2021-06-30

和解のために 2021 ―毎日新聞連載 2021. 1. 22 ~ 6. 25

和解のために 2021

―毎日新聞連載 2021. 1. 22 ~ 6. 25

朴裕河(パク・ユハ)

1957年、韓国ソウル生まれ。韓国・世宗大教授。慶応大卒、早稲田大大学院で日本文学を専攻、博士号を取得。主な著作に、「反日ナショナリズムを超えて」(河出書房新社、日韓文化交流基金賞受賞、のち「韓国ナショナリズムの起源」と改題し文庫化)、「和解のために--教科書・慰安婦・靖国・独島」(平凡社、大佛次郎論壇賞受賞)、「帝国の慰安婦--植民地支配と記憶の闘い」(朝日新聞出版、アジア・太平洋賞特別賞、石橋湛山記念早稲田ジャーナリズム大賞)、「引揚げ文学論序説――新たなポストコロニアルへ」(人文書院)など。



目次

01 過去30年で形成された「責任逃れの日本」の背景

02 変わりうる「ファクト」とは―「帝国の慰安婦」著者が指摘、「学問の政治化」

03 基本条約めぐる日韓、認識のずれ―冷戦崩壊背景に

04 元徴用工判決「現在」が裁いた過去―歴史の司法化

05 慰安婦問題裁判自体を無効とした日本政府の対応、最善だったのか

06 慰安婦問題の罪を「日本」「国家」だけに集中させた判決の問題点

07 国家の利益、国家の都合で動員される女性たち

08 必要なのはここ30年の歴史との向き合い方の検証

09 「正義」に抑圧され、声出せぬまま亡くなった被害者に思いを

10 被害者中心主義から代弁者中心主義に―運動と研究は誠実だったか

11 欧米の認識を作った北朝鮮の慰安婦証言

12 あるべき「記憶継承」を共に考える日を求めて
01
過去30年で形成された「責任逃れの日本」の背景


日本と韓国は、葛藤を乗り越えられないまま、2021年の歩みを始めた。一人の韓国人女性が名乗り出て、慰安婦問題が再発見されてから30年。冷戦終結後の急激な変化の時代にあるべき関係を模索しながらも、いま日韓は最大の不協和音の中にある。「諦め、絶望するのはたやすい。だが次世代のために共存の道を探りたい」。「帝国の慰安婦」などの著書で知られる韓国・世宗大の朴裕河(パク・ユハ)教授の連載「和解のために202

1」をお届けする。





∙ ∙

「学問の政治化」のつけ

日韓関係の悪化が憂慮されて久しい。日本で首相が代わった時、それをきっかけとして新たな展開を期待する向きもあったが、当分は難しいのではないだろうか。なぜなら、対立している問題をめぐる正確な理解が両国に十分あるとはいえず、しかも問題の所在を共有していないからだ。

たとえば、日本には日韓関係悪化の原因を文在寅(ムン・ジェイン)大統領に求める傾向がある。そして今の政権が続くうちは、関係改善は難しいとする声が多い。たしかに文大統領は朴槿恵(パク・クネ)大統領の在任の時、両方の外交関係者たちが苦労してこぎつけた日韓合意に基づく「和解・癒やし財団」を解散してしまった。だから

和解のために 2021

といって10億円を返したわけでもなく、合意破棄を宣言したわけでもない。最近韓国では、文大統領があるべき場所にいない、声を出すべき時に姿を現さないとの認識が国民の間に強まっている。そういう意味では、日韓合意をめぐる曖昧な態度はそうしたことの延長線上にあるのだろう。いずれにしても実質的に破棄とも見えるのは当然で(だが、韓国側から見れば、そうした曖昧な態度を外交的駆け引きと評価することも可能だ)、そういう意味では日韓関係回復を願う人々がポスト文政権を待つのは当然のことではある。

しかし、朴大統領も日韓合意に取り組む直前まで日本の予想・期待を裏切り、厳しい態度だった。つまり保守政権だからといって日本に対する態度ががらりと変わるわけではない。

そうしたことの背景に植民地支配があると見ている人が多い。そうした認識はもちろん間違いではない。しかしより正確には、植民地支配に向き合う日本像こそが韓国の人々の反感をつくり続ける原因になっている。つまり、「植民地支配」自体よりは「植民地支配をめぐる(日本の態度など)諸認識」が変わってきた結果と見るべきだ。冷戦崩壊後のここ30年の間に起こったこと、そしてそれをめぐる認識の社会的拡散の結果こそが今日の対立をつくったと見た方がより正しいと言えるのである。一言で言えば、それは「(過去に関して)謝罪も補償もしない、責任逃れの日本」のイメージが韓国の人々の認識として定着してしまった結果である。起こった事柄(歴史)が根っこにあるのは確かだが、そのこと以上に、「反省のない日本」とのイメージが1990年代以降韓国社会に定着したこと、つまり過去30年をかけて形成された日本観が現在の韓国の対日認識や態度をつくってきたといっていい。

そうしたことを支えるべく90年代から学者たちのさまざまな研究・認識が生産され、それらが定着してきたことがそうした韓国の日本認識をつくってきた。たとえば、文政権の歴史認識の根っこにあるといえる1910年の日韓併合不法論はソウル大の李泰鎮(イ・テジン)教授が90年代に提唱し、定着してきた認識である。詳しくは改めて書くが、そうした「論理」が作られ、メディアなどを通して拡散・定着されたことこそが韓国の対日認識・自己認識を変化・強化させたものなのである。

それに続いて台頭した65年の日韓基本条約が不十分なものであったとの認識も古くからあったものではない。これもやはり90年代以降、主に学者によって時間をかけて拡散されてきたもので、先ほどの日韓併合同様、日本の学者・知識人も連携しての認識だった(こうした動きは90年代はじめから始まったが、拡散したのは 2000年代以降と言える。中には、元徴用工訴訟を支えている崔鳳泰=チェ・ボンテ=弁護士が著者として参加した本もある)。

葛藤生む

「時代の推移」

そうした論理の是非は、今は問わない。重要なのは、日本との「関係」を規定した二つの条約に関して韓国の人々(日本の人々を含む)が冷戦下では存在感のなかった考え方をし始めたということである。そして現在、日韓関係を揺るがしている元徴用工問題――日本を相手取る裁判での18年の判決文はまさにその二つの考え方を盛り込んでいる。つまり、言うならば20年以上かけて発言権を得るようになった考え方こそが、あの判決を導いたので

あった。

もっともこうしたことは、一般には広く知られていない。しかし裁判にかかわった人たち――弁護士やその周辺の学者たちが共有する考え方であり、政治・外交問題になった時、そうした法廷で共有された考え方が政治家に伝わった可能性は高い。しかも文大統領は弁護士出身であって、自ら初期の元徴用工裁判に名乗りを上げていた。であれば、原告側や判決を出した裁判部の考え方を共有していると見ていいだろう。こうして学者の考え方は過去のさまざまな事柄が「問題」として発生した90年代以降、韓国社会の歴史認識を直接、間接に支えながら共有されてきた。

そして本来は政治から離れ、中立的であるべきこうした過去をめぐる認識は、現在や未来を考えるための物差しとなってきた。つまり良しあしを離れてそうした「時代の推移」こそが現在の葛藤を生み支えているのであって、そういう意味では政権が代わることでそのまま対日認識を変えることはできなくなっている、というのが現状と言えるだろう。共有の程度は異なっていても、すでに拡散したそうした認識を議論し納得する過程なしには、単に未来志向を唱えても状況が許さないところに来ているのである。

さらにいえば、本来ならばこうした議論に基づいてそれぞれのことが考察対象となるべきだが、メディアや一般国民はそこまで考えることはあまりないので、単に「被害者としての徴用工」という事柄の状況認識にとどまりがちだ。目の前に出された裁判所の判決に異議を唱える理由がない一般人としては賛同以外にあえて考える必要はない。なぜそうした判決が出されたかを考えることはないのである。たとえば、18年の判決で日本企業が支払うべきだとした補償の中身が「未払い賃金」ではなく「慰謝料」であることを知っている人はほとんどいない。そして世論は被害という「事実と結論」だけで動かされやすい。

もう一つ例をあげるなら、日韓合意の際、韓国挺身(ていしん)隊問題対策協議会(挺対協。現・日本軍性奴隷制問題解決のための正義記憶連帯、正義連)の尹美香(ユン・ミヒャン)前理事長は合意に賛成していたとも受け取れる(20年5月、元慰安婦の李容洙=イ・ヨンス=さんは、尹美香氏が日韓合意を知っていたと訴え、尹氏は否定した。だが、当時の尹氏のメディア向けの説明は矛盾するところが多い。韓国外務省次官出身で当時国家安保室次長だった趙太庸=チョ・テヨン=氏は「尹美香氏に日韓合意について事前説明した」と明かした。尹氏と合意発表の直前に会った和田春樹氏も「いよいよひとまず終止符が打たれる時期がくるという願いは共通のものであることを確信した」としている)。

しかし、20年以上にわたる「運動」の結果、謝罪の形が「法的責任」を取るものであるべきだということは、少なくとも支援者たちの間では当然のこととして共有されていた。そうした状況の中では、たとえその時に挺対協が受け入れたとしても地方の支援

団体をうなずかせることはすぐには難しかっただろう。

もっとも、韓国外務省が交渉相手を挺対協に限定したことも問題だが、いずれにしても、皮肉なことにもはや慰安婦問題は挺対協の中心人物の考えだけでは制御できないところに来ているのである。そうした状況を察知して、正義連前理事長の尹氏が日韓合意を知っていた可能性に触れつつ、現理事長の李娜栄(イ・ナヨン)氏が「永久に闘争をつづけると覚悟をきめている」と指摘する人もいる。

現在の日韓関係がひどくこじれてしまった背景には今述べたような複雑な事情があり、それぞれの問題(の存在)自体を原因としていてはいつまでも現状を打開することはできない。こうした構造はもちろんのこと、このほかに状況を動かしているさまざまな要因――構造的な要因に着目して初めてどうしてこうしたひどい状況に置かれているのかが見えてくるはずだ。支援者内部や外側でも発生している「記憶」の転移現象や、ひとつの言葉の意味が微妙にずらされて議論自体が成立しにくい状況などさまざまなことが、歴史認識をめぐる対話も議論も難しくしてきた。

文大統領支持者の中心層――386世代(60年代に生まれ、80年代に大学生として民主化運動の主軸となり、90年代に30代だった世代のこと。現在は50代になっているので「586」と呼ばれるようになっている)と言われる民主化闘争世代こそが、こうした認識や状況の中心にある人々である。彼らは冷戦体制時代に抑圧されていた世代でもあり、植民地時代に関する認識を民主化闘争時代や冷戦の終わりとともに学習し、内面化してきた人々でもある。そしてたどっていけば帝国に抵抗したのは左派という構図も手伝って、彼らにとって日本は自らのアイデンティティーを確認するものにもなっている。そうした人たちが90年代以降の韓国の対日認識をつくってきたのである。つまり文政権が代わっても、韓国を支えているのはそうした現在の50代と、彼らの民主化闘争の影響を受けた40代であって、当分はそうした認識が続くと見ていい。日韓葛藤はじつは「左右葛藤」でもあるのである。

∙和解・癒やし財団

慰安婦問題をめぐって、日本の責任を認め、国家予算を使って補償すると日本政府が表明し、韓国政府が受け入れた2015年12月の日韓合意に基づき、韓国政府が16年7月に設立した。学者や政府関係者らが理事を構成し、被害者の心の傷を癒やすことなどを目的に、日本政府が拠出する10 億円を原資として当時生存していた元慰安婦には1人1億ウォン(約920万円)、死亡者には遺族に1人2000万ウォンを支給。しかし「最終的かつ不可逆な解決」とした内容などを理由に挺対協などが反対運動を起こし、文大統領が就任した17年5月以降は事実上、活動が休止し、19年7月に残務処理に必要な清算法人になった。

∙日韓併合不法論

1910年の韓国併合条約は調印当初から無効、すなわち不成立であるため法的根拠のない不法な植民地支配であり、本質的には軍事占領であったとする。こうした認識は抗日独立闘争の正当性を裏付ける論拠とされてきたが、90年代に韓国などの歴史学者によって条約無効の史料的根拠が指摘されるに及んで、日本の支配に対する韓国の一般的な認識となった。李泰鎮ソウル大教授は、勅令・詔勅にある純宗皇帝の署名が統監府の日本人職員による偽造であることなどを本に著した。これに対し、韓国併合に至る過程で結ばれた条約はその内容や手続きが極めて不当だったが、法的には有効であるとする反論がある。日本では98年から2000年まで総合雑誌「世界」において論争となった。

∙記憶の転移

別の証言者(口述者)の話を自分の体験として話すようなこと。たとえば、ある元慰安婦の「挺身隊を道端で手当たり次第に供出していった」との発言からもそうしたことが確認できる。なお口述史研究者、鄭恵瓊(チョン・ヘギョン)氏もこうしたことを「記憶の社会化」として指摘している。


02
変わりうる「ファクト」とは ――「帝国の慰安婦」著者が指摘、「学問の政治化」


「帝国の慰安婦」の著書で知られる韓国・世宗大の朴裕河(パク・ユハ)教授は、植民地支配に向き合う日本の姿、すなわち「謝罪も補償もしない、責任逃れの日本」のイメージが1990年代以降、韓国内で学問上拡散され、定着してきたことが、悪化の一途をたどる現在の日韓関係をつくってきたと指摘する。そのうえで教授は、こうした構造的要因に着目し、歴史認識をめぐる「議論のずれ」を念頭に置いて、次世代のために両国が向き合うよう提案する。



∙ ∙

不安定な

「ファクト」

歴史葛藤をめぐって「ファクト」を見るべしとする人々がいる。最近日本でもベストセラーになっている「反日種族主義―― 日韓危機の根源」などもその一つといっていいだろう。もっとも、「事実」を確認することは基本的には重要だ。しかしこうした考えに陥穽(かんせい)がないわけではない。まず「事実」なるものの中身を提示するのは、多くの場合学者であるが、そうした意見が学問という名の研究の結果である限りいつでも変わりうる。つまり研究の進展によって「ファクト」とはいつでも変わりうる。しかも、学問も研究の結果なのだから、ひとりの学者の見解も変わりうる。それは当然のことだが、学者によってはその変



化を明確にしない場合がある。しかも、その学説がすでにメディアなどによって広く広まったあとは訂正しにくいこともある。

たとえば、慰安婦問題における「強制連行」「強制性」という言葉をめぐって日本の学者たちや韓国の運動家はその言葉の意味するところを少しずつ変えてきた。「性奴隷」もまた同様である。つまり、たとえ「反日種族主義」の学者が「慰安婦は性奴隷ではない」と言ったところで、これまで「強制連行」「性奴隷」と主張してきた人たちはすでにその意味するところを変えているので議論がかみ合わない。そうとも知らずにそれぞれの説を信頼してやまない人々の間で接点がつくられようがないのである。たとえば、「強制性」の意味は動員をめぐっての状況ではなく「慰安所(での不自由)」(吉見義明・中央大名誉教授)をめぐるものになっていたりする。しかもそこでの不自由=監禁の主体が誰なのかは言われない状況がある。もっとも、戦場では軍人がそうであったように慰安婦も安全や情報保全のため外出を厳しく制限された。しかし、そこで言われているのは「外出禁止」の「事実」だけであって、その禁止の理由は説明されない。さらにいえば、戦場であれ後方地であれ、慰安婦に逃亡されないように取り締まっていた主体の多くは業者である。資金を投じて連れてきたのだから彼らにとっては当然のことでもあった。しかし、そうした「背景」まで公の場で言われることはほとんどないのである。

こうしたことがあるため、歴史認識をめぐって「議論のずれ」現象が起こる。そうした「ずれ」自体が認識されない限り、歴史認識・歴史論争の場でいくら議論したところで接点を見いだすこ

とはできない。

こうしたことが起こってくるのは、歴史認識をめぐる議論の場において「学問の政治化・学問の運動化」というべきことが起こっているからだ。学問的には(論文や学会報告の中では)変わってきた知見を、あるいは新しい知見を自由に話し合いながらも、公に言わない・表に出さないことが起こっているのである。それは、「歴史」理解が過去を理解するためではなく「現在」の必要に従事させられていることを意味する。つまり、そこでの「歴史」はすでに単なる過去のこと――歴史ではなくなっている。「歴史」が現在に従事させられつつ、現在を制御するような

ことが起こっているのである。

個人的なことになるが、2015年夏、私をめぐるある事態がきっかけとなって作られた小さな日韓市民の会がソウルでシンポジウムを開いた時、私はそのタイトルを「歴史との向き合い方」とつけた。それはこうしたさまざまなずれやねじれが起きていることに気づいてのタイトルであり、「事実」の認識と共有は当然ながら必要だが、歴史とどのように向き合うかということこそが重要と考えてのことだった。そこでの訴えを今一度日本に向けても唱

えたい。

今日、歴史は「事実」を超えて解釈の闘いになっている。さらに、逆に先立った解釈に合わせるために動員され、事態を説明するはずの概念の中身が関係者の間で必ずしも一致しないことさえ起きている。いったいこの奇妙なずらしとその結果としてのねじれはどうして、そしてどのように起こっているのか。今後そうしたことについてもう少し具体的に考えていきたいと思っている。

1990年代以降、慰安婦問題や旧徴用工問題が生じた時、日本の支援者を含む多くの関係者たちは、こうした歴史の問題をすべて「法」に基づいて思考し、さらにそこで得た結論を「法」に訴え、その価値を自ら法廷において確認しようとした。歴史問題の政治的な解決を早々と諦めたからというよりは、最初から「法的」アプローチを当然のことと思ってのことだったというべきだろう。しかし、法廷における歴史をめぐる闘いの証拠として出されるのは、口述(証言)を除けば多くは「学問」という名の論文やそこで使われた資料である。つまり歴史そのものというより、歴史をめぐる「見解」が借用されるのである。その限りで、法廷も結局のところ歴史をめぐる学問の闘いの場となるほかない。

今月8日、ソウル中央地裁が日本政府に賠償を命じた元慰安婦訴訟も、一連の文脈の中に位置づけることができるだろう。国際法上の「主権免除」の原則は「計画的、組織的、広範囲に行われた反人道的犯罪行為に対して適用できない」と裁判長が判断した

この判決については、稿を改めて論じるつもりだ。

そもそも歴史問題が法廷に登場するようになったのは、慰安婦問題の場合、「慰安」という名で行われたことを単に「戦争犯罪」と考え、ニュールンベルグ裁判などを参照しつつ関係者の「処罰」を目標としたからである。しかし、実際にそうした運動にもっとも早く、そして長く取り組んできたのは周知のごとく韓国であって、朝鮮人慰安婦という存在は戦争ではなく植民地支配の構造の中で動員された存在であった。いわば最初から理解の枠組みにおいて大きな間違いが生じていたのである。

それぞれの社会の変化に向けて

日韓の現在を考え、未来を模索するためには、まずこうした状況を念頭に置かねばならない。本連載のタイトル「和解のために」は、16年前に私が韓国で出した本のタイトルである。その時は、葛藤はあっても人々の気持ちが今ほど凍り付いてはいなかったのだから、まだ平和な時期だった。しかし、日韓がお互いについて基本的な情報さえ共有していないことに気が付いて書いたその本は、本来届くべき批判対象には届かなかった。

