中村哲 (医師)
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旭日小綬章 中村 哲 تېڅو ناکامورا | |
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生誕 | 1946年9月15日 福岡県福岡市[1] |
死没 | 2019年12月4日(73歳没) ナンガルハル州ジャラーラーバード |
国籍 | 日本 |
教育 | 九州大学医学部卒業 |
職業 | 医師 |
親戚 | 中村尚子(妻)、中村秋子(長女)他4児[2] |
医学関連経歴 | |
分野 | 脳神経内科 |
所属 | ペシャワール会 |
受賞 | 外務大臣賞 厚生大臣賞 菊池寛賞 マグサイサイ賞 アフガニスタン議会下院表彰 |
中村 哲(なかむら てつ、1946年9月15日 - 2019年12月4日)は、日本の医師(脳神経内科[3])。勲等は旭日小綬章。アフガニスタンではカカ・ムラド(کاکا مراد、「ナカムラのおじさん」)[4]、カカムラッドとも呼ばれる[5]。
ペシャワール会現地代表、ピース・ジャパン・メディカル・サービス総院長、九州大学高等研究院特別主幹教授などを歴任した[6][7]。
概要[編集]
福岡県福岡市出身の脳神経内科を専門とする医師である。ペシャワール会の現地代表やピース・ジャパン・メディカル・サービスの総院長として、パキスタンやアフガニスタンで医療活動に従事してきた。アフガニスタンでは高く評価されており、同国から国家勲章や議会下院表彰などが授与されており、さらに同国の名誉市民権が贈られている[8]。日本からも旭日双光章などが授与されている。また、母校である九州大学では、高等研究院にて特別主幹教授に就任した。2019年、アフガニスタンのナンガルハル州ジャラーラーバードにて、武装勢力に銃撃され死去した。死去に伴い、旭日小綬章や内閣総理大臣感謝状などが授与された。
経歴[編集]
出生から大学卒業まで[編集]
福岡県福岡市御笠町(現在の博多区堅粕)生まれ[1]。2年後、母の実家(玉井家)がある同県若松市(現在の北九州市若松区)に移り[1]、6歳から大学卒業まで糟屋郡古賀町(現在の古賀市)で暮らした[9]。古賀市立古賀西小学校[10][11]、西南学院中学校[12]、福岡県立福岡高等学校[13]を経て、1973年に九州大学医学部を卒業した[14]。
医師免許取得後[編集]
国内病院勤務ののち、1984年、日本キリスト教海外医療協力会(JOCS)から[15]派遣されてパキスタン北西辺境州の州都ペシャワールに赴任。以来、20年以上にわたってハンセン病を中心とする医療活動に従事する。登山と昆虫採集が趣味で、1978年には7000m峰ティリチミール登山隊に帯同医師として参加した。
パキスタン・アフガニスタン地域で長く活動してきたが、パキスタン国内では政府の圧力で活動の継続が困難になったとして、以後はアフガニスタンに現地拠点を移して活動を続ける意思を示している。
2003年にマグサイサイ賞を受賞した。2004年には皇居に招かれ、当時天皇であった明仁、皇后の美智子、皇女・紀宮清子内親王(当時)へアフガニスタンの現況報告を行った。同年、第14回イーハトーブ賞受賞。
2008年には参議院外交防衛委員会で、参考人としてアフガニスタン情勢を語っている。また、「天皇陛下御在位20年記念式典」にも、天皇・皇后が関心を持つ分野に縁のある代表者の一人として紹介され出席している。
2010年、水があれば多くの病気と帰還難民問題を解決できるとして、福岡県朝倉市の山田堰をモデルにして建設していた[16]、クナール川からガンベリー砂漠まで総延長25kmを超える用水路が完成し、約10万人の農民が暮らしていける基盤を作る。
