2016-04-12

 農村問題・寄付行為其他


 農村問題・寄付行為其他

   一、農村問題

 最近の新聞紙では「失業問題」というテーマが一頃のようには頻繁に見当らない。之は無論失業者が非常に減ったとか失業者が無くなったとかいうのではなくて、「失業問題」というものがなくなったことを意味するのである。と云うのは、失業問題の代りに「農村問題」というものが出て来たので、社会の輿論は農村問題で以て失業問題を蔽って了うことと決めたからである。
 失業しても貧乏さえしなければ問題でないのだから、失業問題ということは大衆の一般的な貧乏問題ということだという点を特に断っておかなくてはならないが、同様に農村問題も実は農村貧乏問題の筈である。従って失業問題の代りに農村問題が出て来たことは、一般的な貧乏問題が特殊な農村の貧乏問題にまで具体化されたものだと思われるかも知れないが、そう正直にばかり理解してはいけないのである。
 政府や資本家地主や新聞が云っていた処の失業問題は決してただの失業問題ではなかった。無産者が貧乏するのは同語反覆的に当然なことなのだから夫は問題にする必要はない、問題は資本家地主や所謂中産階級という社会の最も健全な分子が貧乏することである、否、社会の大多数の資本家地主やましてそれに及ばぬものが如何に貧乏しようとも、少数の信頼するに足る分子が夫によって増々繁栄を来しさえするならば、国家はビクともする必要は事実は何処にもないのだから、問題はこうした社会の健全分子の貧乏ではなくて、実は彼等の貧乏意識だけが困りものなのである。だから一等いけないのはこうした健全分子の内でも比較的純粋な自覚能力を持ったインテリの貧乏意識なのだというのである。失業問題なるものは実はインテリの失業問題だったのである。なる程初めから貧乏な人間がどんなに今更貧乏しても、「問題」になる筈はあるまい。
 そこで失業問題の解決は大学や学校を卒業するインテリの就職問題に帰着するわけで、而も夫が更に大学や学校の教育問題に帰することになる。現代の形式主義的、非人格主義的、唯物思想的、非実際的な教育方針が、正に「失業」の原因だということが判ったのである。こうして「失業問題」は凡そ貧乏問題とは関係のない「学制改革」問題に転化する。社会の実情に即した、すぐ様社会に役に立つ教育をやりさえしたら、卒業生の就職難は一遍で解決するというのである。だから「失業問題」というのは貧乏問題でなくて教育精神の問題だったのである。
 教育精神の問題をいくら具体化した処で、農村問題が出て来ないことは明らかだ。従って「失業問題」を具体化したものが農村問題だなどと思うと、途方もない計算違いになる。「農村問題」というのは農民の貧乏問題と云ったような失業問題ではなくて、全く農村の救済問題なのだ。と云うのは、関東震災の時に製糸業者を国家が救済したり、神戸の鈴木が潰れた時に台湾銀行を救済したりした、ああいう意味での救済を、農民に対してはとに角、農村に対してやろうというのが「農村問題」だ。だから農村救済は農村の中小地主や中小資本家のために農村金融をしてやることだというようなことになる。無知な農民達は金融と聞くと、金を借りることばかりしか考えないが、そしてこの点に於ては「庶民金融」という掛け声を聞いて好い気持になる都会の庶民(市井人、即ち小市民)も農民と少しも変らないが、併し金融というからには金を貸すことの方が建前だということを考えて見なくてはなるまい。