、併合協定)は決して自由な合意ではなかった。武力を背景にした恫喝によるもので、本来であれば国際法上も容認されるものではなかったようだ。しかし、バランス・オブ・パワーの現実が支配し、当時多少なりとも活力ある国ならば帝国主義を指向するあの時代にあっては、アメリカを含めて列強は朝鮮のアピールに耳を貸そうとしなかった。日本の民間人(人夫も含めて)も悪かった。日本の力を背景に、朝鮮の土地の獲得、利権の確保、暴力・略奪に走った。鉄道建設のための人夫供出について村落に協力義務が課され、事業主体は民間であったが官の力を背景に強制された。
〇朝鮮の側では、宗主国として介入する清を不快に思いながらも、いざとなれば保護してくれる存在と頼む人々は多かったし(事大)、高宗は、ロシアに対して大変親近感を覚えていた。
〇いずれにせよ、日本の朝鮮併合までのプロセスは強引であり、保護協定にせよ、併合条約にせよ正当性はないと言ってよい。そして朝鮮人もそれを唯々諾々と受け入れたわけではなかった。気骨ある政治家もいたし、民衆レベルでも反乱がおきた。義兵活動は、実質的には植民地戦争と言ってよいもので、朝鮮人は勇敢にたたかった。しかし、日本の圧倒的な武力と列強の黙認のために、朝鮮としてはそれ以上どうしようもなかった。
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知名克尚
2.0 out of 5 stars 日本蔑視の書
Reviewed in Japan on August 13, 2020
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一言で言うと朝鮮を美化し、日本を蔑視した書である。
「儒教的民本主義に基づいた文明国朝鮮が武威の野蛮国日本に侵略された」という論理に終始貫かれ日本を蔑んでいる。
歴史の研究には、客観的な事実の積み重ねが何より大事であると思うが、本書は著者の主観が強く表れている。
著者が自身のルーツを愛し、誇りに思う事は理解出来るが、その思いが強い故に自身が差別する側に立っている事に気づいていないのだろうか。あるいは、その種の差別は赦されると思っているのか。
後者だとしたら問題である。
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松﨑 仁洋
2.0 out of 5 stars 歴史的評価に対する違和感
Reviewed in Japan on May 29, 2019
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儒教的民本主義なる概念で朝鮮の政治風土を展開しようとし、あたかも民主主義の萌芽が内在していたかの論説に違和感を感じる。また、政治組織や教育機関も整ってはいたが、充分機能しなかったことも違和感を感じる。全体をとうして、事実と評価に乖離があるように感じる。
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越後の住人
5.0 out of 5 stars 納得
Reviewed in Japan on November 24, 2020
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併合までの近代史がわかりやすく記述されていて読めて満足。
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5.0 out of 5 stars 🙆🏻
Reviewed in Japan on November 2, 2019
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まだ読んでませんが、発送は良かったです
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空中写真
1.0 out of 5 stars 根拠史料の「真贋の検討」の手続きを公開するべし
Reviewed in Japan on August 15, 2020
1、東アジア近現代史を読む前に、私たちは知っておかねばならない。

〇ハングルが創成されたのは1446年。李氏朝鮮・第4代国王・世宋が制定した。
 世宋が国字を作ろうと思った理由は「学ぶ機会のない民百姓が、自分たちの意志を充分に表せるように」だったと言う。
 しかし中国尊崇派である事大党の強烈な反対で即つぶされ、ほとんど流通しないまま、近代に流れ込んだ。

 朝鮮では支配階級が、支配を堅固にするためには、民は文字を覚えないほうが良い、と考えていたのだ。
 それは中国の模倣だった。(金両基『ハングルの世界』中公新書p107)

 朝鮮には日本のような漢文訓読法(返り点で日本語読み)はなく、朝鮮上層部である両班は、漢文を中国語読み(音読み棒読み)で読んだ。

〇日本の武士は、武芸・通信能力・領地経営、という職能の混じり合った存在である。
 民衆は上申するための学習を怠らず、武士もそれを良しとしていた。民衆の間の文章能力者が寺子屋を運営し、夥しい教科書(「往来物」7千種)の刊行がそれを可能にした。
 そして民衆は上意の下達を理解し、相互通信を行い、上申のための文章力を磨いた。

〇日本では『万葉集』(8世紀)の時代から、一般庶民や女性の声を拾う文化があった。11世紀初頭から長編女流文学の流れがある。

〇日本では、1635年の武家諸法度以降、武士は、処刑に際しては関係者しか立ち会っていない。庶民でも、1635年以降の公開処刑は、私個人としては、知らない。
 明治以降はもちろん、権力が、武装解除の人を公開で処刑したことはない。

〇江戸時代に民衆支配に利用されたのは、「殺生を嫌う」仏教である。(宗門人別帳等)

2、これらの知識を前提として本書を読むと、以下のようなことが気になる。
 〇一君万民体制による国王への直訴(p6)というのは、文章によるものか、口頭によるものか、 文章家の代筆によるものか?
  ハングルは、中国尊崇の両班たちが排除したのだから、 何による直訴だったのか、と気になる。

 〇近代朝鮮・政治社会史の中で、それぞれの事象の運動主体はどの層で、どのような通信・表現能力だったのか、が気になる。

 〇歴史事象の証拠とされるものが、いつどこで誰によって作られ、いつどこで誰によって発見されたのか、時系列の情報が必要だ。

 〇それらの証拠の真贋の検討が必要であり、その検討作業が、両国民・諸国民を納得させられる内容であること、が必要である。

3、朝鮮史で気になった弾圧
 〇p14洪景来の反乱(1811年)。2千名近くが斬首された。
 〇p31街角で杖でたたく。
 〇p34フランス人宣教師9名処刑(1866年)。朝鮮人信徒1万人処刑。
 〇p56凌遅刑(1881年)
 〇p65壬午軍乱(1882年)処刑11名。
 〇p98李ピルジェの反乱。凌遅刑(1871年)
 〇甲午農民戦争(1894年)p119「近代日本が海外で最初に行った民衆大虐殺」???

途中を飛ばして、p173の写真。1904年の日本軍による処刑シーンだと言うが、
随分くっきりした写真である。日本では歴史的に、このような光景はなかった。文化からして写真に撮るなんてあり得ない。映画か宣伝用の写真ではないかと疑う。
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お父さん
3.0 out of 5 stars 勉強にはなりましたが・・・
Reviewed in Japan on July 3, 2014
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イザベラ・バード「朝鮮紀行」、アレン・アイルランド「The New Korea」、マッケンジー「朝鮮の悲劇」を読んだ後、日韓関係の公平な見方を知りたくて読みましたが、反日的な本でした。
とはいえ、事実関係はおさえてあるので、それなりに勉強になりました。
他の方も言及されていますが、出典や根拠がはっきりせず、主観的表現が多くて残念でした。
参考文献も、当時の文献を期待していたのですが、ほとんどが1970年代以降のものであり、戦前のものは全くありませんでした。
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현대조선과 일본 (이와나미신서)  2012

별 5개 중 3.8개    25 등급
=
19세기 전반 유교적 민본주의에 근거한 정치시스템의 조선사회에서 신분제가 해체되어 가는 상황에서 설득해 1910년 일본에 병합되어 대한제국이 멸망할 때까지 근대조선의 통사. 조선의 정치문화에 주목하여 일본사회와 비교하면서 일조수호조규, 갑신정변, 갑오농민전쟁, 대한제국 탄생, 일본의 보호국화, 국권회복운동 등을 그린다.

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288페이지
2012년 11월 21일

제품 설명

내용(「BOOK」데이터베이스에서)
19세기 전반 유교적 민본주의에 근거한 정치시스템의 조선사회에서 신분제가 해체되어 가는 상황에서 설득되어 1910년 일본에 병합되어 대한제국이 멸망할 때까지 조선근대통사. 정치문화에 주목해 일본사회와 비교하면서 일조수호조규, 갑신정변, 갑오농민전쟁, 대한제국 탄생, 일본의 보호국화, 국권회복운동 등을 그려낸다.

저자 약력 ( "BOOK 저자 소개 정보"에서)
조/경달
1954년 도쿄도 출생. 1986년 도쿄도립대학 대학원 인문과학연구과 박사과정 중퇴. 
전공, 조선 근대사·근대일조 비교 사상사. 현재, 지바대학 문학부 교수
(본 데이터는 이 서적이 간행된 당시에 게재되고 있던 것입니다)
제품 세부 정보

#1,421 in Iwanami Shinsho
사용자 리뷰: 별 5개 중 3.8개    25 등급
사용자 리뷰
별 5개 중 3.8개
5점 만점에 3.8점

미스터 노바디
별점 5점 만점에 2.0점 재일역사학자의 주관적인 기술이 눈에 띄는 서
2019년 5월 20일에 일본에서 작성함
확인된 구매
저자가 재일 쪽이며, 또한, 「일본에 학대된 조선민족」이라고 하는 사관으로부터 기록되고 있는 서적. 당시의 조선 측에서 보면, 근대 일본의 한반도에 대한 행동이 코가 되지 않는 것이었다는 것은 충분히 이해할 수 있지만, 역사적인 학술서라면, 왜, 일본이 그렇게 한 행동을 한 것 같은 시점도 필요하다고 생각하지만, 단순히 일본의 「조선에 대한 모멸」이라든가, 「(일본)이 무위를 자랑하는 나라이기 때문에」라고 하는, 단락적인 견해 밖에 되어 있지 않다 . 

메이지 초기부터 일본이 어떻게 조선을 침략하는 동기를 잠복하고 있었는지 강조함으로써 후대의 한일 병합을 설명하려고 하고 있으며, 매우 민족색의 강한 역사관이다. 저자가 재일쪽이기 때문에 그러한 사관사태를 가지는 것도 반드시 나쁘지는 않고, 그러한 사관도 한 줄의 역사적 사실의 한 측면은 양조하기는 한다. 

그러나, 만일, 신서라고 해도 학술색이 강한 서적을 출판하는 이와나미 서점으로부터 출판하고 있기 때문에, 역사적 사실에 대한 객관성은 담보하는 것이 좋다고 생각된다. 다른 리뷰어들도 적고 있듯이 민족감정에서 생기는 근거가 얇은 '단언'이 곳곳에 눈에 띈다. 
잘 모르는 사실, 다양한 가해석이 가능한 사실은 '단언'을 피하는 것이 학문적인 양심처럼 나에게는 생각된다. 
그렇지만, 조선민족의 입장에 서면, 이 책에 가까운 사관을 가지는 것은, 심정적으로는 시인할 수 있고, 그러한 이웃국인의 자국과 일본과의 근대사에 대한 민족적인 감정을 이해하기 위해 에는 또 역사의 한 측면을 엿볼 수 있다는 것이라면 읽을만한 가치는 있다. 

다만, 모든 것을 가라앉히지 말고, 다른 다양한 입장으로부터 기록된 저자의 역사를 짊어지는 것이, 역사적인 바이어스로부터는 피할 수 있을 것이다. 이 저자는, 이 책을 상척함으로써, 어떠한 의도를 가지고 있는지, 라고 하는 것도, 일본인도 감정적으로 되지 않고, 「냉정」으로 생각해 갈 필요는 있을 것이다.
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안락자
별 5개 중 4.0개 역사에서 교훈을 얻어야 한다고 생각한다.
2019년 12월 23일에 일본에서 작성함
확인된 구매
〇 저자는 1954년생 치바 대학 교수. 재일조선인. 객관적 기술에 철저히 노력하고 있는 것은 느껴지지만, 민중에 대한 소박한 신뢰와 조선이라는 나라에 대한 생각은 숨기지 않는다. 근대의 일조관계는 조선인으로서는 전혀 치아가 가는 무념일 것이라고 이해할 수 있고 동정도 한다. 그렇다면 조선인은 역사를 연구하고 역사에서 배워, 앞으로는 다시 한번 나라를 잃지 않도록 강하고 현명한 나라가 되려고 노력해야 한다고 생각하지만 그 방향의 논의는 별로 볼 수 없다.
〇 예를 들어, 왜 조선은 독립을 잃었는가? 중국, 러시아, 일본에 둘러싸여, 게다가 일본은 조선을 지배하에 두려고 하는 강한 의지를 가지고 있었기 때문에, 소국의 조선으로서는 아무것도 할 수 없었다・・・라고 말하고 있었던 것은, 장래에 의 교훈은 이끌어낼 수 없다. 문제는 많이 있었을 것이다. 세계의 정세를 파악하는 정보분석으로 판단할 수 없었다. 국내(정부 내)의 정쟁이 터무니없이 국론이 단일화되지 않았다. 리더의 행동·판단도 안이했고, 인물을 얻지 못했다. 지방관의 부패 등 행정기구가 잘 작동하지 않았다. 이러한 사실은 본서에서도 읽을 수 있다.
〇 얻을 수 있는 교훈은 다음과 같을 것이다. 소국이라면 더욱 잘 주변의 정세, 세계 정세의 정보 수집에 노력해야 한다. 정보는 신중하게 분석하고 현명한 판단을 하도록 모든 노력을 기울여야 한다. 일단 판단이 이루어지면 국론을 신속하게 통일하고 제대로 실행해야 한다. 그 때 안이하게 외국에 의지하지 말라. 이들을 자력으로 할 수 있도록 인재와 정치 시스템을 정비 유지하기 위한 노력을 일상에서 게을리해서는 안 된다. 우리 일본인이 조선사를 읽는 목적은, 이웃나라를 이해하는 것이 하나, 이웃나라를 타산의 돌로서 배우는 것이 또 하나라고, 이중의 목적이 있다고 생각했다.