2013年、第24回福岡アジア文化賞大賞、第61回菊池寛賞を受賞した。2014年、『天、共に在り―アフガニスタン三十年の闘い』で、第1回城山三郎賞、第4回梅棹忠夫・山と探検文学賞を受賞した。
2016年、現地の住民が自分で用水路を作れるように、学校を準備中。住民の要望によりモスク(イスラム教の礼拝堂)やマドラサ(イスラム教の教育施設)を建設。旭日双光章受章。
2018年、アフガニスタンの国家勲章を受章した[17]。
2019年10月7日、アフガニスタンでの長年の活動が認められ、同国の名誉市民権を授与された[8]。
銃撃事件・没後[編集]
2019年12月4日、アフガニスタンの東部ナンガルハル州の州都ジャラーラーバードにおいて、車で移動中に何者かに銃撃を受け、右胸に一発被弾した[18]。負傷後、現地の病院に搬送された際には意識があったが、さらなる治療の為にパルヴァーン州バグラームにあるアメリカ軍のバグラム空軍基地へ搬送される途中で死亡した[19][20][21]。なお、中村と共に車に同乗していた5名(運転手や警備員など)もこの銃撃により死亡した[20]。中村が襲撃されたこの事件に対してターリバーンは報道官が声明を発表し、組織の関与を否定[20][22]。一方でアフガニスタン大統領のアシュラフ・ガニーは「テロ事件である」とする声明を発した[23]。
12月7日、カブールの空港で追悼式典が行われたのち、遺体は空路で日本に搬送された[24]。追悼式典では大統領のアシュラフ・ガニー自らが棺を担いだ。
告別式は12月11日に福岡市中央区の斎場で営まれた[25]。親交のあった上皇夫妻や秋篠宮夫妻などからも弔意が寄せられ、バシール・モハバット駐日アフガニスタン大使、久保千春九州大学長らが弔辞を読んだ[26]。中村と同様にアフガニスタンへの医療支援を目的とするNPO法人カレーズの会を率いていたアフガニスタン系日本人医師レシャード・カレッドは、中日新聞の取材に応じて、生前の中村について「互いの活動を励まし合い、相談し合う関係」であったと述べ、「寡黙で男らしく、優しい九州男児を絵に描いたような人だった」と中村の人柄を述懐して冥福を祈った[27]。
福岡県警は刑法の国外犯規定に基づき殺人容疑で捜査を進めており、司法解剖の結果、死因は肝臓損傷による失血死とみられると発表した[28]。
同年12月23日、政府は中村への旭日小綬章の追贈と内閣総理大臣感謝状の授与を決定[29]。27日に行われた授与式で授与式で内閣総理大臣・安倍晋三は遺族と面会し、「(中村さんは)アフガニスタン国民や難民のための医療活動、かんがい事業などで輝かしい業績を上げ、国際人道支援に多大な貢献をした」と生前の功績を称えた[30]。授与式の後に遺族は取材に応じ、「本当は無念で残念だが、みなさまの支援で継続してアフガニスタンで緑の大地が広がっていくことを願っている」「ぺシャワール会はこれからも継続していく。父も何より願っていることで、家族もそれが願いです」と語った[31][32]。授与式には駐日アフガニスタン大使のバシール・モハバットや、ペシャワール会の村上優会長らも立ち会った[33]。
2020年1月、ガンベリ(英:Gamberi)公園にドクターサーブナカムラ記念塔が建設された[34]。
同年7月、第6回食の新潟国際賞の大賞を受賞[35]。同年8月、佐賀大学の研究チームが、新種のタマバエの学名を、Massalongia nakamuratetsui と命名[36][37]。和名はミズメタマバエとなる。
追悼の声[編集]
中村の死去を受けて、政界からは以下のような発言がなされた[38][39][40]。
