2025-11-07

고다마 요시오 - 위키백과 児玉 誉士夫

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고다마 요시오

고다마 요시오
児玉 誉士夫
1946년 스가모 구치소에 수감되며 촬영한 머그샷
출생1911년 2월 18일
일본 후쿠시마현 니혼마쓰시
사망1984년 1월 17일(72세)
일본 도쿄도
성별남성
국적일본
직업극우 운동가, CIA 요원
A급 전범으로 체포되었을 당시의 고다마 요시오.

고다마 요시오(일본어: 児玉 誉士夫1911년(메이지 44년) 2월 18일 ~ 1984년(쇼와 59년) 1월 17일)는 일본의 극우 운동가이자 조직폭력의 주요한 인물 중 하나이다. CIA 요원,[1][2][3] 폭력조직 금정회(후의 도천회)의 고문이었으며[4] ‘정재계의 흑막’(政財界の黒幕), ‘해결사’(フィクサー, fixer), ‘우익의 거괴’(右翼の巨魁)로 불렸다. 1930년대부터 1970년대까지 밀수를 통해 축적한 부로 일본 정계와 조직폭력계에 영향을 미쳤다.[5]

생애

1911년 2월 18일 후쿠시마현 니혼마쓰시에서 태어났다. 불우한 가정에서 생활하다가 1920년에 식민지기 조선으로 건너가 3년간 생활하며 경성산업전문학교를 졸업하고 귀국했다.

일본으로 돌아와 1929년 아카오 빈이 결성한 건국회(建国会)에 가담하였으며 쇼와 천황에게 직접 쓴 글을 올리는 직소 사건을 일으켜 6개월 간 복역했다. 그 후 초국가주의자로 쓰쿠이 다쓰오(津久井 龍雄)의 급진애국당(急進愛国党), 도야마 미쓰루의 현양사 등에서 활동했다.

만주에서 활동하다가 일본으로 돌아와 1931년 국회 삐라살포 사건, 이노우에 준노스케 협박 사건으로 투옥되어 1932년까지 복역했다. 석방 후 만주에서 국수주의 단체인 독립청년사(独立青年社)를 결성했다. 1934년 사이토 마코토 암살 기도로 3월 6개월 간 복역했다. 1937년 중일전쟁이 발발하자 해군 항공대에 물자를 납품하면서 일본에 협력하는 삼합회 조직을 구축하는 등 스파이 활동을 했다.

1946년에 A급 전범 용의자로 연합군에 체포되어 스가모 구치소에 수감되었다. 구치소에서 고다마는 사사카와 료이치기시 노부스케와 친분을 쌓았으며 일기를 집필했다. CIA에 협조하는 조건으로 1948년 12월 24일 석방되었다.

1953년 1월 하토야마 이치로미키 부키치 등과 회합하는 고다마의 사진. 1953년 《마이니치 신문》이 보도하였다.[6]

1950년대에는 일본 미군정 참모제2국(소위 G2)과 야쿠자 조직을 중개하는 역할을 하며 유우바리 탄광 노조 탄압 등에 앞장서 폭력단으로서 세력을 키웠다. 이후 총리대신의 임용 등에도 간섭할 정도로 세력이 커졌으며, 1955년 자유당과 민주당의 대연정으로 성립한 자유민주당이 탄생할 때도 긴밀한 관계를 유지, 정치권의 흑막으로 군림했다. 1960년대에는 야쿠자들을 동원해 아이젠하워 방일을 반대하는 안보투쟁 투쟁원들을 와해시킬 음모를 꾸몄다.

또한 한국 대통령 박정희와도 만주 시절 인맥을 쌓아 1965년 한일 국교 정상화 때도 세지마 류조와 함께 적극적 역할을 맡았다.

이렇게 뒷세계의 큰손으로 군림하던 고다마는 마침내 록히드 사건으로 인해 탈세 및 외환법 위반으로 기소당했고, 1984년에 자신이 CIA 공작원이었음을 고백한 뒤 발작으로 사망했다.

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児玉誉士夫

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
こだま よしお

児玉 誉士夫
『悪政・銃声・乱世』(弘文堂、1961年)より
生誕1911年2月18日
日本の旗 日本福島県
死没1984年1月17日(72歳没)
墓地池上本門寺
出身校京城商業専門学校
日本大学皇道学院
子供児玉博隆(長男)、児玉守弘(三男)
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児玉 誉士夫(こだま よしお、1911年明治44年〉2月18日 - 1984年昭和59年〉1月17日)は、日本右翼運動家。

自称CIAエージェント[1][2][3][4]暴力団錦政会[注釈 1]顧問[5]太平洋戦争中に海軍航空本部のために物資調達を行い、終戦時までに蓄えた物資を占領期に売りさばいて莫大な利益を得た。この豊富な資金を使って、戦後は分裂状態にあった右翼を糾合し、鳩山一郎自民党の初代総裁、元内閣総理大臣)などの大物政治家政治資金を提供した[6]。「政財界の黒幕」や「政財界のフィクサー」と呼ばれた。日韓国交正常化交渉に関与した[7]

出生

戸籍上は、福島県安達郡本宮町(現本宮市)中条45番地に生まれた[8]。父の酉四郎の旧姓は山田といい、上杉家の家臣であった山田彦右衛門の子兵太夫が丹羽長重に仕え、以降、兵蔵-為貞-貞常-為英-為栄-為芳と続いた[9]。祖父山田兵太夫は明治維新後、二本松の副参事になったが、父の代になって、同じ二本松藩御典医児玉家から望まれて養子となったため、児玉姓にかわった[10]。ただし、これらの家系は後に児玉誉士夫自身によって作られた「設定」のようである。実際のところ、児玉誉士夫の出自は全く不明である。幼少時は酷い貧乏暮らしで、父親と二人で掘っ立て小屋に住んでいたとされる。7歳で母親を亡くし、8歳で朝鮮に住む親戚の家に預けられ、京城商業専門学校を卒業した後に日本に戻って[注釈 2]向島の鉄工所に住み込んだ。それからは様々な右翼団体を転々とすることになる。

右翼活動

玄洋社の会合で中野正剛(前列左)・頭山満(前列中央)らと(1929年・前列右から2人目が児玉)

児玉は1929年、赤尾敏が結成した「建国会」に入会。18歳で天皇直訴事件により服役。釈放後に津久井龍雄の急進愛国党に入会。1931年、日本主義陣営の統一組織「全日本愛国者共同闘争協議会」(日協)が結成され急進愛国党も参加(三月事件の民間動員計画)。児玉は前衛部隊の一員になった。国会ビラ撒き事件井上準之助蔵相脅迫事件を起こし服役。1932年2月、釈放。同月9日、血盟団事件が起き、同日、警視庁は児玉を含めた国家主義運動の関係者を拘引した。釈放後、渡満。満州自治運動をしていた笠木良明[11]大雄峯会に参加。同年、帰国。独立青年社を設立し右翼浪人の岡田理平に誘われ頭山秀三(頭山満の三男)が主宰する天行会に出入りをした。頭山が逃げざるを得なくなり[12]、後事を託された児玉、岡田、天行会のメンバー二人の四人で1932年、天行会独立青年社事件を起こす。当時は23歳だった児玉は3年半の判決を裁判で受けた。服役中に二・二六事件が起きた。

出所後、笠木が編集発行する『大亜細亜』に関わる。1937年、笠木から紹介された外務省情報部河相達夫より勧められ、中国各地を視察[13]。上海副総領事の岩井英一東亜同文書院出身)を知り、岩井が1938年に領事館内に設置した「特別調査班」の嘱託となる。岩井の推薦で、1939年4月に陸軍参謀本部の嘱託となりハノイにいた汪兆銘の護衛を任された。石原莞爾の紹介で支那派遣軍総司令部参謀の辻政信を知り、同司令部の嘱託となる。しかし東亜連盟の動きが陸軍の方針に反すると東条英機の逆鱗に触れたことで、児玉は嘱託を解かれ1941年5月に帰国した。帰国後に妻・安都子と知り合い結婚する。

児玉機関

児玉と汪兆銘(1939年)
昭和20年2月、台湾・台南神社で。左から門司副官、児玉誉士夫、大西中将

1941年11月、児玉が属した国粋大衆党を主宰する笹川良一の紹介で海軍省(海軍大臣は嶋田繁太郎)の外局である海軍航空本部(本部長は山本五十六)より招かれた。ここから児玉は海軍航空本部のため航空機に必要な物資を調達する。戦時下の外地はインフレ状態で物流も滞り、国民感情ではナショナリズムの高まりによる排日排日貨(日貨とは日本製品)運動が起きていた。目的の重なる陸軍、艦本の機関と競合するため各方面からの干渉も予想されたが児玉は承諾し、総務部長(山縣正郷)と上海へ飛び、ここに児玉機関の本部を置いた。児玉は海軍の嘱託(佐官待遇)となる。

1942年3月、総務部長は大西瀧治郎となり、特攻生みの親とされる大西中将が敗戦後に自決する場に立ち会う縁が繋がった[注釈 3]

ここで源田実と知り合い、戦後に源田が児玉に瀬島龍三を紹介した[14]1941年真珠湾攻撃の直前、海軍航空本部独自の物資調達の為に笹川が山縣正郷少将に紹介、その後任者が大西瀧治郎少将(当時)で、後に大西中将が自決する日まで、親しい間柄となる[注釈 4]。この縁で上海児玉機関[注釈 5]と呼ばれる店を出した。これは、タングステン[注釈 6]ラジウムコバルトニッケルなどの戦略物資を買い上げ、海軍航空本部に納入する独占契約をもらっていた[注釈 7]。よく、児玉はこの仕事でダイヤモンドプラチナなど、1億7500万ドル相当の資金を有するに至ったと言われている[注釈 8]。アメリカ陸軍情報局の報告では、児玉機関は鉄と塩およびモリブデン[注釈 6]鉱山を管轄下におさめ[注釈 9]、農場や養魚場、秘密兵器工場も運営。戦略物資、とくにタングステンを得るため、日本のヘロインを売っていた[15]

児玉の行動について憲兵の監視はあったが、大西瀧治郎のような大物が庇護しているため逮捕してもすぐに釈放されるという結果となった。この間、1942年4月30日に行われた第21回衆議院議員総選挙(いわゆる翼賛選挙)に5人当選区の東京5区から非推薦候補として立候補をして8位落選をしている。

終戦と「逆コース」

戦犯として収容時のマグショット

終戦を迎えた翌日、1945年8月16日に児玉を懇意にしていた大西が遺書を残し割腹自決した。児玉も急行し、駆けつけた児玉に「貴様がくれた刀が切れぬばかりにまた会えた。全てはその遺書に書いてある。厚木小園に軽挙妄動は慎めと大西が言っていたと伝えてくれ。」と話した。児玉も自決しようとすると大西は「馬鹿もん、貴様が死んで糞の役に立つか。若いもんは生きるんだよ。生きて新しい日本を作れ。」といさめた。

終戦後、講和内閣の首班として東久邇宮稔彦王が組閣した時には『東久邇日記』の昭和20年9月5日の日記によると東久邇宮自身は児玉をよく知らなかったが内閣参与となっていた。1945年(昭和20年)12月2日連合国軍最高司令官総司令部は日本政府に対し児玉を逮捕するよう命令(第三次逮捕者59名中の1人)[16]。1946年初頭、A級戦犯の疑いで占領軍に逮捕され、巣鴨プリズンに送られた。その間、ジャパン・ロビーの暗躍により右翼をパージするGHQの方針が批判され、アメリカの占領政策は協力的な戦犯を反共のために利用する「逆コース」を走るようになった。1948年12月24日に釈放され、そこでCIAに協力するようになったかが今でも議論されている[注釈 10]。確かなのは、拘留中に昭和通商との関係を暴かれていたことと[17]、釈放後も続く調査で吉田彦太郎が児玉機関の所有した国内鉱山を明らかにしていること[注釈 9]、そして後にCIAが、児玉を反共思想・軍閥構想の持ち主であると分析していること[注釈 11]である。この間に公職追放となった[18]

「フィクサー」へ

児玉邸にて政治家たちと密談(1953年)
前列左側が児玉、後列左から廣川弘禅鳩山一郎三木武吉

児玉は児玉機関が管理してきた金やダイヤモンドなど、旧海軍の巨額の在留資産を朝日新聞が提供した社機に乗せて[19]上海から引き上げていた[注釈 12]。児玉は、巣鴨拘置所に共にいた辻嘉六[注釈 13]に勧められて、1946年初頭、逮捕される直前に、この資金の一部を自民党の前身にあたる鳩山ブランドの日本民主党(鳩山民主党)の結党資金として提供した。

1949年(昭和24年)、児玉は巣鴨拘置所から釈放されると北海道炭礦汽船の幹部、萩原吉太郎邸に「戦前、右翼の領袖から紹介してもらった」として訪問した。萩原は児玉機関の話を聞いており訪問に難色を示したが、児玉は萩原邸の裏の池で釣りをするという名目で毎朝通い始め、話をする機会を持つうちに次第に付き合いが深くなっていったという[20]

