2025-12-24

梅原猛 | Takeshi Umehara

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梅原猛
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梅原猛


出身地
日本・宮城県

生没年
1925年3月20日 - 2019年1月12日

分野
西洋哲学・哲学史、宗教哲学

宗教学、形而上学、存在論世界観、倫理学、日本仏教神道・古神道自然崇拝・アニミズム歴史、文明、詩、心理学梅原猛は日本の哲学者である。また、ものつくり大学総長、京都市立芸術大学名誉教授、国際日本文化研究センター名誉教授である。該博な知識と様々な書物を結びつける独創的な視点、学会の意見に左右されない大胆な仮説をもって「梅原日本学」と呼ばれる体系を築き上げた。


略伝

父は梅原半二。母は石川千代。宮城県仙台市で両親の結婚を両家が認めなかったため、私生児として誕生する。乳児期に乳母を亡くしており、生後1年9か月のころに、愛知県知多半島の名士であった叔母夫婦に引き取られて養子となった。

私立東海中学校には、南知多町(当時は内海町)の実家から2時間半をかけて通学した。1942年、広島高等師範学校に入学するが2か月で退学、翌年第八高等学校文科に入学する。理科系の父に似て数学が得意であったため、父や周囲から文科進学に反対されたのを押し切っての進学であった。

第八高等学校1年次に在学中の1943年10月、文科系学生への徴兵猶予が停止され、学徒出陣が開始された。徴兵猶予の対象となるために理科系へ転向したり、陸軍経理学校へ入って主計将校となる道を目指す級友がいる中、梅原は「いっそ早く死んだ方が良い」という思いから、特攻隊員養成機関といわれていた甲種幹部候補生へ志願した。筆記試験は満点近くの点数を取ったが、口頭試問で「日本の戦闘機の名前を挙げよ」と言われた際に、「隼」としか答えられず、試験官から「もっとあるだろう」「子供でも5機くらい知っている。非国民だ」と叱責され、不合格になったという。

1944年の夏から、名古屋の三菱重工の工場へ動員され、勤労奉仕を行った。同年の年末、工場に対して、アメリカ軍による空襲が行われたが、防空壕へ逃げ込んで助かっている。ただし、同じ工場へ動員されていた他の学生は爆弾が命中して多数亡くなっている。このような空襲による焼夷弾で死者が続出する状況で、梅原は「この戦争は負けるに違いない」「自分がこの戦争で死ぬのはほぼ確実だ」と考え、哲学書や宗教書を読み漁り、「死の理由」を探すようになっていた。

西田幾多郎・田辺元ら京都学派の哲学に関心を抱き、大学進学に際しては、東京帝国大学倫理学科の和辻哲郎(東大赴任前は京都大哲学科の西田の下で助教授であった)の下で学ぶか、あるいは京都学派の影響が残る京都帝国大学哲学科で学ぶかの選択に迷った。そして結局、1945年、京都帝国大学文学部哲学科に入学。その年、田辺は退官しており、西田もすでに1928年に京都帝国大を退職していたが、梅原は京都帝国大哲学科には西田の影響が存在すると考え、京大への進学を選択した。父親は哲学科への進学を歓迎しなかったが、梅原の熱意が強いため許可した。

1945年4月、京都帝国大学文学部哲学科へ入学したが、その直後に徴兵され、大日本帝国陸軍へ二等兵として入営した。最初は愛知県名古屋市の部隊に配属されたが、その後、岐阜県恵那市、兵庫県姫路市と配属先が変更された後、1945年7月から熊本県宇城市の大日本帝国陸軍第216師団野砲兵第216連隊(九州防衛隊)に配属された状態で、1945年8月15日の終戦を迎えた。

1945年9月に大学に復学した。復学後は、実父のところに戻り、父が務めていたトヨタ自動車に近い愛知県岡崎市矢作町や定光寺などにも居住した。

1948年、大学を卒業する。京都大学大学院に進学し、山内得立、田中美知太郎に指導を受けた。マルティン・ハイデッガー哲学に惹かれつつもギリシア哲学を専攻したが、2度にわたって田中と対立した。最初の論文「闇のパトス」(1951年)は哲学論文の体裁をとっておらずはなはだ不評であったものの、後に著作集第1巻の表題となる。20代後半、強い虚無感に襲われて、賭博にのめり込むような破滅的な日々を送り、1951年、養母・俊の勧めでピアニストの夫人と結婚する。同年、長女が生まれた時、ヘラクレイトスについての論文を書いており、「日の満ちる里」という意味で「ひまり」と名づける。ひまりは後にヴァイオリニストとなった。そしてハイデッガーの虚無思想を乗り越えるべく「笑い」の研究に入り、いくつかの論文を発表したが、これは完成しなかった。30代後半から日本の古典美学への関心を強め、「壬生忠岑『和歌体十種』について」(1963年)という論文を書く。

「笑い」の研究を始めたことについて梅原は、フリードリヒ・ニーチェやマルティン・ハイデッガーの実存主義哲学から出発したが、現実の生活に苦しくなると実存を頼ることはできなくなり、実存の論理を超えるために自分の心の暗さを分析して「闇のパトス」を書き、ニヒリズムを超えて人生を肯定するために「笑い」の哲学を目指したという。寄席に通い、渋谷天外、藤山寛美、大村崑などを研究の対象として論文を書いた。

その後は精力的に神道・仏教を研究している。NHKテレビの生放送中に薬師寺管長の橋本凝胤と「唯識」をめぐり、大激論を交わす。

京都若王子(京都市左京区、哲学の道近辺)の和辻哲郎旧邸に住んでいた。

2019年1月12日、93歳で死去。
著作

隠された十字架 ー法隆寺論ー

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우메하라 맹
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우메하라 맹
우메하라
출신지
일본・미야기현
생몰년
1925년 3월 20일 -- 2019년 1월 12일
분야
서양철학·철학사, 종교철학
종교학, 형이상학, ​​존재론 세계관, 윤리학, 일본 불교 신도·고신도 자연 숭배·애니미즘 역사, 문명, 시, 심리학

우메하라 맹은 일본의 철학자이다. 또, 모노쿠리리 대학 총장, 교토시립예술대학 명예교수, 국제일본문화연구센터 명예교수이다. 이 박한 지식과 다양한 서적을 연결하는 독창적인 시점, 학회의 의견에 좌우되지 않는 대담한 가설을 가지고 '우메하라 일본학'이라 불리는 체계를 구축했다.
약전
아버지는 우메하라 반이. 어머니는 이시카와 치요. 미야기현 센다이시에서 부모의 결혼을 양가가 인정하지 않았기 때문에 사생아로서 탄생한다. 유아기에 유모를 잃고 있어, 생후 1년 9개월 무렵, 아이치현 치타반도의 명사였던 이모 부부에게 인수되어 입양이 되었다.

사립 도카이 중학교에는 난치타쵸(당시는 우치카이마치)의 친가로부터 2시간 반을 걸쳐 통학했다. 1942년 히로시마 고등사범학교에 입학하지만 2개월 만에 퇴학, 이듬해 제8고등학교 문과에 입학한다. 이과계의 아버지를 닮아 수학이 잘 되었기 때문에, 아버지나 주위로부터 문과 진학에 반대된 것을 강요한 진학이었다.