- 内閣総理大臣・安倍晋三:「中村先生は、医師として医療分野において、また、灌漑事業等において、アフガンで大変な貢献をしてこられました。なかなか危険で厳しい地域にあって、本当に、本当に命懸けで様々な業績を挙げられ、アフガンの人々からも大変な感謝を受けていたというふうに、我々も知っておりますが。しかし、今回このような形で、お亡くなりになられたことは本当にショックですし、心から御冥福をお祈りしたいと思います。」
- 内閣官房長官・菅義偉:「中村医師を含む方々が犠牲となったことは痛恨の極みだ。今回の卑劣なテロは許されるものではなく、わが国は断固として非難し、今後とも日本人の安全確保のために全力を尽くしていくとともに、アフガニスタンの平和と発展のために引き続き貢献していきたい」
- 自由民主党政務調査会長・岸田文雄:「中村さんの大きな功績を改めて振り返り、敬意を表し、ご冥福をお祈り申し上げたい。国際社会では厳しい現実が存在し、日本人が命をかけて頑張っている。今後、中東への自衛隊派遣の問題など、国際社会との関わりを政治の立場から真剣に考えていかないといけない」
- 自由民主党幹事長・二階俊博:「誠に無念で、ご家族の心中を思うと大変胸が痛む。何の罪もない尊い生命を奪う卑劣で残忍なテロを断じて許すことはできない。政府は、真相究明を徹底的に行い、このようなテロが二度と起きないよう、最善の努力を尽くすべきだ」
- 国民民主党外交・安全保障調査会長・渡辺周:「国会で参考人として証言し、当時の民主党でも貴重な意見をいただいた。『何をしてはいけないか。殺してはいけない、戦争に関わってはいけない』という直接いただいたことばを思い起こし、世界の平和と日本国民の安全のためにどのような行動をとるべきか、常に考えなければならない。われわれがきちんと役割を果たすことをお誓いし、心からご冥福をお祈りしたい」
- 公明党代表・山口那津男:「私も中村さんに会って話を聞いたことがあるが、アフガニスタンの貧しい人たちを助けるために支援してきた方で、銃撃で命を奪われたことは許しがたい。アフガニスタンの復興と安定を作り出すため、中村さんの志はこれからも消えることなく、多くの人が共有し、努力していくべきだ」
- 日本共産党委員長・志位和夫:「憲法9条に基づく国際貢献とは何かということを身をもって体現された方だ。自衛隊の海外派遣の動きがあった際には、『非軍事の国際貢献が危険にさらされる』として、必ず反対していたのが大変心に残っている。中村さんを失ったことは、世界にとって損失だ。心から哀悼の意を表したい」
人物[編集]
- 西南学院中学校在学中に日本バプテスト連盟香住ヶ丘バプテスト教会(福岡市東区、当時は香椎伝道所)でF・M・ホートン宣教師よりバプテスマを受けた。当時の香住ヶ丘教会はまだバプテスマが行われたことがなく、教会にとって中村は最初期の生え抜き教会員だったという[41]。
- 自身はクリスチャンである。同時に現地の人々の信仰や価値観の在り方を尊重して活動を続けていた[42]。
- 福岡高等学校時代の同期に原尞がいる。また内科医で九州大学第23代学長・久保千春は大学で同級だった。
- アフガニスタンでの活動について、「向こうに行って、9条がバックボーンとして僕らの活動を支えていてくれる、これが我々を守ってきてくれたんだな、という実感がありますよ。体で感じた想いですよ。武器など絶対に使用しないで、平和を具現化する。それが具体的な形として存在しているのが日本という国の平和憲法、9条ですよ。それを、現地の人たちも分かってくれているんです。だから、政府側も反政府側も、タリバンだって我々には手を出さない。むしろ、守ってくれているんです。9条があるから、海外ではこれまで絶対に銃を撃たなかった日本。それが、ほんとうの日本の強味なんですよ。」と語り、憲法9条の堅持を主張した[43]。また佐高信に対しても「アフガニスタンにいると『軍事力があれば我が身を守れる』というのが迷信だと分かる。敵を作らず、平和な信頼関係を築くことが一番の安全保障だと肌身に感じる。単に日本人だから命拾いしたことが何度もあった。憲法9条は日本に暮らす人々が思っている以上に、リアルで大きな力で、僕たちを守ってくれているんです」とも語っている[44]。
