韓国併合
韓国併合(かんこくへいごう、英: Japan's Annexation of Korea)とは、1910年(明治43年)8月29日、韓国併合ニ関スル条約に基づいて大日本帝国が大韓帝国[1]を併合した事実を指す。日韓併合、朝鮮併合、日韓合邦とも表記される[2]。この後、日本による統治は1945年(昭和20年)9月9日に朝鮮総督府が米国に降伏するまで、35年間続いた。
目次
[非表示]概要[編集]
朝鮮の歴史 | ||||||||||
考古学 | 櫛目文土器時代 8000 BC-1500 BC 無文土器時代 1500 BC-300 AD | |||||||||
伝説 | 檀君朝鮮 | |||||||||
史前 | 箕子朝鮮 | |||||||||
燕 | ||||||||||
辰国 | 衛氏朝鮮 | |||||||||
原三国 | 辰韓 | 弁韓 | 漢四郡 | |||||||
馬韓 | 帯方郡 | 楽浪郡 | 濊 貊 | 沃 沮 | ||||||
三国 | 伽耶 42- 562 | 百済 346-660 | 高句麗 前37-668 | |||||||
新羅 356- | ||||||||||
統一 新羅 | 唐熊津・安東都護府 | |||||||||
統一新羅 鶏林州都督府 676-892 | 安東 都護府 668-756 | 渤海 698 -926 | ||||||||
後三国 | 新羅 -935 | 後 百済 892 -936 | 後高句麗 901 -918 | 遼 | 女真 | |||||
統一 王朝 | 高麗 918- | 金 | ||||||||
元遼陽行省 (東寧・双城・耽羅) | ||||||||||
元朝 | ||||||||||
高麗 1356-1392 | ||||||||||
李氏朝鮮 1392-1897 | ||||||||||
大韓帝国 1897-1910 | ||||||||||
近代 | 日本統治 1910-1945 | |||||||||
現代 | 連合軍軍政期 1945-1948 | |||||||||
大韓民国 1948- | 朝鮮民主主義 人民共和国 1948- | |||||||||
Portal:朝鮮 |
1910年(明治43年)8月22日に、韓国併合条約が漢城(現在のソウル特別市)で寺内正毅統監と李完用首相により調印され、同月29日に裁可公布により発効、大日本帝国は大韓帝国を併合し、その領土であった朝鮮半島を領有した。1945年(昭和20年)8月15日、大日本帝国は第二次世界大戦(太平洋戦争/大東亜戦争)における連合国に対する敗戦に伴って実効支配を喪失し、同年9月2日、ポツダム宣言の条項を誠実に履行することを約束した降伏文書調印によって、正式に大日本帝国による朝鮮半島領有は終了した。
条約上の領有権の放棄は、1952年(昭和27年)4月28日のサンフランシスコ平和条約発効によるが、1945年9月9日に朝鮮総督府が、連合国軍の一部として朝鮮半島南部の占領にあたったアメリカ軍への降伏文書に署名し、領土の占有を解除した。代わりに在朝鮮アメリカ陸軍司令部軍政庁(アメリカ軍政庁)が統治を開始した。その後朝鮮半島は、北緯38度線を境に南部はアメリカ軍、北部はソビエト連邦軍の2つの連合国軍を中心にした分離統治が続き、1948年(昭和23年)8月15日には、李承晩がアメリカ軍政庁からの独立を宣言して南部に大韓民国第一共和国が建国され、同年9月9日には、北部にソビエト連邦の後押しを受けた金日成を指導者とする朝鮮民主主義人民共和国が建国された。
なお「韓国併合」や「日韓併合」という言葉は、条約締結という出来事だけではなく、条約締結の結果、日本が朝鮮半島を統治し続けた継続的事実を差すこともある。
経緯[編集]
極東におけるロシアの南下政策の始まり[編集]
ロシアの拡張政策は極東に達し、清国ではアイグン条約及び北京条約によってロシアへの外満州割譲が行われた (en:Amur Acquisition)[4]。日本では樺太問題やロシア軍艦対馬占領事件によって、ロシアとの対立が発生した[4]。
冊封体制下の秩序と開国[編集]
当時朝鮮半島を治めていた李氏朝鮮は、清朝中国を中心とした冊封体制を堅持し、鎖国状態にあった。大日本帝国による開国要求は、その要求国書において歴代の中国皇帝と同列の「天皇」を使用していたこともあり、長らく中華秩序の一翼を担ってきた朝鮮側からは、中華秩序に対する挑戦と受け取られた。朝鮮側は、大日本帝国政府による近代化の要請を内政干渉としたほか、朝鮮では大日本帝国の民間知識人による近代化のアドバイスも侵略的意図があるものと捉えられ、朝鮮王朝内部における政争の一因となった。
西欧列強や、朝鮮を取り込もうとするロシア帝国[要出典]・大日本帝国は朝鮮半島の鎖国状態が続くことを容認せず、大日本帝国は江華島事件を機に朝鮮と不平等条約である日朝修好条規を締結し、これを契機に朝鮮は列強諸国とも同様の条約を結ぶことで開国を強いられた。大日本帝国側は条約締結の際、朝鮮を清朝の冊封体制から離脱させるため「朝鮮は自主の邦」という文言を入れることに固執した[5]。(冊封体制下の国、すなわち「朝貢国」が、即「従属国・保護国」を意味するかについて認識の差が日朝間に存在した)[6]。
開国後から日清戦争まで[編集]
大日本帝国による朝鮮開国後に甲申事変が起きるなど、李氏朝鮮の内部からも改革の要求は出ていたが、実権を掌握していた興宣大院君と閔妃は守旧的態度を採り続けた。大日本帝国は自国主導による朝鮮半島の政治改革を目指した[要出典]が、清国側はあくまでも「李氏朝鮮は冊封体制下の属邦である」との主張を変えなかった。Evil
朝鮮半島を挟んで日清両国の関係が緊張するなか、李氏朝鮮内部においても悪政[要出典]と外圧の排除を唱えた東学党による農民反乱・甲午農民戦争が起きた。朝鮮は自力での解決ができずに[要出典]清に救援を依頼し、清は朝鮮を属領と称し派兵を行った。この事により、朝鮮の独立の怪しさが露見され、日本を不安に陥れた。日本は邦人保護を名目に朝鮮半島に出兵し、朝鮮に独立国かの再確認を行い、日本は朝鮮の自主独立のために五カ条の改革案を朝鮮に提案した。改革案は受け入れられ[要出典]、甲午改革が行われた。また、反乱終了後も、改革勢力による駐兵要求があるとして、日本軍は駐留を続けた。
しかし、清国も軍の駐留を続行し、1894年(明治27年)日清戦争が勃発することとなった。日清戦争で勝利した大日本帝国は、清国との間に下関条約を締結した。大日本帝国が朝鮮での独占的利権を得るために清国と朝鮮との宗属関係の排除が必要であり、下関条約によって朝鮮が自主独立国であることを認めさせることにより、大日本帝国の権益の障害となる清国の朝鮮半島における影響力を排除することに成功した。
ロシアの西洋における南下政策の過ち[編集]
帝政ロシア時代の政治家であったセルゲイ・ヴィッテは後に、「もしあの時ニコライ二世帝がムルマンに海軍根拠地をおく勅令を発布したら、きっと、彼自身それに熱心になったであろう。そうすれば恐らくロシアは極東の大海洋へ出ようなどとは考えなかったであろう[9]」と回顧している[7][8]。
三国干渉後と大韓帝国の成立[編集]
日清戦争直後の朝鮮半島では、大日本帝国を後ろ盾とする改革派の勢いが強まった[要出典]ものの、その後大日本帝国が西欧列強による三国干渉に屈服し遼東還付条約を締結したことで、朝鮮王室は列強同士の牽制による独立維持を目指し、帝政ロシアに接近した。そのため、政争が過激化した。閔妃暗殺もこの時期である。1896年(明治29年)に親露保守派が高宗をロシア公使館に移して政権を奪取、高宗はロシア公使館において1年あまり政務を執り行う異常事態となった(露館播遷)。この事態は、朝鮮が帝政ロシアの保護国と見なされる危険性もあった[要出典]ことや、朝鮮の自主独立を目的とする民間団体である独立協会からの還宮要請に応えるため、高宗は1897年(明治30年)2月に慶福宮に還宮し、皇帝が主権を取る清国や大日本帝国、帝政ロシアに対抗するため、高宗は1897年(明治30年)10月に皇帝に即位し、国号を朝鮮国(李氏朝鮮は通称)から大韓帝国と改めた。同月、ロシアは、財務顧問を英国人ジョン・マクレヴィ・ブラウンからロシア人キリル・アレキセーフへと交代させ (度支顧問事件)、1898年2月には露韓銀行を設立させた[10]。また、1898年1月には絶影島の日本人所有地にロシアが太平洋艦隊の貯炭庫を設置しようとする事件が起きた (絶影島貯炭庫設置問題)[11][12]。そのため排露熱が高まり、翌2月に独立協会は救国宣言上疏を行ったほか[13]、ロシア語通訳であった金鴻陸の謀殺未遂事件も発生した (金鴻陸謀殺未遂事件)[13]。
しかしロシアは、1898年3月15日、清国と旅順港・大連湾租借に関する条約を結び、遼東半島に不凍港が手に入ることになると、韓国への関心が失われ、1898年3月23日には韓国から全てのロシアの軍事・民事顧問が撤退し[14][10]、翌4月には露韓銀行も閉鎖された[10]。同年8月、ロシア語通訳の金鴻陸は高宗暗殺未遂を起こしたとされ (毒茶事件)、10月に処刑された。
光武改革[編集]
高宗は皇帝専制による近代化を志向[要出典]し、「光武改革」とよばれる上からの改革を行おうとした。1898年(明治31年)、「光武量田事業」とよばれる土地調査・改革が行われ、日露戦争によって中止に追い込まれるまで土地登録者に地券に相当する「地契」を発行するなど土地所有権保護と国家による近代的地税賦課を可能にする土地改革が朝鮮国(大韓帝国)全土の3分の2にあたる218郡で実施された。1899年(明治32年)8月には「大韓帝国国制」を制定し、皇帝による絶対主義君主支配を明確にした。しかし、皇帝専制は市民的改革路線を排除するものであり、独立協会や進歩会(のちの一進会)など改革派の排除・弾圧が行われ、近代化に向けた国論の統一が奏功しなかったことや、国外からの干渉などから、大韓帝国が独自に近代化を進めることは困難だった。日露戦争により帝国主義列国の相互牽制による独立維持という朝鮮国(大韓帝国)の外交方針は崩れ、大日本帝国による朝鮮国(大韓帝国)の保護国化が強行され、光武改革は潰えた。[要出典]
