2016-04-12

17] 高等警察及び冷害対策

17] 高等警察及び冷害対策

   一、高等警察性

 東京朝日新聞が報じる処によると(十一月二日付)、内務省の唐沢警保局長は、就任以来、警察行政刷新の理想を持っていた処、最近警保局の局課長会議に於てこの刷新の根本方針に就いて協議を重ねた結果、遂に高等警察の廃止を決定したそうである。高等課の受け持ちである、政治、経済、宗教方面に就いて、今後は単に犯罪を構成するような問題に限って活動を続けることにし、而もその活動を特高課と刑事課とに管掌させようというのである。
 之は一方に於て警察事務を単純化し簡易迅速にする所以であり、他方に於て権力行使の範囲を限定して警察本然の機能を強力化する所以になるということだ。即ち従来に較べて高等警察事務はズット消極的になるわけであるが、そうすることの方が警察事務が簡易迅速になって且つ警察本然の機能に適うというわけである。之で見ると従来の所謂高等課の積極的な活動は大体に於て、警察行政上無用で××であったということが、警保当局自身によって認められたわけだ。今後は犯罪を構成するような問題に限って取り上げようと云うのだから、従来は、政治、経済、宗教方面に就いてはまるで××と関係のないことに高等課の刑事達が忙しげに立ち働いていたということが明らかに告白されているわけだ。
 だが一体、全く××と関係のないことならば何も刑事や制服の警官を使わなくてもいい筈だし、又そんなものを使役しても何の役に立つ筈もない。少くとも普通の「有志」や何かでは不充分で高等課の警官を必要とした以上は(必要でないなら高等課が設置され存続されて評判を悪くする筈もあるまい)、刑事や制服は恐らく、この××と関係のない事柄をも××と関係づけて、或いは関係づけそうな態度で以て、取り扱ったに相違ない。選挙干渉と云ったって、警官の強力的権力を背景にしなければ全く無意味だが、警官のこの強力的権力の火が犯罪の煙のない処には発しないものだということは天下の常識である。すると高等課の警察行政としての欠点は、例えば政党政治や其他色々(夫は後で考えよう)の必要から、××でないものに就いてまで××の成立を示唆することによって、警察権力を活用するという点にあることなる[#「あることなる」はママ]。之が無用で××で××であることは云うまでもない。
 高等警察が政党政治の傀儡だからいけないという理由は、だからごく悪く常識的な理由に過ぎないのであって、実は政党政治其他の必要に応じて警察行政上の××をやる常習機能だからいけない筈だったのだ。実際「高等」警察は何も政党政治や何かに限られているものではなく、又単に政治や経済や宗教の問題に限られているものではなくて、一切の越権は、一切の職権×用は、皆多少とも「高等」政策の意味を有っているし、又高等政策の必要に迫られたものが多いのである。一体高等警察というのは、犯罪の性質が主に高等(?)であるからとか、犯罪者が主に高等(?)な社会階級にぞくしているからとか、いう点も多分にあるが、併しそれは先ず、高等政策警察を意味しているのである。高等政策警察というのは何かと考えて見れば、要するに犯罪に対して、本来の警察(下等警察?)の権限外に立って、取捨選択を行うことだ。ある一定の外部からの必要に応じてある行為を××として取り上げるか上げないか、というようなことがその意味だ。即ちここでは××が××されたり××されたりするわけである。でこの意味で、警官の普通の××××は皆「××」警察の意味を持っているのであり、所謂××××と所謂高等警察との違いは、ただ単に、本来の下等警察(?)に対する警察外的必要が、個人のものであるか組織的なものであるかに過ぎない。