1950年、北炭夕張炭鉱の労組弾圧のため明楽組を組織して送り込んだ[注釈 14]。G2[注釈 15]と多くの暴力団の中心的仲介者としての地位を築き、十数年後には児玉は来たるべき闘争に備えて右翼の結集を目論んだ。暴力団との仲介には児玉機関にいた村岡健次が大きな役割を果たすことになる。

岸信介との関係

岸信介

1954年には、鳩山一郎を総理大臣にするために三木武吉の画策に力を貸した。1955年には自由党(緒方自由党)と合併して自民党になった。誠心誠意嘘をつくなど名言を残した三木武吉は病の床で「児玉をよろしく」との言葉を遺した。

その後も自民党と緊密な関係を保ち、長らく最も大きな影響力を行使できるフィクサー政界黒幕)として君臨した。岸信介が首相になる際にもその力を行使した。

岸首相の第1次FX問題をめぐる汚職を社会党今澄勇が追及していた時には、等々力の私邸へ二度も呼び、児玉は追及を止めるように圧力をかけた。今澄がこれを拒むと、今澄の政治資金の提供元と金額・使っている料理屋、付き合っている女が全て書かれていた身上調書を今澄に渡し、全てを明かすとして追及を止めさせている。児玉は東京スポーツを所有する他[注釈 16]に、腹心をいくつもの雑誌社の役員に送り込んでいた。それらに書き立てられることは脅威となった。

ドワイト・D・アイゼンハワー

日米安保条約改定のため党内協力が必要となった岸信介は、1959年1月16日、次期総理大臣を党人派の大野伴睦に譲り渡す誓約をした[注釈 17]。その立会人が児玉であり、河野一郎や佐藤栄作も署名した誓約書が残されている。改定に反対する安保闘争[注釈 18]を阻止するため、岸信介首相は自民党木村篤太郎らにヤクザ・右翼を動員させたが[注釈 19]、児玉はその世話役も務めた[注釈 20]。一方で安保闘争の最中の1960年5月、妻・安都子が交通事故に遭い、翌月に亡くなる。児玉はその間付きっきりで妻の看病にあたったほか、妻の葬儀の際には自らの生前葬も合わせて行っている[21]

1962年(昭和37年)の夏頃から、「(安保闘争のような)一朝有事に備えて、全国博徒の親睦と大同団結のもとに、反共の防波堤となる強固な組織を作る」という構想のもと、児玉誉士夫は東亜同友会の結成を試みた。結局、同会は結成されなかった。しかし、錦政会稲川裕芳会長、北星会岡村吾一会長、東声会町井久之会長らの同意を取り付けていた。昭和38年(1963年)には、関東と関西の暴力団の手打ちを進め、三代目山口組田岡一雄組長と町井会長との「兄弟盃[注釈 21]」を実現させた。

裏社会活動

60年代初期には15万人以上の会員がいた日本最大の右翼団体全日本愛国者団体会議(全愛会議)を支える指導者の一人であった[注釈 22]。1961年、この全愛会議内に児玉に忠実な活動グループ青年思想研究会(青思会)が誕生した[注釈 23]。60年代終わりには青思会を全愛会議から脱退させた。裏社会の人物の中では特に稲川聖城と親しく稲川は児玉を兄貴分として慕っていた。60年安保闘争の際には児玉の呼びかけで稲川の配下の組員をデモ隊潰しに利用する計画もあったとされている。(詳細は岸信介の項目も参照。)

1967年7月、笹川良一の肝煎りで、「第一回アジア反共連盟[注釈 24]結成準備会」が開催された[注釈 25]。この時、市倉徳三郎、統一教会の劉孝之らが集まったが、児玉も自分の代理として白井為雄を参加させた。

1969年、青思会より独立した右翼団体日本青年社[注釈 26]が結成。これが任侠右翼の始まりであった。

児玉は1965年日韓国交回復にも積極的な役割を果たした。国交回復が実現し、5億ドルの対日賠償資金が供与されると、韓国には日本企業が進出し、利権が渦巻いていた。児玉誉士夫もこの頃からしばしば訪韓して朴政権要人と会い、日本企業やヤクザのフィクサーとして利益を得た。児玉だけではない。元満州国軍将校、のちに韓国大統領となる朴正煕[注釈 27]とは満州人脈が形成され、岸信介[注釈 28]椎名悦三郎らの政治家や元大本営参謀で商社役員の瀬島龍三が日韓協力委員会まで作って、韓国利権に走った。

日本国内では企業間の紛争にしばしば介入した。1972年河本敏夫率いる三光汽船ジャパンラインの乗っ取りを計画して同社株の買占めを進めた。困惑したジャパンラインの土屋研一は児玉[注釈 29]に事件の解決を依頼した[注釈 30]。しかし、児玉が圧力をかけても、河本はなかなかいうことを聞かなかった。そこで、児玉はそごう会長の水島廣雄に調停を依頼。水島の協力により、河本は買い占めた株の売却に同意する。児玉は水島に謝礼として1億円相当のダイヤモンドを贈った。こうして児玉の支配下に収まったジャパンラインは、昭和石油の子会社だった日本精蠟を1974年夏に買収した[注釈 31][注釈 32]

児玉が圧力をかける時は今澄のときのように傘下のメディアを駆使した。利用された大手メディアに博報堂がある。その中に児玉は次の二つの目的を持ったセクションを作った。一つは、博報堂の取引先を児玉系列に組み込む。もう一つは、その系列化された企業に持ち込まれるクレームを利用してマスコミを操作し、なびかないメディアには広告依頼を回さない[注釈 33]。このセクションは広告会社として品位に欠けた。そこで、当時の博報堂の持ち株会社であった伸和[注釈 34]の商号を、1975年に博報堂コンサルタントへ変えて、また、定款にも「企業経営ならびに人事に関するコンサルタント業務」の項目を加えて、この元親会社に業務を請け負わせた[注釈 35]。役員は、広田隆一郎社長の他に、町田欣一、山本弁介、太刀川恒夫が重役として名を連ねた。広田は、福井純一[注釈 36]博報堂社長の大学時代ラグビー関係者で、警視庁が関西系暴力団の準構成員としてマークしていた人物。町田は、元警察庁刑事部主幹。山本は元NHK政治部記者。太刀川は塚本素山ビルの等々力産業社長で児玉側近の第一人者であった[22]。太刀川は児玉の死後、東京スポーツの代表となる。

ロッキード事件

ロッキード事件と児玉の関わりは、しばしばロッキード社または日本の政界という事件の帰着点ばかりが焦点化して報道・出版される傾向がある。しかし、ロッキード社が児玉へ秘密送金する窓口として、元OSS員が社長だったディーク・ペレラ社を利用したという興味深い事実がある[23]。ディークは外国為替と貴金属取引に特化した企業であるが、21世紀に数件の訴訟を提起されている。その一方、今日ヨーロッパではHSBCドイツ銀行がやはり外国為替と貴金属取引をめぐり不祥事を露呈している。

ロッキード社の秘密代理人

児玉はすでに1958年昭和33年)からロッキード社の秘密代理人となり、日本政府に同社のF-104“スターファイター”戦闘機を選定させる工作をしていた。児玉が働きかけた政府側の人間は自民党の大野伴睦河野一郎岸信介らであった。1960年代末の契約が更新され、韓国も含まれるようになった。児玉は親しい仲にあった韓国の朴政権にロッキード社のジェット戦闘機を選定するよう働きかけていたのである。韓国に対する影響力の大きさが窺える。しかし、この頃、大野も河野も死亡しており、新しい総理大臣の佐藤栄作田中角栄にはあまり影響力をもっていなかった[注釈 37]

そこで児玉は田中との共通の友人、小佐野賢治に頼るようになった。小佐野は日本航空全日本空輸の大株主でもあり、ロッキード社製のジェット旅客機の売り込みでも影響力を発揮したが、すでに日本航空はマクドネル・ダグラス社製のDC-10型機の購入を決定していたこともあり、その矛先を全日空に向けた。

この頃深い関係を作り上げていた田中角栄が1972年昭和47年)に首相になると児玉の工作は功を奏し、その後全日空は同機種を21機購入し、この結果ロッキード社の日本での売上は拡大した。さらに全日空は、ロッキードから得た資金を自社の権益の拡大を図るべく航空族議員や運輸官僚への賄賂として使い、その後このことはロッキード事件に付随する全日空ルートとして追及されることとなった。

ロッキード社社長のアーチボルド・コーチャンが「児玉の役割はP-3C導入を政府関係者に働きかけることだった。児玉は次の大臣に誰がなりそうか教えてくれた。日本では大臣はすぐに代わるから特定の大臣と仲良くなっても無駄である。彼は私の国務省だった。」と調書で語っている。

ロッキード裁判

しかし1976年昭和51年)、アメリカ上院で行われた公聴会で、「ロッキード社が日本の超国家主義者を秘密代理人として雇い、多額の現金を支払っている」事実が明らかにされ、日本は大騒ぎとなった。その後、三木武夫首相によってこの事件の捜査が開始され、すでにこの事件の中心人物と目されていた65歳の児玉は衆議院での証人喚問が行われる直前に「発作」を起こして床につき、同年3月16日に脱税と外為法違反で在宅起訴された。その1週間後の3月23日には、児玉の退廃ぶりに憤った俳優の前野霜一郎による児玉誉士夫邸セスナ機特攻事件が発生している。

そのまま裁判に臨むことになったが、1977年昭和52年)6月に一度公判に出廷した後は脳梗塞後遺症を理由に自宅を離れなかった。1979年(昭和54年)10月11日には3人の裁判官検察官弁護士が自宅を訪問して臨床尋問が行われた。「臨床」とはされたが尋問は自宅の洋間で行われ、児玉は和服を着て椅子に座って応答している。検察は小佐野との関係、ロッキード社のコンサルタントになった経緯を尋問したが、1時間ほどで児玉が喉の苦痛を訴えて取りやめとなった[24]

元総理の田中角栄は収賄容疑で逮捕され、1983年昭和58年)10月に有罪判決が出された。児玉は死期が近づいた時、「自分はCIAの対日工作員であった」と告白している。72歳の児玉は判決が出る直前の1984年昭和59年)1月に再び発作を起こして没し、裁判は打ち切りとなった。なお、児玉の死亡後の遺産相続では闇で収受した21億円が個人財産として認定された上で相続税が計算されている。

2005年に機密解除されたCIA文書で、児玉は次のように評されている。

児玉誉士夫の諜報員としての価値は事実上ゼロである。 彼はプロの嘘つきであり、ギャングであり、ペテン師であり、そして根っからの泥棒である。 彼のキャリアを通じての主な目的は、国への影響とは無関係に、自分自身の富と個人的な権力を手に入れることだった…真実は、児玉には諜報活動が全くできず、利益以外には何の興味もないことだ。— Edward Drea, Greg Bradsher, Robert Hanyok, James Lide, Michael Petersen, and Daqing Yang, Researching Japanese War Crimes - Introductory Essays、2006年 211頁

当時、児玉が経営する企業の役員を務めていた日吉修二(2016年7月11日に死去。『NHKスペシャル』『未解決事件』File.5 「ロッキード事件」[25]でのインタビューが生涯で最後のインタビューとなった)によると、事件発覚直後、児玉の秘書から急遽呼ばれ、段ボール5箱分の書類をすぐに焼却するよう指示されたという。日吉はインタビューの中で「これが天下の児玉だと思ってますよ。それはやっぱり日本の為の国士ですから、何か事を起こすのにはやっぱ資金がないとね。(資金の)必要があったんじゃないかなと思う。これやっぱりロッキード事件に絡んだ書類くらい思ってますよ。伝票みたいなものもあったし、色んな綴じてある書類もあったし、そんないちいちね見ながらこれは焼いていいか、それはやらない。私、意外と忠実だから言われたらピッと焼いちゃう。ただ燃やしているチラチラ見える中には、英語の物もあったと思います。」と述べている。

児玉の通訳の福田太郎も死ぬ直前、次のような供述をしている。

  • 福田「アメリカの公聴会で領収書の一部が公表されることになりました。ロッキード社から児玉さんに謝っておいてくれと電話がありました。」
  • 児玉「それは話が違う。私に迷惑をかけないようにすると言っていたではないか。」
  • 秘書「それを否定しなければなりません。先生は知らないと言えばいい。判子と書類は燃やしてしまいます。」

2016年に放送されたNHKスペシャル・未解決事件のインタビューに応じた堀田力元検事は「核心はP-3Cではないか。P3Cで色々あるはずなんだけど。(児玉誉士夫がロッキード社から)金を上手に取る巧妙な手口は証言で取れている。(そこから先の)金の使い方とか、こっちで解明しなきゃいけないけど、そこができていない。それはもう深い物凄い深い闇がまだまだあって、日本の大きな政治経済の背後で動く闇の部分に一本光が入ったことは間違いないんだけど、国民の目から見れば検察、もっともっと彼らがどういう所でどんな金を貰ってどうしているのか、暗闇の部分を全部照らしてくれって。悔しいというか申し訳ない」と語っている。