そうすると農村金融というのは農村に金を貸してやることであり、そればかりではなく、農村に金を貸させてやることでもあり、又更に金を貸す能力を農村に授けてやることでもあるのだ。金を借りる方は問題にならぬ、農民は問題ではないからだ。農村の中にあって、或いは農村に対して、金を貸すことの方が農村金融の、従って又「農村問題」の問題なのである。
 失業問題が農村問題に変ったのは、貧乏という生活問題が、金融という金儲け問題に変ったことに他ならない。農村問題が農民の貧乏問題だなどと思うことは、失業問題が一般大衆の貧乏問題だと思うことと同様に、飛んでもない馬鹿正直な善良さだろう。
 では農民の貧乏はどうして呉れるかと云うだろう。併し何遍も云うが、農民が貧乏するのは当り前ではないか。農民が貧乏しなかったら、彼等はもはや農民ではなくて地方地主や農村資本家だ。だから農民に就いてはその貧乏は問題ではない、丁度資本家に取って資本所有は初めから当然で問題にならないと同じである。農民に就いて問題になるのは、その貧乏ではなくて、ここでも亦専らその教育なのである。農村の農村問題は別として、農民の農村問題は「農村教育」問題なのである。問題は又しても教育精神にあるのである。
 こうやって本当の「失業問題」は、インテリ教育や農民教育の、教育精神問題に帰着する。失業問題を貧乏問題だなどと考える徒輩は下根の到りで、「失業」の本質は神聖なる教育精神の欠点にあるのだ。それでこの頃、世間の人間の思想が、考え方が、前よりは余程精神的で高尚になって来たから、貧乏と云ったような唯物思想を連想させる処の失業問題が消滅して、農村精神の作興に興味集注する処の農村問題が、それに代ったわけである。
 併し農村には云うまでもなく学校らしい学校も、大学もない、だから学制改革式の教育観と農村精神作興式の教育観との間にはまだなおギャップが横たわっている。政治家は云わば文部省と農林省との間のこの溝を埋めなくてはならぬ。この際、どっちをどっち側にまで移行させてアダプトさせればいいかは、一寸判らないわけだが、併し日本の兵士の内には農民が圧倒的に多数だという一つの事実が何よりも参考になるだろう。前内閣の枢軸をなしていた例の五相会議に於ける荒木陸相と後藤農相との関係を見れば、なぜ日本の兵隊がこの場合の参考になるかが判ると思うが、この関係から行くと、鳩山文部省と後藤農林省との比重関係は相当ハッキリしている。で鳩山式の学制改革的教育観の方が、後藤式農村精神作興的教育観に、その勢力関係から云ってアダプトしなくてはならない。
 後藤式の農村精神作興的教育は、その村塾主義教育、道場主義教育に一等よく現われている。二月程前になるが、農林省では農村の中心人物を養成するために十二県に亘って「農民道場」(「百姓道」の道場)を設置することにし、後に之を十八県に亘ることに改めた。予算は十万円で之が半額補助の形式で各県に割り当てられるというのである。それから後藤農相が最も興味を持って力こぶを入れているらしい農村塾は、例えば埼玉県下の「財団法人金※(「奚+隹」、第3水準1-93-66)学院、日本農士学校」だろう。