2025-11-30

1945年ベトナム飢饉 - Wikipedia

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1945年ベトナム飢饉

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

1945年ベトナム飢饉(1945ねんベトナムききん)は、1944年10月から1945年5月にかけて、ベトナム北部で発生した大規模な飢饉。40万人から200万人が餓死したといわれている。

経緯

風刺画

天候不順による凶作に加え、米軍空襲による南北間輸送途絶や、フランス・インドシナ植民地政府及び日本軍による食糧徴発などが重なり、ベトナム北部を中心に多数の餓死者を出したとされる。新米が収穫される1945年6月に飢餓は収束した。

死者数については40万から200万の数字が上げられる。ホー・チ・ミンによる1945年9月2日ベトナム独立宣言には、「フランス人と日本人の二重の支配」のもとで「我々の同胞のうちの200万人が餓死した」との記述がある。日本軍の戦後の調査では犠牲者数は40万としている[1]

原因

飢饉の主因は明確にこれと特定されていない。様々な要因が複合的に関連したとされている。物資不足に悩む日本軍がフランス植民地時代から始まっていた強制栽培制度を利用し食用作物(米、芋、トウモロコシ)から綿やジュート等の繊維作物への転作強要を拡大していたこと、一大米作地帯であったトンキン湾デルタ地帯の1944年の収穫量が干ばつや収穫期の水害により激減したこと、日仏の強制買い付け、連合国軍の戦略爆撃によって米の一大産地である南部から北部への輸送が不可能になったことが主な原因として上げられる[2][3]。また1944年の冬は記録的な厳寒になったことも死者を増やす原因となった[1]

影響

軍需資源への転作を進める一方で、日本側はベトナムを日本本土で必要な米の重要な供給地の一つとみなしていた[4]。1943年までには年間百万トンの米を日本本土に輸出するまでになっていた[4]。これが1944年には50万トン、1945年には4万5千トンに激減している[4]。ただし、この原因は連合国軍による通商破壊戦の影響で海上輸送が困難になったためと考えられる[4]。とはいえ、飢饉に見舞われ、輸送船も相次いで撃沈される中で、なおも日本本土への米の輸出を続けていたことは注目に値する。

ホー・チ・ミン率いるヴェトミンはこの飢饉の原因は強制調達にあると民衆に訴えかけた。ヴェトミンがイニシアティブを握るきっかけとなった[1]

1945年8月15日の終戦時直後に日本軍が仏印処理により樹立させたベトナム帝国はヴェトミンにより打倒された。

関連文献

脚注

  1. a b c 「ドキュメントヴェトナム戦争全史」、岩波現代文庫、2005年
  2. ^ 早乙女 勝元『ベトナム200万人餓死の記録: 1945年日本占領下で』大月書店、1993年9月1日。
  3. ^ La famine de 1945 au Vietnam- Les vestiges historiques”. Cơ quan chủ quản: Bộ Văn hóa, Thể thao và Du lịch. 2025年5月16日閲覧。
  4. a b c d ベトナムの旅 日本軍が200万人を飢饉で殺したという事件-25 | シルクロード日誌”. 日本シルクロード文化センター. 2025年5月16日閲覧。

外部リンク


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シルクロード日誌
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2016.08.04 Thursday
author : 野口信彦
ベトナムの旅 
日本軍が200万人を飢饉で殺したという事件-25


 この事件は1945年、終戦の年のことである。

 日本軍は、アジア太平洋戦争の初期作戦で東南アジアの各地を占領して軍政を敷いた。まだ、英米仏の戦備が不十分な時だったので奇襲攻撃のようだった。開戦直前の1941年11月に大本営政府連絡会議で決定された事項の「南方占領行政実施要綱」は、軍政の目的が「治安の恢復、重要国防資源の急速獲得及(び)作戦軍の自活確保」としていた。



日本軍はフィリピンが陥落すれば、

次は仏印が攻略されると思い込んだ。





要するに「占領している日本軍の食糧は現地で獲得(略奪)せよ」とのことであった。民衆の生活向上や、独立運動の援助などは毛頭、考えていなかった。また、無謀にも日本軍は「インパール作戦」で、ビルマのジャングル地帯を通過してインドまでもを攻略しようとしたが、その食糧もすべて現地挑発が原則だったしかし、ジャングルに人は住んでいない。日本軍のすべての戦死者の70%が餓死であったことからも理解できる。



