加藤陽子
| 人物情報 | |
|---|---|
| 全名 | 野島 陽子 |
| 生誕 | 1960年10月(65歳) |
| 出身校 | 東京大学 |
| 配偶者 | 野島博之 |
| 学問 | |
| 研究分野 | 日本史、軍事史 |
| 研究機関 | 東京大学大学院人文社会系研究科 |
| 学位 | 博士(文学)(東京大学) 修士(文学)(東京大学) |
| 主要な作品 | 『それでも、日本人は「戦争」を選んだ』 |
| 学会 | 歴史学研究会 史学会 軍事史学会 日本歴史学会 |
| 主な受賞歴 | 小林秀雄賞 |
加藤 陽子(かとう ようこ、1960年 〈昭和35年〉10月 - )は、日本の歴史学者。専攻は日本近現代史[1]。学位は、博士(文学)[2]。本名は、野島陽子[2]。東京大学教授。歴史学研究会委員長。埼玉県大宮市(現・さいたま市)出身[2]。夫は予備校講師の野島博之。
2010年に著書『それでも、日本人は「戦争」を選んだ』で小林秀雄賞受賞[3]。
来歴
幼い頃は、当時の古代エジプトブームに影響され、考古学者になりたいと考えていた[4]。女子校の桜蔭中学校・高等学校で学び、部活動では社会科部に所属して、文化祭では「世界恐慌と一九三〇年代のアメリカ」をテーマにして発表を行ったという[4]。図書館の蔵書数が最も多いことから東大の受験を決め、本を読むことが大好きであったことと自立した人間になりたいという思いから、研究者あるいは作家になることを目指していた[5]。
大学に入学後は、第二外国語としてロシア語を選択して読んだロシア文学や、伊藤隆による教養課程向けの「戦争と知識人」をテーマとした講義に影響を受けている[4]。二年生の頃に日本近代史を専攻することを決意し、文学部の国史学研究室において、「右寄り」とも評された伊藤隆が指導教授となった[4]。伊藤隆の指導のもとで、はじめて学問的な面白さに目覚め、大学院時代の研究が『模索する一九三〇年代』の後半の日米開戦前の外交部分にあたる、と語っている[6]。
1989年3月に東大の博士課程を単位取得満期退学し、同年4月から山梨大学教育学部の専任講師となった[2]。この頃、駒場で最初に会った男性である野島博之と結婚した[6]。1992年から1993年には文部省在外研究員として米スタンフォード大学やライシャワー日本研究所に滞在する[2]。1993年には初の著書となる『模索する一九三〇年代』を山川出版社から出版し[4]、1994年には助教授として東大に移っている[2]。
1999年以降は山川出版社の教科書『詳説日本史』の執筆に携わり、このときに教科書執筆の困難を感じたことがきっかけとなり、栄光学園の中高生向け講義をまとめた『それでも、日本人は「戦争」を選んだ』を出版し、同作は2010年に小林秀雄賞を受賞している[4]。2017年には『戦争まで』で紀伊國屋じんぶん大賞を受賞している[2]。
このほか、小泉政権以降、政府の公文書管理に関わり、内閣府公文書管理委員会委員や「国立公文書館の機能・施設の在り方等に関する調査検討会議」の委員を歴任した[7]。上皇明仁も、天皇在位中は、歴史談義のために、保阪正康や半藤一利とともに加藤をしばしば招いていた[8]。2004年以降は、読売新聞において書評面の担当者の一人を務めている[2]。
2013年成立の特定秘密保護法には反対し[2]、また、2014年には立憲デモクラシーの会の呼びかけ人の一人となった[9]。
2020年には、日本学術会議の新会員候補に推薦されたが、他の5名の候補とともに、内閣総理大臣菅義偉によって任命を拒否された[2][10]。
略年譜
- 1979年 桜蔭高等学校卒業
- 1983年 東京大学文学部第二類国史学専修卒業
- 1989年 東京大学大学院人文科学研究科国史学専門課程博士課程単位取得満期退学、山梨大学教育学部専任講師
- 1991年 山梨大学教育学部助教授
- 1994年 東京大学文学部助教授
- 1995年 東京大学大学院人文社会系研究科助教授
- 1997年 「徴兵制と近代日本」で東京大学博士(文学)
- 2007年 東京大学大学院人文社会系研究科准教授
- 2009年 同教授
- 2016年5月 歴史学研究会研究部副部長(2017年5月まで)[11]
- 2017年5月 歴史学研究会研究部長(2018年5月まで)[11]
- 2020年 史学会理事[12]
- 2022年6月 歴史学研究会委員長[11]
業績・評価
研究
近代日本の軍事史および外交史を主要な専門分野としている[2]。秦郁彦は「『模索する一九三〇年代—日米関係と陸軍中堅層』、『徴兵制と近代日本』、『戦争の日本近現代史』などはいずれも力のこもった手堅い学術的著作で、「硬直したイデオロギーとは無縁」と言ってよい」と評している[13]。
90年代においては、軍部の研究をタブー視する伝統的な学界の風潮と、「新しい歴史教科書をつくる会」の動きの両極のなかにあって、加藤の戦争研究には困難な面があったという[4]。「右でも左でもなく居直りでも自虐でもない、国民の集合知を支え得るような歴史像を作り上げること」が目標であると語っている[5]。