逸話

著書

  • 児玉誉士夫『われ敗れたり』協友社、1949年 原題 "I was Defeated" (巣鴨プリズンで資料として書かされたもの)
  • 児玉誉士夫『運命の門』鹿鳴社、1950年
  • 児玉誉士夫『芝草はふまれても 巣鴨戦犯の記録』新夕刊新聞社、1956年
  • 児玉誉士夫『悪政・銃声・乱世』弘文堂、1961年8月25日
  • 児玉誉士夫『獄中獄外』―児玉誉士夫 日記 広済堂出版、1974年
  • 児玉誉士夫『われかく戦えり』―児玉誉士夫 随想・対談 広済堂出版、1975年
  • 児玉誉士夫『生ぐさ太公望』―児玉誉士夫 随想 広済堂出版、1976年

児玉誉士夫関連の映画・オリジナルビデオ・ドキュメンタリー

脚注

注釈

  1. ^ 後の稲川会。会長は稲川裕芳で、後の稲川聖城
  2. ^ 日本大学皇道科を卒業したということになっている。
  3. ^ 大西中将が自決に使った刀は児玉が贈った物といわれる。
  4. ^ 大西中将が自決に使った刀は児玉が贈った物といわれる。
  5. ^ 右翼団体大化会の村岡健次(後の暴力団北星会会長・岡村吾一)らが児玉機関で働いていた。中国人や満州人を銃で脅し、恐ろしく安い値で物資を獲得したため略奪と呼ばれた。他の部下には副機関長となった吉田彦太郎岩田幸雄藤吉男許斐氏利右翼の無法者がそろった。
    この類の「○○機関」は当時大陸において非常に多く、前述の表の仕事と比して裏の仕事として中国側へのスパイ活動、抗日スパイの検挙や殲滅等を請け負っていた。以下は里見機関と水田機関とに対する関係である。
    ・児玉は吉田彦太郎を里見甫のもとへ何度もやって、里見から中国の情報をもらっていた。里見が親しい人にこぼすには、こと中国の情報収集に関しては、児玉はだめだった。 竹森久朝 『見えざる政府-児玉誉士夫とその黒の人脈』 白石書店 1976年 P 70
    ・当初、現地で商事会社東光公司を経営していた水田光義の水田機関を通じて物資を調達していた。1943年、水田が暗殺される。
  6. a b 児玉のタングステン保有状況は、OSSの1943年12月14日付調査報告書に詳細な記述がある。
    児玉は1948年の釈放後、東京レアメタルという会社を銀座に作った。目的はSCAPのためにタングステンとモリブデンを調達することだった。のちに大元産業と改称された。Glenn Davis and John G. Roberts 守山尚美訳 『軍隊なき占領-ウォール街が「戦後」を演出した』 新潮社 1996年12月 P 100
    朝鮮戦争の頃、大久保利春が代表取締役であった日本海商事は、東京レアメタルの輸送部門を請け負っていた。 竹森久朝 『見えざる政府-児玉誉士夫とその黒の人脈』 白石書店 1976年 P70-71
    そして児玉は、小松信之助という人物がCIAにタングステンを納入する契約書の保証人となっている。 1954年8月10日に報告された情報。CIA Name Files, the Second Release 2002, Yoshio Kodama.
  7. ^ 児玉機関のような仕事はすでに三井三菱などの大企業が入っていたが即決主義で集めたため現地では重宝された。
  8. ^ 巣鴨拘置所での1947年4月21日付取調べによると、児玉機関の資産の総額は当時の日本円に換算して7000万円あったという。また、資産の2/3を吉田彦太郎に与えたとしている。
    ただし、終戦時の資産評価額。有馬哲夫『児玉誉士夫-巨魁の昭和史』文春新書 2013年 p.82.
  9. a b 1948年6月4日の尋問。所有していたという鉱山は以下の通り。
    山梨県 塩山 乙女鉱山(タングステン、モリブデン)
    滋賀県 鮎川(ひょうたん石)
    京都府 鐘打鉱山(タングステン)
    福岡県 福岡鉱山(タングステン)
    島根県 清久鉱山(モリブデン)
    秋田県 平沢 北日本カーバイド社(タングステン鉄、モリブデン鉄)

    前掲書『児玉誉士夫-巨魁の昭和史』P.48.

  10. ^ 「1948年末、釈放された児玉は中央情報局(CIA)に協力するようになった」と後にアメリカでも報道された[要出典]という。しかし、1953年に記録され2005年に機密解除されたCIA文書で、児玉は次のように評されている。
    諜報工作員としての価値は事実上ゼロ。職業的な嘘つき、ギャング、ペテン師、根っからの泥棒。……。実際の諜報工作技能は皆無であり、金儲け以外に関心がない。
    Edward Drea, Greg Bradsher, Robert Hanyok, James Lide, Michael Petersen, and Daqing Yang, Researching Japanese War Crimes - Introductory Essays (2006), p208
  11. ^ 1953年9月1日付報告書『日本人インテリジェント・サービス』が児玉の取り組んでいる課題とするものを4点掲げている。
    ・日本共産党を破壊し、共産主義の影響力をアジアから排除すること。
    ・日本を反共産主義連盟の主要国とすること。
    ・軍閥の再武装を通じて、国家主義的日本を再建すること。
    ・予想される日本共産党による流血革命に対抗する計画を練り、それに備えること。
    前掲書『児玉誉士夫-巨魁の昭和史』p.128.
  12. ^ 戦時犯罪の疑いをかけられたくなかった海軍は児玉に処分を依頼。この海軍の秘密資金を米内光政海相の了承を得て掌中にしていた。旧海軍の資産のためアメリカも没収せずに、宙に浮いた。そして吉田彦太郎の管理する緑産業ビル地下に隠匿。後の本州製紙本社所在地。
  13. ^ 北一輝大川周明と並ぶ右翼のボス。児玉源太郎の私設秘書であった。政友会系の黒幕として隠然たる影響力を持った。児玉の出所3日前に病死。 春名幹男 『秘密のファイル : CIAの対日工作』 上巻 共同通信社 2000年 p.264
  14. ^ 「あきらぐみ」と読む。
  15. ^ アメリカ諜報担当・参謀第2部
  16. ^ 町井久之ともに芸能界とのつながりも深く、特に三田佳子と親しい。 「芸能界新興勢力の首領 バーニング・プロ社長の『実力』研究」 p.18
  17. ^
  18. ^ 1959年(昭和34年)から1960年(昭和35年)の第一波。アイゼンハワー大統領の訪日を日本政府に中止させた。
  19. ^ 警察の動員数では大統領の移動経路を確保できなかった。
  20. ^ このとき自民党からは6億円前後の資金が提供されていたが、右翼と暴力団の間で行方不明となった。児玉らは嫌疑をかけられ真相究明会まで設けられたが、いつしか沙汰やみになった。 竹森久朝 『見えざる政府-児玉誉士夫とその黒の人脈』 白石書店 1976年 P 79-80
  21. ^ 田岡を兄とする
  22. ^ 顧問には日本国粋会、松葉会、義人党などの親分がいた。実名では天野辰夫橘孝三郎小沼正佐郷屋留雄笹川良一三浦義一らがいた。全愛会議はスト破りや組合潰しを暴力で行った。
  23. ^ 日乃丸青年隊高橋正義を議長とし、下部組織には住吉会系の元組長や東声会町井久之が代表を務める組織があった。新潟県の山中で軍事訓練を行い、児玉は訓練後、「君達各人が一人一殺ではなく一人で百人を殺してくれることを望む」と会員に語った。青思会は日本最大の行動右翼として児玉に反目する者を恐れさせた。
  24. ^ 世界反共連盟の地域団体。後に統一教会系の反共団体・国際勝共連合の設立につながる。「朝日ジャーナル」によれば、米国では、文鮮明-児玉誉士夫-笹川良一などを通ずる関係が、米下院国際機関小委員会(フレーザー委員会。委員長はドナルド・M・フレーザー民主党議員)での証言で明らかになっている。
  25. ^ 山梨県本栖湖畔にあった全日本モーターボート競走連合会の施設で開催。
  26. ^ 前身は楠皇道隊
  27. ^ 朴政権の政策には統一教会が呼応し、安岡正篤が共鳴した。
  28. ^ 統一教会に大変賛同的であったことは有名である。
  29. ^ 当時銀座4丁目の雑居ビルに事務所を構えていた。
  30. ^ 報酬は現金1億円だった。
  31. ^ 日本精蝋では太刀川恒夫が役員に名を連ねたこともある。 竹森久朝 『見えざる政府-児玉誉士夫とその黒の人脈』 白石書店 1976年 P 160
  32. ^ 児玉が介入した乗っ取り事件は数多い。
    ・例えば野村證券社長の瀬川美能留から莫大な資金提供を受けていた。
    1973年には粉飾決算に揺れる殖産住宅相互株式会社の株主総会乗り切りに絡んで、同社長の東郷民安から児玉や、配下の岡村吾一に金銭が渡っている。
    ・他にもインドネシアへの政府開発援助では東日貿易秘書としてスカルノ大統領の夜の相手に選ばれたクラブホステス根本七保子(源氏名はデビ、後のデヴィ夫人)を送り込んで荒稼ぎをしている。
  33. ^ 博報堂ルート以外でも言論に圧力をかけた例は数多い。悪事を書き立てる正論新聞を黙らせるため、巽産業株式会社代表取締役石井唯博(後の稲川会会長石井進)を送り込んだこともあった。
  34. ^ 1960年10月設立。現在の実質的な持ち株会社は博報児童教育振興会。
  35. ^ 主として電通が宣伝広告部門で独占契約をしている企業を標的にした。三越味の素などは、広告部門の一部を博報堂に割かねばならなかった。 竹森久朝 『見えざる政府-児玉誉士夫とその黒の人脈』 白石書店 1976年 P 169-170
    なお、電通は里見甫との関係が論じられている。
  36. ^ 1972年11月30日に社長就任。9日前に「亜土」という会社を設立。資本金は200万円。のちに博報堂の株式30.6%を所有するトンネル会社となる。株式保有の過程に特別背任容疑をかけられ、1975年11月27日に福井は東京地検特捜部に逮捕された。
  37. ^ 1968年11月17日の佐藤栄作日記では、安西浩が中曽根派との協力を得るために児玉と会うことを持ちかけてきたが、佐藤は折角遠のいた児玉と再び接触を持つことや中曽根康弘が児玉の影響を受けることを嫌い、言下に断ったと綴られている。更に佐藤は腹心の福田赳夫や田中角栄に対しても児玉の動向に注意を払うよう伝えている。

出典

  1. ^ CIA Records - Name Files
  2. ^ ティム・ワイナー『CIA秘録』文藝春秋
  3. ^ 角間隆 (1979). ドキュメント日商岩井. 徳間書店
  4. ^ 川端治 (1963). 自民党 その表と裹. 新日本出版社
  5. ^ 大下英治『首領 昭和闇の支配者 三巻』大和書房<だいわ文庫>、2006年、ISBN 978-4-479-30027-4 p.273
  6. ^ 有馬哲夫『歴史問題の正解』新潮新書2016年、pp.185-190
  7. ^ 有馬哲夫『歴史問題の正解』新潮新書2016年、pp.195-202
  8. ^ 大下英治『黒幕 昭和闇の支配者 第1巻』大和書房<だいわ文庫>、2006年、ISBN 4-479-30018-X p.16
  9. ^ 『二本松市史5近世Ⅱ』
  10. ^ 『児玉誉士夫自伝 悪政・銃声・乱世』
  11. ^ 行地社参照
  12. ^ 本間憲一郎が天行会理事のため。五・一五事件参照。
  13. ^ 自著『われかく戦えり』広済堂出版、1975年、pp.321-327
  14. ^ 共同通信社社会部 編『沈黙のファイル : 「瀬島龍三」とは何だったのか』新潮社、1999年、47頁。ISBN 4-10-122421-8
  15. ^ Glenn Davis and John G. Roberts 守山尚美訳 『軍隊なき占領-ウォール街が「戦後」を演出した』 新潮社 1996年12月 p.100.
  16. ^ 梨本宮・平沼・平田ら五十九人に逮捕命令(昭和20年12月4日 毎日新聞(東京))『昭和ニュース辞典第8巻 昭和17年/昭和20年』p341-p342 毎日コミュニケーションズ刊 1994年
  17. ^ 有馬哲夫『児玉誉士夫-巨魁の昭和史』文春新書 2013年 pp.67-80.
  18. ^ 総理庁官房監査課 編『公職追放に関する覚書該当者名簿』日比谷政経会、1949年、269頁。NDLJP:1276156
  19. ^ 角栄が恐れ、中曽根が泣きついた…戦後「最恐のフィクサー」児玉誉士夫の正体”. 2020年12月6日閲覧。
  20. ^ 児玉、萩原氏宅に二か月半通う 「裏の池で釣り」が二人の出会い『朝日新聞』1978年(昭和53年)1月20日朝刊、13版、23面
  21. ^ 「2人は睨み合い、ひと言も発しなかった」“日本一の右翼”と“伝説のヤクザ”がついに初対面…児玉誉士夫と稲川聖城の“関係”が深まったきっかけ - 文春オンライン・2025年2月23日
  22. ^ 竹森久朝 『見えざる政府-児玉誉士夫とその黒の人脈』 白石書店 1976年 P 167-169
  23. ^ 衆議院会議録情報 第077回国会 予算委員会 第15号 1976/2/17
  24. ^ ロ事件公判 児玉を臨床尋問 苦痛を訴え途中で中止『朝日新聞』1979年(昭和54年)10月11日夕刊 3版 15面
  25. ^ 未解決事件 File.05「ロッキード事件」”. NHK. 2022年2月9日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年2月14日閲覧。
  26. ^ 権田萬治『松本清張 時代の闇を見つめた作家』(文藝春秋・2009年)第八章
  27. ^ 加藤典洋編『村上春樹』(荒地出版社・1996年)p.70

参考文献

ウェブサイト

書籍・雑誌

関連文献

関連項目

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고다마 요시오

출처 : 무료 백과 사전 "Wikipedia (Wikipedia)"
고다마 요시오

코다마 츠요시오
『악정・총성・난세』(히로몬도, 1961년)부터
탄생1911년 2월 18일 일본 · 후쿠시마현
일본의 국기
사망1984년 1월 17일 (72세몰)
묘지이케가미 혼몬지
출신 학교경성상업전문학교
일본대학 황도학원
어린이고다마 히로시(장남), 고다마 모리히로(삼남)
템플릿 보기

코다마 겐지오 (코다마 요시오, 1911년 < 메이지 44년> 2월 18일 - 1984년 < 1954 년> 1월 17일 )는 일본 의 우익 운동가.