朝鮮人官僚界の態度は、日本の成功に関心を持つ少数の人々をのぞき、新しい体制にとってまったく不都合なもので、改革のひとつひとつが憤りの対象となった。官吏階級は改革で「搾取」や不正利得がもはやできなくなると見ており、ごまんといる役所の居候や取り巻きとともに、 全員が私利私欲という最強の動機で結ばれ、改革には積極的にせよ消極的にせよ反対していた。政治腐敗はソウルが本拠地であるものの、どの地方でもスケールこそそれより小さいとはいえ、首都と同質の不正がはぴこっており、勤勉実直な階層をしいたげて私腹を肥やす悪徳官吏が跋扈していた。このように堕落しきった朝鮮の官僚制度の浄化に日本は着手したのであるが、これは困難きわまりなかった。名誉と高潔の伝統は、あったとしてももう何世紀も前に忘れられている。公正な官吏の規範は存在しない。日本が改革に着手したとき、朝鮮には階層が二つしかなかった。 盗む側と盗まれる側である。そして盗む側には官界をなす膨大な数の人間が含まれる。「搾取」 と着服は上層部から下級官吏にいたるまで全体を通じての習わしであり、どの職位も売買の対象となっていた。
財政問題及び偽白銅貨の流通[編集]
詳細は「兪吉濬陰謀事件」を参照
1896年7月、英国人の税関長ジョン・マクレヴィ・ブラウンが財政顧問となった。1897年10月、ロシア公使アレクセイ・ニコラビッチ・シュペイエル(en:Alexey Shpeyer)が、財政顧問を英国人ブラウンからロシア人キリル・アレキセーフ(Kiril A. Alexeev)へと変えようとする事件が起きた[15]。
当時の白銅貨には、典圜局製造の「官鋳」、正式な特別許可による外製の「特鋳」、韓国皇室の内々の勅許 (啓字公蹟) による外製の「黙鋳」、密造による「私鋳」があると見られていた[16]。韓国の帝室が納付金を徴して白銅貨の私鋳を黙許したため、大韓帝国において通用する白銅貨の偽物が日に増して流通し、その悪貨によって商取引に問題が発生していた[17]。また、大韓帝国においては偽造勅許証 (偽造啓字公蹟) が多く出回っており、それによる偽啓默鋳も行われていた。しかし、内密の勅許を暴露することは重罪であったため、民間人が白銅貨鑄造の勅命許可証の真偽を判断することは難しかった[18]。しかし、日本公使館は内密な手段によってこの真偽を確かめることができた[18]。
兪吉濬によれば、仁川監理の河相驥が白銅貨偽造に手を染めていたとされる[19]。金亨變によれば、革命一心会に所属する兪吉濬が徐相集や河相驥に白銅貨偽造を行わせたとされる[20][21]。その他にも啓字偽造により尹孝寬、丁德天、李聖烈、洪淳學や、洪秉晉などが逮捕されている[22][23]。
また、当時、白銅貨や韓銭だけでなく、清の商人の発行する銭票や日本の商人の発行する韓銭預かり手形も韓国の市場に流通していた[24][25]。白銅貨低落の影響を受けた日本の在韓商人には、韓国の安定した貨幣制度の確立を望む者と、むしろ韓国通貨の低落を助長して日本貨幣の流通を拡張すべきだと主張する者が存在した[26]。1902年5月、日本の第一銀行は韓国において日本円との兌換が保証された第一銀行券を発行し[24]、韓国の親露派からの妨害があったにも関わらず、その信用は増していった[24][27]。
1904年10月、目賀田種太郎が財政顧問となり、同年11月、貨幣の原盤の流出元とみられる典圜局は廃止され、1905年7月、韓国は日本と同一の貨幣制度を採用し[28]、硬貨は大阪造幣局で鋳造されることとなった。1905年8月、ブラウンは税関長を辞め、韓国を去った。
ロシアの「新方針」[編集]
ロシアは、1902年4月に清国と満州還付に関する露清条約を結ぶものの、対日強硬派のアレクサンドル・ベゾブラーゾフやエヴゲーニイ・アレクセーエフの勢力が強まることで、逆に以下の「新方針」を決議して、譲歩政策を撤回した[29]。
(一)満州から撤兵せず更らに増兵して満州をロシアの手に入れること。— アレクセイ・クロパトキン『満州悲劇の序曲』[29]
(二)外国人を満州に侵入せしめないこと。
(三)満州における我が軍事上の利益を掩護するため朝鮮に哨所を設けること。
その後、ロシアは「新方針」に基づき、以下の決議を行った[30]。
一、鴨緑江の朝鮮側の河岸で主権を握ること。このため該事業に軍略的色彩をかくさず且つ朝鮮政府よりの利権獲得を具体化せざること。— アレクセイ・クロパトキン『満州悲劇の序曲』[30]
二、鴨緑江の支那側沿岸にて利権を獲得せずに主権を握ること。
三、該事業に外人を参加せしめざること。
四、外人をして満州に干渉せしめざること。
併合まで[編集]
ハーグ密使事件以降の大日本帝国国内では、「朝鮮を自国領土に組み込み朝鮮人を皇民とせしは皇国民の質の劣化である」という見地により、反対の意見も根強かった。併合時に必要となる莫大な資金の負担についても政財界より併合反対の意見があった。[要出典]
反対に、軍部出身者を中心とした中国への膨張政策のため、日韓併合賛成派もあり、「我が国上下輿論沸然として鼎(かなえ)の湧くが如く、或いは新聞に、演説に併呑を論じ、合邦を説くこと盛んなり」という記事にされるなど、国論は併合賛成・反対に二分されていたが、1909年7月6日の閣議で併合方針は明確となった(適当ノ時期ニ於テ韓国ノ併合ヲ断行スル事 )。元韓国統監であり最後まで韓国の自治にこだわっていた伊藤博文の暗殺で、韓国併合推進派は力を得て親日派と早期併合に向かった[33]。
伊藤博文については、現在も日韓双方で解釈が異なっている。
日本での解釈[編集]
伊藤博文は、国際協調重視派の軍部としばしば激しく対立した[34]。また、韓国併合については、保護国化による一時的(実質)な統治で充分であるとの考えから、併合反対の立場を取っていた。実際に伊藤博文は1907年7月29日にソウルで「日本は韓国を合併するの必要なし。合併は甚だ厄介なり。韓国は自治を要す。」と新聞記者たちを前に演説している[35]。近年発見された伊藤のメモには「韓国の富強の実を認むるに至る迄」という記述もあり、これについて伊藤博文研究の第一人者とされる京都大学教授の伊藤之雄は、「伊藤博文は、韓国を保護国とするのは韓国の国力がつくまでであり、日韓併合には否定的な考えを持っていた事を裏付けるものだ」としている[36]。しかし後に考えを改めた伊藤博文は、1909年7月6日の併合方針の閣議決定を否定していない。 統監として朝鮮の権限剥奪や軍隊解散、皇帝の退位などに関与で抗日独立派から敵視される立場だった。死の間際には、自分を撃ったのが朝鮮人だったことを知らされ、「俺を撃ったりして、馬鹿な奴だ」と呟いたといわれている[37]。
韓国での解釈[編集]
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近年の韓国では、伊藤博文を殺害した安重根をテロリストではなく、祖国の英雄として解釈している。そのため、伊藤が併合反対派であったことや、安重根がテロリストと呼ばれた当時の朝鮮や日本側の見識とは異なった認識がなされている。
韓国では、「伊藤博文は対外的に「まだ国際社会の同意を得られない」と考えていたことなどから「併合は時期尚早である」として反対していたが、1909年(明治42年)4月に桂太郎首相と小村寿太郎外相が伊藤に「韓国の現状に照らして将来を考量するに、韓国を併合するより外に他策なかるべき事由を陳述」を行ったところ、「(伊藤)公は両相の説を聞くや、意外にもこれに異存なき旨を言明」し、なおかつ桂・小村の提示した「併合の方針」についても、「その大網を是認」した[38]。伊藤博文は2週間後に東京で行った演説でも、「今や方に協同的に進まんとする境遇となり、進んで一家たらんとせんとす」と併合を容認する発言をして聴衆を驚かせた。伊藤暗殺時には、大日本帝国政府内において朝鮮併合に反対する政治勢力は存在しなかった。」としている。
ロシアの南下と日露戦争[編集]
大韓帝国は冊封体制から離脱したものの、満州に権益を得た帝政ロシアが南下政策を取りつつあった。当初、大日本帝国側は外交努力で衝突を避けようとしたが、帝政ロシアとの関係は朝鮮半島や満州の利権をどちらが手に入れられるかで対立した。大日本帝国とロシアは満韓交換論などめぐり交渉を続けたが、両国の緊張は頂点に達した。1904年(明治37年)には日露戦争の開戦にいたる。
大日本帝国政府は開戦直後、朝鮮半島内における軍事行動の制約をなくすため、1904年(明治37年)2月23日に日韓議定書を締結させた。また、李氏朝鮮による独自の改革を諦め韓日合邦を目指そうとした進歩会は、鉄道敷設工事などに5万人ともいわれる大量の人員を派遣するなど、日露戦争において日本側への協力を惜しまなかった。8月には第一次日韓協約を締結し、財政顧問に目賀田種太郎、外交顧問にアメリカ人のドーハム・スティーブンスを推薦して、大韓帝国政府内への影響力を強めたり、閔妃によって帝政ロシアに売り払われた関税権を買い戻すなどして、大日本帝国による保護国化を進めていった。
桂・タフト協定[編集]
日本は日本海海戦での勝利を経て、ロシア軍もセオドア・ルーズベルトによる講和勧告を受け入れていた1905年7月29日、アメリカ合衆国のウィリアム・タフト陸軍長官が来日し、内閣総理大臣兼臨時外務大臣であった桂太郎と、アメリカは韓国における日本の支配権を承認し、日本はアメリカのフィリピン支配権を承認する内容の桂・タフト協定を交わす[39]。桂・タフト協定は、1902年の日英同盟をふまえたもので、以下の三点が確認された。
- 日本は、アメリカの植民地となっていたフィリピンに対して野心のないことを表明する。
- 極東の平和は、日本、アメリカ、イギリス3国による事実上の同盟によって守られるべきである。
- アメリカは、日本の韓国における指導的地位を認める。
会談の中で、桂は、韓国政府が日露戦争の直接の原因であると指摘し、朝鮮半島における問題の広範囲な解決が日露戦争の論理的な結果であり、もし韓国政府が単独で放置されるような事態になれば、再び同じように他国と条約を結んで日本を戦争に巻き込むだろう、従って日本は韓国政府が再度別の外国との戦争を日本に強制する条約を締結することを防がなければならない、と主張した。 桂の主張を聞いたタフト特使は、韓国政府が日本の保護国となることが東アジアの安定性に直接貢献することに同意し、また彼の意見として、ルーズベルト大統領もこの点に同意するだろうと述べた。この協定は7月31日に電文で確認したセオドア・ルーズベルト大統領によって承認され、8月7日にタフトはマニラから大統領承認との電文を桂に送付した。桂は翌8月8日に日露講和会議の日本側全権として米国ポーツマスにいた外相小村寿太郎に知らせている。
桂・タフト協定および、第2次日英同盟、日露戦争の結果結ばれたポーツマス条約によってロシアにも韓国に対する優越権を認めさせた結果、事実上、英米露が大韓帝国に対する日本の支配権を認めた結果となった。なお、韓国の歴史家ではこの桂・タフト協定が日本によって韓国が併合された直接の原因であるとするものもいる[40]。
