2019-06-30

1945年 6月30日 『〝沖縄〟という米軍基地の建設』 - 〜沖縄戦シリーズ〜

1945年 6月30日 『〝沖縄〟という米軍基地の建設』 - 〜沖縄戦シリーズ〜

〜沖縄戦シリーズ〜

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1945年 6月30日 『〝沖縄〟という米軍基地の建設』

   
米軍の動向
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沖縄でロッキー少将と握手する太平洋軍艦隊付海兵隊司令官ガイガー中将。(ロッキー少将は)ガイガー中将の後継者として第3水陸両用軍団の指揮をとる(1945年6月30日撮影)
Lt. Gen. Rey S. Geiger, commanding general of FMF, Pac, shakes hands on Okinawa with Maj. Gen. Keller E. Rockey who had just assumed command of the 3rd Amphibious Corps as successor to General Geiger

http://www.archives.pref.okinawa.jp/USA/335372.jpg
第383歩兵連隊I中隊の仲間から“エース“と見なされている5人の第96師団のテキサス出身兵士。“エース“とは5人以上の日本人を殺した者のこと。下からウィルキンス2等軍曹、ウェルフェル上等兵、グロース上等兵、クレッパー上等兵、リナード上等兵(1945年6月30日撮影)
Five 96th Division Texans are considered ”Aces” by their buddies in Company ”I”, 383rd Infantry Regiment, an ace being anyone who killed five or more Japs. From bottom to top: S/Sgt. Vernon Z. Wilkins, 101 Chicago St., Delhart; Pfc. Albert Welfel, El Campo; Pfc. Richard S. Groce, 318 Lafitte St., San Antonio; Pfc. Roy D. Clapper, Florey; and Pfc. Russell Linnard, Pharr. All are from Texas.

掃討作戦
『掃討戦は、6月30日予定より早く、成功裡に完了した。この作戦で、米軍はまず、南部の第1作戦地域で、いまは組織もなく、孤立化した日本軍の陣地をいくつか片づけた。洞窟は火炎放射器や爆破隊のために、幾百人の日本兵が中に入ったまま、そのまま入口を封鎖された。ところが、一方、武装した日本兵が、米軍前線を突破して、北部に抜けようとして、数回にわたって血みどろな戦闘が展開された。米軍は大がかりな偵察隊をくりだし、キビ畑や水田にひそんでいる日本兵1人1人を狩り出した
米軍が進撃方向を北に変えてからは、日本兵はしだいに少なくなり、最後である第3期作戦も、比較的容易に達成することができた。
月末までに、この掃討戦で米軍はおよそ8975人日本兵を倒し、また2092人を捕虜にし、906人の労役兵を狩り集めた。
その他、莫大な量の物資や兵器を戦利品として捕獲した。米軍の損害は、6月23日から30日までのあいだに783人だったが、そのほとんどは、掃討戦を開始して最初の3日間で起きたものだった。』(515頁)
《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 515頁より》
http://ibiblio.org/hyperwar/USMC/USMC-M-Okinawa/img/USMC-M-Okinawa-p268.jpg
27TH DIVISION PATROL scouts a stream bed during the three-month mop-up drive in northern Okinawa. (Army Photograph)
『…米軍は、ダニのように海岸の岩山にへばりついている敗残兵に対して、摩文仁台上からの攻撃では功を奏しないと見て、海岸から水陸両用戦車を乗りつけてきた。しかも火焔放射器をはじめ手榴弾や黄燐弾まで動員してせん滅戦に打って出た。勝者にとって、敗残兵狩りは最も愉快なスポーツだろう。身を危険にさらすことなく、遊び半分に、標的を探しては腕だめしをすることが可能だからである。
彼らは、陽に赤く焼けた上体もあらわに、自動小銃を小脇にかかえ、数メートルも離れぬ地点へひょっこり現れることもあった。そんなとき私は、見つかったら最後と、岩陰で身動きもせず、手榴弾の安全栓を抜いて身構えた。そんな切迫した危険な状況下で、脅えながらも相手の胸毛の多いのに関心したり、赤く焼けた皮膚に、これでは白人でなく赤人だなと思ったりもした。今だ!一発の手榴弾でいともたやすく相手が殺せると思っても、投げる気はしなかった。大の男が剽軽に口笛を吹きながら、傍若無人ぶりなのを見てはなおさらのこと。』(194-195頁)
《「鉄血勤皇隊/少年たちの沖縄戦 血であがなったもの」(大田昌秀著/那覇出版社) 194-195頁より》