자칭 CIA 에이전트 [ 1 [ 2 [ 3 [ 4 ] . 폭력단 · 금정 회 [ 주석 1 ] 고문 [ 5 ] . 태평양전쟁 중에 해군항공본부 를 위해 물자조달을 하고 종전 때까지 축적한 물자를 점령기에 팔아 엄청난 이익을 얻었다. 이 풍부한 자금을 사용하여 전후에는 분열 상태에 있던 우익  규합 하고, 하토야마 이치로 ( 자민당 의 초대 총재, 전 내각 총리 대신 ) 등의 대물 정치인 에게 정치 자금 을 제공했다 . ' 정재계의 흑막 '과 ' 정재계의 픽사 '로 불렸다. 일한국교 정상화 교섭에 관여했다 [ 7 ] .

출생

호적상 은 후쿠시마현 아다치군 혼미야초 (현 혼궁시 ) 나카  45번지에서 태어났다 [ 8 ] . 아버지 유시로의 옛 성은 야마다라고 하며, 우에스기 가문의 가신이었던 야마다 히코 우에몬의 아키타 다오가 단바 장중을 섬기고, 이후 병장-위정-정상-위영-위영-위향과 이어졌다 [ 9 ] . 할아버지 야마다 효타오는 메이지 유신 후, 니혼마츠의 부 참사 가 되었지만, 아버지의 대가 되어, 같은 니혼 마쓰 번의 고전 의아 타마가로부터 원해 입양이 되었기 때문에, 코다마 성을 대신했다 [ 10 ] . 다만, 이들 가계는 나중에 고다마 겐지 남편 자신에 의해 만들어진 「설정」과 같다. 사실, 고다마 츠요시오의 출신은 전혀 불분명하다. 어린 시절은 심한 가난한 생활로 아버지와 둘이서 파고 오두막에 살고 있었다고 한다. 7세에 어머니를 잃고 8세에 조선 에 사는 친척의 집에 맡겨져 경성 상업 전문학교 를 졸업한 뒤 일본으로 돌아와 [ 주석2 ] 무코지마 의 철공소에 거주했다. 그러면 다양한 우익단체 를 전전하게 된다.

우익 활동

겐요사의 회합에서 나카노 마사타카 (앞줄 왼쪽)・아도야마만(앞줄 중앙) 등과(1929년・앞줄 오른쪽에서 2번째가 코다마)

코다마 는 1929년, 아카오 토시가 결성한 「건국회」에 입회. 18세에 천황 직소 사건 에 의해 복역. 석방 후에 쓰쿠이 류오 의 급진 애국당에 입회. 1931년, 일본주의 진영의 통일 조직 「전일본 애국자 공동 투쟁 협의회」(일협)가 결성되어 급진 애국당도 참가( 3월 사건 의 민간 동원 계획). 코다마는 전위 부대의 일원이 되었다. 국회 빌라 뿌리는 사건 이나 이노우에 준노 조장상 협박 사건 을 일으켜 복역. 1932년 2월, 석방. 같은 달 9일 혈맹단 사건이 일어나 이날 경시청은 고옥을 포함한 국가주의운동 관계자를 구인했다. 석방 후, 도만. 만주 자치운동을 하고 있던 가사키 료아키 [ 11 ] 의 대웅 미네이회 에 참가. 같은 해, 귀국. 독립 청년사 를 설립해 우익 나나토의 오카다 리헤이에게 초대되어 후지야마 히데조( 두산 만의 3남)가 주재하는 천행회에 출입을 했다. 두산이 도망칠 수밖에 없고 [ 12 ] , 후사를 맡은 코다마, 오카다, 천행회의 멤버 두 명 중 네 명으로 1932년 천행회 독립청년사 사건 을 일으킨다. 당시 23세였던 코다마는 3년 반의 판결을 재판으로 받았다. 복역 중에 2·26사건이 일어났다.

출소 후 가사키가 편집 발행하는 '대아세아'에 관여한다. 1937년, 가사기로부터 소개된 외무성 정보부 나가 가와 타츠오가 추천하고, 중국 각지를 시찰 [ 13 ] . 상하이 부총영사 이와이 히데이치 ( 동아동 문서원 출신)를 알고 이와이가 1938년 영사관 내에 설치한 '특별조사반'의 촉탁이 된다. 이와이의 추천으로, 1939년 4월에 육군 참모 본부의 촉탁이 되어 하노이에 있던 왕조 명의 호위를 맡겼다. 이시하라 관자 의 소개로 지나 파견군 총사령부 참모의 츠지 마사노부 를 알고, 이 사령부의 촉탁이 된다. 그러나 동아연맹 의 움직임이 육군의 방침에 위배되면 도조 에이키의 역린에 접한 것으로 코다마는 촉탁을 풀어 1941년 5월에 귀국했다. 귀국 후에 아내 야스토코와 아는 결혼한다.

고다마 기관

고다마와汪兆銘(1939년)
쇼와 20년 2월, 대만·타이난 신사에서. 왼쪽부터 모지 부관, 고다마 쇼지오, 오니시 중장

1941년 11월, 고다마가 속한 국수대중당을 주재하는 사사가 와 료이치 의 소개로 해군성(해군대신은 시마타 시게타로 )의 외국인 해군항공본부 (본부장은 야마모토 56 )에서 초청되었다. 여기에서 고다마는 해군 항공 본부를 위해 항공기에 필요한 물자를 조달한다. 전시하의 외지는 인플레이션 상태로 물류도 멈추어 국민감정에서는 내셔널리즘의 고조에 따른 배일배일화(일화란 일본제품) 운동이 일어나고 있었다. 목적이 겹치는 육군, 함본의 기관과 경쟁하기 위해 각 방면으로부터의 간섭도 예상되었지만 고다마는 승낙해 총무부장( 야마가타 마사고 )과 상하이로 날아가 여기에 고다마 기관의 본부를 두었다. 고다마는 해군의 촉탁(사관 대우)이 된다.

1942년 3월, 총무부장은 오니시 타키 지로가 되어, 특공생의 부모 로 여겨지는 오니시 중장이 패전 후에 자결하는 장소를 만나는 인연이 이어졌다 [ 주석 3 ] .

여기에서 겐다 실과 알게 되었고, 전후에 겐다가 코다마에 세시마 류조 를 소개했다 [ 14 ] 1941년 진주만 공격 직전 해군항공본부 독자적인 물자조달을 위해 사사가와가 야마가타 마사고 소장에 소개, 그 후 임자가 오오니시 타키 지로 소장(당시)으로, 나중에 오니시 중장이 자결하는 날까지 친한 사이가 된다 [ 주석 4 ] . 이 인연으로 상하이 에 고다마 기관 [ 주석 5 ] 이라 불리는 가게를 내놓았다. 이는 텅스텐 [ 주석 6 ] 과 라듐 , 코발트 , 니켈 등의 전략 물자를 매입해 해군 항공 본부에 납입하는 독점 계약을 받고 있었다 [ 주석 7 ] . 글쎄, 코다마는 이 일에서 다이아몬드 나 플래티넘 등 1억 7500만 달러 상당의 자금 을 가지게 되었다고 한다 [ 주석 8 ] . 미국 육군 정보국의 보고에서는 고다마 기관은 철과 소금 및 몰리브덴 [ 주석 6 ] 광산을 관할하에 거두고 [ 주석 9 ] 농장과 양어장, 비밀 무기 공장도 운영. 전략 물자, 특히 텅스텐을 얻기 위해 일본의 헤로인을 팔고 있었다 [ 15 ] .

고다마의 행동에 대해 헌병 의 감시는 있었지만 , 오니시 타키지로와 같은 거물이 비호하고 있기 때문에 체포해도 곧바로 석방된다는 결과가 되었다 이 기간 동안 1942년 4월 30일에 열린 제21회 중의원 의원총선거 (이른바 익찬선거)에 5인 당선구인 도쿄 5구에서 비추천 후보로 입후보를 하고 8위 낙선을 하고 있다.

종전과 「역 코스」

전범으로서 수용시의 머그샷

종전을 맞이한 다음날, 1945년 8월 16일에 고다마를 간의하고 있던 오니시가 유서를 남기고 할복 자결 했다. 코다마도 급행해, 달려온 코다마에게 「당신이 준 칼이 끊어지지 않을 뿐으로 또 만났다. 모두는 그 유서에 써 있다. 아쓰기 의 고원 에 경거 망동은 신중하게 오오니시가 말하고 있었다고 전해 줘.」라고 말했다. 코다마도 자결하려고 하면 오니시는 “바보, 네가 죽어 대변의 도움이 될까.

종전 후, 강화 내각의 수반으로서 히가시 쿠나미야 치히코왕 이 조각했을 때에는 『히가시 쿠나이 일기』의 1970년 9월 5일의 일기에 의하면 히가시 쿠나미야 자신은 고다마를 잘 몰랐지만 내각 참여가 되고 있었다. 1945년(쇼와 20년) 12월 2일 , 연합국군 최고 사령관 총사령부 는 일본 정부에 대해 고다마를 체포하도록 명령(제3차 체포자 59명 중 1명) [ 16 ] . 1946년 초, A급 전범 의 혐의로 점령군에 체포되어 스가모 프리즌에게 보내 졌다. 그 사이 재팬 로비 의 암약에 의해 우익을 퍼지하는 GHQ 의 방침이 비판되고 미국의 점령 정책은 협력적인 전범을 반공을 위해 이용하는 ' 역 코스 '를 달리게 되었다. 1948년 12월 24일에 석방되어 거기서 CIA 에 협력하게 되었는가가 지금도 논의되고 있다 [ 주석 10 ] . 확실한 것은, 구류중에  와통상 과의 관계를 폭로하고 있었던 것과 [ 17 ] , 석방 후에도 계속되는 조사에서 요시다 히로타로 가 코다마 기관이 소유한 국내 광산을 밝히고 있는 것 주석 9 ] , 그리고 후에 CIA가, 코다마  반공 사상 ·군벌 구상의 소유자이다 . 이 사이 에 공직 추방이 되었다 [ 18 ] .

'픽서'로

고다마 저택에서 정치가들과 밀담(1953년)
전열 왼쪽이 고다마, 후열 왼쪽에서 히로 카와 히로시 · 하토야마 이치로 · 미키 타케요시 .

고다마는 고다마 기관이 관리해 온 금이나 다이아몬드 등 구 해군의 거액의 재류 자산을 아사히 신문 이 제공한 사기에 올려 [ 19 ] 상하이에서 끌어올렸다 [ 주석 12 ] . 고다마는 스가모 구치소 에 함께 있던 츠지카 6 ( 주석 13 ) 에 권유되어 1946년 초, 체포되기 직전에 이 자금의 일부를 자민당 의 전신에 해당하는 하토야마 브랜드의 일본민주당 (하토야마민주당)의 결당자금으로 제공했다.