- 佐賀大学農学部などの研究チームは、佐賀県太良町の多良岳で2018年に発見したタマバエの新種を昆虫好きとして知られていた中村医師に因みMassalongia nakamuratetsuiと命名した。和名はミズメタマバエ[45]。
家族・親族[編集]
- 小説家の火野葦平は母方の伯父である(妹が中村の母)[9]。
- 父方の親族は、1945年の福岡大空襲でほぼ全滅している[1]。
- 父の中村勉は、1903年生まれ[1]。給仕として働いていたところ、その英才を松永安左衛門に認められて給費生として福岡県福岡工業学校に入学し、早稲田大学を経て、再び若松に戻り、火野葦平と交流を深めていた。同時に左翼運動にも力を入れ、指導的立場にいた。しかし、日本労働組合全国協議会での反戦・労働運動などを理由に1932年2月24日に治安維持法違反で逮捕され、懲役2年、猶予5年の判決を受けた[46]。玉井組の下請けとして中村組を立ち上げ、戦後は沈没船のサルベージなどを生業にしていた[9]。
- 外祖父で若松において港湾荷役業を営んでいた玉井金五郎が映画『花と竜』のモデルとなった[9]。
- 西日本新聞記者で同社北九州本社代表を務め、現在はプロサッカーチーム:ギラヴァンツ北九州代表取締役社長の職に在る玉井行人は従兄弟に当たる[47]。
- 長女の秋子がやはりペシャワール会事務局で、2020年1月から活動している[2]。
受賞歴[編集]
- 1988年(昭和63年)外務大臣賞(外務省)
- 1992年(平成4年)毎日国際交流賞(毎日新聞)
- 1993年(平成5年)西日本文化賞(西日本新聞)
- 1994年(平成6年)福岡県文化賞(福岡県)*ペシャワール会として
- 1996年(平成8年)厚生大臣賞(厚生省)
- 1996年(平成8年)読売医療功労賞(読売新聞)
- 1998年(平成10年)朝日社会福祉賞(朝日新聞)
- 2000年(平成12年)アジア太平洋賞特別賞(毎日新聞・アジア調査会)
- 2001年(平成13年)第7回平和・協同ジャーナリスト基金賞奨励賞(『医者井戸を掘る』)
- 2002年(平成14年)日本ジャーナリスト会議賞(日本ジャーナリスト会議)
- 2002年(平成14年)若月賞(長野県 佐久総合病院)
- 2002年(平成14年)第1回沖縄平和賞(沖縄県) *ペシャワール会として受賞
- 2003年(平成15年)大同生命地域研究特別賞(大同生命保険株式会社)
- 2003年(平成15年)マグサイサイ賞「平和と国際理解部門」
- 2004年(平成16年)アカデミア賞 国際部門(全国日本学士会)
- 2004年(平成16年)イーハトーブ賞(岩手県花巻市)
- 2008年(平成20年)第3回モンベル・チャレンジ・アワード受賞(モンベルクラブ・ファンド)
- 2009年(平成21年)福岡市市民国際貢献賞(福岡市)* ペシャワール会として受賞
- 2009年(平成21年)農業農村工学会賞(旧農業土木学会)
- 2010年(平成22年)アフガニスタン国会下院 表彰
- 2013年(平成25年)福岡アジア文化賞大賞
- 2013年(平成25年)第61回 菊池寛賞
- 2016年(平成28年)秋の叙勲・旭日双光章受章
- 2017年(平成29年)第8回KYOTO地球環境の殿堂入り
- 2018年(平成30年)アフガニスタン国家勲章
- 2018年(平成30年)土木学会賞技術賞
- 2019年(令和元年)アフガニスタン名誉市民権、旭日小綬章(没後追贈)[48]、内閣総理大臣感謝状