제8고등학교 1년차에 재학중인 1943년 10월 문과계 학생에 대한 징병 유예가 정지되어 학도 출진이 시작되었다. 징병 유예의 대상이 되기 위해 이과계로 전향하거나 육군 경리학교에 들어가 주계 장교가 되는 길을 목표로 하는 급우가 있는 가운데 우메하라는 "이하 빨리 죽는 것이 좋다"는 생각에서 특공대원 양성기관이라고 했던 갑종 간부 후보생에게 지원했다. 필기시험은 만점 가까이 점수를 취했지만, 구두시문에서 「일본의 전투기의 이름을 들자」라고 말했을 때, 「하야」라고 밖에 대답할 수 없고, 시험관으로부터 「더 있을 것이다」 「어린이라도 5기 정도 알고 있다. 비국민이다」라고 꾸짖어 불합격이 되었다고 한다.

1944년 여름부터 나고야의 미쓰비시 중공 공장에 동원되어 근로봉사를 했다. 같은 해의 연말, 공장에 대해, 미군에 의한 공습이 행해졌지만, 방공호에 도망쳐 돕고 있다. 다만 같은 공장에 동원되어 있던 다른 학생들은 폭탄이 명중해 다수 사망하고 있다. 이런 공습에 의한 소이탄으로 죽은 자가 속출하는 상황에서 우메하라는 "이 전쟁은 질 것", "자신이 이 전쟁으로 죽는 것은 거의 확실하다"고 생각해 철학서와 종교서를 읽고 어부하고 "죽음의 이유"를 찾게 되었다.

니시다 기타로·타나베 모토등 교토 학파의 철학에 관심을 갖고, 대학 진학에 즈음해서는, 도쿄 제국 대학 윤리학과의 와쓰지 테츠로(히가시다이 부임전은 교토 대철학과의 니시다 아래에서 조교수였다) 아래에서 배우는지, 혹은 교토 학파의 영향이 그리고 결국 1945년 교토 제국대학 문학부 철학과에 입학. 그 해, 타나베는 퇴관하고 있어, 니시다도 이미 1928년에 교토 제국대를 퇴직하고 있었지만, 우메하라는 교토 제국 대철학과에는 니시다의 영향이 존재한다고 생각해, 교대에의 진학을 선택했다. 아버지는 철학과에 진학을 환영하지 않았지만 우메하라의 열의가 강하기 때문에 허가했다.

1945년 4월 교토제국대학 문학부 철학과에 입학했지만 그 직후에 징병되어 대일본제국육군에 이등병으로 입영했다. 처음에는 아이치현 나고야시의 부대에 배속되었지만, 그 후, 기후현 에나시, 효고현 히메지시와 배속처가 변경된 후, 1945년 7월부터 구마모토 현 우성시의 대일본 제국 육군 제216사단 야포병 제216연대(규슈 방위대)에 배속된 상태로, 1945년 8월 15일의 종전을 맞이했다.

1945년 9월에 대학에 복학했다. 복학 후는, 친아버지에게 돌아가, 아버지가 맡고 있던 도요타 자동차에 가까운 아이치현 오카자키시 야자쿠초나 죠코지 등에도 거주했다.

1948년 대학을 졸업한다. 교토대학 대학원에 진학해 야마우치 득립, 다나카 미치타로에게 지도를 받았다. 마르틴 하이데거 철학에 매료되면서도 그리스 철학을 전공했지만, 두 번에 걸쳐 다나카와 대립했다. 최초의 논문 「어둠의 파토스」(1951년)는 철학 논문의 체재를 취하지 않고는 뭐라고 불평했지만, 후에 저작권 제1권의 표제가 된다. 20대 후반, 강한 허무감에 휩싸여 도박에 빠져드는 파멸적인 나날을 보내, 1951년 양모·순의 권유로 피아니스트의 부인과 결혼한다. 같은 해 장녀가 태어났을 때, 헤라 클레이토스에 대한 논문을 쓰고 있어 「일이 가득한 마을」이라는 의미로 「히마리」라고 명명한다. 히마리는 나중에 바이올리니스트가되었습니다. 그리고 하이데거의 허무사상을 극복할 수 있도록 '웃음' 연구에 들어가 일부 논문을 발표했지만, 이것은 완성되지 않았다. 30대 후반부터 일본의 고전미학에 대한 관심을 강하게 하고, 「임생충암『와카체 십종』에 대해」(1963년)라는 논문을 쓴다.

"웃음"의 연구를 시작한 것에 대해 우메하라는 프리드리히 니체와 마틴 하이데거의 실존주의 철학에서 출발했지만 현실의 삶에 괴로워지면 실존을 의지한다. 라고는 할 수 없게 되어, 실존의 논리를 넘기 위해서 자신의 마음의 어둠을 분석해 「어둠의 파토스」를 쓰고, 니히리즘을 넘어 인생을 긍정하기 위해서 「웃음」의 철학을 목표로 했다고 한다. 기석에 다녔고 시부야 텐외, 후지야마 히로미, 오무라 섬 등을 연구 대상으로 논문을 썼다.

그 후는 정력적으로 신도·불교를 연구하고 있다. NHK TV 생방송 중에 야쿠시지 관장의 하시모토 응원과 '유식'을 둘러싸고 대격론을 나눈다.

교토 와카오지(교토시 사쿄구, 철학의 길 근처)의 와쓰지 테츠로 구저택에 살고 있었다.

2019년 1월 12일, 93세에 사망.

저작
숨겨진 십자가 - 호류지론 -
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梅原猛

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
梅原 猛
文部省『文部時報』平成6年3月号より
生誕1925年3月20日
宮城県仙台市
死没2019年1月12日(93歳没)
京都府京都市
時代20世紀の哲学、21世紀の哲学
地域日本哲学
学派京都学派、梅原日本学
研究
研究分野西洋哲学哲学史宗教哲学宗教学形而上学存在論世界観倫理学日本仏教神道古神道自然崇拝アニミズム歴史文明
概念人間中心主義(西洋哲学)への問題提起、人類哲学、草木国土悉皆成仏、植物の意志、梅原日本学、怨霊史観(怨霊
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梅原 猛(うめはら たけし、1925年大正14年)3月20日 - 2019年平成31年)1月12日[1])は、日本の哲学者評論家位階従三位ものつくり大学総長(初代)、京都市立芸術大学名誉教授国際日本文化研究センター名誉教授。東日本大震災復興構想会議特別顧問(名誉議長)。碧南市哲学たいけん村無我苑名誉村長京都市名誉市民

京都大学文学部哲学科卒業。立命館大学文学部哲学教授、京都市立芸術大学教授・学長の他、国際日本文化研究センター所長(初代)、社団法人日本ペンクラブ会長(第13代)などを歴任した。

西洋哲学から日本の芸能や文学の笑いまで幅広く研究し、日本文化の本質を探究する。大胆で独創的な梅原日本学を確立。『隠された十字架』(1972年)、『水底の歌』(1973年)、『人類哲学序説』(2013年)など著作多数。

概要

京都大学卒業後、文部省特別研究生を経て、龍谷大学の非常勤講師から専任講師、次いで立命館大学文学部に就職し、講師、助教授教授を歴任するが、大学紛争で職を辞す。その後、京都市立芸術大学美術学部教授に就任する。同大学の校舎統合に伴う移転問題に取り組む中で学長に就任し、問題解決に尽力した。1980年代には「国際日本文化研究センター(仮称)創設準備室」の室長として国際日本文化研究センターの創設に尽力し、設立後は所長に就任した。実存哲学について研究に取り組み、その後、「梅原日本学」と呼ばれる独自の世界を開拓した。他にも「スーパー歌舞伎」「スーパー[2]を創作するなど、幅広い活動を行っている。これらの業績が評価され、文化功労者に選出され、後に文化勲章を受章した。京都市立芸術大学名誉教授国際日本文化研究センター名誉教授、京都市名誉市民の称号を贈られている。

2019年1月12日、肺炎のため京都府京都市内の自宅で死去[3][4]。93歳だった。叙従三位[5]