東大での指導教授だった伊藤隆は、加藤の研究を高く評価しつつも、加藤が後に「新左翼」へと回帰したと述べている[14]。また、斉加尚代によると、伊藤は「彼女はぼくが指導した、とても優秀な学生だった。だけど、あれは本性を隠してたな」と語ったという[15]。
韓国においては、「安倍晋三の歴史認識と集団自衛論に反対する進歩的研究者」として知られているとされる。他方で、韓国史学会会長のキム・ドゥクジュンは、家永三郎と比較した上で、加藤の研究について、植民地の問題を十分に論じておらず、日本の侵略を正当化していると批判している[16]。
山川出版社『詳説日本史』
前述のとおり、加藤は1999年頃から山川出版社の教科書『詳説日本史』の執筆に関わっていたが、この教科書は加藤自身にとっては満足のいく出来ではなかった[4]。このときの経験をもとに、歴史研究の「凄み」を高校生に示したいという内容の「私が書きたい『理想の教科書』」という論考を2002年の『中央公論』に発表している[4]。この論考を読んだ編集者の声掛けをきっかけに、のちに『それでも、日本人は「戦争」を選んだ』が執筆されることとなった[4]。
この教科書『詳説日本史』については、昭和期の執筆者が伊藤隆から弟子の加藤陽子に交替したことで、大きな書き換えが行われたともいわれる[17][18]。南京事件に関する記述を、伊藤隆が「日本軍は非戦闘員をふくむ多数の中国人を殺害し」[注釈 1]と一行ですませていたのを、(見本本において) 加藤は分量を三倍近くふくらませ、「日本軍は南京市内で略奪・暴行をくり返したうえ、多数の中国人一般住民 (婦女子をふくむ) および捕虜を殺害した (南京事件)。犠牲者数については、数万人~四〇万人に及ぶ説がある」と書き直した[17][注釈 2][注釈 3]。これについて、上杉千年は「理科の教科書に〈月に兎がいるという説がある〉と書くに似ている」と非難し[21]、秦郁彦も加藤について「左翼歴史家のあかしともいうべき自虐的記述は、正誤にかかわらず死守する姿勢が読み取れる。つける薬はないというのが私の率直な見立てである」と非難している[22]。
2023年発行の「日本史探究」版以降は執筆陣から外れている。
『それでも、日本人は「戦争」を選んだ』
『それでも、日本人は「戦争」を選んだ』は、栄光学園中学校・高等学校の歴史研究部の生徒たちに行った講義をまとめた書籍である[23]。きっかけは、上記の高校教科書の執筆経験を踏まえ、中央公論に発表した文章「私が書きたい『理想の教科書』」の内容を、編集者の鈴木久仁子がぜひ実行するようにと説得したことにあった[4]。
日清戦争から太平洋戦争までの日本の戦争を取り扱っており[23]、「侵略・被侵略」という構図ではなく、他国からの観点や国際情勢、社会への影響といった大きな視点から戦争を論じる点に特徴がある[24]。また、日本切腹中国介錯論を述べた胡適や、太平洋戦争の前から戦争は不可能だと主張した軍人・水野広徳といった、一般にはあまり知られない人物も紹介している[23]。
沼野充義は、中高生向けだからといって叙述のレベルを下げることなく、最新の研究成果も用いつつ、読みやすく、かつ「歴史の流れを本当に決めるものは何か見抜こうとする姿勢」がある書籍となっていると評価している[24]。同書は、2009年9月時点で7刷8万部と売れ行き好調となっており[23]、政治家の片山虎之助も本書を読み「歴史を「新鮮なもの」にしてくれる書物」だと述べている[25]。また、同書は第9回小林秀雄賞を受賞している[4]。
本書の続編として『戦争まで』があり、同様の中高生向け講義をまとめたもので、太平洋戦争に至るまでの国際交渉を扱っている[26]。紀伊國屋じんぶん大賞を受賞した[2]。歴史学者の成田龍一は、指導者間の複雑な国際交渉を巧みに叙述している点を高く評価している[26]。他方で、成田は、加藤の著作が指導者レベルの問題のみに焦点を当てていることで、「国民」の問題を等閑視しており、結果として戦争教育と平和教育の分断を招く恐れがあると主張している[26]。
著書
単著
- 『模索する1930年代 - 日米関係と陸軍中堅層』(山川出版社) 1993年、のち新装版 2012年
- 『徴兵制と近代日本 - 1868-1945』(吉川弘文館) 1996年
- 『戦争の日本近現代史 - 東大式レッスン! 征韓論から太平洋戦争まで』(講談社現代新書) 2002年
- 『戦争の論理 - 日露戦争から太平洋戦争まで』(勁草書房) 2005年
- 『戦争を読む』(勁草書房) 2007年:書評集
- 『満州事変から日中戦争へ』(岩波新書、シリーズ日本近現代史5) 2007年
- 『それでも、日本人は「戦争」を選んだ』(橋本治解説、朝日出版社) 2009年、のち新潮文庫 2016年:第9回小林秀雄賞受賞
- 『NHK さかのぼり日本史(2) - 昭和 とめられなかった戦争』(NHK出版) 2011年、のち改題文庫化『とめられなかった戦争』(文春文庫) 2017年