あの時私が目指したのは、タイトルの通り和解の「ために」必要な情報の共有だった。対立する事柄をめぐって対話するためには、まず手持ちの情報が同じものである必要があったからである。とはいえ、あの頃は歴史的相互理解に基づいての政治的・外交的接近をも願っていた(もっとも、それが日米同盟など文字通りの政治・外交的なものではないことを多くの読者は理解してくれた)。しかし今では、二つの共同体の「和解」自体を目指すより、それぞれの社会が良くなることこそ必要と考えている。相手を深く知り、即断や非難や諦めの代わりに、判断を留保しつつ他者に向き合う姿勢を持ち続ける限り、いつかは文字通りの和解も可能になっているはずだ。そういう意味では、今後書く中で目指すのは、あくまでも「考え方」の提案でしかない。同時にあの頃と変わらないのは、そうした提案を通して期待していたのが、「次世代のために」ということである。あの頃も日韓の若者たちがお互いの暴力的・破壊的発想を促す人々に反対して手を取り合

うことを夢想した。そしてその願いは今でも変わらない。

近年、特に日本側から諦めと突き放しの言葉をよく聞く。しかし、そうした諦めは過去30年の間、直接、間接に歴史問題に関わってきた私たちの責任を放棄することになるのではないだろうか。そして理由はともあれ、悪くしてしまった責任やより良い関係を引き継ぐべき責任をも。何よりそうした放棄と放置は、関わり合いながらも悪化させてきた構造の固着を強化し、日韓関係をさらに悪くすることで東アジアの平和を脅かすはずだ。

最近韓国で「リベラル(革新層)はどのように没落するのか」(陳重権、2020年、千年の想像社)という本が刊行された。その少し前には、「いまだかつて経験したことのない国」(陳重権ほか、2020年、千年の想像社)という本が出てベストセラーになった。一言で言えば、文政権を批判するリベラル論客たちによる本

である。

一昨年秋以降の曺国(チョ・グク)前法相の職権乱用事件を受けてのことであり、韓国は今ではリベラルの分裂が市民社会レベルにまで広がっている。もっとも、そうした人たちを「右傾化」と指摘するリベラル層もいて、その多くは文大統領の支持者である。民主化闘争世代も分裂してきているのである。政権批判に回ったリベラルの特徴は、かつて政治的に同一な位置にいたとしても批判すべき事柄は厳しく批判するという姿勢にある。そして彼らの多くは日本に対しても極めて冷静にものを考えている。

こうした新しい層の台頭は韓国社会が今、転換期の岐路に立たされていることを示す。そして新たな動きが力を得られたら、ここ30年のポストコロニアリズムも新たな一歩を踏みだせるのではないかと私は考えている。それはあえていえば、日韓葛藤を底辺で導いていた「左右葛藤」に代わって今後は「左左葛藤」が同様の役割をするかもしれないことを示してもいる。そうした動きが注視され、尊重され、応援された時、日韓間の生産的な歴史対話も再び可能になると、私は考えている。

∙ニュールンベルグ裁判

1945年11月から46年10月まで、ドイツのニュールンベルグで開かれた、第二次世界大戦のドイツの主要戦争犯罪人22人に対する連合国の国際軍事裁判。史上初めての戦争犯罪に対する裁判で、平和に対する罪および人道に対する罪が問われ、12人が絞首刑に処された。






03
基本条約めぐる日韓、認識のずれ ――冷戦崩壊背景に


韓国のソウル中央地裁が日本政府に元慰安婦への賠償を命じた判決が1月23日に確定し、茂木敏充外相は「極めて遺憾で、断じて受け入れられない」との談話を発表した。一方、文在寅(ムン・ジェイン)大統領はこの判決について「正直困惑した」と記者会見で述べ、原告側との溝が広がりつつあるという。日韓の歴史問題はどのような経過をたどってきたのだろうか。対立の根っこには何があるのか。「帝国の慰安婦」などの著書で知られる韓国・世宗大の朴裕河(パク・ユハ)教授が分析した(毎月、上・下2回に分けて掲載)。 ∙

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向き合ってまだ

30年の日韓両国

30年近く日韓対立の中心にあり続けた慰安婦問題は、1990年に韓国の新聞に元慰安婦の軌跡を追うルポ記事が載り、次の年、元慰安婦の一人が自ら名乗り出たことで「発生」した。もっとも、それまで元慰安婦の声が聞かれなかったわけではない。早くから日本でも千田夏光氏の「従軍慰安婦――“声なき女”八万人の告発」(73年、双葉社)など、間接的ながらその声は社会に出されていたし、韓国でも、国交正常化のあった65年にメイン素材ではないにしても映画に登場したり(鄭昌和<チョン・チャンファ>監督「サルビン河が暮れゆく」)、露骨なまでの性的関心ではあっても主人公にした映画も存在したりした(羅奉漢<ナ・ボン



ハン>監督「女子挺身隊」、74年)。また、70年には新聞に解放 25年シリーズの一つとして慰安婦問題が取り上げられ(「ソウル新聞」70年8月14日付)、80年代にも「手記」の形で大衆雑誌にその声が直接載り始めてもいた(「女性東亜」82年9月号、「レディー京郷」84年4月号)。

そうしたことが90年代以降に社会問題となって大きく浮上した背景には、冷戦崩壊がある。特に韓国は解放後に構築された冷戦体制の中にがんじがらめとなっていて、過去をさかのぼって植民地支配問題について十分に考察できるような状況ではなかった。国民のほとんどが何らかのかたちでそうした政治状況による緊張と抑圧の日々を強いられていて、過去を振り返るような余裕はなかったのである。日本もまた国交正常化以降も韓国への一般人の関心は薄く、金大中(キム・デジュン)氏拉致事件や光州事件のような目の前の政治事件の主体としての関心以外はないに等しかった。そうした状況が少し変わるのは、88年のソウル五輪以降のことだった。そういう意味では65年以後も四半世紀近く、日韓ともにお互いへの関心はなかったと言えるだろう。冷戦崩壊と韓国の民主化――政治の季節が終わりを告げた時に初めて、慰安婦問題を含む植民地支配問題――歴史問題が両国に「発生」したのであった。つまり日韓は国家としての付き合いの歳月はすでに55 年でも、本来の意味で向き合い始めてまだ30年なのである。

もっとも、戦後日本が植民地支配についてまったく考えてこなかったわけではない。少数の知識人は植民地支配の本質についてまじめに考えたが、そうした姿勢と認識が戦後日本社会に広まることはなかった。拙著「帝国の慰安婦」ですでに指摘したように、戦後日本は戦争について考え続け、「反戦」意識の共有には成功しても、韓国併合の結果としての「支配」をめぐる考察は国

民レベルではなされなかった。

そして、90年代以降本格的に植民地支配について考え始めたとき、その動きを主導したのは両国ともにいわゆる革新系の人々であった。それは、帝国主義と左派の関係を考えると当然のことでもあったが、結果としてそうした傾向は過去との向き合い方においてある種の問題をはらむことになる。「現在」の政治的立場から過去を眺め、結果として過去をめぐって左派と右派が鋭く対立するような結果を生んだのである。その両方の先端に立つ者たちが、かみ合わない論争を繰り返しながら政治色を強めてきたのがここ30年の歳月である。植民地支配に対して謝罪の気持ちを持っていた人たちがまだ日本国民の多くを占めていた90年代が過ぎると、海外をも巻き込んでの対立と葛藤を始めた2000年代を迎え、日韓合意のようなつかの間の接近を挟んで、日韓合意に基づく「和解・癒やし財団」解散や輸出規制のような、本格的な対立の時代を迎えることになった。現在の日韓関係の分起点は、慰安婦問題の責任者として昭和天皇を有罪とした「民衆法廷」の女性国際戦犯法廷が開かれた00年、今から約20年前と言えるだろう。

「法廷」のあと「嫌韓流」の書物が出されたのは偶然ではない。

しかし、個人の政治的立場から歴史を眺める限り、日韓の間で過去をめぐる接点作りは不可能でしかない。そういう意味では今必要なのは、そうした政治的立場を乗り越えて過去と向き合う姿勢であるはずだ。

清算されぬ植民地時代という認識

現在懸案となっている元徴用工問題をめぐる判決は、65年の日韓基本条約を不完全なものとする認識と日韓併合(1910年)不法論に支えられている。前回述べたように元徴用工判決は徴用工の生活や労務の実態以前に、日韓併合と新たな日韓基本条約をめぐる考え方に大きく左右されているのである。そうした考え方を導いたのは主に左派系の人々であった。

たとえば、95年に出された「日韓協定を考え直す」(民族問題研究所編、注:韓国では日韓基本条約および付随する諸協定のことを一般に日韓協定と呼ぶ)という本の著者には90年代から慰安婦問題に深く関わった弁護士、朴元淳(パク・ウォンスン)氏(のちソウル市長、故人)や姜昌一(カン・チャンイル)氏(当時、大学歴史学科教授。現在、駐日韓国大使)らが並んでいる。つまり、のちに韓国における左派系の主要政治家となる2人がそれぞれ学者と弁護士として歴史問題に関わっていたのであり、最初の疑問が出されたのは日韓併合不法論と同じく90年代だったのである。この本に載った朴氏の論文のタイトルは「日本の戦後賠償政策とその実態」で、姜氏の論文は「“過去清算”の課題と日韓協定」であった。そして序文を書いた金奉雨(キン・ボンウ)氏の植民地時代の認識は「殺戮(さつりく)と民族の絶滅として続いた植民地的状況」下の「すべての民族的要素を否定・抹殺された」時代で、さらに日本を「38度線の設定」の原因提供者とみなす視点だった。95年時点で、解放以後の韓国の課題だったはずの「植民遺制の清算」(注:「植民遺制」とは植民地時代が残した制度や慣習のことで韓国ではよく使われる)がそれまで実現できなかったと見ていたのである。そしてその原因を「独立軍討伐を率いた日本軍人が主導」した政権が、「合法的に成立した政権を銃剣で追い出してできた」ことに求めていた。つまり「反乱政権、反民主的政権」が、「民族的志向をもつすべての個人と団体を銃剣で押さえつけて日本との国交正常化を急いだ」という認識が90年代に本格的に芽生えるようになったのである。

「わが民族はこうした協定に同意したことはない。これは単に日本帝国主義とその先鋒(せんぽう)に立つ手先、そして両国の保護者が企んで進めた、わが民族を破綻させるための隷属文書にすぎない」との考えはそうした認識から出ている。「植民支配に対して深く謝罪し、わが民族を分断させた責任について心から謝罪して、すべての関係者と民族、すべての被害についてはっきりとした賠償と補償を実現した条件の上で論議が進むべきだった」との過去への認識に基づき、「加害者は被害者に精神的、物質的な補償を被害者が納得するまですべきで、そうした条件の上で和解がなされてこそ初めて正しい和解として認められるのが常識」という未来への認識が述べられていたのである。

さらに、「歴史的条件を無視して締結された日韓協定は実に深い傷を我々に残した。まず民族分断の固定化と強化をもたらした。これは統一の可能性を閉じてしまったことを意味する。次に、親日売国奴政権の基盤を強化する結果をもたらした。親日派政権が強化され、彼らの国内基盤が強化されるほど、日本は言うまでもなくアメリカにもよいことになる。この親日派政権はもちろん軍事独裁政権である」として、「日韓がなぜ国交を正常化すべきなのか。それは言うまでもなく真なる友好関係を樹立するためである。それは過去に対する骨の髄からの反省があって初めて可能になる」「韓国の経済と文化を再び日本に隷属させるきっかけを作った」、そして「再び侵略し、侵略される恐れがあるなら、そしてそれが正義を蹂躙(じゅうりん)して成立したものなら、当然廃棄して新たに作り直すべきだろう。そこで初めて両国関係が正しく前へ進めるだろうからである」との認識が示されている。こういう問題提起が「今日まで言及さえされずに蓋(ふた)をされていたこと自体が、民族史の悲劇であった」としつつ、「この本は実際、問題提起の始まりにすぎない」として「今後もう少し具体的な政治的代案と解決方法を準備していくつもりである」と締めくくっていたのである(以上、金奉雨民族問題研究所所長)。長い引用になってしまったが、最後の方に示される考え方―― 65年の条約を「正常」なものではなく「正しくない」ものとする認識こそが、日本からすると単に「国際約束を守らない」ようにしか見えない考え方を作ったことが分かってくるのではないだろうか。こうした考え方自体の検証は今はしないが、こうした考え方こそがあの元徴用工判決として実ったことを認識しておくことは重要だ。

∙1991年の慰安婦証言

1991年8月、元慰安婦の金学順(キム・ハクスン)さんが韓国・ソウルで名乗り出て、日本の責任を告発した。金さんを含む元慰安婦や元軍人・軍属、その遺族らはこの年12月、日本政府を相手取り、戦後補償としての損害賠償を求める訴訟を東京地裁に起こした。

∙日韓基本条約

1965年6月に日本と韓国との間で調印された条約。現在の日韓関係は同条約と諸協定を基礎にしている。これにより日本は韓国を朝鮮半島の唯一の合法的政府と認め、韓国との間に国交を樹立した。韓国併合条約など、戦前の諸条約の無効も確認した。両国間交渉の末、総額8億ドル(無償3億ドル、政府借款2億ドル、民間借款3億ドル)の援助資金と引き換えに、韓国側は請求権を放棄した。他方、日韓諸条約では日本の植民地支配を合法かつ正当であったとする日本側と、不法かつ不当であったとする韓国側が折り合えず、65年時点で「もはや無効」という日韓双方で解釈可能な条文を作った。また「完全かつ最終的に解決された」請求権についても、日本は慰安婦被害者を含めすべて解決済みとしているが、韓国は慰安婦らの問題が議論されておらず、現在も未解決であるとしている。


04
元徴用工判決「現在」が裁いた過去 ――歴史の司法化


韓国の文在寅(ムン・ジェイン)大統領は1 月の記者会見で、元徴用工訴訟を巡り、敗訴した日本企業の韓国内資産を売却する「現金化」に触れ、「望ましいとは思わない」と発言した。「司法尊重」の原則論から一転し、政治主導の解決を求めることになるのだろうか。韓国・世宗大の朴裕河(パク・ユハ)教授は、法律家や法学者らが1990年代から「法的責任」の追及を主導してきた経緯を指摘し、その再検討を提案する。



∙ ∙

2018年の元徴用工判決は、韓国併合不法論や日韓基本条約不十

分論に基づいている。新日鉄に命じているのが「賃金」ではなく「慰謝料」の支払いである理由も、正にこうした1990年代の認識にあった。つまり元徴用工判決は徴用工の生活や待遇などの「被害」事実を超えて「正常でない」とみなされた過去の清算のあり方を「正す」試みでもあったのである。もちろん、そのような試みがかたちを成すまでには20年以上の歳月がかかっていた。もし右派の裁判官が同じく右派的な考え方で判決を出していたら、結果は違っていただろう。その意味では18年の判決は、良しあしは別として「現在」が過去を裁断した判決というほかない。

しかも、明らかに政治外交問題となっているにもかかわらず韓国の文在寅大統領が一貫して「司法府の判断だから」といって関与しない態度を取ったように、そうした考え方が司法府の判断=



「判決」になることで歴史問題に関わる最終の判断としての位置を獲得できたことにもう一つの問題があった。連載の第1回で触れたように、それは文大統領自身が韓国で起こされた最初の裁判に弁護人として名を連ねていたからでもあるはずだが、それ以上に、「法」の判断への信頼がさせたことであろう。慰安婦問題の関係者たちが「法的責任」を求めてきたことを受けて、文大統領が「法的責任」を言うようになったのもそうしたことの結果である(支援者たちは長らく国会で作った法に基づく「法的賠償」と「公式謝罪」を要求してきた。そのことが「法的責任」を取ることと考えられてきたのである。日本軍性奴隷制問題解決のための正義記憶連帯<正義連>のホームページには「法的賠償」と「公式謝罪」がかかげられているが、実際には裁判による補償を求めることになっていて、今でも国会での立法を求めているかどうかは定かでない)。

しかし、元徴用工問題の場合、90年代からこの問題に関わり、判決の中心にいた弁護士は、実は最終解決策として「政府が出て個人請求権を取り消し、財団をつくること」を要求している。つまり企業を相手にして司法府に判断を求めていながら、最終的な解決主体は政府を想定しているのである。そこでは実際には「法廷解決」が求められていない。訴訟は単に政府に圧力をかける武

器としてのみ使われたというべきだろう。

当然のことだが、こうした状況を先導したのは法律家や法学者たちであった。歴史清算の方法を「法」に求めたのも日韓両国の法律家・法学者たちである。

だが、果たしてそうした考え方は正しいのだろうか。慰安婦問題についてのみ考えても、「法的責任」を求めたのは「強制連行」であるとの理解であり、慰安所設置=犯罪=処罰すべし、とする思考だった。歴史をめぐる「責任」の追及を「法」に基づいて進めることが、必ずしも和解や歴史の清算につながるとは限らない。たとえば慰安婦問題に関して、日本の「法的責任」が認められ、国会で法律が作られ「賠償」が行われたとしても、多くの日本の人々の納得を得ることは難しいだろう。そして、そうである限り国民的な日韓の歴史和解につながる可能性は希薄だ。

にもかかわらず、15年末の日韓合意が批判された理由は、韓国の支援団体が主張する「公式謝罪」ではなかったことにあった。ここでいう「公式謝罪」の意味は必ずしもはっきりしないが、韓国政府が支援団体とほとんど同じ意見で動くようになったのは、 11年の憲法裁判所決定で韓国外務省が慰安婦のために動かないことは憲法違反だとみなされたからである。

「法」至上主義の限界

慰安婦問題をめぐる議論でも、歴史学者だけでなく法律家の役割は大きかった。その先頭に立ったのは、実は韓国人ではなく日本人の弁護士らである。彼らは80年代から人権問題を国連にアピールする活動を展開したが、その経験をもとに、国際社会へのアピールを志向する韓国挺身(ていしん)隊問題対策協議会(挺対協、現・正義連)と連携しながら活動した。戸塚悦朗弁護士の著書「“慰安婦”ではなく“性奴隷”である」(日本語版「日本が知らない戦争責任」)によると、今ではすっかり定着した「性奴隷」という言葉を作ったのは戸塚氏本人である。

90年代以後、挺対協と連携しながらクマラスワミ報告書(スリランカ女性のクマラスワミ氏も法学者である)やマクドゥーガル(米国の弁護士)報告書の提出を可能にしたのも、戸塚氏のような日本人支援者だった。さらに日本弁護士連合会が組織として早くからこうした活動を支えてもいた。慰安婦問題や元徴用工問題などの「被害者」問題に早くから関わってきた崔鳳泰(チェ・ボンテ)弁護士は、自分が被害者問題に関わったきっかけが、日本留学時代に日本人弁護士たちがこの問題に情熱的に取り組んでい