経歴

宮城県仙台市で生まれ、愛知県知多郡で育つ。

実父は愛知県立第一中学校第八高等学校を経て、梅原の出生当時は東北帝大の学生であった梅原半二。実母は、半二が下宿していた仙台の魚問屋の娘・石川千代。ともに学生であった実父母の結婚を梅原家、石川家が認めなかったため、私生児として誕生した。乳児期に実母を亡くし、生後1年9か月の時に知多半島の名士で、梅原一族の頭領である伯父夫婦(梅原半兵衛・俊)に引き取られて養子となる。実父の梅原半二(工学博士)は、大学講師を退職後、3軒のバーキャバレーを経営していたが、豊田喜一郎に誘われ、太平洋戦争後、トヨタ自動車に入社、トヨタ自動車常務や豊田中央研究所所長などを務めた。

私立東海中学校には、南知多町(当時は内海町)の実家から2時間半をかけて通学した。1942年、広島高等師範学校に入学する[6]が2か月で退学、翌年第八高等学校文科に入学する[7]。理科系の父に似て数学が得意であったため、父や周囲から文科進学に反対されたのを押し切っての進学であった。

第八高等学校1年次に在学中の1943年10月、文科系学生への徴兵猶予が停止され、学徒出陣が開始された。徴兵猶予の対象となるために理科系へ転向したり、陸軍経理学校へ入って主計将校となる道を目指す級友がいる中、梅原は「いっそ早く死んだ方が良い」という思いから、特攻隊員養成機関といわれていた甲種幹部候補生へ志願した。筆記試験は満点近くの点数を取ったが、口頭試問で「日本の戦闘機の名前を挙げよ」と言われた際に、「」としか答えられず、試験官から「もっとあるだろう」「子供でも5機くらい知っている。非国民だ」と叱責され、不合格になったという[8][9]

1944年の夏から、名古屋の三菱重工の工場へ動員され、勤労奉仕を行った。同年の年末、工場に対して、アメリカ軍による空襲が行われたが、防空壕へ逃げ込んで助かっている。ただし、同じ工場へ動員されていた他の学生は爆弾が命中して多数亡くなっている。このような空襲による焼夷弾で死者が続出する状況で、梅原は「この戦争は負けるに違いない」「自分がこの戦争で死ぬのはほぼ確実だ」と考え、哲学書や宗教書を読み漁り、「死の理由」を探すようになっていた[8][9]

西田幾多郎田辺元京都学派哲学に関心を抱き、大学進学に際しては、東京帝国大学倫理学科の和辻哲郎(東大赴任前は京都大哲学科の西田の下で助教授であった)の下で学ぶか、あるいは京都学派の影響が残る京都帝国大学哲学科で学ぶかの選択に迷った。そして結局、1945年京都帝国大学文学部哲学科に入学。その年、田辺は退官しており、西田もすでに1928年に京都帝国大を退職していたが、梅原は京都帝国大哲学科には西田の影響が存在すると考え、京大への進学を選択した。父親は哲学科への進学を歓迎しなかったが、梅原の熱意が強いため許可した。

1945年4月、京都帝国大学文学部哲学科へ入学したが、その直後に徴兵され、大日本帝国陸軍二等兵として入営した。最初は愛知県名古屋市の部隊に配属されたが、その後、岐阜県恵那市兵庫県姫路市と配属先が変更された後、1945年7月から熊本県宇城市の大日本帝国陸軍第216師団野砲兵第216連隊(九州防衛隊)に配属された状態で、1945年8月15日の終戦を迎えた[8][9]

1945年9月に大学に復学した。復学後は、実父のところに戻り、父が務めていたトヨタ自動車に近い愛知県岡崎市矢作町定光寺などにも居住した[10]

1948年、大学を卒業する。京都大学大学院に進学し、山内得立田中美知太郎に指導を受けた。マルティン・ハイデッガー哲学に惹かれつつもギリシア哲学を専攻したが、2度にわたって田中と対立した。最初の論文「闇のパトス」(1951年)は哲学論文の体裁をとっておらずはなはだ不評であったものの、後に著作集第1巻の表題となる。20代後半、強い虚無感に襲われて、賭博にのめり込むような破滅的な日々を送り、1951年、養母・俊の勧めでピアニストの夫人と結婚する。同年、長女が生まれた時、ヘラクレイトスについての論文を書いており、「日の満ちる里」という意味で「ひまり」と名づける。ひまりは後にヴァイオリニストとなった。そしてハイデッガーの虚無思想を乗り越えるべく「笑い」の研究に入り、いくつかの論文を発表したが、これは完成しなかった。30代後半から日本の古典美学への関心を強め、「壬生忠岑『和歌体十種』について」(1963年)という論文を書く。

「笑い」の研究を始めたことについて梅原は、フリードリヒ・ニーチェマルティン・ハイデッガー実存主義哲学から出発したが、現実の生活に苦しくなると実存を頼ることはできなくなり、実存の論理を超えるために自分の心の暗さを分析して「闇のパトス」を書き、ニヒリズムを超えて人生を肯定するために「笑い」の哲学を目指したという。寄席に通い、渋谷天外藤山寛美大村崑などを研究の対象として論文を書いた[11]

その後は精力的に神道仏教を研究している。NHKテレビの生放送中に薬師寺管長の橋本凝胤と「唯識」をめぐり、大激論を交わす。

京都若王子(京都市左京区哲学の道近辺)の和辻哲郎旧邸に住んでいた。

人物

日本仏教を中心に置いて日本人の精神性を研究する。西洋哲学の研究から哲学者として出発したが、西田幾多郎を乗り越えるという自身の目標のもと、基本的に西洋文明(すなわちヘレニズムヘブライズム)の中に作られてきた西洋哲学進歩主義に対しては批判的な姿勢をとる。その根幹は、西洋哲学に深く根付いている人間中心主義への批判である[12]。西洋哲学者が多い日本の哲学界の中で、異色の存在である。

市川猿之助劇団のために『ヤマトタケル』(題材:ヤマトタケル)や『オオクニヌシ』(題材:大国主)『オグリ』(題材:小栗判官)などの歌舞伎台本を書き、これが古典芸能化した近代歌舞伎の殻を破ったので、スーパー歌舞伎と称している。また『ギルガメシュ叙事詩』を戯曲化した『ギルガメシュ』は中国の劇団が上演し、中国の環境問題の啓蒙に大きな役割を果たしている。ただ、演劇では自分の思い通りにならないということで、小説版『ギルガメッシュ』を執筆しており、売れなかったが本作が自身で一番の作品であると語っている[13]。『中世小説集』や『もののかたり』など説話に基づく短編小説集も評判をとっている。また『王様と恐竜』『ムツゴロウ』『クローン人間ナマシマ』などのスーパー狂言の台本も書いている。九条の会の呼び掛け人の一人。平城遷都1300年記念事業特別顧問。2006年には源氏物語千年紀の呼び掛け人となる。

鈴木大拙を近代日本最大の仏教学者と位置付け、その非戦論の重要性を訴える。また「梅原日本学」と呼ばれる一連の論考では飛鳥時代大和朝廷の権力闘争を追求するなど、古代日本史の研究家としても知られる。天皇制への支持は強く、世界主義と排外的ナショナリズムの双方に批判的である。靖国神社憲法改正には基本的に否定的な立場を採る。イデオロギーの学術への介入それ自体を批判している[14]。なお、1991年には召人として皇居歌会始に出席している。

また、熱烈な多神教優位論者、反一神教主義者である。多神教一神教より本質的に「寛容であり優れている」と主張しており、続けて多神教が主流である日本文化の優越性を説いている。その説は多くの「日本文化の優越を語る日本人論」に影響を与え[注 1]、そのため梅原は、中曽根康弘が創設を主導した「国際日本文化研究センター」の初代所長に就任することになる。

