2016-04-12

 世人の顰蹙

 世人の顰蹙

   一、神兵隊とオーソドックス

 血盟団事件や五・一五事件は実に花々しく新聞紙上に登場したが、之に反して「神兵隊」事件は少くともその発生当時は、気の毒な程、社会の注目を惹かなかったものである。皇国農民同盟の前田某や大日本生産党の鈴木某が四十一口ふりの日本刀を用いて、銃砲火薬店を襲撃し、拳銃や[#「拳銃や」は底本では「挙銃や」]実弾を手に入れた上で、いつもねらわれる牧野内府邸や首相官邸、政党本部、警視庁、財閥巨頭邸等々を襲撃して、恐怖時代を出現させるという計画の下に、大日本神兵隊という××不可思議な軍隊を組織して、国防大祈願という運動をやろうとした、という事件であるが、之だけだと、如何にも重大な驚異すべき大事件であるように聞える。処がどういうものかこの事件には、どことなく隙があり、シックリしない処があって、この事件が社会からあまり注目されない原因もそこにあったらしく見えるのである。
 第一、日本刀で銃砲火薬店をおどかしてからでなければ、本当の武器らしい武器が提供出来ないというような段取りは、血盟団事件や五・一五事件の夫に較べて、何かに類するものをこの事件に感じさせるのであまり権威ある事件だとは受け取れなかったのである。だから之は警視庁などが腕を振うには持って来いの手頃の材料で、数日にして忽ち神兵隊の「全貌」が暴露されたらしく思われた。
 血盟団事件や五・一五事件が、右翼の正統派による運動だったとすれば、神兵隊事件はこのオーソドックスから離れた運動で、そこから武器の供給方法が稚拙であったり、運動全体に権威がなかったりする弱点が生じているわけで、そういう意味から云って決して××するに足る事件ではない、ということがこの時まですでに明らかになったのである。
 問題は之で消えて行くのかと思っていると併し、意外の方面からこの問題が新しく展開し始めたというのは、松屋の重役、内藤某に関わる有価証券偽造、詐欺の嫌疑から、同重役と神兵隊との間に意外な関係が伏在していることが発見されることとなった為である。尤も問題は幸いにして、この某重役の私的犯罪へ関係して行くだけなのであって、別に、軍部とか其他色々の方面へ関係して行くのではなかったから、意外は意外であっても、決して心配すべき筋合いのものではない。だから警視庁は大手を振ってこの問題の「核心」に肉迫出来るというものである。その結果今日迄に明らかになった処によると、予備役歩兵中佐安田某という問題の人物が登場して来て、その人物の自白によって、例の重役内藤某から神兵隊に運動資金として四万円の金が融通されていることが判り、而もそれが神兵隊事件の計画を株の思惑材料として重役に提供した報酬に外ならないということが判って来た。安田中佐自身が去る七月四日迄に数回に亘って事件を例の重役に売り込んでいるのであり(尤もその仲介者がその金額の一部分を着服したかしないかという問題があるらしいが)、一方に於て重役側では神兵隊事件をたのみにして借金の言い訳けをしたり、株を大量的に売りたたいたりするかと思うと、他方に於て神兵隊側では、重役からの資金をあてにして挙兵の日を延期したり、再延期に就いて幹部同志の間に対立を産んだりしている。事件は未然に防止されたから、重役は折角あてにした暴利を棒に振って了ったわけだが、ファッショ運動と株の思惑とが結合している点には誠に興味津々たるものがある。
 世間ではこの事件を××××だと云っている。併しこの事件だけが大して特に××××なのではない。何によらず事件を起こすには資金が要ることは判り切ったことで、一見柄の良くない株の思惑売買を利用したからと云って、それだけでこの計画が、金銭上の利欲や売名のためだったとは断定出来まい。この事件が××××であった点は、別に、某重役のブルジョア的利害と醜関係があったからではなく、実は、この計画が例のオーソドックス・ファッショのもので××××という、一般的な××にあったに外ならないのである。オーソドックスにぞくしていないから、松屋の重役の懐具合を×××にしなければならなかったまでで、丁度、オーソドックスでなかったればこそ、武器をわざわざ民間の銃砲店から××して来なければならなかったのと、全く同じ現象だったのである。
 神兵隊事件の「××××性」が暴露されたのは、何も今になって改めて暴露されたのではない。それが初めから××××であったればこそ、その××××が暴露される運命に立ち到ったのである。という意味は、初めからオーソドックスのファッショ事件ではないらしいと、当局からにらまれたのが×××××きなので、そこから「黒幕」の追究が始まり、資金関係が手繰られ遂々重役との醜関係が明るみに出たというわけで、苟もオーソドックスのものであったなら、「黒幕」の追究など行われる心配はないから、従って何等か××××××××が暴露されるという心配も無用だった筈である。尤も、「満州事変の際には目黒区に居住の有力な某政治浪人(特に名を秘す)の早耳により約十万円を儲けて同人に献金した事実があり」と読売新聞(九月二十八日付)が書いているのは多分無根の事実だろうが。
 一味が「某々方面」や五・一五事件に関係ある海軍士官に、参加を勧誘して断わられたという証拠が、某弁護士の手許から出たそうだが、こういう風にオーソドックスから×××されたことが、取りも直さず運命の神から見放されたことを意味するので、夫があたら神聖な「神兵隊」の名を×××根本原因になっている。取り調べ中の或る人物は、検事に向って「五・一五事件で神武会長大川周明が検挙された時には大川の資金関係を大して追究せず、何故今回ばかり資金関係を追究するのか」と云って「追究」しているが(東朝十月一日)、この××は、この事件のオーソドックス的権威の××××××思い上りからだと云わねばならぬ。