たからと述べている。

慰安婦問題が台頭して間もない頃の94年に国際法律家委員会(ICJ)が報告書をまとめたのも、日本の法律家たちの努力のたまものだった。そういう意味では、とりわけ国際社会が慰安婦問題を捉える視座作りに決定的な役割を果たしたのは、歴史家や証言者以上に法律家・法学者たちだったといっていい。クマラスワミ報告書など、その後の慰安婦問題をめぐる世界の認識に大きな影響を与えた文書も、この委員会の報告書の影響を受けていた。そして、こうした法律家たちの思考は、「植民地支配」ではなく過去や同時代の「戦争」が引き起こした状況をもとに考えていたことが報告書の隅々からうかがえる。

90年代以後、日韓の葛藤をめぐる問題において「法」関係者たちが解決のために払った努力と善意は高く評価されるべきだ。しかし、残念ながらそうした主張と活動は問題に対する正しい理解を基盤としたものではなかった。何より(恐らく、正にそのために)四半世紀以上の歳月がたった現在においても葛藤は続いている。そうであれば、今なされるべきは歴史を考える際の「法」の関与の有効性を問うことなのではないだろうか。「歴史の司法化」の可能性と限界を、今一度問わねばならなくなっているのである。

∙クマラスワミ報告書

国連人権委員会で任命されたクマラスワミ特別報告者が提出した1996 年1月の報告書付属文書。慰安婦は「軍性奴隷制」の事例であるという認定の下、日本政府が国際人道法の違反につき法的責任を負っていると主張した。一方、日本政府が道義的な責任を認め、アジア女性基金を設置したことを評価している。日本政府は法的責任を認め、補償を行い、資料を公開し、謝罪し、歴史教育を考え、責任者を可能な限り処罰すべきだというのが報告書の勧告で、国連人権委員会はこの報告書付属文書を「留意する(takenote)」と決議した。またクマラスワミ報告の約2年後の98年6月、戦時における女性に対する暴力に関する特別報告者マクドゥーガル氏の報告書が国連人権委員会差別防止・保護小委員会に提出された。この報告は、慰安婦制度を「レイプセンターでの性奴隷制」と捉えるものだった。

∙国際法律家委員会の報告書

国際法律家委員会(ICJ)は1994年、調査報告書「国際法からみた『従軍慰安婦』問題」を公表した。ICJは52年に法学者、法律家によってジュネーブで設立され、「法の支配」により人権と基本的自由を保障することを目的とする人権NGO(非政府組織)。調査は93年4∼5月、フィリピン、日本、韓国、北朝鮮で、のべ40人の証言者からの聞き取り、資料収集などを通して行われた。報告書は、「婦人および児童の売買禁止に関する国際条約」の締約国だった日本の条約違反などを認め、日韓請求権協定などは免責事由たり得ないとして、日本に対し、慰安施設の運営・維持に関し保持している情報の開示や、被害者のリハビリテーション措置などを求めた。


05
慰安婦問題裁判自体を無効とした日本政府の対応、最善だったのか


今年に入り、日韓関係を一段と冷却化したのが、元慰安婦への賠償を命じた1月のソウル中央地裁の判決だった。国家は他国の裁判権に服さないという慣習国際法の原則である「主権免除」を認めない判断に、日本政府は強く反発している。「帝国の慰安婦」の著書で知られる韓国・世宗大の朴裕河(パク・ユハ)教授は、慰安婦問題の解決に向けたこれまでの日本の努力を認めながらも、問題の多い判決だからこそ日本政府は裁判の場で対応すべきだったと訴える(毎月、上・下2回に分けて掲載)。



∙ ∙

「主権免除」を理由にした裁判回避は正しかったか

さる1月8日、韓国のソウル中央地裁において、日本国家は韓国の元慰安婦に対して1億ウォン(約960万円)ずつ損害賠償をせよとの判決が出た。韓国では、判決までは大きな関心は見られなかった。ただ、文在寅(ムン・ジェイン)政権の与党「共に民主党」の国会議員は、判決の直前にこの裁判の経過について議論するシンポジウムを開いていた(李在汀<イ・ジェジョン>議員主催「『正義』に向かう旅--日本軍『慰安婦』訴訟の意味と課題」、5日)。裁判後には、勝訴の意味を説明するシンポジウムが少なくとも3回開かれている(18日、28日、2月26日)。これらは国会議員、「日本軍性奴隷制問題解決のための正義記憶連帯」



(正義連、旧韓国挺身隊問題対策協議会)、日本軍「慰安婦」研究会、民主社会のための弁護士会が共同主催した。文大統領は判決を受け「困惑」を表明したから、与党の一部は大統領と異なる

姿勢を取っていると言えるだろう。

日本政府は、この訴訟に関して「主権国家はほかの国の裁判権に服さない」とする「国際法上の主権免除の原則」を掲げた。主権免除なので訴えは却下されるべきだという立場を外交ルートで韓国政府に伝え、裁判手続きには応じなかった。

この訴訟の原告は、ほとんどが元慰安婦の支援施設「ナヌムの家」の居住者であった。同じ1月に判決が言い渡される予定だったのに急きょ日程が延期されたもう一つの訴訟の原告は、慰安婦支援の中心となってきた正義連がサポートしていると聞く。8日に判決が下された訴訟は1億ウォン、もう一つの訴訟は最大2億ウォンの賠償を求めている違いもある。そして8日の判決によれば、その損害賠償金の名目は「慰謝料」である。徴用工判決がそうだったように、この裁判でも求められたのは未払い賃金などではなく、「不法に占領中だった韓(朝鮮)半島」(判決文)の「国民」として被った「不法行為」に対しての賠償金だったことがわかる。

日本政府が裁判自体を拒否してきた理由には、「国際法上の主権免除の原則」――いわゆる国家免除以外にも、2015年の日韓合意や1965年の日韓協定(注:韓国では日韓基本条約及び付随する諸協定のことを一般に日韓協定と呼ぶ)があった。日本の外務省のホームページにも「元慰安婦等による韓国国内の訴訟に係る我が国の立場の韓国政府への伝達」(8日)のタイトルで、「慰安婦問題を含め、日韓間の財産・請求権の問題は、1965年の日韓請求権・経済協力協定で完全かつ最終的に解決済み」で「2015年の日韓合意において『最終的かつ不可逆的な解決』が日韓両政府の間で確認されてい」るため、判決は「国際法違反」だとして「受け入れられない旨」を明記するとともに「適切な措置」を求める、

とある。

日本の立場は原則的には正しいと言えるだろう。しかし、もう一つの理由――「国家主権免除」に関しては、判決後の評価にもあるように「例外」がありうるとの考え方が国際社会で受け入れられつつあるというのが事実のようだ(ペク・ポムソク「国際人権法的視角から見た2016カハプ505092損害賠償(キ)事件判決の意味」『資料集202101181次討論会日本国相手損害賠償請求訴訟一審判決の意味』)。こうした考え方が受け入れられるのは望ましいというべきであろう。というのも、こうした推移は、国家が個人の意思を確認しないまま個人の被害を処理してきた、過去を乗り越える方向と言えるからだ。

慰安婦問題の解決に向け、日本がこの間、さまざまな努力をしてきたことは承知している。その意味では日本の立場を理解しつつも、裁判自体を無効とした日本政府が、そうした考えを含めた自らの主張を裁判所で述べなかったのは果たして最善の対応だったのかと思わざるをえない。日本政府がこの判決を相手にしなかったのは、日韓協定や日韓合意を無視するかのような韓国の司法府や行政府への抗議にはなったかもしれないが、日韓合意の内容がまだ正しく伝わってない分、韓国の人々には、単に韓国を無視しての傲慢な行為と映るほかない。日本が謝罪をしていることを知らずに、日本は一度も謝罪も補償もしていない、と考えている人々はまだ多いのである。

また、日本が積極的に向き合わなかった理由として、そうした「まっとうな理由」以上に、ここ10年積み重なってきた韓国への嫌悪も働いていたとしたら、それこそそうした状況を作ってきた相手の枠組みにはまることになるのではないか。むしろ裁判所で日本の主張を語り、韓国メディアがそれをきちんと報じていれば、少なくとも慰安婦問題に関する日本の言い分を韓国の人々が広く知るきっかけにはなったであろう。嫌韓の人たちは韓国の行動が非合理的に見えるとき、もともとそういう民族、というふうに本質主義にのっとり考える傾向があるが、それは間違いで、問題は正しい情報の不在や偏向的な解釈にあるのである。この問題をめぐって日本が何をしたのかを正確に知り、あるがままに解釈する韓国人はまだまだ少ないという現実を日本は忘れるべきではないと思う。

女性国際戦犯法廷を受け継いだ判決

今回の裁判は00年に東京で開かれた民衆法廷、女性国際戦犯法廷を受け継ぎ、完遂したとも言える裁判だった。つまり00年の東京法廷には実効性はないものの昭和天皇を有罪と宣告して「戦争犯罪者」とし、21年のソウル法廷は元慰安婦らに「植民地支配」に対する「賠償」を命ずるといった判決内容の違いはあっても、運動側にとっては30年求め続けてきて勝ち取った初めての成果と

いう意味を持つものだったのである。

00年法廷では、慰安婦のさまざまな体験が「不法行為」「戦争犯罪」として訴えられた。それは、朝鮮人慰安婦問題解決運動を率いてきた正義連(旧挺対協)が90年代から数年前まで、慰安婦問題を「戦争犯罪」と訴えてきたことと一脈通じる。00年法廷で旧ユーゴスラビア国際刑事法廷の所長やルワンダ国際刑事法廷の参加者が、判事や検事を務めたのもそうした捉え方の結果だった

はずだ。

もっとも、朝鮮以外の国の被害者も含む「戦争犯罪」裁判だったので、それはありうることではあった。しかし、北朝鮮と韓国は一緒に「南北共同起訴状」を作って提出しており、朝鮮独自の

ケースを訴えようとした形跡はある。

しかし、00年法廷の判決文は「国際共同起訴状についてのみ判断したもので、南北共同起訴状ほかのケースに関して別途の判断をしなかった」。さらに日本の朝鮮併合の「不法性」についても言及しないままだったという(以上、趙時顯<チョ・シヒョン>「2000年日本軍性奴隷戦犯女性国際法廷と日本軍『慰安婦』問題に対する新しい理解の可能性」東北アジア歴史財団編『韓日間歴史懸案の国際法的再照明』、2009年)。20年後のソウル中央地裁の裁判は、朝鮮人慰安婦だけを原告として日本の「植民地支配」を問うものだったから、21年法廷は00年法廷で成し遂げなかったことを試みた裁判でもあった。

しかし、判決の前提となるべき「被害事実」にはばらつきが多い。判事たちがそうしたことに注目した形跡もない。判決は「慰安婦動員」を「暴行、脅迫、拉致して強制的に動員」「地域の有力者、公務員、学校などを通して募集」「『就職させてあげる、多くのお金を稼げる』とだまして募集」「募集業者に委託」「勤労挺身隊、供出制度を通した動員」を利用したと記述しているが、原告たちのケースは実は必ずしもこうした説明と一致してい

るわけではなかった。

しかも、日本国家が「『慰安婦』を動員する過程で植民地として占領中だった韓(朝鮮)半島に住んでいた原告等を誘拐したり、拉致したりして、韓(朝鮮)半島の外に強制的に移動させ、原告を慰安所に監禁したまま常時暴力、拷問、性的暴行の下に置かれた」と記していて、「植民地」状態を「占領中」とみなす認識が見られる。これは慰安婦問題をめぐって起きたことを「不法行為」とする法的論理を導くためのもので、法的には「日本」と「朝鮮」の関係を「交戦国」とみなす前提が必要となるからであることが、関係者たちの文献等から確認できる。だからといって論理が一貫しているとは言えないが、判決は全体として「交戦国」の論理に依拠して「植民地支配」の罪を問うている。運動を支える

学問の「強制連行」理解

しかし、その根拠となるはずの「強制連行」に関して関係者たちの理解も大きく変わっている。例えば近年の「植民地遊郭―― 日本の軍隊と朝鮮半島」(金富子・金栄、2018年)や、「買春する帝国――日本軍『慰安婦』問題の基底」(吉見義明、2019年)の存在はそうした変化の歳月を如実に示すものである。しかし、そこでは「慰安婦」が公娼(こうしょう)制を基盤としたものであったことが認められていながらも、それまでの主張――「強制連行」「不法行為」説――が取り下げられているわけではない。つまり、慰安婦をめぐる状況認識は深めつつも、今度は公娼制自体を国家責任とみなして、問題発生当初の主張――不法行為・国

家責任との主張は変えていないのである。

今でも韓国では、90年代に国連などに訴えて獲得した、慰安婦動員=軍の強制連行とする報告書などを基に、「国際社会も認めた事実」とする主張が頻繁に聞かれるが、外部に向けては強制連行説を維持し、内部的には「公娼制=性奴隷」とする説に変えてしまった結果と言える。それは、90年代にルワンダと旧ユーゴスラビアで起こった部族、民族間の強姦(ごうかん)のケースを参照しつつ、それらの暴力に関して開かれた法廷での「体系的強姦」「性奴隷」の理解を慰安婦問題にも適用(梁鉉娥<(ヤン・ヒョンア>「2000年法廷を通してみた被害者証言と法言語の出会い」東北アジア歴史財団「日韓歴史懸案の国際法的証明」、2009 年)してのことであり、それが今回の判決だったと言えるだろ

う。

今回の判決も、慰安婦被害を日本国家が「原告を誘拐したり、拉致したりして、韓(朝鮮)半島の外に強制的に移動させ、原告を慰安所に監禁したまま常時暴力、拷問、性的暴行の下に置かれた」「体系的」行為の結果として理解している。「誘拐や拉致」、「監禁」「暴力」の直接的で中心的な主体が軍ではなく業者だったことがある程度知られながらも、こうした判決になったのは、そのように解釈できるようなさまざまな法律を動員したからである。その結果、そこで行われたすべての行為は「犯罪」とみなされ、その主体は「日本国家」のみとなったのである。

もっとも、女性に対する差別や性的抑圧、暴力の罪を問う試み自体は大いに評価されるべきだ。しかし、次に述べるように、国家責任の問い方をひたすら「法」に依存し、責任の取らせ方を「処罰」に置いたために、そこではさまざまな問題が起きていた。

∙女性国際戦犯法廷

女性国際戦犯法廷は2000年と01年、慰安婦制度の犯罪性と責任の内容と所在を明確にし、被害者の正義と尊厳の回復を図ることを目的に、民間の形で開催された。市民団体「戦争と女性への暴力」日本ネットワーク、被害国・地域の支援団体、世界各国の人権活動家による国際諮問委員会の3 者からなる国際実行委員会が主催団体として作られた。対象を日本軍の性暴力についての個人の刑事責任と国家の責任、戦後の責任とし、首席判事を旧ユーゴスラビア国際刑事法廷前所長が、首席検事の一人を同法廷とルワンダ国際刑事法廷のジェンダー担当法律顧問が務めた。00年12月の東京の「法廷」では昭和天皇に有罪、日本に国家責任があると判断、01年12月にハーグで発表された「最終判決」では天皇と東条英機元首相らを有罪とし、日本政府の責任も認め、元慰安婦らへの補償を勧告した。

∙旧ユーゴスラビア国際刑事法廷

国連は1990年代、旧ユーゴスラビア及びルワンダとその近隣諸国における重大な犯罪疑惑を訴追する目的を持った二つの国際刑事裁判所を理事会の補助機関として設置した。旧ユーゴスラビア国際刑事裁判所は93年に安全保障理事会によって設立され、91年以来旧ユーゴスラビアにおいて集団殺害、戦争犯罪、人道に対する罪を犯した人々を訴追。91年から01年にかけて161人を起訴し、90人に有罪判決を言い渡した。






06
慰安婦問題の罪を「日本」「国家」だけに集中させた判決の問題点


日本政府に元慰安婦らへの賠償を命じたソウル中央地裁判決は、国家には他国の裁判権が及ばないとする国際法上の「主権免除」の原則を認めなかった。慰安婦問題を「計画的、組織的に行われた犯罪行為」と認定し、基本的価値の侵害などいかなる逸脱も許されない「強行規範」と捉えた。韓国・世宗大の朴裕河(パク・ユハ)教授は、この判決の背後には、戦前の日本と朝鮮を「交戦国」同士とみなす法的論理があると指摘する。「日本の国家犯罪」を立証しようとする韓国司法の動きをどう考えるべきなのだろうか。



∙ ∙

日本と朝鮮を

「交戦国」だったとみなす論理

1月8日に下されたソウル中央地裁の判決文は、国家の管理責任を問うてもいる。詳しい内容は省略するが、先に述べたような、日本と朝鮮の関係を「交戦国」とみなすことのほかに、「私人」の行為であっても「国家の責任」として問える論理を用意しているのである。例えば、軍人が民間人に対して強姦(ごうかん)や虐殺をした場合、戦争犯罪として裁くことを可能にするには、その関係が「交戦国」同士でなければならなかった。

慰安婦問題をめぐって関係者が処罰された例としてよく挙げられるオランダ人女性に強制売春させた軍人を処罰した例は、日本とオランダが交戦国同士だから可能だったのである。1月8日の慰



安婦訴訟の判決が、最終的には朝鮮と日本の関係を「占領」関係 ――「交戦国」同士とみなしているのも、まさにそのためと言え

るだろう。

そして今回の判決は、1990年代初めに過去の清算を目指した支援者たちが30年にわたって行動し、考えながら作り上げてきた論理が奏功したものと言っていい。言い換えれば、慰安婦の被害が一様ではないこと、必ずしも「強制連行」に当たらない場合が多いことを認識しながら、ともかくも日本が主体となった「不法行為」であったことを証明するための「法的論理」が作られてきた、ここ30年の運動の結果でもあったのである。

「監禁」の主体が直接的には業者だったことが、あえて語られず、記されないのもそのためだろう(業者の多くは慰安婦を前借金によって拘束し、働かせ続けなければならなかった。逃げられないよう監視していた者の多くが業者だったのにはそうした事情もある)。他方で軍による慰安婦の「監視」は、戦場では軍人の個人行動が自由でなく、脱走が禁じられていたことと構造的には変わらない。「拷問」と称される暴行――身体的虐待に関しても、軍人によるものがないわけではないが、証言・口述による限り、業者によるものが圧倒的に多い。何より、軍人の暴行は基本的に禁止されていた。違反した場合、「不法」として処罰されてなくても何らかの懲戒を受けていた形跡も存在する(「軍紀違反事項ニ関スル件報告」「陸軍軍人軍属非行表」他、女性のためのアジア平和国民基金編「政府調査『従軍慰安婦』関係資料集成2」龍渓書舎、1997年)。

つまり2021年のソウル中央地裁判決は、慰安婦の被害――不幸を作った「加害者」の複雑さを度外視し、被害を単純化してその罪を「日本」「国家」だけに集中させたものである。問題は、日本だけを加害者とする単純化された判決が、支援者らが主張する「再発防止」につながる可能性は低いということである。すでに指摘したように、家父長制や貧困問題も慰安婦の悲劇を作った重要な原因で、たとえそうしたことの責任を日本に負わせることができるとしても、それを「法」で裁けるのかどうかは別に問わねばならないだろう。そして判決は「植民地支配」の罪を問いながら交戦国の枠組みを使った結果、植民地統治を支える家父長制や植民地の貧困や階級搾取の問題には目をつぶるものとなった。