之は伯爵酒井忠正氏が院長であり安岡正篤が学監である処の金※(「奚+隹」、第3水準1-93-66)学院の下に立つもので、後藤農相(今度の少壮内務大臣)自身もぞくしているらしい、官僚ファシズムの団体「国維会」と連絡のあるものらしいが、東京日日新聞の伝える処によると、東洋の農本文明(!)の根抵の上に立つ新しい封建制度(?)の建設を目的とする農業村塾であって、この学校の守護神社(文部省系小学校では御真影奉安殿に相当するのかも知れぬ)たる金※(「奚+隹」、第3水準1-93-66)神社の大鳥居は、後藤農相自身の寄進になるものだそうである。学生の間に家長制度を設け家族会議で事を決めて行こうという思いつきである。恐らく金※(「奚+隹」、第3水準1-93-66)学院学監安岡氏の哲学である日本神話に応えんがためであろう。
 農村精神作興派の教育観によるこの村塾主義、道場主義は前内閣の皆川司法次官の転向教育観の内に現われる。氏の「皆川研究所」や千葉の小金町に出来た「大孝塾」も亦この村塾道場主義に立っている。更に内務省系では、東京府が皇太子殿下御誕生の奉祝記念事業として、都下の小学生七十五万人と中等学校生徒十三万人とをば静思修養させるための純日本式設計になる寄宿寮「小国民精神殿堂」の「静思修養道場」がこの例だ。その敷地として畏くも高松宮様から御所有地を賜わるということである。
 で大勢がこうなって来ると、文部省式教育観の側の譲歩は甚だ必然で、文部省の日本精神文化研究所は、学生のストライキが起きたり何かする処から見ても、例の普通の就職難学校や失業大学と同じ種類のものであることを暴露して了ったが、之では遂に例の村塾道場主義に太刀打ちが出来ないとあきらめがついたと見えて、遂々文部省は全国に於ける村塾で農村文化(?)に貢献し人格陶冶の功績を挙げているものを選んで表彰することに決めたのである。こうして日本の教育は日増しに精神手工業的な村塾道場主義に傾いて行くのである。三田の慶応義塾など、蘭学塾か英学塾かに止まっていれば、今頃は大したものになっただろうに、大学令の改正と共に、失業大学の仲間入りをしたのは、先見の明のなかった点で重ね重ね残念だ。
 物質的な貧乏問題を、村塾道場主義と云ったような精神教育で解決しようとするこの観念論は、反技術主義と精神主義とを内容としている。村塾主義の反都会主義、反工業主義、やがて反プロレタリア主義がその反技術主義だと一応見ていいだろうが、精神主義の方になると一寸説明が必要だ。と云うのはこの場合の精神主義は実は云わば一種の肉体主義なのである。だからこそ剣道や柔道や又は坐禅と同じに、教育が道場で行われることになるのである。一体、手工業は肉体主義なのである。
 だが現在の日本ではこうした肉体主義的観念論が一般に非常に流行している。信仰家や民間治療家の多数は現に之で食っている。そればかりではなく元来之は日本国民の何よりもの勝れた特徴であるのかも知れない。上海事件の折の支那兵の死傷者一万人の内、日本兵の白兵戦創や手榴弾による者が六〇パーセントにも上っているが、之に反して日本側の死傷者七千二百人の内、支那兵の肉弾によるものは僅かに一パーセントしかなかったというので、日本人が肉弾という肉体主義的戦闘方法に於て如何に優れているかが、之で判る――失業問題だって「肉体」的精神教育で解決出来る、或いは寧ろ肉弾で解決した方が早いかも知れぬ、というのがわが「農村問題」対策なのである。

