2019-06-10

対話のために 「帝国の慰安婦」という問いをひらく

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対話のために 「帝国の慰安婦」という問いをひらく 単行本 – 2017/5/11
浅野 豊美 (編集), 小倉 紀蔵 (編集), 西 成彦 (編集), & 12 その他

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単行本
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商品の説明

内容紹介

〈正義の争い〉から〈対話の時間〉へ

朴裕河著『帝国の慰安婦』は、なぜ、これほど論争的な書となってしまったのか。
その論争の中身から何が見えてくるのか。
不毛な〈論争と対立〉をこれ以上続けないために、『帝国の慰安婦』が問いかける課題とどう向きあえばよいのか。
各分野の論者たちが自らの専門領域に引き寄せ、その論点を明らかにする。
批判の応酬を乗り越えたいという思いが可能にした、力作論集。

【本書の内容】
[編著者]
浅野豊美(国際政治)……普遍的価値の国民的価値からの独立と再融合への道
小倉紀蔵(韓国思想)……慰安婦問題における人間と歴史
西 成彦(比較文学)……戦時性暴力とミソジニー――芥川龍之介『藪の中』を読む

[著者]
東郷和彦(国際政治・元外交官)……外交官の目で読む『帝国の慰安婦』
外村 大(近現代史)……慰安婦をめぐる歴史研究を深めるために
中山大将(北東アジア地域研究)……なぜ〈数〉を問うのか?
四方田犬彦(比較文学)……より大きな俯瞰図のもとに――朴裕河を弁護する
熊木 勉(朝鮮現代文学)……韓国文学から見た慰安婦像、その記憶の形成
中川成美(日本近現代文学)……国家と性――文学を通して『帝国の慰安婦』を読む
加納実紀代(女性史研究)……「帝国の慰安婦」と「帝国の母」と
藤井貞和(日本文学・詩人)……『からゆきさん』と『帝国の慰安婦』
熊谷奈緒子(国際関係論)……朝鮮人「慰安婦」をめぐる支配権力構造
上野千鶴子(社会学)……『帝国の慰安婦』のポストコロニアリズム
天江喜久(台湾近現代史)……他山の石――台湾から『帝国の慰安婦』問題を考える
金 哲(東アジア近現代文学)……抵抗と絶望――主体なき主体に向かって

著者について

【編著者紹介】
浅野豊美(あさの・とよみ)、1964年生まれ。早稲田大学教授。専門は国際政治、日朝関係。
小倉紀蔵(おぐら・きぞう)、1959年生まれ。京都大学大学院教授。専門は韓国思想。
西 成彦(にし・まさひこ)、1955年生まれ。立命館大学大学院教授。専門は比較文学。



登録情報

単行本: 336ページ
出版社: クレイン (2017/5/11)
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4件のカスタマーレビュー

5つ星のうち4.1
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トップレビュー

ika

5つ星のうち5.0モヤモヤできる2018年4月6日
Amazonで購入
ここでとりあげられている朴裕河『帝国の慰安婦』は、一言で言えば、慰安婦をめぐる支配と抵抗、強制と自主、差別と被差別の問題を構造としてとらえてそれを批判的に論じたものである。

ところが、この本は韓国社会で発禁処分となり、著者が名誉棄損で訴えられている。『対話のために』は、『帝国の慰安婦』およびそれをめぐる諸問題について、15人の論者がさまざまな視点から考えぬいて書いた書評集というか論文集のようなものである。

単純化して言えば、15人の左派の論者が、いつもスッキリしたがって怒っている極左の人々をなだめたり叱りつけたりしながら、モヤモヤの世界に連れ出そうとする本である。

一人一人の分量が少ないため、その主張が濃密に圧縮されていて非常に読みやすいうえに読み応えがある。支配と抵抗、強制と自主、差別と被差別の問題を構造としてとらえると言われると、図式化されてスッキリして見えるかもしれないが、そうではない。

たとえば、植民地時代の日本語教育について「表面的に見れば朝鮮人が自主的に日本語を学ぼうとしていたように見えたかもしれないが、実は構造的には強制的に学ばされていたのだ」というように単純化して説明できる話ではないのである。現実というものは、もっともっと複雑でモヤモヤしたものなのである。