「銀輪部隊」も泥沼に足をとられて進めない





 この作戦を、日本の地図上で再現してみると、次のようになる。

 兵士は小田原から北アルプスの槍ヶ岳を越えて岐阜まで行く。

 作戦司令部は仙台にあり、兵站(食糧や燃料貯蔵庫)は宇都宮。というものである。

 どんなに無謀な作戦だったかが理解できると思う。

 食料用にと、住民から1万頭の牛を徴発したが、牛が高い山を越えるのを嫌がったので、谷底へ突き落して死なせた。

 さらに言えば、9万人の軍隊のうち3万人が戦死、4万人が餓死であった。

 生き残った2万人は、司令官があまりもの無謀な作戦で撤退を決断したからだといわれている。



ジャングルを行進する日本兵



日本軍を撃退しに向かいインパール-コヒマ間の路上を進撃する、

M3中戦車を伴ったグルカ兵

 ベトナムにおいては1944年10月から45年の5月にかけて、北部ベトナムで発生した大規模な飢饉によって40万人から200万人が餓死したといわれている。その原因としては、天候不順による凶作に加え、米軍の空襲による南北間の輸送の途絶や、フランスのインドシナ植民地政府及び日本軍による食糧徴発などが複合的に重なり、ベトナム北部を中心に多数の餓死者を出したとされている。

新米が収穫される45年6月がすぎてから飢饉は終息した。しかし、このことはあくまでも、日本軍の占領と支配がもたらしたことが直接・間接の原因だというしかない。なぜなら日本軍は、ベトナムで獲れた米を日本本国へ送っていたからである。

日本本土への米の輸出  ベトナムからの輸出量は

               1940年47万トン

               1941年59万トン
               1942年97万トン
               1943年100万トン
               1944年50万トン

               1945年4万5千トン
                注:1945年は戦況悪化で輸出できなかった。


※当時、フランス本国はナチスドイツに敗北してヴィシー傀儡政権が存在していたので、仏政府と日本とはなかば友好国のような状態であった。45年3月には日本軍がベトナムでクーデターを起こして日本支配が完了した。

 

 インドシナ半島においても、ホーチミンが率いるベトナム独立同盟(ベトミン)が影響力を拡大しつつあった。対日協力政権が成立していたビルマでも、現在のアウンサン・スー・チー氏の父親のアウンサン氏が反ファシスト人民連盟を結成し、戦争末期には、ビルマ国軍が日本軍に対する反乱に立ち上がった。こうして日本の支配は各地で綻(ほころ)びを見せ、日本の軍政の抵抗のなかから、戦後の民族独立運動を担う主体が形成されつつあったのである。

 

 死者数については、40万人から200万人が餓死したといわれている。戦後の1945年9月2日のホーチミンによるベトナム独立宣言には「フランス人と日本人の二重の支配による支配」のもとで、「我われの同胞のうち200万人が餓死した」との記述がある。

日本軍の戦後の調査では40万とされているが、これから戦犯の裁判を控えているもとで、被告が自分たちが加えた罪悪を多めに言うはずはないと思う。200、あっも根拠は打ち出せていないが、いずれにしても膨大な数の人びとが、日本軍とフランスの措置によって死に至らしめられたことは間違いない。。

 

 日本の軍政は戦局の悪化に気を取られ有効な対策を取ろうとしなかった。フランス政庁は日本軍からの指示があったとして、過分な収穫米を強制的に徴収した。これは日本軍への反感を強めることが目的で、集めた米をまとめて焼却、あるいは川へ投棄していたとの証言もある。

 

 ホー・チ・ミン率いるベトミンはこの飢饉の原因は日本軍の強制調達にあると民衆に訴えた。フランスによる植民地支配からの解放軍として一定の支持を集めていた日本に対する信頼は失われ、ベトミンがイニシアティブを握るきっかけとなった。

[参考文献]

『ベトナム―2百万人も餓死させたのは誰か』雑誌『前衛』1991年4月号

早乙女勝元『ベトナム“200万人”餓死の記録―1945年日本占領下で』大月書店、1993年




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ベトナムの旅―24 大東亜共栄圏というスローガン

 大東亜共栄圏とは、欧米諸国、とくに英・仏・アメリカなどの植民地・半植民地支配から東アジア・東南アジアを解放し、代わりに、この地域に日本を盟主とする共存共栄の新たな国際秩序建設をめざそうという、第二次世界大戦における日本の構想であった。

  

 欧米の植民地支配に呻吟(しんぎん)していた各国の独立の志士や革命家たちは、この日本の“夢想”に飛びつき、日本の武器援助や財政援助を望んだ。フィリピンでは、せっかく日本軍部からもらった旧式の武器を積んだ貨物船が、台風のために海の藻屑になった。

大東亜共栄圏における日本の版図

 

 ここで大東亜共栄圏についていくつかの具体例の項目だけを列挙しておきたい。

  • 植民地に対する皇民化政策

 ・日本語の押し付け=神社参拝・宮城遥拝・勤労奉仕・日の丸掲揚などで動員

 ・植民地からの兵力動員=戦争末期には朝鮮、台湾に徴兵制施行。激しい民族差別とともに、両国の戦死者は約5万名に上った。

  • 収奪の強化による占領地経営の破たん

 ・「南方占領地行政実施要綱」=重要資源の一方的収奪

・インフレの進行(フィリピン・マレー・ビルマなどは1千倍にも)、

・反日民族運動の展開

1943年2月23日に作製・掲示された陸軍記念日のポスター

 