判決文と政府への申告書、証言集との差異

判決文が述べた「原告などの個人別慰安婦動員過程及び慰安所生活」としての12人の体験の多くが、慰安婦であることを政府に申告した際の話や、証言集のために残した話とかなり違う内容になる事態が起きたのは、こうした問題が顧みられぬまま来てしまった結果と言っていい。

例えば、被害者として最初に名前が出てくる裵春姫(ペ・チュンヒ)さんについて判決は「友だちの家に日本人と朝鮮人が訪ねてきて就職を勧誘」され、ついていったとしている。しかし、裵さんは自ら職業紹介所へ行ったと話した人だ(裵春姫・朴裕河「日本軍慰安婦、もう一つの声」プリワイパリ出版社、2020 年)。そして「強制連行はなかったと思う」と何度も話していた。裵さんが残した絵にも、ほかの人たちが描いていた「強制連行」の形跡はない。もちろん、だからといって、一見平和な雰囲気の絵がそのまま慰安所生活が幸せだったことにつながるわけで

はない。

金君子さんは「養父」によって売られたと、元慰安婦支援団体「韓国挺身(ていしん)隊問題対策協議会(現・正義連)」が作った証言集には出ている。しかし、判決では「軍服の人によって強制的に引っ張られて」中国へ移動したことになっている。また、ある女性が逃亡したときは(軍人ではなく)「主人(業者)に捕まった」と述べている。そして、1日40人を相手にしたことが軍の残酷さを強調する文脈でのみ語られがちだが、そうした悲惨な数字を作ったのは軍人のみならず「慰安婦」を「使」うほど利益をあげることになる業者であったことも判決では削除されている。判決が国際労働機関の規約を持ってきて強調する「強制労働」の主体が、実は業者だったことがそこでは無視されているの

である。

軍が主体であるかのように書かれている「妊娠中絶」も、その主体は「主人」だったと、金さんは証言集で述べている(「強制的に連れていかれた朝鮮人軍慰安婦3」、ハンウル、1999年)。とはいえ、日本軍に暴行されて耳の鼓膜が破裂したことは証言集にも書かれているから、軍は「暴行」の罪を問われるべきだろう。もちろんその場合でも、個人の罪が国家の罪になるためのしかるべき手続きは必要なはずだ。

Cさんの場合(公開された「判決文」は原告の名前を一部伏せている)。「巡査が徴用書類を持ってきて連れていかれた」と判決文にはあるが、Cさんと推定できる人が韓国政府の女性家族省に出した申告書によれば、彼女を送ったのは「里長(最下級の地方行政区画の長)」だった「義理の兄」であり、「報国隊へ送」ったとされている。この人は映画「鬼郷」の登場人物としても有名な人で、映画にも出てくる「山に連れていって焼き殺された慰安婦」の話は、腸チフス――伝染病が原因だったことが申告書や証言集(韓国挺身隊研究所編「中国へ連れていかれた朝鮮人軍慰安

婦たち2」、ハンウル、2003年)に記されている。つまり、すべての悲惨な話を「国家主体が」「法を犯した」「犯罪」にしようとした試みが、結果として慰安婦の経験を正確に聞かずにゆがめたというほかない。判決文におけるさまざまな誇張や消去はまさにその痕跡なのである。

Dさんの場合、「拉致」され「収容所」に監禁され「電気鉄条網の工事現場で工事」をしたと判決文は述べるが、(慰安婦として認定してもらうための)申告書には拉致や監視主体は朝鮮人とあるだけで、「工事」をしたとも書かれていない。子供が産めなくなった理由として挙げられる「水銀治療」をさせた主体も、申告書では、軍ではなく業者だったと書いてある。また、日本軍に「暴行され耳が聞こえなくなった」と判決文にはあるが、申告書には暴行の主体が「朝鮮人警察」だったとある。慰安婦たちが言うことを聞かないときになされた「暴行」は「主人が憲兵を呼んで」のことであって、「主人が監視して逃亡は難しい」「主人が休ませなかった」と、業者の加害性が述べられているのである。さらに、判決文には30、40人を相手にしたと書かれるが、申告書には「ある人は30、40人」(自分は少ない時10人、多い時20人)とある。「敗戦後は業者は待っていなさいと言っては逃げた」と述べ、「遺棄」の主体を業者と認識していたことも申告書には記さ

れている。

Eさんの場合、「友人の誘いで工場に行くものと思って業者についていく」「1日15人」「暴行」、脱出する慰安婦や自殺する慰安婦を「目撃」したことが被害事実として述べられているが、申告書には「家が貧しいからお金を稼いでみようかな」と、貧困が背景にあったことが明確に書かれている。また「軍人が女たちに暴行を働いたりはしない」とし、敗戦後にも「管理人は逃げて軍人は(車に)乗せてくれた」とも語る。

Fさんの場合、判決には「工場に行くとお金を稼げると聞いてついてい」き、「管理人は朝鮮人」で、「相手する人が少ないと管理人に体罰される」「将校が借金を返済してくれて出てきたが、出産してから自ら戻」ったと述べている。申告書と大きく変わらない内容で、親に2度売られた体験を語り、あとで許す気になったものの「親たちを殺そうと思った」とも述べている。逃亡を考えなかった理由は「主人が捕まえる」「捕まったら殺されるから」であり、敗戦後「部隊から電話が来た。避難せよ」と言われたとも話している。判決では記されていない業者の役割と加害性を浮き彫りにしており、「遺棄」したとされる軍の行跡が必ず

しも当てはまらないとも語っているのである。

何よりも最初に挙げた裵春姫さんは日本政府に賠償を求めることに消極的だった。であれば、「被害者中心主義」の「被害者」とは誰なのかも改めて問わなければならないだろう(以上の比較ができたのはたまたま今回の裁判での原告たちが1人を除いて私の裁判の原告でもあり、その結果として原告たちの書類が裁判所に提出されているからである。ここで取り上げた人以外は申告書が裁判所に出されてないので省略した)。

今こそ歴史との向き合い方を考え直そう

つまり今回の判決は、処罰の根拠となる、罪に問うべき「被害」の確認が不十分なまま、結論が先行した判決というほかない。しかしだからといって、こうしたことを単に「慰安婦のうそ」や「支援者のうそ」と受け止めるべきではない。確かに数々の欺瞞(ぎまん)が見受けられるが、今となっては、なぜこういうことが起きたのか、そうした現在と向き合ってなすべきことは何なのか、を考えることこそが重要だ。

判決文が慰安婦の被害を「日本国家の犯罪」とみなし、「法的責任」を負わせるべく持ち出してきたのは、ハーグ陸戦条約である(判決の論理は、日本が「交戦」当事者の義務に違反――家族構成員の女性の性的自己決定権を侵害したということになる。以下括弧の中は判決の論理)。そのほか、白人奴隷売買の抑制のための国際条約(性売買及び性売買を目的とする拉致、人身売買を禁止する条項に違反)、女性と児童の人身売買条約(未成年女性をだまして拉致する行為)、奴隷規約の奴隷解放規定(国連が慰安婦を性奴隷とみなした、日本軍によって一部あるいはすべての権限の行使が制限された)、国際労働機関の女性の強制労働を廃止する条項、旧刑法226条(誘拐、略取罪を公務員が犯し、政府は助長し放置)などである。こうした法的論理の適用を主導してきたのは必ずしも韓国側の関係者ではない。具体的な論理を支える大前提となっている日韓併合の性格についての疑義も、早くに日本側でも出されていた(戸塚悦朗「1905年<韓国保護条約>の無効と従軍慰安婦・強制連行問題のゆくえ」「法学セミナー」

NO466、1993年ほか)。

判決文は、日本国家が慰安婦を「だましたり強制連行したり」「暴行」「飢餓と傷害、疾病」「死の恐怖」(判決文)に陥れ、慰安婦たちは「不法な植民地支配及び侵略戦争の遂行と直結した反人道的な不法行為を前提に慰謝料を請求」(同)していたと述べた。確かに、慰安所での死や戦場での爆撃死ほか、慰安婦をめぐる過酷な状況はいくつも確認される。そしてそういう意味では戦争を起こし、そこに朝鮮の人々を巻き込んだ日本の責任は大き

い。

とはいえ、判決が根拠にしている被害事実や加害主体に関する合意がない限り、この判決が日本に受け入れられるのは難しいだろう。しかも、そうした乖離(かいり)現象が、「法」に頼り、「裁判」という形式に訴えて勝敗を決めるような歴史との向き合い方ゆえのことであったとすれば、今こそそうした「歴史の司法化」自体を検証すべきであろう。また、これらの論理が、東京裁判やニュルンベルク裁判が「奴隷化などの非人間的な行為を人道に反する犯罪と規定し、戦争犯罪者を遡及(そきゅう)して処罰」したとの考え方を前提にし、「戦争」の際に行われたことを参照して成立した考え方である以上、朝鮮と日本の過去の関係をどのように考えるのかも必須の作業となってくる。

∙慰安婦の強制連行

慰安婦募集の際に日本軍が直接関わった「強制連行」があったか否か、管理がどれほど強制的だったか否かが、長年問題になってきた。日本軍や官憲が慰安婦を強制連行したことを示す公文書はないが、日本軍による招集の公文書はある。元慰安婦や軍人らの証言や記録から、解釈によっては「広義の強制性」の存在がうかがわれる。多くの元慰安婦の証言によれば、業者による甘言、欺罔(ぎもう)によって連れていかれ、事実上支配下に置かれた事例が多い。被害女性らは、貧しい家庭に育ち、初等教育も受けられず、慰安婦にならざるをえないような厳しい環境に置かれていた。管理の面でも、官憲の組織的関与は明確ではない。ただ業者によって日常的業務が行われていたとしても、慰安所設置の目的が機密の保持と性病予防だったため、衛生管理や慰安所規則などを通じて軍の影響は及んでいた。

∙ハーグ陸戦条約

1899年第1回ハーグ平和会議で締結され,1907年第2回ハーグ平和会議で改正された戦争ノ法規慣例ニ関スル条約。ハーグ陸戦条約と略称される。日本は11年に批准した。具体的な陸戦法規は付属規則に委ねられている。付属規則には、捕虜の扱い、交戦者の害敵手段の規制、占領地における占領者の義務などが定められている。条約3条は、交戦当事者はその軍隊構成員のあらゆる行為について責任を負うこと、付属規則の条項に違反した交戦当事者は、損害が生じた場合には賠償の責任を負うことを定めており、戦後補償裁判においてはその解釈が争点になってきた。


07
国家の利益、国家の都合で動員される女性たち


元慰安婦ら20人が日本政府に賠償を求めた訴訟で、ソウル中央地裁は21日、原告の請求を却下した。同地裁は1月に、国家には他国の裁判権が及ばないとする国際法上の「主権免除」の原則を認めず、日本に賠償を命じる判決を出しており、司法判断が分かれた。 1月の判決文と、原告らが慰安婦であることを韓国政府に申告した際の話や証言集のために残した話との違いを指摘する韓国・世宗大の朴裕河(パク・ユハ)教授は、判決内容を引き続き検討したうえで、2015年の日韓合意を補完する作業が必要だと訴える。



∙ ∙

判決に記された元慰安婦の被害事実が、元慰安婦による韓国政府への申告時や、各人の証言が口述集に収められたおよそ20年前の内容と異なるようなことが起こった理由を、「歴史の司法化」 ――つまり法廷で勝ち負けを決めようとした歴史との向き合い方にあると、前回書いた。実際にこれまでの過程を眺めると、慰安婦をめぐって起こったすべてのことが司法の場で「法的」に問題があると認められるように、多くの議論が組み立てられたことを確認することができる。

たとえば、日本では21歳以上の「娼妓(しょうぎ)」でないと海外へ渡航できなかったという規範があるので、21歳未満の未成年を働かせたのは不法だという議論がある(日本が女性と児童の人身売買条約を批准した結果として)。そして、朝鮮半島は植民地ゆえに(植民地をターゲットにして慰安婦を募集したという認



識が一部研究者の根っこにある)そうした法律が適用されず、未成年者をたくさん集めることができたとみなすのである。しかし、本土に適用された法律を植民地に適用しなかったのは、日本のみならず植民地を持つ他の国家でもやっていたことだ。さらに言えば、そうした論理を使うと、朝鮮だと未成年者募集がかえって不法にならない。

そこで持ち出されたのが、元慰安婦たちが「日本領として認められる日本船舶」に乗って移動したので、「日本帝国内の条約の適用」が可能(戸塚悦朗「“慰安婦”ではなく“性奴隷”である」ソナム、2001年)というような主張だった。こうした論理は、朝鮮では未成年の少女が集められ(だから被害者で)、日本では成年の玄人が集められた(だから被害者ではない)というような理解を、学問の世界でさえ長い間存続させた。

前回書いた、判決文に整理されている六つの法律(ハーグ陸戦条約、白人奴隷売買の抑制のための国際条約、女性と児童の人身売買条約など)の適用にも、こうした矛盾が多々見受けられる。こうしたことが起こったのはやはり“法的”に問題があることを証明するためだったというほかない。もっとも、裁判過程が被害者たちに「生きがい」を与え、「ほこり」(花房俊雄・花房恵美子「関釜裁判がめざしたもの――韓国のおばあさんたちに寄り添って」白澤社発行、現代書館発売、2021年)を与えたことは大いに評価すべきだ。しかし、結局、裁判という方法は被害者たちが望む結果をもたらさなかったし、1月のソウル中央地裁の判決は、日本政府が拒否し続ける限り、形だけの勝利というほかない。であれば、歴史をめぐる判断を勝敗で決めようとしたこと自体が今は

問われるべきだろう。

日本政府は慰安婦問題に関して2度、すなわち1997∼2002年のアジア女性基金と2015年の日韓合意を通して謝罪と補償を試みた。それを受け入れた人もかなりいる。しかし、そうした謝罪と補償の試みをすべて拒否して得られた結果が補償――お金でしかないとすれば、たとえそれが「法的責任」=支援者らが望んだ「賠償」の形を取っているとしても、それが果たして当事者たちの望む結果と言えるだろうか。

もっとも、こうしたことが起こったのは、慰安婦問題が当事者や支援者と日本政府の間の話し合いを越えて政治・外交問題となり、政府への圧迫を目的とする運動になってしまった結果である。運動や政治は大衆の支持を欲するので、慰安婦問題もそれに合わせてできるだけ単純で刺激的な内容になっていったように見える。というのも、元慰安婦支援団体「韓国挺身(ていしん)隊問題対策協議会(現・正義連)」が90年代に出した証言集を基に 01年に出された研究報告書(韓国挺身隊問題対策協議会傘下の戦争と女性人権センター、2001年日本軍“慰安婦”研究報告書「日本軍“慰安婦”証言統計資料集」韓国政府女性家族省)には、その後、韓国社会に広く定着した慰安婦問題をめぐる一般の理解とは必ず

しも一致しない内容が記されているからだ。

たとえば、慰安婦をつれていった主体で最も多かったのは「朝鮮人募集業者」で、日本軍人と「近い関係」だった人が20%以上いたとあり、軍事訓練や看護、軍人の歓送を経験したこともちゃんと「経験」としてまとめられている。日本の敗戦後、慰安婦はほとんど「捨てられた」とのみ韓国では繰り返し強調されるが、軍人の「保護」や「案内」を受けた人が15%あったことも記されている。しかし、慰安婦になった人たちの貧困や無学を当時の植民地の一般的な事柄とみなし、植民地全体から「無差別に集められた」と解釈してもいた。つまり、それまでの通説からはみ出す統計を示しながらも、解釈は従来の「無差別強制連行」の枠組みの範疇(はんちゅう)(実際に「範疇化」を工夫すべきだとも書かれている)に入れようとしている。

無視され忘却された日本人慰安婦

ソウル中央地裁判決の原告の最初の証言に、慰安婦として一緒につれていかれた「15人のうち日本人が6人」(韓国挺身隊研究会編「中国へつれていかれた朝鮮人慰安婦たち2」131、ハンウル、 2003年)いたとあるように、日本人慰安婦が無視され忘却されていたことも、慰安婦問題の理解を大きく制限した。45年の敗戦当時の在朝鮮日本人は70万人とされているように、朝鮮半島に多くの日本人が住んでいた。すでに日本の公娼制の移植が慰安婦制度を支えたとの指摘は早くから出ているし、慰安婦となった日本人が朝鮮半島にいたとしてもおかしくはない。そうしたことを念頭に置いて考えていれば、慰安婦の募集をめぐる理解はかなり違っ

ていただろう。

あるいは、日本人慰安婦が名乗りを上げていたとしたら、日本国家と慰安婦の関係の本質が帝国による植民地人の動員以上に国

家による個人の動員にあったことももっと理解されたはずだ。<法的責任=賠償>をめぐる主張も、その中身は少し違っていた

かもしれない。

しかし、日本人慰安婦の存在(城田すず子「マリヤの賛歌」日本基督教団出版局、1971年)が気づかれていながらも、日本人慰安婦に関する研究書が出たのは問題発生から四半世紀もの歳月がたったときのことだった。(「戦争と女性への暴力」リサーチ・アクション・センター編、西野瑠美子・小野沢あかね責任編集「日本人『慰安婦』――愛国心と人身売買と」現代書館、2015年)。

つまり朝鮮人慰安婦をめぐる混乱は、彼女たちがあくまでも「代替日本人」(拙著「帝国の慰安婦」朝日新聞出版、2014年)として連れていかれたことが、すっかり無視され忘却されたゆえ

のことである。

関係者が慰安婦問題を「組織的・体系的」に行われたこととして規定したのは、98年に国連人権委員会差別防止・少数者保護小委員会で採択された特別報告者マクドゥーガル氏の報告書や、90 年代に旧ユーゴスラビアで行われた「民族浄化・性暴力」の性格を導入したものだった。そうした集団性が「人道に対する罪」を構成するからである。しかし、それは日本人慰安婦が消去されたからこそ可能になる論理だろう。目標とする集団を「国家機関」 (軍隊)が攻撃して初めて「人道に対する罪」の概念が成立するか

らだ。

あえて図式化するなら、当事者の声、日本の学問、韓国の運動が、ここ30年の慰安婦問題を導いてきた。だが、最後まで兵士のいる戦場にいたと見られる日本人慰安婦のことが欠落していたため、慰安婦問題の理解は単純化されてしまった。

そして、関係者らは朝鮮人が植民地支配の犠牲者であることを承知しながら、軍人(日本)を戦争犯罪として裁くため、朝鮮と日本の関係を「占領」関係、朝鮮人を「交戦国の国民」として位置づけることにこだわり続けた。ところが、それは「日韓協定を正す」(注:韓国では日韓基本条約および付随する諸協定のことを一般に日韓協定と呼ぶ)ことや、「北朝鮮の対日協商力(日朝国交正常化へ向けての交渉力の意)」(ト・シファン「2000年日本軍性奴隷戦犯女性国際法廷と日本軍“慰安婦”問題に対する新しい理解の可能性」、東北アジア歴史財団「韓日間歴史懸案の国際法的証

