北方領土問題-やさしい北方領土のはなし
むかし、北方領土が、日本の領土だったってほんとうなの?
北方領土だけではなく、
南樺太、
朝鮮半島、
台湾、
南洋群島など広い
範囲が、日本の領土でした。アメリカ・イギリス・中国などの国は、日本が
暴力や
貪欲により
奪い取ったと、
批判していました。日本は戦争に負けたときに、
暴力や
貪欲により
奪い取ったことをを認め
(注7)、このような地域は日本の領土ではなくなりました。
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上の地図は、日本が戦争に負ける前に作られた中学生用の教科書地図。
朝鮮半島、台湾、千島、樺太、南洋群島は日本の領土だった。
(昭和13年発行 帝国書院 中学校社会科地図帳 改定 新選詳図 帝国の部) | 上の地図は、日本が戦争に負けた7年後に作られた中学生用の教科書地図。
クナシリ島などを含む千島列島や樺太はソ連の領土になり、朝鮮半島は独立し、沖縄・小笠原はアメリカの軍政になった。沖縄・小笠原はその後、アメリカと条約を結んで、日本に戻った。
(昭和27年発行 帝国書院 中学校社会科地図帳) |
北方領土はもう少し
複雑な
歴史を持っています。北方領土のうち、一番大きな、エトロフ島の歴史を説明します。
平安時代中期にオホーツク海沿岸にオホーツク文化が起こっています。この文化のにない手は現在アムール川流域に住んでいる人たちの祖先だろうといわれているので、この頃には、こういった人たちがエトロフ島に住んでいたと思われます。
江戸時代、この地域に住んでいた人はアイヌでした。
1769年、ロシア人イワン・チョールヌイはエトロフ島にわたり、そこで、アイヌから無理やり毛皮を取り上げます。イワン・チョールヌイは隣のウルップ島にとどまって、アイヌに乱暴な行いをします。おこったアイヌ達は、1770年~1772年、ロシア人を千島から追い出しました。1776年ロシア人シェパーリンがエトロフ島にやってきて、ロシア人とアイヌは仲良く貿易をすることになりました。しかし、1780年にウルップ島で大きな地震が起こると、ロシア人の多くはカムチャツカへ引き上げてしまいました。
日本人がエトロフ島探検にやってきたのは、1786年、最上徳内が最初です。最上徳内がエトロフ島にやってきたときには、多くのロシア人はいなくなっていました。エトロフ島に住んでいたロシア人は3人だけで、ほかはアイヌでした。最上徳内は3人のロシア人から、エトロフ島やもっと北のようすをいろいろ聞きました。
ロシア人がエトロフ島で貿易をしていたころ、北海道の
厚岸では、
飛騨屋久兵衛がアイヌを
奴隷のように働かせていました。飛騨屋久兵衛は1774年にクナシリ島にもやってきましたが、首長ツキノエに追い返され、このとき貿易はできませんでした。そのご、ロシア人がいなくなってしまうと、クナシリ島のアイヌは貿易が出来なくて困ってしまい、しかたなく飛騨屋久兵衛におわびをして、貿易をするようになりました。ところが、飛騨屋久兵衛は、クナシリ島のアイヌを奴隷のように働かせました。このままでは、生きてゆけないと思いつめた、クナシリ島や厚岸のアイヌは戦いをいどみますが、すぐに負けてしまいました。「クナシリ・メナシの戦い」と言います。
江戸幕府はこの戦いにロシア人が関係していないか、とても心配しましたが、よく調べて見ると関係ありませんでした。しかし、
将来ロシア人が関係した戦争がおこるかもしれないと、心配だったので、エトロフ島を日本のものにすることにしました。1798年、
近藤重蔵をエトロフ島に行かせました。このときはロシア人はエトロフ島にはいませんでした。エトロフ島に渡った近藤重蔵は、ロシア人が立てた
十字架を
無断でひきたおして、「
大日本恵登呂府」と書いてある柱を勝手に立てました
(注8)。エトロフ島のアイヌにはロシア人の信仰であるキリスト教を信仰している人がいました。近藤重蔵はアイヌの持っていた十字架などを取り上げて、「キリスト教を信仰したら、うんと
罰するぞ」と、おどしました。さらに、エトロフ島のアイヌに、ロシアと貿易することを禁止しました。このときから、エトロフ島は、日本のもの、ということになっています。
(写真は東京都北区徳受院にある石で作った近藤重蔵の像。ヨロイ・カブトをつけて、エトロフ島に渡ったそうです。)
1855年、ロシアと
条約を結び、エトロフ島は日本のもの、ウルップ島はロシアのものと決まりました。
ちょっとおかしいと思いませんか。ずっと前から住んでいたアイヌは無視されています。むかしから、アイヌはエトロフ島とウルップ島を自由に行き来していました。日本とロシアで「何で勝手に決めるんだ」って、おこってもいいはずです。
クナシリ・メナシの戦いのあと、アイヌは日本人が、こわくてさからえなくなり、クナシリ島などのアイヌの人たちはほとんど死に絶えてしまいました。
江戸時代の終わりごろ、
松浦武四郎という人が、シレトコやクナシリを探検して、「
近世蝦夷人物誌」「
知床日誌」という本を書いています。これらの本によると、クナシリのアイヌは、ほぼ
全滅していため、日高地方のアイヌが連れてこられて、男は日本人に
奴隷のように、はたらかされ、女はもっとひどいことを日本人の男にされていました。このため、クナシリのアイヌだけではなくて、日高地方でもアイヌの人数はずいぶん少なくなってしまいました。
(注9)。
明治時代になると、
旧土人保護法という
法律が出来て、アイヌは、きびしく
差別されました。アイヌを差別した旧土人保護法が
廃止されるのは、平成9年7月1日です。
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