일본한방의학
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한방의학(일본어: 漢方医学 칸포우이가쿠[*])은 일본의 전통의학이다. 일본어권에서는 칸포 이가쿠(漢方医学, Kanpō igaku)라고 한다. 영어권에서는 캄포 메디신 또는 칸포 메디신(Kampo medicine 또는 Kanpō medicine), 또는 간단히 줄여서 칸포(Kanpō (漢方, Chinese medicine))라고 한다.
일본에서는 메이지 유신 이후 서양의학을 배워 의사면허를 취득한 사람만 의사업을 할 수 있도록 하였으므로 일본에는 한국식의 한의사나 중국식의 중의사가 존재하지 않는다. 그 대신 서양의학의 한계를 느낀 의사들이 한방의학을 연구하고 진료에 활용하고 있다. 현재 일본 의사의 86.3%가 한방약을 사용하고 있으며 그 사용동기로서는 「양약만을 사용한 치료에는 한계가 있다.」가 가장 큰 비율을 차지했다.[1]
일본에 서양의학이 전래된 이후 일본의 전통의학을 에도시대부터 한방의학이라 불렀다. 그밖에 황방(皇方), 황한방(皇漢方), 화방(和方), 화한방(和漢方), 일의학(日医学)이라는 용어가 사용되었으나 현재 가장 많이 사용되는 용어는 한방의학, 동양의학, 일의학이다.
한국에서는 대한제국 시대부터 '한의학(韓醫學)' 등의 용어를 사용했으나 일본의 식민지가 된 이후 일본의 '한방(漢方)' 표기가 도입되어 '한의학(漢醫學)' 등으로 바뀌었다. 이것이 해방이후로도 이어져 한의학(漢醫學)이 공식용어로 사용되었으나 본래의 정체성을 회복하는 의미에서 1986년에 한의학(韓醫學)으로 바꾸게 되었다.[2]
같이 보기
각주
漢方医学
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| 漢方医学 | |||
| 日本語 | |||
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| 漢字 | 漢方医学 | ||
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| 中国医学-漢方医学-韓医学/高麗医学 |
| 東洋医学 |
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| 理論 |
| 古典 |
| 証 |
| 内治法 |
| 外治法 |
| 薬剤 |
漢方医学(かんぽういがく)、また漢方(かんぽう)とは、中医薬学を基づいて日本で独自の発展を遂げた伝統医学のこと。
定義
日本における代表的な漢方医学の学会と目されている「日本東洋医学会」のHPには「漢方医学の定義」が記述されていない。東京医科大学のHPでは「日本の伝統医学です」とした後「漢方医学の源流は中国から6世紀に伝来しましたが、室町時代頃から日本独自の進化をするようになりました。時代が下って、江戸時代に日本に入ってきた西洋医学(蘭方)に対して、もともと日本で行われていた医学を漢方と呼ぶようになりました」との記載があるが、これは後述するように史実として誤りを含む。日本漢方生薬製剤協会のHPには「日本の医学は、奈良時代以来中国伝統医学が主流でした。しかし、江戸時代中期以降に西洋医学が伝えられると、これを「蘭方」と呼び、 従来からの日本化された中国医学を「漢方」と呼んでそれぞれを区別するようになりました」という記載がある。これが、現在のところ概ねほぼ全ての関係者が一致出来る「漢方医学とは何か」の記述と言えるだろう。
呼称
16世紀以降、西洋医学が日本に導入されて南蛮医学、紅毛医学と呼ばれたが、江戸中期には西洋医学をオランダ人がほぼ独占するようになり、「蘭方」または「洋方」と称されたことに対して、中国伝統医学に由来し日本で実践されていた医学を「漢方」と呼ぶようになった[1][2]。
19世紀中盤の幕末から国学と漢学を尊皇的に「皇漢学」と言う。
19世紀後半の明治14年ころから「和漢学」と称されたが、それに伴い日本の漢方も「皇漢医学」、「和漢医学」と呼ばれた。日清戦争以降、西洋と対になる東洋という用語が定着した。
本来漢方医学では生薬製剤による薬物治療の他、鍼灸、按摩、温泉など種々の治療法が用いられた。現代日本の医師法に於いて医師が鍼灸按摩をすることは可能だが、鍼灸あん摩マッサージに関する法律が別に存在することから、これらの治療法は主にあん摩マツサージ指圧師、はり師、きゆう師が行うことが多い。
20世紀後半、日本はようやく漢方薬についての規制がまとまった。1950年(昭和25年)に日本東洋医学会が設立されて、「東洋医学」という呼び方で「日本の漢方医学、中国の中医薬学、朝鮮の韓医学」を一括するのが一般的だった。漢方薬の一部は1976年(昭和51年)から正式な保険薬として収載されており、現在では漢方薬を使った治療が広く行われている[3]。なお現在の日本では同一の漢方処方が医療用医薬品としても一般医薬品としても使用販売されており、一般医薬品としての漢方薬は第2類医薬品に分類されている。
歴史
5・6世紀に中国から日本に中国医学が伝来したといわれる[4]。現存する日本最古の医学書は984年に丹波康頼が朝廷に献上した医心方だが、この本は唐代の医学書を膨大に引用している。その後も我が国の医学は、明に留学した僧医などによって、金・元の医学が紹介されるなど基本的に中国医学の導入を元に展開した(後世派)[5]。後世派の巨頭は曲直瀬道三(1507-1595)である。彼は田代三喜に医学を学び、また明に留学した僧侶策彦周良から最新の明医学を学んだ。彼は京都に啓廸院と言う医学校を開き、そこで学んだ医師達は全国に散らばった。啓廸院で用いられた処方集「啓廸院配剤百方」は現在京都大学に保管されている。彼が書いた多数の書物の中でも「察証弁治啓廸集」はもっとも有名である。「察証弁治」というのは要するに現代中医学で言う弁証論治とほぼ意味は等しい。曲直瀬道三の養子曲直瀬玄朔の時代になると活字印刷の技術が普及し、より多くの医学書を入手出来る時代になった。それらの情報を得てさらに腕を上げた曲直瀬玄朔は天皇、関白から庶民に至るまで多くの人々を治療し、数百例の症例集「医学天正記」を残している。これは当時の治療の実際を知る上で重要な資料である。曲直瀬流医学は長く日本の医学の主流となったが、岡本一抱が中国医書を仮名交じり文で解説するなど、日本での応用を容易にする作業も行われた。余談ではあるがこの人物は近松門左衛門の弟である。
時代が下って1607年には林羅山が本草綱目を徳川家康に献上[6]、また将軍徳川吉宗は「増広太平恵民和剤局方」や「訂正東医宝鑑」など中国、朝鮮の医学書を官刻、1819年に多紀元胤(1789〜1827)が「難経疏証」を著すなど、中国伝統医学の紹介、普及は江戸後期まで続けられてきた。実際、真柳らの研究によると、19世紀に到るまで中国医書は営々と輸入されている。したがって江戸時代に日本の医学が中国医学とまったく別のものになった、と言うことでは無い。すなわち「定義」で紹介した東京医科大学の記載にある「室町時代頃から日本独自の進化をするようになりました」というのは正しくない。室町時代はもちろん江戸末期に至るまで、日本は中国から医学情報を積極的に輸入していた。
一方、陰陽五行説の影響の大きい後世派に対し、江戸時代にはこれを批判して実証主義的な古方派が台頭し、のちに2派を統合した折衷派が生まれた[7]。
古方派が主張した「古(いにしえ)」という概念は、かなり複雑な思想背景を含んでいる。なお以下の古方派に関する記述は、引用したリンクとは別に向静静著、「医学と儒学」人文書院[8]を大幅に参考している。
古方派は後藤艮山に始まると言われる。後藤艮山は「日用」を重視し、「古道」を唱えた。艮山自筆の書は現存しないが、彼の教えを弟子が記録した師説筆記、「艮山先生遺教解」などによると、彼は論語を引いて医を知れと説いている。彼は古方を伏羲や神農の伝説に求めようとした。伏羲は八卦を説き、神農は薬草を民に与えたとして医薬に関連付けられてはいたが、艮山が重視したのは伏羲が料理を発明し、神農が農作を始め、五穀や野菜を人々に教えたとされたことだった。現代に於いては伏羲も神農も伝説上の神に過ぎないが、後藤艮山の真意は薬物治療よりもまず日常の食事を重んずるという事であったと考えられる。もちろん彼も薬物治療を行った。後藤艮山が使用した薬物は「艮山先生手定薬能」という書に記録されているが、そこには僅か36種が記述されているのみである。病因論としては一気留滞説を説いたが、彼の意味する気とは天地の間、人体の内にも外にもあまねく存在するものと理解されていた。すなわち艮山は古方派の祖と言われるが、彼にあっては明代までに確立していた陰陽五行などの思弁性の高い医学に異を唱え、日用に用いやすい養生・医療を提唱したのであって、彼が必ずしも傷寒論を重視したわけでは無い。彼が論語に基づいて医を説き、伝説上の存在である伏羲や神農を重んじたのは彼の時代的限界と言えるが、その精神の根本は「日用」にあったと言える。
後藤艮山を引き継いだのは香川修庵であった。香川修庵は医学を後藤艮山に習ったが、その前に伊藤仁斎に儒学を習っており、後藤艮山より儒学的色彩が濃い。彼が著した「一本堂行余医言」は高い実用性を誇るが、彼はただ実用的な医学を説いただけでは無い。伊藤仁斎に儒学を学んだ後後藤艮山に医学を学んだ経緯からも分かる通り、彼は「儒医」たることを主張した。その思想に基づいて、例えば彼は黄帝内経は孔子、孟子の教えを受けていないので邪説であると主張した。そして彼は論語や孟子の記述から病気、薬、食事、日常生活などに関わる部分を拾い上げ、これらに基づいて医療をすべしと説いたのだが、さすがに論語や孟子で実際の診療をするのは不可能であった。そこで彼が実際の治療の手本として取り上げたのが傷寒論だったのである。ただし彼が入手出来たのは、成無己の「注解傷寒論」であったとされる。本書は宋改を経た傷寒論をさらに彼が省略改変したものである。そこで香川修庵は成無己の注解傷寒論から注解と薬物の修治を全て削除し、小刻傷寒論と称して刊行、これは日本に於いてもっともよく読まれた傷寒論になった。香川修庵にはこの他にも桂枝や大黄、黄連などの再評価、行きすぎた朝鮮人参の乱用を戒めるなどの功績があるが、一方で傷寒論を考証学に基づかず「自分が使えそうな所だけ抜き出す」という日本漢方の悪弊は彼に始まったとも言える。香川修庵が傷寒論に注目したのは事実だが、彼の主張する「古」も必ずしも傷寒論をさしたのでは無く、彼の主張の根本は医は儒に基づくべきであって、従って孔孟の教えを重んじると主張はしたが、論語や孟子で実際の診療が出来るわけではなかったため、手段として用いたのが傷寒論だったのだ。
古方派に於いて香川修庵の後に出た巨頭は山脇東洋である。彼は江戸時代初めて解剖(腑分け)をしたことで有名である。山脇東洋は法眼の号を授けられ、また中御門天皇の侍医を務めるなど、後藤艮山や香川修庵とは異なる系譜の医師であった。家は曲直瀬玄朔の系統の医家であり、当初は金、元、明代医学を学んだ。しかし後になって陰陽五行などを重んじる医学に疑問を抱き、香川修庵同様「復古」を唱えた。しかし山脇東洋の復古は香川修庵のそれとは異質であった。香川修庵は復古を唱えたものの論語や孟子では実臨床が出来ないので傷寒論を参考にし、かつ「自我作古」と言った。自分で古を創るのだというのである。しかし山脇東洋はそうではなかった。彼は「述而不作」、古人の説を宣べるだけで自分の考えは作らない、と言ったのである。「唯古是好」、古のみが良いと言った。これは学問が進歩するという事を完全に否定したに等しい。彼もまた儒学者の影響を受けた。山県周南という人物を介して荻生徂徠の説を学んだ。荻生徂徠は古文辞学を唱え、後世の注によらず古語の意義を帰納的に研究し、直接古代文献を解釈すると主張したのだが、当然江戸時代の日本に生きた荻生徂徠にとってこの目的を実現するのはあまりに資料不足であった。現代の考古学が手にしているような、古代墳墓からの漢代以前の文献資料の発見などが無かったからだ。
その荻生徂徠の説に影響を受けた山脇東洋は、当然現代的観点から見れば隘路に踏み込んでしまった。彼は周礼に注目したのである。周礼は周王朝の政治体制、官位、文物習俗を記載したとされるが、現代考古学によって発見された金文資料の記述とは矛盾するところが多く、実際には何時誰が編んだ書か不明である。また現代に於いては、周礼が実際の周の政治制度や官位を正確に記述しているとは考えられていない。しかしこれは儒教では聖典視された。山脇東洋が意味した「古(いにしえ)」は、実に周礼の記載であったのだ。