第二次日韓協約とハーグ密使事件[編集]
英米政府およびロシア政府から朝鮮半島に関する支配権を承認された大日本帝国政府は、1905年(明治38年)11月、第二次日韓協約(大韓帝国では乙巳保護条約)を大韓帝国と締結する。この協約によって大韓帝国の外交権はほぼ日本に接収されることとなり、事実上、保護国となる。12月には、統監府が設置される。
高宗は「条約締結は強制であり無効である」と抗議をする。一方で、高宗は日韓保護条約に賛成しており、批判的だった大臣たちの意見を却下していたとする「日省録」や「承政院日記」も残されている[41]。また締結時に学部大臣だった李完用も閣議で『わが国の外交は変幻きわまりなく、その結果日本は2回の大戦争に従事し、多大の犠牲を出して、ようやく今日における韓国の地位を保全したのだから、これ以上わが国の外交が原因で東洋の平和を乱し、再び危地に瀬するような事は、その耐えざる所』とし、日本との協約締結を肯定している[42]。現在の韓国では、李完用を売国奴とみなす見解が多い。
1907年(明治40年)、高宗は第2回万国平和会議に密使を派遣した(ハーグ密使事件)。しかし第二次日韓協約は当時の帝国主義国間で認められた合法な国際協約であったため、この訴えは第2回万国平和会議から不当なものとして拒絶された。この事件に対して、日本から抗議がなされ、高宗はハーグへの密使事件は自分の知らなかったことであると訴えるが、日本との関係を重視する李完用首相や官僚たちの要求により、7月20日には退位することになった[43]。7月24日には第三次日韓協約を結んで内政権を掌握し、8月1日には大韓帝国の軍隊を解散させた。
1909年(明治42年)7月6日、閣議で「適当の時期に韓国併合を断行する方針および対韓施設大綱」を決定した。
朝鮮併合と大日本帝国統治時代[編集]
詳細は「日本統治時代の朝鮮」を参照
伊藤博文の暗殺を受け、韓国側からの提案である一進会の上奏声明等を経て韓国併合の話が持ち上がる。この時自称会員100万人を誇る韓国最大政党である「一進会」は併合推進派であった[44]。
二分された国内世論に慎重な日本政府は併合の正当性について列国に打診している。アメリカとイギリスは、このまま韓国を放置することは地域に混乱与えると考え、韓国併合に賛成した。その他、清国、ロシア、イタリア、フランス、ドイツといった当時の主要国からの反対も全くなかった。各国の賛成を得て、また一進会も併合を望み、日本は韓国併合に乗り出した。[要出典]
併合論は国内で二分されたが、併合派が優勢だった。韓国統監府を辞して帰国していた伊藤は元来併合に反対であったが、1909年7月6日に閣議決定された併合方針に反対した形跡はない。安重根による伊藤博文暗殺により、日本国内の世論や動揺した朝鮮親日派の嘆願などの影響で、早期併合に向かった。[要出典]
一進会の上奏声明[編集]
12月4日には大韓帝国の一進会が「韓日合邦を要求する声明書」を上奏した。「韓日合邦を要求する声明書」は大日本帝国と大韓帝国が対等な立場で新たに一つの政府を作り、一つの大帝国を作るという、国際的に見て、両国の時勢・国力比から考えても受け入れられない提案であった。 また、一進会の声明の中で「日本は日清戦争で莫大な費用と多数の人命を費やし韓国を独立させてくれた。また日露戦争では日本の損害は甲午の二十倍を出しながらも、韓国がロシアの口に飲み込まれる肉になるのを助け、東洋全体の平和を維持した。韓国はこれに感謝もせず、あちこちの国にすがり、外交権が奪われ、保護条約に至ったのは、我々が招いたのである。第三次日韓協約(丁未条約)、ハーグ密使事件も我々が招いたのである。今後どのような危険が訪れるかも分からないが、これも我々が招いたことである。我が国の皇帝陛下と日本天皇陛下に懇願し、朝鮮人も日本人と同じ一等国民の待遇を享受して、政府と社会を発展させようではないか」との声明もあり。独立を堅持するよりも、日本との併合による地位の向上をより求めたとの見識がある。(伊藤博文暗殺に対する日本人の反感に敏感に反応したという側面もある。)[45] 統監府からは併合後の混乱を防止する観点から集会および演説の一時的な禁止命令が下され、対価として一進会は15万円を受領している。
ただし、大韓帝国においては大日本帝国同様、内部に派閥ごとの併合への賛成・反対の違いがあり対立があったともされ、現在の韓国では下級市民にも不満があったと教科書に記述されている。しかしながら、国民の大部分を占める白丁(農奴・奴隷階級)に政治参加の権利は無く、事実上大韓帝国の皇族のみがその主権者である為、当事の白丁の政治的意思を他国が考慮する必要は無く、また白丁階級の賛成・反対も正確な統計は無い。(白丁が市民権を得たのは大日本帝国統治後である。)
併合[編集]
1910年(明治43年)6月3日には「併合後の韓国に対する施政方針」が閣議決定され、7月8日には第3代統監寺内正毅が設置した併合準備委員会の処理方案が閣議決定された。8月6日に至り韓国首相である李完用に併合受諾が求められた。親日派で固められた韓国閣僚でも李容植学相は併合に反対するが、大勢は併合調印賛成に傾いており、[要出典]8月22日の御前会議では李完用首相が条約締結の全権委員に任命された。統監府による新聞報道規制、集会・演説禁止、注意人物の事前検束が行われた上、一個連隊相当の兵力が警備するという厳戒態勢の中、1910年(明治43年)8月22日に韓国併合条約は漢城(現:ソウル特別市)で寺内正毅統監と李完用首相により調印され、29日に裁可公布により発効し、大日本帝国は大韓帝国を併合した。
これにより大韓帝国は消滅し、朝鮮半島は第二次世界大戦(大東亜戦争、太平洋戦争)終結まで大日本帝国の統治下に置かれた。大韓帝国政府と韓国統監府は廃止され、新たに朝鮮全土を統治する朝鮮総督府が設置された。韓国の皇族は大日本帝国の皇族に準じる王公族に封じられ、また、韓国併合に貢献した朝鮮人は朝鮮貴族とされた。
朝鮮総督府による政策[編集]
身分解放[編集]
統監府は1909年、新たに戸籍制度を朝鮮に導入し、李氏朝鮮時代を通じて人間とは見なされず、姓を持つことを許されていなかった奴婢、白丁などの賤民にも姓を名乗らせて戸籍には身分を記載することなく登録させた[46]。李氏朝鮮時代は戸籍に身分を記載していたが、統監府はこれを削除したのである。これにより、身分開放された賤民の子弟も学校に通えるようになった[46]。身分解放に反発する両班は激しい抗議デモを繰り広げたが、身分にかかわらず教育機会を与えるべきと考える日本政府によって即座に鎮圧された[47]。
土地政策[編集]
朝鮮総督府は1910年(明治43年)から1919年(大正8年)の間に土地調査事業に基づき測量を行ない、土地の所有権を確定した。この際に申告された土地は、境界問題が発生しないかぎり地主の申告通りに所有権が認められた。申告がなされなかった土地や、国有地と認定された土地(所有権が判明しない山林は国有化され入会権を認める方法が採られた(火田民も参照)。そのほか隠田などの所有者不明の土地、旧朝鮮王朝の土地など)は最終的に朝鮮総督府に接収され、朝鮮の農民に安値で払い下げられ、一部は東洋拓殖や日本人農業者にも払い下げられた。ソウル大学教授李栄薫によると朝鮮総督府に接収された土地は全体の10%ほどとしている[48]。山本有造によれば総督府が最終的に接収した農地は全耕作地の3.26%であるとする[49]。この大規模な土地調査事業は戦後おこなわれた精密測量による地籍調査のようなものではなく、あくまで権利関係を確定させるためのものであったが多くの境界問題や入会権問題を生み、現代に続く「日帝による土地収奪」論を招いている。
総督府による測量および登記制度の導入を機に朝鮮では不動産の売買が法的に安定し[50]、前近代的でゆるやかな土地所有を否定された旧来の零細自作農民が小作農に零落し、小作料高騰から大量に離村した者もいるが、一方で李王朝時代の朝鮮は農地が荒廃しており、民衆は官吏や両班、高利貸によって責めたてられて収奪されていたため、日本が朝鮮の農地で水防工事や水利工事、金融組合や水利組合もつくったことで、朝鮮農民は安い金利で融資を受けることができるようになり、多大な利益を得るようになった朝鮮人も現れ[51]、これらの新興資本家の多くは総督府と良好な関係を保ち発展した。
教育文化政策[編集]
日本統治下においては、日本内地に準じた学校教育制度が整備された。初代統監に就任した伊藤博文は、学校建設を改革の最優先課題とした。小学校も統合直前には100校程度だったのが、1943年(昭和18年)には4271校にまで増加した[52]。
学校教育における教授言語が日本語であったことをもって、「言葉を奪った」という評価がなされることがある。水間政憲は、朝鮮語が科目として導入されたこと、朝鮮語による文化活動が許容されていたことをもって、言葉が奪われたとはいえないという反論した[54]。また、ハングルは併合以前は漢字と比べて劣等文字として軽蔑されており、あまり普及していなかったと述べている[55]。
年表[編集]
年 | 出来事 | |
---|---|---|
韓国 | 北朝鮮 | |
1895年(明治28年) | 下関条約 閔妃暗殺(乙未事変) | |
1896年(明治29年) | 露館播遷 | |
1897年(明治30年) | 大韓帝国に国号変更 | |
1904年(明治37年) | 日露戦争開戦 日韓議定書 第一次日韓協約 | |
1905年(明治38年) | 日露戦争終結 第二次日韓協約 韓国統監府設置 | |
1907年(明治40年) | ハーグ密使事件 純宗即位 第三次日韓協約 | |
1909年(明治42年) | 適当の時期に韓国併合を断行する方針を閣議決定 伊藤博文暗殺 | |
1910年(明治43年) | 韓国併合 朝鮮総督府設置 | |
1911年(明治44年) | 朝鮮教育令発布 | |
1919年(大正8年) | 三・一独立運動 | |
1945年(昭和20年) | 分割占領、朝鮮総督府解体 | |
北緯38度線以南 アメリカ合衆国が占領 | 北緯38度線以北 ソビエト連邦が占領 | |
1948年(昭和23年) | 大韓民国建国 | 朝鮮民主主義人民共和国建国 |
1952年(昭和27年) | サンフランシスコ平和条約発効 日本、朝鮮に対する権利、権原及び請求権を放棄 | |
1965年(昭和40年) | 日韓基本条約調印 発効 日本は大韓民国を全朝鮮の正統政府として承認 |