明」、2009年)を意識しながらのことでもあった。実際、90年代初頭の日朝国交正常化交渉において北朝鮮は「補償問題を解決するとき交戦国間の賠償形態と財産請求権形態の二つを適用する」との立場を話していて(シン・ジョンファ「北日交渉と“過去清算”」民族問題研究所編「韓日協定を考え直す」、1995年、亜細亜文化社)、前回触れた「交戦国」概念は、実際に北朝鮮が自らの

アイデンティティーとして強く意識していることもわかる。

それは、国家間の問題として解決されるべきではないとして「主権免除」を否定したソウル中央地裁判決とも矛盾する。慰安婦問題が30年にわたって続き、紆余(うよ)曲折を経た日韓国交正常化交渉以上に長引いてしまった理由がここにあるとまでは断定できないが、少なくとも過去に国家の利益のために動員された女性たちがまたもや国家の都合で(具体的にはそれを目指した人々の思惑によって)再び動員されていたとしたら、「人権」を問うてきたはずの慰安婦問題の解決運動は果たして何だったのか

と問わざるをえない。

慰安婦問題は、冷戦崩壊後に交流を深めるようになった日韓の市民のみならず、北朝鮮との交流の影響も受けているようだ。もちろん、それ自体が問題なわけではなく、考えるべきは、すでに日本の支援団体が指摘したように、今日の慰安婦問題の国際理解の土台を作った国連向けの証言でも、北朝鮮の慰安婦が「あまりにもおどろおどろしい」「あまりにも異質な証言」で、「北朝鮮政府の歴史認識を言わされたのではないかと危惧」するような内容(前出「関

釜裁判がめざしたもの」)となっていたことにある。

もっとも、私は65年の日韓協定体制の限界も承知しているし、せめて日朝国交正常化の際はそうした問題が残らないことを願っている。しかし、不法とみなそうとする意識が慰安婦問題を誇張や歪曲(わいきょく)の対象にしてきたことは否めない。であれば、日本の支援団体も好んで用いてきた「当事者(被害者)中心主義」という言葉を吟味し直すべきだろう。そもそも被害者は一

様でもなかった。

実は、大きな問題となった「強制連行」という言葉についても関係者たちは内部で議論している(韓国挺身隊問題対策協議会日韓共同セミナー「強制性とはなにか」2007年)。そこでは日本の研究者、吉見義明氏も、韓国の支援者たちと一堂に会して「強制

性」をどのように定義すればいいのか議論していたのである。しかも、同じ場で慰安婦は「軍属」と見るべきだとの意見も出ていた。そもそも、韓国政府に慰安婦であったことを申告する際、自分を自ら「軍属」として記した人もいたことも、この場では話さ

れている。

慰安婦には、必ずしもすべての場所でではないが「軍属」の証明書が与えられていたという(華公平「従軍慰安所『海乃家』の伝言――海軍特別陸戦隊指定の慰安婦たち」日本機関紙出版センター、1992年)。「軍属」というと、売春婦説を唱える人も性奴隷説を唱える人も反発するかもしれないが、元慰安婦として日本政府に補償を求めた訴訟の原告の一人で、96年に亡くなった文玉珠(ムン・オクチュ)さんも自らを「軍属」とみなしていた。右派の人々は文さんに多額の貯金があったのはお金が稼げた証拠だとしてそこばかり注目したが、重要なのはそこではない。文さんが兵隊と共に移動させられ、移動中に慰安婦の犠牲者が出ると火葬を指示され、「日本人」として戦場に来ている自分が暴力を振るわれる理由はないと、軍人に抗議するような存在だったということこそが重要だ。しかし、支援団体はそのことを知りながら、少なくとも外向けにはそうしたことを消去した。

もっと早くに、慰安婦問題を韓国社会に広く知らしめた韓国挺身隊対策協議会の代表も兵士と慰安婦の間に「人間と人間のふれ

あい」があったことを書いていた(90年1月24日付「ハンギョレ新聞」)。90年代には、元慰安婦の霊魂結婚式のことが普通に新聞に載っていた(98年8月27日付「中央日報」。元慰安婦李容洙さんが、自分の命を救ってくれたのち亡くなった特攻隊の霊を慰めるため、台湾の元慰安所を訪ねて行われた)。しかし、00年(の女性国際戦犯法廷)を境にそうした認識はもはや公には出な

くなっていたのである。

そして、11年にはソウルの日本大使館前に「強制的につれていかれた少女」像が立ち、16年には少女たちが無差別強姦(ごうかん)の対象となっている映画「鬼郷」が公開され、300万人以上の人が見て、慰安婦をめぐる強制連行と殺害の「記憶」のみがその後の韓国の慰安婦の「公的記憶」となる。

判決もふれなかった搾取した業者の存在

00年の女性国際戦犯法廷では、南北共同起訴状でも「強制動員に協力した朝鮮人たちを起訴状に入れようとした意見」がありながら、受け入れられなかったいう(前述「2000年日本軍性奴隷戦犯女性国際法廷と日本軍“慰安婦”問題に対する新しい理解の可能性」)。つまり、関係者らが業者の存在を早くから認知し共有していたのに、その後20年もの間、業者の研究は進まず、起訴の対象にもせず、ソウル中央地裁判決が業者に触れることもついになかった。代わりに、業者の存在を指摘した学者は日本の罪を免罪

するものと、非難されたのである。

しかし、業者は暴行の主な主体であったのみならず、慰安婦を搾取して経済的利益を受けた存在でもあった。多くは慰安婦の収入の半分程度を取る構造の中にいたのだから、慰安婦の苦痛はそのまま業者の利益になった。日本では朝鮮人業者のみを言い募りがちだが、当然ながら日本人業者の存在も証言や資料からは見えるし、規模の大きい慰安所を運営していたのはむしろ日本人業者のように思われる。日本内地に遊郭を17も経営していて、さらに釜山に遊郭を出した業者もいた(前出「日本人『慰安婦』――愛国心と人身売買と」)。実際、占領地の「生活状態は大体豊かであり、また日支事変によって半数以上は莫大(ばくだい)な物質を蓄えていた」と説明された。さまざまにある職種の中でも「もっとも景気がいいのは慰安所業」(「武漢の朝鮮同胞」1940 年5月1日「三千里」第12巻5号、「韓国史データベース」から重引)とも述べられていたのである。

∙関釜裁判

第二次世界大戦中、慰安婦や女子勤労挺身隊員として強制的に働かされたとして韓国人女性10人が国に謝罪と賠償を求めた「釜山従軍慰安婦・女子勤労挺身隊公式謝罪等請求事件」、通称「関釜裁判」で、山口地裁下関支部は1998年4月、元慰安婦3人について、93年の河野洋平官房長官談話によって慰安婦への賠償立法は憲法上の義務になったとして国の違法を一部認め、計90万円の支払いを命じた。その後、2001年3月に広島高裁控訴審判決は原告らの損害賠償請求をすべて棄却、03年3月、最高裁で原告らの敗訴が確定した。原告を長年支え続けた福岡市の花房俊雄さんと妻恵美子さんは今年2月、被害者の尊厳回復に向き合った28年間の活動を記録した著書「関釜裁判がめざしたもの――韓国のおばあさんたちに寄り添って」

(白澤社発行、現代書館発売)を出版した。

∙日本人慰安婦

「デジタル記念館慰安婦問題とアジア女性基金」は慰安婦を「かつての戦争の時代に、一定期間日本軍の慰安所等に集められ、将兵に性的な奉仕を強いられた女性たち」と定義する。その実数は不明だが、最大40万人、最小は1万数千人などの研究者による試算がある。国別について、現代史家の秦郁彦氏は、内地人(日本人)が最多、2位現地人(中国人、フィリピン人など)、3位朝鮮人――と推定している。日本人慰安婦が関心の外に置かれてきた理由としては、公娼制度の下にあり、「商売なのだから被害者ということはできない」という考え方が反映していると指摘される。近年、慰安婦問題を植民地支配や戦争犯罪の枠組みで捉える動きが見られる一方、日本人慰安婦は戦後補償問題でも実態調査されなかった。






08
必要なのはここ30年の歴史との向き合い方の検証


一人の韓国人被害者が1991年に初めて本名を明かして日本を告発して以来、慰安婦問題解決のため支援者らは日本国家の「法的責任」を追及してきた。日韓両国政府もそれぞれのやり方で問題の解決を模索してきた。しかし、当初は被害実態の把握が遅れ、日本人慰安婦や業者の研究はあまり進んでこなかった。こうした経緯を踏まえ、韓国・世宗大の朴裕河(パク・ユハ)教授は、今必要なのは 75年前の歴史の検証以上に、慰安婦問題が再発見されて以降の「30年の歴史との向き合い方との検証だ」と訴える。



∙ ∙

日本の支援者や韓国の支援団体が協力して慰安婦問題を国際社会に訴え、戦場における性暴力の問題を大きくアピールして、今では世界中の多くの人々が問題の深刻さを共有できるようになったことは高く評価されるべきである。しかし、「法」に依存し、慰安婦をめぐって起きたことをすべて「法律違反」としようとしたために、いくつもの欺瞞(ぎまん)や問題が起こったことは確かだ。最近、韓国で行われたある会合で「最初は運動から始めたわけだけど、研究を始めてみるとこれはちょっと違うなというのがあり、そうしたことが今までごちゃ混ぜになっていた」(カン・ジョンスク、シンポジウム「3・12緊急討論会――ラムザイヤー教授騒ぎに見たアカデミ歴史否定論」)と、参加者がつぶやいたことがあった。もっと早く、そして公に話されていたら、今のような混乱は防げたかもしれない。そういう意味で必要なの



は、75年前の歴史との向き合い方以上に、ここ30年の歴史との向き合い方の検証なのではないか。

「闇の人」と化し、ほとんど見えない当事者たち

つまり、ここ30年は日本人慰安婦や業者が排除されながらの30 年だったとも言える。加害国の被害者も被害国の加害者もそれを可視化することはなく、いまだに良くも悪くも「当事者」権を得ていないのである。さらに、1990年代のアジア女性基金を受け入れた人たちや、2015年の日韓合意を受け入れた35人と遺族64人(沈揆先「慰安婦運動、聖域から広場へ」ナナム、2021年)はいまだ名前が明かされず、「闇の人」と化していることも考えねばならない。当事者が声を発して始まったはずの慰安婦問題が、30 年後にはほとんどの当事者が見えず、代弁者と共にいる当事者のみが見えているのである。亡くなったことだけが見えていない理由ではない。

00年以降の社会の集団記憶が研究者の報告とは異なった形で定着し、公的記憶となっていったのは、元慰安婦支援団体「韓国挺身(ていしん)隊問題対策協議会(現・正義連)」代表の最初の理解の枠組みの影響のようにも見える。いずれにしても00年以降の韓国社会における慰安婦をめぐる記憶は、90年代を忘却しつつ形成されたものと言える。そして90年代にはまだ「さん」付けで呼ばれていた元慰安婦たちはハルモニと呼ばれ、儒教的な敬老的感受性と家族的親しみが加えられてその主体性を消され、ただ守るべき存在としてのみ扱われるようになった。韓国憲法裁判所に出されていた韓国政府を対象にした憲法違反訴訟で、政府が慰安婦問題を解決する努力をしないのは憲法違反との判決を受け、政府が11年以降、支援団体と考え方と行動を共にするようになった

のは、思えばこうした時代の流れが作ったものなのだろう。

言うなれば、ここ30年、旧宗主国側にとっても旧植民地側の過去との向き合い方は、被害者側が理想とした解決の形に合わせた選択的なものだった。そうしたことの結果こそが今日の混乱を招

いたと言えるだろう。

そして、議論は米国にまで広がってしまった。慰安婦を「自発的売春婦」と規定したとして、注目を浴びている米ハーバード大のラムザイヤー教授の論文をめぐる混乱も、こうしたことの結果だろう。ラムザイヤー教授は慰安婦(や周辺人物)と業者との間に結ばれていた契約のことを強調しているが、たとえ契約関係があったとしてもそれがそのまま「自発」の証拠になるわけではない。だまされて行った人は契約(書)の存在など知らなかったし、戸籍や契約書を偽造した業者は多々あった(韓国・京城地方裁判所判決。韓国挺身隊問題対策協議会研究報告「日本軍“慰安婦” 新聞記事資料集」韓国女性省、2004年を参照)からである。

逆に、ラムザイヤー教授を批判している関係者が、慰安婦と公娼(こうしょう)制の関係に公の場で触れるようになっている現実も無視するわけにはいかない。ある研究者はそうしたことに触れることに対する憂慮の視線について話していたが(朴ジョンエ、シンポジウム「3・12緊急討論会――ラムザイヤー教授騒ぎに見たアカデミ歴史否定論」)、それも世界を混乱させているのである。

支援者らは、今では、公娼制を運営したこと自体が不法で日本国家の責任だと主張する。そうした論理自体も検証対象だが、それ以前にそうしたことに早くに気づいていながら伏せられてきた背景にあったはずの支援者たちの「売春」差別も議論されるべきだ。

元徴用工問題がそうであるように、慰安婦問題でも法的解決を求めるとなると日韓併合自体の合法・不法論で対立することになる。これはこれで接点を見いだすべき問題だろうが、それには当然時間を要する。であれば、慰安婦問題をめぐるそうした議論は棚に上げて、取りあえずの解決を考えるべきだ。このまますべての元慰安婦が亡くなれば、日韓間の深いとげは、もはや抜き取ることができないだろうからである。

突然「問題」が浮上し、研究が後追い

慰安婦問題をめぐる最大の問題は、研究と言えるほどの蓄積があまりない中、突然これが「問題」として浮上し、研究が後追いすることになった点である。そういう意味でさまざまな対立もあったが、15年の日韓合意は、日韓の外交関係者が「明治日本の産業革命遺産」の問題で日韓関係がこじれそうになったことを乗り越えて導き出したものだった。

そして、90年代のアジア女性基金の「償い金」が民間からの募金で賄われたことを批判されたことを受けて、国庫から全額を拠出した。先般、和田春樹教授ら日本の知識人たちが、新たな解決策として、合意内容を文書にして日本の駐韓大使がじかに渡すことを提案した。日韓合意を主導した安倍晋三政権を引き継ぐ菅義偉政権でそうした補完作業をやり、「和解・癒やし財団」を解散してしまった韓国の文在寅(ムン・ジェイン)大統領が修復できれば意味がある。

そうしたことが行われるなら、その際、日韓両国政府はこれまでの30年の慰安婦問題をめぐる対立の歴史をまとめて読み上げることで、国民と歴史を共有できるようにしたらいいだろう。数々の葛藤や対立がある中での日韓の支援者・研究者たちの努力を具体的にたたえ、95年にアジア女性基金を設立して頑張った発起人たちや応答した日本国民の気持ちも紹介し、韓国外務省と日本外務省の努力をもねぎらうべきだ。そして、アジア女性基金や「和解・癒やし財団」から償い金などを受け取った人たちの人数も正式に発表し、できれば名前をも読み上げることで、彼女たちの居場所作りの作業も行ったらいいだろう。

30年もの間、慰安婦問題に関わった人々は数知れず、皆それぞれの場で元慰安婦の境遇に心を痛め、気持ちを注いできた。その人たちの労もねぎらって、初めて慰安婦問題は未来に向かう歴史となりうるだろう。それは元慰安婦たちのみならず、関わった人々もさまざまに傷ついてきたからで、そうした近過去をも治癒して初めて前へ行けるはずなのである。

韓国大統領は日本側の努力も認め、日本側は「和解・癒やし財

団」で足りなかったことを補完すると明言したらいい(たとえば、日本はアジア女性基金の時は直接やっていた伝達やアフターケアを韓国側に任せてしまった)。アジア女性基金や日韓合意までの経過も公開したらいいだろう。こうした過程に元慰安婦の方

を参加させなかったこともわびるべきだ。

慰安婦問題を「最終的かつ不可逆的に解決」するとの日韓合意を受け、記者の質問に答える安倍晋三首相(当時)=首相官邸で

2015年12月28日、山本晋撮影拡大

慰安婦問題を「最終的かつ不可逆的に解決」するとの日韓合意を受け、記者の質問に答える安倍晋三首相(当時)=首相官邸で

2015年12月28日、山本晋撮影

そうした公的イベントとともに、「和解・癒やし財団」を再生させ、残ったお金を使って、いまだに受け取っていない方たちには日韓の政府関係者がこれまでのことを一緒に伝えて受け取ってもらえるよう試み、さらに残るお金は研究やその他に必要な事業

に使えばいい。

韓国が用意した100億ウォン(約10億円)は、別途財団を作り、日韓和解プロジェクトを始めて、旧徴用工問題を含む、今後さらに出るかもしれない問題に対応できるようにしたらいいだろう。そうした作業を韓国だけでなく、日韓の関係者が「共に」模

索していけるようにしたらいい。

そこでは、業者や日本人慰安婦についての研究も必ず実施してほしい。さまざまな混乱が生じたのは、慰安婦問題の中に確かに存在した彼、彼女たちについての研究が30年欠落したままだったからとも言えるからだ。それらができたとき初めて、慰安婦問題は「女性」の人権問題だと言えるだろう。

こうしたことを行うとしたら過去の歴史共同研究の轍(てつ)を踏まないよう、人選も慎重になされなければならない。自国の考えを押し通すだけでは理解は生まれない。こうしたことをして、もはや元慰安婦が政治や外交の対象にならず、1人の個人として余生を静かに暮らせるようにするよう配慮することを模索した

い。

今こそ諦めや沈黙や非難をやめて対話を始めるべきではないだろうか。それは元慰安婦や次世代のためであるし、対立の30年を生きてきた人々の責任でもある。

∙ラムザイヤー論文

米ハーバード大ロースクールのJ・マーク・ラムザイヤー教授が書いた論文「太平洋戦争における性行為契約」が2020年12月、国際的な学術誌「法と経済学の国際レビュー」のオンライン版に掲載された。教授は、慰安婦について「高収入が期待される場合にだけ、仕事についた。契約期間を終えるか借金を返済すれば帰郷できた」などと書いている。これに対し韓国の閣僚が「研究者としての基本がそろっていない内容だ」と批判。日本の歴史研究者らの4団体が「先行研究を無視している」「業者と朝鮮人慰安婦の契約書を示していない」などとして学術誌からの掲載撤回を求める緊急声明を発表した。同大ライシャワー日本研究所も学問的根拠に対する懸念を表明した。

∙和田春樹氏らの新提案

日韓関係や戦後補償問題に取り組む日本の研究者や弁護士が3月24 日、「慰安婦問題の解決に向けて――私たちはこう考える」と題する論文を発表した。和田春樹・東京大名誉教授や田中宏・一橋大名誉教授ら8人で、被害者の「心に届く誠実な謝罪」が必要だと日本政府に訴えた。ソウル中央地裁が韓国人元慰安婦への賠償を日本政府に命じた判決については、人権を優先する「国際法の最近の考え方を反映した判決」と評価しつつ、「判決によって直ちに歴史の問題が解決できるとは考えません」と留保をつけた。

2015年の日韓合意で示された安倍首相(当時)の「おわびと反省の気持ち」を文書にして菅首相が署名し、日本の駐韓大使が元慰安婦に届けるよう提案。慰安婦問題を記憶し続ける証しとなる研究所の設立に向け、日韓両国政府が協議するよう求めた。