そうしたことがよくわかると同時に、どうやってその構造を捉えて考えていったらいいのか、どうやってモヤモヤし続けるのか、どうやってモヤモヤに耐え続けるのか、モヤモヤにはどれほどの意味があるのか、などなどを読者自身が考えさせられるような内容になっている。

自分がスッキリしたくない・モヤモヤしたいと思っている人、世の中の人びとをスッキリさせたくない・モヤモヤさせたいと思っている人には必読の書である。

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イエスちゃん

5つ星のうち5.0日本は誠実である「戦争責任と慰安婦問題」、ドイツや欧米に比較すると。問題は南北朝鮮の思考方法。2019年3月3日

日本は立派である「戦争責任と慰安婦」、ドイツや欧米に比較すると。
ドイツでは、「ドイツ国家・ドイツ国民」は戦争責任を取らない。みんなナチス・ヒトラーの責任にしている。
自分の責任として認めない。だから、認罪しない、当然、謝罪しない。
ただ、自分ではない他人の「ナチス・ヒトラーの犯罪」を「記憶するだけ」を世界に約束しているだけである。
つまり、騙しである。事実は、ドイツ国家・ドイツ国民自身が、これらの犯罪を犯しているのだから。
具体的には「ドイツ国軍」もナチスと同じ犯罪を犯している。ユダヤ人を大量に殺害している。
同様に、「ドイツ政府と警察」によって組織的な「慰安婦」制度も実行している。
ドイツ人と混血が起こらないために、非ゲルマン人「慰安婦」。大量の強制労働者をドイツ国内に入れるが、それに対する非ゲルマン人「慰安婦」の導入。ユダヤ人収容所内部でのユダヤ人「慰安婦」。
しかし、ドイツでは、「慰安婦」問題はタブーとされ、研究は妨害されている。
世界で、日本だけが「河野談話」で正式に、「韓国に対して日本軍の強制連行ではなく(強制連行は事実でないから)」て「広い意味で強制性があった」と認罪し、謝罪した。これは日本人の思考方法で行った。

問題は「南北朝鮮の思考方法」にある。
李氏朝鮮が国教とした「悪しき朱子学の思考方法」から抜け出すことが出来ていない。更に悪化している。
世界に「理」が貫いているという虚構から、朝鮮を「正義」「善」日本を「悪」として断罪するだけである。
「朝鮮半島の社会自体に問題がある」事実を見ない。男尊女卑、家父長制で売り飛ばしが起こっている。
朝鮮人自身が騙して日本軍「慰安婦」にするケースがほとんどである。

韓国内の在韓米軍の朝鮮人「慰安婦」と同じ構造である。現在は朝鮮人からフィリッピン慰安婦などに変っているが。
また、韓国政府が、かつて、性病の管理や、外貨獲得の為に、奨励までした。
ヴェトナム戦争では、韓国軍に対して「性的な慰安部隊」まで送った。
韓国自身の行った「慰安婦」を隠して、日本だけを責めるのも「南北朝鮮の思考方法」による。

自己にだけ「正義」を置き、それに反する事実を見ないようにする。これが「悪しき朱子学の思考」である。
著者の一人、小倉紀蔵氏は、韓国の大学で「朝鮮の朱子学」の研究を行い、この根源悪思考回路を白日に曝した。
講談社新書にある。

特に、最後の金哲氏の論文「抵抗と絶望 主体無き主体に向って」は本当に素晴らしい。

なお、日本は東京裁判の判決(judgment)を受諾した。サンフランシスコ講和条約で。
ドイツは、ニュルンベルク裁判の判決の受諾を、最後まで拒否した。
そしてドイツ国内で、最高裁判所は「ニュルンベルク裁判の判決」を無効とした。

日本は、ドイツなどと比較して数段高貴である。これが、日本人の精神である。
「村山談話」は個人の談話でなない。「閣議決定」である。そして、歴代の内閣で、次々と継承している。
戦争責任と植民地支配を認罪し謝罪した。

問題は、「南北朝鮮」の「悪しき朱子学の思考方法」にある。残念だが、これに同調する日本人がいる。
日本は、日本人は「アジア女性基金」を起こし、日本政府と日本国民は誠実に日本軍「慰安婦」に取り組んだ。
台湾、フィリッピン、インドネシア、オランダは、受け入れた。ただ、韓国だけが拒否した。