 警視庁の警務課長武内某氏は、××××と通謀したという嫌疑で検事局の召喚を受け、遂に辞表を提出した。頭山満家の名を××して右翼思想団体を自称する××会の幹部某を紹介して、各種の会社を廻らせ、会社の弱点を教示して恐喝の資料を提供したばかりではなく、この恐喝事件の犯罪捜査の情勢をこの犯人に通じたり、検事の令状を三度までも握り潰したりしたことが判明したのである。処で警務課長である武内氏は犯罪捜査の情勢に通じる筈がないのに、之を知っていたとすると、武内氏の身辺に、××で×××がいなければならなくなるわけで、問題は警視庁全般の綱紀問題にまで拡大しそうだと見られている。で之は決して武内某氏だけの問題ではなく、××××××××××に関する職権×用の問題であるが、之なども矢張一種の高等政策警察であって、偶々夫が最も下等な高等警察であったに過ぎない。「高等警察」なるものは、つまりこうした××が合法化されて現われた一警察行政機能だったわけだ。
 だが、そうは云っても、実際問題として、どこまでが本来の警察機能で、どこからが越権的警察機能であるかは、簡単には決められない。高等警察と下等警察との限界をどう決めるかということが、即ち又高等政策警察にぞくすることで、そうすると結局、どんなに所謂「高等警察」が廃止になっても、警察そのものの「高等警察性」は消えて失せるものではない。どんなに下等警察(?)でも、警察である以上高等だということは、非常に尤もなことかも知れぬ。その証拠には特高課というものがあって、高等政策警察の内でも、特別に之だけは廃止どころか発達を嘱望されているのを見ればよい。
 今や高等課の廃止によって、この特高課が「高等警察」の、即ち警察機能の高等警察性の、代表者の名誉を担うことが名実ともに出来るようになった。無論特高警察は越権的な警察機能ではない、それどころではなく、之こそ火事の予防や交通の整理や人命や財産や名誉の保護よりも大事な時にはそのために国民の人命や財産や名誉を×××××××××ない程の、警察の本来的な本質的な機能である。だがそれが××であるかないかが、実はそれの「高等警察」性によって、即ち××的に、決められるのだから、愈々之は警察の花形なのである。
 実際の話しが、或る人物を警察へ引致するかしないかは、すでに特高課の「高等警察」的な判断にかかっている。云わば目に立って有害そうに見える男は、その思想に基く犯罪の確証が××××××、思想政策上引致されるかも知れない。この際すでに或る意味で、この男を××にするかしないかが、高等警察的に決まっているのである、其他其他。之が特高警察の「高等警察性」であり、この高等警察性が警察機能の本質なのである。――ではなぜ高等課が廃止になるのに特高課は盛大になるか。それは二つの場合では、同じ警察機能でも、それは権力を発揮する対象が、殆んど全く相異っているから、当然なのだ。所謂高等警察の取り扱う対象は「高等」な社会人であるが、特高課の対象は之に反して下等な社会人なのだ。ただ夫だけだ。
 高等警察の廃止は政党の凋落を物語る、警察は政党が凋落したものだから、その××であった高等課を振り捨てるのだ、と云われている。それはそうだ。併しそれは同時に警察の特高化を、思想憲兵化を、物語っている。丁度政党や官僚や、軍閥が或る一点に向って集中して行くように警察行政も亦この一点に向って集中して行くのであって、高等警察の廃止も警察のそうした集中過程の一産物に過ぎないのである。

   二、自然現象と社会現象

 現在で最も大きな問題は何と云っても東北地方の「凶作」飢饉である。新聞は毎日写真入りで東北地方農民の耐え難い生活を報道している。新聞は或いは宣伝のためにこの問題に興味を有っているのかも知れないが、とにかく新聞の「東北凶作救済運動」は天下の輿論を動かし、センセーションを捲き起こすのに成功したと云わねばなるまい。特に農村の娘が酌婦・芸妓・娼妓・女工・女給・女中などとして安売りされるということが、少なからず世間の男や女の興味を惹いたらしい。子女の安売は日本では何も今日に始まったことではなく、又必ずしも農村だけに限られている現象でもないのだが、農民のただの凶作やただの貧困ではジャーナリスティクに興味がないので、世間では之を人身売買や芝居の子役の形に直して、問題に色艶をつけようと力めているらしい。