09
「正義」に抑圧され、声出せぬまま亡くなった被害者に思いを


慰安婦問題をめぐる韓国司法の判断は二分された。元慰安婦の女性らが日本政府に賠償を求めた第2次訴訟で、ソウル中央地裁は原告の請求を却下。同地裁が今年1月、日本政府に賠償を命じた第1次訴訟判決を真っ向から否定した。第2次訴訟の判決では日本政府の立場が受け入れられたが、原告側は判決を不服として控訴し、訴訟は長期化する見通しだ。韓国・世宗大の朴裕河(パク・ユハ)教授は「二つの司法判断」を検討し、慰安婦問題の本質を捉えぬ論理に警鐘を鳴らす。



∙ ∙

被害者本人がほとんどいない

「原告」分裂も

先月、元慰安婦による日本国家相手のもう一つの訴訟判決が、ソウル中央地裁で出された。1月の判決の原告が主に元慰安婦の支援施設「ナヌムの家」の居住者だったのに対して、4月に判決の出た訴訟は「日本軍性奴隷制問題解決のための正義記憶連帯」(正義連。旧韓国挺身=ていしん=隊問題対策協議会、挺対協)側が

主導したものと聞く。

「被害者」と記された16人のうち判決時点で生存者が4人しかいないため、今や実際の「原告」はほとんど遺族や養子であるのだが、そのうちの一人は「(社)挺身隊問題対策協議会」と記されている(4月21日付朝日新聞インターネット版の記事は、当時代



表だった尹美香=ユン・ミヒャン=国会議員が「元慰安婦、金福童(キム・ボクトン)さんの承継人」になっていると報道した)。金さんは生存当時から奨学金として財産を寄付してきたから、支援団体の人に「原告承継人」の資格を渡したことはありうることだ。しかし、横領の嫌疑で在宅起訴されている尹氏に、日本の「賠償金」を求める資格がなおあるかどうかは考えるべきだ

ろう。

しかも、判決文に死亡者として記されている「被害者」12人を代理した「原告」のうち、名字さえ記されていない人が5人もいる。この訴訟は、原告側が勝訴した場合、誰がそれを受け取るのかさえ知らされないまま進められてきた。求めている損害賠償額は、1月訴訟の2倍になる2億ウォン(約2900万円)である。

「被害者」本人がほとんどいない「原告」らは敗訴し、5月6 日、判決を不服としてソウル高裁に控訴した。第1審の判決文における「被害者」が16人だったのに対して控訴参加者は12人という。このところ支援団体の分裂が目立つが、「原告」らも分裂し始めているようだ。

なお続く訴訟関係者による非難、葛藤

4月の判決は、慰安婦問題訴訟を主権免除の例外対象として認めなかった点で、1月の判決とは正反対と言われた。確かに「主権国家は、他国の裁判所で裁かれない」という主権免除をめぐる考え方をはじめ、1月の判決とは異なる考え方が随所で確認できる。しかし、だからといって慰安婦問題自体についての考え方が1月の判決と根本的に異なっているわけではない。詳しくは後述するが、そうである限り、すでに出されているように、関係者らの批判、非難や、それに続く訴訟と葛藤は続くだろう。

4月判決は、主権免除の例外はいまだ慣習国際法として成立していないし、慰安婦問題が主権免除の例外を適用すべき「重大な人権侵害」とした原告に対して、重大かどうかは審理して初めてわかることで、そうした判断を「裁判権存否の判断の基準」とすることはできないとした。また、韓半島(朝鮮半島を指す)では現実に(日本との)交戦が行われていないので日本を外国とみなすことはできす、(日本を)主権免除の対象にすることはできないとした原告側の主張に対して、慰安婦問題は「法廷国の領土(朝鮮・韓国)内において、武力紛争過程で外国の軍隊あるいはそれと協力する外国の国家機関によって行われた」「主権的行為」とみなした。そうした認識から日本を主権免除の対象と認め

たのである。

また、2015年の日韓合意は政治的合意にすぎないとした原告側に対して、17年に出された韓国外務省作業部会の日韓合意検証報告書を基に「被害者の意見収斂(しゅうれん)」はあったとして、日韓合意を「代替的な権利救済手段」と認め、さらなる措置を求めていくことを提案してもいる。

そもそも、韓国政府が慰安婦問題の解決のために努力をしないのは憲法違反という憲法裁判所の決定以降、韓国外務省が動いた結果こそが日韓合意だったことを思い起こすと、この判決は妥当

と言えるだろう。

しかし、慰安婦問題自体については「被告の軍隊の要請に基づいて朝鮮総督府が各自治体に人数を割り当て、地域の警察が業者を選定して送られた」「行政組織・地域組織が動員し、(慰安婦被害者)全体の80%が朝鮮の女性だった」という、原告側の主張そのままに慰安婦問題を「不法行為」と認識している。このままでは今後の判決がどのようなものになろうとも、慰安婦問題の本

質を捉えたものにはならないはずだ。

約30年にわたる慰安婦問題の研究がありながら、(裁判所が8 0%と認識する)朝鮮人女性の占める割合はもちろんのこと、その数さえも学界で定説が成立しているわけではない。しかし判決は「10万∼20万人」説を引いていて、いくつかの説から最も刺激的な数を原告側が採用したことがわかる。しかも、この数字は最も多くの研究が行われてきた日本の学説ではなく、「北朝鮮側」が計算した数字(戸塚悦朗「“慰安婦”ではなく“性奴隷”である」。指摘箇所の注釈に<朝鮮人強制連行真相調査団編「検証・朝鮮植民地支配と補償問題」明石書店、1992>が挙げられている)でも

あった。

前回の連載で触れたように、慰安婦募集の主体が業者であることに早くから気づいていながら、その後の研究や運動は業者の存在を捨象し、連行から徴募、動員などと言葉だけを変えたり、「強制性」の意味するところを変えたりして、慰安婦問題をめぐる「世界の認識」を作ってきた。裁判所が、証言集などではむしろ少数である「軍隊による(強制的な)直接動員」(それとて、多くは軍服や国民服を着用した誘拐犯や業者と考えられる)と記して、そのことを中心的な事実としているのも、そうした「常識」に依拠してきた結果であろう。しかし、裁判所のみならず、国連報告書や判決に示された被害事実が多々、実際の体験とは距

離のあるものになっていたことが、ここでは伏せられている(金福童さんの場合も、死亡当時、韓国挺身隊問題対策協議会が出し

た来歴と証言内容は異なっている)。

4月の判決も「不法な植民地支配」という前提を基に「被告(日本)所属の警察あるいは彼らの指示を受けた者たちによる就業詐欺、脅迫、拉致など違法な方法」との認識を示したのは、原告側の訴状をそのまま引用した結果であろう。日本側が対応していない結果とはいえ、そうした認識は、初期の慰安婦問題が「これといった研究のないなかで、被害者の公開証言、裁判などが急速に展開し、国際的議論などが進んで、実際、十分な歴史的土台の上に立った法的論議が行われにくい条件だった」(姜ジョンスク「韓国の慰安婦問題に関する法関連研究の動向と歴史認識」金慶一ほか「東アジア日本軍慰安婦研究」韓国学中央研究院出版部、2017)ことの結果であるはずだ。しかもそうした状況は、いまだに全く変わっていない。慰安婦問題を「組織的」「体系的」な「制度=国家行為」と主張してきた原告側が、今回の訴訟で慰安婦の動員を「私法行為」(商業行為)とみなしたことは、国家の「主権行為」であれば(不法であるとしても)主権免除となることを避けるために取られた戦略であろう。こうしたこともひとえに「歴史の司法化」がもたらした結果といえる。

判決後の反発では、「事案(対象)に合うように適用を決めるべきだ」「被害の性質と重大さに注目すべきだ」<梁鉉娥(ヤン・ヒョナ)、第2次訴訟判決第1回討論会「日本軍『慰安婦』被害者判決却下判決、どのように見るべきか」資料集同>とあるように、これまでの慣例から慰安婦だけは例外とすべきで、その理由は「人権侵害」だからだという考え方が目立つ。しかしそうであればこそ、人権侵害の中身を正確に認識し、訴えるべきではなかったか。日本軍慰安婦研究会の会長も務めている法学者、梁鉉娥氏の場合、慰安婦問題を「詐欺と威力によって強制動員」したと認識しており、そこをしばらく棚上げすれば少なくとも植民地支配の一環と考えている点で、これまでの「交戦国」論理の矛盾

がわかっているようだ。

実際に梁鉉娥氏は「日本軍が外国にあたるとの表明は大変深刻な言明」「(朝鮮は)日本の差別される国民の一部」「国籍法などの適用が排除される不十分な状態とはいえ、現在まで有効な裁判所と行政の判断が出されており、(植民地時代が――筆者注)所有関係が結ばれた時期であることを否定するのは難しい。これ



らをすべて無効化することができないとすれば、当時の『植民地的法の支配状態』に対する別途の論及が必要」「植民地という強制占領による法的軍事的政治的支配が行われた点に起因するのが本損害賠償の被害事実」と核心をついている。こうした認識こそが、今後共有されていくべき正しい方向であろう。

しかしその前に、30年間もの国際社会に向けた運動の中で「交戦国」論理を使いつつ、現代の他の性暴力被害と同一視する運動のあり方がもたらした結果について、関係者自らの反省があってこそ今後の混乱を防げるはずだ。

ただ、必ずしも慰安婦問題を正確に理解しているとは言えない(そうした方向付けはもちろん関係者らによるものだ)国連の勧告を掲げて「実定法違反」「不法行為」とみなす根拠としていること、「ジェノサイド、奴隷制、人種差別」に言及し、それらと慰安婦問題が同じ問題であるかのように見せかけていること、さらに日本の嫌韓感情の導火線になったと言える2000年の女性国際戦犯法廷(梁鉉娥氏自身が法廷に検事として参加した)にいまだに依拠していることを見る限り、植民地問題としての問題提起がすぐに期待できるとは思えない。この問題に長らく関わってきたもう1人の法学者、金昌禄(キム・チャンノク)氏は「韓国裁判所が国際法深化に寄与できるようにすべきだ」と述べ、「人権大国」自体を目的としているかのような様子さえのぞかせている。

「(日本が拠出した)10億円を返して日韓合意を破棄せよ」との主張の背景にそうした考えがあるとしたら、それこそ主客転倒と

和解のために 2021

言うほかない。

梁鉉娥氏が言うような、「損害賠償、満足、公式謝罪とリハビ

リサービス」が果たしてこれまでなかったかと言えば、そうではない。日本はアジア女性基金の後も、毎年国家予算を組んで元慰安婦たちをケアしてきたし、その予算を廃止したのは日韓合意を結んだ後だった。「和解・癒やし財団」が存続していればできて

いたことであろう。

討論者の1人は、判決とは「どちらにより説得的か」を表すものでしかなく、正誤の問題ではないとした(朴倍根氏、前掲討論会)。また「当事者」は多様であり、国際社会や国内社会で受け入れられるかなども重要だと指摘した。しかし、30年に及ぶ運動や研究を導いた主流運動家や研究者は、自分たちの考えだけを「正義」とし、異なる意見はすべて「間違い」とみなして、抑圧してきた。そうしたあり方が被害者本人にも及んでいたこと、そして被害者らは結局声を出せないまま亡くなっていたことを、関係者たちは今一度思い起こすべきだ。

∙日韓合意

日韓両国が慰安婦問題の「最終的かつ不可逆的な解決」を確認した2015 年12月の合意。日本は軍の関与と政府の責任を認め、韓国が設立する元慰安婦の支援財団に10億円を拠出。「元慰安婦の名誉や尊厳の回復、心の傷の癒やしを行う」と決めた。韓国はソウルの日本大使館前に設置された少女像をめぐり「適切に解決するよう努力する」と表明した。日韓合意に基づき韓国は16年7月、「和解・癒やし財団」を設立。合意当時生存していた元慰安婦に1人1億ウォン(約950万円)、死亡者には遺族に1人2000万ウォン(約190万円)を支給することにした。文在寅(ムン・ジェイン)政権は「被害者中心主義」を掲げ、財団を解散させたが、元慰安婦の女性らが日本政府に損害賠償を求めた今年1月の第1次訴訟判決後には「両国政府の公式合意」と有効性を明言した。また別の元慰安婦らによる4月の第2次訴訟判決は、日韓合意に基づく「和解・癒やし財団」の設立を評価。多くの元慰安婦が財団支給の現金を受け取った経緯にも触れ、「合意は今も生きている」と確認した。

和解のために 2021






10
被害者中心主義から代弁者中心主義に ――運動と研究は誠実だったか


「日本政府の謝罪と反省の意味が込められた救済措置だ」。日本政府への賠償請求を却下した4月のソウル中央地裁判決は、2015年の日韓両政府の合意に基づき、韓国で慰安婦救済の「和解・癒やし財団」が設立されたことを評価した。多くの元慰安婦が財団から支給された現金を受け取った経緯にも触れ、合意の有効性を再確認した。韓国・世宗大の朴裕河(パク・ユハ)教授は、判決を踏まえ日韓合意を正確に理解するよう求めながら、この 30年間の運動と研究が被害者中心主義から遠く離れてしまったことを指摘する。



∙ ∙

4月のソウル中央地裁訴訟を担当した弁護士は、「慰安婦被害者が日韓合意を認めなかったために『和解・癒やし財団』が解散」したとした(ヤン・ソンウ、第2次訴訟判決第1回討論会「日本軍『慰安婦』被害者判決却下判決、どのように見るべきか」資料集)。また、(公式な条約ではなく)政治的合意にすぎない、被害者の意思が反映されていない、追加措置要求などの外交保護権を期待できないといった考えが原告側の理解であることが判決

文からはうかがえる。

しかし、判決文に記されているように韓国外務省は支援団体と 15回以上会議を行ったし、「和解・癒やし財団」にお金の申し込みをしたのは107人で、同財団のお金を最終的に受け取った人数は計99人(生存者35人、死者64人)という。これは訴訟を起こした時点の生存者のほとんどと言っていいかもしれない。



元慰安婦を支援する「日本軍性奴隷制問題解決のための正義記憶連帯」(正義連、旧挺対協=ていたいきょう)は日韓合意の反対運動で集まった国民からの寄付金から、合意に反対した8人の元慰安婦に1億ウォン(約950万円)ずつを女性人権賞の名で渡した。その8人の中にはすでに亡くなっている人も数人いる。

受け取らなかった人が少数だから、その要望や声が無視されていいと言っているのではない。むしろ無視されるべきではないからこそ、その何倍もの人たちの声や意思がこれまで抑圧されてきたことに注目すべきだと言いたいのである。日韓合意が発表された直後に、元慰安婦の支援施設「ナヌムの家」でインタビューに応じたある元慰安婦は「政府の考えがそうであるのなら」と受け入れる姿勢を示した。ところが、次の日には早くも拒否の姿勢に転じた。その変化が何ゆえのものかも、確認されなければならな

い。

支援団体の全国的な反対運動で1億円以上が瞬く間に集まった

のは、ひとえにそうした背景があってのことだった。しかも、正にそのお金を元に韓国挺身隊問題対策協議会(挺対協、現・正義連)は「正義記憶財団」を作り、続いて自ら正義連と名前を変えたのだから、その正当性はともかく、資金と人と全国民の支持を支援団体に集中させる契機となったのは、ほかならぬ日韓合意だった。元所長など職員が横領の容疑で起訴された「ナヌムの家」の場合も、100億ウォン以上のお金が集まったのは日韓合意の後という。そのすべては、慰安婦問題に対する国民の認識を変える努力なく合意が行われた結果でもある。

韓国では今も正確に認識されていない日韓合意

日韓合意の内容を韓国の人々はいまだに正確に認識してはいない。合意発表当初、日本側の対応が注目されずに韓国政府の対応だけが強調され、そこに注目が集まって瞬く間に非難の対象となった結果だ。謝罪や補償ではなく「不可逆的な解決」や「少女像問題の解決」という言葉のみが認知され、合意反対運動が広がった過程は、1990年代のアジア女性基金の時と変わらなかった。運動は、韓国の人々の誇りを傷つける作戦で成功したのである。日韓問題ではなく女性問題だと言われながら、慰安婦問題が韓国において何にも増して民族問題として機能している状況は変

わらず、そうした状況がうまく使われた。

誇りと表裏の関係にある被害者意識は、この問題を提起した挺対協の初代共同代表だった尹貞玉(ユン・ジョンオク)梨花女子大名誉教授や李効再(イ・ヒョジェ)同大名誉教授の考え方の核心でもあり(2人とも慰安婦問題を日本の朝鮮民族抹殺政策と考えている)、そうした意識こそが韓国本土のみならず海外の居住者をも刺激して、運動は成功したのである。尹名誉教授は「朝鮮の慰安婦制度は日本政府の朝鮮支配政策だった民族抹殺政策の一環」としているが、後で引用する李名誉教授のように、妊娠できない体にしたとして「再生産機能」を抹殺したものと考えたり、「地獄のような労働と地獄のような強姦(ごうかん)」「耐えられないなら『死ね』というような制度」「生き残った人は見捨てたり殺したりする制度」(「『朝鮮植民政策』の一環としての日本軍『慰安婦』」、「日本軍『慰安婦』問題の真相」歴史批評

社、1997)と理解したりしていた。

もっとも、慰安婦問題は朝鮮人にとって植民地支配の結果であって、民族問題であること自体は間違いではない。しかし差別はあくまで差別であり、ホロコーストのような(民族)抹殺政策と重なることころはあっても同じではない。おそらく、70年代の金一勉氏(著書に「天皇の軍隊と朝鮮人慰安婦」、1976。在日朝鮮人。韓国の林鐘国<イム・ジョングク>氏が81年に「挺身隊」のタイトルで翻訳している>や、90年代のボスニア紛争などにおける集団強姦の影響を受けてのことかと考えられる初期の理解(一部は今に至る)が、韓国におけるその後の理解の枠組みを作った。

90年代初期から国連に慰安婦問題を訴える活動で中心的な役割をした鄭鎭星(チョン・ジンソン)ソウル大名誉教授も、韓国での運動が「民族(性)抹殺の一環であることに注目」したとしている。鄭名誉教授もまた挺隊協の元代表だったし、国連での活動

も続けてきた。

日韓合意は「当事者が排除された」「被害者中心主義でなかった」とも非難されたが、合意の反対者たちが口をそろえて強調しているのはむしろ「法的責任」でない、ということだ。それには韓国のみならず日本の研究者や運動家たちも歩調を合わせている(中野敏男ほか編「『慰安婦』問題と未来への責任--日韓『合意』に抗して」2017、大月書店、など)。しかも、そのことが被害者のため以上に運動や研究のためのものになってきたことは、被害者中心主義を掲げる法学者の「韓国と日本の外相が公表した日本軍慰安婦問題に対する合意を見守りながら、慰安婦問題研究者の一人としてこれまでやってきた研究と活動が水の泡と化したように感じた」(梁鉉娥「2015年日韓外相の慰安婦問題合意で被害者はどこにいたのか」)との言葉にも図らずも表れている