○이하는, 나 나름대로 정리한 본서의 포인트입니다. 참고까지.
0일본에는 예로부터 조선에 대한 모욕감이 있었다고 한다. 그것은 에도시대의 조선통신사 무렵부터 보였고, 메이지 이후는 늦은 소국으로서 노골적으로 내려다보는 기분이 있었다. 그것은 일본인의 지배층으로부터 민중까지, 또 정부측으로부터 반정부측(자유민권 운동자들), 나아가 후쿠자와 유키치에까지 공통으로 보였다. 그것이 진행되고, 시기와 방법은 제쳐두고, 어느 조선은 일본의 속국으로 하는 것이 바람직하다는 흐릿한 컨센서스가 형성되고 있었던 것 같다. 저자는 일본은 일관되게 이러한 국가 의사·민족 의사에 따라 조선에 대해 행동하고 병합에 이르렀다고 말했다.
〇 한편, 조선 측에서도 일본에 대한 멸시가 있었다. 유교의 본가인 중국이 이민족의 지배를 받고 있기 때문에 자신들이야말로 유교의 정통을 이어받는 것이라는 소중화 사상을 가지고 있었다. 그렇게 되면 일본은 조폭한 만족일 뿐이다. 그러나 서구의 압력을 받아 개국해 급속히 근대화를 진행하고 있는 것은 인정하고 있었다. 따라서 개명개혁파는 일본과 맺어 조선의 근대화를 추진하려고 했다. 금옥 균일하다.
○근대의 조선은, 외척인 민씨에 의한 세도 정치(매관, 정치의 사물화, 부패가 심하다), 대원군(민중에게 인기는 있었지만, 음모가이며 배외주의자였다), 고종친정(대한제국. 권력과 권한이 황제에 집중되었지만 능숙하게 이를 행사할 수 있는 명군이 아닌 것 같다)라고 변천했다.
0조선에는 유교적 민본주의가 뿌리깊고 있어 백성의 지지가 있으면 그 왕이기 때문에 왕은 백성의 목소리를 잘 듣고 자애로 백성을 향하는 것을 이상으로 하고 있었다. 따라서 상소·직소가 당연한 것으로 요인되고 있었다. 여기는 이상주의적이고 좋은 것처럼 보이지만 오히려 국론의 통일을 방해한 것처럼 보인다.
0또한, 왜 대한제국이라는 명칭을 채용해, 조선을 채택하지 않았는가 하면, 중국(명?)에 봉해진 조선의 이미지를 싫어하고, 옛 삼한을 통일해 이루어진 나라라고 한 쪽이 제국으로서의 이미지에 어울린다고 생각한 적이 있는 것 같다.
〇일청·일러전쟁 모두 그 원인은 조선의 지배권·권익에 있었다. 일청일로에 승리한 일본은 조선의 보호국화, 병합으로 진행된다. 그러나 이러한 협정(보호협정, 병합협정)은 결코 자유로운 합의가 아니었다. 무력을 배경으로 한 협갈에 의한 것으로, 본래라면 국제법상도 용인되는 것은 아니었던 것 같다. 그러나 밸런스 오브 파워의 현실이 지배하고 당시 다소 활력 있는 나라라면 제국주의를 지향하는 그 시대에선 미국을 포함한 열강은 조선의 어필에 귀를 빌려주지 않는다. 했다. 일본의 민간인(인부도 포함)도 나빴다. 일본의 힘을 배경으로 조선의 토지 획득, 이권 확보, 폭력·약탈로 달렸다. 철도건설을 위한 인부공출에 대해 촌락에 협력의무가 부과되어 사업주체는 민간이었지만 관의 힘을 배경으로 강제되었다.
〇조선 측에서는 종주국으로서 개입하는 청나라를 불쾌하게 생각하면서도, 막상이 되면 보호해 주는 존재라고 부탁하는 사람들은 많았고(사대), 고종은, 러시아에 대해서 매우 친근감을 기억했다.
0어쨌든, 일본의 조선 병합까지의 프로세스는 강인하고, 보호 협정에 있어도, 병합 조약에 있어도 정당성은 없다고 말해도 좋다. 그리고 조선인도 그것을 유일하게 허락하게 받아들인 것은 아니었다. 기골 있는 정치인도 있었고, 민중 수준에서도 반란이 일어났다. 의병활동은 실질적으로 식민지전쟁이라고 말해도 좋았고, 조선인은 용감하게 두드렸다. 그러나 일본의 압도적인 무력과 열강의 묵인을 위해 조선으로서는 그 이상 어쩔 수 없었다.
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6명이 이 정보가 도움이 되었다고 평가했습니다.
==
케산
별점 5점 만점에 2.0점 일본 멸시의 서
2020년 8월 13일에 일본에서 작성함
확인된 구매
한마디로 조선을 미화하고 일본을 멸시한 책이다.
‘유교적 민본주의에 근거한 문명국 조선이 무위의 야만국 일본에 침략됐다’는 논리에 시종관계되어 일본을 멸시하고 있다.
역사의 연구에는 객관적인 사실의 쌓기가 무엇보다 중요하다고 생각하지만, 이 책은 저자의 주관이 강하게 나타난다.
저자가 자신의 뿌리를 사랑하고 자랑스럽게 생각하는 것은 이해할 수 있지만, 그 생각이 강하기 때문에 자신이 차별하는 쪽에 서 있는 것을 깨닫지 못했을까. 혹은 그 종류의 차별은 용서된다고 생각하는 것인가.
후자라면 문제이다.
5명이 이 정보가 도움이 되었다고 평가했습니다.
==
마츠자키 인양
별점 5점 만점에 2.0점 역사적 평가에 대한 위화감
2019년 5월 29일에 일본에서 작성함
확인된 구매
유교적 민본주의라는 개념으로 조선의 정치풍토를 전개하려고 하고, 마치 민주주의의 모모가 내재하고 있었는지의 논설에 위화감을 느낀다. 또 정치조직이나 교육기관도 갖추어져 있었지만 충분히 기능하지 못한 것도 위화감을 느낀다. 전체를 취하고, 사실과 평가에 괴리가 있는 것처럼 느낀다.
5명이 이 정보가 도움이 되었다고 평가했습니다. 
=
공중 사진
별점 5점 만점에 1.0점 근거 사료의 "진정한 검토"절차를 공개해야합니다.
2020년 8월 15일에 일본에서 작성함

1, 동아시아 근현대사를 읽기 전에 우리는 알아야 한다.

〇한글이 창성된 것은 1446년. 이씨 조선·제4대 국왕·세송이 제정했다.
 세송이 국자를 만들려고 한 이유는 "배우는 기회가 없는 민백성이 자신들의 의지를 충분히 표현할 수 있도록"이었다고 한다.
 그러나 중국 존숭파인 사대당의 강렬한 반대로 즉각적으로 당겨 거의 유통하지 않은 채 근대로 흘러들었다.

 조선에서는 지배계급이 지배를 견고하게 하기 위해서는 백성은 문자를 기억하지 않는 편이 좋다고 생각했던 것이다.
 그것은 중국의 모방이었다. (김양기 『한글의 세계』 중공신서 p107)

 조선에는 일본과 같은 한문훈독법(반환점에서 일본어 읽기)은 없고, 조선 상층부인 양반은 한문을 중국어 읽기(음독봉 읽기) 에서 읽었다.

〇 일본의 무사는 무예·통신능력·영지경영이라는 직능이 섞인 존재이다.
 민중은 상신하기 위한 학습을 ​​게을리하지 않고, 무사도 그것을 좋게 하고 있었다. 민중들 사이의 문장능력자가 테라코야를 운영하고, 교활한 교과서('왕래물' 7천종)의 간행이 그것을 가능하게 했다.
 그리고 민중은 상의의 하달을 이해하고, 상호통신을 하고, 상신을 위한 문장력을 닦았다.

0일본에서는 『만엽집』(8세기) 시대부터 일반 서민과 여성의 목소리를 따는 문화가 있었다. 11세기 초부터 장편 여류 문학의 흐름이 있다.

0일본에서는, 1635년의 무가 제법도 이후, 무사는, 처형시에는 관계자 밖에 만나고 있지 않다. 서민에서도, 1635년 이후의 공개 처형은, 개인으로서는, 모른다.
 메이지 이후는 물론 권력이 무장해제 사람을 공개로 처형한 적은 없다.

〇에도시대에 민중지배에 이용된 것은 '살생을 싫어하는' 불교이다. (종문인별장 등)

2. 이러한 지식을 전제로 하여 본서를 읽으면 다음과 같은 것이 신경이 쓰인다.
 01군 만민 체제에 의한 국왕에의 직소(p6)라고 하는 것은, 문장에 의한 것인가, 구두에 의한 것인가, 문장가의 대필에 의한 것인가?
  한글은 중국 존숭의 양반들이 배제했기 때문에 무엇에 의한 직소였는지 궁금하다.

 〇근대조선·정치사회사 중에서 각각의 사건의 운동주체는 어느 층에서 어떤 통신·표현능력이었는가가 궁금하다.

 〇역사 사건의 증거로 여겨지는 것이 언제 어디서 누구에 의해 만들어지고 언제 어디서 누가 발견했는지 시계열 정보가 필요하다.

 〇그들의 증거의 진정한 검토가 필요하고, 그 검토작업이 양국민·제국민을 납득시킬 수 있는 내용인 것이 필요하다.

3, 조선사에서 신경이
 쓰인 탄압 〇p14 홍경래의 반란(1811년). 2천명 가까이 참수됐다.
 〇p31 거리에서 지팡이로 두드린다.
 〇p34 프랑스인 선교사 9명 처형(1866년). 조선인 신도 1만명 처형.
 〇p56 능지형(1881년)
 〇p65 임오군란(1882년) 처형 11명.
 〇p98 이피르제의 반란. 능지형(1871년)
 〇갑오농민전쟁(1894년) p119 “근대 일본이 해외에서 최초로 간 민중대학살”? ? ?

길을 건너면서 p173 사진. 1904년 일본군에 의한 처형 장면이라고 하지만,
상당히 선명한 사진이다. 일본에서는 역사적으로 이런 광경은 없었다. 문화에서 사진을 찍는 것은 있을 수 없다. 영화나 선전용 사진이 아닌가 의심한다.
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4명이 이 정보가 도움이 되었다고 평가했습니다.
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아빠
별 5개 중 3.0개 공부가 되었습니다만・・・
2014년 7월 3일에 일본에서 작성
확인된 구매
이사벨라 버드 '조선기행', 앨런아일랜드 'The New Korea', 맥켄지 '조선의 비극'을 읽은 뒤 한일 관계의 공평한 견해를 알고 싶어서 읽었지만 반일적인 책이었습니다. .
그렇다고는 해도, 사실 관계는 억제되어 있으므로, 나름대로 공부가 되었습니다.
다른 분들도 언급되고 있습니다만, 출처나 근거가 분명하지 않고, 주관적 표현이 많아서 유감이었습니다.
참고 문헌도, 당시의 문헌을 기대하고 있었습니다만, 대부분이 1970년대 이후의 것으로, 전전의 것은 전혀 없었습니다.
10명이 이 정보가 도움이 되었다고 평가했습니다.
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근대 조선과 일본   
조경달 (지은이),최덕수 (옮긴이)열린책들2015-08-15
=
320쪽

책소개

갑오농민전쟁 등 조선 민중사 연구로 유명한 재일 사학자 조경달 교수가 그간의 연구 결과를 집약해 서술한 통한의 한국 근대 통사. 19세기 중반 대원군 집권기부터 1910년 8월 29일 대한제국이 멸망하던 날까지 반세기에 걸친 역사를 정치 문화를 중심으로 통사적으로 기술하는 한편으로, 비교사적 차원에서 근대 한일 관계를 고찰하고 있다.

근대 조선은 어떤 연유로 일본과 전혀 다른 길을 걷게 되었는가? 근대 서구와 접촉하면서 비교적 원만하게 국민 국가로 전환한 일본과 달리, 조선에서는 국민 국가로의 전환이 좀처럼 이루어지지 않았다. 왜 그러했는가? 조경달은 한일 양국의 정치 문화의 차이에서 그 답을 찾는다.

근대 조선의 역사를 유교적 민본주의라는 정치 문화의 동학으로 풀어냄으로써, 저자 조경달은 근대를 절대화하는 내재적 발전론과 식민지 근대화론의 한계를 넘어서고자 시도한다. 한국 근대사를 변화를 강제하는 외세의 침탈 속에서도 유교적 민본주의라는 고유한 가치를 관철하면서 새로운 국가를 건설하려다 좌절한 통한의 역사로 보는 것이다.

근대 조선과 대한제국의 역사에서 핵심적인 사건들을 정치 문화라는 관점에서 새롭게 조명하고 있는 이 책은, 일본의 대표적인 인문 교양 출판사인 이와나미쇼텐에서 일본인 독자를 대상으로 출간한 책을 우리말로 옮긴 것이다.



목차
한국의 독자들에게
들어가며

제1장 조선 왕조와 일본
1. 조선의 정치와 사회 | 2. 개항전야의 조선 | 3. <정한> 사상의 형성과 메이지 유신

제2장 조선의 개항
1. 대원군 정권 | 2. 대원군의 양이 정책 | 3. 조일수호조규의 체결

제3장 개항과 임오군란
1. 개화와 척사 | 2. 두 번째 개항 | 3. 임오군란과 일본

제4장 갑신정변과 조선의 중립화
1. 민씨 정권과 개화파 | 2. 갑신정변과 일본 | 3. 여러 열강과 조선 중립화 구상

제5장 갑오농민전쟁과 청일 전쟁
1. 갑오농민전쟁의 발발 | 2. 청일 전쟁과 조선 | 3. 제2차 농민 전쟁과 일본 | 4. 갑오개혁과 일본

제6장 대한제국의 시대
1. 대한제국의 탄생 | 2. 독립협회 운동 | 3. 대한제국의 정책 | 4. 대한제국기의 민중 운동

제7장 러일 전쟁하의 조선
1. 일본의 조선 점령 | 2. 군율 체제 | 3. 반일 항쟁

제8장 식민지화와 국권 회복 운동
1. 일본의 조선 보호국화 | 2. 국권 회복 운동과 제3차 한일협약 | 3. 국권 회복 운동의 확대와 그 사상 | 4. 국권 회복 운동과 일본

제9장 한국 병합
1. 병합 결정과 안중근 사건 | 2. 대한제국의 멸망

후기
연표 | 주요 참고문헌 | 도판 출전 | 찾아보기 | 옮긴이의 말

접기
책속에서
P. 32
요컨대 주자학에 기초한 인정 이데올로기는 조선에서도, 일본에서도 확실히 기능하였지만 조선에서는 통치 원리 그 자체였던 데 비해, 일본에서는 통치 수단이었다는 측면이 강하다. 원리를 가진 사회란 그리 용이하게 스스로를 바꾸기가 어렵다. 이와 같은 점은 서구의 충격에 대응한 방식에 중요한 차이를 초래하였다. -제1장 조선 왕조와 일본
P. 35
임술민란에서는 수령과 향리, 향임 등이 주요한 공격 대상이었지만, 사족이 이끄는 민중은 향리 등을 몇 명 살해하였으나 수령을 살해하는 일은 결코 없었다. 국왕이 직접 임명한 수령은 국왕의 분신이었고, 살해는 역성혁명으로 간주되었기 때문이다. 수령은 기껏해야 쫓겨나는 데 그쳤다. 민중은 국왕이 파견한 선무사(宣撫使)나 안핵사(按覈使) 앞에 엎드려 국왕의 인정을 애원했다. 민란에서도 법과 규율이 있었다. -제1장 조선 왕조와 일본  접기
P. 166
그렇다면 왜 <조선>이라고 하는 국호를 폐지하여 <대한>으로 해야만 했는가? 그것은 <조선>이 고조선에서 유래하는 것이지만 국초에 명으로부터 책봉을 받을 때 명명된 국호였기 때문이다. 따라서 <조선>은 제국에 어울리는 국호가 아니었다. 제국의 논리로서는 복수의 국가를 복속시킨 결과로서 탄생한 국가라는 명분이 있어야만 했는데, 그 결과 채용된 것이 <한(韓)>이었다. 고종의 조칙에 따르면 신화, 전설상의 단군과 기자에 의한 개국 이래로 고조선은 영토가 분할되어 <서로 다투고> 있었는데, 고(구)려 당시 마한, 변한, 진한을 통합하여 <삼한>으로 삼고, 지금의 조선에 들어와 북쪽으로는 말갈, 남쪽으로는 탐라(제주도)를 정복하여 4,000리에 이르는 <일통의 업>을 이룬 것이 된다. 이러한 역사 인식은 잘못된 것이나, 세분화된 <한>이 고(구)려 때를 계기로 서서히 확대하여 제국이 되었고, 그 때문에 <대한>이라고 불러야 한다는 논리이다. -제6장 대한제국의 시대  접기
P. 193
대한제국은 어디까지나 <구본신참>을 고집하였고, 유교적인 근대 국가를 창설하려 하였다. 일반적으로 근대 국가는 정교 분리를 원칙으로 하는데, 대한제국은 도리어 그에 반하는 근대 국가 만들기를 선택하였다. 고종은 유교적 민본주의를 회로로 하여 근대화와 신민화(국민화)를 추진하려 하였는데 그것은 상당한 어려움을 수반하였다. 심각한 재원 부족과도 맞물려 조선에서는 유교적 민본주의의 관념이 지역 사회나 민중 세계에서 상당히 두텁게 존재하였고, 고종 또한 그것을 최후까지 포기하려 하지 않았다. 근대 국가들이 격렬하게 싸우는 국제 정치 안에서, 어떤 의미에서 그것은 자신들의 전통.원리.이상을 고집한, 장대하고 위험한 실험이자 도전이었다고 말할 수 있다. -제6장 대한제국의 시대  접기
P. 213
길영수는 백정 출신의 무식한 인물이었지만, 점성술에 뛰어났기 때문에 궁중에 출입하였고, 황실의 총애를 받았으며, 보부상 조식인 상무사(商務社)를 조직했다. 독립협회 탄압에도 중요한 역할을 담당하였던 무뢰한 성격을 가진 인물이었다. 그러한 인물조차 일본의 조선 군사 점령은 참을 수 없는 망국의 사태라고 인식하였다. 아니, 그러한 인물이야말로 도리어 의분을 참을 수 없었다. 의적의 심성과 유사했던 것이다. -제7장 러일 전쟁하의 조선  접기


 
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저자 및 역자소개
조경달 (지은이) 
1954년 도쿄 출생. 일본 주오대학 문학부를 졸업했고, 도쿄도립대학 대학원 인문과학연구과 박사과정을 중퇴했다. 지바대학 문학부 교수로 재직 중이다. 전공 분야는 조선 근대사ㆍ근대 한일비교사상사다. 