 この笛に合わせて起ち上ったものは、各種の婦人団体であって、愛国婦人会やキリスト教婦人矯風会、仏教女子青年会、などの会員は一堂に会して全国的な一大運動を起こすことになった。一体婦人団体というものが社会問題に対してどんなにシニカルで、従って時として問題が女や子供のことになると如何に突然とセンチメンタルになるものかということは、私が関西風害に就いて前にも云ったことだが、ここでも亦反覆して之を証明することが出来る。だが私は之を決して無意味だとか、まして悪いとか云うのではない。無論非常に立派なことなのだ。
 だがこの婦人達の或る種の錯覚は是非とも訂正しておかなくては都合が悪い。農村の子女が安売されると云っても、無論この婦人達は女子供の売価が安いことに同情しているのではない。女を売買するということが、不道徳で、この不道徳な行為の対象となった女どもが可愛相だというのである。そして特に娼妓や芸妓や酌婦というような、この御婦人達にとっての金科玉条である生理的貞操の心理を攪拌するような連想を有つものを、この子女売買の名に値する代表的なものとして理解しているらしい。つまり、今日の東北の農村は子女の貞操観念を破壊する、だから東北の凶作は不道徳だ、という推理が中心な信条になっていると云っていいようだ。
 だが人身売買は、又特に女子売買は、決して子女の生理的貞操の人身的売買ばかりではない。国際労働局次長のモーレット氏によれば、最近の日本製品の世界的進出は、日本のソーシャル・ダンピングに基くのではなくて、日本に於ける産業合理化と技術の優秀と、それら日本国民従って又日本労働者の特殊な生活の簡易にあるのだという。ここで産業合理化というのは労働力搾取の高度化ということで、又技術の優秀というのは機械設備が優秀であることではなく労働者の技能の搾取が発達していることだ、ということは今更説明するまでもない常識だが、これはつまり、その次の、日本労働者の特殊な生活の簡易、を条件としているものに他ならない。
 その最もいい例は製糸工場紡績工場の女工であって、この日本に特別沢山いて繊維工業の労働力の大半を占めている女工なるものが、正に、他ならぬ農村の、と云って曖昧ならば零細農民の、娘達なのである。女工の募集が人身売買の形を取っていることは周知の通りで、従ってその結果女工の日常生活が買われた身体の生活であることも、寄宿制度その他の形で判る。生理的貞操に直接は関係しないというだけで、酌婦や芸娼妓に較べて根本的な相違のあるものではない。この点女中もそうだし、又独り女に限らず又子供に限らず、一般に今日の労働者乃至失業労働者が皆そうした根本条件の下に立たされている。豈東北の、凶作地方の、農村の、女の子、に限らんやだ。
 例を青森県から取ると、県下を去っている年頃の女達七千人の内、芸妓は四〇五、娼妓は八五〇、女給は九四八、酌婦一〇二四、女工は一四二七、それから女中が断然多くて二四三二名である。之で見ても判る通り、女子売買の内、数から云えば、多いのは女工と女中であって、芸娼妓は之に較べれば寧ろ少ないだろう。矯風会や愛国婦人会の婦人道徳では農村の子女の救済に不向きだということが結論出来ないだろうか。
 尤も之は何も婦人達に就いてばかり云っているのではなく、青森県で出来た「農村婦女子離村防止委員会」(市町村長・警察署長・職業紹介所長等からなる)や山形県下の「娘を売るな!座談会」などの、道徳に就いても、云いたいことなのである。元来道徳は、ニーチェではないが、いつでも婦人的なものだから。
 新潟県では愛国婦人会が、身売り志願者に金を貸して、職業紹介をしてやることにし、金は返せなければ返せないでも仕方がないという、ことにしたそうであるが、之は救済手続きとしては何よりも率直で実際的だ。百の委員会よりも、千の座談会よりも、或いは何十万円の「涙金」よりも価値があるだろう。処が貧農の娘達を職業紹介すると云えば、今日は何と云っても一般に最も労働条件の悪い女中奉公になるわけで、愛国婦人会の奥様方は之を利用して、うまく女中探しをやることになるわけだ。当然之は娘達の農村離脱を結果するので、これに照して見ると、先に云った青森の「離村防止委員会」はやや勘違いではなかったのかと気がつくのだが、併し人身売買の防止から出発して、青森県の例でも一等多数を占めていた女中出稼を奨励することは之は婦人会側の多少の勘違いを意味しはしないのか。尤も多少の勘違いはあろうがなかろうが、何も考えず何も実行しないよりは増しなのは云うまでもない。ただ要点は依然として婦人道徳の限界が災の種だということだ。