   二、国際文化局

 外務省は「国際文化局」を新設する案を立て之を来年度の予算に計上するそうである。経費は初年度一七〇万円で、局長一名、課長三名、事務官七名、理事官二名、嘱託十二名、属其他十八名という、堂々たる構えであり、その外に、海外の主な国々に文化使節を駐※(「答+りっとう」、第4水準2-3-29)せしめ、更に外務省監督の下に、朝野の財力と知力とを総動員して有力な国際文化事業を目的とする財団法人「日本文化中央協会」と云ったようなものを、民間に造るそうである。云うまでもなく「対外文化宣揚」がその目的なのである。
 そこで、さし当り着手する事業は、一、日本文化講座を主要諸外国の大学その他に新設すること、二、海外各地に日本語の学部又は語学校を建てること、三、学者、芸術家の海外派遣、四、教授及び学生の交換、五、国内国外の国際文化団体の補助、六、本邦芸術(歌舞伎・能・国産映画等)及び本邦国技の紹介、等々だということである。
 誠に結構なことで、今までこうした施設に気づかなかったことが寧ろ変だったと云いたい位いである。自分の国の文化を世界に示すことは、当り前な国際関係で、その結果はまたおのずから外国の文化の輸入という現象ともなって現われるから、ここに本当の「国家」(?)の使命たる世界の文化的共同体への道が開けるわけで、もし、之を放っておいて「外交」とかいうものをやっていたのだとすると、今まで国家は対外的に変なことばかりをやって来たことになる。で何しろ早くこの点に気づいて良かったと思う。一七〇万円や二〇〇万円の金は少しも惜む処ではない、フランスは七六〇万円、ドイツは八六〇万円、イタリアは八三〇万円、スペインは二〇〇万円、夫々この種類の対外文化事業に投じている。観光局のような変態的な紹介機関しか持たなかったわが国が一体いけなかったのである。
 だが疑問はいくつも出て来てつきないのだ。対外文化宣揚が目的だそうだと云ったが一体なぜ急に、わが国ではそれ程文化の対外的宣揚が必要になったのか。日本の文化は決してこの数年来、その水準が高まって来てはいない。高まった部分があるとすれば、夫はソヴィエト・ロシアやドイツを通じての社会科学的研究や常識の場面其他一般の自然科学的研究の世界に於てであって、日本固有な文化(もしそういう言葉が必要ならば)の場面に於てではない。まさか「日本社会主義」とか国体科学とか其他其他のものの建設が日本文化の昂揚でもあるまい。歌舞伎や能はキネマや世界音楽に較べれば、相対的に急速に衰退しつつあるし、相撲が再び盛んになって来たと云っても、拳闘や野球に比較したら物の数ではない。そういうわけで、特に急いで対外的に宣揚しなければならない程の内容ある日本文化は出来ていないのが遺憾ながら今日の事実だろう。