呼称について[編集]
日本国における呼称[編集]
大日本帝国が朝鮮半島を統治した時代について、日本では確立した呼称はなく、例えば日本統治時代などと呼ばれている。
大韓民国における呼称[編集]
韓国側では、併合そのものについては韓日併合や庚戌国恥(庚戌は1910年を意味する)と呼び、大日本帝国による朝鮮半島統治時代については、日帝強占期(近年韓国の公共放送・KBSはこの呼称に統一しようとしている)や日帝時代、または日政時代やなどと呼んでいる。これらの名称は日本による大韓帝国併合の有効性、合法性を認めず、朝鮮半島に対する大日本帝国の支配は単なる軍事占領で、不法なものであったとの韓国側の主張が言外に含まれたものである。また併合後も内地とは対等に扱われず、実質的には植民地のままで変化がなかったとの認識から日本植民地時代という呼称を用いることもある。
「植民地」という呼称が使われることについて[編集]
ただし、外地を「植民地」「殖民地」と呼ぶことへの感情的な反発は、明治期からすでに存在していた。忌避語・侮蔑語のようなニュアンスがあり、外地を植民地と呼称することは回避され、「我国にては斯(植民)の如き公の呼称を法律上一切加えず単に台湾朝鮮樺太等地名を呼ぶ」[57]ことが事実上の慣例となっていた。
(1905年(明治38年)の帝国議会において下記のようなことがあった。)衆議院の委員会において、当時の首相で第二代台湾総督でもあった桂太郎が、台湾は「日本」なのか「殖民地」なのかいう問に、うっかり「無論殖民地であります内地同様には行かぬと考へます」と答えてしまったのである。..中略..この首相発言は、議員達に大きな感情的反発をよんだ。議員側からは、「台湾を殖民地にするとは云ふことは、何れの内閣からも承ったことはない」とか「吾々議員として実にぞっとするではございませぬか」といった非難が出た。—小熊英二、『〈日本人〉の境界 沖縄・アイヌ・台湾・朝鮮植民地支配から復帰運動まで』新曜社、1998年7月、第5章、pp.142 f ISBN 4-7885-0648-3
我国にては斯の如き公の呼称を法律上一切加えず単に台湾朝鮮樺 太等地名を呼ぶ。但し学術的又は通俗的に之等を植民地と称するを妨げない。我国の学者政治家等が朝鮮を指して植民地と称することに対し、「千万年歴史の権威」と「二千万民衆の誠忠」を有する朝鮮民族は大なる侮辱を感じ、大正八年三月一日の独立宣言書にもその憤慨が披瀝せられた。併乍ら研究者は事実関係を以ってその研究対象とするより外はない。
なお、実際にはいくつかの勅令等に「殖民地」「植民地」の用語を使用するものが存在していたことが指摘されている。
- 1898年(明治31年)勅令第37号では、「北海道殖民地」の用語が使用されている[58]。
- 1932年(昭和7年)9月3日に天皇が公布した「昭和七年・予算外国庫ノ負担トナルヘキ契約九月三日・予算外国庫ノ負担トナルヘキ契約ヲ為スヲ要スル件」において、「電話ノ料金中本邦收得分(植民地收得分ヲ除ク)」と「植民地」の用語が使用されている[59] 。
- 1930年(昭和5年)条約第4号・万国郵便条約では、「第8条 殖民地保護領等」の項目に、朝鮮を含めている[60]。
また、公文書にも「植民地」の用語例は見られ、例えば1923年(大正12年)刊行の拓殖事務局『植民地要覧』では朝鮮・台湾・樺太・関東州・南洋群島を「我が植民地と解せらるる」としていた(同書では南満州鉄道付属地も扱っている)。
また、上記のような語義的な観点ではなく、実質においても「植民地」ではなかったとする主張は日本の保守系の論壇誌などでしばしば論じられる。欧米による先行のモデルとの差異を論じるべく「日本型」植民地支配がどのようなものであったかについては継続して論争が続いている。のみならず「大日本帝国の統治政策は同時代に欧米諸国の行った異民族統治とは異質で、善政である」「植民地という言葉は諸外国が異民族統治に対して行った悪政に使われる言葉である」という認識から、双方を植民地という言葉で同一に形容することへ批判する見方もある。この立場からは、日本の朝鮮支配について「植民地」という表現を用いるべきではないという主張がなされることがある。
帝国議会審議では、朝鮮は日本の植民地であったとする表現が使われている。1918年(大正7年)3月12日の帝国議会に於いて、牧山耕蔵衆院議員は「殖民地統治に関する質問主意書」を説明するなかで、朝鮮・台湾・樺太に言及し政府に質問を行った[61]。戦後の例としては1945年(昭和20年)勅令第五百四十二号(ポツダム宣言の受諾に伴い発する命令に関する件)(承諾を求むる件)委員会に於いて、中谷武世理事はポツダム宣言の条件説明において、「第八條の「カイロ」宣言の實行、即ち朝鮮臺灣等の從來の日本の植民地を失ふこと、」と、「植民地」の用語を使用した。[61]
国会審議では、朝鮮はかつて日本の植民地であったとする表現が使われている。たとえば、1947年(昭和22年)11月20日参議院通信委員会で、深水六郎君委員長は、「朝鮮、台湾、樺太等の旧植民地」と、「旧植民地」の用語を使用した。[62]
2010年(平成22年)7月7日、仙谷由人官房長官は「個人補償問題で改めて決着が必要」「日本は併合によって朝鮮人民から言葉や文化を奪ったが、それは植民地支配だった」と述べ、韓国併合について「植民地支配」の用語を使用した。
実際の使用事例[編集]
大日本帝国政府は朝鮮に対し、法的には「外地」として分類していたが、公文書においては植民地も使用例も見られる。一例として1923年(大正12年)、拓殖省事務局は『殖民地便欄』を刊行したが、このなかには「我ガ殖民地ト称セラルル朝鮮・台湾・樺太・関東州及ビ南洋群島」と記載されている[63]。
戦前から在野の学者や思想家の間では、朝鮮が植民地であるか否かについてはすでに議論があった。憲法学者の美濃部達吉など社会科学系の研究者はおおむね植民地であると見なしていたが、歴史学者の田保橋潔や革命家の北一輝などは植民地ではないとしていた。民本主義を最初に主張したとされるジャーナリストの茅原華山は、1913年の著書『新動中静観』の中で、台湾及び朝鮮を日本の「投資的植民地」であり「生産的植民地」であると述べたものの、その意味で朝鮮は大きな価値が無いとした[64]。経済学者の福田徳三は、朝鮮の人口が既に過密なことから、「民を植(う)える地」という「植民地」及び「民を殖(ふや)す地」という「殖民地」という単語は不適切だとした[65]。全国経済調査機関連合会は、朝鮮を「各般の事情が植民地乃至それに準ずべき立場に在る」としながらも、朝鮮の財政は地方財政(府県財政)と同様の地位にあるとした[66]。戦後においては、外務省条約局による「内地の法体系とは異なる外地法によって外地法令が適用された地域」という外地の定義を援用し、領域としての朝鮮地域において大日本帝国憲法の適用に保留があったこと[67]、日本内地とは異なる法体系(朝鮮総督府令等)が適用される点、また朝鮮籍(大日本帝国)臣民の権利に国籍条項など制限があった[68]ことをもって、植民地であったとする主張がある。
小渕内閣時に出された日韓共同宣言においては、村山内閣時の「戦後50周年の終戦記念日にあたって」(村山談話)を踏襲し、過去の日本の朝鮮統治について、「植民地支配」という表記を用いている(日本の戦争謝罪発言一覧も参照)。また、国交のない北朝鮮との間で出された日朝平壌宣言においても同様に「植民地支配」表記が用いられるなど、現在の日本政府の公式見解となっていると理解するのが一般的である。これに対して(終戦記念日の村山談話、及びそれを踏襲した政府見解における)「植民地支配」とは、朝鮮統治そのものについて言ったのではなく、戦争行為にもとづく満州政策などについて言ったもので、満州を植民地にするための拠点として朝鮮半島を利用した、という意味との解釈もある。
評価と争点[編集]
日本側では、韓国併合を否定的に見る見方と、併合が朝鮮半島の近代化に寄与したと肯定的に評価する見方とがあり、対立している。韓国側では、一般的に韓国併合を否定的に見る見方が多数であり、また日本による統治を肯定する言論は徹底的に弾圧され、社会的に容認されない。逮捕・投獄に至るケースさえある。
争点と評価(歴史認識)の相違については下記節「歴史認識の比較表」を参照。 韓国における肯定的な見方については、下記節「大韓民国における大日本帝国統治時代の評価」を参照。
大韓民国における大日本帝国統治時代の評価[編集]
独立後の韓国の歴史学者は、大日本帝国による統治を正当化する日本側の歴史研究を「植民地史観」と呼び、これを強く批判することから出発した。「植民地史観」に対抗して登場したのは民族史観であり、その後の歴史研究の柱となった(下記節「歴史認識の比較表」を参照)。また、韓国国内で韓国併合を肯定的に評価するなど、「民族史観」と矛盾する内容を発言すると、親日派として糾弾され、社会的制裁を受ける事例もある[69]。そうした韓国の言論の状況について、国際新聞編集者協会は韓国を「言論弾圧国」[70]として批判しており、2002年にはロシア、ベネズエラ、スリランカ、ジンバブエとともに「言論監視対象国」に指定した[71]。
一方で1990年代から2000年代にかけて、「民族史観」を誇張が多いとして批判したり、「民族史観」とは異なる見解が韓国内からも提示されるようになっている。本節では、下記節「歴史認識の比較表」に入らない、韓国における肯定的見解(ないしは「植民地史観」「民族史観」への批判的見解)を記述する。
- 金完燮は、当時の朝鮮は腐敗した李朝により混乱の極みにあった非常に貧しい国であり、日本が野望を持って進出するような富も文化もなかった、とする。彼によれば近代日本の歩みは列強、特に当時極東へ進出しつつあったロシアとの長きにわたる戦いであり、日清戦争から日露戦争そして韓国併合に至る一連の出来事は全て日本の独立を守るための行為であった。当初日本は、福沢諭吉の門下生の金玉均を始めとする日本で文明に触れた朝鮮人を通して、朝鮮が清から独立し近代国家となって日本にとっての同盟国となることを望んだ。しかしながら朝鮮人自身の手で朝鮮を改革しようとする試みは頓挫し、福沢諭吉が脱亜論を著したように方針を転換。日本自らの元で清、そしてロシアから朝鮮半島を守り、朝鮮を近代化する道を選んだ。その後日本は朝鮮を「日本化」することによって教養ある日本人を増大させることによる国力の増加を目指し、積極的にインフラへ投資した。朝鮮が自分たちで独立を保ち、近代化を成し遂げることが出来れば併合されることもなかったであろうし、日本によるこれらの植民地政策がなければ近代化することもなかったであろう、として韓国における歴史教育を批判している[72]。これらの言動・著作から彼は親日派として弾圧を受けている[73]。
