2019-06-09

あの夏、僕は母と妹を殺した。70年間、語ることのできなかった戦争の記憶



あの夏、僕は母と妹を殺した。70年間、語ることのできなかった戦争の記憶




あの夏、僕は母と妹を殺した。70年間、語ることのできなかった戦争の記憶

旧満州から引き揚げた人たちの「戦後」とは。
2017/08/15 06:31

Kota Hatachi
籏智 広太 BuzzFeed News Reporter, Japan




妹と母を殺めた罪悪感から、いままでずっと、逃れることができなかった。
いまから71年前の夏。11歳の僕はふたりに、毒薬を飲ませた。

「僕の戦争は、8月15日よりあとに始まったんです」


京都市に暮らす村上敏明さん(82)は、BuzzFeed Newsの取材にそう語る。1934(昭和9)年、いまの京都府亀岡市生まれ。満州からの引揚者だ。

妹と母を捨てて、僕が生き残っているようなものなんですよ」

ぽつり、ぽつりと言葉を探しながら。村上さんは自らの記憶を、ゆっくりと紐解き始めた。


Kota Hatachi / BuzzFeed






村上さんは1938年、4歳のころ、両親と弟の4人で満州に移住した。市役所に務めていた父親が、「給料が2倍になる」として選んだ新天地だった。


村上さんが生まれた年に、中国東北部に成立した人工国家、満州。

満蒙開拓団やビジネスマンたち……。父親と同じように、「新国家」での成功を夢見て多くの日本人が旅立っていった。数年後、不幸な未来が待っていることも知らずに、だ。


「新京は賑やかでしたね。繁華街にあるアパートで、『日本橋通り』にも近かった。皇帝・溥儀が家の前を行進して、母親に怒られながらもこっそり覗いたことがありましたよ」


村上さん提供
満州に暮らしていたときの村上さんと母親、そして末の弟


満州国の首都だった新京などで暮らしていた村上さん一家。父親は「国際運輸株式会社」という運送会社に勤めており、その転勤に伴い、1942年には四平という町に引っ越した

新京と同じように、計画して作られた都市のひとつだ。中心部にはロータリーがあり、道路は碁盤の目に整備されていた。レンガ造りの街並みが美しかったという。

街は、南満州鉄道の線路を境に、日本人街と中国人街に区切られていた。路上でみかけた中国人を、いじめることもあった。

「チャンコロと呼んでね。みんなで殴りかかったり、石を投げたりしたこともありました。こっちを見ていたら『警察に通報するぞ』とちょっかいを出したり。今思えば、下に見ていたんでしょうね」

自転車屋だった親友の家には「少年倶楽部」などの雑誌や本がたくさんあり、毎日のように読みふけった。冬は凍った道路でコマ回しをしたり、水を撒いた校庭でスケートをしたりして、過ごした。

戦争は、どこか遠い国で起きていることのように思えた。
流れ始めた不穏な空気


Fox Photos / Getty Images
1945年3月の満州・新京駅


「『白金は武器になる』という標語のポスターを描いて、入賞したこともある。敵の戦艦が割れて海に沈むような絵で、駅前の銀行に貼ってもらってね。嬉しかったですよ」


本土での空襲が始まり、敗戦色が濃くなっていた1944年ごろになっても、満州の市民に戦争の影は及んでいなかった。

特に、四平は肥沃な農地を抱える地域だ。街のまわりには高粱畑(モロコシ畑)が広がり、大豆もよく取れる。食べ物に困った記憶はないという。

それでも、1945年になると不穏な空気が流れ始めるようになる。

5月には、大人の男性が「根こそぎ徴兵」されていなくなった。妹の芙美子が生まれた直後だったが、父親も、やはり動員された。
「家の前には線路があったんです。徴兵されたばかりの兵士たちが、貨物列車に載せられて、ぎゅうぎゅう詰めで北に向かっていくのをよく見ましたよ」

時を同じくして、「日本は負けるんじゃないか」という噂が聞こえるようになってきた。

「僕はそんなこと、考えたこともなかったけれど。『これを誰かに話したら、癩(らい)病になる』となんて言われていましたね」


家にはラジオがなかったので、情報がほとんど入ってこなかった。8月の頭、「広島が新型爆弾でやられた」という話を、友人伝いに聞いたくらいだ。

1945年8月9日。ソ連が日ソ中立条約を破り、満州への侵攻を始める。村上さんにとっての「戦争」が、始まろうとしていた。
そして街は、戦場になった


村上さん提供

四平にいたころの同級生たち


「この頃でしょうか。大人に言われて、空の監視を命じられたこともありました。満州の夜空は綺麗ですからね、星なのだか飛行機なのだかわからない、不思議な気分になりました」