〝沖縄〟という米軍基地の建設
『…沖縄の軍用地は、沖縄戦の過程で、米軍が日本本土侵攻作戦を遂行する目的で占拠したのが始まりである。そして敗戦後は、住民を民間人収容所に隔離している間に、沖縄本島の10%ほどに相当する、約124平方キロメートル(1951年当時)の巨大な領域を囲って、軍事基地として使用した。』(113頁)
《「沖縄、基地なき島への道標」(大田昌秀/集英社新書) 113頁より》
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/7/77/Okinawa_airfields_1945.jpg
1945年12月31日時点で建設済の米軍飛行場
(投稿者注: 「MACHINATO(牧港)」の滑走路は、建設したものの「ABANDONED(放置された)」とある)
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第72、第78、第82、第87海軍建設大隊によって建設中のボロ[読谷]飛行場(1945年6月30日撮影)
Aerial view of Bolo Airstrip under construction by 72nd, 78th, 82nd and 87th Naval Construction Battalion. Okinawa, Ryukyu Retto.
投稿者註: 「ボロ飛行場」とは、読谷村残波岬に建設されたものであり、読谷飛行場とは別である。

http://www.archives.pref.okinawa.jp/USA/14-44-2.jpg
ボロ[読谷]飛行場。(1945年6月30日撮影)
投稿者註: 「ボロ飛行場」とは、読谷村残波岬に建設されたものであり、読谷飛行場とは別である。

http://www.archives.pref.okinawa.jp/USA/14-40-2.jpg
沖縄の南寄り普天間の西海岸沿いのくずで覆われた丘を切り取って作られたB-29スーパーフォートレス専用滑走路。長さ7,500フィート、幅200フィート、石灰岩で覆われたこの重爆撃機滑走路は1945年6月15日に第806工兵航空大隊によって建設された。(1945年6月30日撮影)
B-29 “Superfortress“ strip being cut out of the crub covered hilly terrain at Futema on the west side of the southern half of Okinawa, Ryukyu Retto. This super bomber strip was constructed by the 806 EAB's on 15 June 1945. The runway was 7,500 feet long and 200 feet wide and the surface was made of crushed coral with coral rocks for the base.

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《AIによるカラー処理》本島西海岸、廃墟那覇の北に第7空軍のための滑走路を建設する第874及び第1906工兵航空大隊。でこぼこは平らにされ、ダンプカーは土台や仕上げ用の石灰岩を運び入れる。工事は6月1日から7月末日までの予定。沖縄、牧港(1945年6月30日撮影)
On the west coast of Okinawa, just north of the ruins of Naha City, the 874th & 1906th Engineer Aviation Battalion started to cut an airfield out of the hilly terrain for the 7th Air Force. The sub-case had been graded and dump trucks were bringing in coral sand and rock for the base and surface of the srtip, when this photograph was taken. Construction was begun on 1 June and the completion date was the end of July 1945. Okinawa, Machinato.
投稿者註: 「本島西海岸、廃墟那覇の北」とは、現在の浦添市にある米海兵隊基地キャンプ・キンザー(牧港補給地区)一帯のことであり、当時、米軍が滑走路を建設した場所は、現在、国道58号線沿いに立ち並ぶ米陸軍の倉庫群一帯である。

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《AIによるカラー処理》上陸用舟艇や中型上陸艇からの荷揚げを容易にするために建設された上陸用桟橋は、船の近くまでトラックを寄せられるようにと海に突きだして作られた。沖縄。(1945年6月30日撮影)
Constructed by the NCB's, to facilitate unloading of LSTs and LSMs, coral built road jetties were built into the water to enable trucks to move up to the ships for unloading of their cargo. Okinawa.

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物資の運搬を容易にするコンベヤラインを持つタレ通りの物資補給所のクラスI集積所。(1945年6月30日撮影)
The Quartermaster Class I dump on Tare Street has a conveyor line in operation to facilitate the movement of supplies.

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1945年6月30日から始まったガソリンやオイルの補給地区。ここから以前は積荷役大隊、現在は第4474兵站部隊によって、60-80オクタンガソリンと10-30-50潤滑油が全部隊へ分配される。沖縄。(1945年6月30日撮影)
Rows of gas and oil drums in the supply area from which they were issued by the 4474th QM Depot Company, and formerly by the Bulk Service Battalion, started 30 June 1945. 60-80 octane gas and 10-30-50 lubricating oil was issued to all outfits. Okinawa.