一神教的な思想と多神教的な思想について、古代ギリシアの哲学者であるプラトンアリストテレスを対比させる。アリストテレスのように生物の多様性に目を向けることが重要であると語る[15]

臓器移植反対論者としても知られている。原子力発電所に対しても1980年代から反対論者の立場を取る[16]東日本大震災復興構想会議で、東日本大震災により引き起こされた福島第一原子力発電所事故を論点から除外しようとした議長に対して、梅原は、原発事故は「文明災」であり、その議論なくして何のための復興構想会議であるのかと、辞任の意思を示してテーマとさせたことを、同じく会議メンバーであった『読売新聞』の橋本五郎が回想している[17]

日本漢字能力検定協会の大久保理事長に依頼され、約10年にわたって同協会の評議員を務めていたが、その間、会議出席などの評議員としての活動を全く行っていなかった。2009年に発覚した協会運営問題に際し、このことについて「信用したことを後悔している。関連会社への委託などとんでもないことで、評議員の機能を果たせなかった自分への怒りも感じる」と弁解した[18]

人間関係

家系

実父・梅原半二は工学博士で、トヨタ自動車常務取締役や豊田中央研究所代表取締役所長を務めた。恋愛の失敗で心に傷を負いキャバレーを経営していたところを豊田喜一郎に引っ張られ、技術の世界に復帰し、後にトヨタ・コロナを設計した。著書に技術者としての経験をまとめた『純の中の不純』(黎明書房、1974年)、自伝的な『平凡の中の非凡』(佼成出版社、1990年)がある。小説家の小栗風葉は養母・俊の兄に当たる。同じく小説家の小中陽太郎は養母の姪の夫に当たる。

長男に芸術学者美学者京都造形芸術大学芸術学部教授の梅原賢一郎、その妻はノーベル賞学者福井謙一の娘の美也子[19]。長女にバイオリニストで京都造形芸術大学非常勤講師の梅原ひまり、その夫は京都造形芸術大学副学長で建築家の横内敏人[20]

交友関係

親友には京大哲学科からの同級生である橋本峰雄藤沢令夫立命館大学勤務時代に同僚であった白川静がいる。若い頃最も親しかったのは源了圓であったという。

京大哲学科の4年先輩に当たる上山春平も親友であり、上山に誘われ、当時・京都大学人文科学研究所教授の桑原武夫らと知り合い、交友を深め知遇を得ることになる。

司馬遼太郎とは長年の交友があり、司馬の作品である『空海の風景』の正直な批評を出したが、彼を激怒させて以来、2人は犬猿の仲となる。その後は和辻哲郎文化賞の選考委員を互いに務めた縁で仲が直り、司馬の死去に関しては、追悼文も書いている(国際日本文化研究センター設立以前、梅原は司馬に評議委員として選出しようと懇願したが、断られた)。

生前に交流はなかったが、三島由紀夫と同年齢であり、三島の死後に梅原の飛躍があったことから、「三島が自分に乗り移った」と思っている。高橋和巳とは交友があり、高橋の死後、自分は長いものを書くようになったから、高橋が乗り移ったと言っている。

思想

梅原日本学

40歳過ぎまで単著はなかった。自ら著作集の自序において語るところによれば、これは「処女作というものは頭の先からしっぽまでもすべて独創的であるべきである」という自己の信念のためであったという。1965年、仏像案内のテレビ番組の司会をし、これを本にした『仏像-心とかたち』を佐和隆研望月信成との共著で刊行、毎日出版文化賞を受賞。1967年、中公新書から『地獄の思想』を刊行し、古代から宮澤賢治太宰治に至る記述を行い、ベストセラーとなる。

その後、日本仏教の研究を行い、釈迦からインド仏教中国仏教を経て鎌倉新仏教までを述べる長編の仏教史『仏教の思想』(共著)を著した。さらに、多くの対談等の本、『美と宗教の発見』等の論文集刊行の後、創刊された文芸雑誌『すばる』を舞台に、古代史に関する研究的評論の連載を始める。該博な知識による大胆な仮説により、「梅原古代学」「梅原日本学」「怨霊史観」と言われる独特の歴史研究書を多数著している。梅原日本学は主に三つの柱からなる。

  • 古事記』の神話に関する独特の解釈。論文「神々の流竄」で展開。『古事記』の神話を史実でもなく、全くのフィクションであるということでもない、藤原不比等による律令国家の「イデオロギーの書」であるとする解釈である。同時に『古事記』を誦習した稗田阿礼は藤原不比等であるという説を打ち立てる。
  • 法隆寺に建立に関する独特の解釈。『隠された十字架-法隆寺論』(1972年)で展開。法隆寺聖徳太子一族の霊を封じ込め鎮めるための寺院とする説。その中から、大胆な仮説を刊行して毎日出版文化賞を受賞している。
  • 柿本人麻呂の生涯に関する新説。『水底の歌』(1972年 - 1973年)で展開。「柿本人麻呂は低い身分で若くして死去した」という近世以来の説に異を唱え、高い身分であり高齢になって刑死したとする説。正史に残る人物、柿本猨を柿本人麻呂とする。

梅原説の信奉者の有名人には井沢元彦がいる(ただし『水底の歌』が成り立たないことを小説『猿丸幻視行』で主張している)。

批判

国文学考古学歴史学の立場からは批判も多い。例えば、法隆寺を聖徳太子一族の鎮魂の寺院とする考え方からは、坂本太郎の「法隆寺怨霊寺説について」(『日本歴史』第300号)を皮切りとして、厳しい批判や反論が出されている。また『水底の歌』における柿本人麻呂水死刑説は、益田勝実らによって批判論文が提出されている。

仏教学者の袴谷憲昭は、吉本隆明・梅原猛・中沢新一の3人の共著『日本人は思想したか』(新潮社)について、この3人は「仏教の基本的な『常識』さえ知らず好き勝手な発言を繰返している」「本書を書評の対象に選んだのは、かかるいかがわしいものをただ売るに任せることはできなかったからに過ぎない」と激しく批判し、単純で基本的な誤りやあいまいで説明不足な箇所も少なくないと苦言を呈している[21]

また梅原は国際日本文化研究センター(日文研)の創設に尽力し、1987年に日文研の初代所長に就任した。しかし日文研については当時の中曽根内閣との距離の近さや、構想からわずか数年で設立に至った経緯、所長を務める梅原の学者としての資質などが各歴史学会から問題視されていた[22]。しかし、その中で本当に批判されていたのは、所長を務める梅原の研究姿勢そのものであった。2016年の日文研に関する討論会で宮地正人は、「学問というか、哲学でもないし歴史でもないし、ああいう思い付きを平気で言うというのは耐えられない」と梅原の学問姿勢そのものが学界から嫌悪されていたことを明らかにしている[23]

人類哲学

「人類哲学」は、初期の西洋哲学実存主義研究、そして日本文化研究・梅原日本学を経て、2013年『人類哲学序説』(岩波書店)で提唱された哲学的・倫理学的な主張である。

まず梅原は、ギリシア哲学を起源とする西洋文明に特徴的な「哲学philosophía」のあり方を指摘する。「中国哲学」や「インド哲学」というような呼び方は、西洋哲学の基準に合わせてそう呼んでいるだけであり、「哲学philosophía」は未だ西洋哲学しかない、と梅原はいう。梅原は、西洋文明の枠内に留まらない、あらゆる文明・文化圏、地球の全ての人類に対応できる「人類哲学」を打ち立てようとし、その鍵となる概念を仏教用語「草木国土悉皆成仏」として提示する。『人類哲学序説』では、まず近現代哲学の批判的検証がなされており、ルネ・デカルトフリードリヒ・ニーチェマルティン・ハイデガーを主な批判対象(肯定的に評価している点や、梅原自身が影響を受けた点なども記されている)として西洋哲学における人間中心主義の問題とそれを西洋哲学の枠内で乗り越えようとすることの限界が論じられ、その上で「草木国土悉皆成仏」へ至る議論が展開されている。

