2016-12-20

北方領土問題-やさしい北方領土のはなし

北方領土問題-やさしい北方領土のはなし

むかし、北方領土が、日本の領土だったってほんとうなの?

 北方領土だけではなく、南樺太みなみからふと朝鮮半島ちょうせんはんとう台湾たいわん南洋群島なんようぐんとうなど広い範囲はんいが、日本の領土でした。アメリカ・イギリス・中国などの国は、日本が暴力ぼうりょく貪欲どんよくによりうばい取ったと、批判ひはんしていました。日本は戦争に負けたときに、暴力ぼうりょく貪欲どんよくによりうばい取ったことをを認め(注7)、このような地域は日本の領土ではなくなりました。
 上の地図は、日本が戦争に負ける前に作られた中学生用の教科書地図。
 朝鮮半島、台湾、千島、樺太、南洋群島は日本の領土だった。

(昭和13年発行 帝国書院 中学校社会科地図帳 改定 新選詳図 帝国の部)
 上の地図は、日本が戦争に負けた7年後に作られた中学生用の教科書地図。
 クナシリ島などを含む千島列島や樺太はソ連の領土になり、朝鮮半島は独立し、沖縄・小笠原はアメリカの軍政になった。沖縄・小笠原はその後、アメリカと条約を結んで、日本に戻った。

(昭和27年発行 帝国書院 中学校社会科地図帳)
 

 北方領土はもう少し複雑ふくざつ歴史れきしを持っています。北方領土のうち、一番大きな、エトロフ島の歴史を説明します。

 平安時代中期にオホーツク海沿岸にオホーツク文化が起こっています。この文化のにない手は現在アムール川流域に住んでいる人たちの祖先だろうといわれているので、この頃には、こういった人たちがエトロフ島に住んでいたと思われます。
 江戸時代えどじだい、この地域に住んでいた人はアイヌでした。
 1769年、ロシア人イワン・チョールヌイはエトロフ島にわたり、そこで、アイヌから無理やり毛皮を取り上げます。イワン・チョールヌイは隣のウルップ島にとどまって、アイヌに乱暴な行いをします。おこったアイヌ達は、1770年~1772年、ロシア人を千島から追い出しました。1776年ロシア人シェパーリンがエトロフ島にやってきて、ロシア人とアイヌは仲良く貿易をすることになりました。しかし、1780年にウルップ島で大きな地震が起こると、ロシア人の多くはカムチャツカへ引き上げてしまいました。
 日本人がエトロフ島探検にやってきたのは、1786年、最上徳内もがみとくないが最初です。最上徳内がエトロフ島にやってきたときには、多くのロシア人はいなくなっていました。エトロフ島に住んでいたロシア人は3人だけで、ほかはアイヌでした。最上徳内は3人のロシア人から、エトロフ島やもっと北のようすをいろいろ聞きました。
 ロシア人がエトロフ島で貿易をしていたころ、北海道の厚岸あっけしでは、飛騨屋久兵衛びだやきゅうべいがアイヌを奴隷どれいのように働かせていました。飛騨屋久兵衛は1774年にクナシリ島にもやってきましたが、首長ツキノエに追い返され、このとき貿易はできませんでした。そのご、ロシア人がいなくなってしまうと、クナシリ島のアイヌは貿易が出来なくて困ってしまい、しかたなく飛騨屋久兵衛におわびをして、貿易をするようになりました。ところが、飛騨屋久兵衛は、クナシリ島のアイヌを奴隷のように働かせました。このままでは、生きてゆけないと思いつめた、クナシリ島や厚岸のアイヌは戦いをいどみますが、すぐに負けてしまいました。「クナシリ・メナシの戦い」と言います。
 江戸幕府はこの戦いにロシア人が関係していないか、とても心配しましたが、よく調べて見ると関係ありませんでした。しかし、将来しょうらいロシア人が関係した戦争がおこるかもしれないと、心配だったので、エトロフ島を日本のものにすることにしました。1798年、近藤重蔵こんどうじゅうぞうをエトロフ島に行かせました。このときはロシア人はエトロフ島にはいませんでした。エトロフ島に渡った近藤重蔵は、ロシア人が立てた十字架じゅうじか無断むだんでひきたおして、「大日本恵登呂府だいにっぽんえとろふ」と書いてある柱を勝手に立てました(注8)。エトロフ島のアイヌにはロシア人の信仰であるキリスト教を信仰している人がいました。近藤重蔵はアイヌの持っていた十字架などを取り上げて、「キリスト教を信仰したら、うんとばつするぞ」と、おどしました。さらに、エトロフ島のアイヌに、ロシアと貿易することを禁止しました。このときから、エトロフ島は、日本のもの、ということになっています。

(写真は東京都北区徳受院にある石で作った近藤重蔵の像。ヨロイ・カブトをつけて、エトロフ島に渡ったそうです。)

 1855年、ロシアと条約じょうやくを結び、エトロフ島は日本のもの、ウルップ島はロシアのものと決まりました。


 ちょっとおかしいと思いませんか。ずっと前から住んでいたアイヌは無視むしされています。むかしから、アイヌはエトロフ島とウルップ島を自由に行き来していました。日本とロシアで「何で勝手かってに決めるんだ」って、おこってもいいはずです。
 クナシリ・メナシの戦いのあと、アイヌは日本人が、こわくてさからえなくなり、クナシリ島などのアイヌの人たちはほとんど死に絶えてしまいました。
 江戸時代の終わりごろ、松浦武四郎まつうらたけしろうという人が、シレトコやクナシリを探検して、「近世蝦夷人物誌きんせえぞじんぶつし」「知床日誌しれとこにっし」という本を書いています。これらの本によると、クナシリのアイヌは、ほぼ全滅ぜんめつしていため、日高地方のアイヌが連れてこられて、男は日本人に奴隷どれいのように、はたらかされ、女はもっとひどいことを日本人の男にされていました。このため、クナシリのアイヌだけではなくて、日高地方でもアイヌの人数はずいぶん少なくなってしまいました。(注9)
 明治時代になると、旧土人保護法きゅうどじんほごほうという法律ほうりつが出来て、アイヌは、きびしく差別さべつされました。アイヌを差別した旧土人保護法が廃止はいしされるのは、平成9年7月1日です。


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