저서로 『역사와 진실』(공저, 1997, 치쿠마쇼보), 『이단의 민중반란―동학과 갑오농민전쟁』(1998, 이와나미쇼텐), 『조선 민중운동의 전개―士의 논리와 구제사상』(2002, 이와나미쇼텐), 『식민지기 조선의 지식인과 민중』(2008, 유시샤), 『식민지 조선』(편저, 2011, 도쿄도출판), 『비교사적으로 본 근세 일본』(편저, 2011, 도쿄도출판), 『근대 조선과 일본』(2012, 이와나미쇼텐), 『근대 일조 관계사』(편저, 2012, 유시샤) 등이 있다. 접기

최근작 : <동아시아 근현대통사>,<식민지 조선과 일본>,<근대 조선과 일본> … 총 8종 (모두보기)

최덕수 (옮긴이) 
고려대학교 사학과를 졸업하고, 동 대학원에서 박사 학위를 받았다. 한국 근대 정치사와 한일 관계사를 전공했다. 공주대학교 역사교육과(1982-1994), 고려대학교 한국사학과(1994-2017) 교수를 역임했으며, 현재 고려대학교 명예교수다. 저서로 『개항과 朝日 관계』(고려대학교 출판부, 2004)와 『대한제국과 국제 환경』(선인, 2005), 공저로 『조약으로 본 한국 근대사』(열린책들, 2010), 『근대 한국의 개혁 구상과 유길준』(고려대학교 출판문화원, 2015)이 있다. 역서로는 『끝나지 않은 20세기』(역사비평사, 2008), 『조선의 개화사상과 내셔널리즘』(열린책들, 2014), 『근대 조선과 일본』(열린책들, 2015) 등이 있다. 접기
최근작 : <근대 조선과 세계>,<유길준의 知-人, 상상과 경험의 근대>,<근대 한국의 개혁 구상과 유길준> … 총 14종 (모두보기)
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출판사 제공 책소개


내재적 발전론과 식민지 근대화론의 한계를 넘어,
정치 문화의 관점에서 한국 근대사를 조명한 역작!
조선의 개항부터 대한제국의 멸망까지, 반세기에 걸친 통한의 한국 근대사

갑오농민전쟁 등 조선 민중사 연구로 유명한 재일 사학자 조경달 교수가 그간의 연구 결과를 집약해 서술한 통한의 한국 근대 통사. 19세기 중반 대원군 집권기부터 1910년 8월 29일 대한제국이 멸망하던 날까지 반세기에 걸친 역사를 정치 문화를 중심으로 통사적으로 기술하는 한편으로, 비교사적 차원에서 근대 한일 관계를 고찰하고 있다. 근대 조선의 역사는 <일국사적으로 성립하지 않으며, 특히 일본과의 관계를 빼고 이야기할 수 없>기 때문이다. 책의 제목을 <근대 조선사>가 아니라 <근대 조선과 일본>이라고 지은 이유다.
근대 조선은 어떤 연유로 일본과 전혀 다른 길을 걷게 되었는가? 근대 서구와 접촉하면서 비교적 원만하게 국민 국가로 전환한 일본과 달리, 조선에서는 국민 국가로의 전환이 좀처럼 이루어지지 않았다. 왜 그러했는가? 조경달은 한일 양국의 정치 문화의 차이에서 그 답을 찾는다. 조선은 유교적 민본주의를 국가를 지배하는 원리적인 수준까지 끌어올렸던 반면, 일본은 단지 통치의 수단으로서만 그것을 받아들였다. 유교적 민본주의를 고집한 것은 위정척사파만이 아니었다. 조선의 근대화를 꿈꾼 개화 사상가들조차 이러한 정치 문화로부터 완전히 자유로울 수는 없었고, 지배 계급만이 아니라 민중 세계도 이러한 정치 문화를 마음속 깊이 내면화하고 있었다. 민란과 농민 전쟁, 의병 지도자들 또한 이러한 일군만민 사상을 봉기의 명분으로 내세우고는 했다.
근대 조선의 역사를 유교적 민본주의라는 정치 문화의 동학으로 풀어냄으로써, 저자 조경달은 근대를 절대화하는 내재적 발전론과 식민지 근대화론의 한계를 넘어서고자 시도한다. 한국 근대사를 변화를 강제하는 외세의 침탈 속에서도 유교적 민본주의라는 고유한 가치를 관철하면서 새로운 국가를 건설하려다 좌절한 통한의 역사로 보는 것이다. 비록 파국에 이르기는 했지만, 그러한 노력은 <어떤 의미에서 자신들의 전통.원리.이상을 고집한, 장대하고 위험한 실험이자 도전>이었다. 근대 조선과 대한제국의 역사에서 핵심적인 사건들을 정치 문화라는 관점에서 새롭게 조명하고 있는 이 책은, 일본의 대표적인 인문 교양 출판사인 이와나미쇼텐에서 일본인 독자를 대상으로 출간한 책을 우리말로 옮긴 것이다.

내재적 발전론과 식민지 근대화론의 한계를 넘어서

병합은 분명 한국인들에게는 견디기 힘든 치욕이었지만, 일본인들에게는 더할 나위 없는 영광이었다. 일본은 한국 병합을 정당화하기 위해 조선은 자력으로 근대화할 수 없고, 방치해 두면 나라마저 빼앗길지 모르기 때문에 일본이 도와주지 않으면 안 된다고 하는 정체적, 타율적 사관을 유포시켰다. 이른바 식민지 사관이다. 이 책은 이러한 식민지 사관의 극복을 의도하는 여러 사관의 검토에서 시작한다. 내재적 발전론, 식민지 근대화론, 식민지 근대성론 등이 그것이다.
조경달은 내재적으로 근대의 방향으로 발전의 길을 걷던 조선이 일본에 의해 방해를 받았다고 보는 내재적 발전론은 지나치게 일국사적인 동시에 근대 일본의 민족주의를 지탄하면서 조선의 민족주의를 고취하는 모순적인 측면이 있으며, 일본 지배 아래에서 조선의 자본주의적 발전을 논하는 식민지 근대화론은 일본의 지배를 합리화하는 측면 때문에 논란의 대상이 되고 있다고 지적한다. 또한 일본의 식민지 지배를 통해 조선인이 나쁜 근대의 가치를 내면화하게 되었다는 식민지 근대성론은 근대를 긍정하기보다는 비판하는 입장에 서 있기는 하지만, 근대를 개인이 저항할 수 없는 무엇으로 상정함으로써 또다시 근대를 절대화해 버리는 측면이 있다고 말한다.
저자는 역사란 실로 다양하게 전개되며, 따라서 반드시 근대적 방향으로만 나아가지 않는 역사의 발전을 확인하는 것이 근대를 상대화하는 방법이라고 주장한다. 여기서 조경달이 주목하는 것은 바로 정치 문화다. 저자에 따르면, 근대의 얼굴은 하나가 아니다. 전통적 정치 문화가 규정하는 바에 따라 각 지역, 민족, 국가는 각기 다르게 근대를 받아들였고, 각기 독특한 정치 세계를 창출하였다는 것이다. 이처럼 조경달은 근대 조선의 역사를 정치 문화사적인 차원에서 고찰함으로써 근대 서구의 기준에 맞지 않으면 정체 혹은 퇴행의 관점에서 보는 발전 단계론의 속박으로부터 한국 근대사를 구해 낸다.

조선과 일본의 정치 문화의 근본적 차이는 무엇인가 ― 도(道)와 국체(國體)

조선 왕조는 건국 이념을 주자학에 두었고, 그 정치 이념은 유교적 민본주의였다. 주로 '맹자'의 사상에서 규범을 찾은 유교적 민본주의는 권력주의적 패도를 배척하고 덕치주의적 왕도를 지향하여 백성을 위한 정치를 주장하였다. 민본인 이상 백성이 나라보다 더 중요했고, 양반은 유교적 민본주의를 내면화한 존재로 간주되었다. 민중 구제는 양반의 당연한 책무였다. 토지의 매매와 이동의 자유가 보장되었고, 촌은 개방적이었다. <효제충순(孝悌忠順)>의 덕을 소유하고 있으면 사(士)라고 해야 한다는 개화파의 시조 박규수의 말에서 파악할 수 있는 것처럼, 보편적 <도(道)>에 대한 강조는 조선의 신분제를 내재적으로 해체시키는 단계에까지 이른다. 조선에서 주자학에 기초한 인정(仁政) 이데올로기는 통치 원리 그 자체였다. 이상과 현실은 달랐지만, 현실의 왜곡 또한 유교적 민본주의라는 통치 원리에서 비롯된 것이었다.
근세 일본에도 분명 유교적 정치 문화는 존재했다. 무사는 유교적 교양을 쌓을 것을 요구받았고, 유교 교육을 근간으로 하는 번교(藩校)가 18세기 말부터 전국적으로 보급되었다. 그러나 <무위(武威)>가 막번 체제 최대의 기반이라는 사실에는 변함이 없었다. 유학자의 사회적 지위는 낮았고, 농민은 엄격한 신분제 아래 토지에 묶여 있었으며, 직업 선택이나 여행의 자유에도 심한 제약이 있었다. 일본의 통치 구조에서 주자학은 한낱 통치 수단의 하나일 뿐이었다. 따라서 일본에서는 지켜야 할 <도>란 존재하지 않았다. <서구의 충격>에 저항하기 위해 일본인들은 <도> 아니라 <국체(國體)>를 내세웠다. <도> 위에 <나라>를 위치시키는 요시다 쇼인의 <국체> 사상은 제자들에게 퍼져 나갔고, 결국 메이지 헌법에서 근대 일본의 국가 원리로서 확립되었다. 다시 말해 유교는 국체를 보호하기 위한 도구에 불과하였고, 결코 통치 원리가 될 수 없었다.
그런데 숭문(崇文)의 나라임을 자부한 자부하는 조선이 근대와 조우하여 무위의 나라임을 자부하는 일본 이상으로 서구에 항전한 이유는 무엇인가? 조경달은 그 이유를 양국의 문명 의식의 차이에서 찾는다. 어찌 보면 조선이 개항을 요구하는 서구 세력에 항전한 것은 당연했다. 유교 문명을 절대적으로 수호할 필요가 있었기 때문이다. 현실의 왕조가 존귀한 것은 <도>를 실천하고 있기 때문이며, 그 실천을 포기한다면 그러한 왕조는 존재할 가치조차 없는 것이었다. 일본은 판이한 양상을 보였다. 일본에서는 <국체> 사상이 대두하여 <국가>가 절대화되었다. 일본인들은 서구에 대한 철저한 항전이 <국가>를 멸망으로 이끌 뿐이라고 생각했고, 국가의 존립과 힘을 키우는 데 도움이 된다면 서양 문물을 받아들이는 데 아무런 거리낌이 없었다. 그렇기 때문에 일본은 쉽게 서구화로 전환할 수 있었지만, <국가>가 멸망하더라도 <도>에 따라 죽는 것이야말로 인륜의 올바른 행위라고 여기는 정치 문화를 가진 조선의 입장에서 개항을 요구하는 프랑스와 미국에 대한 항전은 유교 질서의 보존을 위한 필연적인 수순이었다.
1907년 12월 각지의 의병에게 격문을 보내 통합적인 항쟁의 필요성을 호소해 의병 총대장이 된 이인영이 1908년 1월 아버지의 부고 소식을 접하고 총대장의 자리를 버렸다는 것은 잘 알려진 사실인데, 이는 유교적 민본주의 국가 조선의 한 단면을 적나라하게 보여 준다. 장례가 끝난 후 진으로 돌아올 것을 요청하는 부하들에게 이인영은 이렇게 말했다. <나라에 충성하지 않으면 부모에게 효도하는 것이 아니다. 내가 3년상을 치른 후에 다시 의병을 일으키고, 일본을 소탕하여 대한을 회복한다면 곧 그것이 효순(孝順)으로서 충을 온전하게 하는 것이 아니겠는가?> 오늘날의 시각으로 보면 이인영의 행동은 도저히 이해하기 어려운 일이지만, 당대의 정치 문화를 고려했을 때 그것은 이해할 수 없는 일이 전혀 아니었다. 본래 유교에서는 효와의 유사성에서 충을 파악하여 효를 우선시했다. 그리고 그것이야말로 <도>를 실현하는 것이었다. 조선 왕조, 대한제국이 소중한 이유는 그것이 <도>를 보호하고 유지하는 주체이기 때문이었다. 즉 <도>는 여전히 <국가>보다 상위의 개념이었다. 접기


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근대시대를 한국과 일본을 비교 함으로써 한껏 흥미를 유발합니다.
일독을 권합니다. 
김학구 2015-09-01 공감 (0) 댓글 (0)
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근현대사 교과서에서 배웠던 사건과 사건의 비어있던 연결고리를 채울 수 있는 책. 고등학생의 경우 근현대사 교과서를 1독 후 이 책을 읽고 다시 교과서를 보면 그 흐름을 좀 더 자연스럽게 읽어낼 수 있을 것이다. 개화파는 갑자기 어디서 등장했고 청나라와 일본만 등장하던 조선 후기 역사에 갑자기 아관파천이니 친러파니 하는 건 왜 나온 것이며 하는 등의 전후 사건을 알 수 있을 것이다.

일본인 독자를 대상으로 한 후기 조선의 통사이자 일본과의 관계사이기 때문에 내용이 어렵지는 않다. 근대사를 가볍게 복습해본다는 느낌으로 읽으면 좋을듯.

동학과 동학농민군의 자치 시기에 대한 평가는 왜 이리 미미한 것일까. 동학농민군이 전라도를 해방구로 만들어 스스로 개혁해가며 통치한 것을 보면 파리 꼬뮨보다 더 나은 것이 아닌가?라는 생각이 드는데 왜이리 근현대사 교육에서 비중이 낮은가. 동학은 인내천 평등사상을 주창하였는데 왜 이는 우리나라의 근대화 역사에 아무런 족적을 남기지 못한 것일까. 그것이 성과로 이루어지지 못해서?

밑줄, 생각

6쪽
한국의 국민 국가화는 그리 용이하지 않았다. 그것은 어째서인가? 재빨리 근대화한 일본이 한국의 국민 국가화를 저해했다는 것이 종래의 견해인데, 결코 틀린 말은 아니다.
그렇지만 한국에는 일본처럼 간단하게 서구화하는 것을 주저하게 만든 나름대로의 이유가 있었다는 것이 필자의 견해이다. 한국에는 문명 의식 차원에서 일본과는 비교가 되지 않을 정도의 우월 의식이 있었으며, 유교적 민본주의라는 정치 문화가 각계각층에 널리 침투해 있었다. 단순히 위정척사파의 사상뿐만이 아니라, 개화파의 사상도 유교적 민본주의에 구속당하면서 근대화를 구상하였다. 그리고 그것은 민중 세계도 공유하는 정치 문화였다.

10쪽
두 나라는 마주 보고 있는 거울처럼, 조선은 일본의 그늘이 되었고, 조선이 그렇게 될수록 일본은 양지로서 빛났다.

11쪽
오늘날 활발히 논의되고 있는 것은 식민지 근대성론이다.
일본의 식민지 지배를 통해 좋아지거나 그렇지 않거나에 상관없이 조선인은 나쁜 근대의 가치를 내면화하였다는 것이다.

13쪽
부탄 정부가 필요 이상의 GDP 발전을 추구하지 않고, 주민 총행복량의 증진에 정책의 기초를 두고 있는 것은 부탄의 전통적 정치 문화 양상과 밀접하게 관련되어 있을 것이다.

양자는 각각 어떠한 사회를 전제로, 어떻게 근대 세계로 돌입하였으며, 그 결과 어떠한 국가를 만들어 내었는가? 이 책에서는 이러한 흐름을 정치 문화의 문제를 단서로 삼아 밝혀 보려 한다.