- ソウル大学名誉教授の安秉直や成均館大学教授の李大根は、日本植民地統治下の朝鮮において、日本資本の主導下で資本主義化が展開し、朝鮮人も比較的積極的に適応していき、一定の成長が見られたとしている。
- ソウル大学教授の李栄薫は、大日本帝国の統治が近代化を促進したと主張する植民地近代化論を提示する[74]が、韓国国内では少数派である。彼もまた親日派として糾弾されている。
- 崔基鎬も、李氏朝鮮の末期には、親露派と親清派が内部抗争を続ける膠着状態にあり、清とロシアに勝利した日本の支配は歴史の必然であり、さらに日韓併合による半島の近代化は韓民族にとって大いなる善であったとしている[75]。
- 元韓国空軍大佐の崔三然も、「アフリカなどは植民地時代が終わっても貧困からなかなか抜け出せない状態です。では植民地から近代的な経済発展を遂げたのはどこですか。韓国と台湾ですよ。ともに日本の植民地だった所です。他に香港とシンガポールがありますが、ここは英国のいわば天領でした」「戦前、鉄道、水道、電気などの設備は日本国内と大差なかった。これは諸外国の植民地経営と非常に違うところです。諸外国は植民地からは一方的に搾取するだけでした。日本は国内の税金を植民地のインフラ整備に投入したのです。だから住民の生活水準にも本土とそれほどの差がありませんでした」と証言し、肯定的に併合時代を評価した上で日本政府の行動を批判している[76]。
- 当時の併合時代に育ち、のちカナダに移住した朴贊雄(パク・チャンウン)は2010年に発表した著書で「前途に希望が持てる時代だった」「韓国史のなかで、これほど落ち着いた時代がかつてあっただろうか」として、統治時代の肯定的側面を公正に見ることが真の日韓親善に繋がると主張している[77]。
- 2004年に東亜日報社長の権五琦(クォン・オギ)は、新しい歴史教科書をつくる会による教科書について、特に反発を感じないとしながら、「韓国でも併合に一部のものが賛成していた」という同教科書の記述について「『韓国人はみんな日本に抵抗した』と自慢したいのが韓国人の心情かもしれないが、本当はそうでないんだから、韓国人こそがこの教科書から学ぶべきだ」「どの程度の『一部』だったか知ることは、何もなかったと信じているより韓国人のためになる」と発言している[78]。
- 漢陽大学名誉教授で日露戦争や韓国併合についての著書もある歴史学者崔文衡(チェ・ムンヒョン)は、左派寄り教科書とされる金星出版社『高等学校韓国近現代史教科書』における「日帝が韓国を完全に併合するまで5年もかかったのは義兵抗争のため」といった記述に関して、事実とは異なるとしたうえで、ロシアが米国と協力し満州から日本の勢力を追い出そうとする露米による対日牽制などの折衝を日本が克服するために併合に時間がかかったのだとした[79][80]。また、「代案教科書[81]」における安重根による伊藤博文狙撃が併合論を早めたとする記述についても、併合は1909年7月6日の閣議で確定しており、安の狙撃で併合論が左右されたのではないと指摘したうえで、双方の教科書に代表されるような、当時の世界情勢や国際関係を看過する史観について「自分たちの歴史の主体的力量を強調する余り、国際情勢を無視し、 歴史的事実のつじつまを合わせようとしている」と批判し[79]、世界史において韓国史を理解しようとしない教育は「鎖国化教育」であるとした[82]。
- 高麗大学名誉教授(当時)の政治学者韓昇助は2005年に日本の雑誌『正論』に、日本による韓国併合はロシアによる支配に比べて「不幸中の幸い」であったとし、また大日本帝国による諸政策で朝鮮半島の近代化が進展したと肯定的に評価する論文を発表した[83]。この論文は韓国国内で問題視され、その結果、韓昇助は謝罪したうえで名誉教授職を辞任した[84]。
- 元韓国国土開発研究院長金儀遠は、戦前日本の国土計画では朝鮮人を満洲に追放して京城を日本の首都としようとしたと主張する一方で、日本が朝鮮で鉄道・道路・港湾・学校を建設したことについて「 日本人が私たちから搾取して建設したという主張があるが、事実と違う。 朝鮮総督府の予算を分析すると、朝鮮で集めた税金は農地税程度であり、これでは当時の公務員の月給の10分の1にもならなかった。 総督府の役人が本国に行ってロビー活動をし、予算を確保した。 もちろん鉄道などは大陸進出のため」であった と語っている[85]。
資本主義萌芽論[編集]
大日本帝国統治時代に様々な近代化が行われたことを認めつつも、資本主義の萌芽は李氏朝鮮の時代に既に存在しており、大日本帝国による統治はそれらの萌芽を破壊することで、結果的には近代化を阻害したとする資本主義萌芽論が、1950年代に北朝鮮で唱えられた。これはのち1960年代から1970年代に日本に紹介され、1980年代には韓国へ日本を経由して伝わった。
近年、李栄薫らは李氏朝鮮時代の資料を調査し、李氏朝鮮時代の末期に朝鮮経済が急速に崩壊したことを主張し、近代化萌芽論を強く否定した。またハーバード大学の朝鮮史教授カーター・J・エッカートは、資本主義萌芽論を「論理ではなく日本国を弾劾することが目的」とし、韓国の資本主義は日本の植民地化の中で生まれ、戦後の韓国の資本主義や工業化も、大日本帝国の近代化政策を模したものであるとした[86]。またエッカートは大日本帝国による統治そのものについて朴正煕政権との類似性などを挙げ、軍事独裁の一形態であり、韓国の資本家に独裁政権への依存体質をもたらす原因になったとも述べている[87]。
これに対しカリフォルニア大学のステファン・ハガードは、エッカートの議論は具体例に欠しいと批判した[88]。しかしハガードの研究においても、戦後の韓国の経済成長は日本統治期から引き継いだ金融システムと権威主義的国家構造による効率的な外資利用によるものだとしており、韓国の内在的発展性の重要性を弱めていると主張する韓国人もいる[89]。
ほか韓国においても、その後の実証的研究の進展により、若い研究者からはこの資本主義萌芽論は採用されなくなってきている[90]。
日本内地への影響[編集]
日本内地へ多くの朝鮮人が流入したことによって、内地の失業率上昇や治安が悪化したため、日本政府は朝鮮人を内地へ向かわせないよう、満洲や朝鮮半島の開発に力を入れるとともに、内地への移住、旅行を制限するようになった。また、朝鮮半島内でのインフラ整備に重点をおいたため、東北地方のインフラ整備に遅れが生じた。[91][92]。さらに、朝鮮半島から廉価な米が流入したために米価の低下を招き、その影響で東北地方などの生産性の低い地域では農家が困窮することとなった。このため崔基鎬は、韓国併合によって搾取されたのはむしろ日本であるとしている[93]。
訪れた外国人の評価[編集]
1912-1913年の在日アメリカ大使 Larz Anderson の妻で作家の Isabel Anderson が、日本へ赴任の際に韓国に立ち寄った時の手記によると、「寺内総督統治の下、韓国に多くの発展があった。これは、地元の人と征服者の間に摩擦無く成し遂げられるとは限らないが、その結果は確かに驚くべきものだと認めなければなるまい。政府は再編成され、裁判所が確立され、法が見直され、景気が良くなり、交易が増えた。農業試験場が開設されて農業が奨励され、内陸から海岸まで鉄道が敷かれ、港が浚渫されて灯台が建立された。韓国への日本の支出は毎年1,200万ドルに上っている。」[94]
歴史認識の比較表[編集]
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韓国併合について、以下のような歴史認識の相違、対立がある。
韓国併合を肯定的に捉える歴史認識 | 韓国併合を否定的に捉える歴史認識 | |
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日本による統治は朝鮮に近代化をもたらしたか | 李氏朝鮮末期の朝鮮には資本主義の萌芽は存在せず、日本による統治が朝鮮の近代化をもたらした(カーター・エッカート[95]、安秉直[96]、李大根[97]、李栄薫[98]、崔基鎬[99])。韓国における資本主義萌芽論は「論理ではなく日本国を弾劾することが目的」とし、李氏朝鮮において近代化の萌芽を発見することはできない(C・エッカート[95])。ステファン・ハガードはエッカートの議論は具体例に欠しいと批判した[88]。しかしハガードの研究においても戦後の韓国の経済成長は日本統治期から引き継いだ金融システムと権威主義的国家構造による効率的な外資利用によるものだとしており、韓国の内在的発展性の重要性は弱められている[89]。日本による朝鮮の近代化によって食料生産も順調となり、人口は倍増し、日本資本による百貨店の隆盛など消費社会化ももたらした(林廣茂[100]) | 李氏朝鮮末期の朝鮮には近代化や資本主義の萌芽が存在していた(資本主義萌芽論という)(梶村秀樹[101]、姜在彦[102])。資本主義萌芽論では、李氏朝鮮後期には資本主義の萌芽が存在したが日本の植民地支配により芽が摘まれてしまったとされる。(この理論は1950年代後半に北朝鮮で唱えられ、日本には1960年代に紹介、1970年代に力を持った。韓国には1980年代に日本経由で広まった。しかし、その後の実証的研究の進展により否定されてきている[90]) |
併合の目的、意義 | 大日本帝国は自国の独立と安全を確保する目的と、朝鮮に対する善意の両方から併合を行った(金完燮[103])。朝鮮を近代化することにより日本の防波堤となるよう援助や支援を行ったが、朝鮮では改革派は失脚し反動勢力が政権を掌握して、朝鮮自身による近代化は絶望的となったので、日本が直接近代化を行うための併合。仮に大日本帝国が朝鮮を併合しなければ、帝政ロシアが併合していた(崔文衡[104]、韓昇助[105])。ソ連時代における少数民族の過酷な境遇を思えば、朝鮮が大日本帝国に統治されたことは肯定できる。当時改革派の朝鮮人にとって清とロシアは反動的で、米国は無関心であり、日本のみが自国の改革を推進していたため期待した(グレゴリー・ヘンダーソン[106])。朝鮮が自力で近代化を成し遂げることが出来れば併合されることもなかったであろうし、日本による統治がなければ近代化もなかった(金完燮[107])。韓国併合は搾取・虐殺・略奪・収奪する支配としての植民地支配(Colonization)ではなく、イングランドがスコットランドを併合したように現地人の生活向上を目的とした併合・合邦(アネクゼーション annexation)であった(呉善花[108]) | 朝鮮の富を収奪する為の併合である。ロシア併合は仮定の話でしかないので、この点はほとんど論じられない。大日本帝国が併合しなければ帝政ロシアに併合されると言う設定も、また大日本帝国の統治のほうが帝政ロシアやソ連による統治より善いとする論拠のいずれも日本側のみの言い分にすぎない。 |