ではその様な山脇東洋が何故人体解剖を行ったのか。それは周礼に「九臓」と記されていたからだ。人体には心、肝、脾、肺、腎、胃、膀胱、大腸、小腸の9臓があるとされていた。これは黄帝内経の記述する五臓六腑とは明らかに数が違う。そこで彼は、実際に人体を解剖し、存在するのは五臓六腑か九臓か確認しようとした。実際の腑分けの経緯は省略するが、彼の腑分けの図面は彼の書「蔵志」に「九臓前面図」として載せられている。この解剖図は明らかに誤りであり、心臓は気道ないし食道に直結するように描かれており、また当時の粗雑な解剖でも存在は確認出来たはずの脾臓は描かれていない。要するに彼は実際の人体がどういう構造をしているかを知ろうとしたのでは無く、周礼に九臓とあるのを確認しようとしただけだった。目の前にある臓器を客観的に記載したのでは無く、九臓という自分が信じる概念に無理矢理みたものを当てはめただけであった。この点が後の杉田玄白らによる腑分けとは意味や目的がまったく異なっている。
山脇東洋の意味した「古」は周礼であったが、当然周礼に基づいて臨床が可能なわけでは無い。そこで彼は「周之職、漢之術、晋唐之方」に基づいて医療を行うと主張した。その「漢之術」というのが傷寒論であった。また「晋唐之方」として彼が復刻に努力したのが外台秘要方であった。外台秘要方は732年(玄宗時代)、王燾の作とされるが、山脇東洋在世時は既に宋改を受けたものしか残されていなかった。北宋時代の刊本が現存するが、東洋は明代の刊本に基づいて1746年に復刻した。外台秘要方は引用文に必ず出典が明記されているので、東洋はまさにこれぞ「述而不作」のお手本と考えたのだろう。しかし彼はそれが宋改を経た明本であることは承知していたはずだ。宋、明など後世の医学を否定しようとした彼であったが、結局は宋や明の研究の上に立って仕事をせざるを得なかった。
このように、「古方派」と呼ばれている中心的な人々がイメージした「古(いにしえ)」は基本的には傷寒論では無い。後藤艮山にとってはそれは伏羲や神農であったし、香川修庵にとっては論語や孟子であり、山脇東洋にとっての古は周礼であった。すなわち、彼らの「古(いにしえ)」は皆中国の概念だったのだ。彼らは朱子学を否定する当時の儒学の影響を受けつつそれぞれの「古(いにしえ)」を夢見たが、それは全て中国の古代神、儒教の古い形、あるいは現代に於いてはその内容が事実とは看做されない架空の古代史書であった。その様なものは理念としてはありえても、現実の臨床の役には立たない。それで重宝されたのが傷寒論(の記述の都合が良い一部)だった。現代では古方と言えば傷寒論と思われがちだが、少なくとも山脇東洋までの古方派にとって古(いにしえ)=傷寒論では無かったのだ。
江戸末期まで中国からの医学知見の輸入に努めた後世派はもちろん、「日本独自」とされる古方派も、結局は中国の概念のなかの古(いにしえ)を夢見たのである。はたしてこれが「日本独自の発展」と言えるかどうかは甚だ疑問である。
このような流れは次に述べる吉益東洞によって一気に異なった様相を帯びることになる。確かに吉益東洞も盛んに中国古典を引用した。彼の「古書医言」には多数の中国古典の引用が覧られる。しかし現代では、多くの点において吉益東洞がそのような古典を勝手に書き換えたり、恣意的引用を行っている部分が多いことが分かっている。上に宣べた三人とは異なり、吉益東洞にとって中国古典は自説を権威付ける「道具」に過ぎなかった。彼は一見中国古典に依拠しているように見せかけつつ、その実それらの古典に何ら敬意など払っていなかったのだ。確かに彼も周礼のなかの疾医、瘍医などのキーワードをちりばめたが、その周礼に見える「以五薬療之、以五味節之」などは「攙入」、つまり誤って紛れ込んだのだと否定する。現代の考古学、古文書学のように文献考証をして否定したわけでは無い。自分に気に入らないところは全部「攙入」と決めつけた。これは彼が「万病一毒説」の根拠として引用した「呂氏春秋」に於いても同じで、かれは呂氏春秋の原文を自分の都合が良いようにあちこち改ざんしている。さらには彼は「扁鵲や張仲景も万病一毒説を唱えていた」とまで言いだし、さすがに弟子に「然るに史記傷寒論に見へざるは如何」と問い詰められた。すると彼は悪びれもせず「それは王叔和が自説を加えたからだ」と答えたという。吉益東洞は傷寒論を異様に重んじたと言われるが、その実古典に対する態度はこのようであり、古代文献を学問的に検証するという姿勢は微塵もなかった。また日本独特の診察法である腹診についても、彼は史記の「扁鵲倉公列伝」に「病応見於大表」とあるのが腹診のことだと主張したが、史記には扁鵲が腹診をしたという記述は存在しない。むしろ司馬遷は扁鵲を脈診の名手として高く評価しているが、東洞はそれをあっさり無視した。また吉益東洞は傷寒論に基づくことを強調はしたが、彼自身が傷寒論に基づいて書いたと宣伝した「類聚方」は傷寒論を勝手な彼独自の解釈で利用したに過ぎず、傷寒論そのものを祖述したものではない。
吉益東洞のこのような中国古典医書への態度は、後藤艮山、香川修庵、山脇東洋らとはまったく異なっている。これら三人は誤解を含みながらもともかく中国古代の思想を重視したのに対し、東洞は極めて恣意的に利用しただけである。これははたして「古方」なのだろうか?現実を見れば、吉益東洞は古(いにしえ)などまったく尊重していなかったと言わざるを得ない。中国古典をちりばめつつ、都合が悪いところは全て改ざんし、自分が正しいと思う医学を作り上げた。それは歴史の改ざんと言えばそうであろうし、一方で「古に従う」と言いつつ彼の生きた時代に沿った新しい医学を打ち立てたという解釈も出来るだろう。伏羲や神農、論語、孟子、周礼や呂氏春秋などは、彼にとっては権威付けに利用する材料だったに過ぎず、彼が本当に重きを置いたのはその時代に即した新しい臨床医学であったのだ。吉益東洞は確かに傷寒論を賞賛したが、傷寒論を考証学的に扱ったのでは無い。彼の処方集「類聚方」には「求方於長沙」とあり、張仲景に基づいたことになっているが、そこには明らかに東洞本人の解釈、選別が入っている。だがともあれこの本は当時大ブームとなった。1万冊が刷られ、江戸に5千部、京、大坂に五千部が配布されたが、このうち京・大坂の五千部は一ヶ月で売り切れたという。2023年現在の日本に置いてすら、医学書が1万部、あるいは5千部を完売する例はめったないないことを考えると、まさに熱狂的大ブームだったことが分かる。
一方で彼は実臨床に於いては必ずしも傷寒論処方や自らが編んだ類聚方に拘らず、様々な処方を用いた。例えば「医事或問」には弟子とのこんな問答が記されている。
弟子曰く「古方とは仲景方のことでしょう。先生は控涎丹、七宝丸などを用いるが、古方とは言いがたいのでは無いですか?」
これに対する東洞の答えは、彼の医学に対する根本的な姿勢をよく表している。
「古方というのは世間がそう唱えているのだ。処方選択は病を治療出来るかどうかであって、昔も今も無い。しかし後世の処方には有効なものが少なく、昔のものには多いので、昔の処方を多く用いる。それで世間が古方というのだ。処方に古今の差別は無い」。
要するに、吉益東洞は徹底した臨床家であった。彼は後藤艮山らのように中国の古(いにしえ)に何かの価値を求めたわけでは無かった。彼の基準は「実臨床に有効かどうか」だけであって、そのためには傷寒論に無い、彼独自の処方も多く開発した。「親試実験」という言葉は彼が初めて提唱したものではないが、本当の意味で親試実験に徹したのが吉益東洞だった。東洞医学のこの本質を鑑みると、彼を「古方派」と称するにはためらいがある。彼は実臨床に於いて古方を選択することもあれば、後世の処方を選択することもあれば、自分で創った処方を使うこともあった。「有効なものを使う」というのが彼の一貫した姿勢であり、ただ「古に従う」事を提唱したわけでは無いのだ。
ともあれ、東洞流医学は一気に全国に広まった。それにともなって、彼を熱狂的に支持する人もいれば、あまりに自説に偏りすぎていて医学としては均衡を欠くと批判した人もいた。村井琴山のように古今の中国における傷寒論研究を全て否定し、「我東洞翁に至って初めて仲景の室に入る」とまで極論絶賛した人もいたが、一方で畑黄山のように黄帝内経の重要性も認め、多くの古今歴代の医学書を読むべきだと主張した人もいた。彼は医学院を開き医学を教授したが、その医学院に於いて学習すべきとされた医学書は黄帝内経、傷寒論は言うに及ばず、唐、宋、金元医学、明清医学、朝鮮医学にまで渡っている。さらに杉田玄白は「東洞は一種の豪傑だが、傷寒論のみに拘るばかりか、それも錯簡の書であって取るところは多くないと言い、己が心に徹せし方論ばかりを取り・・・」と東洞の古典に対する恣意的な態度を的確に批判した。詰まるところ吉益東洞は古方の雄とされながら、その本質はむしろ親試実験にあり、実際に有効かどうかが彼の判断基準だったのであって、必ずしも古を重んじた人ではなかったと言えよう。
江戸期における明清医学の導入
以上見てきたように、古方派は確かに江戸期に於いて独自の動きを見せた。しかし一方江戸期を通じて、明清医学も絶えず流入していた。中国医師の来日は、主に明清交代の時、動乱を避けて日本に渡ってきた人々と、徳川吉宗が積極的に招聘した人々が多い。その数はかなり膨大なのでここにいちいち挙げることが出来ない。ともあれ幕府は彼らを通じて常に中国医学の動向に意を払い、多くの中国医書がもたらされた。そのうちの一人を例としてあげれば、胡兆新は蘇州で高名な医師であったが幕府の求めに応じて1803年から1805年まで日本に滞在し、多紀元簡などと通訳を通じて質疑を行った。このときの幕府医官の質問は清朝の医学教育、試験科目、診療法、麻疹流行の頻度、煎じ薬の加水量などに及び、中国医学の現状に幕府が強い関心を寄せていたことが分かる。もっともこのとき多紀元簡は胡兆新に何故中国では腹診をしないのかと問い、胡兆新が中国では昔から腹診はやらないと答えたのに対し、それは古今の医書の記載と違うとやり込めている。中国に学ぼうとしながらも、中国医師の言を丸呑みにしないくらい、多紀元簡のような人は古今の中国医学書について造指が深かったこともうかがえる。
以上で江戸期日本の医学状況についての記載を終える。この他北山友松子のように中国からの亡命者と長崎の遊女の間に生まれた混血児でありながら傷寒論を重視した人など、まだ論ずべき人物は多いが、これまで概説しただけでも、江戸期に於いて日本の医学が中国とは独自の発展を遂げたと一言で括ることは出来ないことが分かるだろう。多紀元胤のような考証学者はもちろん、古方を目指した人々もなんらかの形で中国思想や明代医学からの影響を受けた。ただ一人吉益東洞のみが事実上中国思想を軽んじ、ひたすら臨床的効果に拘ったことがあまりにも鮮烈な印象を与えるため、まるで江戸期に日本の医学がすっかり中国とは独自の発展を遂げたような印象を与えるのかもしれないが、実際には日中間には頻繁な医学交流が継続していたのである。
中国医学・韓医学との違い
漢方医学は、気・血・水・虚実などの理論や、葛根湯などの方剤(複数の生薬の組み合わせ)を中国医学と共有し、テキストとして中国の古典医学書が用いられる。しかし両者には多くの違いがあり、特徴としては具体的・実用主義的な点が挙げられる。
現在の日本の漢方医学の主流は「古方派」である[9]。この古方派は中国医学の根本的な理論である「陰陽五行論」を承認せず、むしろそれを意図的に排除している。古方派の主な4人については上の「歴史」で詳しく宣べた。中医学も日本漢方も診断に類する用語として「証」を論じるが、日本漢方の後世派や折衷派では証は中国伝統医学と概ね同じ意味で用いられる。しかし古方派では『傷寒論』の条文にある症状と処方が一対一に対応すると主張する。使われる生薬の種類は中国より少なく、一日分の薬用量は中国に比べて約3分の1である[10][1]。また、脈診、舌診を重視し腹診がすたれた中医学とは対照的に、日本の漢方医学は脈診、舌診、腹診を行う[1]。
これに対して、韓医学(朝鮮半島)で使われる生薬量は中程度である。
漢方医学の処方は、『
近代から現代(21世紀)の日本における伝統医学の現状
明治政府により日本の医療に西洋近代医学が採用され、漢方医学は著しく衰退した。日本の医学教育では、漢方医学を始めとする伝統医学の教育は100年以上ほとんど行われなかったが、2001年に、医学部の教育内容ガイドラインの到達目標に「和漢薬を概説できる」が加えられたことで、全国の大学で漢方医学の講義が徐々に行われるようになってきている[12]。しかし日本には、中国や韓国のような伝統医の国家資格は存在せず、1883年(明治16年)以降、医師国家試験の課目にも漢方医学は含まれなかった。そのため漢方医学の体系的な知識を持つ医師は少なく、漢方薬が西洋医学的発想で使われるなどの問題も散見される[1]。