- 『昭和天皇と戦争の世紀』(講談社、天皇の歴史8) 2011年、のち講談社学術文庫 2018年
- 『戦争まで 歴史を決めた交渉と日本の失敗』(朝日出版社) 2016年:第7回紀伊國屋じんぶん大賞受賞
- 『天皇と軍隊の近代史』(勁草書房、けいそうブックス) 2019年10月 ISBN 978-4326248506
- 『歴史の本棚』(毎日新聞出版) 2022年:書評集
- 『この国のかたちを見つめ直す』(毎日新聞社出版、2025年1月)
共著
- 『あの戦争になぜ負けたのか』(半藤一利, 保阪正康, 戸髙一成, 福田和也, 中西輝政、文春新書) 2006年
- 『戦争と日本人 - テロリズムの子どもたちへ』(佐高信、角川oneテーマ21) 2011年
- 『歴史からの伝言 - “いま”をつくった日本近代史の思想と行動』(佐藤優, 福田和也、扶桑社新書) 2012年
- 『昭和史裁判』(半藤一利、文藝春秋) 2011年、のち文春文庫 2014年 ISBN 978-4-16-790038-0
- 『戦後責任 - アジアのまなざしに応えて』(内海愛子, 大沼保昭, 田中宏、岩波書店) 2014年
- 『戦後とは何か(下) 政治学と歴史学の対話』((雨宮昭一, 鹿毛利枝子, 天川晃, 猪木武徳, 五百旗頭真、丸善出版) 2014年
- 『学問と政治 - 学術会議任命拒否問題とは何か』(芦名定道, 宇野重規, 岡田正則, 小沢隆一, 松宮孝明, 加藤陽子、岩波書店、岩波新書) 2022年4月 ISBN 978-4-00-431925-2
- 『この国の戦争 太平洋戦争をどう読むか』(奥泉光、河出書房新社、河出新書) 2022年6月
- 『別冊NHK100分de名著 フェミニズム』(加藤陽子, 鴻巣友季子, 上間陽子, 上野千鶴子、NHK出版) 2023年6月 ISBN 978-4144072970
- 『となりの史学』(加藤陽子・モリナガ・ヨウ、毎日新聞出版)、2025年5月
共編著
- 『日本史文献事典』(黒田日出男, 加藤友康, 保谷徹、弘文堂) 2003年
- 『詳説日本史B』(山川出版社) 2002年 - 2022年 ※文科省検定教科書
- 「近代の3人目の天皇として 昭和天皇の場合」(歴史学研究会、績文堂出版、『天皇はいかに受け継がれたか 天皇の身体と皇位継承』) 2019年2月 ISBN 978-4881161340
訳書
脚注
注釈
出典
- ^ 加藤陽子『それでも、日本人は「戦争」を選んだ』朝日出版社、2009年、著者紹介
- ^ a b c d e f g h i j k l 「加藤陽子」『読売人物データベース』読売新聞社(G-searchにて2020年11月14日に閲覧)。
- ^ “それでも、日本人は「戦争」を選んだ”. 新潮社. 2020年11月17日閲覧。
- ^ a b c d e f g h i j k l 考える人編集部 (2010年10月14日). “第九回小林秀雄賞 『それでも、日本人は「戦争」を選んだ』加藤陽子”. 考える人. 新潮社. 2020年11月14日閲覧。
- ^ a b “INTERVIEW / PROFESSOR 【東大2018⑤】集合知を支え得る歴史像を 加藤陽子教授に聞く歴史学の面白さ”. 東京大学新聞. 東京大学新聞社. 2020年11月17日閲覧。。東京大学新聞社編『東大2018 たたかう東大』東京大学出版会、2017年に収録。
- ^ a b Never Ending Profile. 日本史近代を楽しむ野島研究室のページ.2002年2月4日時点のアーカイブ.
- ^ “「前例ない決定、菅首相がなぜしたかが問題」学術会議任命外された加藤陽子氏コメント”. 毎日新聞 (2020年10月1日). 2020年11月14日閲覧。
- ^ “上皇ご夫妻、長引く外出自粛 交流減で健康心配の声も”. 日経新聞 (2020-10-00 エラー: 日付が正しく記入されていません。(説明)). 2020年11月14日閲覧。
- ^ “【6人の経歴】任命されない教授はどんな研究を 日本学術会議”. NHK政治マガジン. 日本放送協会 (2020年10月2日). 2020年11月14日閲覧。
- ^ “除外された加藤陽子氏「首相官邸、学問の自由軽んじた」”. 朝日新聞 (2020年10月2日). 2020年10月2日閲覧。
- ^ a b c 委員歴 加藤陽子(researchmap内)
- ^ 役員等 史学会公式サイト
- ^ 秦郁彦「欠陥だらけの山川教科書『詳細日本史』執筆者の正体」『現代史の対決』文藝春秋、2005年1月10日 第1刷、ISBN 4-16-359310-1、221頁 (初出は、秦郁彦「欠陥だらけ 山川『詳説日本史』執筆者の正体」『諸君!』第35巻第1号、文藝春秋、2003年1月、156~168頁。)
- ^ 伊藤隆・福井義高・江崎道朗「東京裁判史観 戦勝国の「戦争責任」を問え! (総力特集 「歴史の常識」はウソだらけ)」『歴史通』第46巻、ワック、2017年1月、74~87頁。