   二、寄付行為

 東大法学部教授末延三次氏は厳父の遺言で遺産の内から百万円だけを区別して、「末延財団」という財団法人を設立し、百万円の基金による利子の内年五千円を、学術研究費として帝国学士院へ、残りの利子を有望な学者と貧困な学生とに給費することにしたそうである。それから、これより先三井家は三千万円で財団法人「三井報恩会」を設立し「社会事業その他公益的施設の経営又は助成、及び有益なる学術研究を工業農業其他の産業に応用する実験費援助」の名による第一回支出金額を決定させたということである。どうせブルジョア科学やブルジョア技術学のためにしか費われない金だから質の上ではあまり期待は出来ないだろうが、とに角之だけの金額ならば善いにつけ悪いにつけ、多少の効力は必ず発生するだろう。
 和歌山県下の或る農業学校の校長さんは、三十年間の教員生活で貯金した金一万円を学術振興会に寄付した。これぞと云って功績のない自分が分に過ぎた社会的待遇を受けていることが感激に堪えないので、せめてこの一万円を学問の進歩のために使って貰いたいというのである。一体世人は学術振興会が「学問の進歩」につくすことの出来るものだと固く信じているらしい。併しとに角之も一万円も纒った金を寄付するのだから、寄付行動として極めて自然に納得の行くものだろう。
 処で、昨年十二月以来「東京府立一中内愛国十銭会」という名義で、海軍省恤兵金係りへ国防資金が送られて来るそうだ。初めの月は三円だったのが段々殖えて四月までには総計八十二円何がしになっているという。初め五年生の某君が友人二三人と相談して月々十銭ずつを寄付すべく造った愛国会だったが、今では全校の六割もの会員を擁していて先生の指導監督は一切受けない生徒の自治団体だという話しである。月々百円程度を国防費に加えても、年十幾億に上る「国防費」に較べればその対照は寧ろ滑稽だが、併しこの献金行為の意味は無論その金額の上にあるのではなくてその精神にあるのだ。実は之は国防費の問題ではなくて、国防精神教育の問題なのである。
 併し中学生は何も自分自身で自分を国防精神教育する気持などになる筈はないのであって、彼等自身にとっては問題は国防精神教育にあるのではなく本気に国防乃至国防費にあると想像していいだろうから(尤も彼等の多少×××な英雄主義や小さな仕事欲がそうさせたのなら別だが)この献金行為の教育的意味は中学生自身の側にあるものではなくて別の方面にあるべきものに相違あるまい。之はいわば国防精神教育の実地演習なのであろうが、実地演習というものはそれが単なる演習であって単に教育日程の上で仮構されたものに過ぎぬということを、実習教育される当人達が知っていなくては実習にならぬ。それを本物だと思い込まれたら飛んでもない×を教えたことになるからである。処がこうした国防精神教育の実習になると、運悪くもこれを本物と思わせなければ精神上の効果を産まないのがその特色なのである。之が真似事だなどということを知られては実習にならぬというのがこの精神教育の本質だ。
 寄付と云ったような物質的な行為になると、それが精神的になればなる程、即ち物質量の上の問題でなくて「精神」の問題になればなる程、その「精神」が不純になるというそうした不思議な特色を持っているのである。
 現にこの献金行為は、生徒の寄付行為ばかりとは解釈出来ない、一つの教育行為なのだが、その教育行為が、教育行為それ自身として見て決してアケスケにはなれない理のあるものなので、それを反映する生徒のこの献金行動に、何か中学生の身体のような不均衡なものが見えるのだ。
 この間、御徒町の巡査派出所に突然小さな洋封筒を投げ込んで行った小僧さんがある。開けて見ると五十五銭這入っていて「護国の偉人東郷元帥」にお香典として奉って下さいという手紙がつけてあったということだ。香典は身分と親縁関係によって大体の金額が決まるものなのだからその額の実用価値如何に関係なく、いくらの香典でも、単にその精神上の意味ばかりではなくその物質上の意味が成立することが出来る。
 この小僧さんの「真心」は相当正直に買っていいかも知れない。東郷元帥の国葬にお賽銭を上げた人間が少くなかったということだが、こうした「喜捨」に較べればずっと意味の透明な行為だ。
 尤もお賽銭でも相手が東郷元帥の遺骸だから少し変に思われるまでで、東郷神社も沢山出来るというから、神様や仏様と見做したのだとすれば、之もそんなに不自然な寄付行為ではないかも知れない。――だがこの二つの場合でも香典やお賽銭にあまり物質的意義がないと考えられる範囲に於ては無意味であって、もし強いて之に精神的な意味をつけるならば、それは先に云った府立一中の生徒の寄付行為と同じ精神上の意味のものに帰着する他ないだろう。ただ違う点は、一中の教育家先生達の代りに、社会の非常時道徳の強制力が、国防精神教育を引き受けているという点だけである。
 一中の先生の教育行為や非常時道徳の強制力が行う教育行為には、また学校教育とか社会的強制とかいう建前があって、たとえ嘘にしろ嘘だという確信が伴っているわけではないが、国民一人当り一銭の寄付をさせて軍艦旗を調製して海軍に献納しようという寄付行為などになると、もはや話は別になる。東京日日新聞はこうやって二百五十万人から五万円余りの軍艦旗調製資金を集めた。
 この寄付行為は軍艦旗や五万円という金に意味があるのではなくて、二百五十万人という人数に意味があるのでこれは云うまでもなく東日の読者数と広告欄の単価とに関係があるのである。それは新聞社自身が確信していることだから、今更説明する迄もないだろう。(以下十一行削除)