8月15日、日本は降伏した。村上さんが敗戦を意識するようになったのは、それより少し後。ソ連兵が町に侵攻してきてからだ。

町中では、聞いたことのない発砲音を耳にするようになった。女性が襲われる、強奪に遭うから家に兵隊を入れてはいけない、という噂も回った。

「一度、家にソ連兵がふたり来たことがありました。母親がいないときで、私が戸口に出て『うちには何もない』と言って追い返したけれどね。弟と妹たちは部屋の隅っこで震えていた」

前線に向かった父親の行方はわからないままだった。母親が、がんもどきをつくっては繁華街で立ち売りし、糊口をしのいだ。


翌年3月に入ってソ連軍が満州から撤退を始めると、中国の国民党軍と共産党軍の内戦が本格化するようになる。四平も否応なく、その戦闘に巻き込まれた。


「妹をおぶって家の前で遊んでいたとき、目の前に砲弾が落ちてきたこともあった。近くにいた女性の目に当たって、女性は失明してしまいました」

街の中心部には迫撃砲による攻撃が加えられ、毎日のように煙が上がっていた。同級生や母親の友人が亡くなった。郊外だった家の前で両軍による銃撃戦が起きたこともあった。

それでも、不思議と恐怖は感じていなかったという。

「夜になると打ち上がる照明弾は、花火みたいに綺麗だった。夢の世界の中にいるような、現実ではないような生活がずっと続いていたから、感覚が麻痺していたのかもしれませんね」
妹は目を見開いて、僕をにらんだ


Keystone / Getty Images
内戦末期、上海を行進する中国共産党軍(1949年)
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村上さんのように、日本の「外地」とされていた満州や朝鮮半島、台湾などの地域に取り残された人たちの国内への「引き揚げ」は困難を極めた。


満州では、ソ連の侵攻や中国で始まった国共内戦による混乱により、引き揚げ事業がなかなか進まなかった。取り残された100万人以上の引き揚げが本格化したのは、終戦から1年ほど経った8月のことだ。/

その間、戦闘に巻き込まれて命を落としたり、暴徒や兵士に暴行や略奪を受けたりした人は少なくない。さらには食糧難や病が、帰る術をもたない人たちを襲い、20万人以上が命を失った。/

村上さんも、そうした死と隣り合わせの状況から、逃れることはできなかった。/

こんな記憶がある。家のなかで、数人の大人たちと弟2人に囲まれて、母親が抱きかかえた妹に、スプーンを使って瓶に入った液体を飲ませた情景だ。/

「妹は、スプーンですくった透明の液体をなめると、閉じていた目をくっと見開いて、私をにらんだんです。そしてそのまま、息絶えた」/

飲ませたのは、毒だった。
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「引き揚げが決まったものの、長い道中、幼子は連れて帰ることはできないということになったのでしょう。母親も少しは抵抗したかもしれない。でも、結局は断ることができなかった」/

父親が徴兵され、母親が物売りに出るなか、妹のお守りを任されていた。いつも背中に乗せていたからなのか、表情の記憶はあまりない。/

村上さんは悔しそうにつぶやいた。/

「毒を飲ませた時の表情しか、覚えていないんですよ。そしてそれが、忘れられない」/

小さな亡骸は、家のすぐ近くの川沿いに土葬をした。/
母は口から泡を吹き出し、息絶えた///


[만주에서는 소련의 침공과 중국에서 시작된 국공 내전에 의한 혼란으로 (일본인) 인양 사업은 좀처럼 진행되지 않았다. 남겨진 100 만 명 이상의 (일본인) 인양이 본격화 한 것은 종전 1 년 정도 지난 8 월의 일이다.  다시 전투에 휘말려 목숨을 잃거나 군중과 군인 폭행과 약탈을 받기도 한 사람은 적지 않다. 또한 식량난과 병 때문에,  일본으로 돌아가지 못해 사람들의  20 만 명이상이 목숨을 잃었다. 

무라카미 씨도 그러한 죽음과 이웃 상황에서 벗어날 수 없었다.

이런 기억이 있다. 집안에서 몇 명의 어른들과 형제 2 명에 둘러싸인 어머니가 껴안은 여동생에게 숟가락을 사용하여 병에 든 액체를 먹이는 정경이다.  