第32軍の敗残兵
日本軍残党
国吉(くによし・くにし): 歩兵第32連隊第1大隊(大隊長・伊東孝一大尉)
『…数日間、大隊本部の壕は敵の掃討を受け続け昼は各隊が洞窟の入口で激しい銃撃戦を繰り広げつつ、辛くも陣地を保持していた。夜になると、各隊から連絡があった。敵は夜になると引きあげていくようで、遮二無二になって攻撃してくることはなかった。
聯隊本部と連絡が途絶えて1週間が経った頃、聯隊長以下70名も伊東たちと同じように洞窟で戦闘をしていることがわかった。伝令を派遣し、全般の状況と師団長の様子を尋ねたが、「わからぬ」との返事だった。
(不明なら不明で、伝令を派遣して確かめるべきでないか)
伊東は次いで樫木副官を派遣した。聯隊付の将校に、師団司令部と速やかに連絡をとり、全般の状況を確かめてほしいと具申した。しばらくして、聯隊本部から斥候が来て報告した。
司令部の壕は破壊され、黒焦げになっていた。師団長は戦死されたらしい」
6月30日のことだった。』(250-251頁)
《「沖縄戦 二十四歳の大隊長 陸軍大尉 伊東孝一の闘い」(笹幸枝/Gakken) 250-251頁より》

陸軍第24師団
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太平洋戦争末期の沖縄戦。日本軍の主力部隊として最前線に立った「陸軍第24師団」は、北海道出身者を中心とした部隊で、徹底した持久戦を命じられた。アメリカ軍との戦いで敗北が決定的になってもなお、“最後の一兵に至るまで”戦い続けることを求められた。
9割の将兵が戦死した沖縄戦とは、どのような戦いだったのか。生還して故郷・北海道に戻ることのできた元兵士たちの証言から伝える。
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糸満市宇江城にあるクラガー。もともと集落の水汲み場として使われていましたが、第24師団が後退してきてからは、その司令部がおかれました。糸満市史には住民の犠牲者について、アメリカ軍の攻撃だけでなく、日本軍によるガマからの追い出しや虐殺があったことが記されています。
『入り口にいた老婆が方言まじりで返事をしたら、すぐに老婆は軍刀で首を切り落とされたのです』
65年前のきょう (1945年6月30日) 第24師団司令部は周囲をアメリカに包囲され、雨宮巽師団長が自決。しかし、雨宮師団長は師団の解散前にこう訓示していました。
「最期の一兵に至るまで敵に出血を強要すべし。いやしくも敵の虜囚となり、恥受くるなかれ。最期の忠誠を全うすべし」
最期の一兵まで敵と戦い、捕虜となってはいけないという雨宮師団長の言葉は、師団の解散後も兵士や住民たちを死へとおいやることになったのです。


そのとき、住民は・・・
遭難した疎開民 ①
沖縄本島で戦闘がほぼ終わった昭和20年6月30日の夜、石垣港の埠頭は、台湾に向かう疎開に乗船する住民で慌ただしかった。疎開船として使用されたのは、第一千早丸(友福丸) と 第五千早丸(一心丸)で、船内は足を伸ばすことができないほど人がいた。
石垣島では、米軍の空襲を避けるために山地疎開が行われ、波照間島(はてるまじま)では西表島(いりおもてじま)への強制疎開で住民がマラリアと飢餓で地獄の苦しみを味わっていた。この疎開船は一週間ほど前に軍から出された台湾疎開命令を受けてのものだった。30日午後9時ごろ、2隻の疎開船は石垣港を離れ、一路、西表島の船浮(ふなうき)港へ向かった。(戦禍を掘る・尖閣諸島)
《「証言 沖縄戦 戦禍を掘る」(琉球新報社) 125-126頁より抜粋、一部要約》

小浜島(こはまじま): 戦争マラリア
http://www.nhk.or.jp/okinawa/okinawasen70/picture/style/img/detail57_img.jpg
沖縄戦の絵】「小浜島 マラリアの死者を運ぶ村人」
『…戦時中、自宅のある小浜島の細崎から2キロ離れたアカヤ崎の海岸近くに避難していたが、戦争が終わり再び細崎の自宅に戻った。しかし家は焼かれて無くなっていた。戦争を生き延びても、マラリアで命を落とす人が続出した。毎日、ゴザにくるまれて運ばれていく遺体の光景が、…目に焼き付いている。』

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