現代日本における伝統医学の現状についてまず最初に指摘しなければならないのは、現代日本に於いては複数の「伝統医学」系統の医学が実践されているという事である。日本では明治政府が医制を定めた時伝統医学を事実上捨て去ったため、伝統医学には空白期が生まれた。その中で色々な人が過去の文献を渉猟し、それぞれの学びに応じて独自の伝統医学を提唱した。特に明治43年(1910)「医界之鉄椎」を著した和田啓十郎など古方派に学んだ人が最初に伝統医学復権の狼煙を上げたため、かつては日本漢方と言えば古方と看做される向きもあった。しかし現在では、古方派のみならず、考証学派を引き継ぐ流れ、経方医学など傷寒論、金匱要略に基づくとはいいながらまったく新しい理論を構築する流れ、また伝統医学を現代の臨床医学的手法、特にEvidence Based Medicine(EBM)の手法に載せて検証・理解しようとする流れなどが存在する。さらに中国伝統医学を中華人民共和国政府が系統化した中医学も日本に紹介され、実践されている。すなわち現代日本に於いて実践されている諸々の伝統医学と漢方医学は同じ概念ではくくれない。
21世紀に入り中医学におけるエビデンス構築がめざましく発展し(2023年8月14日現在PubMedでTraditional Chinese Medicineと検索すると134232本の英論文が検索される)、これに対して日本漢方はkampoと言うキーワードで同日に検索すると2277本と、エビデンス構築に於いて中医学に大きく遅れを取っている。のみならず同日にtraditional Korean Medicineとして検索すると3246本の英論文が検索され、日本漢方はエビデンス構築に於いて韓医学の後塵をも拝している。こうした状況に最初に警鐘を鳴らしたのは岩﨑鋼(1964~)であった。彼は自身でも抑肝散の認知症BPSD改善効果、半夏厚朴湯の誤嚥性肺炎予防効果、加味帰脾湯のBPSD改善効果など漢方のランダム化比較臨床試験を行い、また高齢者医療領域における漢方医学のでエビデンスのついてシステマティック・レビューを行い、さらには統計的な検証を経た気滞スコアの提出など、48本の英論文を発表して日本漢方のエビデンス構築に努めたが、彼の主張は日本東洋医学会のような国内主流派からは不興を買った。しかし彼の鳴らした警鐘は次第に漢方界に広まり、彼が2016年に著した「高齢者のための漢方診療」に於いて当時PubMedでkampoのキーワードによって検索される英論文が1182件であったと報告しているのに比べると、現時点(2023年8月)で2277本に増えたことは、彼の主張を首肯した人々が一定数いたことを物語っている。今後は既存の処方の効果の検証に留まらず、漢方医学理論の明確化、統計的な検証を経た弁証法の確立、さらには新型コロナなど次々出現する新しい疾患に対する新しい治療法、新しい処方の創出など、日本漢方が取り組むべき課題は極めて多い。
理論
気血水理論
気血水説は古医方を唱えた吉益東洞が否定したものを長男の吉益南涯が再構築した理論であると言われるが、吉益南涯の提唱した気血水理論は現在の漢方医学のそれとはかなり異なり、難渋あるいは未完成である。それは後世には引き継がれなかった。現代の日本漢方が採用している気血水が何処に端を発するのか、現段階では不明である。
気血水理論では、
の3つの流れをバランスよく滞りない状態にするのが治療目標になる。これは現代中医学の気血津液弁証とそれほど大きく変わらない。
陰陽五行理論
陰陽五行論は中国医学の理論化に用いられた。ただし、現在の漢方は、陰陽五行論を観念的として除した古方派[14]が主流であり、診断・処方にはあまり用いられない[11]。しかし一方日本漢方の主要な流派として知られる「和漢診療学」の提唱者寺澤捷年が中心になって編纂した和漢診療学の基本的な解説書「症例から学ぶ和漢診療学 第3版[15]」には「和漢診療学における生体の理解」として五臓の概念はもとより、五臓の相関関係と気血水の消長、五臓の代謝作用と気血水の相関が一つ一つ項目を立てて解説されており、五行論を全面的に取り入れてはいないとは言え、その主要な医学的部分である五臓概念は現在の日本漢方でもかなり認識されている。
表裏と虚実
虚実について日本漢方では混乱が存在する。「虚」という概念が気血水のいずれかの機能が落ちた状態であることについては概ね異論が無く、気虚、血虛という表現がある。水の虚について、日本漢方には中医学の「陰虚」に該当する用語がない。しかし日本漢方でも水が不足する病態が存在するという概念はある。問題は「実」の解釈である。安土桃山時代に活躍した曲直瀬道三は現代中医学に於ける「弁証論治」を「察証弁治」と呼んだが、曲直瀬道三の察証弁治と現代中医学の弁証論治は、概念としては概ね同じである。この系統に属する曲直瀬玄朔の治療録を見れば、当時日本の医師もほぼ現代中医学と同じような病態解釈をし、「扶正去邪」を治療の中心としていた。また江戸時代古方の代表人物と評される吉益東洞は医者は去邪するのであって、正気を補すことは出来ないと述べている。このように、江戸期においても実とは邪実だというのが常識だった。日本で伝統医学を再興した湯本求真は「皇漢医学」において、「実証は充実の義。病毒充実するも体力なお対抗しつつあるもの」と述べ、このあたりから日本に於ける「実証」の概念は中医学とは少しずつ異なってくる。「病毒充実する」は中医学の「邪実」と同じ概念だが、そこに「体力なお対抗しつつある」と正気の記載が加わる。ところがその後、大塚敬節は自著「漢方診療医典」において、「実」は病に対抗する体力が充実していることだ」と主張した。ここから、日本漢方と中医学は「実」の概念において決定的に異なることになった。すなわち、中国と日本で実証の概念が完全に違うものになったのは大塚敬節以降である。
- 表実証
- 悪寒、頭痛、発熱があっても発汗しない
- 表虚証
- 悪寒、頭痛、肩こりがあり、脈が浮弱で、発汗しやすい
- 裏実証
- 腹部が充満し、便秘・口渇があり、脈が沈で力がある
- 裏虚証
- 腹部が力なく、食なく、下痢・嘔吐しやすく、脈が沈で弱い
- 気滞証(きたいしょう)
- 「気」の鬱滞が病気を起こすという発想は古くからみられ、後藤艮山によって大いに唱えられた。血も水も気によって動かされるので、気の鬱滞は血、水の鬱滞をもたらす。
- 瘀血証(おけつしょう)[16]
- 俗に「ふる血」と呼ばれる状態で「血」と呼ばれるものが停滞した状態である。
- 痰飲証(たんいんしょう)
- 痰は水、すなわち喀痰を含んだ体液全般を指す。狭義には胃内の停水をいう。
なお現代の日本漢方ではこの他に「気虚」、「血虛」などの概念も用いられる。しかし中医学の「陰虚」すなわち津液(水)が虚しているという概念は無い。しかし実臨床に於いては脱水や乾燥性湿疹など水が虚した状態は実際にしばしば存在するので、これを今後どう定義するかは今後の日本漢方の問題であろう。
診断法
症状を含めたその患者の状態を証(しょう)と呼び、証によって治療法を選択する[17]。証を得るためには、四診を行うだけではなく、患者を医師の五感でよく観察することがまず必要である。
西洋医学では、患者の徴候から疾患を特定することを「診断」と呼び、これに基づいて疾患に応じた治療を行う[18]。しかし漢方医学では、治療法を決定すること自体が最終的な証となる[18]。特に古方流派では葛根湯が最適な症例は葛根湯証であるという。しかし上述のように日本漢方にも現代では気血水、虚実、さらに五臓の概念まで取り入れられており、証がそのまま使用する処方に直結というのは必ずしも一般的では無くなってきている。
四診
治療法を決定するためには四診(望、聞、問、切)を行う[19]。四診は証を明らかにし漢方薬処方を決定する目的で行われる[20]。
- 望診(ぼうしん)
- 医師の肉眼による観察[21]。体格、顔色、皮膚の艶、舌の状態等。特に舌の観察をもとにした診断を舌診(ぜっしん)と呼び重要視される[20]。
- 聞診(ぶんしん)
- 医師の聴覚、嗅覚による観察[21]。患者の声、咳の音、口臭、体臭、排泄物の臭いなどから診断する[20]。
- 問診(もんしん)
- 漢方独自の概念はあるものの、基本的には西洋医学と同様に家族歴、既往歴、現病歴、愁訴を問う[20]。西洋医学よりも詳しく、一見無関係な質問も行い、全身状態の把握に努める。
- 切診(せっしん)
- 医師の手を直接患者に触れて診察する方法[21]。脈の状態から診断する脈診(みゃくしん)と腹の状態から診断する腹診(ふくしん)が特に重要である[21]。脈診では、脈拍・不整脈のみならず、脈の速さ・強さ・深さ・緊張度などから病態を把握し、腹診では胸脇苦満、心下痞硬、胃内停水など腹部の特別な所見の有無を診る。腹診は、日本で独自に発達した診察法である[20][21]。
治療法
排毒
吉益東洞のような万病一毒説に従えば、体からの毒素を排出(いわば「瀉」)することが医者が行う治療であるという事になる。それには
- 吐方(とほう) - 吐かせる
- 汗方(かんぽう) - 汗をかかせる
- 下方(げほう) - 下痢をさせる
などの施術があげられる。
しかし一方、後世派や考証学派では人参や黄耆などを用いた補法も重要視される。また現代の医療用漢方エキス製剤には小柴胡湯のような和解剤、黄連解毒湯のような清熱剤、加味逍遙散や抑肝散のような柔肝剤、滋陰降火湯のような補陰清熱剤も含まれており、実際の治療法は上記に宣べたような伝統的日本漢方理論に留まらず、多種多様な治療法が用いられている。
具体的な治療・養生法
補足・世界における東アジア伝統医学
以上が漢方医学を中心とする日本の伝統医学に関する説明であるが、関連事項として中国伝統医学を源とする東アジアの伝統医学について概説する。中国伝統医学系統のアジア伝統学は、中国(中医学)、日本(漢方)以外にも、朝鮮半島(古くは東医、現在の韓国では韓医学、北朝鮮では高麗医学と呼ばれる[26][27])、ベトナム(越南伝統医学)などアジアの広い範囲で行われている[28]。東南アジアの伝統医学も、その多くがアーユルヴェーダと共に中国医学の影響を受けている。
中国医学系の伝統医学は、代替医療・統合医療の分野で世界的に活用され、グローバル化が進んでおり、標準化が課題となっている。カナダ、ヨーロッパ、オーストラリアなどでも中国医学系の伝統医学(Traditional Chinese medicine (TCM))は注目され、広く実施されている。オーストラリアは西洋文化圏で最も中医学が発展しており、2012年には全国で中医の登録制度が実施された[29]。アメリカでは50州の内44州で鍼灸が合法化され、カナダやイギリスでも中医診療所は増加傾向にある[30]。アメリカ政府は独自の方針を採っている。アメリカではNIHの中にNational Center for Complementary Integrative Health(NCCIH)を置いているが、名称からも分かる通り特に伝統医学を特別視していない。この研究所のHPにある記載を引用すれば、Complementary medicine あるいはalternative medicineと言うのは"health care approaches that are not typically part of conventional medical care or that may have origins outside of usual Western practice"であり、通常の西洋医学と併用される場合はComplementary medicine, 通常の西洋医学の代わりとして用いられる場合はalternative medicineだと述べており、そもそも伝統医学、traditional medicineと言う用語自体使われていない。彼らの言うComplementary medicineやalternative medicineは確かに中医学的内容を含む場合もあるが、この研究所のスタンスとしては「通常の西洋医学的治療以外の治療」を対象としているのであって、特にtraditional medicineを特別視しているわけでは無いのだ。
日中韓の伝統医学は、共有する部分も大きいが理論・用語・処方に様々な違いがあり、政治的な影響もあり足並みはそろっていない。日本は政府・医学会共に、中医学が主導する国際化・標準化の流れに関心が薄く、中国、韓国、香港、台湾などと異なり伝統医学を扱う政府のセクションは存在しない。国際的にも漢方への理解は低く、外交面で大きく立ち遅れているのが現状である[31]。一方2019年にこれら東アジアの伝統医学(中医学、韓医学、漢方医学など)の診断(弁証)概念が初めて盛り込まれた疾病及び関連保健問題の国際統計分類(ICD)を世界保健機関(WHO)が承認し、2023年現在既にICD11として実際に普及しているなど、アメリカにおける特殊な認識は別として世界的にこれら東アジア伝統医学の認知度が高まっているのは事実である。
脚注
注釈
出典
- ^ a b c d 大塚恭男『東洋医学』岩波書店、1996年、[要ページ番号]頁。
- ^ 乾 2021, p. 190.