- 2020年(令和2年)福岡県県民栄誉賞
- 2020年(令和2年)大牟田市市民栄誉賞
- 2020年(令和2年)福岡市名誉市民
- 2020年(令和2年)第6回食の新潟国際賞大賞
- 2020年(令和2年)古賀市名誉市民
- 2020年(令和2年)朝倉市民栄誉賞[49]
著書[編集]
- 『ペシャワールにて 癩そしてアフガン難民』石風社 1989年
- 『ペシャワールからの報告 現地医療現場で考える』河合ブックレット 1990年
- 『アフガニスタンの診療所から』筑摩書房 ちくまプリマーブックス 1993年 のち文庫 2012年に一旦絶版、2019年急逝に伴い緊急復刊
- 『ダラエ・ヌールへの道 アフガン難民とともに』石風社 1993年
- 『医は国境を越えて』石風社 1999年
- 『医者井戸を掘る―アフガン旱魃との闘い』石風社 2001年
- 『ほんとうのアフガニスタン―18年間“闘う平和主義”をつらぬいてきた医師の現場報告』光文社 2002年
- 『医者よ、信念はいらないまず命を救え! アフガニスタンで「井戸を掘る」医者中村哲』羊土社 2003年
- 『辺境で診る辺境から見る』石風社 2003年
- 『アフガニスタンで考える―国際貢献と憲法九条』岩波ブックレット 2006年
- 『医者、用水路を拓く―アフガンの大地から世界の虚構に挑む』石風社 2007年
- 『天、共に在り―アフガニスタン三十年の闘い』NHK出版 2013年
共編著[編集]
- 『空爆と「復興」―アフガン最前線報告』ペシャワール会共編著、石風社 2004年
- 『丸腰のボランティア―すべて現場から学んだ』ペシャワール会日本人ワーカー著、編纂 石風社 2006年
- 『人は愛するに足り、真心は信ずるに足る アフガンとの約束』澤地久枝聞き手 岩波書店 2010年
出演[編集]
中村哲を題材とした作品[編集]
- 三枝義浩「アフガニスタンで起こったこと 〜不屈の医師 中村哲物語〜」前、後編 講談社『週刊少年マガジン』2003年24号、25号
- さだまさし「ひと粒の麦~Moment~」 アルバム『存在理由~Raison d’etre~』のラスト曲 2020年5月20日発売
関連項目[編集]
- 川原尚行 : スーダンで同様の海外支援活動を行っている医師。九州大学医学部の後輩に当たる。
- 伊藤和也 : アフガニスタン日本人拉致事件で拉致・殺害されたペシャワール会職員。
- Nakamuratetsu : 活動に共感した発見者が名づけた小惑星。2020年6月3日発表[51]。
脚注[編集]
- ^ a b c d e 中村哲『アフガニスタン・命の水を求めて ~ある日本人医師の苦闘~』NHK出版、2006年5月25日。ISBN 4-14-189147-9。
- ^ a b 中村哲さんの長女がペシャワール会に 「一会員としてできることを」 毎日新聞2020年6月3日
- ^ “中村医師「自分の使命」と支援へ 元勤務先病院長、死悔やむ―福岡”(日本語). 時事ドットコム 2019年12月13日閲覧。
- ^ Ghazi, Zabihullah; Mashal, Mujib; Abed, Fahim (2019年12月4日). “‘He Showed Us Life’: Japanese Doctor Who Brought Water to Afghans Is Killed” (英語). The New York Times. ISSN 0362-43312019年12月7日閲覧。
- ^ “「カカムラッドは偉大な友人」駐日アフガン大使が嗚咽 中村哲さん告別式”. 西日本新聞 (2019年12月12日). 2019年12月17日閲覧。
- ^ 中村哲(Tetsu NAKAMURA)九州大学