- ^ 斉加尚代『教育と愛国—誰が教室を窒息させるのか』岩波書店、2019年5月30日 第1刷発行、ISBN 978-4-00-061343-9、39頁。
- ^ キム・ドゥクジュン (2019年10月13日). “[寄稿]日本の“韓国蔑視”の根源”. ハンギョレ新聞. 2020年11月9日時点のオリジナルよりアーカイブ。2020年11月17日閲覧。
- ^ a b 秦郁彦『南京事件 「虐殺」の構造 増補版〈中公新書 795〉』中央公論新社、2007年7月25日増補版発行、ISBN 978-4-12-190795-0、298頁。
- ^ 高嶋伸欣「歴史観xメディア・ウォッチング㉟沖縄教科書検定で窮地の文科省と斬り込みがないマスコミ」『季刊 戦争責任研究 第60号 (2008年夏季号) 沖縄戦を考える』日本の戦争責任資料センター、2008年3月15日発行、ISSN 1343-7348、100頁。
- ^ a b 秦郁彦「歴史教科書ではなぜ被害者数がインフレになるのか」『昭和史20の争点: 日本人の常識』文藝春秋、2003年10月10日 第1刷、ISBN 4-16-365340-6、262頁 (初出は、秦郁彦「文京二中が発生源? 高校生を汚染する山川・実教の歴史教科書 (保存版特集 ここまではわかった! 俗説・通説を徹底検証して、何が事実かを確定する 昭和史 日本人の共有常識)」『諸君!』第35巻第7号、文藝春秋、2003年7月、240~255頁。)。
- ^ 秦 (2003)、263頁。
- ^ 秦 (2007)、299頁。上杉千年「実証主義を放棄した山川出版高校『詳説日本史』 — 外務省チャイナスクールの分校化した文部科学省の検定実態」『祖國と青年』第288号、日本青年協議会、2002年9月、40~51頁
- ^ 秦 (2003)、265頁。
- ^ a b c d 小柳学「(売れてる本)それでも、日本人は「戦争」を選んだ 加藤陽子著 司馬的世界」『朝日新聞』2020年9月20日付東京朝刊11頁。G-searchにて閲覧。
- ^ a b 沼野充義「今週の本棚:沼野充義・評 『それでも、日本人は「戦争」を選んだ』=加藤陽子・著」『毎日新聞』2020年8月16日付東京朝刊7頁。G-searchにて閲覧。
- ^ “蔵書拝見 片山虎之助氏/下 それでも、日本人は『戦争』を選んだ 歴史を「新鮮なもの」にしてくれる”. 毎日新聞 (2019年9月24日). 2020年11月14日閲覧。
- ^ a b c 成田龍一 (2016年9月25日). “戦争まで 加藤陽子著世界との交渉の経緯を再検討”. 日経新聞. 2020年11月14日閲覧。
関連項目
外部リンク
- 日本史近代を楽しむ野島研究室のページ
- 野島(加藤)陽子 - 東京大学
- 日清戦争研究の現在 - 東京大学講演
- 加藤陽子 - researchmap
- 加藤陽子 - KAKEN 科学研究費助成事業データベース
- 『加藤陽子』 - コトバンク
카토 요코
| 인물 정보 | |
|---|---|
| 모든 이름 | 노지마 요코 |
| 탄생 | 1960년 10월(65세) 일본 · 사이타마 현 오미야시 |
| 출신 학교 | 도쿄대학 |
| 배우자 | 노지마 히로유키 |
| 학문 | |
| 연구분야 | 일본사 , 군사사 |
| 연구기관 | 도쿄 대학 대학원 인문 사회계 연구과 |
| 학위 | 박사(문학) (도쿄대학) 석사(문학) (도쿄대학) |
| 주요 작품 | '그래도 일본인은 '전쟁'을 선택했다' |
| 학회 | 역사학연구회 사학회 군사 사학회 일본 역사학회 |
| 주요 수상 경력 | 고바야시 히데오 상 |
카토 요코 (카토 요코, 1960년 < 쇼와 35년> 10월 -)는 일본 의 역사학자 . 전공은 일본 근현대사 [ 1 ] . 학위 는 박사 (문학) [ 2 ] . 본명은 노지마 요코 [ 2 ] . 도쿄 대학 교수. 역사학 연구회 위원장. 사이타마현 오미야 시 (현· 사이타마시 ) 출신 [ 2 ] . 남편은 예비교 강사의 노지마 히로유키 .
2010년 저서 '그래도 일본인은 '전쟁'을 택했다'에서 고바야시 히데오상 수상 [ 3 ] .
내력
어렸을 때는 당시의 고대 이집트 붐에 영향을 받고 고고학자 가 되고 싶다고 생각하고 있었다 [ 4 ] . 여자 학교의 벚꽃 중학교·고등학교 에서 배우고, 부활동에서는 사회과부에 소속해, 문화제에서는 「세계 공황과 1930년대의 미국」을 테마로 해 발표를 실시했다고 한다 [ 4 ] . 도서관의 장서수가 가장 많기 때문에 동대의 수험을 결정하고, 책을 읽는 것을 좋아했던 것과 자립한 인간이 되고 싶다는 생각으로부터, 연구자 혹은 작가가 되는 것을 목표로 하고 있었다 [ 5 ] .