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- ^ “漢方伝来”. 十字屋平蔵薬局. 2015年6月29日時点のオリジナルよりアーカイブ。2015年6月25日閲覧。
- ^ 今西二郎、栗山洋子 著「漢方」、今西二郎 編『医療従事者のための補完・代替医療』(改訂2版)金芳堂、2009年。
- ^ Journal of African Studies 2009 (74): 69–72. (2009). doi:10.11619/africa1964.2009.69. ISSN 0065-4140. https://doi.org/10.11619/africa1964.2009.69.
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要購読契約)
参考文献
- 日本医師会『漢方治療のABC』医学書院〈生涯教育シリーズ, 28〉、1992年。ISBN 4260175076。
- 乾, 賢一 著「漢方薬」、望月眞弓, 渡辺謹三, 渡辺賢治 編『セルフメディケーション/一般用医薬品・漢方薬・保健機能食品』中山書店〈臨床薬学テキストシリーズ〉、2021年。ISBN 9784521744568。
関連項目
外部リンク
- 「日本漢方」のお話 著者:山ノ内慎一、監修者:山田光胤 東亜医学協会
- 漢方専門医認定機関 日本東洋医学会 一般の方向けのページ
- 一般社団法人日本漢方普及協会 一般の方向けのページ
- 小曽戸洋、「漢方の歴史」『日本医史学会神奈川地方会だより』 2001年 10号 p.12-15 ,日本医史学会神奈川地方会
- 大塚恭男、「東洋医学の歴史と現代」 『日本東洋医学雑誌』 1996-1997年 47巻 1号 p.5-11, doi:10.3937/kampomed.47.5, 日本東洋医学会
- 浅岡俊之、「漢方医学の歴史 : 臨床家が漢方医学の歴史をふまえることとは」 『日本東洋医学雑誌』 2007年 58巻 3号 p.407-412, doi:10.3937/kampomed.58.407, 日本東洋医学会
- 山田光胤、「東アジア伝統医学に於ける日本漢方」 『日本東洋医学雑誌』 1999-2000年 50巻 2号 p.201-213, doi:10.3937/kampomed.50.201, 日本東洋医学会
| 한의학 | |||
| 일본어 | |||
|---|---|---|---|
| 한자 | 한의학 | ||
| |||
| 중국의학 - 한방의학 - 한의학/고려의학 |
| 동양 의학 |
|---|
| 이론 |
| 고전 |
| 증거 |
| 내치법 |
| 외치법 |
| 약 |
한방의학 (칸포이가쿠), 또 한방 (칸포)이란, 중의약학 을 기초로 일본 에서 독자적인 발전을 이룬 전통의학을 말한다.
정의
일본에 있어서의 대표적인 한의학의 학회로 눈에 띄고 있는 「일본 동양의학회」의 HP 에는 「한방의학의 정의」가 기술되어 있지 않다. 도쿄의과대학의 HP 에서는 「일본의 전통의학입니다」라고 한 후 「한방의학의 원류는 중국으로부터 6세기에 전래했습니다만, 무로마치 시대경부터 일본 독자적인 진화를 하게 되었습니다.시대가 내려, 강 문시대에 일본에 들어온 서양의학(난방)에 대해 원래 일본에서 행해지고 있던 의학을 한방이라고 부르게 되었습니다. 일본 한방 생약 제제 협회의 HP 에는 "일본의 의학은 나라 시대 이래 중국 전통 의학이 주류였습니다. 그러나 에도 시대 중기 이후 서양 의학이 전해지면 이것을 '난방'이라고 부르고 기존부터 일본화 된 중국 의학을 '한방'이라고 부르며 각각을 구별하게 된다. 이것이, 현재로서는 거의 거의 모든 관계자가 일치할 수 있는 「한방의학이란 무엇인가」의 기술이라고 말할 수 있을 것이다.
호칭
16세기 이후, 서양의학이 일본에 도입되어 남만의학, 홍모의학이라고 불렸지만, 에도 중기에는 서양의학을 네덜란드인이 거의 독점하게 되어 「난방 」또는 「 양방 」 이라고 칭한 것에 대해, 중국 전통 의학에서 유래해 일본에서 실천되고 있던 의학 을 「 한방」.
19세기 중반의 막부 말부터 국학 과 한학 을 존황적으로 ' 황한학 '이라고 한다.
19세기 후반의 메이지 14년 무렵부터 '화한학'이라고 불렸지만, 이에 따라 일본의 한방도 ' 황한의학 ', ' 화한의학 '으로 불렸다. 닛신 전쟁 이후 서양과 쌍을 이루는 동양이라는 용어가 정착했다.
본래 한방의학에서는 생약 제제에 의한 약물 치료 외에 침구, 안마, 온천 등 다양한 치료법이 이용되었다. 현대일본의 의사법에 있어서 의사가 침구안마를 하는 것은 가능하지만, 침구안마 마사지에 관한 법률이 따로 존재하기 때문에, 이러한 치료법은 주로 안마마쓰사지 지압사, 박사, 기유사가 실시하는 경우가 많다.
20세기 후반, 일본은 드디어 한약에 대한 규제가 정리되었다. 1950년(쇼와 25년)에 일본 동양의학회 가 설립되어 ' 동양의학 '이라는 호칭으로 '일본의 한의학, 중국 중의약학 , 조선의 한의학 '을 일괄하는 것이 일반적이었다. 한약의 일부는 1976년(쇼와 51년)부터 정식 보험약으로 수재되어 있으며, 현재는 한약을 사용한 치료가 널리 이루어지고 있다 [ 3 ] . 덧붙여 현재의 일본에서는 동일한 한방 처방이 의료용 의약품으로서도 일반 의약품으로서도 사용 판매되고 있고, 일반 의약품으로서의 한방약은 제2류 의약품으로 분류되고 있다 .
역사
5·6세기에 중국에서 일본으로 중국 의학이 전래했다고 한다 [ 4 ] . 현존하는 일본에서 가장 오래된 의학서는 984년 단바 야스요시가 조정에 헌상한 의심방 이지만, 이 책은 당대의 의학서를 방대하게 인용하고 있다. 그 후도 일본의 의학은 명확하게 유학한 승의사 등에 의해 금 · 원 의 의학이 소개되는 등 기본적으로 중국의학의 도입을 바탕으로 전개했다( 후세파 ) [ 5 ] . 후세파의 거두는 곡직세도삼 (1507-1595)이다. 그는 타시로 산키 에게 의학을 배우고, 또 명명하게 유학한 스님 책히코주라 로부터 최신의 명의학을 배웠다. 그는 교토에 계원인이라고 하는 의학교를 열고 거기서 배운 의사들은 전국에 흩어졌다. 계廸院에서 사용된 처방집 ‘ 계廸院 배제 백방 ’은 현재 교토대학에 보관되어 있다. 그가 쓴 다수의 책 중에서도 '검증변치 계廸집'은 가장 유명하다. ‘찰증변치’라는 것은 요컨대 현대중의학에서 말하는 변증론치와 거의 의미는 같다. 곡 나오세 미치조의 양자 곡 나오세 겐슈 의 시대가 되면 활자 인쇄 기술이 보급되어 보다 많은 의학서를 입수할 수 있는 시대가 되었다. 그 정보를 얻고 한층 더 팔을 올린 곡직세 겐슈는 천황, 관백에서 서민에 이르기까지 많은 사람들을 치료해 수백례의 증례집 ' 의학천정기 '를 남기고 있다. 이것은 당시의 치료의 실제를 알기에 중요한 자료이다. 곡직세류 의학은 오랫동안 일본 의학의 주류가 되었지만, 오카모토 이치호 가 중국 의서를 가명 교제문으로 해설하는 등, 일본에서의 응용을 용이하게 하는 작업도 행해졌다. 여담이지만 이 인물은 긴마쓰몬 사에몬 의 동생이다.
시대가 내려 1607년에는 임라산 이 혼초 줄목을 도쿠가와 이에야스에 헌상 [ 6 ] , 또 장군 도쿠가와 요시무네는 「증광 태평 에민화제 국방」이나 「정정 동의보감」 등 중국, 조선의 의학서를 관각, 1819년에 다기 전 씨 (1789~1827)가 「난경소증」을 현저히 하는 등, 중국 전통 의학의 소개, 보급은 에도 후기까지 계속 실제로 마야나기 등의 연구 에 따르면 19세기에 이르기까지 중국의서는 영영으로 수입되고 있다. 따라서 에도시대에 일본의 의학이 중국의학과 완전히 다른 것이 되었다고 하는 것은 아니다. 즉 「정의」에서 소개한 도쿄의과대학의 기재에 있는 「무로마치 시대 무렵부터 일본 독자적인 진화를 하게 되었습니다」라고 하는 것은 올바르지 않다. 무로마치 시대는 물론 에도 말기에 이르기까지 일본은 중국에서 의학정보를 적극 수입하고 있었다.
한편, 음양오행설 의 영향이 큰 후세파에 대해, 에도시대에는 이를 비판하고 실증주의적인 고방파 가 대두하고, 후에 2파를 통합한 절충파 가 태어났다 [ 7 ] .
고방파가 주장한 '고대'라는 개념은 꽤 복잡한 사상 배경을 포함하고 있다. 덧붙여 아래의 고방파에 관한 기술은, 인용한 링크와는 별도로 향정정저, 「의학과 유학」인문서원 [ 8 ] 을 크게 참고하고 있다.
고방파는 고토 정산 에 시작된다고 한다. 고토 정산은 '일용'을 중시해 '고도'를 주창했다. 정산자필의 책은 현존하지 않지만, 그의 가르침을 제자가 기록한 사설필기 , ' 장산선생 유교해 ' 등에 따르면, 그는 논어를 끌어 의사를 알리라고 설고 있다. 그는 고방을 복택 이나 신농 의 전설에 요구하려고 했다. 후시와는 팔경을 설해, 신농은 약초를 백성에게 주었다고 의약에 관련지어지고 있었지만, 야야마가 중시한 것은 후시와가 요리를 발명해, 신농이 농작을 시작해, 오곡이나 야채를 사람들에게 가르쳤다고 여겨진 것이었다. 현대에 있어서는 복택도 신농도 전설상의 신에 지나지 않지만, 고토 정산의 진의는 약물 치료보다 우선 일상의 식사를 무겁게 한다는 것이었다고 생각된다. 물론 그도 약물 치료를 했다. 고토 정산이 사용한 약물은 「정산 선생님 수정 약능」이라는 책에 기록되어 있지만, 거기에는 불과 36종이 기술되어 있을 뿐이다. 병인론으로서는 일기유체설을 설교했지만, 그의 의미하는 마음과는 천지의 사이, 인체 내에도 밖에도 두루 존재하는 것으로 이해되고 있었다. 즉 정산은 고방파의 조라고 불리지만, 그에 있어서는 명대까지 확립하고 있던 음양오행 등의 사변성이 높은 의학에 차이를 주고, 일용에 사용하기 쉬운 양생·의료를 제창한 것이며, 그가 반드시 상한론을 중시한 것은 아니다. 그가 논어에 근거하여 의사를 설교하고 전설상의 존재인 후시와나 신농을 중시한 것은 그의 시대적 한계라고 할 수 있지만, 그 정신의 근본은 「일용」에 있었다고 말할 수 있다.