27쪽
서리는 역이었기 때문에 봉급이 없었으므로, 행정 수수료 등을 명목으로 해서 급여를 스스로 조달하는 식의 수탈 행위를 할 수밖에 없었따.

32쪽
요컨대 주자학에 기초한 인정 이데올로기는 조선에서도, 일본에서도 확실히 기능하였지만 조선에서는 통치 원리 그 자체였던 데 비해, 일본에서는 통치 수단이었다는 측면이 강하다. 원리를 가진 사회란 그리 용이하게 스스로를 바꾸기가 어렵다. 이와 같은 점은 양국이 서구의 충격에 대응한 방식에 중요한 차이를 초래하였다.

34쪽
세도 정치에 대한 불만은 우선 정권에서 배제당한 양반의 불만을 일으켰다. 1811년 홍경래의 반란이 그것이다. 평안도의 가산에서 시작한 반란은 우선 가산 군수를 살해하고 일거에 평안도 각지로 세력을 확장했다. 반란은 몰락 양반을 중심으로 일어났고, 지방 차별타파와 안동 김씨 타도를 기치로 내걸었다.

민중의 최대 반란은 1862년의 임술민란이었다.
확인할 수 있는 것만으로도 민란 발생지는 전국 71개 읍에 이르렀다. 임술민란은 이러한 민란의 총칭이다.

35쪽
임술민란에서는 수령과 향리, 향임 등이 주요한 공격 대상이었지만, 사족이 이끄는 민중은 향리 등을 몇 명 살해하였으나 수령을 살해하는 일은 결코 없었다. 국왕이 직접 임명한 수령은 국왕의 신분이었고, 살해는 역성 혁명으로 간주되었기 때문이다. 수령은 기껏해야 쫓겨나는 데 그쳤다. 민중은 국왕이 파견한 선무사나 안핵사 앞에 엎드려 국왕의 인정을 애원했다. 민란에서도 법과 규율이 있었다.

36쪽
1821~1822년에 크게 유행하였던 콜레라 재앙에서는 수십만 명이 사망했다.

38쪽
동학은 1860년 5월 경상도 경주에서 몰락 양반 출신의 최제우가 창건하였다. 최제우는 유교, 불교, 도교의 세 종교를 통합하여 <천심이 곧 인심>이라고 하며, 만인은 선약의 복용과 주문의 암송을 통해 쉽게 <시천주>, 즉 천령에 감응할 수 있다고 하였다. 거기에는 일신교적 우주관이 있었고, 신비주의적 천인합일 사상이 있었다. 동학은 만인에게 군자화, 신선화, 더 나아가 진인화가 가능하다는 점을 강조했을 뿐 아니라, 인간 평등의 논리 또한 가지고 있었다.

동학이란 서학(천주교)에 대항하는 동방(조선)의 배움을 의미

41쪽
일본형 화이 의식이라고 불러야 할 우월의식이 존재했다. 일본은 신국이며, 무위에서 다른 나라보다 우월하다고 하는 의식이다. 조선은 그러한 시각에서 융국이었다.

명-청 교체를 통해 황(문명과 야만)를 뒤바꾼 중국은 더 이상 중화가 될 수 없었따.
조선은 작다고는 하더라도, 이제이 세계에서 유일하게존재하는 중화라고 하는 문명 의식이었따. 이른바 소중화사상으로, 일본은 어디까지나 문명적 척도에서 동이였다.

: 일본은 무위를 기준으로, 조선은 소중화사상을 기준으로 서로를 오랑캐 국가로 멸시하고 있었다.

조선 외교를 독점적으로 담당하고 있던 쓰시마 번

막부도 애초부터 있었던 조선 멸시관에 더하여, 재정상의 이유에서 조선 통신사의 에도 초빙을 허례로 생각하게 되었다.
막부 말기의 조일 관계는 삐걱거리고 있었다.

42쪽
조선을 향한 침략을 노골적으로 언명한 선구자는 사토 노부히로였다.
이러한 정략은 하시모토 사나이나 요시다 쇼인이 계승하였는데, 근대 일본의 팽창주의를 생각하는 선상에서 중요한 인물은 쇼인이다.
:이토 히로부미는 요시다 쇼인의 밑에서 수학하였다.

요시다 쇼인은 <취하기 쉬운 조선, 만주, 지나를 무력으로 평정하고, 교역에서 러시아에 잃어버린 것을 조선과 만주에서 토지로 보상받아야 한다>라고 함.

43쪽
일본에서는 (조선의 유학과 달리) 지켜야 할 절대적인 <도>란 존재하지 않았다. 그리하여 <서구의 충격>이라는 위협에 대항하기 위하여 지켜 내야 할 무언가를 창출할 필요가 있었다. 그것이 <국체>였다.

국체란
1. 천황의 일계 지배
2. 천황과 만민의 친밀성
3. 만민의 자발적이고 끊임없는 봉공심
이를 기반으로 하는 국가 권력이다. 여기에 심취한 자가 쇼인이었다.

<국체>는 메이지 헌법에서 근대 일본의 국가 원리로서 확립되었다.

44쪽
도쿠가와 막부에 <정한>을 구체적으로 제시한 것은 쓰시마 번이었다. 재정난에 빠졌던 쓰시마 번은 열강의 침략이 구체화되면 우선 조선이 위기에 빠지고, 그 경우에 쓰시마도 화를 입게 되므로, 막부의 원조가 필요하다고 주장하였다. <정한>의 언설은 이러한 문맥에서 나왔다.

메이지 유신으로 조선과 일본의 국교는 단절되었다. 1869년 1월 31일, 신정부는 쓰시마를 통하여 왕정복고의 사실을 조선에 고지하였는데, 그 서계가 일방적으로 구례를 배척한 것이었고,
이건은 조선 국왕을 격하하고 천황을 상위에 두는 것과 같은 문서였따. 조선은 이 서계의 수리를 당연히 거부하였다. 여기서 국교가 사실상 단절.

신정부는 조선이 이 서계를 거부할 것을 확신하면서 사절을 파견하였던 것이다.

53쪽
양민만이 부담하고 있던 군포를 호포나 동포란 명칭으로 바꾸어 노비를 소유하고 있던 주인인 사족으로부터도 징수했다. 이것은 조선의 신분제 역사상 획기적인 의미를 가졌따.
군역을 부담하지 않는 것은 사족의 중요한 특권이었기 때문이다.

전봉준은 대원군을 <우리나라가 종래부터 해왔던 양반 상인의 제도를 폐지하였던>인물이라고 평가.

55쪽
경복궁 재건 공사는 대원군 실각을 부른 최대의 원인

대원군은 대외 정책으로 쇄국양이 정책을 완강하게 관철. 그 시초는 천주교 탄압.

1866년 2월부터 탄압에 착수했다. 프랑스인 선교사 9명이 처형당했고, 조선인 신도의 경우 일설에 따르면 1만 명 가까이 처형되었다고 한다. 이제까지 없었던 조선 역사상 최대의 종교 탄압이었다. 이것을 병인박해라 한다.

60쪽
일본에서는 <국체> 사상의 대두를 통해 <국가>가 절대화되었기 때문에 <도>는 부차적인 것이었고, 따라서 서구화로의 전환이 용이할 수 있었다. 서구에 대한 철저한 항전은 <국가>를 멸망시키는 것일 뿐이다.

61쪽
그에 반해 조선에서는 <국가>가 멸망하더라도 <도>에 따라 죽는 것이야말로 인륜의 올바른 행위라고 여겼다.

67쪽
조선 측의 접견대관 신헌과 부관 윤자승은 <만국공법>에 대하여 아무런 지식을 갖고 있지 않았고, 조약이 무엇인지도 몰랐다. (강화도 조약 당시)

68쪽
이러한 조약(강화도조약, 조일수호조규)에서 무엇보다도 중요한 것은 수호조규 제1관에서 <조선국은 자주의 나라>라고 당연한 사실을 명기한 점이다.
이어서 일본의 치외 법권이 인정되었고, 조선의 관세 자주권은 부정되었다는 점이 중요하다.
일본은 일본 환폐의 유통권까지 획득하였다. 그리고 일본은 미곡 무역의 자유, 부산 이외에 원산과 인천을 개항할 것, 개항장 주변 4킬로미터 이내에서의 내지 통행권, 조선 연해의 측량권 등도 획득했다. 이로써 조선은 세계 자본주의 체제로 편입되었다.

70쪽
(일본 내 정한파와 반대파의) 논의는 <정한> 그 자체의 도덕성을 물으려는 것이 아니었다. 사족 반란을 방지하는 데 <정한>이 유효한가 아닌가를 논하는 것에 지나지 않았따.

77쪽
조선의 개화사상은 예상치 못한 탄생 양상을 취하고 있었던 것이다. 그것은 실학을 기반으로 서구 사상을 수용하였고, 거기에 불교가 그 촉매의 역할을담당함으로써 내재적으로 생성되었다.

85쪽
김옥균은 일본을 모델로 한 조선의 근대화와 대국화를 꿈꾸었고, 이후 동지들에게 <일본이 동양의 영국이 되고자 한다면 우리는 우리나라를 아시아의 프랑스로 만들어야 한다>라고 하였다.

86쪽
민씨 정권의 탄생 이후 국비가 낭비되었고, 매관매직의 풍조가 다시 성행하였따. 그 때문에 대원군 시대에는 완화되었던 가렴주구가 다시 심해졌다. 또한 민비는 무당이나 점쟁이들을 중용하여 기도나 점을 치는 데 막대한 포상금을 쏟아부었다. 국가개정은 궁핍해져 갈 뿐이었따.

88쪽
고종은 <지금부터 크고 작은 공무는 대원군이 결정하도록 명한다>라 고전교를 내려 대원군에게 정권을 위임하기에 이르렀다.(임오군란 당시)

90쪽
김윤식,어윤중, 김홍집 등의 온건 개화파와, 김옥균, 박영효, 홍역식, 서광범 등의 급진 개화파.

제물포조약(임오군란의 결과)
군란 주모자의 체포와 처벌 이외에, 피해자에 대한 배상금 5만 엔, 국가 배상 50만 엔, 일본 공사관의 일본군에 의한 경호 등을 합의하였다. 또한 이 조약과 동시에 일본수호조규속약도 조인되어 부산, 원산, 인천에서 일본상인의 활동 영역이 50리(20킬로미터)로 확장됨과 동시에 한성 근교의 양화진 개시와 일본 외교관원의 내지 여행권을 인정하였다.

99
1882년 9월 임오군란의 사죄사로 박영효를 정사로 하는 수신사가 일본에 파견되었다. 국기인 태극기는 이때 배 안에서 제작하여 처음으로 사용하였다.

101쪽
개혁은 민씨 정건과 알력을 초래했다. 민씨 정권도 분명하게 근대적 개혁에 반대했던 아니었으나 그것이 개화파 주도로, 게다가 급진적으로 실시되는 것에 대해서는 척족, 문벌 정치는 추진하는 입장에서 몹시 거북한 일이 아닐 수 없었다. 개혁의 추진은 어느 방향이든 자파 세력의 후퇴, 부정을 초래할 수밖에 없었기 때문이다. 개혁의 추진은 어느 방향이든 자파 세력의 후퇴, 부정을 초래할 수밖에 없었기 때문이다.

107쪽
애초부터 조선에서는 <부국강병>은 권력주의적 패도의 이미지를 갖는 것이어서 부정적인 의미로 받아들여지는 전통이 존재하였따. 그것을 대신하여 주창한 것이 <자강>이었다.

108쪽
갑신정변이 왜 혁명이 아니라 쿠데타라는 형태를 취하고, 더욱이 일본에게 전면적으로 의존하려 했는가, 그 본질은 전적으로 개화파의 우민관에서 찾아볼 수 있다.
민중의 이반은 개화파 정권 붕괴의 결정적 요인이었다.

109쪽
갑신정변에 깊이 관여한 후쿠자와 유키치의 경우 좀 더 노골적이었다. 그는 애초부터 국권주의자였지만, 1885년 3월 16일 [지지신보]에 게재한 [탈아론]에서 조선과 청국을 <악우>라고 하며, 서구 문명국과 같은 태도로 양국을 상대해야 한다고 하였다.

122쪽
일본 화폐가 유통되는 것에 덧붙여 금은동의 비가가 국제 기준과 동떨어져 있던 상황을 이용함과 동시에, 사기적인 물물교환 등을 통해서 이루어진 약탈적인 금 수출은 1897년 일본이 금 본위제로 이행하는 데 지대한 공헌을 했다. 메이지 첫해부터 청일 전쟁 전년까지 여러 외국으로부터 수입한 금의 총액은 1,230만 엔 정도였는데, 그 가운데 68퍼센트는 조선에서 수입된 것이었다. 또한 가격이 싼 조선의 미곡이나 대두의 수입은 일본 노동자를 저임금으로 고용하는 데 기여했다. 오사카나 고베의 노동자는 통상적인 쌀값의 3분의 1 정도로 그것들을 손에 넣을 수 있었다.

138쪽
농민군 중에는 일부 부민이나 일본 소농민이 다수 참가하고 있었는데, 이들 대다수는 농번기였기 때문에 귀향해 버렸다. 그 가운데 농민군의 주체로 빈농층이나 무산자층, 천민 등의 존재가 두드러지게 되었다. 자치의 급진화는 이러한 요소가 원인이었다.

139쪽
종래의 집강소라고 하면 농민군 자치 기구라고 하여 상당히 유명하였는데, 이것은 착오이다.
일반적으로 집강은 촌장(풍헌, 약정, 존위 등)과는 별도로 촌정이나 풍교를 감찰하는 임원을 말했다. 자치기구는 어디까지나 도소였고, 양자는 원칙적으로 구별되었다.

152쪽
8월 24일 제3차 김홍집 내각이 수립되었다. 이 내각에서는 이범진, 이완용, 안경수 등 정동파가 진출했따. 정동파란 한성의 정동에 있던 러시아 공사관, 미국 공사관 등에 출입하고 있던 관료들을 말한다.

갑오개혁은 갑오농민전쟁에서 나타난 농민의 제반 요구를 국정 전반에 걸쳐 근대적 여러 개혁을 통하여 응하려 한 것이었다.

155쪽
민비 암살의 기도는 같은 해 9월 1일 부임함 퇴역 육군 중장 일본 공사 미우라 고로를 통하여 구체화되었다.

164쪽
러시아는 다른 열강의 조선에 대한 간섭을 방어하기 위해서 칭제가 바람직하다고 생각하였고

칭제는 조선 왕조의 비원이었다. 여진족인 청에 복속하는 예를 행한 이래로 사대 지향의 한편으로 자립 지향도 끊임없이 존재하였다.

166쪽
그렇다면 왜 <조선>이라고 하는 국호를 폐지하여 <대한>으로 해야만 했는가? 그것은 <조선>이 고조선에서 유래하는 것이지만 국초에 명으로부터 책봉을 받을 때 명명된 국호였기 때문이다. 따라서 <조선>은 제국에 어울리는 국호가 아니었다. 제국의 논리로서는 복수의 국가를 복속시킨 결과로서 탄생한 국가라고 하는 명분이 있어야만 했는데,그 결과 채용된 것이 <한>이었다. 고종의 조칙에 따르면 신화, 전설상의 단군과 기자에 의한 개국 이래로 고조선은 영토가 분할되어 <서로 다투도>있었는데, 고구려 당시 마한, 변한, 진한을 통합하여 <삼한>으로 삼고, 지금의 조선에 들어와 북쪽으로는 말갈, 남쪽으로는 탐라(제주도)를 정복하여 4,000리에 이르는 <일통의 업>을 이룬 것이 된다. 이러한 역사 인식은 잘못된 것이나, 세분화된 <한>이 고구려 때를 계기로 서서히 확대하여 제국이 되었고,그 때문에 <대한>이라고 불러야 한다는 논리이다.