 寧ろ、盛んになっているのは、愛国家が敢えて宣揚することを好まぬような、アッパッパ映画や東京音頭まがいの街頭小唄位いのものではないか。――日本の文化水準は一般的に、最近頓とみに停頓して来たし、特に又日本固有文化は決定的な衰退の途を、もはや引きかえすだけの勢をもっていない。宣揚する必要があるのは、日本固有の文化があまりに昂揚しているからではなくて恐らく、あまりに没落して行き過ぎるからかも知れない。
 だが国際文化局という名が付いているからと云って、正直に、問題が文化にあるのだなどと思うと大間違いをする。問題は文化などという甘ったるいものにはないのだ。文化などは実はどうでもいいのであって、抑々日本は満州問題を惹き起し、国際連盟を脱退して非常時に這入ったのだ。そこでこの国際連盟を出た代りに国際文化局を当方で造ろうというのである。国際連盟はその文化委員会でさえが日本側が受動的だったのだが、まず第一にこの点を逆転して文化的に攻勢に出て、それをやがて「外交」の強硬化に合致させようというのが、この外務省国際文化局の使命なのである。だから文化のことなど実はどうでも良かったわけである。
 併し何と云っても国際文化局という名が付いている以上、日本の文化の宣揚をしないというわけには行かず、従ってその結果は、おのずから、広汎な国際的文化交換、文化連絡をしないというわけには行かなくなる。どの国とどの国とに対しては文化交換をやるが、他の国とは文化交換をしないというような態度は、対手が大使や公使を交換している国である以上、一寸おかしいだろう。
 現在「日ソ文化協会」という社交クラブがあるが、警視庁外事課はあまり之を愛惜していないようである。だから多分、之などは国際文化局に編入されて了うことになるだろう。――対ソヴィエト関係は之でいいとして対ドイツの関係はどうしたものだろうか。嘗つてプロイセンの憲法を輸入したわが国は、最近ナチスの社会政策を輸入しようと企てているらしい。けれどもヒトラーはその代償として、「日本固有の文化」などという凡そ非ドイツ的なものを受け容れる様子は見えない。そうするとこの場合国際文化局の仕事もあまり、文化宣揚にも文化交換にもなりそうもないではないか。一体、一定の対手だけを選んで文化宣揚をやろうというのが無理な注文であると同じに、一方的にだけ文化の宣揚をしようということが、虫のいい勘定なのである。
 処で文部省は大学、専門学校の教授の海外留学を停止する方針だそうである。之も今云った外務省の虫のいい方針と何かの関係があるかも知れない。強硬外交ということであるが、之は教育・文化政策上の強硬外交であるかも知れない。海外留学の代りに、この頃は専門学校以下の教師になると、内地留学というのが相当盛んに行われている。なる程、本当に自由な条件の良い時間を得たいと思っている研究家にとっては、内地留学は海外留学よりもズット有難いことに違いない。もし「国民精神文化研究所」などへ留学を命じられるのでさえなかったならば。
 とにかく外務省と文部省とが之程仕事の上で接近したことは慶賀すべき現象で、何も文部省は、内務省や陸軍省ばかりの同伴者である義務はない筈である。