1949년 (쇼와 24년), 고다마는 스가모 구치소에서 석방되면 홋카이도 탄초 기선 의 간부, 하기와라 요시타로 저택에 「전전, 우익의 소매로부터 소개해 주었다」라고 방문했다. 하기와라는 고다마 기관의 이야기를 듣고 있어 방문에 난색을 보였지만, 고다마는 하기와라 저택 뒤의 연못에서 낚시를 한다는 명목으로 매일 아침 다니기 시작하고, 이야기를 할 기회를 가지면서 점차 사귀기가 깊어졌다고 한다 [ 20 ] .

1950년 , 북탄 유바리 탄광 의 노조 탄압을 위해 명악조를 조직해 보내었다 [ 주석 14 ] . G2 [ 주석 15 ] 와 많은 폭력단의 중심적 중개자로서의 지위를 쌓았고, 십수년 후에는 코다마는 와야 할 투쟁에 대비하여 우익 의 결집을 논의했다. 폭력단과의 중개에는 코다마 기관에 있던 무라오카 켄지 가 큰 역할을 하게 된다.

키시 노부스케와의 관계

키시 신스케

1954년 에는 하토야마 이치로 를 총리대신으로 하기 위해 미키 타케요시 의 획책에 힘을 빌렸다. 1955년 에는 자유당 (오가타 자유당)과 합병해 자민당이 되었다. 성심 성의 거짓말을 하는 등 명언을 남긴 미키 타케요시는 병의 바닥에서 '아다마를 잘 부탁한다'는 말을 남겼다.

그 후에도 자민당과 긴밀한 관계를 유지해 오랫동안 가장 큰 영향력을 행사할 수 있는 픽사 ( 정계 의 흑막 )로 군림했다. 키시 노부스케 가 총리가 될 때에도 그 힘을 행사했다.

기시 총리의 1차 FX 문제를 둘러싼 부패를 사회당 의 이마스가가 추궁하고 있을 때에는 등등력 의 사저로 두번이나 부르고 코다마는 추궁을 멈추도록 압력을 가했다. 이마스미가 이것을 거부하면, 이마스미의 정치자금 의 제공원과 금액·사용하고 있는 요리사, 사귀고 있는 여자가 모두 쓰여 있던 신상조서를 이마스미에게 건네주고, 모두를 밝히는 것으로 추궁을 멈추게 하고 있다. 코다마는 도쿄 스포츠 를 소유하는 외 [ 주석 16 ] 에, 복심을 여러 잡지사의 임원에게 보내고 있었다. 그들에게 쓰여지는 것은 위협이 되었다.

드와이트 디 아이젠하워

일미안보조약 개정을 위해 당내 협력이 필요하게 된 기시신스케는 1959년 1월 16일 차기총리대신을 당인파의 오노반파 에 양도하는 서약을 했다 [ 주석 17 ] . 그 입회인이 코다마이며, 고노 이치로와 사토 에이사쿠도 서명한 서약서가 남아 있다. 개정에 반대하는 안보투쟁 [ 주석 18 ] 을 저지하기 위해 기시신스케 총리는 자민당 의 기무라 아츠타로 등에 야쿠자·우익을 동원시켰지만 [ 주석 19 ] , 고다마는 그 돌보기 역할도 맡았다 [ 주석 20 ] . 한편 안보투쟁 중 1960년 5월 아내 야스토코가 교통사고를 당해 다음 달에 사망한다. 고다마는 그동안 똑똑하고 아내의 간병에 해당했고 , 아내의 장례 때에는 스스로의 생전장도 맞추어 가고 있다 [ 21 ] .

1962년 (쇼와 37년)의 여름 무렵부터, 「(안보 투쟁과 같은) 한 아침 유사에 대비해, 전국 박도의 친목과 대동 단결 아래에, 반공의 방파제가 되는 견고한 조직을 만든다」라고 하는 구상 아래, 코다마 츠요시오는 동아동우회의 결성을 결국 동회는 결성되지 않았다. 그러나, 니시키 정회 · 이나가와 히로요시 회장, 기타세이회 · 오카무라 고이치 회장, 동성회 · 마치이 쿠노 회장 등의 동의를 달고 있었다. 쇼와 38년( 1963년 )에는, 간토와 간사이의 폭력단의 수타를 진행해, 3대째 야마구치조 · 다오카 이치오 조장과 마치이 회장과의 「형제 맹 [ 주석 21 ]」을 실현시켰다.

뒷사회 활동

1960년대 초에는 15만명 이상의 회원이 있던 일본 최대 우익단체 · 전일본 애국자 단체회의 (전애회의)를 지지하는 지도자 중 한 명이었다 [ 주석 22 ] . 1961년, 이 전애회의 내에 코다마에 충실한 활동그룹 청년사상연구회(청사회)가 탄생했다 [ 주석 23 ] . 1960년대 말에는 청사회를 전애회의에서 탈퇴시켰다. 뒷사회의 인물 중에서는 특히 이나가와 성성 과 친하게 이나가와는 고다마를 형귀분으로서 몹시 목욕하고 있었다. 60년 안보투쟁 때에는 코다마의 호소로 이나가와의 부하의 조원을 시위대 붕괴에 이용할 계획도 있었다고 한다. (자세한 것은 키시 노부스케의 항목도 참조.)

1967년 7월 사사가와 료이치의 간수로 '제1회 아시아반공연맹 [ 주석 24 ] 결성준비회'가 개최되었다 [ 주석 25 ] . 이때, 이치쿠라 토쿠사부로, 통일교의 리우 타카유키들이 모였지만, 고다마도 자신의 대리로서 시라이 카즈오를 참가시켰다.

1969년, 청사회보다 독립한 우익 단체 일본 청년사 [ 주석 26 ] 가 결성. 이것이 임승우익 의 시작이었다.

고다마는 1965년 날 한국교회복 에도 적극적인 역할을 했다. 국교회복이 실현되고 5억 달러의 대일배상자금이 공여되면 한국에는 일본 기업이 진출해 이권이 소용돌이 치고 있었다. 고다마 츠요시부도 이 무렵부터 자주 방한해 박정권 요인을 만나 일본 기업이나 야쿠자의 픽사로서 이익을 얻었다. 코다마만이 아니다. 전 만주 국군 장교, 나중에 한국 대통령이 되는 박정희와는 만주 인맥이 형성되어 기시신스케 [주석 28] , 시이나 에츠조로 등의 정치가나  대본영 참모로 상사 임원 인 세지마 류조 가 한일 협력 위원회 까지 만들고 ,

일본 국내에서는 기업 간 분쟁에 자주 개입했다. 1972년 가와모토 토시오가 이끄는 산코 기선 은 재팬 라인 의 탈취를 계획해 동사주 매매를 진행했다. 곤혹한 재팬 라인의 츠치야 켄이치 는 코다마 [ 주석 29 ] 에 사건의 해결을 의뢰했다 [ 주석 30 ] . 그러나 고다마가 압력을 가해도 가와모토는 좀처럼 말을 듣지 않았다. 그래서 코다마는 소고 회장 미즈시마 히로오 에게 조정을 의뢰. 미즈시마의 협력에 의해 가와모토는 매입한 주식의 매각에 동의한다. 코다마는 미즈시마에게 사례로 1억엔 상당의 다이아몬드를 주었다. 이렇게 코다마의 지배하에 들어간 재팬 라인은 쇼 와 석유 의 자회사였던 일본 정해 를 1974년 여름에 인수했다 [ 주석 31 [ 주석 32 ] .

고다마가 압력을 가할 때는 지금 맑을 때와 같이 산하의 미디어를 구사했다. 이용된 대형 미디어에는 하쿠호도가 있다 . 그 중에 코다마는 다음 두 가지 목적을 가진 섹션을 만들었다. 하나는 하쿠호도의 거래처를 고다마 계열에 통합한다. 다른 하나는 그 계열화된 기업에 반입되는 클레임을 이용하여 언론을 조작하고, 흔들리지 않는 미디어에는 광고 의뢰를 돌리지 않는다 [ 주석 33 ] . 이 단면도는 광고 회사로 품질이 결여되었다. 그래서 당시 박보당의 지주회사였던 신화 [ 주석 34 ] 의 상호를 1975년에 박보당 컨설턴트 로 바꾸고, 또 정관에도 「기업경영 및 인사에 관한 컨설턴트 업무」의 항목 을 더해 이 전 모회사에 업무를 맡겼다 . 임원은, 히로타 타카이치로 사장 외에, 마치다 겐이치, 야마모토 벤스케, 타이토 가와 츠네오가 중역으로 이름을 올렸다. 히로다는 후쿠이 준이치 [ 주석 36 ] 하카호도 사장의 대학 시대 럭비 관계자로 경시청이 간사이계 폭력단의 준 구성원으로 마크하고 있던 인물. 마치다는 전 경찰청 형사부 주간. 야마모토는 전 NHK 정치부 기자. 타이도가와는 츠카모토 모토야마 빌딩 의 등도력 산업 사장으로 고다마 측근의 제1인자였다 [ 22 ] . 다도가와는 코다마의 사후, 도쿄 스포츠의 대표가 된다.

록히드 사건

록히드 사건 과 고다마의 관계는 종종 록히드사 또는 일본의 정계라는 사건의 귀착점만이 초점화되어 보도·출판되는 경향이 있다. 그러나 록히드 사가 코다마에 비밀 송금하는 창구로서 전 OSS원이 사장이었던 디크 페렐라사 를 이용했다는 흥미로운 사실이 있다 [ 23 ] . 디크는 외환과 귀금속 거래에 특화된 기업이지만 21세기에 몇 건의 소송을 제기하고 있다. 한편 오늘날 유럽에서는 HSBC 와 독일은행이 역시 외환과 귀금속 거래를 둘러싸고 불상사를 드러내고 있다.

록히드의 비밀 대리인

코다마는 이미 1958년 ( 쇼와 33년)부터 록히드 사의 비밀 대리인이 되어, 일본 정부에 동사의 F-104 “스타 파이터” 전투기를 선정시키는 공작을 하고 있었다. 고다마가 일한 ​​정부측의 인간은 자민당의 오노 반목 , 고노 이치로 , 키시노스케 등이었다. 1960 년대 말 계약이 갱신되어 한국도 포함되게 되었다. 고다마는 친한 사이에 있던 한국의 박정권에 록히드사의 제트 전투기를 선정하도록 일하고 있었던 것이다. 한국에 대한 영향력의 크기가 엿볼 수 있다. 그러나 이 무렵 오노도 고노도 사망했고, 새로운 총리대신의 사토 에이사쿠 와 다나카 가쿠 에이에는 그다지 영향력을 갖고 있지 않았다 [ 주석 37 ] .

거기서 코다마는 다나카 와의 공통의 친구, 코사노 켄지에 의지하게 되었다 . 오사노는 일본항공 이나 전일본공수 의 대주주 이기도 하다 .

요즘 깊은 관계를 만들어내고 있던 다나카 카쿠에이가 1972년 ( 쇼와 47년)에 총리가 되면 코다마의 공작은 공을 연주해, 그 후 전일공은 이 기종을 21기 구입해, 이 결과 록히드사의 일본에서의 매출은 확대했다. 게다가 전일공은 록히드로부터 얻은 자금을 자사의 권익 확대를 도모하기 위해 항공족 의원이나 운수 관료에게 뇌물로 사용했고, 그 후 이것은 록히드 사건에 부수하는 전일공 루트 로 추궁하게 되었다.

록히드 사장의 아치볼드 코찬이 “아다마의 역할은 P-3C 도입을 정부 관계자에게 일하는 것이었다. 코다마는 다음 장관에게 누가 될 것인가를 가르쳐 주었다 .

록히드 재판

그러나 1976년 ( 쇼와 51년) 미국 상원에서 열린 공청회에서 "록히드사가 일본의 초국가주의자를 비밀대리인으로 고용해, 다액의 현금을 지불하고 있다"는 사실이 밝혀져 일본은 소란이 되었다. 그 후, 미키 타케오 총리에 의해 이 사건의 수사가 개시되어 이미 이 사건의 중심 인물로 눈에 띄고 있던 65세의 고다마는 중의원 에서의 증인 환문이 행해지기 직전에 「발작」을 일으켜 바닥에 대해, 같은 해 3월 16일에 탈세와 외환법 위반으로 재택 기소 되었다. 그 1주일 후인 3월 23일에는 코다마의 퇴폐만에 분노한 배우 마에노 서이치로에 의한 코다마 츠요시부 저택 세스나기 특공 사건이 발생 하고 있다 .

그대로 재판에 임하게 됐지만, 1977년 ( 쇼와 52년) 6월에 한 번 공판에 출정한 뒤는 뇌경색 과 후유증 을 이유로 집을 떠나지 않았다. 1979년 (쇼와 54년) 10월 11일 에는 3명의 재판관 , 검찰관 , 변호사 가 자택을 방문해 임상 심문이 행해졌다. '임상'이라고 했지만 심문은 집의 양 사이에서 행해지고, 코다마는 일본옷을 입고 의자에 앉아 응답하고 있다. 검찰은 고사노와의 관계, 록히드사의 컨설턴트가 된 경위를 심문했지만, 1시간 정도에 코다마가 목의 고통을 호소해 멈추었다 [ 24 ] .

