李グウ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
本来の表記は「李鍝」です。この記事に付けられた題名は記事名の制約から不正確なものとなっています。 |
雲峴宮 李公 鍝 | |
---|---|
李鍝
| |
続柄 | 李堈第二男子(高宗孫) |
称号 | 成吉(初名)、念石・尚雲(雅号) |
全名 | 李 鍝(이 우) |
身位 | 公 |
敬称 | 殿下 |
出生 | 1912年11月15日 日本統治時代の朝鮮 京城府 |
死去 | 1945年8月7日(満32歳没) 日本・広島県広島市、(現南区)似島 |
配偶者 | 朴賛珠 |
子女 | 李淸、李淙 |
父親 | 李公 堈 |
母親 | 金興仁 |
経歴
日本統治時代の朝鮮で生まれる。1917年に興宣大院君の孫(父・李堈の従兄)李埈鎔の養子となり、雲峴宮の第4代宗主となる。李埈鎔が“公”の称号を保有していたことから、以降“李鍝公殿下”と呼ばれるようになる。
被爆
1945年8月6日、広島に置かれた第二総軍の教育参謀中佐であった李鍝は、馬に乗って司令部への出勤途中、福屋百貨店(爆心地から710m)付近で原爆投下に遭った。鍝は被爆後もそのまま西方へ馬を飛ばしたが、力尽きて本川橋西詰(橋桁の下とも)でうずくまっているところを同日夕刻発見され、ただちに市内似島の病院に収容されたが、翌7日午後4時過ぎに死亡した。死後、陸軍大佐に昇進した。遺体は妻子のいる京城へ空輸され、8月15日に葬儀が行われた。
御附武官の吉成弘中佐は、本来なら鍝に同行しているところ、偶然水虫のため一足早く第二総軍司令部に出勤して鍝を待っていたため、被爆死を免れた。しかし副官として自責の念に駆られ、鍝の死の直後にピストル自殺を遂げた。
備考
栄典
脚注
- ^ 金乙漢 (2010-08-15). 조선의 마지막 황태자 영친왕. 페이퍼로드. p. 58. ISBN 978-89-92920-45-2.
- ^ 『官報』第5509号「叙任及辞令」1945年5月28日。p.219
- ^ 『官報』第849号、「叙任及辞令」1929年10月28日。p.672
- ^ 『官報』第2043号「叙任及辞令」1933年10月21日。p.497
- ^ 『官報』第5048号「叙任及辞令」1943年11月9日。p.197
参考文献
- 山田風太郎 『同日同刻:太平洋戦争開戦の一日と終戦の十五日』(ちくま文庫、2006年 ISBN 4480422471)
No comments:
Post a Comment