(「2015『慰安婦』合意、このままではいけない」景仁文化社、

2016)。

90年代以降、慰安婦問題をめぐる研究と運動はいつしか被害者中心主義から果てしなく遠くへ離れてしまった。被害者中心主義は代弁者中心主義となり、そうしたことは「犯罪に対する責任だから法的責任であり、日本の責任だから国家責任」(金昌禄<キム・チャンノク>・前掲「2015『慰安婦』合意、このままではいけない」)という言葉に凝縮されている。合意で「相互批判を自制する」と盛り込まれたことに対して「韓国政府は世界的なアジェンダ--として浮上したこの運動の深い歴史と意味を自ら損なっている」(イ・ナヨン、同)という言葉にも、当事者以上に運動の「意味」が重んじられている様子が見て取れる。個々の元慰安婦に誠実で正確な事実だったか

運動の意味や成果を否定したいのではない。運動の内容が果たして被害者一人一人に誠実で、事実は正確だったのかを問いたいのである。世界の女性連帯という貴重な成果を勝ち得てはいても、30 年もの間、日本人慰安婦の存在は無視・隠蔽(いんぺい)され、旧ユーゴスラビアやアフリカの同時代の戦時暴力と同一化するようなやり方で訴えてきた運動のあり方を問うているのである。そこでは、考えの異なる人たちの努力は単に「(葛藤を)終わらせるためのもの」として「処理」され、「被害者と加害者を消去」するものとされた(以上、中野前掲書)。そうした声は、別の声を単に

「(日本国家の)弁護人」とみなしてはばからない。

慰安婦問題の第一人者と言われてきた吉見義明氏も「主たる責任は業者にあるということにしたいのだろう」(吉見、中野前掲書)としつつ、業者を単なる「軍の手足」と位置づけているが、 90年代に関係者が業者をも起訴すべきだと考えていたことは言わない。しかも慰安婦の募集をめぐる「強制性」の議論の中身は、いつのまにか「公娼制度は事実上の奴隷制」(吉見、同)という

ような議論に変わってしまっている。

吉見氏は16年の時点で慰安婦を「無給軍属あるいは軍従属者」としている。それは90年代初めにすでに関係者の間で出された認識だったようだが、(日本弁護士連合会は)「被害者本人や挺身隊問題対策協議会などが『性奴隷は日本帝国軍がやらかした犯罪の被害者なのだから加害者の軍属として扱ってはならない』と主張したことに同意して被害者感情を尊重した」(戸塚悦朗「“慰安婦”ではなく“性奴隷”である」)。つまり、事実を冷静に見つめるより、「元植民地人の立場を尊重」することを選択したことになる。

しかし、それは言うなれば「帝国主義的温情主義」(拙著「韓国ナショナリズムの起源」2020)の発露でしかない。つまり90年代以降、日韓がほぼ初めて共に過去に向き合うようになった空間において、両国の心ある市民たちが必ずしも対等な関係だったとは言えないのである。隠微な帝国主義的心情は、慰安婦問題をめぐって露骨な否定論を繰り広げてきた右派以上に、左派の中に残っている。しかしそうした構造が続く限り、帝国主義も植民地

主義も乗り越えることはできないだろう。

関係者らは日韓合意を糾弾すべき理由として国連女性差別撤廃委員会による批判も挙げている。しかし、そうしたことは世界に向けて運動の成果を上げた韓国の高学歴女性にとっての「世界」が、アジアではなく欧米だったことをも示しているのではないか。一連の運動は、日本と同じく帝国主義国だった欧米諸国に、朝鮮人慰安婦問題を植民地支配の問題として問うことはしなかった。植民地をめぐる戦いでもあった「帝国の戦争」の主体だった欧米と同じ「交戦国」の位置に立ち続けつつ、必要に応じて植民地の論理を掲げるような運動だったことが、多くの矛盾をもたらしたのである。 00年女性国際戦犯法廷最終判決を前に交わされた関係者間の

メールはそうした矛盾を痛いほど示している。

「我が国における性奴隷制がフィリピンや中国の占領下の強姦と異なる点が(判決において――筆者注)強調されていないのは、私たちが我々の起訴状で植民地という言葉を使わなかったからではないかという意見があります。台湾の起訴状には、植民地という言葉が何度も出てきます。私たちの起訴状には占領、併合という言葉は出てきても植民地という言葉はないため、(判事たちが――筆者注)ジェンダーの観点だけでこの問題を見たのではないかと思います。そこで、これは金富子さんの意見ですが、「いわゆる」という言葉を使って「いわゆる植民地」下の性奴隷制度の下で連れて行かれたのだとしておけば、植民地制度を私たちが認めていないことになるのではないかと思います。占領した、強制占領したといえば、マパニケ(フィリピンの村名。日本軍によって女性たちが慰安婦にされたり集団強姦されたりした― ―筆者注)や南京が占領されたのと区別することは難しいでしょうから。白人たちは併合がなんなのか知らないでしょうし」(0 1、12.10.尹貞玉・韓国挺身隊問題対策協議会元代表がある法学者

に送ったEメール、性平等アーカイブ)

慰安婦問題運動の世界的な成功が、自分のみならず西洋――元

帝国を欺瞞(ぎまん)するものであったことを、このメールは歴然と示している。以前書いたように尹氏は慰安婦と兵士の関係も、慰安婦に「30歳の女性や子供を産んでいる女性」がいたことも早くから知っていた。にもかかわらす「朝鮮の婦女子を強制的に連行して性奴隷にしたもの」「再生産機能を破壊することで民族抹殺を図った犯罪」「ジェノサイド」(李効再・梨花女子大名誉教授「日本に謝罪と賠償を要求する――強制従軍慰安婦問題の解決法案」性平等アーカイブ)との認識も共有し、その後の慰安婦認識の土台を作ってきたのである。

今後も、日本政府に損害賠償を求める元慰安婦らの訴訟と共に日韓合意の完全な破棄を求める運動は続くだろう。そうした現状を変えられるのは、この問題を注視する人々の新たな認識のみであるはずだ。

∙アジア女性基金

正式名称は、女性のためのアジア平和国民基金。1993年の河野洋平官房長官談話に基づき、村山富市内閣が95年に設立した。償い事業は、国民からの寄付金による被害者1人当たり200万円の「償い金」と、政府拠出の 120万∼300万円の医療・福祉支援、首相のおわびの手紙などからなる。

2007年3月に解散した。国・地域別実施人数は、韓国61人(うち1人が受け取っていないと主張)▽台湾13人▽フィリピン211人▽オランダ79人。 02年の時点で韓国政府が認定した被害者207人の中で、事業を受け入れたのは3分の1足らずだった。元専務理事の和田春樹氏が明らかにした詳細は、寄付金収入5億6535万5469円、政府補助金34億8431万2000円、政府拠出金13億3059万2497円。一方、償い金5億7008万5616円、医療福祉11 億5144万522円。基金解散後、日本政府は韓国、台湾、フィリピン、インドネシアを対象にフォローアップ事業を9年間実施した。08年度以降の実績は年720万∼1500万円で、韓国が多くを占めた。


11
欧米の認識を作った北朝鮮の慰安婦証言


1991年に韓国人元慰安婦、金学順(キム・ハクスン)さんが自分は慰安婦だったと名乗り出て以来、この問題にどう対応すべきかをめぐって日本の政府と社会は大きく揺れ動いた。女性に性的奉仕を強いるという極端な人権侵害であり、多くの日本人は被害者に対して償いをすべき問題と捉えた。と同時に、過去に関わることで日本が批判され続けることに割り切れない思いを抱く人も少なくなかった。韓国・世宗大の朴裕河(パク・ユハ)教授は、この問題に関する欧米の理解の背景には北朝鮮元慰安婦の衝撃的な証言があったのではないかと考える。



∙ ∙

8月になれば、金学順さんが声を上げて、「慰安婦問題」が浮上してからはや30年になる。この間、声を上げた元慰安婦のうち多くの方が亡くなり、日本の謝罪と補償もアジア女性基金と日韓合意により2回試みられた。しかし、この問題をめぐる日韓の対立は一向に収まりそうにない。

これまでこの連載では、支援団体が慰安婦問題を、民族抹殺を図る〝植民地政策〟とみなしていたこと、日韓の法律家たちがニュルンベルク裁判を見本として東京裁判でできなかったことを完遂させようとしたこと、支援に乗り出した日本の歴史家が主に公文書のみを問題理解の分析資料に使った結果、公文書には出て

こないさまざまな声に十分に気づかなかったこと、そうした声を直接聴いて口述集を作った韓国の支援団体がそれらの声をあまり発信しなかったこと、さらにそうした口述が示すより根本的な構造(慰安婦被害者が「皇国臣民」とみなされ「愛国」の構図に動



員されたこと)に気づかなかったらしいことなどを見てきた。

韓国の支援団体が問題発生後すぐにフィリピンや北朝鮮などと連携し始めたことも、日本人慰安婦の存在を看過させ、日本人・朝鮮人・台湾人慰安婦らの実態や問題の本質--国家の戦争に女性たちが法律の外で動員されたこと--を見えなくさせた原因と言える。その間、根強く存在したのは「売春婦」と「純粋な少女」の区別と差異化だった。でありながらも、元植民地の人々が声を上げた際には、誰にも見えていたはずの、朝鮮人慰安婦問題=植民地問題の構図はいつのまにか見えなくなり、慰安婦問題は長い間、単に「戦争犯罪」の枠組みで理解され、「帝国」「植民

地」の問題としては考えられてこなかった。

もっとも、支援の中心にいた人たちはそうした矛盾に気づいていたようだ。たとえば、2000年女性国際戦犯法廷を可能にした国際連帯が「戦時下女性暴力問題の中に囲い込んだという限界」(鄭鎮星「日本軍性奴隷制」、2004)があったと、支援団体の元代表は早くに書いている。しかし、今年1月と4月の韓国における慰安婦訴訟の判決文で確認できたように、原告側はその後も日本と朝鮮は「交戦国」だったという論理を全面的に掲げ、植民地問題としては訴えなかった。

韓国の支援者たちが植民地ではなく交戦国の論理を使った背景に、慰安婦問題を「不法」とみなして、日朝国交正常化交渉での交渉力を高める意図があったことはすでに見た。しかも、国連にこの問題を訴える過程で出合った北朝鮮の存在が、関係者たちの慰安婦をめぐる考え方にかなり影響を及ぼしたらしいことが見えてくる。韓国の見方や運動のあり方に影響を与えたのは、日本の学者や支援者だけではなかったのである。韓国で定着し、長い間常識でもあった<20万人の少女・強制連行・「類例を見ない」残虐さ>は、そのまま90年代初期の北朝鮮の主張でもある(「日本政府は「従軍慰安婦」の問題の真相を明らかにし謝罪すべきである」――「従軍慰安婦」および太平洋戦争被害者補償対策委員会の告訴状)「月刊

朝鮮資料」1992年11月号ほか)。

日本の弁護士や韓国挺身隊問題対策協議会(挺対協、現・正義連)が国連に問題を提起した運動初期の頃から、北朝鮮も日韓の支援者たちと連携して活動した。また、北朝鮮は91年1月、平壌で開かれた第1回日朝国交正常化交渉で慰安婦問題を提起し、補償措置を講じるよう日本側に求めてもいた(朝鮮人強制連行真相調査団編「朝鮮人『慰安婦』・強制連行の真相究明と補償を」1992)。65年の日韓協定(注:韓国では日韓基本条約および付随する諸協定のことを一般に日韓協定と呼ぶ)では示されなかった、植民地支配を不法とみなす形で過去の清算を訴えるなかで、慰安婦問題も賠償を受けるべき問題と考えられていたのである。

以降、91年5月には東京で、91年11月にはソウルで、南北女性代表団は会合を持つ(韓国挺身隊問題対策協議会編「韓国

挺身隊問題対策協議会20年史」ハンウル、2014)ようになる。92年8月というまだ早い時期に「北では政治的に日朝交渉を進めながら(日本に)戦争犯罪賠償を確実にさせようとしている。今はこれまで以上に南と北の両方が、日本から挺身隊問題の真相究明を促して賠償を受け取ることに十分な主体的な力量が整いつつある時だ」(尹美香<ユン・ミヒャン>「挺身隊問題解決運動の展開過程」「第1回挺身隊問題アジア連帯」報告文、1992)との言葉がのちに支援団体の長となる人から発せられたの

は、そうした経過があってのことであろう。

慰安婦問題をめぐって北朝鮮が作った団体は「事実上政府の一部分」(鄭鎮星、同)であったし、国連に参加して慰安婦問題を韓国の団体と一緒に訴えた日本からの団体「朝鮮人強制連行真相調査団」も、代表たちの「国籍は北朝鮮」(辛惠秀「日本軍『慰安婦』問題解決のための国際活動の成果」「日本軍慰安婦問題の真相」)だった。それ以降、韓国の団体とこれらの団体は92年9月には平壌でも会合を持ち「緊密に協力する関係」(辛惠秀、同)となる。国連の人権委員会でも1年に2回は会っていたというから(辛惠秀、同)韓国の関係者が北朝鮮政府の立場を意識するようになったのは必然的な成り行きでもあった。

国連での残虐な話と

兵士を慰める「効果」と

韓国の支援団体は、92年から国連に慰安婦問題を提起した。北朝鮮の団体や日本の「朝鮮人強制連行真相調査団」も同じ頃に、国連人権小委員会などに参加したり東京での国際聴講会などで被害者とともに発言したりしている(鄭鎮星「日本軍性奴隷制」、辛惠秀「日本軍『慰安婦』問題解決のための国際活動の成果」、戸塚悦朗「〝慰安婦〟ではなく〝性奴隷〟である」など参照)、しかし、世界に向けた北朝鮮の慰安婦の話は、韓国の慰安婦の平均的な話とは極端に違っていた。日本の支援者も北朝鮮慰安婦の証言の特異さに触れていることをすでに指摘したが、こうした北朝鮮慰安婦の証言がその後の欧米の認識をつくった可能性

は小さくない。

92年の東京国際公聴会や94年に出された 国際法律家委員会(ICJ)の報告書に登場する北朝鮮の元慰安婦の証言は、子供を産んだことや病気を理由に「子どもと共に川に投げこまれ」るなど「3人の少女が殺されるのを見た」(キム・ヨンシル)(国際法律家委員会<ICJ>「国際法から見た『従軍慰安婦問題』」明石書房、1995)というものや、敗戦後に「朝鮮女性を殺しました」(キム・テイル)(同) というものだった。東京国際公聴会に参加したキム・ヨンシルさんは、朝鮮語を使ったとの理由で慰安婦が「首を切られた」とも話している。国連の「奴隷制実務会議」でも南北の元慰安婦たちはともに発言し、「慰安婦問題が会議場を完全に圧倒」(辛惠秀、同)したという。

00年の女性国際戦犯法廷での原告だった北朝鮮の元慰安婦、朴栄心さんも「(抵抗すると)刀を抜き出して首を刺して帝国軍の味を教えてやるといい、(喉の)血を飲み込んでいる間に強姦(ごうかん)された」(「南北韓共同起訴状」韓国挺身隊問題対策協議会「2000年日本軍性奴隷戦犯女性国際法廷資料集」2004)と話している。国連のクマラスワミ報告書に挙げられている北朝鮮の慰安婦の話も、首を切ってスープにせよと軍人が命令したり、首を切られ体をバラバラに切断されたりしたというも

のだった。

韓国の慰安婦の話にも似たような話は出てくるが、少なくとも国連やICJなどでの証言では見当たらない。乳房をえぐったり、おなかや膣(ちつ)を軍刀で割かれたりしたなど残酷で血なまぐさい話は、北朝鮮慰安婦に圧倒的に多いのである(伊藤孝司「記憶します――日本軍慰安婦となった韓国と北朝鮮の慰安婦たち」アルマ、2017。日本で14年に出版された「無窮花(ムグンファ)の哀しみ――「証言」性奴隷にされた韓国・朝鮮人女性たち」の韓国語訳)。

しかし、たとえば上記の朴栄心さんのケースが起訴状では「12人のうち8人は砲撃で死に、4人のみが生き残り中国人によって捕虜となった」(韓国挺身隊問題対策協議会、同)と書かれながら、同じ起訴状に検事たちが書いたことは「意図的な放置」「大量虐殺」「虐殺は犯罪証拠を体系的に破壊するための故意的な行為」(同)というものだった。そして、斬首にも言及しながら 「体系的で広範囲な攻撃・集団強姦・奴隷狩り」と告発したのである。法廷の前後に関係者たちが交わしたメールのやり取りを見ても、この問題が関係者らの恣意(しい)的な 「選択」と「解釈」の応酬だったことがわかる。

だが、すでに書いたように日本軍は時々暴行を働いたし、時に暴力的な心中事件さえ起こしたが、日本人、朝鮮人中心の慰安所は、北朝鮮慰安婦たちの証言にあるようなことが普通にできる空間ではなかった。利用規範を無視する軍人を、慰安婦たちは憲兵に訴えることができたからだ。周知のように慰安所規定は、飲酒も暴行も禁じていた。

慰安所とは、最初は性欲解消のため発案されたが、そのうち「戦争に倦(う)む」兵士たちを慰める効果が見いだされ、そうした方向へと強化されていった。いうまでもなくそうした効果を生む役割が期待されたのは、同民族の日本人慰安婦たちであり、戦争の激化につれて交通の便などの理由から、比較的に移動しやすかった朝鮮人慰安婦が日本人の代替となった(拙著「帝国の慰安婦」)。最初の頃の慰安婦が、兵士の故郷から集められ、慰安所の名前に日

本の地名が用いられたりしたのもそうした構造による。

もっともそうした「効果」は国家の勝手な期待でしかなく、そのことへの批判はいくらでも可能だ。しかし、だからといってそうしたことが 隠蔽(いんぺい)されていいわけではない。何よりそこからは、国連に訴えてオランダの国際法学者らのアドバイスを受けつつ、次第に慰安婦問題の理解の枠組みになり、やがて裁判にも核心的な論理として使われるようになる<慰安婦=体系的・組織的強姦>という理解が見えてくる。「体系的で組織的」であることが認められたのは旧ユーゴスラビアの場合だったが、それと同一視された <慰安婦=「人道に反する罪」>の論理も揺らがざるをえないのである(言うまでもなく、ヨーロッパやアフリカにおける「戦争犯罪」に当てはまらないとしても、そのことが慰安婦の悲惨さを消すことになるわけではない)。

朝鮮人差別や蔑視の構図は確かに存在した。しかしそれを中国やオランダなど連合国側の女性に対する、征服の意味をもつ敵対視と同じものであるかのようにしてしまうのは、歴史に不誠実というほかない。活発に活動してきた元朝鮮人慰安婦、李容洙(イ・ヨンス)さんさえ「性奴隷」という言葉を受け入れなかった(20年5月31日「文化日報」)。それは、そうした差異を

誰よりも知っていたからであろう。

軍人が慰安婦を残酷に「殺した」とする話やお腹や子宮を傷つけた話(伊藤孝司、同)は、朝鮮人慰安婦問題を「民族抹殺」と考えた関係者たちの理解に合ったものではある。韓国の元支援団体代表たちの理解でもあった「再生産できない体にするための政策」との慰安婦問題についての理解を北朝鮮も早くに示していて、こうした理解が90年代初期の交流の中で共有されるように