전 총리의 다나카 각영 은 수뇌 혐의로 체포되어 1983년 ( 쇼와 58년) 10월에 유죄 판결이 나왔다. 고다마는 사기가 다가올 때 "자신은 CIA의 대일 공작원이었다"고 고백하고 있다. 72세의 고다마는 판결이 나오기 직전인 1984년 ( 쇼와 59년) 1월에 다시 발작을 일으켜 몰려 재판은 중단되었다. 덧붙여 고다마의 사망 후의 유산 상속에서는 어둠에서 수수한 21억엔이 개인 재산으로서 인정된 후에 상속세가 계산되고 있다.

2005년에 기밀해제된 CIA문서에서 코다마는 다음과 같이 평가받고 있다.

고다마 요시오의 첩보원으로서의 가치는 사실상 제로이다. 그는 직업적인 거짓말쟁이이고, 갱, 페틴사이고, 뿌리에서 도둑이다. 그의 경력을 통한 주요 목적은 나라에 미치는 영향과는 무관하게 자신의 부와 개인적인 권력을 얻는 것이었다.— Edward Drea, Greg Bradsher, Robert Hanyok, James Lide, Michael Petersen, and Daqing Yang, Researching Japanese War Crimes - Introductory Essays, 2006년 211페이지

당시 고다마가 경영 하는 기업의 임원을 맡고 있던 히요시 슈지 (2016년 7월 11일에 사망. 『NHK 스페셜』『미해결 사건』File.5 ] 에서의 인터뷰가 평생 마지막 인터뷰가 되었다)에 의하면, 사건 발각 직후, 코다마의 비서로부터 급히 불려, 골판지 5상자분의 서류를 곧바로 소각하도록 지시되었다고 한다. 히요시는 인터뷰 속에서 「이것이 천하의 아타마라고 생각하고 있어요. 그것은 역시 일본을 위한 국사 이니까, 뭔가 일을 일으키기에는 역시 자금이 없으면 좋겠다. (자금의) 필요가 있었던 것이 아닐까 생각한다. 같은 것도 있었고, 여러가지 철자하고 있는 서류도 있었고, 그렇게 일단 보면서 이것은 구워도 좋을까, 그것은 하지 않는다.

고다마의 통역인 후쿠다 타로도 죽기 직전, 다음과 같은 진술을 하고 있다.

  • 후쿠다 「미국의 공청회에서 영수증의 일부가 공표되게 되었습니다. 록히드사로부터 코다마씨에게 사과해 달라고 전화가 있었습니다.」
  • 코다마 「그건 이야기가 다르다. 나에게 폐를 끼치지 않게 한다고 말하고 있었던 것이 아닌가.」
  • 비서 「그것을 부정해야 합니다. 선생님은 모르겠다고 하면 됩니다. 판자와 서류는 태워버립니다.」

2016년에 방송된 NHK 스페셜·미해결 사건의 인터뷰에 응한 호리타 리츠모토 검사는 “핵심은 P-3C가 아닌가.P3C로 여러가지 있을 것인데.( 코다마 요시오 가 록히드사로부터) 금을 능숙하게 취하는 교묘한 수법은 증언으로 잡히고 있다 (거기로부터 앞의) 금의 사용법이라든지, 이쪽에서 해명하지 않으면 안 되지만, 거기가 할 수 있다 그것은 없다. 그것은 이미 깊은 굉장한 깊은 어둠이 아직도 있고, 일본의 큰 정치 경제 뒤에서 움직이는 어둠 부분에 한 빛이 들어간 것은 틀림없지만, 국민의 눈으로부터 보면 검찰, 좀더 더 그들이 어떤 곳에서 어떤 돈을 받고 어떻게 하고 있는지, 어둠의 부분을 전부 비춰줘서 미안하다고 죄송하다”고 말하고 있다.

일화

저서

  • 코다마 요시오 『우리 패하거나』협우사 , 1949년 원제 "I was Defeated"(스가모 프리즌으로 자료로서 쓰여진 것)
  • 고다마 츠요시오 『운명의 문』 카나루샤 , 1950년
  • 코다마 츠요시오 「시바쿠사는 만져도 스가모 전범의 기록」신유간 신문사 , 1956년
  • 고다마 츠요시오 「악정·총성·난세” 히로후미 도, 1961년 8월 25일
  • 코다마 겐지오 「옥중 옥외」-고타마 쇼지오 일기 히로제도 출판 , 1974년
  • 코다마 츠요시오 『우리카쿠 싸움 에리』―코타마 츠요시오 수상・대담 히로제도 출판 , 1975년
  • 코다마 겐지오 「이구마 타이 공망」-고타마 츠요시오 수상 히로 제도 출판 , 1976년

코다마 쇼지 남편 관련 영화 · 오리지널 비디오 · 다큐멘터리

각주

주석

  1. ↑후의 이나가와회. 회장은 이나가 와 히로요시 이며, 나중에 이나가와 성성
  2. ↑ 일본대학 황도과를 졸업했다고 되어 있다.
  3. ↑ 오니 시 중장이 자결에 사용한 칼은 코다마가 준 것이라고 한다.
  4. ↑ 오니 시 중장이 자결에 사용한 칼은 코다마가 준 것이라고 한다.
  5. ↑ 우익단체 · 대화회의 무라오카 켄지(후의 폭력단 호쿠세이회 회장· 오카무라 고이치 ) 등이 고다마 기관에서 일하고 있었다. 중국인과 만주인을 총으로 위협해 무서워 싼 값으로 물자를 획득했기 때문에 약탈이라고 불렸다. 다른 부하에게는 부기관장이 된 요시다 히코타로와 이와타 유키오, 후지요시 남, 허이  리  우익 의 무법자 가 모였다 .
    이런 종류의 '○○기관'은 당시 대륙에서 매우 많았고, 앞 표의 일과 비교해 뒤의 일로 중국 측에 스파이 활동, 항일 스파이의 검거나 섬멸 등을 맡고 있었다. 다음은 사토미기관과 논기관과의 관계이다.
    ・고다마는 요시다 히코 타로를 사토미 카즈미에게 몇번이나 해, 사토미로부터 중국의 정보를 받고 있었다. 사토미가 친한 사람에게 흘리기 위해서는, 중국의 정보 수집에 관해서는, 고다마는 안된다. 다케모리 히사사 『보이지 않는 정부-고다마 츠요시오와 그 검은 인맥』 시라이시 서점 1976년 P 70
    ・당초 현지에서 상사회사 도코공사를 경영하던 논광의 논기관을 통해 물자를 조달하고 있었다. 1943년 논이 암살된다.
  6. b 고옥의 텅스텐 보유 상황은, OSS 의 1943년 12월 14일자 조사 보고서에 상세한 기술이 있다.
    코다마는 1948년 석방 후 도쿄 레어 메탈 이라는 회사를 긴자 에 만들었다. 목표는 SCAP 를 위해 텅스텐과 몰리브덴을 조달하는 것이었다. 이후 대원산업으로 개칭되었다. Glenn Davis and John G. Roberts 모리야마 나오미역 「군대 없는 점령-월가가 「전후」를 연출했다」
    조선전쟁 무렵 오오쿠보 리 봄이 대표이사였던 일본해상사는 도쿄레어메탈 수송부문을 맡고 있었다. 타케모리 히사사 『보이지 않는 정부-고다마 겐지오와 그 검은 인맥』 시라이시 서점 1976년 P70-71
    그리고 코다마는, 고마츠 노부노스케라는 인물이 CIA에 텅스텐을 납입하는 계약서의 보증인이 되고 있다. 1954년 8월 10일에 보고된 정보. CIA Name Files, the Second Release 2002, Yoshio Kodama.
  7. ^ 고다마 기관과 같은 일은 이미 미쓰이 , 미쓰비시  대기업이 들어 있었지만 즉결주의로 모였기 때문에 현지에서는 편리했다.
  8. ^ 스가모 구치소에서의 1947년 4월 21일자 취조에 의하면, 고다마 기관의 자산의 총액은 당시의 일본엔으로 환산해 7000만엔 있었다고 한다. 또, 자산의 2/3을 요시다 히코타로에게 주었다고 한다.
    다만, 종전시의 자산 평가액. 아리마 테츠오「고다마 츠요시오 - 거녀의 쇼와시」분춘 신서 2013 p.82.
  9. ↑ b 1948년 6월 4일 심문. 소유하고 있었다는 광산은 다음과 같다.
    야마나시현 시오야마 처녀광산(텅스텐, 몰리브덴)
    시가현 아유카와(효탄석)
    교토부 종타광산(텅스텐)
    후쿠오카현 후쿠오카 광산(텅스텐)
    시마네현 키요쿠 광산(몰리브덴)
    아키타현 평택 북일본 카바이드사(텅스텐철, 몰리브덴철)

    이전 게시물 "코다마 츠요시오 - 거대한 쇼와 사"P.48.

  10. "1948년 말 석방된 코다마는 중앙정보국(CIA)에 협력하게 됐다"며 나중에 미국에서도 보도된 요출전 ] 이라고 한다 . 그러나 1953년에 기록되어 2005년에 기밀해제된 CIA문서에서 코다마는 다음과 같이 평가되고 있다.
    첩보 공작원으로서의 가치는 사실상 제로. 직업적인 거짓말쟁이, 갱, 페틴, 뿌리에서 도둑. ……. 실제 첩보 공작 기능은 전무하며 돈벌이 이외에 관심이 없다.
    Edward Drea, Greg Bradsher, Robert Hanyok, James Lide, Michael Petersen, and Daqing Yang, Researching Japanese War Crimes - Introductory Essays (2006), p208
  11. ^ 1953년 9월 1일자 보고서 「일본인 인텔리전트 서비스」가 코다마의 임하고 있는 과제로 하는 것을 4점 내걸고 있다.
    ・일본 공산당을 파괴하고, 공산주의의 영향력을 아시아로부터 배제하는 것.
    ・일본을 반공산주의 연맹의 주요국으로 하는 것.
    ・군벌의 재무장을 통해 국가주의적 일본을 재건하는 것.
    ・예상되는 일본 공산당에 의한 유혈혁명에 대항하는 계획을 반영해 거기에 대비하는 것.
    이전 게시물 '고다마 츠요시오 - 거대한 쇼와 사'p.128.
  12. ^ 전시 범죄의 혐의를 받고 싶지 않았던 해군은 고다마에게 처분을 의뢰. 이 해군의 비밀자금을 미내 광정 해상의 승낙을 얻어 장중으로 하고 있었다. 구 해군의 자산 때문에 미국도 몰수하지 않고 공중에 떠났다. 그리고 요시다 히코타로가 관리하는 녹색 산업 빌딩 지하에 은닉. 후 혼슈 제지 본사 소재지.
  13. ↑ 키타 이치키 , 오카와 슈메이 와 늘어선 우익의 보스. 코다마 겐타로 의 사설 비서였다. 정우회계 의 흑막으로 숨겨진 영향력을 가졌다. 고다마의 출처 3일 전에 병사. 춘명 간남 「비밀의 파일 : CIA의 대일 공작」 카미마키 공동 통신사 2000년 p.
  14. ↑ 「 아키라 구미」라고 읽는다.
  15.  미국 첩보 담당· 참모 제2부 .
  16. 마치이 쿠유키 모두 연예계 와의 연결도 깊고, 특히 미타 카코  친하다 . "연예계 신흥 세력의 수령 버닝 프로 사장의 "실력"연구"p.18
  17. ^
  18.  1959년(쇼와 34년)부터 1960년(쇼와 35년)의 제일파. 아이젠하워 대통령 의 방일을 일본 정부에 중단시켰다.
  19.  경찰의 동원수로는 대통령의 이동 경로를 확보할 수 없었다.
  20.  이때 자민당에서는 6억엔 전후의 자금이 제공되고 있었지만, 우익과 폭력단 사이에서 행방불명이 되었다. 고다마들은 혐의를 받고 진상규명회까지 마련됐지만, 언젠가 사태가 되었다. 타케모리 히사사 『보이지 않는 정부-고다마 겐지오와 그 검은 인맥』 시라이시 서점 1976년 P 79-80
  21. ^ 다오카를 형으로 한다
  22. ↑ 고문에는 일본국수 회 , 마츠바회, 의인당 등의 친분이 있었다. 실명으로는 아마노 타츠오 와 타치바나 타카 사부로 오누마 마사, 사고야 루수 , 사사가 와 료이치 , 미우라 요시이치 등  있었다. 전애회의는 파업이나 조합 붕괴를 폭력으로 갔다.
  23. 히노마루 청년대의 다카하시 정의 를 의장으로 하고, 하부 조직에는 스미요시 회계의 전조장이나 동성 회의 마치이 쿠유키 가 대표를 맡는 조직이 있었다. 니가타현의 산속에서 군사훈련을 하고, 코다마는 훈련 후, 「너희 각 사람이 혼자 일살이 아니라 혼자서 백명을 죽여 주기를 바란다」라고 회원에게 말했다. 청사회는 일본 최대의 행동 우익으로 코다마에 반목하는 자를 두려워했다.
  24.  세계반공연맹의 지역단체. 후에 통일교 회계의 반공 단체· 국제승공연합의 설립으로 이어진다. 「아사히 저널」에 의하면, 미국에서는, 문선명 -고다마 겐지오-사사가와 료이치 등을 통하는 관계가, 미 하원 국제기구 소위원회(프레이저 위원회. 위원장은 도널드·M·프레이저 민주당 의원)에서의 증언으로 밝혀지고 있다.
  25. ↑ 야마나시현 혼스호반에 있던 전일본 모터 보트 경주 연합회의 시설에서 개최.
  26.  전신은 구황도대
  27. ↑ 박정권의 정책에는 통일교 가 호응하고 야스오카 마사아츠가 공명 했다 .
  28. ^ 통일 교회 에 매우 동찬이었던 것은 유명하다.
  29.  당시 긴자 4가의 잡거 빌딩에 사무소를 두고 있었다.
  30. ↑ 보상 은 현금 1억엔이었다.
  31. ^ 일본정밀에서는 태도가와 츠네오가 임원에게 이름을 올린 적도 있다. 타케모리 히사사 『보이지 않는 정부-고다마 츠요시오와 그 검은 인맥』 시라이시 서점 1976년 P 160
  32. ^ 고다마가 개입한 탈취 사건은 많다.
    ・예를 들면 노무라 유카쿠 사장의 세가와 미노테루 로부터 막대한 자금 제공을 받고 있었다.
    1973년 에는 분식 결산에 흔들리는 식산 주택 상호 주식회사의 주주 총회 극복에 얽혀, 동 사장의 도고 민안으로부터 코다마나, 부하의 오카무라 고이치 에 금전이 건너고 있다.
    ・그 밖에도 인도네시아 에 대한 정부개발원조에서는 동일무역 비서로서 스카르노 대통령의 밤 상대로 선정된 클럽호스테스 근본칠호코( 겐지명은 데비, 후의 데비 부인 )를 보내 황폐를 하고 있다.
  33. ^ 하카호도 루트 이외에서도 언론에 압력을 가한 예는 많다. 악사를 쓰는 정론신문 을 묵묵히 하기 위해, 타키산업 주식회사 대표이사 이시이 유이히로 (후의 이나가와회 회장 이시이 진 )를 보냈던 적도 있었다.
  34.  1960년 10월 설립. 현재의 실질적인 지주회사는 박보아동교육진흥회.
  35.  주로 덴츠 가 선전 광고 부문에서 독점 계약을 하고 있는 기업을 표적으로 했다. 미츠코시 , 아지노모토 등은 광고 부문의 일부를 하쿠호도에 나누어야 했다. 타케모리 히사사 『보이지 않는 정부-고다마 츠요시오와 그 검은 인맥』 시라이시 서점 1976년 P 169-170
    덧붙여 덴츠는 사토미 카와 의 관계가 논의되고 있다.
  36. ↑ 1972년 11월 30일에 사장 취임. 9일 전에 '아토'라는 회사를 설립. 자본금은 200만엔. 나중에 하쿠호도의 주식 30.6%를 소유하는 터널 회사가 된다. 주식 보유 과정에 특별 배임 혐의를 받고 1975년 11월 27일 후쿠이는 도쿄지검 특수부에 체포되었다.
  37. ^ 1968년 11월 17일의 사토 에이사쿠 일기에서는, 안사이 히로시 가 나카소네파와의 협력을 얻기 위해 코다마와 만나는 것을 가져왔지만, 사토는 절각원이 있던 코다마와 다시 접촉을 가지는 것과 나카소네 야스히로 가 코다마의 영향을 받는 것을 싫어, 말하에 더욱이 사토는 복심의 후쿠다 준오 와 다나카 각영에 대해서도 코다마의 동향에 주의를 기울이도록 전하고 있다.