173쪽
독립협회가 정력적으로 조직한 운동은 우선 열강에 대한 이권 양도를 반대하는 운동이었다.
활기를 띠고 있던 독립협회에서는 이권 양도 조사를 실시하려는 급진파가 대두하였고, 그들은 미국, 프랑스, 독일, 일본 등의 이권 양도에도 반대하였다. 다만 영국, 독일 일본에 대한 경계는 약하였고, 독립협회는 독특한 세력 균형관을 가지고 러시아와 그 동맹국인 프랑스를 특히 위험하게 보았다.

210쪽
조선인 가운데는 예외적으로 자진하여 인부에 나서는 자가 있었다. 일진회였다. 일진회는 원래 러일 개전 이후인 1904년 8월 18일 일본 군부의 지원을 받은 송병준이 창립한 친일 단체이다.

동학의 정통인 교단 중앙은 갑오농민전쟁 이후 서서히 개화주의로 방향을 틀었고, 러일 전쟁 시기에는 친일화하였다.

일진회 회원이 100만이라고 하였는데, 10만 명 내외의 세력을 과시하였고, 한말 최대의 정치,사회 단체가 되었따.

235쪽
최익현은 일본군과 싸우려 했음에도 불구하고 눈앞에 나타난 적은 한국군이었다. 동족상잔의 전투를 그만두려 호소하였으나 그것이 받아들여지지 않는다는 사실을 알게 되자, 최익현은 의병의 해산을 결의했다.

:을미늑약에 항거하여 일어난 최익현은 그들 앞에 선 한국인 진위대를 보고 얼마나 절망스러웠을까.

236쪽
최익현은 적의 쌀은 받지 않는다고 하여 절식하다가 얼마 후 사망하였다.

243쪽
일진회 송병준은 양위하지 않는다면 자결하든가, 천황에게 직접 사죄하든가, 아니면 전쟁을 할 수밖에 없다고 고종을 다그쳤다.

250쪽
<도>는 문명이었고, <국가>의 상위로 설정하였는데, 조선 왕조, 대한제국이 소중한 것은 <도>를 보호하고 유지하는 주체 그 자체였기 때문이다. 의병장에게 문명을 위해 죽는 것은 나라를 위해 죽는 것과 같은 의미였다.

: 이인영의 행동이 이해는 가지만 단결된 13도 창의군이 일본군과 맞붙었다면 역사가 어떻게 되었을지 궁금하긴 하다.

256쪽
대한 내셔널리즘을 적극적으로 고취하였던 인물이 바로 박은식과 신채호였따. 양자의 사상적 특징은 당시 사회 진화론은 <진보>를 중시하여 이해하는 경향이 강한 와중에, 반대로 철저하게 <경쟁>을 중시하여 이해하였다는 점에 있따. 그 결과 양자는 현실 세계에는 가혹한 경쟁이 있을 뿐, 보편적 도의 등은 없다고 생각하였다.
국가는 도의보다도 무겁다고 주장한 것이다.

257쪽
주자학적 사유에 젖어 있었던 조선의 지식인은 이러한 사유로부터 쉽게 벗어날 수 없었는데, 박은식과 신채호는 도덕과 정치를 분리시킴으로써 진정한 국가주의를 정립하였다.

260쪽
보안법(1907년)을 실행하고, 이 법률로 내부대신은 안녕 유지를 위하여 결사를 해산하고, 경찰은 집회나 <다중 운동>을 제한, 금지할 수 있게 되었다.

언론 통제로서는 신문지법(1907년) 중요하다. 내부대신은 <안녕 질서>를 방해하는 신문을 압수하고, 발행 정지, 발행 금지 등이 가능하도록 했다. 반일 기사의 엄격한 금지였다.

게다가 통감부는 출판법(1909년)에 기초하여 출판을 허가제로 하여 검열을 엄격하게 하였고, 다수의 출판물을 발행 정지시켰다. 언론 탄압은 여기서 극에 달한 느낌이었다.

: 이미 나라가 강탈 당한 바 언론 탄압은 대수롭게 여겨지지도 않는다.

261쪽
통감부는 베델을 공사 양면으로 감시함과 동시에 두 차례에 걸쳐 영국 영사관에 고발하였다. 영국은 치외 법권에 기초한 영국범의 적용과 일본과의 우호 관계 사이에서 고민하였는데, 결국은 준거로 삼아야 하는 추밀원령을 수정하였고, 영국인 발행 신문은 우호국의 관헌과 한국 신민 사이를 이간질해서는 안 된다고 하여 베델을 처벌하였다. 즉, 베델은 1907년 10월 6개월의 근신 처분을 받았고, 다시 1908년 6월에는 3주간의 금고형과 6개월의 근신 처분을 받았다. 금고형이란 한국으로부터의 추방이었다. 베델은 그래도 되돌아왔다. 그러나 1909년 5월 1일 불행하게도 36세의 젊은 나이로 병사하였다. <내가 죽더라도 대한매일신보는 영생하도록 하여 대한국 동포를 구출하라>가 유언이었다. 제국주의가 풍미하던 시대에 피억압 민족에게 일신을 바쳤던 보기 드문외국인이었다.

: 허버트와 베델에 대해서는 추후에 더 공부를 해야겠다. 조선인은 세계에서 제일 비능률적인 민족이라며 경멸했던 잭 런던과는 달랐다.

264쪽
선교사들은 <문명의 사도>이기도 했다. 그 때문에 조선의 문명화를 부르짖는 이토 히로부미의 평판은 반드시 나쁘지만은 않았다.
그런 가운데 베델의 반골 정신과 일본 혐오는 두드러진 것이었다.

270쪽
<우리들은 죽을 수밖에 없겠지요. 괜찮아요. 그걸로 됐어요. 일본의 노예로 살기보다는 자유로운 인간으로 죽는 편이 훨씬 낫지요>라고 말하였는데, 죽음을 각오한 의병의 비장한 심정이 강하게 전해져 온다.

292쪽
병합조약과 동시에 조선귀족령을 실시하여 76명의 조선인이 귀족에 포함되었다. 그러나 한규설과 유길준을 비롯한 6명이 작위 수여를 거부했다. 또 대관을 역임한 김석진은 자결하였고, 궁내부대신으로 고종의 매제였던 조정구는 두 차례나 자살을 시도했다. 순국자는 전국적으로 줄을 이었다. 양반 유생 9,811명에게는 경로금이 지급되었고, 효자 등 향촌의 모범자에게는 포상을 수여하였다. 또 대사면을 실시하여 부정을 한 지방 관료도 그 죄를 용서받았다. 그리고 일반 민중에 대해서는 미납 세금을 면제하였고, 추수에 한하여 지세를 5분의 4로 감면하였다. 더욱이 13도에는 국탕금 1700만엔을 지출하여 진휼이나 교육 보조금 등에 충당하였다.
이렇게 성대한 대접은 감옥에 들어가기 전의 진수성찬과 같은 것이었다. 조선 민중은 이제부터 어두운 가시나무 같은 길을 걸어야 할지도 모른다는 막막한 불안감을 품으면서도, 그것을 지워 버리려는 듯 <공포의 보수>를 받아들이며 한순간 안도하는 숨을 내쉬었다.

293쪽
그와 같은 병합 합리화의 언설은 역사학자 기다 사다키치의 논의에서 전형적으로 볼 수 있다. 병합하던 해 그는 [한국의 병합과 국사]를 저술하여 아득한 고대에 분가하여 궁핍한 생활을 하고 있는 조선을 본가인 일본인 인수한 것이 한국 병합이라고 했다. 정체론과 타율성 사관의 입장을 <일선 동조론>으로 보강하면서 병합을 합리화한 논의였다.

295쪽
한편 한국병합조약이 조인된 밤의 연회 석상에서 데라우치 마사타케는 득의만만하게 <고바야카와, 가토, 고니시가 살아 있다면 오늘 밤 달을 어떻게 보았을까?>라고 읊조렸다.
ㄴㅅㅈ 2016-12-02 공감(4) 댓글(0)
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1장 조선 왕조와 일본



"일군만민 체제에서는 공론이나 직소가 중요한 언로였고, 건국 당초부터 중시되었다. 유교적 민본주의에서 정치의 주체는 어디까지나 국왕이나 관료, 사족이었고, 백성은 정치의 객체일 뿐이었지만 그 대신 백성의 이의 신청은 확고하게 인정되었다." "유교적 민본주의는 그 외에도 권농교화, 진휼부조, 평균분배 등을 그 구체적 내용으로 하였다. 그리고 유교적 민본주의의 기초에는 농본주의가 있어 순박한 농부로 살아가는 것을 통속 도덕적으로 교화하였다. 백성은 먹을 것을 생산하는 주체임과 동시에, 재난에 처했을 때에는 인정(仁政)을 받을 권리를 가졌다. 민본인 이상 백성을 나라보다도 중시하였고, 민중들의 상호 부조도 장려하였다. 부민은 빈민을 도와주어야 하는 존재였다. 양반은 유교적 민본주의를 내면화한 존재로 간주되었고, 민중 구제는 양반의 당연한 책무였다. 이러한 민본주의의 양상은 자연스럽게 평균주의를 이상으로 만들고, 균전사상(均田思想)을 배태하였다."(25-6)



"확실히 유교적 통치 방법은 근세 일본에서도 채용되었다. 근세 일본에서는 인정(仁政) 이데올로기를 전제로 한 공의(公儀)와의 은뢰 관계(恩賴關係), 즉 〈백성 성립〉의 논리가 있었고, 교유(敎諭)를 축으로 하는 유교적 정치 문화가 있다는 것을 부정할 수 없다. 다이묘를 목민관으로 파악하는 논의도 있었다. 유교적 교양을 쌓는 것은 무사(武士)의 당연한 소양이었고, 유교 교육을 근간으로 하는 번교(藩校)가 18세기 끝 무렵부터 전국적으로 보급되었다. 그러나 근세 일본에서 〈무위(武威)〉가 막번 체제 최대의 기반이었다는 것에는 변함이 없었다. 민본주의에 의해 형성되는 목민 의식이 있었지만, 엄격한 법치 사상과 〈구원〉에 의한 인정주의가 양립하였다. 또한 일본에서 유학자가 정치에 적극적으로 참여한 것은 아라이 하쿠세키나 구마자와 반잔 등에게서 예외적으로 나타나는 것으로 유학자의 사회적 지위는 낮았다."(30-1)



# 유교 이데올로기는 조선에서는 통치 원리 자체였지만, 일본에서는 통치 수단의 하나에 불과했다.



"〈정한征韓〉 사상은 메이지 시기에 들어 갑자기 대두한 것이 아니다. 조선 멸시관을 전제로 하면서 18세기가 끝날 무렵부터 형성되어 있었다. 하야시 시헤이는 조선을 일관되게 일본에 복속하였던 나라로 간주하였는데, 조선을 향한 침략을 노골적으로 언명한 선구자는 사토 노부히로였다. 그는 〈만주〉를 시작으로 하여 몽고, 조선을 침공하고, 결국 중국 본토로의 침략을 몽상하였다. 서서히 다가오는 〈서구의 충격〉에 대항하여 대륙 팽창의 방책을 제창한 것이다. 이러한 정략은 하시모토 사나이나 요시다 쇼인이 계승하였는데, 근대 일본의 팽창주의를 생각하는 선상에서 중요한 인물은 쇼인이다. 그는 〈취하기 쉬운 조선, 만주, 지나를 무력으로 평정하고, 교역에서 러시아에 잃어버린 것을 조선과 만주에서 토지로 보상받아야 한다〉라고 하여 장래 러시아에게 빼앗길 부(富)의 대체 보상으로 조선을 시작으로 한 대륙 침공을 구상하였다."(42)



"근세 일본에서는 불교나 신도(神道)도 유교와 병존하면서 커다란 힘을 가지고 있었고, 난학(蘭學)마저도 허용되었다. 따라서 일본에서는 지켜야 할 절대적인 〈도〉란 존재하지 않았다. 그리하여 〈서구의 충격〉이라는 위협에 대항하기 위하여 지켜내야 할 무언가를 창출할 필요가 있었다. 그것이 바로 〈국체〉였다. 〈국체〉란 미토 번사 아이자와 세이시사이가 쓴 『신론(新論)』(1825)에서 처음으로 정의를 내린 용어이다. 거기서 국체란 ① 천황의 일계(一系) 지배, ② 천황과 억조(만민)의 친밀성 ③ 억조의 자발적이고 끊임없는 봉공심(奉公心)이라고 하는 세 가지 요소를 주축으로 하는 국가 권력으로 설명하였다. 여기에 심취한 자가 쇼인이었다. 그는 〈국체〉론적 입장에서 『맹자』를 독자적으로 해석하였고, 거기에 기초하여 조슈 번의 대유(大儒) 야마가타 다이카와 논쟁을 벌였다. 쇼인의 입장은 〈도〉와 〈국가〉를 확연하게 분리하여 〈도〉 위에 〈국가〉를 위치시키는 것이었다."(43)



"메이지 유신으로 조선과 일본의 국교는 단절되었다. 1869년 1월 31일, 신정부는 쓰시마를 통하여 왕정복고 사실을 조선에 고지하였는데, 그 서계(書契, 조일 간의 외교 문서)가 일방적으로 구례(舊例)를 배척한 것이었고, 〈황(皇)〉이라든가 〈칙(勅)〉과 같은 문자를 사용하였다. 이것은 조선 국왕을 격하하고 천황을 그 상위에 두는 것과 같은 문서였다. 조선은 이 서계의 수리를 당연히 거부하였다. 여기서 국교가 사실상 단절되었고, 근세에 곡절이 있었으나 꾸준히 구축되어 왔던 선린 관계가 단절되었다. 신정부는 조선이 이 서계를 거부할 것을 확신하면서 사절을 파견하였다. 기도 다카요시는 사절이 조선에 도착하기 전에 이미 조선이 이제까지 천황에게 조공해 오지 않았다는 점을 〈무례〉하다고 비난하면서, 조선이 복종하지 않을 때에는 〈신주(神州, 즉 일본)의 위엄을 펼칠 것〉을 이와쿠라 도모미에게 건의하고 있었다. 메이지 유신은 애초부터 침략 사상을 내포하고 있었던 것이다."(44-5)



2장 조선의 개항



"(개항 과정에서) 숭문(崇文)의 나라임을 자부하는 조선이 도리어 무위의 나라임을 자부하는 일본 이상으로 완강히 저항했다는 점은 양국 문명 의식의 차이와 크게 관련된다." "이항로는 성현의 〈도〉를 지키는 것이야말로 〈나라〉의 존망을 뛰어넘는 절대적인 행위라 하여 유교 문명의 절대적인 수호를 준렬하게 설파하였다. 이 점은 현실의 조선 왕조가 존귀한 것은 〈도〉를 실천하고 있기 때문이며, 그 실천을 포기한다면 그러한 왕조는 의미가 없다는 것을 의미하였다. 이러한 사상은 일본의 〈국체〉 사상과는 전혀 달랐다. 일본에서는 〈국체〉 사상의 대두를 통해 〈국가〉가 절대화되었기 때문에 〈도〉는 부차적인 것이었고, 따라서 서구화로의 전환이 용이할 수 있었다. 서구에 대한 철저한 항전은 〈국가〉를 멸망시키는 것일 뿐이다. 서구의 적수가 되지 않는다고 인식하자마자 존양론(尊攘論)이 개국론으로 급격하게 전환하였던 비밀이 여기에 있다."(59-61)



1875년 9월 20일부터 28일까지 운요호가 강화도에 출몰해 조선 관민을 도발한 사건은 "마실 물을 구하려고 초지진으로 향하던 차에 불의의 공격을 받았다는 식으로 날조되었다. 운요호의 강화도 접근은 명백하게 〈만국공법〉을 위반한 것이었는데, 마실 물의 보급이라면 〈만국공법〉에서 인정되는 경우가 있었기 때문이다. 운요호는 최초부터 조선군을 도발하였고, 반격을 시도하면서 영해를 침범했다." "일본 정부는 강화도 사건을 절호의 구실로 하여 일거에 조선과의 국교 회복을 실현하려 했다. 운요호의 잘못을 인정하지 않고 도리어 조선 측에 잘못을 덮어씌워 조약을 체결하려는 계산이었다." "1876년 2월 10일, 구로다 일행은 군함 6척을 이끌고 강화도에 나타났고, 병력이 4000명이라 했다. 페리의 사례를 모방하려 한 위압 외교였다. 다음날부터 진행된 회담에서, 조선 측의 접견대신 신헌과 부관 윤자승은 〈만국공법〉에 대하여 아무런 지식을 갖고 있지 않았고, 조약이 무엇인지도 몰랐다."(65-7)