韓国併合の合法性 | 李朝末期では最大と大日本帝国がみなしていた政治団体・一進会も、併合に賛成していた。韓国併合は多くの朝鮮人に歓迎された。しかし、一進会などが主張する対等合併は両国の国力の差、大韓帝国の混乱した実情などから非現実的で、朝鮮が従属的な地位に置かれるのは必然的であった。地方の農民反乱についてはその多くが既得権益を失った両班によるものであり、何らかの手段を用いて貧農を反乱に駆り立てたのに違いない。国際法学者J・クロフォードは韓国併合は国際的に認められていたもので手続きに不備があったとしても無効とはならないと李泰鎮の不成立論を斥け[109]、「自分で生きていけない国について周辺の国が国際的秩序の観点からその国を取り込むということは当時よくあったことで、韓国併合条約は国際法上は不法なものではない」とし、また韓国側が不法論の根拠の一つにしている強制性の問題についても「強制されたから不法という議論は第一次世界大戦以降のもので当時としては問題になるものではない」としている[110]。伊藤博文は高宗に対して「承諾されるのもお拒みなさるのも皇帝のご勝手です。もしお拒みなさるならば、日本は決心するところがありますので、その結果は条約締結以上の困難をもたらすでしょうと述べており[111]、これは外交交渉でよく用いられるセリフであって、脅迫(強制)とはいえない、また軍や憲兵による脅迫は伝聞に依拠したもので確実な証拠はない(原田環[112])。第二次日韓協約の調印者朴斉純が外部大臣であり権限を有しており有効である、また条文に批准条項がないから批准書の交換が行われなかった、条約名のない条約のケースは広く見られるため、合法であった(海野福寿[113]、坂元茂樹[114][115])。条約は締結国間で決定するもので、条約形式が固定されているわけではない(原田環[116])。また高宗は第二次日韓協約締結に反対したと戦後主張されてきたが、実際には締結に積極的であった[117]。 | 日本キリスト教協議会と韓国キリスト教教会協議会の認識によれば、韓国では朝鮮の植民地化は武力による脅迫によって断行されたとする認識が多数を占める[118]。国家から国家への強制や脅迫があっても条約は無効にはならないが、国の代表者個人に対して加えられた強制や脅迫の結果として結ばれた条約が無効となるということは、第二次日韓協約締結当時の国際慣習法として成立していた[119]。国際法学者フランシス・レイは「第二次日韓協約締結時に国家代表たる高宗に強迫が使われた」ことと「日本の韓国に対する保証義務」をあげて第二次日韓協約が無効と主張している[120]。1935年のハーバード草案や1963年の国連ILCのウォルドック特別報告書は第二次日韓協約を国家代表個人の強制による絶対的無効の事例として例示した[121]。大元の第二次日韓協約が無効である以上は韓国併合に関する全ての条約は締結時から無効であり、国際法上も無効となるとの認識から締結前の日韓協定に遡及して日本側の責任を問う者もいる。李泰鎮は条約は全権委任状や皇帝の批准書がないことから不成立としている[122]。
また海野福寿[123]や小川原宏幸(同志社大学)の様に併合条約が「たとえ合法でも不当」という立場をとり植民地化の不正義を遡及して追及すべきとする者もいる。朝鮮の資本主義化を悲観していた一進会でさえ大日本帝国への吸収合併ではなく対等合併を主張していたために彼らの期待は裏切られた。併合への民間レベルでの抵抗は、各地で地方士大夫に率いられた農民反乱が起きたことが示している。
併合は日本軍の占領、王后の殺害、王への脅迫によって実現されたもので、力によって朝鮮民族の意志を踏みにじったもので、韓国皇帝が同意したのは神話であり、全文も本文も偽りであり、併合条約は不義不当である(2015年知識人声明より。発起人は石坂浩一、上野千鶴子、内海愛子、太田修、小田川興、粕谷憲一、高崎宗司、田中宏、外村大、中塚明、林博史、水野直樹、宮田節子、山田昭次、矢野秀喜、和田春樹。賛同者には鹿野政直、姜尚中、李成市ら270人[124])。なお、元々の原文の声明は2010年に韓国の研究者と共同で発表したものであるが、古田博司は、この声明を「韓国で日韓併合条約無効論が盛りあがりを見せ、日本の非良心的・反進歩的知識人が5月に、それに同調する声明を出した。」と評している[125]。
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独立運動 | 朝鮮においては三・一独立運動など独立運動が相次いで起こっていたが、それらは本格的な武力衝突には至っておらず、独立運動としては小規模であり、多くの朝鮮民衆は独立に向けて熱烈に活動していたわけではない。当時の朝鮮人の知識層の47.2%が独立を諦め、28.1%がどちらでもよいと回答し、9.3%が独立すべし、15.4%が有利な時期に独立すべしと回答していた[126]。農民と労働者は68.3%がどちらでもよい、6.5%が独立すべしと回答していた[126]。別の調査では日本による統治に対して朝鮮の知識人は44.9%が満足、朝鮮全体の37.7%は満足し、朝鮮全体の36.1%は興味がない、朝鮮全体の14.9%は改革を要求、11.1%が反日的であった[126]。こうした調査を日本政府が実行し、またそのなかで「独立すべし」と回答しても危険ではなかったことに留意すべきである[126]。 | 大日本帝国の統治に対して朝鮮の民衆は併合前から激しく反発していた。朝鮮では100万人規模の三・一独立運動など独立運動が相次いで起こっていた。三・一独立運動が大日本帝国政府に与えた衝撃は大きく、運動が首都で弾圧された後も各地方に波及し、完全な制圧迄に数ヵ月を要している。その中では治安当局がキリスト教会に立てこもった独立派住民を教会ごと焼き払い皆殺しにして鎮圧する事件まで引き起こした(堤岩里事件)が、これは欧米諸国の非難を招き、以後キリスト教会を弾圧対象にできなかったため却って独立運動の拠点を作り出してしまう結果にもなった。独立運動に対する植民地下の法による処罰は全面的に「人道主義に反する植民地犯罪」であった[118]。また共産主義運動に対する弾圧への評価では大日本帝国統治に批判的な人々の間においても、日本革命または中国革命など単に他国の共産主義化運動に従事するべき存在として扱われていたという評価や、朝鮮民主主義人民共和国の建国の基礎になったとする評価、無差別な略奪・暴行を行う匪賊以上の打撃を大日本帝国へ与えられなかったという評価や、むしろゲリラであるかぎり匪賊と(犯罪行為はともかく)見分けがついてはならないのが当然とするものまで様々である。 |
大韓民国臨時政府 | 上海に成立した大韓民国臨時政府は派閥抗争が激しく、また無差別なテロリズムの性質が強く独立運動の実態に乏しい。臨時政府が第二次世界大戦中に行った宣戦布告は連合国からは承認されていない。また日本軍と直接対決に至る以前に日本の降伏によって大韓民国として独立を迎えており、大韓民国臨時政府が独立したわけではない。 | 上海では大韓民国臨時政府が成立し光復軍を組織して抗日運動を行っており、第二次世界大戦中には大日本帝国に対して宣戦布告を行い、連合軍と共同行動をとった。 |
植民地化による搾取の実態 | 大日本帝国はその開国直後から、帝政ロシアの南下への備えとして、朝鮮に対して自立を求め様々な支援をしたが、朝鮮独自の改革運動が失敗に終わると、併合に方針を転換した。そのため、当初から植民地化ではなく、大日本帝国の一部分として殖産と教育などの様々な投資を活発におこない、朝鮮半島の経済および人的資源を育成しようとした。したがって、植民地的搾取ではなく、投資に重点が置かれ、市場を開設し、インフラを整備した。特に、教育の普及による朝鮮半島の人的資源の開発は当初から重視され、学制がひかれるとともに、京城帝国大学が帝国大学としては6番目に京城府(ソウル)に設置された。朝鮮は天然資源も労働力も豊富ではなく、植民地としての価値はなく、逆に、大日本帝国からの財政支援が長期に渡っておこなわれた。ゆえに大日本帝国は併合によって利益を得たわけではなく、むしろ朝鮮に恩恵を及ぼした面が大きい。これらを「植民地支配」であるとして、西洋列強が行った残虐で搾取的な異民族支配と同じ言葉で括るのは、不当な印象操作であり、うけいれられない。朝鮮半島が、帝政ロシアや清国の侵略圧力にさらされていた当時、それらの国家に対して侵略をさせないだけの経済力と軍事力を独自でもつことができなかったという状況下での選択としては、韓国併合はもっとも妥当なものに近い。ジョージ・アキタとブランドン・パーマーによれば日本による統治は、欧米宗主国による強制労働や人種差別政策とは比べようのないほど緩やかなものであったし、オランダ領東インド、英仏ベルギー、ポルトガル領アフリカ植民地での強制労働に日本は頼らなかった、インフラ建設には他の植民地保有国よりもはるかに多くの努力を払ったとしている[127]。朝鮮民衆の最大組織であった一進会などの勢力も併合を推進した。ヒルディ・カンによるサンフランシスコ在住の韓国系住民51人への聴き取り調査では、「辛いことは何も体験していない」と前置きをして回想する場合は多く、「ほとんどのひとは日本の統治に順応していた」という発言の頻度が高かった[128]。元韓国空軍大佐の崔三然は諸外国の植民地支配が一方的に搾取するだけであったのに対して日本は国内の税金をインフラ整備に投入したと評価した[129]。朴贊雄は希望が持てる時代だったと回想している[130]。金儀遠は、日本の朝鮮での鉄道・港湾・学校などのインフラ建設について搾取によるという主張があるが、朝鮮で徴収した税金は農地税程度で、日本政府が予算を使って建設したのが事実としている[131]。 | 朝鮮は植民地化によってあらゆる搾取(七奪)に甘んじ絶対的に窮乏化した(すなわち相対的に窮乏化したのではない)。植民地政策、特に土地調査事業によって大量の農民が土地を離れざるを得なくなった。多くの人々やその子孫たちを、中国、ロシア、日本などに移住させるという苦痛を負わせた[118]。産米増殖計画においては、日本内地への輸出ばかりが増大し小作農は窮乏化した。また、工業化によって大日本帝国の資本家(企業)は安価な労働力を確保し、土地・資源のみならず膨大な労働力を搾取した。朝鮮人による商品消費も日本資本または日本資本傘下の朝鮮人系企業に依存したため、朝鮮人は二重三重に搾取された。朝鮮の植民地化によって、大日本帝国は莫大な利益を蓄積し、欧米の植民地宗主国に列する強国に成長した。マーク・R・ピーティは初代総督寺内正毅による朝鮮統治は武断政治で過酷であったとする[132]一方で、日本による土地調査や登録は「徹底的に正直なものであった」としている[133]。アンドレ・シュミットは日本の朝鮮支配は過酷であったとする[134] |