"여동생은 숟가락으로 뜬 투명한 액체를 핥을 때 닫혔던 눈을 크게 뜨고 나를 노려 보았어요. 그리고 그대로 숨젔어요." 

먹인 것은 독이었다 . 

 "인양은 하기로 되어 있었지만, 일본으로 돌아가는 먼 길에 어린 아이는 데려 갈 수 없다는 것이었습니다. 어머니도 조금은 저항했을지도 모릅니다. 하지만 결국은 거절 할 수 없었습니다."

아버지가 징병되어 어머니가 행상에 나오는 가운데, 내가 여동생의 돌보는 일을 맡아 있었지요. 항상 등에 업고 있었기 때문인지 표정의 기억은 별로 없습니다."
 
무라카미 씨는 분한 듯이 중얼 거렸다. 
"독을 먹인 때의 표정 밖에 기억이 없어요. 그리고 그것은 잊을 수가 없어요. " 

작은 시신은 집 근처의 강가에 매장을 했다. / 어머니는 입에서 거품을 분출하고 숨젔다. ]


村上さん提供






10年ほど前に再訪した四平。妹を土葬した場所には、日本から人形と花を持って行って手向けた


1946年7月7日、列車で四平を発った。そこからの記憶は途切れ途切れだ。ただ、娘を失った母親はみるみる衰弱し、立つことすらままならなくなっていた、という。


「無蓋列車にシートを被せた車両のなかで、じっと横になった母親は、『芙美子、芙美子』とうなされていました」

約400キロ、数日間を列車に揺られ、引き揚げをする日本人が集められた葫蘆島(いまの遼寧省)へたどり着くと、母親は病院に収容された。弟とともに看病をしていたが、会話もできないほど弱り切っていた。

1946年8月6日。医者から普段とは違う粉薬を手渡された。村上さんがそれを口に流し込むと、母親はすぐに口から白い泡を吹き出して、息を引き取った。

「引き揚げ船に乗ってから亡くなる人は多かった。なんども水葬を見ましたからね。病気だった母親は、旅を乗り切れないという医師の判断で、安楽死させられたのでしょう」

2人の弟たちとともに、遺体の側に横たわった記憶がある。34歳だった母親を、海が見える小高い丘に埋めた。周囲にも同じように、穴を埋めたあとがあった。

弔いのように流れた汽笛の音は、いまも耳に残っているという。

「母を失ってから、泣いたり慟哭したりした記憶が、一切ないんですよね。感情が奪われていたのかもしれません」

翌日に葫蘆島を発ち、8月のうちに、村上さんたちは京都にたどり着いた。

引き揚げの間に弱り切った9歳の弟は、母と妹の後を追うように、5ヶ月後に病死。シベリアに抑留されていた父親が帰国したのは、1948年のことだった。
語ることのできなかった記憶


Kota Hatachi / BuzzFeed

妹と母親を、殺めてしまったという記憶。

罪の意識に苛まれていた村上さんは、妻や自分の子どもたちにもこの経験を話すことができなかった、という。

「僕は、罪を犯した。なぜ抗うことができなかったのか、どうにかして生かすことができなかったのか」

長年、抗鬱剤や睡眠薬の処方を受けている。自分では、戦争体験によるPTSDだと思っている。

「いまだに、大声で心の底から笑ったり、泣いたりすることができない。夢も全部、悪夢ばかりですよ」

それでも、70年が経ってようやく少しずつ、体験を語ることができるようになってきた。
「なかったことには、できませんから」

戦争を語れる人たちが少なくなってきたいま、自らが語らなければならない、という責務を感じるようになった。

今年4月、朝日新聞に自らの経験を記した投書をし、掲載された。SNSで大きな話題を呼び、講演の声もかかるようになった。村上さんは言う。

「戦争は悲しみしか生み出さない。ひとの命を奪い、生き残ったものには後悔の念しか残しません。こんなことを再び繰り返すことのないように。それが2人の遺言だと思って、話すようにしているんです。きっと、弔いにもなる」


Kota Hatachi / BuzzFeed






家の下には、毎年この時期になると、芙蓉の花が咲くようになった。数年前からだ。


「ある日、偶然気がついた。この花を芙美子だと思って、毎朝、おはようと声をかけているんですよ」

村上さんは淡いピンクの花弁を見つめ、優しい笑顔を浮かべた。


BuzzFeed Newsでは【戦時中の子どもたちは、どんな夏休みを過ごしていたのか】という記事も掲載しています。

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