# 2월 26일 조일수호조규 조인



3장 개항과 임오군란



"조선 정부는 이홍장의 중개로 미국과 수호 통상 조약의 체결을 추진하기로 결정했다. 조약 교섭의 임무에 나선 이는 박규수의 제자 김윤식이었다. 그는 근대 병기의 제조 학습을 목적으로 한 유학생 38명을 인솔하는 영선사의 임무를 가지고 1881년 11월 17일 이홍장이 있는 톈진으로 향하였다. 그러나 그것은 표면적인 임무였고, 보다 중요한 임무는 미국과의 수호 통상 조약의 체결이었다. 위정척사파가 우세하였던 조선에서는 조약 교섭에 지장을 초래할 가능성이 있었기 때문이다. 톈진에는 미국 정부의 명령을 받은 해군 제독 슈펠트가 기다리고 있었다. 교섭에서 가장 논란이 된 내용은 청국의 종주권을 조약문에 넣을 것인가 말 것인가 하는 문제였다. 이홍장은 〈속방〉 규정을 고집하였는데, 김윤식도 거기에 적극적으로 반대하지 않았다. 이것은 청국의 〈속방〉이더라도 조선은 내정과 외교에 대해서는 〈자주〉라고 하는 의식을 이홍장과 김윤식이 공유하고 있었기 때문이다."(81)



# 슈펠트의 반대로 〈속방〉 규정 명문화 무산



"(일본에 파견된) 조사시찰단(신사유람단)은 박정양, 조준영, 엄세영, 강문형, 민종묵, 이헌영, 어윤중, 홍영식 등 12명의 조사(朝士)와 27명의 수행원, 기타 23명으로 구성되었다." "이때 수행원 가운데 유길준과 유정수는 게이오기주쿠에, 윤치호는 도진샤에 유학하였다. 조선 최초의 유학생이었다. 조사시찰단은 메이지 일본이 실시하였던 이와쿠라 사절단과 성격이 유사했다. 구미로 직접 향하기에는 자금과 시간, 어느 쪽으로도 여유가 없었기 때문에 손쉬운 일본을 선택했다. 조사들은 각각 보고서를 작성하였다. 그러나 그 내용은 이와쿠라 사절단이 서구 지향을 강하게 하고 귀국한 것과는 상당히 달랐다. 조사들은 일본이 〈부국강병〉을 달성해 가고 있다는 점을 인정하였으나, 산업화의 추진 과정에서 누적된 국채 때문에 국가재정이 파탄 났다고 보아 메이지 유신을 반드시 긍정적으로 평가하지는 않았다." 반면, 김옥균은 일본을 모델로 한 조선의 근대화와 대국화를 꿈꾸었다.(83-4)



민비의 실각과 대원군의 재등장, 청국의 개입과 대원군의 청국 억류 등 일련의 사태를 야기한 "임오군란에 대한 일본의 여론 동향은 어떠했을까? 우선 정부의 강경한 대조선 정책에 곧바로 응하듯이 관권파 신문인 「도쿄 니치니치 신문」은 일본의 피해를 크게 부풀려서 조선에 대한 적개심을 부채질했다. 후쿠자와 유키치가 주재하는 「지지 신보」는 청국에 대한 대항을 의식하여 충분한 육해군 병력의 출병을 호소함과 동시에, 군사적 충돌을 개시할 각오로 배상금을 취해야 한다고 했다. 후쿠자와는 이제까지 동양 맹주론을 주장하여 조선이나 중국을 문명적으로 지도해야 한다고 주장하였는데, 이것은 커다란 변절의 첫걸음이었다. 이 시기, 임오군란과 관련된 니시키에(錦繪)가 매우 많이 팔렸는데, 그것들은 하나부사 공사 일행의 탈출 모습을 극적으로 묘사하여 일본 민중의 조선에 대한 적개심을 한층 더 조장하였다. 그에 따라 헌금이나 종군 청원을 제출하는 사람들도 나타났다."(91)



4장 갑신정변과 조선의 중립화



"1884년 12월 4일 갑신정변을 일으킨 급진 개화파가 지향한 것은 서구 근대 문명을 받아들여 〈만국공법〉 체제로의 일원적 진입을 꾀하고, 종주권을 강화한 청국으로부터의 완전 이탈을 도모하는 것이었다. 국민 국가를 건설하기 위해서였다. 이때 단시일 안에 서구화를 달성한 일본의 메이지 유신은 매우 좋은 모델이었다. 거기에는 〈아시아의 프랑스〉를 지향하려 한 김옥균에게서 짐작할 수 있듯이 대국 지향 노선도 일부 보인다." "그러나 김옥균에게는 다른 한편으로 아시아주의적 연대 사상도 있었다." "애초부터 조선에서는 〈부국강병〉은 권력주의적 패도(覇道)의 이미지를 갖는 것이어서 부정적인 의미로 받아들이는 전통이 존재하였다. 그것을 대신하여 주창한 것이 〈자강〉이었다. 〈자강〉이란 민본을 기초로 두고 내정과 유교적 교화의 충실을 도모하는 것이다. 그것은 〈부국강병〉이 패도인 데 비하여 왕도라고 할 것이다."(106-7)



"급진개화파에게는 우민관도 강한 면모를 드러내고 있었다. 본래 유교적 민본주의라는 것은 민을 위한 정치를 주장하면서도, 민을 정치의 주체로 둔다는 발상을 가지고 있지 않았다. 사민평등의 사상은 개화파의 아버지인 박규수에 의하여 열렸으나, 구체적 실천의 차원이 되면 엘리트적 사(士)의 자각을 가진 개화파에게는 어려운 일이었다. 갑신정변이 왜 혁명이 아니라 쿠데타라는 형태를 취하고, 더욱이 일본에게 전면적으로 의존하려 했는가, 그 본질은 전적으로 개화파의 우민관에서 찾아볼 수 있다. 사실 개화파 정권의 붕괴에는 한성 민중의 공격도 중요한 역할을 하였다. 민중 사이에서는 국왕을 폐위한다는 소문이 순식간에 퍼져나갔고, 민중은 계속해서 왕궁이나 공사관을 둘러싸고 일본인이나 개화파에게 투석이나 폭행을 가했다. 민중을 신뢰하지 않고 외국을 신뢰한 개화파 정권은 민중에 의해 타도되었다. 민중의 이반은 개화파 정권 붕괴의 결정적 요인이었다."(107-8)



"갑신정변이 일어났던 시기, 일본의 자유 민권 운동은 중대한 위기에 처했다. 급진파는 계속해서 과격 사건을 일으켰고, 그것을 통제할 수 없었던 자유당은 1884년 10월에 해산했다. 갑신정변은 그러한 궁지를 타개할 한 줄기 빛이었다. 민권파의 신문은 들고 일어나 대청 강경론을 전개하여 1885년 1월 18일과 30일에는 도쿄와 오사카에서 각각 학생, 청년과 장사 등에 의한 지사 운동회와 반청 데모가 일어났다." "1885년 11월 23일 오이 겐타로나 고바야시 구스오가 중심이 되어 일으켰던 오사카 사건은 자유 민권 운동이 국권론으로 크게 선회한 내부 사정을 가장 잘 보여준다. 이 사건은 구 자유당원들이 무력으로 조선을 침공하여 민씨 정권을 타도하려 한 계획이 발각된 것이었다. 그러나 개화파에 대한 연대라고 말하였지만 사실은 침체한 자유 민권 운동의 활기를 살려내기 위해서 사건을 바깥에서 꾸민 것에 불과했다. 조선 문제를 이용하려 했을 때, 민권론을 국권론으로 쉽게 전환하였다."(109)



5장 갑오농민전쟁과 청일전쟁



"갑오농민전쟁은 근대 조선 역사상 획기적인 민중 운동이었다. 그것은 유교적 민본주의의 정치 문화를 배경으로, 무력적으로 중개 세력을 배제하고, 일군만민의 논리에 호소하여 민중적 요구를 실현하려 한 것이었다. 그리고 반년도 채우지 못한 기간이었지만 민중 자치를 실행하였던 것은 조선 역사상 그때까지 없었던 일이었다. 그러나 일군의 통치가 미치지 않는 상황이 출현하는 가운데 민중은 농민군 간부의 지도를 이탈하여 급진적인 개혁을 지향하였다. 농민 전쟁의 전 과정에서 책임을 지려 했던 전봉준의 입장에서 볼 때 그것은 도저히 용인할 수 없는 바였다. 그러나 민중은 자신들이 그리던 유토피아를 자율적으로 실현하려 하였다. 그리고 자신들의 개혁이 설령 지나쳤다고 하더라도 국왕은 반드시 그것을 용서해 주리라는 낙관론에 취해 있었다. 예사롭지 않은 〈충군애국〉 사상과 의병 의식을 가지고 궐기했던 전봉준과, 유토피아의 실현을 서두른 민중 사이에는 분명히 의식의 괴리가 있었다."(148-9)



"갑오개혁은 갑오농민전쟁에서 나타난 농민의 제반 요구를 국정 전반에 걸친 근대적 여러 개혁을 통하여 응하려 한 것이었다. 그러나 정치, 재정 기반이 취약했기 때문에 실현은 부분적으로만 이루어질 수밖에 없었다. 더욱이 급격한 〈위로부터〉의 개혁은 민중의 지지를 얻지 못하였다. 영세한 농업이나 상공업에 대한 개혁, 보호가 이루어지지 않았다는 사실은 도리어 민중의 반발을 불러일으켰다. 무엇보다도 농민은 소농 회귀적인 토지 정책을 바라고 있었는데, 갑오개혁 정권은 지주를 옹호하는 입장에서 거기에 일절 손을 대려 하지 않았다. 또한 조세 금납화는 농민이 더욱 더 상품 화폐 경제에 편입되어 몰락의 길을 가속화하는 것을 의미하였기 때문에 농민들로부터 환영받을 수 있는 것이 아니었다. 민중은 갑오개혁 정권과는 반대로 반근대적 지향을 하고 있었다." "더욱이 개혁이 일본의 간섭 아래 이루어졌다는 사실은 근대화와 침략을 겹쳐 보이게 만들어 반일·반개화의 기운을 한층 고조시켰다."(152-3)



6장 대한제국의 시대



"고종은 칭제(稱帝) 상소를 받아들이면서 〈6군(천자의 군대)과 만민의 바람〉에 따라 어쩔 수 없이 따른다는 수사를 구사하였다. 공론 중시는 유교적 민본주의의 기본이었고, 고종은 이제까지의 유교적 정치 문화를 존중하면서 칭제를 받아들일 필요가 있었다. 더욱이 고종은 일군만민 사상이 성숙하였고, 갑오농민전쟁에서 정점에 도달하였음을 충분히 인식하고 있었다. 그렇기 때문에 교조 신원 운동이나 갑오농민전쟁에 대한 대처도 당초에는 철저히 탄압하는 것이 아니라, 선무공작이나 회유공작을 실시하였다." "그렇기 때문에 고종은 홍범14조의 발포 다음 날에 낸 칙령 제14호에서 〈군주가 자주를 하려고 하더라도 백성에게 의지하여야 하며, 나라가 독립하려고 하더라도 백성과 함께해야 한다. 너희 서민들은 마음을 하나로 하여 다만 나라를 사랑하고, 그 기운을 같이하여 오직 군주를 사랑하라〉라고 하여 〈충군애국〉을 당당하게 말할 수 있었다."(165)



"이리하여 조선은 대한제국이 되었다. 그 국제가 바로 1899년 8월에 공포된 대한국국제(大韓國國制)이다. 이것은 겨우 전체 9개 조항으로 이루어진 문장에 불과하나, 대한제국이 〈자주독립의 제국〉이며, 그 정치는 〈만세불변의 전제 정치〉로, 황제는 〈무한의 군권〉을 갖는다고 선포하였다. 황제는 통수권, 입법권, 행정권, 관리 임명권, 외교권, 은사권 등 모든 권력을 갖는다고 하였다. 이러한 국제는 결코 헌법이 아니었다. 거기에는 국가의 이념이나 신민의 권리·의무, 끝으로는 관권 등에 대해서도 아무런 언급을 하고 있지 않다. 대한제국은 〈구본신참(舊本新參)〉을 표방하였고, 오히려 유교와 민본주의는 국가의 원리였다. 이미 신민의 생명 재산에 대한 보호에 대해서는 홍범14조와 칙령 제14호에 명기되어 있었다. 대한국국제는 단지 민본주의 이념을 당연하다는 듯이 실천하며, 한없이 자애로워야 하는 황제의 권능을 명시한 것에 지나지 않았다."(167)



"독립협회에 대한 조삼모사식의 대응에서도 볼 수 있듯이 고종은 대원군에게서 물려받은 책사적 일면을 갖고 있으면서도 매우 경솔하고 사려가 부족하였고 주위를 돌아보지 않았다. 너무나 정실(情實)적인 인사는 총애와 경질을 반복하였고, 때로 믿기 어려운 사건까지도 일으켰다. 러시아 공사 베베르의 이권을 도모한다면서 그때까지 총애하던 전 역관 김홍륙을 유배에 처하자 원한을 사 1898년 9월 11일 만수성절(황제의 탄생일)의 커피에 아편이 들어갔던 것이다. 이때 고종은 무사하였으나, 황태자 척(拓)은 그 후 평생 병약한 상태가 되고 말았다. 일군만민의 정치라고 하는 것은 현명한 군주를 전제로 하는데, 그것은 부단한 인격적 도야와 신하와 변함없는 신뢰 관계를 구축한 위에서 비로소 성립한다. 그것은 단순한 독재와는 구별되는 이상주의적 군주 정치이다. 고종에게 군주라는 자리는 짐이 지나치게 무거운 짐이었고, 그 점은 노회한 정치가 이토 히로부미와의 대치 속에서 분명해졌다."(187)



7장 러일전쟁하의 조선



"양국이 결정적 대립을 맞이한 것은 1903년에 들어서다. 러시아는 같은 해 4월 이행하기로 되어 있던 만주로부터의 제2기 철수를 실행하지 않고, 도리어 만주 지배를 강화하려 하였다. 더욱이 5월경부터 압록강 조선 측 하구에 있는 용암포의 토지를 매수하여 건물들을 건축하고, 삼림 사업을 개시하려 하였다. 러시아가 조선 전역으로의 본격적인 진출을 노리고 있었던 것은 아니지만, 용암포로의 진출은 일본의 만주 진출에 대한 방어선의 의미를 갖고 있었다." "삼국 간섭 이후 〈와신상담〉을 구호로 삼아 온 일본에서는 관민 모두에게 개전의 열기가 비등해 있었고, 조선에 대한 군사적 지배의 달성을 열망하고 있었다." "2월 4일 어전 회의에서 개전이 결정되자, 8일 연합 함대가 뤼순 항 바깥의 러시아 함대에 선제공격을 가했다. 그보다 앞선 6일, 일본은 조선의 진해만과 부산, 마산의 전신국을 군사 점령하였다. 러일전쟁도 청일전쟁과 마찬가지로 조선에 대한 군사 행동이 선행되었던 것이다."(199-200)



# 한일의정서 조인(1904.2) 이후 조선의 상황

1. 군율 체제의 성립 : 군용 시설 훼손, 치안 방해 행위를 가혹하게 처벌하고 집회·결사·언론·출판 행위를 단속(식민지 무단 통치의 원형)

2. 군용지 수용 : 필요 면적의 16배 이르는 토지를 헐값에 군용지와 철도 부지로 강제 수용

3. 인부 징용 : 촌락을 연대 책임으로 묶어 철도 부설 인부를 강제 징용(식민지 총력전 체제기 강제 연행의 원형)