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うちのネコさん

5つ星のうち5.0「水に落ちた犬を打つな」(四方田犬彦、P.112)2018年6月7日

「水に落ちた犬を打て」という言葉を魯迅の言葉として理解していて(魯迅の文章・小説は、今もってほとんど読んでいないと
思います)、その言葉をずっと(学生時代から40数年間)不可解に思っていたのですが、本書の四方田犬彦の文章で、やっと
理解することができたと同時に、標題の言葉の方が良いなと感じます(歴史的背景等の考慮がいるような感じはします、絶対的
真理はないでしょうから)。その部分の文章を、「帝国の慰安婦」を論じた文章と共に、最初に引用します。

本書(『対話のために-「帝国の慰安婦」という問いをひらく』(浅野豊美・小倉紀蔵・西成彦編著、2017年5月15日 第1刷発行、
クレイン))を引用とコメントで紹介します。本書は昨年の5月に発行されてすぐに購入したのですが、読むのが遅れて今になって
しまいました。啓発的な論稿ばかりで全てを紹介したいくらいですが、そうもいきませんので、選択・抜粋で紹介します。また、
書評者は、朴裕河著『帝国の慰安婦』は読んで、Amazonにも「書評」を書いていますが、その内容が本書の人々の主張とそれほど
かけ離れていないので、まあまあかなと思っています。しかし、その主張は複雑多岐にわたっていますので(「単純」にすれば、
何でもそうですが、「単純」にはなります、しかし、「単純」は往々にして「間違い」に通じますから気を付けないといけません)、
簡単に要約・解説というわけには行きませんので、引用で代替ということにします。
韓国(or 日本)での「挺対協」系の人々の主張の書籍も読んでみようとは思っています。日本の「右翼」の人々の主張はどう
でも良いです、彼等には基本的に「知性はない」と考えていますから、時間の無駄です(代表は、あの安倍晋三さんでしょう)。

傍点・傍線は、≪ ≫で代替します。

●「より大きな俯瞰図のもとに--朴裕河を弁護する 四方田犬彦」(P.91 ~ P.112)

即引用に入ります。一点、四方田犬彦の文章は今までも何回か読んだことはあると思います(岩波の雑誌『世界』等で)が、
あまり記憶に残っていません(『世界』で、台湾の「ひまわり運動」のルポがあったような気もしますが、不確かです)。
本論稿はけっこう面白いですので、お勧めです。本棚に、彼の分厚い『白土三平論』(作品社)がありますが、未読です。

    「5

     日本が中国を侵略していた時代のことである。上海では国民党によるテロが横行していた。

     あるとき魯迅の弟が、いくら犬が憎くても、水に落ちた犬をさらに打つことは感心しないねといった。別の人物がそれ
     を支持して、中国人には昔からフェアプレイの精神が欠けていると論じた。犬と戦うには、犬と対等な立場に立って
     戦うべきであり、苦境にある犬を攻撃するのは卑怯であるという考えである。

     魯迅は烈火のごとく怒った。たとえ水に落ちたとしても、悪い犬は絶対に許してはいけない。もしそれが人を噛む犬で
     あれば、陸上にいようが水中にいようが関係ない。石を投げて殺すべきだ。中国人によくあるのは、水に落ちた犬を
     かわいそうと思い、つい許してやったために、後になってその犬に食べられてしまうという話ではないか。犬が水に
     落ちたときこそいいチャンスではないか。

     恐ろしい言葉である。つねに国民党政権に生命を狙われ、友人や弟子を次々と殺されていった知識人にしか口にする
     ことのできない、憎悪に満ちた言葉である。

     だが最近になって、わたしは魯迅のこの考えにいくぶん距離を抱くようになった。なるほど彼をとり囲んでいた状況
     は苛酷だった。だからといって敵に対し熾烈な憎悪を向け、その殲滅を願うだけで、はたして状況を好転させること
     ができるだろうか。わたしがこう書くのは、70年代に新左翼の各派が相互に殺し合いを続けてきたのを、どちらかと
     いえば間近なところで眺めてきたからである。わたしは尊敬する『阿Q正伝』の作者にあえて逆らっていいたい。
     今こそ犬を水から引き揚げ、フェアプレイを実践するべき時だ。少なくとも憎悪の鎖を断ち切るためには。