 東朝系と東日系との義捐金競争は、之又涙ぐましい美談だろう。例の婦人団体を後援したものは東京朝日新聞であるが、東京日日新聞は之に対して「東北振興会」なるものを後援して遂に之を奮い起たせた。この会は東北地方の産業発展を目的とするために設立されたものだそうだが、それが東日に促されて初めて義捐金募集に乗り出したというのである。これ等の義捐金募集運動によって、都下の市民・小市民の醵出した義捐金は無論莫大な額に上る。
 処で内務省の全高等官は今後半カ年間年俸の五分を割いて農村に捧げることを申し合わせ、農民ばかりではなく後藤文夫内務大臣をも喜ばせた。この風俗は官吏の全部に行き亘って、事務次官会議では、各省高等官は俸給月額の少くとも百分の一を醵出して農村に送ることを申し合わせた。大蔵省の計算によると、之は全国で少くとも月額六万円に達する見込みだそうだ。陸軍部内では、単に醵金するばかりでは軍部らしくないとして、陸軍部内の武官文官打ち揃って、組織的な救済運動をやろうということになった。それから東京・長野・新潟・宮城・其他の府県の地方官吏も亦続々として減俸による醵金を決定したと伝えられる。警視庁の高等官も俸給の百分の三を、今後六カ月に亘って割くことになり、判任官も之に呼応するらしいという状勢になって来た。――三菱は前に二百万円を寄付したが、三井が今度三百万円寄付したので、百万円足して三井同様三百万円にすることにした。其他様々。
 今や日本は上下を通じて、日夜東北救済義捐金の醵出に夢中である。曽つての国防基金の醵出の風俗などは今ではどこへ行ったか姿も見せない。今にして判るが、日本人はこんなに人間的同情に富み、義勇の道徳が身につき、こんなにも社会事情に敏感で熱心であるのだ。――処が私は不幸にしてあまりこうした浮気な同情や道徳やセンシビリティーを信用出来ないのである。同情や道徳やセンシビリティーが、婦人団体のように貞淑で浮気だからばかりではない。もう少し他に理由があるのである。
 一体同情というものは、云わば人間界に発生した自然現象について生じるという特性を有っている。商売に失敗して首が廻らなくなったということでは、あまり同情の対象にはならぬ。お説教の対象にはなっても人間の道徳的皮膚感触を触発するものではない。之に反して火事で焼け出されたり不慮の病気で食えなくなったりしたのは、同情の一等優秀な模範的な対象になる。病気など実は大部分一つの社会現象なのだが、之を同情の対象とするためには無理にも之を人間界の一つの自然現象にして了わなければ、どうも都合が悪い。
 つまり同情というのは、社会現象ならばお説教すべき処を、自然現象として見るのでお説教の代りに持ち出されるものなのだ。病気でも多少科学的に取り扱い出すと、病人の日常生活に対する医者先生の養生法の説教一つきりになるのであって、又之を天帝や為政者の怒りや不徳の致す処にして了えば再び天帝や為政者の責任問題になって了うので、いずれももはや同情の対象ではなくなって了う。同情とは「自然現象」に対する社会人の原始的な反作用である。
 処で東北地方の凶作飢饉がなぜ現在このようにセンセーショナルな同情の対象になっているかというと、単に世間の人達の意識が甘くて、婦人団体を道徳上の模範としているばかりではなく、更に進んで、この同情を守り、この道徳を傷つけないために、東北地方問題を専ら一つの自然現象として見ようと努力しているその努力が立派に報いられたからなのである。
 成程凶作だったから農民が食えなくなったに相違はない。併し仮に豊作であっても飢饉にならないとは保証出来ない、という過去の事実を、世間人の浮気な同情は、まさかスッカリ忘れて了っているわけでもあるまい。所が凶作は冷害の可なり不可避な結果だったから、そして飢饉はこの凶作の結果なのだから、東北の飢饉の原因は冷害にあるというのが世間の人達の同情の原因なのである。