差別 | 経済的平等については併合直後の、日本内地と朝鮮半島の経済的な開発状況にはかなりの差があり、当初から大日本帝国は朝鮮半島に多大な投資を行ってその改善に努めた。その格差が大きかったため改善には多大な時間を必要とし併合期間が終了するまでに達成され得なかったが、経済水準の均衡化はかなりの改善をみた。(この時期の朝鮮半島に対する投資が東北地方の過小資本をよび東北地方の経済の遅れの原因となったという指摘がある)。政治的平等については、朝鮮人に対しても内地に居住してさえおれば参政権・被参政権とも認められており(→1925年普通選挙法)衆議院選挙に参加することは可能であった。朴春琴の様に朝鮮人として衆議院議員に選出された事例もある。かつ、選挙権と徴兵の有無が多くの国で併せて考えられていたのと趣旨を同じくし、朝鮮半島に対しては徴兵が実施されなかったように、徴兵義務などの負担と選挙権などの政治的な権利の付与は、朝鮮半島の地理的な隔絶による選挙の困難性と併せて、ある程度の合理性のある区別が行われていたと見ることが可能であり、これらの事態をさして単純な差別と見ることはできない。なお、太平洋戦争中には朝鮮に徴兵制がひかれるのが決まったのと平行して朝鮮の住民にも投票権が認められた(ただし、あくまでも制限選挙ではあった)。支那事変から太平洋戦争にかけては大日本帝国内の戦時体制の強まりの結果として同化圧力も高まった。この時期に創氏改名が行われているが、これは朝鮮人側から改名についての要望が当初のきっかけで、日本側はその要望に答えたのだから朝鮮人に非難されるいわれはない。また創氏改名も日本人名にすることを強制されたわけではなく、改名は任意だった。第二次世界大戦中に、抗日運動がほとんど起きていないのは、ほとんどの朝鮮人が日本人になる道を受け入れ始めていたからである。そのことは朝鮮人の志願兵の多さからも傍証されうる。官公庁や軍においても朝鮮人の高官が存在したことは、形式的には差別が存在しなかったことの証左となる。また共産主義者の弾圧にしても朝鮮人のみならず日本人に対しても行われており、これも差別はなかった。 | 日本人は朝鮮人を蔑視していた。その象徴が創氏改名であり、これに応じない朝鮮人は、郵便物が配達されないなどにとどまらず、職や仕事を得られず生活できない事態にまで追い込まれるといった不利益を受けた。いわば社会的強制であった。地方では強制のためにしばしば官憲による暴行が横行した。大日本帝国の官憲と行政官とによる創氏改名の強要は日増しに強まり、第二次大戦中には抗日運動の一つも起こせないほど、官憲による弾圧が激しくなっていた。民族主義者の抗日運動は1920年代のうちに壊滅し共産主義者による運動のみが細々と残った。朝鮮に徴兵制が施行されなかったのは多くの植民地と同じく朝鮮人の反乱を恐れた為である。政治的平等については外地には選挙区が設置されず朝鮮から本国への議員選出は不可能だった。内地の選挙区から出馬すれば国政に参加出来るがそれには内地の住人からの支持を受ける必要があったので、朝鮮人の代議士が存在したとしても本国の傀儡としてあらかじめ選出されている候補に過ぎず、朝鮮の民意を国政へ反映させる事は制度的に不可能だった。外地の朝鮮人は国政への参政権を持たない代わり兵役の義務を負わなかったが労役の義務は負っていた。国政に関与出来た内地の日本人にとって国民徴用令に基づく労役は正当な義務だったが、関与できない外地の朝鮮人には不当だった。1945年4月の改正選挙法で外地からも国政に出馬出来る様になったが、衆議院の定数466に対し台湾5名、朝鮮22名と大きく制限されていた。官公庁や軍に朝鮮人が採用されても多くは下級職であり昇進の道は日本人と比較にならないほど狭かった。これらは総動員体制下で唱えられた一視同仁や内鮮一体などの美麗字句が単なる建前だった証拠である。朝鮮人への蔑視は継続して様々なメディアに現れており激化する一方だった。庶民の間では“(天皇)陛下の赤子に鮮人がなるなど畏れ多い”という差別思想が根強くあり、特に朝鮮において根強かった。この差別思想は総督府の支配政策にとって障害になるほど強固であり、朝鮮憲兵隊は本国に対して朝鮮に植民した日本人(本国にとっては棄民に近い扱いだった事情も介在する)が朝鮮人に蔑意をあらわにする実例を具体的に報告することで、日本人の差別意識が朝鮮人の民族意識を涵養しているという警告を再三に渡って送っている。 |
解放後 | 大日本帝国は、大量のインフラを朝鮮に残したにも拘らず、朝鮮戦争でそれを台無しにした。北部では、行政のプロを対日協力者として公職追放したために、行政のノウハウがない状態で建国しなければならず、朝鮮戦争後にも金日成による相次ぐ粛清によって人材を失い正常な統治が不可能になった。南部では、朝鮮戦争前には権力をめぐる抗争や共産主義者のゲリラ活動が激しく、朝鮮戦争後には李承晩政権のもとで経済的に停滞していた。行政機構の機能不全は朝鮮人の施策によって引き起こされ、朝鮮戦争は日本国政府が関与しないところで金日成の奇襲によって起きたのだから、何もかも大日本帝国統治が原因だとするのは筋違いである。また1965年(昭和40年)の日韓基本条約には過去の賠償責任問題については「完全かつ最終的に解決した」とする条文があり、同条約によって日本は朝鮮に投資した資本及び個別財産の全て(GHQ調査で52.5億ドル)を放棄するとともに、約11億ドルの無償資金と借款を援助した。同条約を韓国国民に周知しなかったのは当時の韓国政府の側に責任がある。また韓国政府はその資金をインフラの整備に充て、戦時徴兵補償金は死亡者一人あたり30万ウォン(約2.24万円)を支払っている[135]。補償金の額については日本政府は関与していない。
詳細は「日本の戦争賠償と戦後補償」を参照
半島の分断については、当時日本は連合国軍最高司令官総司令部に占領統治されていて、国家主権をもっておらず、分断にはまったく関与していない。1945年(昭和20年)9月2日の降伏文書調印による日本の朝鮮半島統治は終了直後から北緯38度線以南を米国に、38度線以北をソ連に占領され、両国の軍政支配を受けたのであり、その後、米ソ両国が朝鮮の信託統治実現を巡って決裂し、それぞれの支配地域で政府を樹立する準備を開始した結果、1948年(昭和23年)8月15日に在朝鮮アメリカ陸軍司令部軍政庁軍政下地域単独で大韓民国が、同年9月9日に朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)が成立したのである。
| 南部では占領軍が朝鮮総督府が残した行政機構・行政官・警察官を用いた統治を継続しようとした。朝鮮人にとっては、解放の喜びに浸る間もなく対日協力者による統治が続くと映り、大きな反発を招き、ときには反乱が起きた。これは大韓民国政権担当者の座を巡る争いと密接に関連した。北部では朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)政府が対日協力者を徹底的に除去したため貧農および知識人層の支持を集め多数の越北者が出現したが、のちに粛清される者が多数出るなど失望させられる結果となった。日本帝国による植民地支配の結果、朝鮮半島は1945年(昭和20年)の解放と同時に分断された。大日本帝国は敗戦国であることから植民地統治の後始末にあたる責任から逃れることに成功した。朝鮮は朝鮮戦争という東西の代理戦争に巻き込まれ莫大な人的物的資源を失った。日本は朝鮮半島分断の原因となると共に、朝鮮半島分断により恩恵を蒙った。それゆえ日本は朝鮮半島の分断と朝鮮戦争に歴史的な責任を負う[118]。大日本帝国の植民地支配が悲劇の原因であるという認識を示す日本国人もいる。北朝鮮は戦後の日本国の行為について謝罪と償いを求めており、1990年(平成2年)には金丸信を代表とする自民党・旧社会党・朝鮮労働党の三党間で「南北朝鮮分断後45年間についての補償」が約束された」[136]。日本国内の革新派・韓国内の左派ともに、日本国政府が植民地支配被害者・戦争被害者に対して何らの対策もとらず「日韓基本条約締結によって日韓問題は全て解決済み」として一方的に現状を正当化しつづけてきたことの道義的責任、それによって被害を拡大したことの不作為責任を追及している。 |
日韓基本条約による諸問題の清算[編集]
1965年(昭和40年)、日韓両国にて交わされた日韓基本条約において、1910年(明治43年)8月22日以前に両国において交わされたすべての条約、協定はもはや無効であることが「確認」され、日韓併合は無効化された。また、同条約において日本は巨額の資金協力(無償3億ドル、有償2億ドル、民間借款3億ドル、いずれも1965年(昭和40年)当時額)を韓国に対して行い、それと引き換えに下記の点が確約された。
- 両締約国は、両締約国及びその国民(法人含む)の財産、権利及び利益並びに両締約国及びその国民の間の請求権に関する問題が、完全かつ最終的に解決されたこととなることを確認する。(個別請求権の問題解決。)
- 一方の締約国及びその国民の財産、権利及び利益において、一方の締約国及びその国民の他方の締約国及びその国民に対するすべての請求権であって1945年8月15日以前に生じた事由に基づくものに関しては、いかなる主張もすることができないものとする。(相手国家に対する個別請求権の放棄。)
しかし、事後も韓国からの「賠償要求」は発生しつづけている(以下の#近況を参照)。
近況[編集]
2009年(平成21年)、韓国政府(外交通商部)は、強制動員労務者と軍人・軍属の不払い賃金訴訟にさいし、「(不払い賃金)は、請求権協定を通じて日本から受けとった無償の3億ドルに含まれているとしているため、日本政府に請求権を行使しにくい」という立場を公式に提示した[137][138]。なお韓国政府は太平洋戦争強制動員犠牲者支援法制定後、2008年(平成20年)から「人道的次元で苦痛を慰める」として不払い賃金被害者たちに1円あたり2000ウォンで換算し、慰労金を給付している。