- ^ 中村哲特別主幹教授の訃報について 九州大学
- ^ a b "中村医師に名誉市民権 アフガン政府、灌漑支援を評価". 日本経済新聞. 日本経済新聞社. 10 October 2019. 2019年12月4日閲覧。
- ^ a b c d “【追悼】中村哲医師「ペシャワールに赴任したきっかけは、原始のモンシロチョウを見たから」 (1/5)”. 文春オンライン. 文藝春秋 (2019年12月5日). 2019年12月7日閲覧。
- ^ “中村哲様のご逝去の報に接し、謹んで哀悼の意を表します”. 古賀市(2019年12月4日). 2019年12月7日閲覧。
- ^ “中村医師死亡受け母校で黙とう”. NHK NEWS WEB. 日本放送協会(2019年12月5日). 2019年12月7日閲覧。
- ^ “中村哲先生のご逝去を悼んで”. 西南学院大学 (2019年12月5日). 2019年12月7日閲覧。
- ^ “中村医師に福岡でも追悼の声 「多くの人が生き延びられる手立てを」母校で講演”. 産経ニュース. 産経新聞社 (2019年12月6日). 2019年12月7日閲覧。
- ^ “【追悼】中村哲医師「ペシャワールに赴任したきっかけは、原始のモンシロチョウを見たから」 (2/5)”. 文春オンライン. 文藝春秋 (2019年12月5日). 2019年12月7日閲覧。
- ^ オルタナ(2019年12月25日)「原田勝広の視点焦点:中村哲医師はなぜ死んだのか?」
- ^ 日本経済新聞社・日経BP社. “世界が注目、水を治める江戸の知恵 福岡・山田堰|旅行・レジャー|NIKKEI STYLE” (日本語). NIKKEI STYLE. 2019年5月30日閲覧。
- ^ 中村哲氏アフガンで勲章 ガニ大統領「用水路建設が復興の鍵」西日本新聞
- ^ "中村医師は右胸に被弾 ペシャワール会が会見". アサヒ・コム. 朝日新聞社. 4 December 2019. 2019年12月4日閲覧。
- ^ “アフガニスタンで銃撃された中村哲医師死亡”. NHKNEWSWEB. 日本放送協会. 2019年12月4日時点のオリジナルよりアーカイブ。2019年12月4日閲覧。
- ^ a b c "中村哲医師が死亡 アフガン東部で銃撃". 産経ニュース. 産業経済新聞社. 4 December 2019. 2019年12月4日閲覧。
- ^ "中村医師、銃撃され死亡 アフガン東部を車で移動中 ペシャワール会で農業支援、運転手ら5人も". Sponichi ANNEX. スポーツニッポン新聞社. 4 December 2019. 2019年12月4日閲覧。
- ^ "中村哲さん銃撃 タリバン報道官「関与していない」". デジタル毎日. 毎日新聞社. 4 December 2019. 2019年12月4日閲覧。
- ^ "中村医師銃撃 アフガニスタン大統領「テロ」と断定". テレ朝NEWS. テレビ朝日. 5 December 2019. 2019年12月5日時点のオリジナルよりアーカイブ。2019年12月5日閲覧。
- ^ “アフガンの空港で中村哲さんの追悼式典、遺体は日本へ”. AFPBB (2019年12月8日). 2020年4月10日閲覧。
- ^ “中村哲さん合同葬「尊い犠牲、前を向いて進めと後押し」 多くの市民参列”. 毎日新聞 (2019年12月11日). 2020年4月10日閲覧。
- ^ 【動画あり】惜別と意志継承を誓う涙 福岡で中村哲医師の合同葬 各界から供花続々 西日本新聞2019年12月11日
- ^ 中村哲医師 アフガンで撃たれ死亡:朝夕刊:中日新聞しずおか:中日新聞(CHUNICHI Web)
- ^ 中村さん、肝臓損傷による失血死か 福岡県警が司法解剖 朝日新聞2019年12月11日