  • 大東亜会議の虚構性

 ・連合国側の戦争目的=領土不拡大・奪われた主権の恢復・専制政治からの解放・通商の自由・国際平和機構の創設による平和の維持

 ・大東亜会議の開催=日本・タイ・フィリピン・ビルマ・中国(汪兆銘政権)・「満州国」・自由インド仮政権の代表(チャンドラ・ボース等)

大東亜会議に参加した各国首脳。左からバー・モウ、張景恵、汪兆銘、

東條英機、ワンワイタヤーコーン、ホセ・ラウレル、スバス・チャンドラ・ボース

 

  • 戦争プロパガンダをめぐる混乱――自衛か解放か

 ・“アジア太平洋戦争を、アジア解放のための戦争だ”と主張する人が今でもいるが、日本政府が掲げた戦争目的の混乱という面からも、解放戦争論には根拠がなかった。戦争目的は「自存自衛のため」とされていた。

・靖国神社に朝鮮人、台湾人が合祀された。

この項目のみ『日本近現代史を読む』新日本出版社2010年刊を参照

1943年2月21日、明治神宮外苑競技場で行われた学徒動員式

(どういうことか、位置がずれてしまいました)

 

 日本政府が考えていた構想は「欧米の支配にとって代わって、日本がアジア各国を“解放”して、日本がその代わりをつとめる」というものであった。

 昨今の日本で“南京大虐殺はなかった” (わたしは1965年8月、南京の事件のあった「雨花台」で、実際に被害の状況を目撃し、遺族にも会った。1965年は間違いではない)。

“慰安婦問題はねつ造だ”という歴史の事実を打ち消し、逆行させるような潮流が大きくなっている。その代表者は紛れもなく安倍晋三であり、「日本会議」であろう。これを「反動」という。ここに警鐘を乱打しておきたい。

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ベトナムの旅―26 チュン姉妹の反乱

 ベトナムの旅が、だいぶ長い間、わき道に逸(そ)れている。私はそれほど逸れているとは思わないが、そう思う人もいるようだ。逸れついでに、もう少々つづけたい。私自身も以前から関心があったチュン姉妹の話である。ときは秦の始皇帝の時代である。

チュン姉妹を祀った像

 

 始皇帝は中国を統一し中国南部を支配すると、部下の趙佗(ちょうた)に命令してベトナム北部に侵攻させ、支配するようになった。紀元前208年のことである。

ベトナム北部のいま

 

漢の討伐軍

 

 しかし、始皇帝の力が衰えて各地に内乱が起きると、趙佗は中国南部からベトナム北部にかけて独立して「南越国」をつくった。その後、中国を統一した漢は軍を送って南越を屈服させようとして、それを実現した。それからおよそ千年の間、ベトナムは中国歴代王朝に支配されることになり、中国の制度や学問など文化を受け入れていった。しかし、反乱も起こしていた。

秦の始皇帝

 

チュン(微)姉妹の反乱

 

 紀元40年、ハノイの北にあるメリンでチュン姉妹が漢に対して反乱を起こした。姉のチュン・チャックの夫ティ・サックが役人に殺されたため、妹のチュン・ニとともに兵をあげると、瞬く間に各地の土豪が立ち上がり、一時的にせよ、独立を遂げたという話である。

  しかし、事実は多少違っていた。夫は殺されていなかったのである。

チュン姉妹を祀る祭壇

 

 

 チュン・チャックは、役人が税を直接、徴収して、自分の利益にしようとしたことに反対したのである。そして多くの土豪たちが反乱に参加したのは、チュン姉妹がメリンの有力土豪の娘だったからであった。とにかく、チュン・チャックが3年間くらいは女王のような地位についていたことは事実のようである。

ハイバー(姉妹)チュンの戦いを描いたドンホー版画

 

 漢の光武帝は、このような反抗が漢の支配を根底から揺るがす挑戦だととらえた。そして3万の軍勢を送り込むと、ベトナム側の将軍たちは、あっけなく戦列を離れて、漢の側についてチュン姉妹を見捨ててしまったのである。ずいぶん簡単に裏切ると思うが、やはりこの頃も今も、自分の利益にならないことであれば、平気で主人や仲間を裏切るのは、古今、共通のようである。

写真は、チュン姉妹の像

 

しかしその後も、137年、157年、178年と各地で反乱が続き、248年には、チュウ・アウという女性がタイン・ホアで兵を挙げ、大規模な反乱となった。

象に乗って自ら兵を率いたといわれている。これが、土豪による反乱の最後となった。

象が今でも信仰の対象になっている

チュウ・アウが象に乗って進軍する姿が、現在のお祭りにも表れている

 

ベトナムの豊かな穀倉地帯。

ここを踏みにじるものをベトナムの人びとは許さない。

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