     1930年代の上海から2000年代のソウルと東京まで、人は何をしてきたのだろうか。

     誰もが水に落ちた犬を目ざとく見つけると、ただちに恐ろしい情熱を発揮して、溺れ苦しむ犬に石を投げることを
     してきた。彼らはもし犬が普通に地上を徘徊していたとしたら、怖くてしかたがないものだから、けっして石を投げ
     なかったことだろう。ところが、いかに罵倒の言葉を投げかけ石を投げたところで、わが身の安全は確保されたと
     ひとたびわかってしまうと、態度を豹変してきた。ここには純粋の憎悪がある。だが魯迅の場合とは違い、その憎悪
     には必然的な動機がない。それは集団ヒステリーと呼ばれる。

     朴裕河が従軍慰安婦問題をめぐる著作を韓国で刊行したとき何が起きたか、ここで冷静にもう一度考えてみよう。
     ずさんで恣意的な引用をもとにして刑事訴訟がなされ、彼女は元慰安婦の一人ひとりに多額の慰謝料を払うことを
     命じられた。そればかりか、勤務先の大学からは給料を差し押さえられ、インターネットでの嫌がらせはもとより、
     身の安全においても危険な状況に置かれることになった。文字通り、心理的に生命の危険に晒されているといって
     よい。
     
     だが、まさにその時なのだ。韓国人と在日韓国人によって熾烈な攻撃が開始されたのは。これこそ、水に落ちた犬に
     投石する行為である。

     彼らの一部は、日本において朴裕河が高く評価され、少なからぬ知識人がその著作に肯定的な態度を示したことを
     疑義に感じ、それを揶揄し、その「殲滅」を求めて行動を起こしている。朴裕河が慰安婦の証言資料を恣意的に
     解釈し、歪曲していると主張して、彼女がこの問題をめぐって永久に口を閉ざすことを求めている。朴裕河を支持
     する者たちは彼女が韓国にあって被った法的受難と社会的制裁をまず解決し、フェアな議論の場が成立したことを
     待って、大日本帝国の罪状と被植民者の状況について討議探求を開始すべきであると友好的に考えているのに対し、
     支持者を非難する側は勝ち負けの次元において声高い扇動を重ね、事情に通じていない日本の無邪気なメディアに
     働きかけている。

     では仮に彼らが「勝利」を獲得したとして、彼らは何を獲得したことになるのか。慰安婦問題に誠実な関心を寄せて
     きた日本の知識人の多くは、それを契機として問題からの離脱を示すことになるかもしれない。この問題を植民地
     支配と女性の人権蹂躙の問題として見つめようとする者たちがいっせいに後退してしまったとき、日本の世論に残る
     のは慰安婦の存在を否定し、植民地支配を肯定的に賞賛する右派の言説である。今日でさえ圧倒的な力をもつこの右派
     の扇動によって、「嫌韓」主義者はこれまで以上に跳梁跋扈し、さらなるヘイトスピーチの嵐が巻き起こることは
     目に見えている。当然の成り行きだろう。慰安婦問題をめぐる日韓の相互了解は、いかに両政府が金銭的な補償に
     よる合意に達したとしても、それとは無関係に、これまで以上に困難で錯綜したものと化すだけだ。朴裕河が果敢にも
     提示を試みた「より大きな俯瞰図」と、韓国の公式的記憶の相対化が排除されたとき、生じるのがそうした事態で
     あることは目に見えている。

     もし朴裕河の批判者たちに研究者としてフェアプレイの精神があるとすれば、まず韓国でなされている法的な措置に
     抗議し、その解決を待って真剣な討議に入るべきではないか。人は集団ヒステリーの罠に陥らないために、冷静に
     なってモノゴトの順序を考えなければならない。

     水に落ちた犬を討つな。」(P.109 ~ P.112)

●「「帝国の慰安婦」と「帝国の母」と 加納実紀代」(P.193 ~ P.212)

加納実紀代の著書は、たぶん一冊も読んでいません。文章はどこかで読んだことがありまして、その論旨の的確さ、鋭さ等を
記憶していましたが、この論考もすばらしいです。二つの節を全文引用します。他の節も含めて自分で読んでください。