출처

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  2. ↑ 팀 와이너 “CIA 비록” 문예 춘추
  3. ↑ 가쿠마 타카시 (1979). 문서 닛쇼 이와이 . 도쿠마 서점
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  5. ↑ 오시타 에이지『수령 쇼와 어둠의 지배자 3권』야마토 서방 <다이와 문고>, 2006년, ISBN 978-4-479-30027-4 p.273
  6. ^ 아리마 테츠오 『역사 문제의 정답』신시오 신서 2016년, pp.185-190
  7. ^ 아리마 테츠오 『역사 문제의 정답』신시오 신서 2016년, pp.195-202
  8. ↑ 오시 타 에이지『흑막 쇼와 어둠의 지배자 제1권』야마토 서방 <다이와 문고>, 2006년, ISBN 4-479-30018-X p.16
  9.  『니혼마츠시사 5근세Ⅱ』
  10. ^ 『고다마 츠요시오 자전 악정・총성・난세』
  11. ↑ 행사 참조
  12. ↑ 혼마 겐이치로가 천행회 이사 때문에. 5·15 사건 참조.
  13. ↑ 자저 『우리카쿠 싸움 에리』광제당 출판 , 1975년, pp.321-327
  14. ↑ 공동 통신사 사회부편「침묵의 파일 : 「세시마 류조」란 무엇이었는지」 신시오샤, 1999년, 47페이지. ISBN  4-10-122421-8 .
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  17. ^ 아리마 테츠오 「고다마 츠요시오 - 거귀의 쇼와시」분춘 신서 2013 pp.67-80.
  18. ↑ 총리 청 관방 감사과 편 「공직 추방에 관한 각서 해당자 명부」히비야 정경회, 1949년, 269 쪽. NDLJP : 1276156 .
  19. “ 각영이 두려워 , 나카소네가 울고…
  20. ^ 고다마, 하기와라씨 집에 2개월 반 다닌다 “뒤의 연못에서 낚시”가 두 사람의 만남 “아사히 신문” 1978년(1978년) 1월 20일 조간, 13판, 23면
  21. “두 사람은 노려보고, 한마디도 발하지 않았다” “일본 제일의 우익”과 “전설의 야쿠자”가 드디어 첫 대면 …
  22. ^ 다케모리 히사아사 『보이지 않는 정부-고다마 겐지오와 그 검은 인맥』 시라이시 서점 1976년 P 167-169
  23. ↑중의원 회의록 정보 제077 회 국회 예산 위원회 제15호 1976/2/17
  24. ^ 로 사건 공판 고다마를 임상 심문 고통을 호소 도중에 중지 “아사히 신문” 1979년(1979년) 10월 11일 석간 3판 15면
  25. “ 미해결 사건 File.05 “록히드 사건” ”. NHK. 2022년 2월 9일 시점의 오리지널 보다 아카이브.2022년 2월 14일 열람.
  26.  권다 만지 “마츠모토 키요하리 시대의 어둠을 바라본 작가”(분예춘추·2009년) 제8장
  27. ↑ 가토 노리 요 편 「무라카미 하루키」(황토 출판사·1996년) p.70

참고문헌

웹사이트

서적·잡지

관련 문헌

관련 항목

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Yoshio Kodama

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Yoshio Kodama
児玉 誉士夫
Mug shot of Kodama while he was held as a suspected war criminal in Sugamo Prison, 1946
BornFebruary 18, 1911
DiedJanuary 17, 1984 (aged 72)
Tokyo, Japan
Occupation(s)Political fixer, smuggler, businessman, spy
SpouseSayoko (1940–1958)[1]
ChildrenHagiwara Kichitaro (eldest son) (児玉博隆), Morihiro Kodama (third son) (児玉守弘)[citation needed]
Criminal chargeConspiracy to commit murder, tax evasion
PenaltyA total of six and half years in prisons

Yoshio Kodama (児玉 誉士夫Kodama Yoshio; February 18, 1911 – January 17, 1984)[2] was a Japanese right-wing ultranationalist and a prominent figure in the rise of organized crime in Japan.[citation needed] The most famous kuromaku, or behind-the-scenes power broker, of the 20th century, he was active in Japan's political arena and criminal underworld from the 1930s to the 1970s, and became enormously wealthy through his involvement in smuggling operations.[3]

Early life

Yoshio Kodama (first row, second from right) at a meeting of the ultranationalist Black Ocean Society (Genyōsha) in 1929

Yoshio Kodama was born on February 18, 1911, in NihonmatsuFukushima, Japan, to a family formerly of samurai status.[4] Kodama was the fifth son of a bankrupt Nihonmatsu businessman. Due to his family's straitened circumstances, in 1920, Kodama was sent to live with a married older sister in Korea and lived there for three years.[4] He was treated badly, suffered from isolation, and had to work in a steel mill.[5]

Early right-wing activism

Returning to Japan as a teenager, Kodama joined a variety of right-wing nationalist groups. At the end of the 1920s he joined the secret society Gen'yōsha.[6] In 1929, he joined the National Foundation Society" (建国会, Kenkokukai), founded by Akao Bin and Uesugi Shinkichi.[6] In 1929, during a parade, he tried to give Emperor Hirohito a self-written appeal for increased patriotism. However, he was intercepted by the security forces and arrested for his role in the "Direct Appeal to the Emperor Incident" (天皇直訴事件, Tennō Jikiso Jiken). He was imprisoned for six months.[6] During this time in prison, he wrote his first book, a primer for Japanese nationalists. After his release from prison, he joined Tatsuo Tsukui's Radical Patriotic Party (急進愛国党, Kyūshin Aikokutō). Tōyama Mitsuru from the Gen'yōsha (Dark Ocean Society), a secret society founded in the late 19th century that first grouped extreme rightists and yakuza together, sent him to Manchuria. There he was involved in the suppression of the anti-Japanese resistance working under the chief of Japanese military intelligence in the region, Colonel Kenji Doihara.[citation needed] A few months later, Kodama returned to Japan. In 1931, Kodama was imprisoned again for his role in the "Diet Pamphlet Distribution Case" (国会ビラ撒き事件, Kokkai Biramaki Jiken). He was released in 1932.

In 1932, Kodama formed his own ultranationalist group called the Independent Youth Society (独立青年社, Dokuritsu Seinensha), which planned to assassinate various Japanese politicians.[6] Its main activity was opium export from Japan to Korea and Manchuria to break the resistance of the local population against the Japanese rule.[7] Kodama's group, in collaboration with the group Tenkōkai (天行会, "Society for Heavenly Action") was responsible for the murder of three Japanese politicians who advocated the peaceful coexistence of Japan, Korea, and China, and made abortive plans to assassinate Prime Minister Saito Makoto.[7][6] Kodama himself was detained in October 1932, when explosives he stored at his home for use in assassinating politicians accidentally exploded, leading to his arrest, a trial, and a prison term of three and half years. He was released from Fuchū prison at the instigation of Doihara,[citation needed] by this time promoted to major general, just prior to the outbreak of the Second Sino-Japanese War in April 1937.

Second Sino-Japanese War and the Pacific War

Yoshio Kodama (left) as bodyguard of the Chinese collaborator Wang Jingwei (1939)
From the left, Deputy Chikanori Moji, Yoshio Kodama, and Vice Admiral Takijirō Ōnishi in February 1945 at the Tainan Shrine in Taiwan

In 1937, the Second Sino-Japanese War broke out following a clash between Japanese and Chinese troops in the Marco Polo Bridge incident, which precipitated a full-scale invasion of China proper by Japanese forces. After the conquest of Shanghai by Japanese troops, Kodama was summoned there by his old mentor Doihara.[8] Among other things, he served in 1939 as a bodyguard for the Chinese collaborator Wang Jingwei.[citation needed] During his work he met the vice admiral and later founder of the Kamikaze units Takijirō Ōnishi, with whom he became friends.[citation needed]

From 1939 to 1941 he traveled through China as a Japanese spy and built up a network that included various triads collaborating with the Japanese.[6] Like other Japanese secret service agents, he founded his own "Kodama Organization" (Kodama Kikan), which, thanks to his relationship with Admiral Ōnishi, had an exclusive contract as a purchasing agent in China for the aviation forces of the Imperial Japanese Navy.[citation needed]

With these resources, Kodama was able to use what he described as "self-sacrificing youth"[9] to engage in large-scale plunder in Manchuria and China and sell the stolen goods at a high profit in Japan.[citation needed] He is also said to have distributed opium and narcotics.[10] Kodama publicly regarded this activity as purely idealistic and patriotic.[11][page needed] By 1945, Kodama had become one of the richest men in Asia with assets equivalent to $175 million US dollars.[citation needed]

Post-War detention in Sugamo Prison

Kodama's mugshot from his time in Sugamo Prison

At the end of World War II, the defeat of Japan initially represented an enormous setback for Kodama. Shortly after the announcement of the unconditional surrender of Japan on August 15, 1945, he witnessed the ritual suicide of Admiral Ōnishi, but was subsequently unable to bring himself to commit seppuku.[12] A little later he acted as an advisor to the Japanese interim government of Prince Naruhiko Higashikuni.[13] Since Kodama feared the confiscation of his property by the US occupation authorities, he gave parts of it to the yakuza chief Karoku Tsuji.[14] Other possessions were kept on the grounds of the Imperial Palace in Tokyo.[citation needed]

In March 1946, Kodama was arrested by the United States as a suspected Class A war criminal.[15][4][7] He was held in Sugamo Prison with Ryoichi Sasakawa, where the two formed a long friendship.[15] Kodama also formed a close relationship with fellow suspected Class-A war criminal (and future prime minister) Nobusuke Kishi.[16][7] Since he had a lot of time, Kodama was able to keep himself up to date on current events and far-reaching political changes in East Asia in all available daily newspapers. He realized that the new democratic forces in Japan were weak, observing that "in the midst of all this rapid change, there is one thing which is lagging behind. This is parliamentary power."[17] While imprisoned, Kodama wrote Sugamo Diary (a chronicle of his experience in prison) and I Was Defeated (an autobiographical work).[18]

Like many other alleged Japanese war criminals, Kodama was recruited by the US G-2 (Intelligence) under Charles A. Willoughby while in custody.[19][page needed] In 1948, the US intelligence community was able to drop all charges against him on the condition that he would support all anti-communist activities of the G-2 CIC division in Asia.[19][page needed] On December 24, 1948, he left Sugamo Prison as a free man and was never imprisoned again for the rest of his life. Kodama spent a total of six and a half years of his life in prisons. Kodama, being a right-wing ultranationalist, eagerly fulfilled his end of the bargain, using his fortune and network of contacts to quell labor disputes, root out Communist sympathizers and otherwise fight socialist activities in Japan. In 1949, the CIA paid him to smuggle a shipment of tungsten out of China.[20] The shipment never arrived but Kodama kept his money.[20]

Political fixer

Kodama in January 1953 during a visit by conservative politicians Ichirō Hatoyama and Bukichi Miki to his Tokyo estate. Hatoyama became Prime Minister of Japan a year later. The photo was published in 1953 in Mainichi Shimbun.