社会運動:九条の会

梅原は、日本国憲法第9条の改正阻止を目的とする社会運動九条の会の呼びかけ人の一人であった[24]。2004年6月に9人の作家・哲学者によって結成された九条の会は、その後、科学、スポーツ、宗教、医療など各分野や地域で多数の支持者を集めた。梅原は、「政治の流れがうんと右に行っているので、歯止めとして九条を守る必要があるという意思表示をしたかった」と述べている[25]。憲法9条京都の会の代表世話人として、2011年5月3日に開催された「5・3憲法集会」で講演を行った[26]

略歴

学歴

職歴

役職

賞歴

著作

単著

  • 『地獄の思想』(中公新書、1967年)のち文庫
  • 『美と宗教の発見』(筑摩書房、論文集、1967年)のち講談社文庫ちくま学芸文庫(2002年)
  • 『哲学する心』(講談社、論文集、1968年)のち文庫、学術文庫
  • 『笑いの構造』(角川書店、1972年)のち文庫
  • 隠された十字架 法隆寺論』(新潮社、1972年)のち文庫
  • 水底の歌 柿本人麿論』(新潮社、1973年)のち文庫、改版2015年
  • 『黄泉の王 私見・高松塚』(新潮社、1973年)のち文庫
  • 『古典の発見』(講談社、1973年)のち学術文庫
  • 『さまよえる歌集』(集英社、1974年)のち文庫
  • 『塔』(集英社、1976年)のち文庫
  • 『湖の伝説 画家・三橋節子の愛と死』(新潮社、1977年)のち文庫
  • 『学問のすすめ』(佼成出版社、1979年)(自伝を含む)のち角川文庫(1981年)
  • 『歌の復籍』(集英社、1979年)のち文庫
  • 『怨霊と縄文』(朝日出版社、1979年)のち徳間文庫
  • 聖徳太子』(小学館、1980年 - 1985年)のち集英社文庫(1993年)
  • 『仏教の思想』(角川書店、1980年)のち文庫
  • 『日本の深層――縄文・蝦夷文化を探る』(佼成出版社、1983年、新版、1985年)のち集英社文庫(1994年)
  • 『「歎異抄」と本願寺教団』(小学館 1984年)
  • 『精神の発見』(角川文庫 1985年)
  • 『日本学事始』(集英社文庫 1985年)
  • ヤマトタケル』(新潮社、スーパー歌舞伎、1986年)
  • 『文明への問い』(集英社文庫 1986年)
  • 『飛鳥とは何か』(集英社文庫 1986年)
  • 『日常の思想』(集英社文庫 1986年)
  • 『仏像のこころ』(集英社 1987年)(「仏像-心とかたち」から梅原執筆分)
  • 写楽仮名の悲劇』(1987年、新潮社) のち文庫
  • 最澄瞑想』(佼成出版社、1987年)
  • 赤人の諦観』(集英社文庫 1987年)
  • 『日本冒険』全3巻(角川書店、1988年 - 1989年)のち文庫
  • ギルガメシュ』(新潮社、1988年)
  • 『日本人の「あの世」観』(中央公論社、論文集、1989年)のち文庫
  • 『三人の祖師 最澄空海親鸞』(佼成出版社 1989年)
  • 小栗判官』(新潮社、スーパー歌舞伎原作、1989年)
  • 『誤解された歎異抄』(光文社・カッパ・ホームス、1990年)のち文庫
  • 『日本の原郷熊野』(新潮社・とんぼの本、1990年)
  • 『人間の美術 10――浮世と情念』(学習研究社、1990年)
  • 『〈森の思想〉が人類を救う――二十一世紀における日本文明の役割』(小学館、1991年)。『森の思想が人類を救う』(小学館ライブラリー、1995年/新版・PHP研究所、改版2015年)
  • 『海人と天皇』(朝日新聞社、1991年)のち新潮文庫、朝日文庫
  • 『人間の美術7――バサラ幽玄』(学習研究社 1991年)
  • 『混沌を生き抜く思想――21世紀を拓く対話』(PHP研究所、1992年)のち文庫
  • 『日本人の魂 あの世を観る』(光文社カッパ・ホームス、1992年)
  • 『古代幻視』(文藝春秋、1992年)のち文庫
  • 『百人一語』(朝日新聞社、1993年)のち新潮文庫
  • 『梅原猛の『歎異抄』入門』(プレジデント社、1993年)のちPHP文庫
  • 『中世小説集』(新潮社、1993年) のち文庫
  • 『饗宴 随想と対話』(講談社、1994年)
  • 『将たる所以――リーダーたる男の条件』(光文社、1994年)
  • 『思うままに』シリーズ文藝春秋
    • 『世界と人間――思うままに』(文藝春秋 1994年)のち文庫
    • 『自然と人生――思うままに』(文藝春秋 1995年)のち文庫
    • 『癒しとルサンチマン――思うままに』(文藝春秋、1997年)
    • 『亀とムツゴロウ――思うままに』(文藝春秋、1999年)
    • 『シギと法然――思うままに』(文藝春秋、2000年)
    • 『宗教と道徳――思うままに』(文藝春秋、2002年)のち文庫
    • 『戦争と仏教――思うままに』(文藝春秋、2004年)のち文庫
    • 『神と怨霊――思うままに』(文藝春秋、2008年)
    • 『親鸞と世阿弥――思うままに』(文藝春秋、2011年)
    • 『老耄と哲学――思うままに』(文藝春秋、2015年)
  • 『心の危機を救え――日本の教育が教えないもの』(光文社 1995年)のち文庫
  • 『梅原猛の世界』(平凡社、1995年)
  • 『もののかたり』(淡交社、1995年)
  • 『共生と循環の思想』(小学館、1996年)
  • 『あの世と日本人』(日本放送出版協会・NHKライブラリー、1996年)
  • 『京都発見』全9巻(新潮社、1997年 - 2007年)
  • 『オオクニヌシ』(文藝春秋、1997年)
  • 『芸術と生命―ディオニュソスに魅せられて』(岩波書店、1998年)
  • 『天皇家の"ふるさと"日向をゆく』(新潮社、2000年)のち文庫
  • 『浄土仏教の思想〈巻8巻〉法然』(講談社 2000年)のち文庫、『法然――十五歳の闇』(角川文庫(上・下)、2006年)
  • 『脳死は本当に人の死か』(PHP研究所、2000年)
  • 『古事記』(学研M文庫、2001年)のち増補新版、『古事記(増補新版)』(学研プラス、2016年)
  • 『三度目のガンよ、来るならごゆるりと』(光文社、2001年)
  • 『梅原猛の授業』シリーズ(朝日新聞社)
    • 『梅原猛の授業――仏教』(朝日新聞社、2002年)のち文庫
    • 『梅原猛の授業――道徳』(朝日新聞社、2003年)のち文庫
    • 『梅原猛の授業――仏になろう』(朝日新聞社、2006年)のち文庫
    • 『梅原猛の授業――能を観る』(朝日新聞社、2012年)のち文庫
  • 『王様と恐竜 スーパー狂言の誕生』(集英社、2003年)
  • 『法然の哀しみ』(小学館文庫(上・下)、2004年)。元版は(梅原猛著作集第10巻、小学館、2000年)
  • 『梅原猛、日本仏教をゆく』(朝日新聞社、2004年)のち文庫
  • 『母ごころ 仏ごころ――豊かに生きる知恵』(小学館、2004年)。『仏のこころと母ごころ』(小学館文庫、2006年)
  • 『日本の霊性――越後・佐渡を歩く』(佼成出版社、2004年)のち新潮文庫(2007年)
  • 『最澄と空海――日本人の心のふるさと』(小学館文庫 2005年)
  • 『親鸞の告白』(小学館文庫 2006年)
  • 『神殺しの日本 反時代的密語』(朝日新聞社、2006年)のち文庫
  • 『歓喜する円空』(新潮社、2006年)のち文庫
  • 『親鸞のこころ――永遠の命を生きる』(小学館文庫、2008年)
  • 『うつぼ舟』シリーズ(角川学芸出版)
    • 『うつぼ舟Ⅰ――翁と河勝』(角川学芸出版、2008年)
    • 『うつぼ舟Ⅱ――観阿弥正成』(角川学芸出版、2009年)
    • 『うつぼ舟Ⅲ――世阿弥の神秘』(角川学芸出版、2010年)
    • 『うつぼ舟IV――世阿弥の恋』(角川学芸出版、2012年)
    • 『うつぼ舟V――元雅の悲劇』(角川学芸出版、2013年)
  • 『日本の伝統とは何か』(2010年、ミネルヴァ書房
  • 『葬られた王朝――古代出雲の謎を解く』(2010年、新潮社)のち文庫(2012年)
  • 『京都鬼だより』(淡交社、2010年)
  • 『学ぶよろこび――創造と発見――』(朝日出版社、2011年)
  • 『梅原猛の仏教の授業――法然親鸞一遍』(PHP研究所、2012年) のち文庫
  • 『人類哲学序説』(岩波書店岩波新書、2013年)
  • 『縄文の神秘』(学研パブリッシング、2013年)
  • 『親鸞「四つの謎」を解く』(新潮社、2014年)のち文庫