    「◆『帝国の慰安婦』にみる底深い悲惨

     こうした認識は、『帝国の慰安婦』全体につらぬかれている。朴は朝鮮人慰安婦を「帝国の慰安婦」とし、戦争と
     いうよりも植民地支配に伴う被害者とする。占領地・戦闘地の中国や東南アジアの「慰安婦」は戦時性暴力の被害者
     だが、「植民地となった朝鮮と台湾の「慰安婦」たちは、あくまで「準日本人」としての「大日本帝国」の一員で
     あった」と言う。これはわたしには目からウロコだった。インドネシア等では「強制連行」を示す史料もあるが、
     なぜ朝鮮ではみつかっていないのか。なぜ拉致強姦のような性暴力(の証言)が中国や、フィリピン等に比べて非常
     に少ないのか。胸にわだかまっていたこうした疑問は、これで氷解する。植民地と占領地・戦闘地とはちがう。考え
     てみれば当たり前のことだが、それを「慰安婦」問題について指摘したのは、朴裕河以外にわたしは知らない。

     そして朴は言う。「もちろん実際には決して「日本人」ではあり得ず、差別は存在した。それでも彼女たちが軍人の
     戦争遂行を助ける存在だったのは確かである」。だとすれば朝鮮人「慰安婦」と日本兵は、あえていえば<同志的>
     関係である。そのなかでは日本兵との<恋愛>もあれば、日本の勝利を願う<愛国>もあるだろう。さきの文玉珠は
     日本の敗戦を知ったとき、一朝にして敗者となった日本軍人に涙を流している。「それまで「日本は世界でいちばん
     強いのだ。日本人はいちばん上等な人間なのだ」と言っていた軍人たちが、国が負けたら小さくなってしまっている。
     情けなかろうと思ったら、また泣けてきた。/そのときのわたしは、まだ日本人の心をもっていたのかもしれない」。
     「慰安婦」としての文は、まさに「準日本人」だったのだ。

     しかしこうした朴の主張は、韓国社会や日本の支援者の間に激烈な反撥と怒りを生んだ。ナヌムの家の元「慰安婦」
     により名誉棄損の訴訟も起こされ、朴は厳しい法廷にの場に立たされている。しかしわたしは、『帝国の慰安婦』が
     ひらいたものの奥深さと残酷さに言葉を失う思いだった。

     朝鮮人慰安婦が「準日本人」として「軍人の戦争遂行を助ける存在」だったということは、中国戦線での「殺し尽くし、
     焼き尽し、奪い尽くす」の三光作戦にみられるようなすさまじい侵略戦争の協力者にさせられたということだ。
     『帝国の慰安婦』には、性の相手だけでなく、国防婦人会のかっぽう着姿で傷ついた兵士の手当てをしたり洗濯をする
     「慰安婦」の引用もある。彼女たちが世話をした兵士たちは、民家を襲って食糧を奪い、女性を拉致強姦したかも
     しれない。戦時強姦は犯罪だったから書かれたものはないというのが通説だが、そんなことはない。かつてわたしは
     男性の戦争体験記を20冊以上読んだが、その中にはいやというほど中国戦線での強姦体験が書かれているものもあった。

     「帝国の慰安婦」であるということは、そうした兵士たちの、<悪行>をも支えたということなのだ。だとすれば、
     中国の民衆からみれば、日本名を名乗り日本の服を着せられた朝鮮人「慰安婦」は、憎悪と蔑みの対象だったかもしれ
     ない。ビルマの市場で日本の軍票を惜しげもなく使ってハイカラな服やダイヤモンドを買った文玉珠も、現地の人びと
     の怨みをかった可能性がある。日本軍敗退後、軍票はただの紙屑になってしまったのだから。

     かつて朴は「「あいだに立つ」とはどういうことか」で、日本軍捕虜だった元オランダ兵による一枚の絵を紹介して
     いる。その絵には、全裸の「日本人看護婦」が卑猥なジェスチャーをし、捕虜が少しでも興奮すれば監視員が彼の
     ペニスを打つという拷問の光景が描かれている。朴はその「日本人看護婦」が朝鮮人「慰安婦」であった可能性を
     示唆し、そのオランダ人には彼女が<加害者>として記憶されていることを指摘している。これについても支援者の
     間から批判がでた。全裸の女性が朝鮮人「慰安婦」だったかどうかはわからない。もしそうだったとしても、真昼間
     そういう姿を男たちの前に晒したとすれば、それ自体悲惨なことである。そんな批判もあったと記憶する。