대학에 입학한 후에는 제2 외국어로 러시아어 를 선택하여 읽은 러시아 문학 과 이토 타카시 에 의한 교양과정을 위한 '전쟁과 지식인'을 주제로 한 강의에 영향을 받고 있다 . 2학년 때 일본 근대사를 전공하기로 결심하여 문학부의 국사학연구실에서 '오른쪽'이라고도 평가받은 이토 다카시가 지도 교수가 되었다 [ 4 ] . 이토 다카시의 지도하에 처음으로 학문적인 재미에 눈을 뜨고 대학원 시대의 연구가 『모색하는 1930년대』의 후반의 일미 개전 전의 외교 부분에 해당한다고 말했다 [ 6 ] .
1989년 3월에 동대의 박사과정을 단위취득 만기퇴학 하여 같은 해 4월부터 야마나시대학교육학부의 전임강사가 되었다 [ 2 ] . 이 무렵, 고마바에서 처음 만난 남성인 노지마 히로유키 와 결혼했다 [ 6 ] . 1992년부터 1993년에는 문부성 재외연구원으로서 미국 스탠포드대학이나 라이샤워 일본연구소 에 체재한다 [ 2 ] . 1993년에는 최초의 저서가 되는 「모색하는 1930년대」를 야마가와 출판사 로부터 출판해 [ 4 ] , 1994년에는 조교수로서 동대에 옮겨지고 있다 [ 2 ] .
1999년 이후는 야마가와 출판사의 교과서『상설 일본사』의 집필에 종사해, 이 때에 교과서 집필의 곤란을 느낀 것이 계기가 되어, 영광학원 의 중고생을 위한 강의를 정리한『그래도, 일본인은 「전쟁」을 선택했다』를 출판해 , 동작은 2010 년 에 수상 수 2017년에는 『전쟁까지』에서 기이쿠니야 진분대상 을 수상하고 있다 [ 2 ] .
이 밖에 고이즈미 정권 이후 정부의 공문서 관리에 관여하여 내각부 공문서관리위원회 위원이나 “ 국립공문서관 의 기능·시설이 있는 곳 등에 관한 조사검토회의”의 위원을 역임했다 [ 7 ] . 카미오 아키히토 도 천황 재위 중에는 역사 담의를 위해 호사카 마사야 스와 반토 이치리 와 함께 가토를 자주 초대하고 있었다 [ 8 ] . 2004년 이후에는 요미우리신문에서 서평 면 담당자 중 한 명 을 맡고 있다 .
2013년 성립의 특정 비밀보호법 에 반대하고 [ 2 ] , 또 2014년에는 입헌 데모 클래시회의 호소인 중 한 명이 되었다 [ 9 ] .
2020년에는 일본학술회 의의 신회원 후보에 추천되었지만, 다른 5명의 후보와 함께 내각총리 대신 스가 요시히데 에 의해 임명을 거부되었다 [ 2 ] [ 10 ] .
약년보
- 1979년 벚꽃 담고등학교 졸업
- 1983년 도쿄대학 문학부 제2류 국사학 전수 졸업
- 1989년 도쿄대학대학원 인문과학연구과 국사학전문과정 박사 과정단위 취득 만기퇴학, 야마나시대학 교육학부 전임강사
- 1991년 야마나시대학교육학부 조교수
- 1994년 도쿄대학 문학부 조교수
- 1995년 도쿄대학 대학원 인문사회계 연구과 조교수
- 1997년 「징병제와 근대 일본」에서 도쿄대학 박사(문학)
- 2007년 도쿄대학 대학원 인문 사회계 연구과 준 교수
- 2009년 동 교수
- 2016년 5월 역사학연구회 연구부 부부장(2017년 5월까지) [ 11 ]
- 2017년 5월 역사학연구회 연구부장(2018년 5월까지) [ 11 ]
- 2020년 사학회 이사 [ 12 ]
- 2022년 6월 역사학연구회 위원장 [ 11 ]
성과·평가
연구
근대 일본의 군사사 및 외교사를 주요 전문 분야로 하고 있다 [ 2 ] . 진진히코 는 “『모색하는 1930년대—일·미 관계와 육군 중견층』, ‘징병제와 근대 일본’, ‘전쟁의 일본 근현대사’ 등은 모두 힘든 견고한 학술적 저작으로 ‘경직한 이데올로기와는 무연 ’ 이라고 말했다 .
90년대에 있어서는, 군부의 연구를 금기시하는 전통적인 학계의 풍조와, 「새로운 역사 교과서를 만드는 회」의 움직임의 양극 속에 있어서, 카토의 전쟁 연구에는 어려운 면이 있었다고 한다 [ 4 ] . "오른쪽도 왼쪽도 아니고 정직도 자학도 아닌 국민의 집합지를 지지할 수 있는 역사상을 만들어내는 것"이 목표라고 말하고 있다 [ 5 ] .
동대에서의 지도 교수였던 이토 타카시 는, 카토의 연구를 높이 평가하면서도, 카토가 나중에 「신좌익」으로 회귀했다고 말하고 있다 [ 14 ] . 또한 사이가상대 에 따르면 이토는 " 그녀는 내가 지도한 매우 우수한 학생이었다. 하지만 저것은 본성을 숨겼다"고 말했다고 한다 .