 安藤広太郎・寺尾博・岡田武松・藤原咲平等の農学及び気象学の学者達が集って、農相官邸で「冷害対策懇談会」を開いて、色々面白い研究が発表された。水温が低いと凶作となり又不漁になるとか、火山の爆発が冷害凶作の遠い原因にもなっているとか、注目すべき統計上の結果が公にされた。自然科学的な乃至は純技術的な観念からすれば、冷害対策はこの種のものとおのずから限定されるのは云うまでもない。
 だが判らないのは農林省当局の意図であって、なぜ農林省は東北の飢饉を凶作に、凶作を冷害に、それから冷害を気象的地質的現象に、すりかえるのかという点だ。まさか火山の爆発を鎮圧したり、日本の水温を温めたりして、今後続くだろう東北農民の貧困を防止しようとは思っていないだろうが。同じく根本的に永久的な対策ならば、もう少し現実的に利き目の著しい対策がありそうなものだ。一体凶作の問題は「米」の問題ではないか。農林省が東北問題対策として一等先に之に気づかないというのは、どうした次第なのか、吾々には判らない。
 政府は政府で、「東北振興審議会」なるものの官制制定に多忙を極めている。一、内閣所属とし会長は総理大臣之に当り、内務農林両相を副会長とす、云々というわけだ。政府は天文台か地震研究所でも造るような、床しさを示している。――私は例の婦人方の純真な「同情」が、このような色々な冷静なる研究態度に変形して行くのを見て、お気の毒に思う他はない。併し何しろ、事件が「自然現象」である限り、そして態度が「同情」である限り、そうなるのも已むを得ないことだ。
 内務省は国立栄養研究所の原徹一博士を東北地方に派して、冷害地の栄養調査を行わせた。之は「冷害対策行動」の内で、可なり意味のある行動の一つに数えていいだろうと思う。その調査結果によると、明年の四五月頃が一等農民の弱い目が現われて来る危険期だろうというのだ。処で原博士の所感だが、「貧農の救済は一刻も躊躇はならぬ、しかし、僕の痛感したのは中農の悲惨な実状である。かれ等は平素相当な生活をしていたため、現在ではその所有品を売払ひ、その上、働いても食がない、こうした中農の救済についても当局は大いに考慮してやってもらいたい、」云々(東日十一月七日付)。之で見ると政府は、専ら貧農を救済していることになるが、私は今迄政府が救済するのは、中農小地主以上だとばかり信じていた。だが、博士はここで科学者として語っているのではなくて、一個の例の「同情」者として話しているのだから、あまり信用する義務はあるまい。ここでも結論は「同情」に帰着しているからだ。
 東北の冷害という「自然現象」に対する渦巻く同情の嵐を他処にして、社会現象としては、同地方の小作争議は年末と寒さに向って刻々に深刻化して行っている。今年は一月から九月迄の間に全国に四千の小作争議が発生したが、前年よりも五百件多い割になっている。その内小作人側から小作継続を要求するものが実に六十二パーセントを占めているというのだ。青森県などでは各町村に小作争議防止委員会を組織せしめ、相不変、町村長・警察署長・農会技師を始めとして、地主代表と小作人代表とを夫々一名ずつ会商せしめることにしているそうだ。農村陳情団は到る処、国元の駅頭で阻止されているとも聞いている。窮乏農村には「自治返上」の叫びをさえ挙げている処があるそうである。でこう見ると、東北地方の問題は、どうも矢張自然現象ではなくて、従って「同情」の対象としてはやや不向きで、遺憾ながら一個の社会現象だということになる。
 社会現象とあれば、東北の冷害は、独り米穀問題ばかりでなく、偉大な軍事予算の問題や、対軍縮会議兵力量の問題などと切り離しては意味がない筈で、そこまで行くと、問題は愈々「同情」や何かでは×××せなくなるのである。東北地方の救済と、軍事予算との、数量上の連関を、ハッキリと私に教えて呉れる人はいないか。(一九三四・一一)
(一九三四・一二)
[#改段]

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