     しかし朴がこの例をあげたのは、元オランダ兵にはその女性があきらかに<加害者>として記憶されていることに
     支援者の留意を促し、「複雑な関係網全体を克服する方法」(ドミニク・ラカプラ)を模索するためだったといえる
     だろう。

     ついでにいえば、朴も書いているように、棒を持った監視員が朝鮮人だった可能性は高い。アジア太平洋戦争開戦後、
     日本軍は大量の捕虜の監視役として植民地男性を動員した。その結果、日本敗戦後、過酷な捕虜の処遇の責任を問われ、
     BC級戦犯として朝鮮人148人が有罪となり、うち23人が死刑になっている。植民地支配による被害者でありながら、
     日本の加害責任を背負わされたのだ。そして生き延びた元戦犯たちをみる韓国社会の目は冷たいという。「親日派」と
     みなされたのだろう。

     「慰安婦」についても同様の構造はある。冒頭に書いたリブの言葉を思い出す。「そして前線では、従軍慰安婦が貞女
     の夫の排泄行為の相手=「便所」を勤め、性管理を通じて男を軍隊の秩序に従順で、人殺しに有能な「天皇陛下の赤子」
     として育てていったのだった」。これはあまりにも残酷な言葉だが、植民地支配のもとで「帝国の慰安婦」であると
     いうことは、たんに「性奴隷」として拘束的な日常の中で性行為を強要されるというだけではない。それによって侵略
     戦争を支えるという<加害>をも背負わされるということなのだ。これ以上の悲惨があるだろうか。

     朴が言うように、そこにある「被害者で協力者という二重の構造」、それによる究極の悲惨は、慰安婦だけでなく
     植民地のすべての構成員が強いられたものである。その悲惨から「協力者」を消去し、「被害者」としてだけ記憶する
     ことからは植民地支配がもつ悲惨の底にまでは届かない。朴裕河は孤立のたたかいに満身創痍、しかしそれでもなお
     その底深い悲惨の直視を呼びかけている。

     ◆「帝国の母」たち

この言葉を見ると、その昔読んだ『父の国の母たち-女を軸にナチズムを読む(上)(下)』(クローディア・クーンズ著、姫岡
とし子他訳、1990年刊、時事通信社)を思い出します。この本は、「第三帝国」において、そこの女たち、母たちが如何にナチス
体制に「協力」したかが、事細かく書かれていたことが思い出されます。引用を続けます。

     そのとき日本の女たちはどこにいるのだろうか。『帝国の慰安婦』は直接それには答えてくれない。「大日本帝国」の
     侵略拡大において、朝鮮女性が前線で「便所」として協力させられていたとき、日本の女は「母」として銃後にいた。

     わたしはここで、「日本の女には、7年間の貸しがある」という言葉を思い出す。作家田村泰次郎が中国戦線から復員
     して、第一声として放った「放言」である。田村は1940年から46年まで、一兵卒として中国山西省の戦場で過ごした。
     戦後すぐ、その体験をもとに捕虜になった中国女性との<恋愛>を描いた「肉体の悪魔」、朝鮮人「慰安婦」の日本軍
     兵士への熱情と死を描いた「春婦伝」を発表し、いちやく流行作家となっている。

     なぜ「日本の女には、7年間の貸しがある」のか。「戦地で私たちの相手になったのは、大陸の奥地へ流れてきた朝鮮
     の女性たち」だったからである。この言葉は、朴裕河が言うように朝鮮人「慰安婦」が「代替日本人」であったことを
     示すとともに、日本軍の男たちにとって、戦場での<性>は当たり前だったことを示してもいる。その相手は当然日本
     女性であるべきなのに、慰安婦としての「日本女性は数すくなく、ほとんど将校によって独占されていた」。そして
     圧倒的多数の女たちは国内にいて男たちの相手をしなかった。だから「貸しがある」というわけだ。この「放言」は
     田村によれば、敗戦直後の男たちの気持ちを代弁するものとして流行したという(『わが文壇青春記』新潮社、1963)。