In 1949 Kodama led the Meiraki-gumi gang against labor unions at the Hokutan coal mine.[21] He began to use the fortune he had accumulated in China and subsequently hidden, which supposedly amounted to 70 million yen (not including the platinum and diamonds he spirited away),[22] to covertly influence electoral politics in postwar Japan.

In 1955, Kodama's Sugamo Prison acquaintance Nobusuke Kishi, with the covert backing of the CIA, engineered the formation of the conservative Liberal Democratic Party (LDP) via the merger of the Liberal Party and the Democratic Party.[23] In the 1950s and 1960s, the CIA spent millions to support the LDP, for intelligence gathering and to make Japan a bulwark against communism in Asia.[3] Using his preexisting connections to the CIA, Kodama served as a political fixer (kuromaku) who secretly funneled funds to conservatives.[3]

In his role as fixer, conservative politicians turned to Kodama if they had problems. An example of his role as fixer was the planned state visit by US President Dwight D. Eisenhower in 1960, in connection with the revision of U.S.-Japan Security Treaty (known as Anpo in Japanese), intended to cement the U.S.-Japan alliance.[16] In an effort to prevent the ratification of the treaty and prevent Eisenhower's visit, a coalition of left-leaning opposition groups and civic organizations carried out the massive 1960 Anpo Protests.[24] As the protests dramatically escalated in June 1960, now-Prime Minister Nobusuke Kishi asked his old friend Kodama to organize right-wing thugs and yakuza gangsters as a private police force to secure the streets for Eisenhower's visit.[16] Kodama obliged, using his right-wing connections to prepare a "Welcoming Ike to Japan Mobilization Plan" which he claimed would be able to put nearly 150,000 young rightists on the streets in order to "protect" President Eisenhower from left-wing protesters.[16] Kodama's detailed plan promised to mobilize exactly 146,879 men, whereas Japan's National Police Agency later estimated that he could realistically mobilize at most 120,506.[25] As a result, around 28,000 yakuza from different gangs organized a security service on their own and in cooperation with the police.[26] Right-wing groups also staged counter-protests in favor of the Treaty.[27] However, due to the violent June 15th Incident, in which female university student Michiko Kanba was killed, Kishi was forced to cancel Eisenhower's visit and Kodama's force was not needed.[28]

In response to the Anpo protests, Kodama and other right-wing leaders established the All-Japanese Conference of Patriotic Associations (全日本愛国者団体会議Zen Nihon Aikokusha Dantai Kaigi; abbreviated "Zen'ai Kaigi"), an umbrella organization of 80 right-wing groups and yakuza groups.[29][30] Zen'ai Kaigi carried out a variety of counter-protest activities in support of the conservative Kishi government, and by the end of the protests had grown to include more than 100 organizations.[30] In this way, the 1960 Anpo protests helped cement the interlocking relationships between right-wing nationalists, yakuza gangsters, and conservative political interests, with Kodama playing a starring role.[16]

In April 1961, Kodama formed his own sub-faction within the Zen'ai Kaigi called Seinen Shiso Kenkyukai (Society for the Study of Youth Ideology), which represented a hard core within the umbrella organization, mainly yakuza.[citation needed] At the end of the 1960s, the Shiso Kenkyukai split from Zen'ai Kaigi . Its members received military training and were used to intimidate unpopular journalists and book authors.[citation needed] One of the victims of this organization was the journalist Hisatomo Takemori (久友竹森), whose book entitled Black Money was not published after multiple threats.[31]

In 1963, Kodama attempted to form a coalition of Japan's organized crime groups. However, Kazuo Taoka withdrew the Yamaguchi-gumi early on in talks, leaving Kodama with a Tokyo-centered group that would become known as the Kanto-kai. The organization was formed of seven yakuza groups (including the Sumiyoshi-kai and Matsuba-kai), with the purpose of fostering relations between the groups and promoting rightist goals. With Kodama unable to smooth over its internal conflicts, the Kanto-kai dissolved in January 1965.[32][33]

Kodama was able to grow his fortune until the mid-1970s.[citation needed] He owned shares in Hisayuki Machii's Ginza nightclub empire, a shipping company, a baseball team, a film studio, and several sports magazines.[34]

Kodama maintained close relations with LDP politicians, such as the yakuza-connected LDP Vice President Banboku Ōno,[35][36] and his influence did not suffer until he was identified as the key kuromaku in the Lockheed Corporation bribery scandal. Kodama had been a paid agent of Lockheed since 1958 and received $U.S.7 million for his help in arranging the TriStar aircraft deal.[37][38][39]

Lockheed scandal and final years

Kodama with his second wife, Sayoko

In the 1970s, it came to light that Kodama had played a role in the Lockheed L-1011 bribery scandal, which effectively ended his career as a right-wing fixer.[2][40]

After the Lockheed scandal, disillusioned ultranationalist Roman Porno film actor Mitsuyasu Maeno attempted to assassinate Kodama by flying a Piper PA-28 Cherokee plane kamikaze-style into his mansion in Setagaya Ward's Todoroki.[41] The attempt failed.[42] Maeno hit the second floor of Kodama's mansion and died in the plane crash, but Kodama was unharmed in a different room. He was recovering from a stroke at the time.[41]

In June 1977, charges were brought against Kodama for tax evasion related to the scandal, but the trial was never completed before he died.[2][43] Kodama died in his sleep of a stroke in Tokyo on January 17, 1984.[2]

Personal life

Kodama was married twice. A brief 1935 marriage ended in divorce. In 1940, Kodama married his second wife, Sayoko, with whom he had two children, a son and a daughter.[4] Sayoko was her registered legal name, but she preferred to be called "Atsuko". Sayoko died in June 1960 of injuries suffered in a May 1960 car accident.[44]

The main character in 1979 Japanese film Nihon no Fixer, also known in its English title The Fixer, Yamaoka, was heavily based on Yoshio Kodama.[45] The film itself centered the story of Yamaoka and his connection with Japanese Prime Minister Hirayama, who was loosely based on Kakuei Tanaka and his connection to the Lockheed bribery scandals in the early 1970s.[45]

References

Citations

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  4.  "JAPAN Yoshio KODAMA Rightist Leader" (PDF). Central Intelligence Agency. 2005. Archived from the original (PDF) on September 21, 2015. Retrieved December 8, 2014.
  5.  Kaplan & Dubro 2003, p. 64.
  6.  Kaplan & Dubro 2003, p. 51.
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  9.  Herold: Die Macht der Yakuza, p. 155
  10.  "Manchuria: a "utopia" created by opium [Premium A special]"www.asahi.com. Asahi Shimbun. Retrieved 1 January 2024.
  11.  Kodama, I Was Defeated
  12.  Kodama 1960, p. 23.
  13.  Kaplan & Dubro 2003, p. 66.
  14.  Kaplan & Dubro 2003, p. 67.
  15.  Kaplan & Dubro 2003, p. 63.
  16.  Kapur 2018, p. 250.
  17.  Kodama 1960, p. 158.
  18.  Kaplan & Dubro 2003, p. 50.
  19.  Kaplan & Dubro 2003.
  20.  Frances, Catherine. "Big in Japan: Yoshio Kodama"Metropolis. Archived from the original on April 13, 2014. Retrieved December 8, 2014.
  21.  Kaplan & Dubro 2003, p. 54.
  22.  (Karl Hale Dixon: The Extreme Right Wing in Contemporary Japan, (Unpublished PhD Dissertation, Florida State University, 1975) Page 77)
  23.  Kapur 2018, p. 10.
  24.  Kapur 2018, pp. 17–19.
  25.  Kapur 2018, p. 306n67.
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  27.  Kapur 2018, p. 248.
  28.  Kapur 2018, pp. 31–33, 250.
  29.  Kaplan & Dubro 2003, p. 87.
  30.  Kapur 2018, p. 249.
  31.  Kaplan & Dubro 2003, pp. 88–89.
  32.  Kaplan & Dubro 2003, pp. 78–79.
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  34.  Kaplan & Dubro 2003, p. 79.
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  36.  Kaplan & Dubro 2003, p. 82.
  37.  Kaplan & Dubro 2003, pp. 101–123.
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  40.  Kaplan & Dubro 2003, pp. 85, 93.
  41.  "Japan rewind: 40 years since the porn star's kamikaze attack in Tokyo"Tokyo Reporter. June 10, 2016. Archived from the original on March 23, 2021.
  42.  "'Banzai!' Porno Actor In Kamikaze Attack On Japanese Right-Winger". Kingsport Times-NewsKingsport, Tennessee: Sandusky Newspapers. Associated Press. 1976-03-24. p. 2–A.
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  44.  Ōshita, Eiji (February 23, 2025). "'Futari wa niramiai, hitokoto mo hasshinakatta': 'nihon'ichi no uyoku' to 'densetsu no yakuza' ga tsui ni shotaimen...Kodama Yoshio to Inagawa Seijō no "kankei" ga fukamatta kikkake"Bunshun Online. p. 3.
  45.  "日本の黒幕|日本の映画情報を検索 日本映画情報システム"www.japanese-cinema-db.jp (in Japanese). Archived from the original on 2023-04-11. Retrieved 2025-09-23.

Works cited

Further reading

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  • Anja Herold: Die Macht der Yakuza. Geo Epoche Nr. 48, Gruner & Jahr, Hamburg 28. März 2011, S. 142–159; ISBN 978-3-652-00029-1
  • 社会問題研究会 (Social Problems Research Group): 右翼事典: 民族派の全貌; Transcription: "Uyoku jiten: minzoku ha zenbō"; Translation: "Lexicon of the Japanese Right: Complete Overview of the Fraction"; Futabasha, Tōkyō, 1970
  • Gabriele Kawamura: Yakuza – Gesellschaftliche Bedingungen organisierter Kriminalität in Japan. Centaurus Verlag, Pfaffenweiler 1994, ISBN 3-89085-898-8
  • 竹森久朝 (Takemori, Hisaakira): "見えざる政府: 児玉誉士夫とその黒の人脈"; Transcription: "Miezaru seifu: Kodama Yoshio to sono kuro no jinmyaku"; Translation: "Government's Transparent Theater: Kodama Yoshio's Excellent Relationship". Shiraishi Shoten, Shōwa 51, Tōkyō [1976]
  • S. Noma (Hrsg.): Kodama Yoshio. In: Japan. An Illustrated Encyclopedia. Kodansha, 1993, ISBN 4-06-205938-X. S. 804.
  • Hunter, Janet: "Kodama Yoshio." In: Concise Dictionary of Modern Japanese History. Kodansha International. 1984. ISBN 4-7700-1193-8.
  • Anonymous author: 黒幕・児玉誉士夫: 自民党にからまりつく不気味な影 / 每日新聞政治部編; Transcription: "Kuromaku, Kodama Yoshio: Jimintō ni karamaritsuku bukimi na kage / Mainichi Shinbun Seijibu hen"; Translation: Eminence Gray Kodama Yoshio: The Liberal Democratic Party and the two sides of its sinister chief gurus acting out of the shadows / volume of the Mainichi Shinbun series on politics ". Ēru Shuppansha / Yell books, Shōwa 51, Tōkyō [1976]
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