編著・監修

共著

対談集

  • 『考える愉しさ 梅原猛対談集』(新潮社、1975年)
  • 『芸術の世界上下 梅原猛対談集』(講談社、1980年)
  • 『梅原猛全対話』全6巻(集英社、1984年)
  • 『少年の夢 梅原猛対談集』(小学館のちライブラリー、1994年)
  • 『九つの対話』(潮出版社、2000年)
  • 『美の奇神たち:梅原猛対話集』(淡交社、2013年)
  • 『人類哲学へ』(NTT出版、2013年)
  • 『少年の夢』(河出文庫、2016年)

著作集

  • 梅原猛著作集』全20巻(集英社、1981年 - 1982年)
  • 梅原猛著作集』全20巻(小学館、2000年 - 2003年)

舞台作品

論文

テレビ出演

ほか

脚注

注釈

  1. ^ 1980年代にロビン・ギルがこの種の「日本文化優越論」に反論を行っている。[要出典]

出典

  1. ^ 「誰もが認める破格の人」梅原猛氏お別れの会”. 産経ニュース (2019年4月21日). 2019年12月18日閲覧。
  2. ^ “平成能楽 進取と継承の両輪…世阿弥 生誕650年”YOMIURI ONLINE(読売新聞)オリジナルの2013年5月31日時点におけるアーカイブ。 2019年6月9日閲覧。 
  3. ^ 産経新聞 (2019年1月14日). “【梅原猛さん死去】「すばらしい大往生」梅原さん長男、臨終の様子明かす”. 産経新聞:産経ニュース. 2025年4月14日閲覧。
  4. ^ 哲学者の梅原猛さん死去 日本古代史に大胆な仮説を展開 - 朝日新聞デジタル 2019年1月14日
  5. ^ 『官報』7451号平成31年2月20日
  6. ^ 『官報』第4610号、昭和17年5月26日、p.815
  7. ^ 『官報』第4871号、昭和18年4月10日、p.336
  8. a b c d e f 兵庫県三田市狭間中学校第一学年学年通信「奏」30号(2017年7月20日)「戦争について考えてみよう!
  9. a b c d e f 読売新聞』2015年8月16日
  10. ^ 万博大学第13回講義 梅村猛氏[要文献特定詳細情報]
  11. ^ 東・梅原 2012, p. 313.
  12. ^ 東・梅原 2012, p. 不明[要ページ番号].
  13. ^ 宮﨑駿「宮﨑駿と網野善彦との対談」『折り返し点』岩波書店、2008年7月。ISBN 9784000223942[要ページ番号]
  14. ^ 参考「梅原猛の隠されたファシズム批判」(有城乃三郎)『現代の眼』1982年12月号など。
  15. ^ 東・梅原 2012, p. 317.
  16. ^ コラム「天眼」『京都新聞』2011年3月26日朝刊。
  17. ^ 【五郎ワールド】奇人の前に真理は現る『読売新聞』2019年2月9日朝刊(解説面)。2019年2月15日閲覧。
  18. ^ 「漢検協会」理事・評議員名ばかり、会議出席ゼロも『読売新聞』2009年3月16日。[要文献特定詳細情報]
  19. ^ 梅原美也子 著、梅原賢一郎 編『不在の空「いま・ここ」を生きた女性の肖像』角川学芸出版、2011年2月。ISBN 4046537396[要ページ番号]
  20. ^ 親子のカタチ(105)梅原猛×梅原ひまり週刊朝日』113(34), 57-61, 2008-07-18
  21. ^ 袴谷憲昭書評 「吉本隆明・梅原猛・中沢新一著, 『日本人は思想したか』」」『駒澤短期大學佛教論集 2』、駒澤大学、1996年10月、133-147頁。
  22. ^ 倉本一宏 「<鼎談>「日文研問題」をめぐって」 『日本研究』55巻 国際日本文化研究センター、2017年5月、172‐173頁。
  23. ^ 倉本、2017年、198頁。
  24. ^ http://www.9-jo.jp/profile.html
  25. ^ 「9条には『超近代』の理想が含まれている」梅原猛さん語録”. 毎日新聞 (2019年1月14日). 2023年7月23日閲覧。
  26. ^ https://9-kyoto.net/kenpo/170.html
  27. ^ 中日文化賞 受賞者一覧”. 中日新聞. 2022年6月2日閲覧。

参考文献

  • 『梅原猛講演会 少年の夢』(協和発酵、1994年)
  • 『鼎談 梅原猛の世界』(東浩紀、梅原猛 著「草木の生起する国――京都」、東浩紀 編『日本2.0』ゲンロン〈思想地図β; vol. 3〉、2012年7月。ISBN 9784990524357凡社、1995年)
  • 『人類の創造へ―梅原猛との交点から 梅原猛古稀記念論文集』(中西進編・中央公論社、1995年)
  • 『別冊太陽 梅原猛の世界 神と仏のものがたり』(平凡社、2005年)
  • やすいゆたか『評伝 梅原猛―哀しみのパドス』(ミネルヴァ書房、2005年)
  • やすいゆたか『梅原猛 聖徳太子の夢―スーパー歌舞伎・狂言の世界』(ミネルヴァ書房、2009年)
  • 坂口昌弘著『ヴァーサス日本文化精神史』文學の森

外部リンク

学職
先代
(新設)
ものつくり大学総長
初代:2001年 - 2016年
次代
(空席)
公職
先代
(新設)
日本の旗 国際日本文化研究センター所長
初代:1987年 - 1995年
次代
河合隼雄
文化
先代
尾崎秀樹
日本ペンクラブ会長
第13代:1997年 - 2003年
次代
井上廈