2010年(平成22年)、菅直人首相は日韓併合100周年を記念して韓国に詫びる談話を発表したが、「謝罪」ではなく「お詫び」という表現を用いたため韓国側からの反発を買った[139]。また、菅はこの談話について、安倍晋三以外の日本国首相経験者から同意を得た[140]。幸福実現党は8月10日、談話は日韓併合に至る当時の世界情勢や地政学的要因を一切ふまえず、自国の安全と繁栄を確保しようとした先人の努力を完全否定し、一方的に「自らの過ち」と断罪するものとし、また日本による統治が韓国の近代化と発展に寄与した功績を全く考慮しないものであるとして、即時撤回を求める声明を出した[141]。声明では日韓の戦後補償の問題は「完全かつ最終的に解決」されており、過去を蒸し返し謝罪する「菅談話」は「村山談話」や「河野談話」と同じく日韓友好を根本から揺るがし国益を損ない、著しく問題があるとしている。
2010年(平成22年)8月13日、日本キリスト教協議会は、韓国キリスト教教会協議会と共同で「韓日強制併合100年 韓国・日本教会共同声明」を発表し、日韓併合条約は「武力の脅迫によって調印された条約」であり不法であること、また独立運動(抗日パルチザン)への処罰が「人道主義に反する植民地犯罪」であったこと、また日本の統治は朝鮮半島に窮乏化をもたらし、そのため多数の朝鮮人を中国、ロシア、日本などに移住させたこと、また日本による統治のため、朝鮮半島が分断し、朝鮮戦争が起こったことなどを主張した上、日韓併合条約の無効化と日本政府による賠償、朝鮮半島の平和統一に向けた努力等を訴えた[142][118]。この主張は、2015年に和田春樹、林博史、内海愛子らが発起人となり、姜尚中、李成市らの賛意を得た「2015年日韓歴史問題に関して日本の知識人は声明する」の声明で繰り返し訴えている。[143]
併合条約の合法性[編集]
日韓両国の見解[編集]
- 第二次世界大戦後の日本側は韓国併合に関しては韓国併合ニ関スル条約の締結自体合法であったと考えている。
- 第二次世界大戦後に大韓民国・朝鮮民主主義人民共和国として成立した両政府とも、「韓国併合ニ関スル条約は大日本帝国と大韓帝国の間で違法に結ばれた条約であるとして、同条約とそれに関連する条約すべてが当初から違法・無効であり、大日本帝国による朝鮮領有にさかのぼってその統治すべても違法・無効である」と主張している。
この点について、日本国と大韓民国の間で1965年(昭和40年)の国交回復時に結ばれた日本国と大韓民国との間の基本関係に関する条約(日韓基本条約)では、その条文第二条において「千九百十年八月二十二日以前に大日本帝国と大韓帝国との間で締結されたすべての条約及び協定は、もはや無効であることが確認される。」とすることで合意に達した。しかし、両国でこの条文に関する解釈が異なるなど、見解の相違が解決したわけではない[144]。日本国政府はこの条約についての「もはや無効である」という表現は日本側の立場をいささかも損なうものではないと表明している。他方、韓国側ではこの日韓基本条約さえも無効とする勢力もある。
国際法からの観点[編集]
英ケンブリッジ大学の国際法学者J. クロフォード教授は「自分で生きていけない国について周辺の国が国際的秩序の観点からその国を取り込むということは当時よくあったことで、韓国併合条約は国際法上は不法なものではなかった」とし、また韓国側が不法論の根拠の一つにしている強制性の問題についても「強制されたから不法という議論は第一次世界大戦(1914年(大正3年) - 1918年(大正7年))以降のもので、当時としては問題になるものではない」としている[110]。
「韓国併合再検討国際会議」も参照
注釈[編集]
- ^ 今日の大韓民国と朝鮮民主主義人民共和国に相当する地域。旧韓国、朝鮮国(李氏朝鮮)領域。間島については一部に領有権について主張がある。
- ^ 『日韓合邦秘史』 黒竜会出版部
- ^ 原文「Где раз поднят русский флаг, там он уже спускаться не должен.」
- ^ a b c Широкорад Александр『Россия и Китай. Конфликты и сотрудничество』(ロシア語) P.33-46 2004年 ISBN 5-94538-399-6.
- ^ 岡本隆司 『属国と自主のあいだ 近代清韓関係と東アジアの命運』 名古屋大学出版会、2004年10月。ISBN 4-8158-0494-X。
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- ^ a b 日露戦争と露西亜革命 : ウイッテ伯回想記. 上巻 P.13 セルゲイ・ヴィッテ 1930年
- ^ a b セルゲイ・ヴィッテ 『Воспоминания: Царствование Николая II』 スロヴォ社(ベルリン) 1922年
- ^ 原文「если бы Император Николай II издал тогда указ о том, что надобно устраивать наш морской базис на Мурмане, то несомненно, он сам увлекся бы этой мыслью, которая представляла собою завет покойного его отца. Тогда, вероятно, мы не искали бы выхода в открытое море на Дальнем Востоке, [...]」
- ^ a b c
第一銀行五十年小史 P.79-80 長谷井千代松 1926年8月5日
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^ 「日省録」や「承政院日記」などの分析から高宗は日韓保護条約に賛成しており、批判的だった大臣たちの意見を却下していたとする研究結果も、2001年(平成13年)にハーバード大学アジアセンター主催で開かれた国際学術会議で出されている(原田環 「「京城は差別語だ」と言われたら」『韓国・北朝鮮の嘘を見破る 近現代史の争点30』 鄭大均・古田博司編、文藝春秋〈文春新書〉、2006年8月、pp. 261-278。ISBN 4-16-660520-8。)
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^ 李氏朝鮮時代も土地売買は可能であり経国大典(1460年)や続大典(1744年)で届出制を規定していたが、これら官許方式は衰退し民間同士での - 私的売買が横行しており公証機能が衰退していた。『最新韓国実業指針』岩永重華(宝文館明治37年)や雑誌『韓半島』第2年2号(明治35年)などは朝鮮末期の不動産売買や制度の混乱について記録している。
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- ^ 「植民地」なる用語への評価としてはたとえば(植民地の)此文字の我國で用ゐられ初めたのは、極めて最近の事で、外國の政治、經濟や、植民に關した學説の輸入されて以來であらう。其れ故新しい教育を受けた青年は兎に角、明治以前の空氣に多く包まれた人の頭には、植民地と云ふ文字が、非常にハイカラな文字になつて響いて居る。隨て、植民地がどうの、植民政策がどうの、拓殖局がどうのといつた處で、
虻 が鼻の頭を刺した程の感じもない。新領土といふ文字にせよ、其れは、二十七八年、三十七八年に於ける、二大戰役の賜物で、此戰役以前、新領土といふ文字は、あまり繰返されて居ない。何れにしても、植民地といふ文字は、現代人に未だ耳新しい文字である。先づ植民的知識をいへば、其は北海道開拓の其れであつたらう。北海道開拓は、我日本國民に、植民の意味を、朧氣ながらも、先づ教へた處の鐘の音であるのである。—全國新聞東京聯合社編、『日本植民地要覧』日本経済新誌社、1912年11月、p.2 - ^ a b 矢内原(1926)、pp. 17-25
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- ^ 朝鮮総督府官制により、内閣総理大臣を経て天皇に直奏すれば良いとされていた。統治権は朝鮮総督府が総攬しており、「協力的朝鮮人」や朝鮮在住日本人においても朝鮮での参政権は付与されなかった(ただし1931年(昭和6年)から地方議会開設)。朝鮮総督府は独自の立法権(課税権を含む)と限定的な課罰権を付与されていたが(朝鮮総督府官制4条)、その他は内地の帝国議会による立法その他が適用された。内地の行政庁は朝鮮総督府への指揮権限を持たないとされたが、実務においては拓務省や内務省、あるいは陸海軍省など内地行政機関の依命通牒(直接の権限はないが、上位職の指示命令により通知(アドバイス)する文書)に従うことが多かった。
- ^ 参政権については内地に居住していれば内地戸籍者と同等であった。しかし徴兵に関する義務(徴兵に応ずる権利)や朝鮮籍女性が米国人や中国人など第三国国籍の男性と結婚して日本国籍を離脱する権利などが制限されていた(規定が存在しなかった)。
- ^ 後述。高麗大学名誉教授・政治学者韓昇助の事例など。
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参考文献[編集]
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水間政憲 『朝日新聞が報道した「日韓併合」の真実――韓国が主張する「七奪」は日本の「七恩」だった』 徳間書店、2010年7月。ISBN 978-4-19-862990-8。
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関連項目[編集]
- 韓国併合再検討国際会議
- 国家の独立における白紙の原則
- 条約に関する国家承継に関するウィーン条約
- 朝鮮の歴史観 - 歴史教科書問題
- 日本統治時代の朝鮮
- 日本の戦争賠償と戦後補償
- 韓日合邦を要求する声明書
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