   三、仏教大会

 七月十七日から六日間に亘って東京築地本願寺で開かれる第二回汎太平洋仏教青年大会に対して、満州国代表が出席するというので支那は代表者を送らないと云っている。全支仏教団体を総括する「中国仏教会は中国と満州国とを同列に招待するのは中国を公然と侮辱するものなれば大会を否定すべし」という決議をし、併せて支那首席代表が主唱する「仏教参観団」までも否認することにしたという情報である。主催者側の日本では、個人の資格でもいいから中国の出席を希望するという大国の襟度を示しているが、支那がどう出るかまだ判らないらしい。
 大会の準備会の好村主事はそこで語っている、「大会の目的は政治的葛藤などは超越して太平洋沿岸諸国が精神的に融合しようという崇高な処にあるのです、この精神を無視して、中華民国が満州国代表の参加を政治問題化して遂に不参加を決議したのは実に遺憾です、」云々。宗教は全く政治問題ではないから、政治問題などと関係なく、崇高に談合しようではないか、という論拠と見える、それも良いかも知れない。
 処が今度出席すべく日本へ来る筈になっているインド代表は、この大会を利用して「仏教徒よ立て! ブダガヤの聖地を奪還せよ!」という甚だ宗教的に穏当ならぬ政治的スローガンをかかげて、大会出席の太平洋沿岸の諸国代表に訴えるという申し入れがある。日本の大会本部ではこれに対して出来るだけ便宜を計ろうということだそうだ。何でも、このブダガヤというのは釈尊が悟りを開いた土地なのに、今ではヒンヅー教徒の占める処となって、一人の仏教徒の影もないのだそうである。仏教徒がインド教徒に対するこの対抗が少くとも宗教的対抗であることは云うまでもないが、併しなぜそれが同時に政治的でないかが私には判らない。
 宗教運動でも運動である以上は政治にぞくするだろうが、そうすれば「政治問題」と宗教問題とを全く別だと考えることは随分怪しげな論拠となるだろう。カイゼルのものはカイゼルに返せというなら(以下十六字削除)汎太平洋仏教青年大会は日本に返せと、支那側は主張出来るわけではないか。又日本にして見れば丁度極東オリンピック大会をつぶしてアジア大会を組織したように、支那の仏教は支那に返して、支那抜きのアジア仏教大会と云ったようなものでも造れば、余計な下手な文句はいらないではないか。
 精神上の宗教が超政治的なのなら、肉体上のスポーツも同様に超政治的な筈ではなかったか。肉体上の問題では是非とも満州を参加させろ、そうでなければ大会を脱退するぞと強引に出た日本が、精神上の問題になると、是非とも満州を除外しろ、そうしないと大会に出ないぞ、という支那側の強引に心外がるのは少し辻褄が合わないだろう。尤も之で見ると、日本の坊さん達の興味を有っているのは、矢張支那の坊さん達と同様に、仏教でも宗教でもなくて、本当は日本とか支那とか満州とかだ、という結論にならざるを得ないと思うが、この点宗教家の特別な論理で行くとどういうことになるのか。
 新聞が伝える処によると、日本が日本独特の精神によって完成された大乗仏教を提げて迷える世界人類の救済に乗り出すべく、国際仏教会というものが今度仏教、国史、などに関係ある日本の名士達によって設けられたそうである。日本的仏教文化を以て、文化的な或いは寧ろ宗教的な世界征服を企てることは、大い道徳的で且つ勇ましいことだが、夫が少しも政治的な世界征服に関係がないのかというと、どうもそうばかりは今日の常識では考えられない。ドイツのナチスはドイツ人が最も純粋なゲルマン文化を世界に弘布すべき文化的使命を持っているという、一つの政治哲学を以て最も政治的と云っていいような政治をやっているし、日本精神の宣揚という文化スローガンも実は同時に日本の政治哲学であって今日の日本の国際的国内的な政治行動の原則になっている。日本がアジアの盟主となり広田外交の理想であるアジア・モンロー主義を唱えるための、精神的乃至文化的根拠としては、仏教精神が初めて日本で完成されたというこの主張位い有効なものはないではないか。仏教が超政治的などというのは全く仏教に対して勿体ない話しであって、日本の僧侶や僧侶主義者は、もっともっと政治的自信を有っていいのではないだろうか。カイゼルのものはカイゼルに返せ、だから仏教もカイゼルに返すべきである。諸君はそうやってカイゼルの文化的代官になれるのだ。

 読者へ。――編集者が伏字にしたり削除したりした部分が明示してある時はいいのであるがそうでなくて全く断りなしに数行削除になっているような個処が之まで時々あった。そのため或る種の誤解を受けた場合があるかとも思われる。よろしく御判読を乞う。――戸坂
(一九三四・七)
[#改段]

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