     この言葉は女性からみるとどうなるだろうか。日本社会では<性>は男女の間に非対称性がある。<性>はたいてい
     日常生活を共にする男女の間で営まれるが、戦争は男女を前線と銃後に引き裂く。あしかけ15年続いた「昭和」の戦争
     では、軍は「慰安婦」をあてがって男たちに<性>を保障する一方、女たちには禁欲をもとめた。「貞女」として戦争
     のための人的資源の再生産を担わせるためである。リブの言葉を借りれば、「貞女は「日本の母」として銃後の支えを
     なしてきたのだ」。

     それらが「大日本帝国」が構築したジェンダー秩序だったから、前線で相手をしなかったといって女たちが責められる
     いわれはない。田村の「貸しがある」発言には、そうした男性中心の体制と、男の性欲を本能とする「男性神話」への
     安住がある。人間の性欲も文化的に構築されたものであることはつとに明らかになっているが、かつての橋下徹発言に
     も見られるようにいまも強固に生きている。

     しかし田村の「放言」に、全く聞くべき点がないわけではない。日本女性が「貞女」でいられるのは、前線の朝鮮人
     「慰安婦」あってのもの。田村の発言には、それに無自覚な女性たちへの批判も感じられる。「貞女」と「慰安婦」は、
     同じコインの両面とはいえ、そこには圧倒的な非対称性がある。「貞女」は社会的に認知され賞賛されるが、「慰安婦」
     は「醜業」視される。『帝国の慰安婦』で朴裕河が言うように、「性を提供する仕事は、たとえ制度的に問題がなかった
     としても社会的-心理的認知を受けられる仕事ではなった」。しかも彼女たちは「最前線でも爆弾と暴力に苛まれながら、
     兵士たちの欲求に応えなけらばならなかった」。

     田村はこの「放言」から20年近くのち、小説「蝗」でそうした朝鮮人慰安婦を描いている。朴裕河はこの作品を、
     「男女差別の上に、宗主国国民による植民地差別の構造」に支えられた「男性による女性の<手段化><モノ化>
     <道具化>の状態」を明かにしたものと評価している。

     「男性による女性の<手段化><モノ化><道具化>」は、「帝国の母」についても言える。しかし彼女たちの多くは
     「貞女」に安住し、「慰安婦」に対する眼差しを男たちと共有した。40年以上前、リブが言ったように、「貞女は貞女
     であることによって侵略を支え、貞女であることによって朝鮮の女に対する凌辱に加担したのだ」。

     これもまた、悲惨の極みではないだろうか。日本の女性たちは「貞女」として「銃後の護り」に努め励み、そのあげく
     に夫や息子を失い、空襲、原爆などの被害を受けた。これ自体悲劇だが、それによって侵略戦争を支え、「朝鮮の女に
     対する凌辱」への<共犯性>を問われる。「被害者で協力者という二重の構造」は「帝国の母」たちにもある。

     「帝国の慰安婦」と「帝国の母」に共通する「被害者で協力者という二重の構造」。その底深い悲惨から抜け出す道は、
     けっきょく女性を「母」と「便所」に分断利用する「帝国」の解体をめざすことからしか開けないだろう。

     それは過去の「大日本帝国」だけの問題ではない。『帝国の慰安婦』で朴は、日本に先んじてアジアを植民地支配した
     西欧諸国も性的慰安施設を容認していたことを指摘している。そこで働く女たちは、「家父長制と、自国の勢力を海外
     に伸ばそうとした帝国主義、そして帝国主義を支えた国家主義」によって海外移動を助長された貧しい女たちだった。
     「慰安婦問題とは、国家や帝国といった政治システムの問題であるだけでなく、より本質的に資本の問題」だと朴は
     言う。「慰安所は表面的には軍隊の戦争遂行のためのように見えるが、その本質はそのような帝国主義と、人間を搾取
     して利潤を残そうとする資本主義にある」。

     だとすれば、それは現在ただいまの問題である。朝鮮人「慰安婦」を「帝国の慰安婦」と見ることで、朴裕河は過去の
     「大日本帝国」のみならず、グローバル時代の現在までも批判する道をひらいたといえるだろう。」
                                                (P.205 ~ P.211)