고토 정산을 이어받은 것은 카가와 슈안 이었다. 카가와 슈안은 의학을 고토 정산에 배웠지만, 그 전에 이토 닌사이에 유학을 배우고 있으며, 고토 정산보다 유학적 색채가 짙다. 그가 저술한 ‘ 한본당 여과의언 ’은 높은 실용성을 자랑하지만 그는 단지 실용적인 의학을 설득할 수는 없다. 이토 닌사이에 유학을 배운 후 고토 마에야마에게 의학을 배운 경위에서도 알 수 있듯이 그는 "유의"를 주장했다. 그 사상에 기초하여, 예를 들어 그는 황제 내경이 공자, 묘자의 가르침을 받지 않기 때문에 사설이라고 주장했다. 그리고 그는 논어나 묘자의 기술로부터 질병, 약, 식사, 일상생활 등에 관련된 부분을 집어들어, 이들에 근거해 의료를 미끄럽게 설교했지만, 과연 논어나 묘자로 실제 진료를 하는 것은 불가능했다. 그래서 그가 실제 치료의 모범으로 다룬 것이 상한론이었던 것이다. 다만 그가 입수할 수 있었던 것은, 성무기의 「주해상한론」이었다고 한다. 본서는 송개를 거친 상한론을 더욱 그가 생략 개변한 것이다. 거기서 카가와 슈안은 성무기의 주해상한론에서 주해와 약물의 수치를 모두 삭제해, 소각상한론 이라고 칭해 간행, 이것은 일본에 있어서 가장 잘 읽힌 상한론이 되었다. 가가와 슈안에는 이 외에도 가쓰라지나 대황, 황련 등의 재평가, 지나친 조선인삼의 남용을 계명하는 등의 공적이 있지만, 한편으로 상한론을 고증학에 근거하지 않고 「자신이 사용할 수 있는 곳만 빼낸다」라는 일본 한방의 악당은 그에게 시작되었다고도 말할 수 있다. 가가와 슈안이 상한론에 주목한 것은 사실이지만, 그의 주장하는 「고」도 반드시 상한론을 하는 것은 아니고, 그의 주장의 근본은 의사는 유래에 근거해야 한다 그래서 공공의 가르침을 중시한다고 주장은 했지만, 논어나 묘자로 실제 진료를 할 수 있는 것은 아니었기 때문에, 수단으로서 이용한 것이 상한론이었던 것이다.
고방파에서 가가와 슈안 뒤에 나온 거두는 야마와키 동양 이다. 그는 에도시대 처음 해부(腑分割)를 한 것으로 유명하다. 야마와키 동양은 법안의 호를 받았고, 또 나카미몬 천황의 사무의를 맡는 등 고토 류잔이나 카가와 슈안과는 다른 계보의 의사였다. 집은 곡직세 현수의 계통의 의사이며, 처음에는 금, 전, 명대의학을 배웠다. 그러나 나중에 음양오행 등을 중시하는 의학에 의문을 품고 가가와 슈안처럼 '복고'를 주창했다. 그러나 야마와키 동양의 복고는 카가와 슈안의 그것과는 이질이었다. 카가와 슈안은 복고를 주창했지만 논어나 묘코에서는 실임상을 할 수 없기 때문에 상한론을 참고로 하고, 「자아 작고」라고 말했다. 스스로 낡은 것을 만드는 것이다. 그러나 야마와키 동양은 그렇지 않았다. 그는 술술부작, 고인의 설을 선포할 뿐 자신의 생각은 만들지 않는다고 말한 것이다. 「유고 시호」, 옛만이 좋다고 말했다. 이것은 학문이 진보한다는 것을 완전히 부정한 것과 같다. 그는 또한 유학자의 영향을 받았다. 야마현 슈난이라는 인물을 통해 오기오이 의 설을 배웠다. 오기 소후는 고문 사학을 외치고, 후세의 주에 관계없이 고어의 의의를 귀납적으로 연구해, 직접 고대 문헌을 해석한다고 주장했지만, 당연히 에도시대의 일본에 살았던 오기 소우에게 이 목적을 실현하는 것은 너무 자료 부족이었다. 현대의 고고학이 손에 든 것 같은 고대 분묘에서 한대 이전 문헌 자료의 발견 등이 없었기 때문이다.
그 오기후이의 설에 영향을 받은 야마와키 동양은 당연 현대적 관점에서 보면 효로에 밟아 버렸다. 그는 주례 에 주목한 것이다. 주례는 주왕조의 정치체제, 관위, 문물습속을 기재했다고 하지만 현대고고학에 의해 발견된 금문자료의 기술과는 모순되는 곳이 많아 실제로는 몇시 누가 짠 책인지 불명하다. 또 현대에 있어서는, 주례가 실제의 주위의 정치 제도나 관위를 정확하게 기술하고 있다고는 생각되지 않는다. 그러나 이것은 유교에서는 경전시되었다. 야마와키 동양이 의미한 '고(いえしえ)'는 실로 주례의 기재였던 것이다.
그렇다면 그런 야마와키 동양이 왜 인체 해부를 했는가. 그것은 주례에 「구장」이라고 적혀 있었기 때문이다. 인체에는 심장, 간, 비장, 폐, 신장, 위, 방광, 대장, 소장의 9장이 있다고 여겨졌다. 이것은 황제 내경이 기술하는 오장 육건과는 분명히 수가 다르다. 그래서 그는 실제로 인체를 해부하고 존재하는 것은 오장 육건인지 구장인지 확인하려고 했다. 실제의 건분의 경위는 생략하지만, 그의 건분의 도면은 그의 책 「쿠라시」에 「구장 전면도」로서 실려 있다. 이 해부도는 분명히 잘못되어 심장은 기도 또는 식도에 직결되도록 그려져 있으며, 또 당시의 조잡한 해부에서도 존재는 확인할 수 있었을 비장은 그려져 있지 않다. 요컨대 그는 실제 인체가 어떤 구조를 하고 있는지 알려고 한 것은 아니고, 주례에 9장과 있는 것을 확인하려고 했을 뿐이었다. 눈앞에 있는 장기를 객관적으로 기재한 것은 아니고, 9장이라는 자신이 믿는 개념에 억지로 한 것을 적용한 것만이었다. 이 점이 나중의 스기타 현백 등에 의한 건분과는 의미나 목적이 완전히 다르다.
야마와키 동양이 의미한 '옛'은 주례였지만, 당연히 주례에 기초하여 임상이 가능한 것은 아니다. 그래서 그는 "주지직, 한지술, 진당지방"에 근거하여 의료를 실시한다고 주장했다. 그 '한지술'이라는 것이 상한론이었다. 또 '진당지방'으로서 그가 복각에 노력한 것이 외대비 요방이었다. 외대비 요법은 732년(현종시대), 왕소의 작으로 여겨지지만, 야마와키 동양 재세시는 이미 송개를 받은 것 밖에 남아 있지 않았다. 북송시대의 간본이 현존하지만, 동양은 명대의 간본을 바탕으로 1746년에 복각했다. 외대비 요방은 인용문에 반드시 출전이 명기되어 있기 때문에, 동양은 바로 이거야 술술 부작의 모범이라고 생각했을 것이다. 그러나 그는 그것이 송개를 거친 명본인 것은 알고 있었을 것이다. 송, 아키라 등 후세의 의학을 부정하려고 한 그였지만, 결국은 송이나 아키라의 연구 위에 서서 일을 할 수밖에 없었다.
이처럼 '고방파'라고 불리는 중심적인 사람들이 이미지한 '옛'은 기본적으로는 상한론이 아니다. 고토 정산에 있어서는 그것은 후시와나 신농이었고, 카가와 슈안에게는 논어나 묘코였고, 야마와키 동양에 있어서의 옛은 주례였다. 즉 그들의 '고대'는 모두 중국의 개념이었던 것이다. 그들은 주자학을 부정하는 당시 유학의 영향을 받으면서 각각의 '고(古)'를 꿈꿨지만, 그것은 모두 중국의 고대신, 유교의 낡은 형태, 혹은 현대에 있어서는 그 내용이 사실과는 간청되지 않는 가상의 고대사서였다. 그런 것은 이념으로서는 있을 수 있지만, 현실의 임상 역에는 서지 않는다. 그래서 편리한 것이 상한론(의 기술의 편리함이 좋은 일부)이었다. 현대에서는 고방이라고 하면 상한론이라고 생각되기 쉽지만, 적어도 야마와키 동양까지의 고방파에게 있어서 고(いえしえ)=상한론이 아니었던 것이다.
에도 말기까지 중국으로부터의 의학지견의 수입에 노력한 후세파는 물론, 「일본 독자」로 여겨지는 고방파도, 결국은 중국의 개념 중(안)의 낡은(꿈)을 꿈꿨던 것이다. 과연 이것이 「일본 독자적인 발전」이라고 할 수 있을지 어떨지는 심각한 의문이다.
이러한 흐름은 다음에 설명하는 길익동동 에 의해 단번에 다른 양상을 띠게 된다. 확실히 길익동동도 활발히 중국 고전을 인용했다. 그의 "고서 의언"에는 수많은 중국 고전의 인용문이 나온다. 그러나 현대에서는 많은 점에서 요시익 동동이 그러한 고전을 마음대로 재작성하거나 자의적 인용을 하고 있는 부분이 많다는 것을 알고 있다. 위에 선포한 세 사람과 달리 요시익 동동에게 중국 고전은 자설을 권위화하는 '도구'에 불과했다. 그는 겉으로는 중국 고전에 의거하고 있는 것처럼 보이면서 그 사실 그 고전에 아무런 경의 등을 지불하지 않았던 것이다. 확실히 그도 주례 속의 병의, 궤의 등의 키워드를 박아냈지만, 그 주례로 보이는 「이5약 요유, 이오미절지」등은 「진입」, 즉 실수로 혼잡한 것이라고 부정한다. 현대의 고고학, 고문서학처럼 문헌고증을 하고 부정한 것은 아니다. 자신에게 마음에 들지 않는 곳은 전부 '진입'이라고 결정했다. 이는 그가 ‘만병일독설’의 근거로 인용한 ‘루씨춘추’에 있어서도 마찬가지이며, 카루는 루씨춘추의 원문을 자신의 형편이 좋게 여기저기 개조하고 있다. 게다가 그는 "편봉이나 장중경도 만병 일독설을 주창하고 있었다"고까지 말했고, 과연 제자에게 "연연히 사기상한론에 보이지 않을까"라고 물었다. 그러자 그는 나쁜 짓도 하지 않고 “그것은 왕이와가 자설을 더했기 때문”이라고 대답했다고 한다. 길익동동은 상한론을 이상하게 중시했다고 하지만, 그 실고전에 대한 태도는 이같고 고대문헌을 학문적으로 검증한다는 자세는 미진도 없었다. 또 일본 독특한 진찰법인 복진에 대해서도 그는 사기의 '편鵲倉公列伝'에 '병응견대표'라고 있는 것이 복진의 일이라고 주장했지만, 사기에는 편봉이 복진을 했다는 설명은 존재하지 않는다. 오히려 사마천은 편봉을 맥진의 명수로 높게 평가하고 있지만 동동은 그것을 시원하게 무시했다. 또 요시익 동동은 상한론에 근거하는 것을 강조했지만, 그 자신이 상한론에 근거하여 썼다고 선전한 '유치방'은 상한론을 제멋대로인 그의 독자적인 해석으로 이용한 것에 불과하고 상한론 자체를 조술한 것은 아니다.
길익동동의 이러한 중국 고전의서에 대한 태도는 고토 정산, 가가와 슈안, 야마와키 동양 등과는 전혀 다르다. 이들 3명은 오해를 포함하면서 어쨌든 중국 고대의 사상을 중시한 반면 동동은 지극히 자의적으로 이용했을 뿐이다. 이것은 과연 "옛날"일까? 현실을 보면 길익동동은 옛날 등 전혀 존중하지 않았다고 말할 수밖에 없다. 중국 고전을 치면서 사정이 나쁜 곳은 모두 변조하고 자신이 맞다고 생각하는 의학을 만들어냈다. 그것은 역사의 개조라고 하면 그럴 것이고, 한편으로 「옛날에 순종한다」라고 말하면서 그의 살아있는 시대에 따른 새로운 의학을 세웠다고 하는 해석도 할 수 있을 것이다. 후시와와 신농, 논어, 묘코, 주례나 로씨 춘추 등은 그에게는 권위화에 이용하는 재료였을 뿐, 그가 정말 무게를 둔 것은 그 시대에 맞는 새로운 임상의학이었던 것이다. 길익동동은 확실히 상한론을 칭찬했지만 상한론을 고증학적으로 다룬 것은 아니다. 그의 처방집 ‘유치카타’에는 ‘구방대장사’라고 하며 장중경에 근거한 것이 되어 있지만, 거기에는 분명히 동동 본인의 해석, 선별이 들어 있다. 하지만 어쨌든 이 책은 당시 큰 붐이 되었다. 1만권이 인쇄되어 에도에 5천부, 교토, 오사카에 5천부가 배포되었지만, 이 중 교·오사카의 5천부는 한 달 만에 품절되었다고 한다. 2023년 현재 일본에 놓아도 의학서가 1만부, 혹은 5천부를 매진하는 예는 드물다는 것을 생각하면 바로 열광적 붐이었다는 것을 알 수 있다.