한국에서는 '아베 신조의 역사인식과 집단자위론에 반대하는 진보적 연구자'로 알려져 있다고 한다. 반면 한국사학회 회장 김덕준은 이에 나가 사부로 와 비교한 가토의 연구에 대해 식민지 문제를 충분히 논하지 않고 일본 침략을 정당화하고 있다고 비판하고 있다 [ 16 ] .
야마가와 출판사 「상설 일본사」
전술한 바와 같이, 카토는 1999년경부터 야마가와 출판사의 교과서 『상설 일본사』의 집필에 관여하고 있었지만, 이 교과서는 카토 자신에게 있어서는 만족할 수 없었다 [ 4 ] . 이 때의 경험을 바탕으로 역사연구의 '굉장함'을 고교생에게 보여주고 싶다는 내용의 '내가 쓰고 싶은 '이상의 교과서'라는 논고를 2002년 '중앙공론'에 발표하고 있다 [ 4 ] . 이 논고를 읽은 편집자의 말을 계기로, 이후 '그래도 일본인은 '전쟁'을 선택했다'가 집필되게 되었다 [ 4 ] .
이 교과서 「상설 일본사」에 대해서는, 쇼와기의 집필자가 이토 타카시로부터 제자의 카토 요코로 교체한 것으로, 큰 재기록이 행해졌다고도 말해진다 [ 17 ] [ 18 ] . 난징 사건 에 관한 기술을, 이토 다카시 가 「일본군은 비전투원을 포함하는 다수의 중국인을 살해하고」[ 주석 1 ] 과 일행입니다 하고 있었던 것을, (견본본에 있어서) 그리고 포로 를 살해 했다 ( 난징 사건 ) . 이에 대해, 우에스기 천년 은 “ 이과 의 교과서에 < 달에 토끼가 있다는 설이 있다>라고 쓰는 것과 비슷하다”고 비난하고 [ 21 ] , 진이쿠히코도 카토에 대해 “ 좌익 역사가 의 아카시라고도 할 자학적 기술은, 정오에 관계없이 사수하는 자세를 읽을 수 있다 .
2023년 발행의 「일본사 탐구」판 이후는 집필진에서 벗어나 있다.
'그래도 일본인은 '전쟁'을 선택했다'
'그래도 일본인은 '전쟁'을 택했다'는 영광학원 중학교·고등학교 의 역사연구부 학생들에게 간 강의를 정리한 서적이다 [ 23 ] . 계기는, 상기의 고교 교과서의 집필 경험을 근거로, 중앙 공론에 발표한 문장 「내가 쓰고 싶은 「이상의 교과서」」의 내용을, 편집자의 스즈키 히사코가 꼭 실행하도록(듯이) 설득한 것에 있었다 [ 4 ] .
닛신전쟁 에서 태평양전쟁 까지 일본의 전쟁을 다루고 있으며 [ 23 ] '침략·피침략'이라는 구도가 아니라 타국으로부터의 관점이나 국제정세, 사회에의 영향 등 큰 시점에서 전쟁을 논하는 점에 특징이 있다 [ 24 ] . 또 일본 절복 중국 개착론을 말한 후 적과 태평양 전쟁 전부터 전쟁은 불가능하다고 주장한 군인· 미즈노 히로토쿠 등, 일반적으로는 별로 알려지지 않은 인물도 소개하고 있다 [ 23 ] .
누마노 미츠요리는 중고생을 위해서라서 서술의 수준을 낮추지 않고 최신의 연구 성과도 이용하면서, 읽기 쉽고, 또한 「역사의 흐름을 정말로 결정하는 것은 무엇인가 간과하려는 자세」가 있는 서적이 되고 있다고 평가하고 있다 [ 24 ] . 이 책은 2009년 9월 시점에서 7쇄 8만부로 팔려 호조가 되고 있으며 , 정치인 카타야마 토모 노스케 도 이 책을 읽고 '역사 를 '신선한 것'으로 해 주는 책'이라고 말하고 있다 [ 25 ] . 또, 이 책은 제9회 고바야시 히데오상 을 수상하고 있다 [ 4 ] .
본서의 속편으로서 『전쟁까지』가 있어, 같은 중고생을 위한 강의를 정리한 것으로, 태평양 전쟁에 이르기까지의 국제교섭을 다루고 있다 [ 26 ] . 기이 쿠니 야 진분 대상 을 수상했다 [ 2 ] . 역사학자인 나리타 류이치 는 지도자 간의 복잡한 국제협상을 능숙하게 서술하고 있는 점을 높이 평가하고 있다 [ 26 ] . 한편, 나리타는 카토의 저작이 지도자 수준의 문제에만 초점을 맞추고 있는 것으로, 「국민」의 문제를 등반시하고 있어 결과적으로 전쟁 교육과 평화 교육 의 분단을 초래할 우려가 있다고 주장하고 있다 [ 26 ] .