4. 화폐 정리 : 한국의 화폐 발행권을 강탈하고 오사카 조폐국에서 제조한 신화폐를 본위 화폐로 확정



"(각지에서 속출하는) 민란 가운데 유달리 주목되는 것은 9월 경기도 시흥에서 일어난 민란이었다. 이 민란은 군수 박우양이 일본인과 협력하여 인부의 차출과 그에 관련한 비용을 군민에게 부과한 일을 단초로 하여 발생하였다. 군민은 전통적인 민란의 규칙에 따라 민란을 일으켰다. 하지만 군수가 일본인에게 지원을 요청하여 일본인 인부 7~8명을 관아로 데려왔을 무렵 군민은 화가 머리끝까지 치밀어 올라 일본인 두 명을 살해하고, 네 명에게 부상을 입혔으며, 군수와 그의 아들까지도 살해하였다. 왕명을 받은 군수는 살해해서는 안 된다는 것이 민란의 규칙이었다. 그것은 유교적 민본주의라고 하는 정치 문화를 전제로 하여 성립해 있는, 정부와 민중 사이의 암묵적인 규칙이었다. 이 규칙이 깨졌다는 것은 중대한 사태를 의미했다." "다만 동학 이단파와 같은 강력한 구심력을 가진 세력이 존재할 수 없게 된 상황에서 민중의 싸움은 산발적, 한정적으로 이루어질 수밖에 없었다."(219-20)



8장 식민지화와 국권회복운동



"1905년 11월 18일, 보호조약의 체결로 한국에는 통감부가 설치되고 통감이 파견되었다. 한성, 평양, 부산, 인천, 목포, 군산 등의 요지나 개항장에는 이사청을 설치하였다. 이를 통해 종래의 영사관 업무를 담당함과 동시에 조약 의무 이행의 명목하에 지방 시정을 감시하는 임무를 맡게 되었다. 초대 통감으로 취임한 자는 이토 히로부미였다. 이토는 1905년 12월 21일 임명되었고, 통감부는 한국 외부(外部)를 청사로 삼아 1906년 2월 1일 개청하였다. 통감은 천황에게 직속하였고, 한국 외교를 감리 지휘하는 권한을 가졌다. 또 황제를 내알(內謁)하여 정무의 소통을 꾀하였고, 정부회의에도 참석할 수 있었다. 그리고 정부의 중요 관직에는 보임(補任) 추천을 실시하여 한국 시정에 대하여 권고를 할 수 있었다. 더욱이 통감은 한국 주차군을 지휘하는 권한을 가졌다." "이리하여 한국은 외교권을 완전히 상실하고, 내정권조차 반쯤 박탈당한 상태가 되었다."(229-30)



"의병 운동이나 국채 보상 운동이 고조되는 한편으로, 고종은 밀사 외교를 계속하고 있었다." "헤이그 밀사 활동이 1907년 6월 29일 이토의 귀에 들어가자 그는 격노했다. 7월 3일 이토는 고종을 알현하여 그 행위를 〈음험〉한 것이라고 힐책하였고, 전쟁 선포나 마찬가지라고 윽박질렀다. 이어서 총리대신 이완용에게도 마찬가지로 협박하며 고종의 양위를 다그쳤다. 일진회 송병준은 양위하지 않는다면 자결하든가, 천황에게 직접 사죄하든가, 아니면 전쟁을 할 수밖에 없다고 고종을 다그쳤다. 결국 7월 20일 양위식을 거행하였고, 황태자 척이 황제의 자리에 올랐다. 그가 바로 순종(純宗)이었다." "이토는 다음 단계의 정책을 즉석에서 실행에 옮겼다. 7월 24일 제3차 한일협약(정미7조약)을 체결한 것이다. 이 협약으로 일본은 통감에 의한 내정 지도권을 완전히 장악하였고, 법령 제정과 행정 시행, 관리 임면 등은 통감의 동의가 필요하게 되었다."(242-4)



9장 한국 병합



"순종의 순행 이후 이토 히로부미는 바로 한성을 출발하여 일본으로 돌아갔다. 그리고 통감을 사임할 뜻을 굳힌 이토에게 1909년 4월 10일 수상 가쓰라 다로와 외상 고무라 주타로가 방문하여 한국 병합안을 제시하자, 이토는 군말 없이 병합안을 승인했다. 이토는 6월 14일 통감을 사임하였는데, 일본 정부에서는 기다렸다는 듯이 7월 6일 「한국 병합에 관한 건」과 「대한시설대강」을 각의에서 결정하여 〈적당한 시기〉에 한국 병합을 실시하기로 했다." "명성에 신경 쓴 이토는 1908년 말 무렵부터 통감 사임을 넌지시 말하고 있었는데, 순종의 순행 실패로 일본의 조선 지배가 합의로 이루어지기 어렵다는 것을 깨닫고, 통감 사임만이 아니라 병합도 용인하였던 것이다. 애초부터 보호국이든, 자치 식민지든, 병합 일체화든 조선이 일본의 완전 식민지라는 사실에는 아무런 차이가 없었다. 이토는 지배 비용이 든다는 점과 국제적으로 무단한 행위라는 인상을 준다는 데 신경 썼던 것에 불과했다."(275-6)



"외상 고무라 주타로는 1910년 2월 「한국 병합에 관한 건」과 「대한시설대강」을 각국에 통지하였다. 그리고 동맹국인 영국에 대하여 6월 3일 관세 자주권이 없는 조선에서 관세를 당분간 현행대로 할 것을 조건으로, 병합에 대한 승인을 얻었다. 미국은 만주의 문호 개방을 호소하는 가운데 일본에 대한 불신을 키우고 있었으나, 만주에서 강고한 이권을 가지고 있지는 않았으므로 러시아로부터 협력을 얻어낼 수 있다면 침묵시키는 건 어렵지 않았다. 문제는 러시아였다. 러시아는 일본의 간도 진출에 일시적으로 불신을 품고 있었는데, 문호 개방을 제창하면서 실제로는 만주로의 경제적 진출을 꾀하는 미국에게 한층 더 불신감을 품고 있었다. 그러한 생각이 교차하는 가운데 7월 4일 제2차 러일협약이 체결되었다. 이것은 미국에 대항한다는 취지에서 〈분계선〉을 경계로 하여 각각 〈특수 이익〉을 인정하여 간섭하지 않는다는 약정이었다. 이제 한국 병합은 언제라도 감행할 준비가 끝났다."(287-8)



"1910년 5월 30일 병약한 소네 아라스케를 대신하여 육군 대장이며 육군대신인 데라우치 마사타케가 제3대 통감이 되었다. 6월 3일 각의에서 조선에는 당분간 헌법을 시행하지 않고, 천황에 직속하는 총독이 대권으로 통치한다는 「병합 후 한국에 대한 시정 방침」을 결정하였다. 새로운 지배 기구는 통감부를 대신하여 총독부라고 불렀고, 데라우치는 초대 총독으로 결정되었다." "데라우치가 병합의 결행에 착수한 것은 8월 16일이다. 이날 데라우치는 이완용을 관저로 불러 병합안을 받아들이도록 강요했다. 그리고 그 형식은 〈합의의 조약〉이어야만 한다고 했다. 보호국이라는 것은 자치 혹은 독립을 부여하기 전의 상태이기 때문에, 병합이라는 말은 거기에 반하는 정책으로서 국제적으로 일본의 면목을 지켜 주지 않았기 때문이다. 〈병합〉이라는 말은 대등한 일체화의 어감을 갖는 〈합방〉이나 〈합병〉과는 달랐다. 한국 폐멸까지도 완곡하게 의미할 수 있도록 의도적으로 고안한 것이었다."(288-9)



# 「한국 병합에 관한 조약」 조인(1910.8.22) 및 공포(8.29)



"한국병합조약의 체결은 조선 사회에 그때까지의 조약과 비교하자면 사실 그다지 충격적이지 않았다. 또 황제 환상을 갖고 있었다고 해도, 생활주의로 살아가는 민중에게 선정이나마 베풀어 준다면 지배자의 변경은 감수할 수 있었다. 민중의 내셔널리즘은 오히려 다분히 시원적이었다." "병합조약과 동시에 조선귀족령을 실시하여 76명의 조선인이 귀족에 포함되었다. 한규설과 유길준을 비롯한 6명이 작위 수여를 거부했다." "순국자는 전국적으로 줄을 이었다. 양반 유생 9,811명에게는 경로금이 지급되었고, 효자 등 향촌의 모범자에게는 포상을 수여하였다. 또 대사면을 실시하여 부정을 한 지방 관료도 그 죄를 용서받았다. 그리고 일반 민중에 대해서는 미납 세금을 면제하였고, 추수에 한하여 지세를 5분의 4로 감면하였다. 더욱이 13도에는 국탕금 1700만 엔을 지출하여 진휼이나 교육 보조금 등에 충당하였다. 이렇게 성대한 대접은 감옥에 들어가기 전의 진수성찬과 같은 것이었다."(292-3)

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nana35 2019-06-03 공감(3) 댓글(1)
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겨울의 시대가 도래하다. 새창으로 보기
 

 항상 식민지로 전락해가는 대한제국의 모습을 읽을때마다 스산한 감정이 든다. 무엇이 잘못되었기에 이렇게 되어버린 것인가. 이제 다시 일본은 전쟁할 수 있는 국가로 가기 코 앞에 섰다. 그에 대한 우려와 함께 이런 물음이 마음 속에 떠오른 건 우연이 아닐 것이다. 기나긴 세월동안 뿌리깊게 내려앉은 <정한>이라는 사상은 일거에 사라지는 것이 아니기 때문이다. 그런 점에서 본서에서 한국병합을 최종적으로 주도한 데라우치 마사다케 초대 총독이 했다는 말이 마음에 남는다.

 

"한편 한국병합조약이 조인된 밤의 연회 석상에서 데라우치 마사타케는 득의만만하게 <고바야카와, 가토, 고니시가 살아 있다면 오늘 밤 달을 어떻게 보았을까?"(p.295)라고 읊조렸다고 한다.

 

 본서는 재일사학자인 조경달 교수가 지은 통사이다. 정치 문화 문제를 기저로 하여 통사를 서술하겠다고 했는데, 인상깊었던 것은 식민지화 되어 가는 나라의 민중의 고통이야 알고 있지만 피상적인 느낌이 없지 않았는데, 이 책에서는 민중이라는 존재를 더욱더 부각시켜 보여주었다는 점이다.  동학에 대해서도 좀 더 알아봐야겠다는 생각도 들었다.  본 서의 저자인 <이단과 민중반란>이란 책이 있는데 품절로 뜨는 것 같다. 기회가 닿는다면 읽어봐야겠다.

 

본서를 읽으면서 몇가지 다시 생각해보게 된 것이 있는데, 그 중 하나가 대원군에 대한 당시 민중들의 평가이다. 저자는 대원군에 대한 민중의 인기가 제법 높았다고 하는데 그때문에 경북궁의 재건에 스스로 지원하는 자가 많다고 했다. 결국 그 때문에 인기에 타격을 입기도 했다지만...  그리고 대정봉환 이우 메이지신정부가 당시 조선정부와 새로운 [폭력적인]외교관계를 모색하면서 사이고 다카모리가 자신이 사신으로 조선에 가면 <폭살>당할 것은 당연하기 때문에 그것을 명분으로 삼아 <정한>을 단행하여야 한다고 주장했던 것에 대한 저자의 견해는 단지 사이고는 평화적인 견한 사절로서의 임무였고, <폭살>을 운운한 것은 열성적인 <정한>론자인 이타가키 다이스케등을 설복시키기 위한 수사였던 것(pp.63~64)으로 보았는데,  이것은 <고종과 메이지의 시대>에서 신명호 교수는 사이고의 발언 그 자체를 진실로 보는 것과 상반된다.  개인적으로는 후자의 해석이 맞다고 생각한다. 그 외에는 사이고에 대한 저자의 언급이 없어 사이고 다카모리에 대한 저자의 생각이 어떤지는 분명치는 않다. 

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가넷 2015-10-03 공감(2) 댓글(0)
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[마이리뷰] 근대 조선과 일본 새창으로 보기
근대 일제의 조선침략은 단숨에 이루어진것이 아니다.주자학을 정치수단으로 보는 일본과 통치의 원리로 보는 조선의 차이는 훗날 제국주의 서양문화의 침투를 받아들이는 것에 있어 차이를 가져왔고 결국 양국의 변화 속도를 달리 만들었다.식민지 근대화론은 패배자적인 자학적 역사관일뿐이다.당시 조선은 뿌리깊은 통치원리가 있었고 이는 단지 침략적 제국주의에 맞서기에는 부족했을 뿐이다.무엇보다도 500년간 개혁 되지 못하고 썩어간 지배계층의 무능이 조선패망을 가져왔다.근대 조선의 역사적사건과 정치배경을 통해 통한의 역사를 다시 바라봐 보았다
만독도 2016-04-13 공감(0) 댓글(0)
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coolflatさんの感想・レビュー
coolflat
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19世紀半ばから1910年の韓国併合まで。日本と朝鮮、それぞれの思想の違いが近代化に際して異なる様相を及ぼした。日本では「国体」思想の台頭によって「国」が絶対化されたがために、「道」は二義的なものとなり、西欧化への転向が容易にできた。西欧への徹底抗戦は「国」を滅ぼすことにしかならない。西欧にかなわないと認識されるやいなや、尊攘論が開国論に急転向した秘密はここにある。それに対して朝鮮では、「国」を滅ぼしても「道」に殉ずることこそが、人倫の正しい行為とされた。これが仏米への徹底抗戦を可能にさせる理由であった。

近代朝鮮と日本 (岩波新書)
趙 景達
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あらすじ・内容
ナイス★15
コメント(4)
2020/03/09
coolflat
coolflat
22頁。「征韓」思想は、明治期に入ってにわかに台頭したものではない。朝鮮侮蔑観を前提にしながら、18世紀の終わり頃から形成されていった。林子平は、朝鮮を一貫して日本に服属している国とみなしたが、朝鮮への侵略を露骨に言明した先駆者は佐藤信淵である。彼は「満州」を手始めに蒙古、朝鮮と侵攻し、ついには中国本土への侵略を夢想した。忍び寄るウェスタン・インパクトへの対抗から、大陸膨張の策を提唱したのである。こうした政略は橋本左内や吉田松陰に継承されていくが、近代日本の膨張主義を考える上で、重要な人物は吉田松陰である

ナイス★3
03/09 18:24
更紗蝦まーくんレイノー
coolflat
coolflat
126頁。日清戦争は野蛮な清国に対する「文明の戦争」として認識され、戦争熱は官民をあげてのものであった。侮蔑感情を込めた「支那」という呼称は、日清戦争までには日本国民の間に定着していったが、以後その言葉には「情弱」「因循姑息」「驕慢不遜」「無能」「不潔」などのステレオタイプ化された中国イメージが付着していく。そして、「朝鮮」や「朝鮮人」はそうした「支那」よりもさらに劣位に置かれ、「馬鹿」の代名詞にすらなっていく。

ナイス★3
03/09 18:25
更紗蝦まーくんレイノー
coolflat
coolflat
129頁。閔妃殺害事件。一国の公使が赴任国の王妃をほぼ公然と虐殺するというのは、世界史に類を見ない驚天動地の事件である。しかしこの事件は、三浦の独断によるものでは決してなかった。この事件の背後には大本営が控えていた。三浦の任務は、電信線の返還と日本軍の撤兵を望む国王と王妃を翻意させることであったが、その究極の作戦が閔妃虐殺であった。三浦は在朝鮮兵站守備隊の指揮権を川上より与えられており、それには首相の伊藤博文も同意していた。三浦が近いうちに何か重大な行動を起こすだろうことを、彼らはうすうす知っていた。

ナイス★5
03/09 18:25
もりくに更紗蝦まーくんレイノー豊後読書会
coolflat
coolflat
第二次日韓協約。高宗は外交権を失う保護条約の締結に反対した。伊藤は無理強いしたが、高宗は拒絶した。そして伊藤は各大臣に条約締結を迫ったが、8人の大臣はみなこれを拒否した。日本の脅迫は軍事力を後ろ盾とするものであった。大臣たちは当初反対を貫いたが、そのうち6人が留保付き賛成をした。大臣の職印は、日本人外交官が憲兵隊を引き連れて外部大臣官邸から奪ってきた。そのため調印が遅れた。まるでやくざの所行である。保護条約は、脅迫による調印強制であることは明確であって、本来なら国際法的にも認めれるようはずがない代物である

ナイス★5
03/09 18:26
もりくに更紗蝦まーくんレイノー豊後読書会
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https://bookmeter.com/books/5617076
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님의 소감 · 리뷰
coolflat
coolflat
19세기 중반부터 1910년 한국 병합까지. 일본과 조선, 각각의 사상의 차이가 근대화에 있어서 다른 양상을 미쳤다. 일본에서는 '국체' 사상의 대두에 의해 '국가'가 절대화되었기 때문에 '길'은 이의적인 것이 되어 서구화로의 전향을 쉽게 할 수 있었다. 서구에 대한 철저한 항전은 '나라'를 멸망시킬 수밖에 없다. 서구에 이르지 않는다고 인식되자마자 존추론이 개국론으로 급전향한 비밀은 여기에 있다. 그에 대해 조선에서는 '나라'를 멸해도 '길'에 순종하는 것이야말로 인륜의 올바른 행위로 여겨졌다. 이것이 불미에 대한 철저한 항전을 가능하게 하는 이유였다.