한편 그는 실제 임상에서 반드시 상한론 처방이나 스스로 짠 유방방법에 관계없이 다양한 처방을 이용했다. 예를 들면 「의사 혹은 질문」에는 제자와의 이런 문답이 적혀 있다.
제자는 "고카카와는 중경방의 일이지요. 선생님은 겐쇼탄, 칠호마루 등을 사용하지만, 고카타라고는 말하기 어려운 것이 아닌가요?"
이에 대한 동동의 대답은 그의 의학에 대한 근본적인 자세를 잘 나타내고 있다.
「고방이라고 하는 것은 세간이 그렇게 주창하고 있는 것이다. 처방 선택은 병을 치료할 수 있을지 어떨지이며, 옛날도 지금도 없다. 그러나 후세의 처방에는 유효한 것이 적고, 옛 것에는 많기 때문에, 옛날의 처방을 많이 이용한다. 그래서 세간이 옛방이라고 하는 것이다. 처방에 고금의 차별은 없다」
요컨대, 길익동동은 철저한 임상가였다. 그는 고토 정산 등처럼 중국의 고대(아니시에)에게 무언가의 가치를 요구한 것은 아니었다. 그의 기준은 ‘실임상에 유효한지 여부’뿐이며, 그 때문에는 상한론에 없는 그 자신의 처방도 많이 개발했다. '친시 실험'이라는 말은 그가 처음 제창한 것은 아니지만, 진정한 의미로 친시 실험에 철저한 것이 요시익 동동이었다. 동동의학의 이 본질을 감안하면 그를 '고방파'라고 칭하기에는 주저함이 있다. 그는 실임상에서 고방을 선택하는 것도 있고, 후세의 처방을 선택하는 것도 있고, 스스로 만든 처방을 사용하기도 했다. '유효한 것을 사용한다'는 것이 그의 일관된 자세이며 단지 '오래된 것'을 제창한 것은 아니다.
어쨌든 동동류 의학은 단번에 전국에 퍼졌다. 그에 따라 그를 열광적으로 지지하는 사람도 있으면 너무 자설에 너무 치우치고 있어 의학으로서는 균형이 부족하다고 비판한 사람도 있었다. 무라이 코토야마처럼 옛 중국의 상한론 연구를 모두 부정하고 “가동동옥에 이르러 처음으로 중경실에 들어간다”고까지 극론 절찬한 사람도 있었지만, 한편으로 하타황산처럼 황제 내경의 중요성도 인정하고 많은 고금 역대 의학서를 읽어야 한다고 주장한 사람도 있었다. 그는 의학원을 열고 의학을 교수했지만, 그 의학원에 있어서 학습해야 하는 의학서는 황제내경, 상한론은 말에 미치지 않고, 당, 송, 김원의학, 명청의학, 조선의학에까지 건너고 있다. 게다가 스기타 현백은 “동동은 일종의 호걸이지만, 상한론에만 얽매이는 것뿐이지만, 그것도 착간의 책이라서 취하는 곳은 많지 않다고 하며, 자신이 마음에 철저히 하는 방론만을 취하고… 막히는 곳 길익동동은 고방의 수컷이 되면서, 그 본질은 오히려 친시 실험에 있어, 실제로 유효한가 어떤가가 그의 판단 기준이었기 때문에, 반드시 고대를 중시한 사람은 아니었다고 말할 수 있다.
에도기에 명청 의학 도입
이상 보았듯이, 고방파는 확실히 에도기에 있어서 독자적인 움직임을 보였다. 그러나 한편 에도기를 통해 명청의학도 끊임없이 유입하고 있었다. 중국 의사의 일본은 주로 명청교대 때 동란을 피해 일본으로 건너온 사람들과 도쿠가와 요시무네가 적극적으로 초빙한 사람들이 많다. 그 수는 상당히 방대하기 때문에 여기에 일일이 들 수 없다. 어쨌든 막부는 그들을 통해 항상 중국 의학의 동향에 의지하고 많은 중국 의서가 가져왔다. 그 중 한 명을 예로 들어보면 후조신은 소주에서 고명한 의사였지만 막부의 요구에 따라 1803년부터 1805년까지 일본에 머물며 다기 원간 등과 통역을 통해 질의를 했다 . 이때 막부의관의 질문은 청나라의 의학교육, 시험과목, 진료법, 홍역 유행의 빈도, 달인약의 가수량 등과 중국 의학 현황에 막부가 강한 관심을 보였다는 것을 알 수 있다. 무엇보다 이때 다기 원간은 후조신에 왜 중국에서는 복진을 하지 않을까 하고, 후조신이 중국에서는 옛부터 복진은 하지 않는다고 대답했는데, 그것은 고지의 의서의 기재와 다르다고 하고 있다. 중국에 배우려고 하면서도, 중국 의사의 말을 삼키지 않을 정도로, 다기 원간과 같은 사람은 고금의 중국 의학서에 대해 조지가 깊었던 것 역시 다르다.
이상으로 에도기 일본의 의학 상황에 대한 기재를 마친다. 이 밖에 기타야마 토모마츠코처럼 중국에서 망명자와 나가사키 유녀 사이에 태어난 혼혈아이면서 상한론을 중시한 사람 등 아직 논하지 않을 인물은 많지만, 지금까지 개설한 것만으로도 에도기에 있어서 일본의 의학이 중국과는 독자적인 발전을 이뤘다고 한마디로 꼽을 수는 없다. 다기원원과 같은 고증학자는 물론, 고방을 목표로 한 사람들도 어떠한 형태로 중국 사상이나 명대의학으로부터의 영향을 받았다. 다만 혼자 길익동동만이 사실상 중국 사상을 가볍게 하고, 오로지 임상적 효과에 구애된 것이 너무 선명한 인상을 주기 때문에, 마치 에도기에 일본의 의학이 완전히 중국과는 독자적인 발전을 이룬 것 같은 인상을 줄지도 모르지만, 실제로는 일중간에는 빈번한.
중국의학·한의학과의 차이
한의학은 기 · 혈 · 물 ·허실 등의 이론과 가쓰 네유 등의 방제(복수의 생약의 조합)를 중국의학과 공유하고, 텍스트로서 중국의 고전의학서가 이용된다. 그러나 양자에게는 많은 차이가 있어, 특징으로서는 구체적·실용주의적인 점을 들 수 있다.
현재의 일본의 한의학의 주류는 「고방파」이다 [ 9 ] . 이 고방파는 중국의학의 근본적인 이론인 ' 음양오행론 '을 승인하지 않고 오히려 그것을 의도적으로 배제하고 있다. 고방파의 주된 4명에 대해서는 위의 「역사」에서 자세하게 선포했다. 중의학도 일본 한방도 진단과 비슷한 용어로 ‘증’을 논하지만, 일본 한방의 후세파나 절충파에서는 간증은 중국 전통의학과 대체로 같은 의미로 사용된다. 그러나 고방파에서는 ' 상한론 ' 조문에 있는 증상과 처방이 일대일에 대응한다고 주장한다. 사용되는 생약의 종류는 중국보다 적고, 1일분의 약용량은 중국에 비해 약 3분의 1이다 [ 10 ] [ 1 ] . 또한, 맥진 , 설진을 중시하고 복진이 가려진 중의학과는 대조적으로, 일본의 한방의학은 맥진, 설진, 복진을 실시한다 [ 1 ] .
이에 대해 한의학 (한반도)에서 사용되는 생약량은 적당하다.
한방의학의 처방은 『』(현재는 『상한론』 및 『김전요약』이라고 불리는 2개의 텍스트로 남는다. 또 현대의 일본한방에서는 이둥가키의 보중익기탕이나 화제국방의 처방의 여러 가지, 명대의 만병회춘의 처방, 선명론에 있는 방풍통성산 등 다양한 처방이 도입되고 있다. 한편 '온병'(똥병) 등 청대에 중국에서 확립한 이론은 거의 현대의한의학에는 계승되지 않았다 [ 11 ] .
근대부터 현대(21세기)의 일본에서의 전통의학의 현상
메이지 정부에 의해 일본의 의료에 서양 근대 의학이 채용되어 한의학은 현저하게 쇠퇴했다. 일본의 의학교육에서는 한방의학을 비롯한 전통의학의 교육은 100년 이상 거의 행해지지 않았지만, 2001년에 의학부의 교육내용 가이드라인의 도달목표에 ‘일한약을 개설할 수 있다’가 추가됨으로써 전국 대학에서 한방의학 강의가 서서히 이루어 지게 되었다 . 그러나 일본에는 중국이나 한국과 같은 전통의의 국가자격은 존재하지 않았고, 1883년(메이지 16년) 이후 의사국가시험 과목에도 한방의학은 포함되지 않았다. 그 때문에 한방의학의 체계적인 지식을 가진 의사는 적고, 한약이 서양의학적 발상으로 사용되는 등의 문제도 산견된다 [ 1 ] .
현대일본에 있어서의 전통의학의 현상에 대해 우선 먼저 지적해야 하는 것은 현대일본에 있어서는 복수의 「전통의학」계통의 의학이 실천되고 있다는 것이다. 일본에서는 메이지 정부가 의제를 정했을 때 전통의학을 사실상 버렸기 때문에 전통의학에는 공백기가 태어났다. 그 중 다양한 사람이 과거의 문헌을 섭렵하고, 각각의 배움에 따라 독자적인 전통의학을 제창했다. 특히 메이지 43년(1910) ' 의계지 철시 '를 저술한 와다 게이치로 등 고방파로 배운 사람이 최초로 전통의학복권의 늑연을 올렸기 때문에, 일찌기 일본 한방이라고 하면 고방과 간청되는 방향도 있었다. 그러나 현재는 고방파 뿐만 아니라 고증학파를 이어받는 흐름, 경방의학 등 상한론, 김전요약에 근거하면 좋지만 전혀 새로운 이론을 구축하는 흐름, 또 전통의학을 현대의 임상의학적 수법, 특히 Evidence Based Medicine (EBM)의 수법에 실어 검증·이해하려는 흐름 등. 또한 중국 전통의학을 중화인민공화국 정부가 계통화한 중의학 도 일본에 소개되어 실천되고 있다. 즉 현대일본에서 실천되고 있는 여러 전통의학과 한방의학은 같은 개념으로는 주지 않는다.
21세기에 들어 중 의학에 있어서의 에비던스 구축이 눈부시게 발전해(2023년 8월 14일 현재 PubMed 에서 Traditional Chinese Medicine과 검색하면 134232개의 영논문이 검색된다), 이에 대해 일본 한방은 kampo라고 하는 키워드로 같은 날에 검색하면 2277개로, 에비덴. 뿐만 아니라 같은 날에 traditional Korean Medicine으로 검색하면 3246개의 영논문이 검색되어 일본 한방은 근거 구축에 있어서 한의학의 후진을 숭배하고 있다. 이런 상황에 처음으로 경종을 울린 것은 암석강(1964~)이었다. 그는 자신도 억간산의 치매 BPSD 개선 효과 , 반여름 후박탕의 삼키는 폐렴 예방 효과 , 가미 귀비탕의 BPSD 개선 효과 등 한방의 랜덤화 비교 임상 시험을 실시하고, 또한 노인 의료 영역에서의 한의학 때문에 근거가 붙어 스템매틱 리뷰를 실시하고 심지어 통계적 검증을 거친 기체 점수 제출 등 48개의 영논문을 발표해 일본 한방의 근거 구축에 노력했지만 그의 주장은 일본 동양의학회와 같은 국내 주류파에서는 불흥을 샀다. 그러나 그의 울린 경종은 점차적으로 한방계에 퍼지고 그가 2016년에 저술한 " 노인을 위한 한방 진료 "에서 당시 PubMed에 kampo 키워드에 의해 검색된다 영국 논문이 1182건이었다고 보고하고 있는 것에 비하면 현시점(2023년 8월)에서 2277개로 늘어난 것은 그의 주장을 수긍한 사람들이 일정 수 있었던 것을 이야기하고 있다. 앞으로는 기존 처방의 효과 검증에 머무르지 않고 한방의학 이론의 명확화, 통계적 검증을 거친 변증법의 확립, 나아가서는 신형 코로나 등 잇달아 출현하는 새로운 질환에 대한 새로운 치료법, 새로운 처방의 창출 등 일본 한방이 다루어야 할 과제는 매우 많다.
이론
기혈수 이론
기혈수설은 고의 방을 주창한 길익동동이 부정한 것을 장남의 길익남평이 재구축한 이론이라고 하지만, 요시익 남생의 제창한 기혈수이론은 현재의 한의학의 그것과는 상당히 다르고, 난수 혹은 미완성이다. 그것은 후세에는 이어지지 않았다. 현대의 일본 한방이 채용하고 있는 기혈수가 어디에 끝을 발하는지, 현 단계에서는 불명하다.