- ^ “中村哲さんに旭日小綬章と感謝状授与へ 功績たたえる 政府”. NHKNEWSWEB. NHK (2019年12月23日). 2019年12月23日時点のオリジナルよりアーカイブ。2019年12月23日閲覧。
- ^ “中村哲さん叙勲伝達式 首相が感謝状「国際人道支援に多大な貢献」” (日本語). 毎日新聞(2019年12月27日). 2019年12月27日閲覧。
- ^ “中村医師に首相感謝状 家族「緑の大地広がること願う」:朝日新聞デジタル” (日本語). 朝日新聞デジタル(2019年12月27日). 2019年12月27日閲覧。
- ^ “中村哲さんに首相が感謝状 遺族「アフガンに緑の大地願う」” (日本語). 西日本新聞ニュース(2019年12月27日). 2019年12月27日閲覧。
- ^ INC, SANKEI DIGITAL (2019年12月27日). “首相、故中村医師に感謝状 遺族と面会” (日本語). 産経ニュース. 2019年12月27日閲覧。
- ^ ペシャワール会について→現地活動の紹介→灌漑事業2020年→1月 ガンベリ公園にドクターサーブナカムラ記念塔が建設
- ^ 【第 6 回 食の新潟国際賞 】
- ^ 故・中村 哲 医師、新種昆虫の学名に佐賀大学 2020年08月11日
- ^ 新種昆虫に“中村哲医師” エジプト人研究員が命名提案 「功績を知って」毎日新聞2020年8月13日
- ^ “アフガニスタンにおける中村哲医師の死去についての会見”. 首相官邸.内閣総理大臣官邸 (2019年12月4日). 2019年12月16日閲覧。
- ^ “中村哲医師 死去 政界の反応”. NHKNEWSWEB. 日本放送協会 (2019年12月5日). 2019年12月16日時点のオリジナルよりアーカイブ。2019年12月5日閲覧。
- ^ “中村医師死去に哀悼の意/志位委員長「憲法9条を体現」”. しんぶん赤旗. 日本共産党 (2019年12月6日). 2019年12月23日閲覧。
- ^ 中村哲さんへの追悼「誰も行かぬなら私が行く」. クリスチャンプレス. 2019年12月11日閲覧。
- ^ “中村哲さん 知られざる“無垢な” 素顔”. NHK NEWS WEB. 日本放送協会 (2019年12月6日). 2019年12月7日閲覧。
- ^ マガジン9〜この人に聞きたい『中村哲さんに聞いた』〜
- ^ 佐高『反-憲法改正論』第12章「アフガンを歩く日本国憲法、中村哲」
- ^ “故・中村医師ちなみ 昆虫新種命名”. 中日新聞. (2020年8月12日)
- ^ 堺弘毅『隠された光:わが郷土の民主平和の先達たち』治安維持法犠牲者国家賠償要求同盟福岡県本部、2009年4月。
- ^ “小倉中央ロータリークラブ会報 (PDF)” (2013年7月29日). 2019年12月5日閲覧。
- ^ 『官報』165号、令和2年1月8日
- ^ 12月12日(土)「朝倉とアフガニスタンの懸け橋」中村哲医師が歩いた道 アフガニスタンに生命の水を!~緑の大地計画と山田堰~
- ^ 故中村哲医師への思い、歌に込めて 中津市出身の蘭華がCDリリース2020年10月12日『大分合同新聞』
- ^ "(19314)中村哲(Nakamuratetsu)"の星が誕生ペシャワール会
外部リンク[編集]
- 本務校自己紹介ページ
- ペシャワール会 中村哲が現地代表となり、パキスタンとアフガニスタンで医療、水源確保(灌漑用井戸掘削・水路建設)、農業支援の活動を行っている。
- 中村哲医師追悼特別サイト「一隅を照らす」 西日本新聞社
- 参議院会議録情報 第170回国会 外交防衛委員会 第4号
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