근대조선과 일본 (이와나미 신서)
조 경관
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개요/내용
나이스★15
코멘트( 4 )
2020/03/09
coolflat
coolflat
22 페이지. '정한' 사상은 메이지기에 들어서 왠지 대두한 것이 아니다. 조선 모멸관을 전제로 하면서 18세기 말부터 형성되어 갔다. 하야시코다이라는 조선을 일관되게 일본에 복속하고 있는 나라로 간주했지만 조선에 대한 침략을 노골적으로 밝힌 선구자는 사토 노부치이다. 그는 '만주'를 시작으로 몽고, 조선과 침공했고, 마침내 중국 본토에 대한 침략을 몽상했다. 다가오는 웨스턴 임팩트에 대한 대항으로부터 대륙 팽창의 책을 제창한 것이다. 이러한 정략은 하시모토 사토우치나 요시다 마츠네에 계승되어 가지만, 근대 일본의 팽창주의를 생각하는데 있어서, 중요한 인물은 요시다 마츠네이다

나이스★3
03/09 18:24
更紗蝦마군레이노
coolflat
coolflat
126쪽. 일청전쟁은 야만적인 청국에 대한 '문명의 전쟁'으로 인식되었고, 전쟁열은 관민을 들인 것이었다. 모멸 감정을 담은 ‘지나’라는 호칭은 닛신 전쟁까지는 일본 국민들 사이에 정착해 갔지만, 이후 그 말에는 ‘정약’ ‘인순간식’ ‘사만 불편’ ‘무능’ 「불결」등의 스테레오 타입화된 중국 이미지가 부착해 간다. 그리고 '조선'이나 '조선인'은 그러한 '지나'보다 더 열등하게 놓여져 '바보'의 대명사로도 간다.

나이스★3
03/09 18:25
更紗蝦마군레이노
coolflat
coolflat
129쪽. 민비 살해 사건. 한 나라의 공사가 부임국의 왕비를 거의 공연하게 학살한다는 것은 세계사에 유례없는 경천동지 사건이다. 그러나 이 사건은 미우라의 독단에 의한 것이 아니었다. 이 사건 뒤에는 대본영이 앞두고 있었다. 미우라의 임무는 전신선의 반환과 일본군의 철병을 바라는 국왕과 왕비를 번의시키는 것이었지만, 그 궁극의 작전이 섬비학살이었다. 미우라는 재조선 병준수비대의 지휘권을 가와카미로부터 주어지고 있으며, 거기에 총리의 이토 히로부미도 동의하고 있었다. 미우라가 조만간 무언가 중대한 행동을 일으킬 것이라는 것을, 그들은 쑤시는 알고 있었다.

나이스★5
03/09 18:25
모리쿠更紗蝦마군레이노분고 독서회
coolflat
coolflat
제2차 한일협약. 고종은 외교권을 잃는 보호조약 체결에 반대했다. 이토는 무리 강했지만, 고종은 거절했다. 그리고 이토는 각 장관에게 조약 체결을 다가줬지만, 8명의 장관은 모두 이를 거부했다. 일본의 협박은 군사력을 뒤 방패로 하는 것이었다. 장관들은 당초 반대를 관철했지만, 그 중 6명이 유보 찬성을 했다. 장관의 직인은 일본인 외교관이 헌병대를 데리고 외부 장관 관저에서 빼앗아 왔다. 그 때문에 조인이 늦었다. 마치 야쿠자의 소행이다. 보호조약은 협박에 의한 조인강제인 것은 명확하며, 본래라면 국제법적으로도 인정될 리가 없는 대물이다

나이스★5
03/09 18:26
모리쿠更紗蝦마군레이노분고 독서회
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장자
장자
『이야기 조선왕조의 멸망』(김중명)에 계속해서 두 권 물건의 이와나미 빨강. 우선은 조선왕조 말기부터 한국 병합까지의 근대사. 으~응... '정치문화사'라는 시점이 벌써 잡을 수 없었다. '조선사'를 자국사의 범주를 넘어 '외교사'로 읽을 수 없는 것은 그의 나라가 전면에 서서 서양근대화의 황제와 대치한 적이 없기 때문일 것이다. 본래라면 일청전쟁이라든가 러일전쟁이 있어 일조전쟁이 없는 것은 불가해한 일일 것이다. 그런데, 하고 싶은 무제한의 일본이 마침내 조선사를 「일본사」에 짜넣어 버렸다. 그럼, 미움받을거야.... 다음 권에.
나이스★59
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2019/08/23
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스카르에르
스카르에르
조선(=한국) 가까이의 시점으로 쓰여진 메이지 이후의 일조 관계를 알고 싶어서 읽었습니다. 복잡한 측면을 가지므로 다각적으로 파악할 필요가 있다고 생각하기 때문에. 근대조선사의 세부사항이 끊임없이 이어지지만 어떻게든 큰 프레임은 이해할 수 있었다. 일본 지배에 의한 이권 강탈이나 무력 탄압 등을 비난할 때 조금 감정적이 되는 것과 출전이나 수치 데이터의 제시가 부족한 경향이 있지만, 처음 아는 것이 많았다. 조선이 대국간에 농락당한 가운데, 지금도 국가를 2분 되고 있는 것은 기분이 독한 것입니다. 일본은 조선에 불간섭이어야 했다고 생각합니다만, 이후 몇권 관련 책을 읽고 공부하고 싶다.
나이스★7
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2016/10/30
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타치바나 劫
타치바나 劫
세계사 콘텐츠로부터 계속되고 있는 나의 황국사관을 깨뜨리는 토도메의 한권이었습니다. 한국 병합의 장설은 매우 흥미롭게 읽어 주었습니다
나이스★1
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2015/05/08
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조선왕조 후반부터 한일병합에 이르기까지 조선사의 통사책입니다. 신서면서도 인물이나 용어는 세세하고, 이 책에서 처음으로 조선사에 접하기에는 꽤 어려움. 당시의 사건의 상황이나 상세를 말할 때에, 자료(사료)가 명기되어 있지 않은 개소가 보여져, 저자의 개인적인 의견인지 자료로부터 말할 수 있는 것인지 불명료한 점이 있었던 것이 아쉽다 그건 그렇고. 전호준이 일본인과 만나거나 동학의 설명이 충실했던 점은 배우는 점이 많았습니다.
나이스★3
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2014/12/17
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솥 국수
솥 국수
나의 지식 부족으로부터, 사람명, 지명이 머리에 들어가지 말고. 잘 이해할 수 없는 일도 많다. 하지만 상상을 끊는 폭력에 노출되는 두려움은 전해집니다. 그 가운데 입장을 달리하면서도 나라의 미래를 모색한다. 뭔가 굉장하다. 더 알고 싶습니다.
나이스★1
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2013/12/13
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Takaaki Sasaki
Takaaki Sasaki
조선 왕조 말기부터 한국 병합에 이르기까지의 근대 조선의 통사. 유교적 민본주의라고 하는 정치 문화로부터의 고찰이 지금까지의 유서와 다른 점일까. 고종의 아버지, 태원군이 혁신적인 정치를 실시해 민중의 지지를 모은 것, 한때 동학당의 난이라고 불린 갑오농민전쟁의 민주적인 측면, 조선왕조에서 널리 직소가 인정 되었던 것에 놀랐다. 또 일본이 한국 병합 이전에 이미 조선에 상당히 심한 가해행위를 하고 있던 데는 진심으로 강한 통증을 느꼈다. 과거는 제대로 직시하지 않으면 안 된다.
나이스★5
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2013/08/30
가쓰히로 1958
가쓰히로 1958
나도 그렇게 생각합니다.

나이스★1
08/31 05:52
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오라히라오
오라히라오
2012년 초판. 전후의 조선사학에 있어서의 근대사의 취급으로부터 견해해, 조선왕조의 개요로부터 한국 병합까지를 개관한 1권입니다. 정치 문화를 키워드로 하고 있습니다만 이것이 약간 알기 어려울까. 그러나, 서양 문명과의 최초의 접촉시의 대응에 차이 등, 여러가지 배울 곳이 많은 1권입니다. 또, 대원군이 국민으로부터 절대적인 지지를 받고 있었다는 것을 처음으로 알았습니다. 그리고, 일본도 한국도 언어의 특이성으로부터 일국사인 검토에 빠지기 쉽지만, 결국 근대 이후는 그 시점만으로는 부족한 것도 지적하고 있습니다. 한국의 사람에게도 읽어 주었으면 하는 1권이군요.
나이스★7
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2013/08/27
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곡우
곡우
19세기 나카바부터 한국 병합까지를 다룬 근대조선의 통사이다. 근대화에 뒤처진 조선이 러일을 비롯한 열강에 유린되는 과정이 극명하게 밝혀졌다. 그 중에서도 1905년 제2차 한일협약의 묘사는 대단하다. 당시 일본은 호전적인 내셔널리즘에 끓고 있었기 때문에, 만일 정부가 조선에 침공하지 않아도 국민 감정이 용서하지 않았을 것이다. 그렇게 생각하면 한국 병합은 자연스러운 성취로도 생각되지만, 그 뒷면에 있어 지금까지 알지 못했던 조선민중의 어려운 괴로움이 한결같이 전해져, 상대국에서 본 역사를 알 필요성도 통감 했다.
나이스★1
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2013/07/06
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simi
simi
이름을 읽을 수 없다. 기억할 수 없다. 모르기 때문일까, 나이 탓인가.
나이스
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2013/04/15
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gryphonjapan
gryphonjapan
재미 있었던 것은 이조 사회에서의 선정에 연결하는 기능. "왕궁 앞에는 신문고가 있어, 그것을 두드리면 왕에게 누구나 직소할 수 있었다. 16세기 후에는 순행시의 민중의 직소도 가능해졌다" 1871년 신미소란에서는 이씨 조선군과 미군이 격전, 포대에서는 미군도 죽은 자를 낸다. 대원군 「척화비」의 문장보다···「양이침범, 비전칙화, 주화매국, 계가만년 자손」
나이스★2
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2013/04/02
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withyuko
withyuko
메이지 시대, 서구 문명이 몰려 왔을 때, 일본과 한반도에서는 반응이 완전히 반대였다···라는 것은 흥미롭습니다. 한반도의 정치는, 왕이 백성을 위해 행하는 정치로, “민을 위해”민본주의였지만, 일본은, 국체주의로 나라를 위해···라고 하는 곳이 이미 차이, 그리고 무보다 문장이 존중되는 한반도 쪽이 서구 문명이 들어가려고 하는 것을 필사적으로 무력으로 씹으려고 하고, 무사의 나라인 일본은 빨리 언덕을 끊고 엄청난 속도로 근대화를 진행하고 있다 했다. 닛신·일러의 전쟁은, 일본이 한반도를 우리로 하기 위한 전쟁이었다? 한반
나이스★4
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2013/03/12
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미네추
미네추
조선(한국)을 좋아하든 싫든, 이 시대의 사실관계는 알아야 한다고 생각합니다. 이 시대란, 이 책에서 다루어지고 있는 근대, 즉 조선왕조 말기~대한제국을 거쳐 한국 병합에 이르는 근처의 시대입니다. 그런 의미에서, 이 책은 똑같이 이 시대를 알 수 있습니다.
나이스★3
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2013/03/03
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사츠키
사츠키
조선의 정치문화를 ‘유교적 민본주의에 근거한 일군 만민체제’로 긍정하고 이를 저류에 그려놓은 점이 특색이다. 그러나 농민이나 무직자 등이 적지 않은 갑오농민전쟁이나 의병운동까지 유교로는 해석할 수 없는 것이 아닌가. 또, 어쩔 수 없을지도 모르지만 일본 지배의 가혹함이나 국권 회복 운동에 대해서는 기술이 약간 정서적으로 되어 있다. 「안중근은 참모 중장으로서 정규의 교전행위로서 이토를 사살」이라고 하는 것은 과연 무리가 있을 것이다. 그렇다고는 해도 이 시대의 조선사를 극단적으로 치우치지 않고 콤팩트하게 정리한 유서는 좀처럼 없고, 통사를 머리에 넣기에는 좋은 책.
나이스★2
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2013/02/06
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가쓰히로 1958
가쓰히로 1958
러시아가 남하해 와서 일본을 침략하는 것이 아닐까, 라는 공포심으로 한반도를 일본의 방파제로 한다는 전쟁 전략 전략 사상과 조선은 모든 면에서 일본보다 뒤떨어져 일본이 조선 의 개화를 도와야 한다는 오만 불편한 일본 국민의 태도가 한일 병합에 이르렀다고 총괄하면 좋을까. 역사는 현재의 관점에서 평가하는 것이 아니라, 그 시대의 관점에서 평가되어야 한다는 것도 우도이지만, 시대에 관계없이 해도 좋은 일과해서는 안되는 것의 분별은 국가로서 제대로 자각한다 해야 한다고 생각하지만. 무리한 주문일까?
나이스★5
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2013/01/31
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마유미리
마유미리
한일병합에 의해 한국은 일본에 침략된 것이 아니라 그 이전의 일본의 근대 정책 속에서 점차 침략된 것으로 나타났다.
나이스★2
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2013/01/10
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푸딩
푸딩
최신의 지견에 근거한 조선 근대사의 개론. 신서로는 좀처럼 전문적이고 유교적 민본주의와 의병운동의 성쇠, 그리고 지금까지 불공부했던 제2차 한일협약의 비합법성 등을 확인할 수 있었습니다. 한편, 저자의 필봉은 약간 미끄러운 기미로, 「마치, 야쿠자의 소행이다」(p.191) 등, 역사학적 서술에는 불필요한 문언이 산견된 것이 유감입니다. 그리고 본서에서 가장 문제가 되는 것은 근대조선을 어떻게 인식해야 하는가 하는 역사관의 문제입니다. 저자는 '정치문화'라는 개념을 중시하는 것 같지만 이것이 이해하기 어렵다. 속권에 기대합니다.
나이스★4
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2012/11/30
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석청음
석청음
근대조선(대한제국)과 근대일본의 '정치문화'의 차이라는 점에서 양국의 관계를 읽어내는 것이 흥미롭다. 놀라운 것은 근대 일본의 '국제 정치'에 대한 적응의 신속함, 단 한 세대 사이에 '포함 외교'를 마스터하고, 미국으로 된 것과 똑같은 것을 조선 상대에게 해 보이는 것이다 . (자신을 「문명」상대를 「야만」이라고 분류하는 방법까지 똑같이) 한일·일조 관계를 생각하는데 있어서의 기초 교양일 것이다.
나이스★1
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2012/11/27

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