저서
단독
- 『모색하는 1930년대 - 미일관계와 육군 중견층』( 야마가와 출판사 ) 1993년, 이후 신장판 2012년
- 『징병제와 근대 일본 - 1868-1945』( 요시카와 히로후미칸 ) 1996년
- 『전쟁의 일본 근현대사 - 동대식 레슨! 정한론 에서 태평양 전쟁까지』( 고단샤 현대 신서 ) 2002년
- 『전쟁의 논리 - 러일전쟁부터 태평양전쟁까지』( 공초서방 ) 2005년
- 「전쟁을 읽는다」(고쿠사 서방) 2007년:서평집
- 「만주 사변에서 일중 전쟁에」( 이와나미 신서 , 시리즈 일본 근현대사 5) 2007년
- 「그래도, 일본인은 「전쟁」을 선택했다」( 하시모토 치리 해설, 아사히 출판사 ) 2009년, 이후 신시오 문고 2016년: 제9회 고바야시 히데오상 수상
- 『NHK 거슬러 올라가 일본사 (2) - 쇼와 멈추지 못한 전쟁』( NHK 출판 ) 2011년, 이후 개제 문고 화
- 「쇼와 천황과 전쟁의 세기」( 코단샤 , 천황의 역사 8) 2011년, 나중에 코단샤 학술 문고 2018년
- 『전쟁까지 역사를 결정한 협상과 일본의 실패』(아사히 출판사) 2016년:제7회 기이쿠니야 진분 대상 수상
- 『천황과 군대의 근대사』(공초 서방, 케이소 북스) 2019년 10월 ISBN 978-4326248506
- 『역사의 책장』( 매일 신문 출판 ) 2022년:서평집
- 『이 나라의 형태를 재검토한다』(매일 신문사 출판, 2025년 1월)
공저
- 『그 전쟁에 왜 졌는지』( 반도 이치리 , 호사카 마사야스 , 토카 카즈나리 , 후쿠다 카즈야 , 나카니시 테루마사 , 분춘 신서 ) 2006년
- 『전쟁과 일본인- 테러리즘 의 아이들에게』( 사고신 , 카도카와 one 테마 21 ) 2011년
- 『역사로부터의 전언 - “지금”을 만든 일본 근대사의 사상과 행동”( 사토 유 , 후쿠다 카즈야, 후소샤 신서 ) 2012년
- 『쇼와사 재판』(반도 이치리 , 문예 춘추 )
- 『전후 책임 - 아시아의 눈빛에 응해』( 내해 아이코 , 오누마 호쇼 , 다나카 히로시 , 이와나미 서점) 2014년
- 『전후란 무엇 인가 (아래) 정치학과 역사학의 대화』(( 아미야 아키라 , 카모리 사다코 , 아마가와 아키라, 이노키 타케 토쿠 , 오백기 마사토루 , 마루젠 출판 ) 2014년
- 「학문과 정치 - 학술회의 임명 거부 문제란 무엇인가」( 아시나 정도 , 우노 시게노리, 오카다 마사노리 , 오자와 타카이치 , 마츠미야 타카아키 , 가토 요코, 이와나미 서점, 이와나미 신서) 2022년 4월 ISBN 978-4-00-431925
- 『이 나라의 전쟁 태평양 전쟁 을 어떻게 읽는가 』
- 『별책 NHK 100분 de 명저 페미니즘』(카토 요코, 코스미 토모코 , 카미 마 요코, 우에노 치즈코 , NHK 출판) 2023년 6월 ISBN 978-4144072970
- 「이웃집 사학」(카토 요코· 모리나가·요우 , 매일 신문 출판), 2025년 5월
공편 저
- 『일본사 문헌사전』( 쿠로다 히데오 , 카토 토모야스 , 호야 토오루 , 히로후미 도) 2003년
- 「상설 일본사 B」( 야마가와 출판사 ) 2002년 - 2022년 ※ 문과 성 검정 교과서
- 「근대의 3명째의 천황으로서 쇼와 천황의 경우」( 역사학 연구회 , 히로모도 출판, 「천황은 어떻게 계승되었는가 천황의 신체와 황위 계승」) 2019년 2월 ISBN 978-4881161340
번역
각주
주석
- ^ 보다 정확하게는 "이 때 일본군은 비전투원을 포함하는 다수의 중국인을 살해하고, 패전 후, 도쿄 재판 에서 큰 문제가 되었다(난징 사건)" [ 19 ]
- ^ 보다 정확하게는 「, 일본군은 난징 에서 약탈·폭행을 되풀이한 데다, 다수의 중국인 일반 주민(부녀를 붓는다) 및 포로를 살해했다 (난징 사건). . . 」[ 19 ]
점령에서 한 달 남짓 시내 희생자 수에 대해서는 수만명 ~ 40만명에 이르는 설이 있다 또한 외무성은 점령 직후부터 난징의 참상을 전했다. - ^ 정오 정정에 의해 ①「난징 함락의 전후」 ②「시내외」③전면 삭제 ④「난징의 상황은 외무성 루트를 통해서 빨리부터 육군 중앙부에도 전해지고 있었다」라고 바뀌었다 [ 20 ] .
출처
- ↑ 카토 요코 『그래도 일본인은 ‘전쟁’을 택했다’ 아사히 출판사, 2009년 저자 소개
- ^ a b c d e f g h i j k l 「가토 요코」 「요미우리 인물 데이터베이스」 요미우리 신문사(G-search에서 2020년 11월 14일에 열람).
- ↑ “ 그래도 일본인은 '전쟁'을 택했다 ”. 신쵸샤. 2020년 11월 17일 열람.
- ^ a b c d e f g h i j k l 생각하는 사람 편집부 (2010년 10월 14일). “ 제9회 고바야시 히데오상 '그래도 일본인은 '전쟁'을 선택했다'가토 요코 ”. 생각하는 사람 . 신쵸샤 .