なったのは確かである。

北朝鮮や「在日本朝鮮人総連合会(朝鮮総連)」系の人々は、日本が慰安婦たちの「五体を引き裂いて殺した」「乳房をえぐった」「胎児を刀に指して掲げ」「患者には銃を発射」(「朝鮮人『慰安婦』・強制連行の真相究明と補償を」「朝鮮人慰安婦問題に対する従軍慰安婦太平洋戦争被害者補償対策委員会の告訴状」朝鮮人強制連行真相調査団、1992)と強調した。慰安婦を「戦争遂行と関連して日本政府と軍部の政策に基づき組織的な集団強姦と輪姦管理制度のもとで被害を受けた女性」とし、「主に朝鮮女性を充てることを政策化」して「朝鮮民族抹殺政策をより積極的に推進する企図の一環として強行」したと理解した。「彼女たちのほぼ大多数を殲滅(せんめつ)」し、「長期間の拘禁」をし、「奴隷として連行」したとの理解がこうして成立した。

そして、「ドイツの戦犯を裁判するために設置されたニュルンベルク国際軍事裁判の条例第6条C項」と東京裁判の「人道に対する罪」を参考にして「民間人に対する殺人、殲滅、奴隷的酷使、強制移住(追放)」とみなし「責任ある者たちに対する処罰」を要求したのである。

BC級戦犯に問われたスマラン事件と同一視も

こうした話を聞いて、慰安婦問題を人権問題として主張すべきだと助言したのは、オランダのテオ・バンボーベン氏(Theo Van Boven:人権専門家。国連人権小委員会委員としてクマラスワミ氏に先立って慰安婦に関する報告書も書いた。ICJの調査が行われた頃、メンバーでもあった)という。バンボーベン氏が、朝鮮人慰安婦問題をスマラン事件と同じようなものと理解したことは、同氏の報告書からうかがわれる(「重大な人権侵害の犠牲者に対する賠償」韓国挺身隊問題対策協議会「挺身隊資料集Ⅳ」1

993)。

そして、国連では「ボスニアでの組織的、集団的強姦事件」のため「(慰安婦問題が)国際的な関心と支持を受ける大きなきっかけとなった」(辛惠秀、同)。しかしボスニアの事件は、セルビア系の男性たちがイスラム系の女性たちを集団強姦し、中絶できないように監禁した事件で、日本帝国の一員として包摂されて、日本人の代替をさせられた朝鮮人慰安婦の境遇とは異なる。

慰安婦問題の世界認識を作るのに大きな役割をしたボスニアやルワンダの惨事に言及しつつ、慰安婦問題を「目標集団に対して政策的に行われた大規模の攻撃」「ジェノサイド」と定義し、00年女性国際戦犯法廷が「特定の集団に対する差別的性格を持つべきで、国家機関の行為として行われるべきだ」(「2000年日本軍性奴隷戦犯女性国際法廷資料集」)との理解を繰り返したの

は、こうした過程を経てのことだった。

00年代以降も国連の人権委員会・女性差別撤廃委員会・拷問禁止委員会などが慰安婦問題について発言し、日本政府への勧告を出しているが、基本的にはこれらの報告書の認識を引き継いだものなのだろう。戦争に関わる性暴力の問題に普遍的な「女性」の問題として接近する際、ヨーロッパ・アフリカや朝鮮人被害者たちの差異が顧みられることはなかったのである。しかし、「法」による判決を導くには、被害事実の正確さこそが必要だったはずだ。

91年以降、ソウルや平壌、海外において構築された南北連帯はのちに「南北統一をなしとげた」(00年女性国際戦犯法廷において)「何ら問題なく完全に統一された起訴を行った」(鄭鎮星「韓国挺身隊問題対策協議会20年史」)「慰安婦問題を超えて未来の南北韓統合に重要な基盤となっている」(尹美香、同)と、自負心とともに語られるようになる。

∙金学順さん

1924年、旧満州(現中国東北部)生まれ。91年夏に慰安婦だったことを初めて実名を出して証言し、同12月に日本政府を相手取り、1人当たり2000万円、計7億円の補償請求訴訟を起こした際に原告に加わった。また93年に、「韓国挺身隊問題研究会」が発行した証言集で、体験を詳細に明らかにした。金さんは、慰安婦だったことを公表して以来、毎週水曜日にソウルの日本大使館前で行われる抗議集会に欠かさず参加して、日本政府の謝罪と補償を要求した。97年12月16日、73歳で死去した。二十数年前に夫と子供を亡くして以来、ソウル市内で一人暮らしをしていた。

∙スマラン事件

一部の日本軍関係者が、旧オランダ領東インド、現在のインドネシアの収容所に抑留されたオランダ人女性らを慰安所に強制的に連行して、そこで日本の将兵に対する性的奉仕を強いた事件。アジア女性基金の資料委員会の報告書に収められた論文によれば、1944年初頭、中部ジャワのアンバラワとスマランにあったアンバラワ第4または第6収容所、アンバラワ第9収容所、ハルマヘラ収容所、ゲンダンガン収容所からオランダ人と混血女性約35人が連行され、慰安婦にされた。推進したのは南方軍幹部候補生隊の将校たちだった。事件は、東京から視察に来た将校が、オランダ人から訴えを受け報告したことで、軍上層部が知るところとなった。ジャカルタの軍司令部の命令で慰安所は閉鎖され、女性たちは解放された。しかし、慰安所の幾つかはその後同じ場所で再開された。戦後、オランダ人を強制的に慰安所に連行していった日本軍将校たちはBC級戦犯裁判で裁かれた。


12
あるべき「記憶継承」を共に考える日を求めて


2002年9月に当時の小泉純一郎首相と北朝鮮の金正日(キム・ジョンイル)総書記が首脳会談で署名した日朝平壌宣言から、来年で20年になる。もし日朝国交正常化交渉が進んでいれば、難航する慰安婦問題も厳しい日韓関係も違ったものになっていたかもしれないと、韓国・世宗大の朴裕河(パク・ユハ)教授は考える。そして、理解の枠組みに合わせて被害者の証言を取捨選択するのでも、教科書から慰安婦問題の記述を削除するのでもない、「記憶継承」の道を探るよう訴えかける。



∙ ∙

冷戦崩壊後の北朝鮮との交流は、本来望ましいことだったはずだ。しかし、結果としてポスト冷戦時代にようやく始まったポストコロニアリズムの動きは、冷戦の枠組みに押し込まれていた。それはかつての日本帝国が左派を抑圧した結果ともいえるが、そう言って済ませるには事態が深刻すぎる。

2000年代以降に尹美香(ユン・ミヒャン)氏が韓国挺身隊問題対策協議会(挺対協、現・正義連)代表になってから、慰安婦運動は「南北統一= 慰安婦問題解決」 (15年3月29日「統一ニュース」)の傾向を強め、南北共調を超えて20万人強制連行説など北朝鮮の認識を前面化しつつ韓国社会に定着してきた。その尹氏が「386世代」(1960年代に生まれ、80年代に大学生として民主化運動の主軸となり、90年代に30代だった世代のこと。現在は50代になっているので「586」と



呼ばれるようになっている)であり、ついに国会議員になったのはこうした歳月を象徴している。

現在でも韓国のインターネットに出回っている元慰安婦の体験のうち、最も残酷なものは、ほとんど北朝鮮の慰安婦の話を基にしたものである。北朝鮮の慰安婦の口述が入っている証言写真集も数年前に翻訳された(伊藤孝司「記憶します――日本軍慰安婦となった韓国と北朝鮮の慰安婦たち」アルマ、2017。日本で14年に出版された「無窮花(ムグンファ)の哀しみ――「証言」性奴隷にされた韓国・朝鮮人女性たち」の韓国語訳)。しかも、そこに載っている体験は、90年代初めに国際法律家委員会(ICJ)に向けて話されたことがさらにエスカレートしている。キム・テイルさんの場合、3人殺したという話が 150人の女性の首を切ったという話になっているのである。慰安婦問題がともかく「不法」とみなされ、日本の「賠償」を求める裁判が日本やアメリカでの敗訴を翻すべく続いているのもこうしたことと無関係

ではあるまい。

そういう意味では、日本と北朝鮮が国交正常化できていれば、慰安婦問題はここまでこじれていなかった可能性がある。最初は不法・賠償を主張していた北朝鮮も、02年の平壌宣言では、日韓国交正常化と同じように経済協力方式で請求権問題を解決する

ことに同意したからだ。その良しあしは別として、少なくとも韓国で現在進んでいるような、慰安婦問題をともかく「不法」とみなして賠償を求めるような裁判はなかったかもしれない。しかし、平壌宣言は再浮上した日本人拉致事件及び核問題による感情悪化のため宙に浮き、その後、世界では、07年のアメリカ下院の「慰安婦問題をめぐる対日非難決議」を皮切りに、00年女性国際法廷の認識を広げていった(カナダ議会、欧州議会決

議など)。

韓国では、65年日韓協定(注:韓国では日韓基本条約および付随する諸協定のことを一般に日韓協定と呼ぶ)の際の文書が公開された結果として、元徴用工・徴兵者などの問題は日韓協定の際に解決されたが、慰安婦問題は解決されていないとの民官共同委員会(韓国政府が05年に外交文書公開を受け、対策を検討するために設置)の結論が出されて、元慰安婦たちは06年に憲法裁判所に韓国政府を提訴した。憲法裁は11年、慰安婦問題解決のための外交努力を、韓国政府が尽くしていない不作為を違憲だとする決定を出すようになる。同年12月には少女像も建てられた。以降、それまで支援団体にいくらか距離を置いていた韓国政府は、支援団体と共に動き始めた。その歳月も10年になる。

日朝国交正常化が日韓対立を緩和する可能性も

核問題があるので断定的に予測することはできないが、日朝国交正常化が慰安婦問題や元徴用工問題をめぐる日韓対立を緩和する可能性は高い。そういう意味でも、その日が早く来るのを望みたい。しかし、だからといってすでに50年以上、時に揺れながらも友好の歳月を積んできた日韓が、その日まで今のような対立関係を続けていいわけがない。国家関係は国民同士の関係にも当然ながら影響を及ぼすからだ。冷戦体制の解体から30年、韓国憲法裁判所の判決から10年続いた対立の結果は、すでにさまざまな形で現れている。韓国の貿易依存が日本から中国の方へ移ってしまったことは、その経済的側面と言えるだろう。しかし何よりも問題なのは、両国民の心の中を日々傷つけている怒りや嫌悪

感のはずだ。

韓国の支援者たちは、慰安婦問題を世界に類例のないものと強調することで特殊化してきたが、そうした見方は慰安婦の正しい理解をかえって遠ざけるばかりだ。慰安婦問題をめぐる日本の特異さは、むしろ、戦場で自決さえいとわぬようにした徹底した精神教育(皇民化教育)にある。そしてそこに巻き込まれた朝鮮人や台湾人のことを共に議論できる時、慰安婦問題は初めて国家主義を乗り越え、ポストコロニアル時代にふさわしい普遍的な問題

になるはずだ。

30年もの歳月がたっているのだから、慰安婦問題をめぐる研究でも新たな見解が出るのは当然のことである。しかし慰安婦問題の場合、最初から政治化してしまった結果、初期の枠組みが維持された。その間にあったのは概念の〝ずらし〟や拡張でしかない。そして少しでも異なる見解は即敵対視され、駆逐された。主流の関係者たちは異なる見解に耳を傾けた上で批判するのではなく、道義的・政治的な欠陥ゆえの問題とみなして、それに基づく非難・攻撃を続けてきた。今やそうした攻撃は、冷戦的思考が冷戦崩壊後30年間も関係者たちを強くとらえていたことを示す。そうした状況は一般人にまで広がり、表面的には「日韓不和」に見えても中身は左右・左左対立の時代が続いている。

00年女性国際戦犯法廷の証言者の一人だった元慰安婦、河床淑(ハ・サンスク)さんをめぐって韓国側の検事(支援者)たちが交わした資料には、兵站(へいたん)に慰安婦が出頭した時、「18歳以上で初めて許可状を出したので私の歳をあげて18歳とした」(性平等アーカイブ)と述べられていた。「慰安婦が到着すると写真、戸籍謄本、契約書、父母の承諾書、警察の許可書、身分証明書」を提出し、「これをもって慰安系の下士官が身元調査書を作って憲兵隊へ送った」との話は「武漢兵站」(山田清吉、1978)に出てくる内容である。つまり関係者たちはこうしたことを知っていながら、長い間公にはしなかったということになる(もちろんここにあるように、業者が書類をだました可能性を忘れてはならない)。言うならば、最初の枠組みに合わせて証言の取捨選択が行われてきたのである。

慰安婦の中に未成年がいるなど意思に反して従事させられた人たちがいたのは、多くは、仲介人や業者による誘拐、だまし、戸籍偽造や契約書偽造があったがゆえのことだった。日本人慰安婦として知らされている城田すず子さんも、連れて行かれた時の歳は17歳だった。娼妓(しょうぎ)になれる歳を、日本は18歳、朝鮮は17歳、台湾は16歳にしたのは、こうした制度がまずは植民地に出て行った日本人男性のためのものだったことを示している。日本人でも業者によって植民地に連れて行かれた人は多かった。

とはいえ、戦場へ連れてこられた未成年者やだまされてきた慰安婦を、軍人が時に別のところに就職させたり国へ返したりすることができたのは、日本軍や日本政府の命令による帝国内の女性たちに対する誘拐やだましが、構造的にありえなかったからだ。

韓国の研究者たちは、帰って来なかった慰安婦たちがほとんど虐殺されたり見捨てられたりしたものとみなしている。しかし、帰ってこなかった理由は必ずしも見捨てられたからではない。「朝鮮へ行くことは可能だったが、こんな体で朝鮮へ行って何ができるものかと思って行かないといった」(前掲、河床淑さん資料)などと述べている人は少なくないのである。そうした心理にさせる原因の提供者として戦場に女性を動員した日本を批判することはできても、帰国しなかった理由を虐殺されたり見捨てられたりしたためとだけ考えるのは、彼女たちを戦場へ送り、無関心でいた多くの一般人を免罪することになる。近年ようやく家父長制や業者などのことが指摘されるようになったが、責任に差異をつけようとする限り、30年もの間続く「法」の思考から自由になることは不可能であろう。

こうした混乱が続いたのは、「植民地」自体の研究が不十分だったからでもある。確かに支配者にとって、植民地側の人間はいとも簡単に殺すことができる存在だった(慰安婦関係の資料で言えば<山谷哲夫のドキュメンタリー映画「沖縄のハルモニ」(1979)に出てくる、盗みを働いたとの沖縄人の告発のみで朝鮮人軍属をその場で切ったとする元軍人の告白はその一つだ)。しかし植民地の人々は、基本的には国民扱いをされる、帝国の「資源」だった。いつでも殺せるが、殲滅(せんめつ)すべき(とされた)「敵」とは異なるほかない存在なのである。

99年に起こされ06年まで続いたアメリカでの慰安婦訴訟を率いたある人は、その時点で研究があまり存在せず、北朝鮮と日本に依拠せねばならないことを嘆いていた(ハン・ウソン「アメリカで進行中の日本軍慰安婦及び徴用訴訟に対する報告書「日本軍『慰安婦』問題に対する法的解決の展望」)。実際に慰安婦問題をめぐる研究の数は、日本の方が圧倒的に多く、韓国には数年

前までごくわずかしかいなかった。

関係者らは「国際社会の見方」に致命的な誤謬(ごびゅう)を作らせ、異なる意見はすべて「歴史修正」「歴史否定」と非難してきた。しかし、あるべき「歴史」を前もって想定すること自体が、「歴史」なるものの理解を狭めている。重要なのは、売春婦か性奴隷かの議論ではない。どのような形であれ国家によって女性たちが動員され、悲惨な境遇に置かれ、時に負傷し命を失い、いまだに遺骨が収集されておらず、異国の地に眠っているかもしれないことに思いをはせること、しかもそうした悲劇がたくさんの日本軍兵士と共にいる中で起きたことを、より多くの人たちに認識してもらうことであるはずだ。兵士が慰安婦に抱いた思いをジェンダー理論で批判する動きもあるが、そうした〝洗練〟された批判がエリート女性による抑圧になる可能性も念頭に置くべきだろう。「正義」を求めるエリート女性がたくさんの「語れないサバルタン(被抑圧民衆、下層民)」を作ってきたことはすでに指摘した。

とはいえ、教科書から慰安婦問題の記述を削除すべきだとする日本の一部の声に、それ以上の問題があるのは言うまでもない。重要なのは慰安婦に「従軍」をつけるべきかどうかの問題ではなく、国家の勢力拡張と共に移動させられ、犠牲になった慰安婦たちの境遇に思いをはせ、そうしたことができる次世代を育てる意思が今の日本社会にあるのかどうかではないか。慰安婦たちは兵士と違って「法」さえ必要とされず戦場や駐屯地に動員された。そこにある女性差別に国を越えて気づくことこそが、「法至上主義」による閉塞(へいそく)感ばかりが強い現在を乗り越える契機となるはずだ。

「法」にはできないことだった河野談話の意義

93年の河野談話の破棄を主張する人もいるが、河野談話の意味はむしろその曖昧性にある。そしてそれこそが、「法」ではできないことだったはずだ。世界に広まった少女像も、日本軍慰安婦として最初に動員されたのは日本人であったとの認識を盛り込むものになるなら、像をめぐる10年来の対立も解消されるかもしれない。朝鮮半島以外の国の女性たちを増やしてみても、それだけで普遍的な「女性」問題になるわけではない。

ソウル中央地裁の4月裁判で敗訴した原告側は控訴した。原告の代理人たちは「最後の救済手段」と訴えている。しかし、「法」のみが被害者を救えると思うようになったこの30年を検証し、共有することこそが必要だ。あるべき「記憶継承」とはどういうものかを、対立してきた双方が一緒に考えることができる日に向けての模索を始めたい。

∙日朝平壌宣言

2002年9月17日に北朝鮮を訪問した当時の小泉純一郎首相と金正日総書記が署名した文書。日本は過去の植民地支配により「多大の損害と苦痛を与えた」として、「痛切な反省と心からのおわびの気持ち」を表明。国交正常化の後に経済支援を行うとした。拉致問題には「日本国民の生命と安全にかかわる懸案問題」との表現で触れ、北朝鮮が再発防止を約束した。核問題を解決する必要性にも言及し、北朝鮮は弾道ミサイル発射実験を行わない意向を示した。会談ではまた、北朝鮮側が日本人拉致の事実を初めて公式に認め、謝罪した。

∙欧州議会決議

欧州連合(EU・27カ国)の欧州議会(フランス・ストラスブール)は2007年12月13日の本会議で、第二次世界大戦中の旧日本軍による慰安婦問題について、日本政府に公式謝罪などを求める決議案を賛成多数で採択した。決議案は、慰安婦問題を「20世紀最大の人身売買の一つ」と規定。日本の法廷が被害を訴える女性への賠償を却下し、日本政府は問題を解明していないと批判した。そのうえで日本に公的謝罪・賠償のほか、歴史教育の見直しなどを求めている。決議に法的拘束力はないが、EUの政策に大きな影響力がある。同年には、米下院が7月30日の本会議で、慰安婦問題について日本の首相が公式に謝罪するよう求める決議を採択。オランダ下院、カナダ下院も11月に、日本に謝罪を求める決議案を採択した。


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