   三、児童虐待防止法

 この十月一日から児童虐待防止法が実施され、十四歳未満の児童を、家庭内に於ける虐待・種々なる職業に於ける虐使其他から護ることになった。之を喜ばない人間は本当は一人もいない筈である。今年の六月初めには、公娼の自由外出が許可されたが、薄倖児の救済はそれにも増して吾々自身に希望を与えるものがある。尤もその反作用として、わが国は、まるで原始社会のように、女や子供を虐待する国柄であったような気もしないではないのだが。
 前日の九月三十日には、東京府社会事業協会は市内五十の各社会事業団体を総動員し、全市を十五地区に分けて、早朝から係官を出張せしめ、主旨の宣伝に力めたものである。「可愛そうな虐待児童がいたらすぐに警察に知らせて下さい」とか「十四歳以下の子供に物売りをさせてはいけません」などというビラを配りながら、薄倖な児童の家庭を訪問させたのである。
 処で新聞の社会面が報じる※(「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28)話によると、社会事業協会の幹部の一行が吾妻橋傍に佇んでいる親子ずれの門付けをつかまえて、明日から止めないと懲役になるよと注意すると、母親は急にメソメソと泣き出して了ったそうである。「この子に稼いでもらわなければ御飯が食べて行けないのです、亭主には棄てられ家には病人があり……」と云って泣き出して了ったというのである。念のために云っておくが、泣き出したのは子供の方ではなく母親の方なのである。新聞の話しでは、之を聞いた一行は、さすがにホロリとさせられたというだけで終っているのだが、それから先が問題ではないかと思う。
 実の子ならばまず大抵の親は虐待などはしたくない筈だ。それを「虐待」しなければならなくするのは、云うまでもなく親子の生活のためだ。それから本当に子供を虐待するのは、所謂「親方」や雛妓すうぎの抱主だろうが子供を親方や抱主に渡す親達は云うまでもなく生活の必要に迫られるからだ。親爺がのんだくれだとか何んとか云っても、相当の収入でもあればやたらにのんだくれになるものではないので、之も結局生活の不如意からだ。虐待を除いても虐待の原因を除かなければ、何等の根本政策でもあり得ない。
 なる程九月三十日には、街頭で発見された虐待児童は乞食二十一名、辻占売十五名、新聞売十一名、遊芸十名、絵本売六名、コリント台売四名、花売二名、合計六十九名だったのが、この法律実施の初日である十月一日には僅かに辻占売一人と乞食三人としか広い東京市の街頭で発見されなかったと新聞が報じているから、該法律の効目には目ざましいものがあるようだが、所が、一方九月三十日迄に来たお酌の就業届出数は、例年よりも三〇〇件を増しているという、裏の事実もあるのである。
 既に就業している雛妓には、何故かこの法律は適用されず、今後就業しようとするものだけに適用されるというのだから、九月三十日を名残とばかり雛妓就業届出が殺到するのは当然である。それでこれら既成雛妓の抱主達は、例の吾妻橋のルンペンお袋のように、メソメソ泣き出さなくて済んだわけである。――何しろ、高が流しの門付け修業には殆んど資本はかかっていないが、雛妓にまで就業させるには原料の費用も加工費もかかっている。之を賠償しない限り、児童虐待防止法と雖も承知は出来ない。
 大人でもあり余っていて子供なんかはどうでもよくなった工場や海運業に於ては、児童労働禁止は可なり前から実施されている。道徳的な法律は凡て抵抗の弱い処から適用を着手するらしい。児童虐待防止法が芸者屋よりも先にルンペン親子の方へ、適用されるのは必然である。
 児童虐待をしてはいけないという名目上の禁止は之で出来上ったが、前借住込みという形式の極東アジア的人身売買をしてはいけないという禁止令はまだ出ていないようである。併しそんなことまで構っていると問題は限りがなくなるのである。今に男の大人の虐待までも問題にしなければならなくなるだろう。労働者や農民の失業者の日常的な社会的虐待、又之に学生やインテリを加えての警察的虐待など、こうしたものに対して一々禁止命令を制定していては切りがなくなるわけである。禁止令はなるべく狭い範囲にだけ実行されて纒りがつくような種類のものから、先に選ぶべきだろう。そうしないと労多くして効少ないからである。児童虐待防止法などは、それには持って来いの、小ジンマリした理想的な法律ではないか。
(一九三三・一〇)
[#改段]
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