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우메하라 맹

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우메하라 맹

문부성 “문부시보” 2004년 3월호부터
탄생 1925년 3월 20일
미야기 현 센다이시
사망 2019년 1월 12일 (93세몰)
교토 부 교토시
시대 20세기 철학, 21세기 철학
지역 일본 철학
학파 교토 학파 , 우메하라 일본학
연구
연구분야 서양 철학 · 철학사 , 종교 철학 , 종교학 , 형이상학 , ​​존재론 , 세계관 , 윤리학 , 일본 불교 , 신도 · 고신도 , 자연 숭배 · 애니미즘 , 역사 , 문명
개념 인간 중심주의 (서양 철학)에의 문제 제기, 인류 철학, 초목 국토오 모두 성불, 식물의 의지, 우메하라 일본학, 원령 사관( 원령 )
영향을 받은 인물·사건·작품[표시]
영향을 준 인물·사건·작품[표시]
템플릿 보기
우메하라 맹 (우메하라 타케시, 1925년 ( 다이쇼 14년) 3월 20일 - 2019년 ( 2019 년) 1월 12일 [ 1 ] )은, 일본의 철학자 , 평론가 . 위층 은 종삼위 . 모노 쿠리 대학 총장 (초대), 교토시립 예술 대학 명예 교수 , 국제 일본 문화 연구 센터 명예 교수. 동일본 대지진 부흥 구상 회의 특별 고문( 명예 의장 ). 쇼난시 철학 타이켄무라 무가엔 명예촌장 . 교토 시 명예시민 .

교토대학 문학부 철학과 졸업. 입명관대학 문학부 철학 교수 , 교토시립예술대학 교수· 학장 외에 국제일본문화연구센터 소장(초대), 사단법인 일본펜클럽 회장 (제13대) 등을 역임했다.

서양철학에서 일본의 예능과 문학의 웃음까지 폭넓게 연구해 일본 문화의 본질을 탐구한다. 대담하고 독창적인 우메하라 일본학을 확립. '숨겨진 십자가'(1972년), '수저의 노래'(1973년), '인류철학 서설'(2013년) 등 저작 다수.

개요
교토대학 졸업 후 문부성 특별연구생을 거쳐 류야대학 의 비상근 강사 로부터 전임강사, 이어서 리츠메이칸대학 문학부에 취직하여 강사, 조교수 , 교수 를 역임하지만 대학분쟁으로 직을 그만둔다. 그 후 교토시립 예술대학 미술학부 교수로 취임한다. 이 대학의 교사통합에 따른 이전문제에 임하는 가운데 학장 에 취임해 문제해결에 힘썼다. 1980년대 에는 '국제일본문화연구센터(가칭) 창설준비실'의 실장으로 국제일본문화연구센터 창설에 힘쓰고 설립 후 소장으로 취임했다. 실존 철학 에 대해 연구 에 임해, 그 후, 「우메하라 일본학」이라고 불리는 독자적인 세계를 개척했다. 그 밖에도 ' 슈퍼 가부키 ' '슈퍼 능 ' [ 2 ] 을 창작하는 등 폭넓은 활동을 하고 있다. 이러한 실적이 평가되어 문화공로자 로 선출되어 나중에 문화훈장 을 수장했다. 교토시립 예술대학 명예교수 , 국제일본문화연구센터 명예교수, 교토시 명예시민 의 칭호를 받고 있다.

2019년 1월 12일, 폐렴 때문에 교토부 교토 시내 의 자택 에서 사망 [ 3 ] [ 4 ] . 93세였다. 서종 삼위 [ 5 ] .

경력
미야기현 센다이시 에서 태어나 아이 치현 치타군 에서 자란다.

친아버지는 아이치현립 제1중학교 , 제8고등학교 를 거쳐, 우메하라의 출생 당시는 도호쿠 제대 의 학생이었던 우메하라 반지 . 친모는 반이가 하숙하고 있던 센다이의 생선 도매상인 딸 이시카와 치요. 함께 학생이던 실부모의 결혼을 우메하라가, 이시카와가가 인정하지 않았기 때문에 사생아 로서 탄생했다. 유아기에 실모를 잃고, 생후 1년 9개월 때에 치타 반도 의 명사로, 우메하라 일족의 두령인 백부 부부(우메하라 반베에·순)에게 끌려 입양된다. 친아버지의 우메하라 반지(공학박사)는 대학 강사를 퇴직 후 3채의 바 캬바레 를 경영하고 있었지만, 도요타 키이치로 에게 초대되어 태평양 전쟁 후 도요타 자동차 에 입사, 도요타 자동차 상무와 도요타 중앙 연구소 소장 등을 맡았다.

사립 도카이 중학교 에는 난치타쵸 (당시는 우치카이마치 )의 친가로부터 2시간 반을 걸쳐 통학했다. 1942년 히로시마 고등사범학교 에 입학한다 [ 6 ] 가 2개월 만에 퇴학, 다음해 제8고등학교 문과에 입학한다 [ 7 ] . 이과계의 아버지를 닮아 수학이 잘 되었기 때문에, 아버지나 주위로부터 문과 진학에 반대된 것을 강요한 진학이었다.

제8고등학교 1년차에 재학중인 1943년 10월 문과계 학생에 대한 징병 유예가 정지되어 학도 출진 이 시작되었다. 징병 유예의 대상이 되기 위해 이과계 로 전향하거나 육군 경리학교 에 들어가 주계 장교가 되는 길을 목표로 하는 급우가 있는 가운데 우메하라는 "이하 빨리 죽는 것이 좋다"는 생각에서 특공대원 양성기관이라고 했던 갑종 간부 후보생 에게 지원했다. 필기시험은 만점 가까이 점수를 취했지만 구두시문에서 '일본 전투기 의 이름을 들자'라고 말했을 때 ' 하야 '라고 밖에 대답하지 못하고 , 시험관 으로부터 ' 더 있을 것이다 ' ' 어린이 라도 5 대 정도 알고 있다 .

1944년 여름부터 나고야의 미쓰비시 중공 공장에 동원되어 근로봉사 를 했다. 같은 해의 연말, 공장에 대해, 미군에 의한 공습이 행해졌지만, 방공호 에 도망쳐 돕고 있다. 다만 같은 공장에 동원되어 있던 다른 학생들은 폭탄이 명중해 다수 사망하고 있다. 이런 공습에 의한 소이탄 으로 죽은 자가 속출하는 상황에서 우메하라는 “이 전쟁은 지는 것임에 틀림없다” “자신이 이 전쟁으로 죽는 것은 거의 확실하다”고 생각해 철학서나 종교서를 읽고 어서 “죽음의 이유”를 찾게 되었다 [ 8 ] [ 9 ] .

니시다 기타로 · 타나베 모토 등 교토 학파 의 철학 에 관심을 갖고, 대학 진학에 즈음해서는, 도쿄 제국 대학 윤리학 과 의 와쓰지 테츠로 (히가시다이 부임전은 교토 대철학과의 니시다 아래에서 조교수 였다) 아래에서 배우는지, 혹은 교토 학파의 영향이 그리고 결국 1945년 교토 제국대학 문학부 철학과에 입학. 그 해, 타나베는 퇴관하고 있어, 니시다도 이미 1928년 에 교토 제국대를 퇴직하고 있었지만, 우메하라는 교토 제국 대철학과에는 니시다의 영향이 존재한다고 생각해, 교대에의 진학을 선택했다. 아버지는 철학과에 진학을 환영하지 않았지만 우메하라의 열의가 강하기 때문에 허가했다.