기혈수 이론에서는
- 기분
- 인간의 몸을 둘러싼 가상적인 "생명 에너지"와 같은 것 [ 13 ] .
- 피
- 체내를 둘러싸고 조직에 영양을 준다. 혈액 이 그것에 가깝다 [ 13 ] .
- 물 (수이)
- 혈액 이외의 체액이 그에 상응한다 [ 13 ] .
의 3개의 흐름을 밸런스 잘 체지 않는 상태로 하는 것이 치료 목표가 된다. 이것은 현대 중의학 의 기혈진액 변증과 그다지 크게 변하지 않는다.
음양오행이론
음양 오행론은 중국 의학의 이론화에 사용되었다. 다만, 현재의 한방은, 음양오행론을 관념적으로 나눈 고 방파 [ 14 ] 가 주류이며, 진단·처방에는 별로 이용되지 않는다 [ 11 ] . 그러나 한편 일본 한방의 주요 유파로 알려진 ‘ 일한 진료학 ’의 제창 자사 사와 노년이 중심이 되어 편찬한 와한 진료학의 기본적인 해설서 “증례에서 배우는 와한 진료학 제3판 [ 15 ] "에는 한화진료학에 있어서의 생체의 이해"로서 오장의 개념은 물론, 오장의 상관관계와 기혈수의 소장, 오장의 대사작용과 기혈수의 상관이 하나하나 항목을 세우고 해설되고 있어, 오행론을 전면적으로 도입하고 있지 않다고는 해도, 그 주요한 의학적 부분인 오장
앞뒤와 허실
허실에 대해 일본 한방에서는 혼란이 존재한다. '허'라는 개념이 기혈수의 어느 기능이 떨어진 상태인 것에 대해서는 대체로 이론이 없고, 기허, 혈학이라는 표현이 있다. 물의 허에 대해서, 일본 한방에는 중의학의 「음허」에 해당하는 용어가 없다. 그러나 일본 한방에서도 물이 부족한 병태가 존재한다는 개념은 있다. 문제는 '실'의 해석이다. 안도 모모야마 시대에 활약한 곡 나오세 미치조는 현대 중의학에 있어서의 「변증 논치」를 「찰증 변치」라고 불렀지만, 곡 나오세 미치조의 찰증 변치와 현대 중의학의 변증 논치는, 개념으로서는 대체로 같다 . 이 계통에 속하는 곡직세 현수의 치료록을 보면 당시 일본 의사도 거의 현대중의학과 같은 병태해석을 하고 '부정거사'를 치료의 중심으로 삼았다. 또 에도 시대 고대의 대표인물로 평가받는 요시유 동동은 의사는 사라지기 때문에 정기를 보충할 수 없다고 말하고 있다 . 이처럼 에도기에서도 열매라는 사실이 상식이었다. 일본에서 전통의학을 재흥한 유모토 구진은 ' 황한의학 '에서 '실증은 충실한 의. ‘병독 충실하다’는 중의학의 ‘사실’과 같은 개념이지만, 거기에 ‘체력이 대항하고 있다’고 정기적인 기재가 더해진다. 그런데 그 후, 오츠카 경절은 자저 「한방 진료 의전」에 있어서, 「실」은 병에 대항하는 체력이 충실하고 있는 것이다」라고 주장했다 .여기로부터, 일본 한방과 중의학은 「실」의 개념에 있어서 결정적으로 다르게 되었다.즉, 중국과 일본에서 실증의 개념이 완전히 다른 것이 된 것은 오츠카.
- 표실증
- 오한, 두통, 발열이 있어도 땀을 흘리지 않는다.
- 표허증
- 오한, 두통, 어깨 결림이 있고, 맥이 부약하고, 땀나기 쉽다.
- 뒷실증
- 복부가 충만하고 변비・구갈이 있고 맥이 침몰하여 힘이 있다
- 뒷허증
- 복부가 힘없고, 먹지 않고, 설사·구토하기 쉽고, 맥이 가라앉고 약하다
- 기체증(키타이쇼)
- '기'의 울체가 병을 일으킨다는 발상은 옛날부터 보였고 고토 류야마 에 의해 크게 주창되었다. 피도 물도 신경에 의해 움직이기 때문에, 기의 우울증은 혈액, 물의 우울증을 초래한다.
- 瘀血証 (오케츠쇼) [ 16 ]
- 속에 '혈혈'이라 불리는 상태에서 '혈'이라 불리는 것이 정체된 상태이다.
- 가래 음증
- 가래는 물, 즉 객담을 포함한 체액 전반을 가리킨다. 협의에는 위내의 정수를 말한다.
덧붙여 현대의 일본 한방에서는 이 외에 「기허」, 「혈학」등의 개념도 이용된다. 그러나 중의학의 '음허' 즉 쓰액(물)이 허무하다는 개념은 없다. 그러나 실제 임상에서 탈수나 건조성 습진 등 물이 허한 상태는 실제로 종종 존재하기 때문에 이를 향후 어떻게 정의할지는 향후 일본 한방의 문제일 것이다.
진단법
증상을 포함한 환자의 상태를 간증 이라고하며, 간증으로 치료법을 선택합니다 [ 17 ] . 간증을 얻기 위해서는 사진 을 실시할 뿐만 아니라 환자를 의사의 오감 으로 잘 관찰하는 것이 우선 필요하다.
서양 의학에서는 환자의 징후로부터 질병 을 확인하는 것을 "진단"이라고 부르고, 이것에 기초하여 질병에 따른 치료를 실시한다 [ 18 ] . 그러나 한의학에서는 치료법을 결정하는 것 자체가 최종적인 증거가 된다 [ 18 ] . 특히 고방유파에서는 가쓰네유가 최적인 증례는 가쓰네유증 이라고 한다. 그러나 상술한 바와 같이 일본 한방에도 현대에서는 기혈수, 허실, 또한 오장의 개념까지 도입되고 있어, 증표가 그대로 사용하는 처방에 직결이라고 하는 것은 반드시 일반적으로는 없어지고 있다.
사진
치료법을 결정하기 위해서는 사진 (망, 듣기, 질문, 컷)을 실시한다 [ 19 ] . 사진은 간증 을 밝히고 한약 처방을 결정할 목적으로 이루어진다 [ 20 ] .
- 망진(보신)
- 의사의 육안으로 관찰 [ 21 ] . 체격 , 안색 , 피부 광택, 혀 상태 등. 특히 혀의 관찰을 바탕으로 한 진단을 혀진단 (제진)이라고 부르며 중요시된다 [ 20 ] .
- 청진 (부진)
- 의사의 청각 , 후각 에 의한 관찰 [ 21 ] . 환자의 목소리, 기침 소리, 구취 , 체취 , 배설물 의 냄새 등으로부터 진단한다 [ 20 ] .
- 문진(몬신)
- 한방 독자적인 개념은 있지만, 기본적으로 서양의학과 마찬가지로 가족력 , 기왕력 , 현병력 , 불소를 묻는다 [ 20 ] . 서양의학보다 자세하고, 보기에 관계없는 질문도 실시해, 전신 상태의 파악에 노력한다.
- 절진(선신)
- 의사의 손을 환자에게 직접 만져서 진찰하는 방법 [ 21 ] . 맥 의 상태로부터 진단하는 맥진진 (미쿠신)과 배의 상태로부터 진단하는 복진 (후쿠신)이 특히 중요하다 [ 21 ] . 맥진에서는 맥박 · 부정맥 뿐만 아니라 맥의 속도·강도·깊이·긴장도 등에서 병태를 파악하고, 복진에서는 흉골 고만, 심하경경, 위내 정수 등 복부의 특별한 소견의 유무를 진찰한다. 복진은 일본에서 독자적으로 발달한 진찰법이다 [ 20 ] [ 21 ] .
치료법
배독
길익동동과 같은 만병일독설에 따르면 몸에서 독소를 배출(이른바 '사')하는 것이 의사가 하는 치료라는 것이다. 이를 위해
- 토방 (토호) - 뱉다
- 땀을 흘리다 - 땀을 흘리다
- 아래쪽 (게호) - 설사
등의 시술을 들 수 있다.
그러나 한편, 후세파나 고증학파에서는 인삼이나 황야 등을 이용한 보법도 중요시된다. 또 현대의 의료용 한방 추출물 제제에는 고시바 후유와 같은 화해제, 황련 해독탕과 같은 청열제, 가미 這散散와 억간산과 같은 유간제, 滋陰降火湯이와 같은 보음 청열제도 포함되어 있으며, 실제의 치료법은 상기에 선포한 것과 같은 전통적인 일본 한방 이론에 머무르지 않고, 다양한 치료법이 이용되고 있다.
구체적인 치료·양생법
보충 · 세계의 동아시아 전통 의학
이상이 한방의학을 중심으로 하는 일본의 전통의학에 관한 설명이지만, 관련 사항으로서 중국 전통의학을 근원으로 하는 동아시아의 전통의학에 대해 개설한다. 중국 전통의학 계통의 아시아 전통학은 중국( 중의학 ), 일본(한방) 이외에도 한반도(옛날에는 동의, 현재 한국 에서는 한의학 , 북한 에서는 고려의학이라고 불린다 [ 26 ] [ 27 ] ), 베트남 ( 월남 전통의학 ) 등 아시아 의 넓은 범위에서 이루어지고 있다 . 동남아시아의 전통의학도 그 대부분이 아유르베다 와 함께 중국의학의 영향을 받고 있다.
중국의학계의 전통의학은 대체의료·통합의료 분야에서 세계적으로 활용되어 글로벌화가 진행되고 있어 표준화가 과제가 되고 있다. 캐나다, 유럽, 호주 등에서도 중국 의학계의 전통의학(Traditional Chinese medicine (TCM))은 주목받아 널리 실시되고 있다. 호주는 서양문화권에서 가장 중의학이 발전하고 있으며, 2012년에는 전국에서 중의의 등록제도가 실시되었다 [ 29 ] . 미국에서는 50개 주 중 44개 주에서 침구가 합법화되어 캐나다나 영국에서도 중의 진료소는 증가 경향에 있다 [ 30 ] . 미국 정부는 독자적인 방침을 취하고 있다. 미국에서는 NIH 속에 National Center for Complementary Integrative Health( NCCIH )를 두고 있지만, 명칭에서도 알 수 있듯이 특히 전통의학을 특별시하고 있지 않다. 이 연구소의 HP에 있는 기재를 인용하면, Complementary medicine 혹은 alternative medicine이라고 하는 것은 "health care approaches that are not typically part of conventional medical care or that may have origins outside of usual Western practice"이며, 보통의 서양의 통상의 서양 의학의 대신으로서 사용되는 경우는 alternative medicine이라고 말하고 있어 원래 전통 의학, traditional medicine이라고 하는 용어 자체 사용되고 있지 않다. 이들이 말하는 Complementary medicine이나 alternative medicine은 확실히 중의학적 내용을 포함하는 경우도 있지만, 이 연구소의 스탠스로서는 「통상의 서양의학적 치료 이외의 치료」를 대상으로 하고 있는 것이며, 특히 traditional medicine을 특별시하고 있는 것은 아니다.
한·중·일의 전통의학은 공유하는 부분도 크지만 이론·용어·처방에 다양한 차이가 있어 정치적인 영향도 있어 발길이 갖추어져 있지 않다. 일본은 정부·의학회 모두 중의학이 주도하는 국제화·표준화의 흐름에 관심이 얇고 중국, 한국, 홍콩, 대만 등과 달리 전통의학을 다루는 정부의 섹션은 존재하지 않는다. 국제적으로도 한방에 대한 이해는 낮고 외교면에서 크게 늦어져 있는 것이 현상이다 [ 31 ] . 한편 2019년에 이들 동아시아의 전통의학(중의학, 한의학, 한방의학 등)의 진단(변증) 개념이 처음 포함된 질병 및 관련 보건 문제의 국제 통계 분류 (ICD)를 세계 보건 기관 (WH) O)가 승인하고 2023년 현재 이미 ICD11 로서 실제로 보급되고 있는 등 미국에서의 특수한 인식을 제외하고 세계적으로 이들 동아시아 전통의학의 인지도가 높아지고 있는 것은 사실이다.