- ^ a b “ INTERVIEW / PROFESSOR 【동대 2018⑤】 집합지를 뒷받침할 수 있는 역사상을 카토 요코 교수에게 듣는 역사학의 재미 ”. 도쿄 대학 신문 . 도쿄 대학 신문사. 2020년 11월 17일 열람. . 도쿄대학 신문사편 「도오이 2018 타타카우 토다이」도쿄대학 출판회 , 2017년에 수록.
- ↑ a b Never Ending Profile. 일본사 근대를 즐기는 노지마 연구실의 페이지 .2002년 2월 4일 시점의 아카이브.
- ^ “ “전례 없는 결정, 칸 총리가 왜 했는지가 문제” 학술 회의 임명외된 가토 요코씨 코멘트 ”. 매일 신문 (2020년 10월 1일). 2020년 11월 14일 열람.
- ^ “ 상황 부부, 길어지는 외출 자숙 교류 감소로 건강 걱정 의 목소리 도 .
- ^ “ 【6명의 경력】임명되지 않는 교수는 어떤 연구를 일본 학술회의 ”. NHK 정치 매거진 . 일본 방송 협회 (2020년 10월 2일). 2020년 11월 14일 열람.
- ^ “ 제외된 가토 요코씨 “총리 관저, 학문의 자유 가벼운” ”. 아사히 신문(2020년 10월 2일). 2020년 10월 2일 열람.
- ↑ a b c 위원 경력 가토 요코 (researchmap 내)
- ↑ 임원 등 사학회 공식 사이트
- ^ 진 이쿠히코 「결함 투성이의 야마가와 교과서 「상세 일본사」집필자의 정체」 「현대사의 대결」문예춘추 , 2005년 1월 10일 제1쇄, ISBN 4-16-359310-1 , 221페이지 야마가와 「상설 일본사」집필자의 정체」 「제군!」 제35권 제1호, 문예춘추 , 2003년 1월, 156~168쪽.
- ^ 이토 다카시·후쿠이 요시타카·에 자키 미치로 “도쿄 재판 사관 전승국의 “전쟁 책임”을 묻다 !
- ^ 사이가상대『교육과 애국—누가 교실을 질식시키는가』이와나미 서점 , 2019년 5월 30일 제1쇄 발행, ISBN 978-4-00-061343-9 , 39쪽.
- ^ 김덕준 (2019년 10월 13일). “ [기고] 일본의 “한국시”의 근원 ”. 한겨레 신문 . 2020년 11월 9일 시점의 오리지널 보다 아카이브. 2020년 11월 17일에 확인함.
- ↑秦郁彦『난징 사건 학살』의 구조 증보판〈중공 신서 795〉』중앙 공론 신사, 2007년 7월 25일 증보판 발행, ISBN 978-4-12-190795-0 , 298페이지.
- ^ 타카시마 신기「역사관x미디어・워칭㉟오키나와 교과서 검정으로 궁지의 문과성과 베어 없는 언론」 1343-7348, 100 페이지.
- ↑秦郁彦 「역사 교과서에서는 왜 피해자수가 인플레이션이 되는가 」 (초출은, 진 이쿠히코 「분쿄 니나카가 발생원? 고교생을 오염하는 야마가와·실교의 역사 교과서 (보존판 특집 여기까지는 알았다! 일본인의 공유 상식)」 「제군!」 제35권 제7호, 문예춘추, 2003년 7월, 240~255페이지.
- ^ 진 (2003), 263 페이지.
- ^ 진 (2007), 299 페이지. 우에스기 천년 “실증주의를 포기한 야마가와 출판 고교 “상설 일본사” — 외무성 차이나 스쿨의 분교화한 문부 과학성의 검정 실태” “ 조국과 청년 ” 제288호, 일본 청년 협의회 , 2002년 9월, 40~51페이지
- ^ 진 (2003), 265 페이지.
- ^ a b c d 코야나기학 “(팔리고 있는 책) 그래도, 일본인은 “전쟁”을 선택했다 카토 요코 저 사마적 세계” “아사히 신문” 2020년 9월 20일자 도쿄 조간 11페이지. G-search에서 열람.
- ^ a b 누마노 미츠요시「이번 주의 책장:누마노 미츠요리・평 『그래도, 일본인은 「전쟁」을 선택했다』=카토 요코・저」「매일 신문」2020년 8월 16일자 도쿄 조간 7페이지. G-search에서 열람.
- ^ “ 장서배견 가타야마 토모노스케씨/아래 그래도 일본인은 '전쟁'을 선택한 역사를 '신선한 것'으로 해준다 . 매일 신문 (2019년 9월 24일). 2020년 11월 14일 열람.
- ^ a b c 나리타 류이치 (2016년 9월 25일). “ 전쟁까지 가토 요코의 세계와의 협상 경위를 재검토 ”. 닛케이 신문 . 2020년 11월 14일 열람.
관련 항목
외부 링크
- 일본사 근대를 즐기는 노지마 연구실의 페이지
- 노지마(카토) 요코 - 도쿄대학
- 닛신 전쟁 연구의 현재 - 도쿄 대학 강연
- 카토 요코 - researchmap
- 카토 요코 - KAKEN 과학 연구비 조성 사업 데이터베이스
- 『카토 요코』 - 코트뱅크
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