やはり、諸悪の根源は、「金儲け」でしょうか。最近、グローバル・ヒストリーの一環としての「グローバル経済史」を放送大学
で学びはじめました(テレビを見るだけです)が、どうも、中国やインドが近代ヨーロッ以前に「栄えていた」とうのも、「GDP」
が高かった、商業が盛んだった等、といったことで、結局「交易が盛んだった」「金儲け」が盛んだったということで、ヨーロッパ
近代が「発明」した「自由・平等・博愛」「人権」「民主主義」等は、蔑ろにするという傾向の一端であるような気がしてしよう
がありません。トランプもいます。習近平は威張っています、それに擦り寄る安倍晋三。遠くて近いプーチンもいますから。
みんな、自由、人権、民主主義にはほど遠い人たちばかりです。マクロンもいかがわしそうですし、ドイツはどうなんでしょうか?

字数制限も近づいてきましたので、引用は止めて、興味深い論稿の題名だけ、下記します。上野千鶴子の論稿を引用できなかった
のは残念ですが。今回も上野千鶴子には、教えられました、「エイジェンシー」という言葉。自発性、内発、でしょうか、私の
好きな言葉ではあります、何事も「内発力」ですから(ちょっと使い方がちがいますが)。

●「普遍的価値の国民的価値からの独立と再融合への道 浅野豊美」(P.15 ~ P.28)

●「なぜ<数>を問うのか? 中山大将」(P.59 ~ P.87)

中山大将は、1980年生まれのまだ若い人で、サハリン残留日本人問題を研究しているようですが、啓発的な論稿です。サハリン
残留日本人の問題については、昨年、NHKスペシャルかBS1スペシャルで放送していたり、雑誌『世界』でもルポがありましたので、
書評者としても、認識し始めたところという状態です。これも、昔の厚生省の「不作為の責任」が、この問題の解決を長引かせて
いる原因であると理解しています。本論稿、一読を勧めます。

●「国家と性 文学を通して『帝国の慰安婦』を読む 中川成美」(P.149 ~ P.168)

●「戦時性暴力とミソジニー 芥川龍之介『藪の中』を読む 西成彦」(P.167 ~ P.189)

●「『帝国の慰安婦』のポストコロニアリズム 上野千鶴子」(P.243 ~ P.258)

●「他山の石 台湾から『帝国の慰安婦』問題を考える 天江喜久」(P.261 ~ P.274)

この天江喜久の論稿も啓発的です、一読を勧めます。

●「慰安婦問題における人間と歴史 小倉紀蔵」(P.275 ~ P.313)

●「抵抗と絶望 主体なき主体に向かって 金哲(キム・チョル)」(P.315 ~ P.332)

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サトぽん

5つ星のうち2.0題名は結構なんだが2018年5月29日

「豪華執筆陣」の「力作」が並ぶのに、まったく世間的な反響を呼ばなかったのは、ある意味、驚きであった。

発刊から二年ほど経っているので、本書が編集されたいきさつがよく分からないと言う方も多いのだろうが、2015年に東大で行われた、朴裕河の「帝国の慰安婦」を巡る「討論集会」で、「朴擁護派」と「朴批判派」の間の深い溝が知れ渡ったのだが、その一年後に「朴j擁護派」がフライング的に自身の言い分を、一方的に本にまとめてしまったもので、「なかなかやるもんですな、先生方」と評判になった。

編者の一人、小倉紀蔵氏は「朴擁護派」であることを、公言していなかったのだが、所収の論文によって、バリバリの『朝鮮人「慰安婦」身売り説』の信奉者であることが明らかになり、妙に納得したことを覚えている。

「対話のために」と言っておきながら、一方的に「批判派」との対話を打ち切ってしまったわけで、その不誠実さはともかくも、果たして執筆者の方々は誰と「対話」しようとしてるのだろうか。お見受けしたところ、少なくとも「被害者」と対話しようと望んでいる人は一人もいないようであったし、国内の「朴批判派」との対話からも早々と撤退するくらいなのだから、韓国の「朴批判派」との対話など、望むべくもないだろう。

たいして話題にもならなかったのは、これ幸いと言うところなのかもしれない。

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