각주
주석
출처
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참고문헌
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관련 항목
외부 링크
- 「일본 한방」의 이야기 저자:야마노우치 신이치, 감수자:야마다 미츠 하리 동아의학 협회
- 한방 전문의 인정 기관 일본 동양 의학회 일반의 방향의 페이지
- 일반 사단 법인 일본 한방 보급 협회 일반 방향 페이지
- 오소토양, 「한방의 역사」 「일본의사학회 가나가와 지방회 소식」 2001년 10호 p.12-15 , 일본의사학회 가나가와 지방회
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Kampo
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| Kampo | |||
|---|---|---|---|
| Japanese name | |||
| Kanji | 漢方医学 | ||
| |||
| Chinese name | |||
|---|---|---|---|
| Traditional Chinese | 日本漢方醫學 | ||
| Simplified Chinese | 日本汉方医学 | ||
| Literal meaning | "Han [Chinese] medicine in Japan" | ||
| |||
| Part of a series on |
| Alternative medicine |
|---|
Kampo or Kanpō medicine (漢方医学, Kanpō igaku), often known simply as Kanpō (漢方; Chinese medicine), is the study of traditional medicine in Japan following its introduction, beginning in the 7th century.[1] It was adapted and modified to suit Japanese culture and traditions. Traditional Japanese medicine uses most of the Chinese methods, including acupuncture, moxibustion, traditional Chinese herbology, and traditional food therapy.


History
Origins
According to Chinese mythology, the origins of traditional Chinese medicine are traced back to the three legendary sovereigns Fuxi, Shennong and the Yellow Emperor. Shennong is believed to have tasted hundreds of herbs to ascertain their medicinal value and effects on the human body and help relieve people of their sufferings. The oldest written record focusing solely on the medicinal use of plants was the Shennong Ben Cao Jing which was compiled around the end of the first century B.C. and is said to have classified 365 species of herbs or medicinal plants.
Chinese medical practices were introduced to Japan during the 6th century A.D. In 608, Empress Suiko dispatched E-Nichi, Fuku-In and other young physicians to China. It is said that they studied medicine there for 15 years. Until 838, Japan sent 19 missions to Tang China. While the officials studied Chinese government structures, physicians and many of the Japanese monks absorbed Chinese medical knowledge.
Early Japanese adaptation
In 702 A.D., the Taihō Code was promulgated as an adaptation of the governmental system of China's Tang dynasty. One section called for the establishment of a university (daigaku) including a medical school with an elaborate training program, but due to incessant civil war this program never became effective. Empress Kōmyō (701–760) established the Hidenin and Seyakuin in the Kōfuku-Temple (Kōfuku-ji) in Nara, being two Buddhist institutions that provided free healthcare and medicine for the needy. For centuries to come Japanese Buddhist monks were essential in conveying Chinese medical know-how to Japan and in providing health care for both the elite and the general population.
In 753 A.D., the Chinese priest Jianzhen (in Japanese Ganjin), who was well-versed in medicine, arrived in Japan after five failed attempts in 12 years to cross the East China Sea. As he was blind, he used his sense of smell to identify herbs. He brought medical texts and a large collection of materia medica to the imperial palace in Nara, which he dedicated to the Emperor Shōmu in 756, 49 days after the emperor's death. They are kept in a log-cabin-style treasure house of the Tōdai-Temple (Tōdai-ji) known as Shōsōin.
In 787 A.D., the "Newly Revised Materia Medica" (Xinxiu Bencao, 659 A.D.), which had been sponsored by the Tang Imperial Court, became an obligatory text in the study of medicine at the Japanese Health Ministry, but many of the 844 medicinal substances described in this book were not available in Japan at the time. Around 918 A.D., a Japanese medical dictionary entitled "Japanese names of (Chinese) Materia Medica" (Honzō-wamyō) was compiled, quoting from 60 Chinese medical works.
During the Heian period, Tanba Yasuyori (912–995) compiled the first Japanese medical book, Ishinpō ("Prescriptions from the Heart of Medicine"), drawing from numerous Chinese texts, some of which have perished later.[2] During the period from 1200 to 1600, medicine in Japan became more practical. Most of the physicians were Buddhist monks who continued to use the formulas, theories and practices that had been introduced by the early envoys from Tang China.
Early revision
During the 15th and 16th centuries, Japanese physicians began to achieve a more independent view on Chinese medicine. After 12 years of studies in China Tashiro Sanki (1465–1537) became the leading figure of a movement called "Followers of Later Developments in Medicine" (Gosei-ha). This school propagated the teachings of Li Dongyuan and Zhu Tanxi that gradually superseded the older doctrines from the Song dynasty. Manase Dōsan, one of his disciples, adapted Tashiro's teachings to Japanese conditions. Based on his own observation and experience, he compiled a book on internal medicine in eight volumes (Keiteki-shū) and established an influential private medical school (Keiteki-in) in Kyōto. His son Gensaku wrote a book of case studies (Igaku tenshō-ki) and developed a considerable number of new herb formulas.
From the second half of the 17th century, a new movement, the "Followers of Classic Methods" (Kohō-ha), evolved, which emphasized the teachings and formulas of the Chinese classic "Treatise on Cold Damage Disorders" (Shanghan Lun, in Japanese Shōkan-ron). While the etiological concepts of this school were as speculative as those of the Gosei-ha, the therapeutic approaches were based on empirical observations and practical experience. This return to "classic methods" was initiated by Nagoya Gen'i (1628–1696), and advocated by influential proponents such as Gotō Gonzan (1659–1733), Yamawaki Tōyō (1705–1762), and Yoshimasu Tōdō (1702–1773). Yoshimasu is considered to be the most influential figure. He accepted any effective technique, regardless of its particular philosophical background. Yoshimasu's abdominal diagnostics are commonly credited with differentiating early modern traditional Japanese medicine from traditional Chinese medicine (TCM).
During the later part of the Edo period, many Japanese practitioners began to utilize elements of both schools. Some, such as Ogino Gengai (1737–1806), Ishizaka Sōtetsu (1770–1841), or Honma Sōken (1804–1872), even tried to incorporate Western concepts and therapies, which had made their way into the country through physicians at the Dutch trading-post Dejima (Nagasaki). Although Western medicine gained some ground in the field of surgery, there was not much competition between "Eastern" and "Western" schools until the 19th century, because even adherents of "Dutch-Studies" (Rangaku) were very eclectic in their actual practice.
Traditional medicine never lost its popularity throughout the Edo period, but it entered a period of rapid decline shortly after the Meiji Restoration. In 1871, the new government decided to modernize medical education based on the German medical system. Starting in 1875, new medical examinations focused on natural sciences and Western medical disciplines. In October 1883, a law retracted the licenses of any existing traditional practitioner. Despite losing legal standing, a small number of traditional physicians continued to practice privately. Some of them, such as Yamada Gyōkō (1808–1881), Asada Sōhaku (1813–1894), and Mori Risshi (1807–1885), organized an "Association to Preserve [Traditional] Knowledge" (Onchi-sha) and started to set up small hospitals. However, by 1887, the organization was disbanded due to internal policy dissent and the death of leading figures. The "Imperial Medical Association" (Teikoku Ikai), founded in 1894, was short-lived too. In 1895, the 8th National Assembly of the Diet vetoed a request to continue the practice of Kampō. When Azai Kokkan (1848–1903), one of the main activists, died, the Kampō movement was almost stamped out.
Era of Western influence
Any further attempt to save traditional practices had to take into account Western concepts and therapies. Therefore, it was graduates from medical faculties, trained in Western medicine, who began to set out to revive traditional practices. In 1910, Wada Keijūrō (1872–1916) published "The Iron Hammer of the Medical World" (Ikai no tettsui). Yumoto Kyūshin (1876–1942), a graduate from Kanazawa Medical School, was so impressed by this book that he became a student of Dr. Wada. His "Japanese-Chinese Medicine" (Kōkan igaku), published in 1927, was the first book on Kampō medicine in which Western medical findings were used to interpret classical Chinese texts. In 1927, Nakayama Tadanao (1895–1957) presented his "New Research on Kampō-Medicine" (Kampō-igaku no shin kenkyū). Another "convert" was Ōtsuka Keisetsu (1900–1980), who became one of the most famous Kampō practitioners of the 20th century.
This gradual revival was supported by the modernization of the dosage form of herbal medicine. During the 1920s, the Nagakura Pharmaceutical Company in Osaka began developing dried decoctions in a granular form. At about the same time, Tsumura Juntendō, a company founded by Tsumura Jūsha (1871–1941) in 1893, established a research institute to promote the development of standardized Kampō medicine. Gradually, these "Japanese-Chinese remedies" (wakan-yaku) became a standard method of Kampō medicine administration.
In 1937, new researchers such as Yakazu Dōmei (1905–2002) started to promote Kampō at the so-called "Takushoku University Kampo Seminar". More than 700 people attended these seminars that continued after the war. In 1938, following a proposal of Yakazu, the "Asia Medicine Association" was established. In 1941, Takeyama Shinichirō published his "Theories on the Restoration of Kampō Medicine" (Kampō-ijutsu fukkō no riron, 1941). In that same year, Yakazu, Ōtsuka, Kimura Nagahisa, and Shimizu Fujitarō (1886–1976) completed a book entitled "The Actual Practice of Kampō Medicine" (Kampō shinryō no jissai). By including Western medical disease names he greatly expanded the usage of Kampō formulas. A new version of this influential manual was printed in 1954. This book was also translated into Chinese. A completely revised version was published in 1969 under the title "Medical Dictionary of Kampō Practice" (Kampō Shinryō Iten).[3]
In 1950, Ōtsuka Keisetsu, Yakazu Dōmei, Hosono Shirō (1899–1989), Okuda Kenzō (1884–1961), and other leaders of the pre- and postwar Kampō revival movement established the "Japan Society for Oriental Medicine" (Nippon Tōyō Igakkai) with 89 members (2014: more than 9000 members). In 1960, raw materials for crude drugs listed in the Japanese Pharmacopoeia (Nippon Yakkyoku-hō) received official drug prices under the National Health Insurance (NHI, Kokumin kenkō hoken).
Approved Kampō medicines
Today in Japan, Kampō is integrated into the Japanese national health care system. In 1967, the Ministry of Health, Labour and Welfare approved four Kampō medicines for reimbursement under the National Health Insurance (NHI) program. In 1976, 82 Kampō medicines were approved by the Ministry of Health, Labour and Welfare. This number has increased to 148 Kampō formulation extracts, 241 crude drugs, and 5 crude drug preparations.[4]
Rather than modifying formulae as in traditional Chinese medicine, the Japanese Kampō tradition uses fixed combinations of herbs in standardized proportions according to the classical literature of Chinese medicine. Kampō medicines are produced by various manufacturers. However, each medicine is composed of exactly the same ingredients under the Ministry's standardization methodology. The medicines are therefore prepared under strict manufacturing conditions that rival pharmaceutical companies. In October 2000, a nationwide study reported that 72% of registered physicians prescribe Kampō medicines.[5] New Kampō medicines are being evaluated using modern techniques to evaluate their mechanism of action [citation needed].
Herbs
The 14th edition of the Japanese Pharmacopoeia (JP, Nihon yakkyokuhō) lists 165 herbal ingredients that are used in Kampō medicines.[6] Lots of the Kampō products are routinely tested for heavy metals, purity, and microbial content to eliminate any contamination. Kampō medicines are tested for the levels of key chemical constituents as markers for quality control on every formula. This is carried out from the blending of the raw herbs to the end product according to the ministry's pharmaceutical standards.
Medicinal mushrooms like reishi and shiitake are herbal products with a long history of use. In Japan, the Agaricus blazei mushroom is a highly popular herb, which is used by close to 500,000 people.[7] In Japan, Agaricus blazei is also the most popular herb used by cancer patients.[8] The second most used herb is an isolate from the shiitake mushroom, known as active hexose correlated compound.
Outside Japan
In the United States, Kampō is practiced mostly by acupuncturists, Chinese medicine practitioners, naturopath physicians, and other alternative medicine professionals. Kampō herbal formulae are studied under clinical trials, such as the clinical study of Honso Sho-saiko-to (H09) for treatment of hepatitis C at the New York Memorial Sloan-Kettering Cancer Center,[9] and liver cirrhosis caused by hepatitis C at the UCSD Liver Center.[10] Both clinical trials are sponsored by Honso USA, Inc., a branch of Honso Pharmaceutical Co., Ltd., Nagoya, Japan.
Gallery
See also
- Chinese classic herbal formula
- Doumei Yakazu
- List of branches of alternative medicine
- Jintan (Japanese medicine)
- Jin Shin Do
- Johrei
- Kappo
- Macrobiotic diet
References
- Dharmananda, Subhuti. "Kampo Medicine: The Practice of Chinese Herbal Medicine in Japan". Institute for Traditional Medicine. Retrieved December 12, 2010.
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External links
- International Society for Japanese Kampo Medicine (in English)
- Japan Society for Oriental Medicine (in English)
- "Current Kampo Medicine" (PDF). The Journal of Kampo, Acupuncture and Integrative Medicine (Special ed.). International Institute of Health and Human Services, Berkeley. November 2005. ISSN 1559-033X. Archived from the original (PDF) on 2016-03-03. Retrieved 2014-08-25.

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