1945년 4월 교토제국대학 문학부 철학과에 입학했지만 그 직후에 징병 되어 대일본제국육군 에 이등병 으로 입영 했다. 처음에는 아이치현 나고야시의 부대에 배속되었지만, 그 후, 기후현 에나시 , 효고현 히메지시 와 배속처가 변경된 후, 1945년 7월부터 구마모토 현 우성시의 대일본 제국 육군 제216사단 노포병 제216연대(규슈 방위대)에 배속된 상태로, 1945년 8월 15일의 종전을 맞이했다 [ 8 ] [ 9 ] .

1945년 9월에 대학에 복학했다. 복학 후에는, 친아버지에게 돌아가, 아버지가 맡고 있던 도요타 자동차에 가까운 아이치현 오카자키시 야 자쿠초나 조 코지 등에도 거주했다 [ 10 ] .

1948년 대학을 졸업한다. 교토대학 대학원에 진학해 야마우치 득립 , 다나카 미치타로 에게 지도를 받았다. 마르틴 하이데거 철학에 매료되면서도 그리스 철학 을 전공했지만, 두 번에 걸쳐 다나카와 대립했다. 최초의 논문 「어둠의 파토스」(1951년)는 철학 논문의 체재를 취하지 않고는 뭐라고 불평했지만, 후에 저작권 제1권의 표제가 된다. 20대 후반, 강한 허무감에 휩싸여 도박 에 빠져드는 파멸적인 나날을 보내, 1951년 양모·순의 권유로 피아니스트 의 부인과 결혼한다. 같은 해 장녀가 태어났을 때, 헤라 클레이토스 에 대한 논문을 쓰고 있어 「일이 가득한 마을」이라는 의미로 「히마리」라고 명명한다. 히마리는 나중에 바이올리니스트가 되었습니다. 그리고 하이데거의 허무사상을 극복할 수 있도록 '웃음' 연구에 들어가 일부 논문을 발표했지만, 이것은 완성되지 않았다. 30대 후반부터 일본의 고전 미학 에 대한 관심을 강하게 하고, 「임생충암『와카체 십종』에 대해」(1963년)라는 논문을 쓴다.

"웃음"의 연구를 시작한 것에 대해 우메하라는 프리드리히 니체 와 마틴 하이데거 의 실존주의 철학에서 출발했지만 현실의 삶에 괴로워지면 실존을 의지한다. 라고는 할 수 없게 되어, 실존의 논리를 넘기 위해서 자신의 마음의 어둠을 분석해 「어둠의 파토스」를 쓰고, 니히리즘 을 넘어 인생을 긍정하기 위해서 「웃음」의 철학을 목표로 했다고 한다. 기석 에 다녔고 시부야 텐 외, 후지 야마 히로미 , 오 무라 섬 등을 연구 대상으로 논문을 썼다 [ 11 ] .

그 후는 정력적으로 신도 · 불교 를 연구하고 있다. NHK TV 생방송 중에 야쿠시지 관장의 하시모토 응원 과 ' 유식 '을 둘러싸고 대격론을 나눈다.

교토 와카오지(교토시 사쿄구 , 철학의 길 근처)의 와쓰지 테츠로 구저택에 살고 있었다.

인물
일본 불교 를 중심으로 두고 일본인의 정신성을 연구한다. 서양철학 의 연구로부터 철학자로서 출발했지만, 니시다 기타로 를 극복한다는 자신의 목표 아래, 기본적으로 서양 문명 (즉 헬레니즘 과 히브리즘 )안에 만들어져 온 서양 철학 , 진보주의 에 대해서는 비판적인 자세를 취한다. 그 근간은 서양 철학에 깊이 뿌리를두고 있는 인간 중심주의 에 대한 비판이다 [ 12 ] . 서양철학자가 많은 일본의 철학계 중에서 이색의 존재이다.

이치카와 사루노스케 극단을 위해서 「야마토 타케루」(제재:야마토 타케루 )나 「오오쿠니누시」(제재: 대국주 ) 「오그리」(제재: 오구리 판관 ) 등의 가부키 대본을 써, 이것이 고전 예능화한 근대 가부키 의 칭을 깨고. 또 ' 길가메쉬 서사시 '를 연극화한 '길가메쉬'는 중국 극단이 상연해 중국 환경문제 계몽에 큰 역할을 하고 있다. 다만, 연극에서는 자신의 생각대로 되지 않는다고 하는 것으로, 소설판 「길가메쉬」를 집필하고 있어, 팔리지 않았지만 본작이 스스로 제일의 작품이라고 말하고 있다 [ 13 ] . '중세소설집'이나 '모노노카타' 등 설화에 근거한 단편소설집도 평판을 얻고 있다. 또 '왕님과 공룡', '무츠고로우', '클론 인간 나마시마' 등 슈퍼 광언 의 대본도 썼다. 구조의 모임의 부르는 사람 중 한 명. 헤이조 천도 1300년 기념 사업 특별 고문. 2006년 에는 겐지 이야기 천년기 의 부르는 사람이 된다.

스즈키 대졸 을 근대 일본 최대의 불교학자로 자리매김하고, 그 비전론 의 중요성을 호소한다. 또 '우메하라 일본학'이라 불리는 일련의 논고에서는 아스카 시대 의 야마토 조정 의 권력 투쟁을 추구하는 등 고대 일본사의 연구가로도 알려져 있다. 천황제 에 대한 지지는 강하고, 세계주의 와 배외적 내셔널리즘 모두에 비판적이다. 야스쿠니 신사 나 헌법 개정 에는 기본적으로 부정적인 입장을 취한다. 이데올로기의 학술에의 개입 그 자체를 비판하고 있다 [ 14 ] . 덧붙여 1991년 에는 소인으로서 황거 가회 시작 에 참석하고 있다.

또한 열렬한 다신교 우위론자 , 반일신교주의자이다. 다신교 는 일신교 보다 본질적으로 "관용적이고 우수하다"고 주장하고 있으며, 계속해서 다신교가 주류인 일본문화의 우월성을 설고 있다. 그 설은 많은 '일본문화의 우월을 말하는 일본인론 '에 영향을 주고 [ 주1 ] , 그 때문에 우메하라는 나카소네 야스히로 가 창설을 주도한 '국제일본문화연구센터'의 초대 소장으로 취임하게 된다.

일신교적인 사상과 다신교적인 사상에 대해 고대 그리스 의 철학자인 플라톤 과 아리스토텔레스 를 대비시킨다. 아리스토텔레스와 같이 생물의 다양성에 눈을 돌리는 것이 중요하다고 말한다 [ 15 ] .

장기 이식 반대론자로도 알려져 있다. 원자력발전소에 대해서도 1980년대부터 반대론자의 입장을 취한다 [ 16 ] . 동일본 대지진 부흥 구상 회의 에서 동일본 대지진 으로 인한 후쿠시마 제 1 원자력 발전소 사고를 논점에서 제외하려고 한 의장에 대해 우메하라는 원전 사고는 "문명재"입니다. , 그 논의 없이 무엇을 위한 부흥 구상 회의인가와, 사임의 의사를 나타내서 테마로 한 것을, 마찬가지로 회의 멤버였던 「요미우리 신문」의 하시모토 고로가 회상하고 있다 [ 17 ] .

일본 한자 능력 검정 협회 의 오쿠보리 사장에게 의뢰되어 약 10년에 걸쳐 동 협회의 평의원을 맡고 있었지만, 그동안 회의 출석 등의 평의원으로서의 활동을 전혀 실시하지 않았다. 2009년에 발각한 협회 운영 문제에 있어서 이에 대해 “신용한 것을 후회하고 있다. 관련 회사에 위탁 등 터무니 없는 것으로 평의원의 기능을 완수하지 못한 자신에 대한 분노도 느낀다”고 변명했다 [ 18 ] .

인간 관계
가계
친부·우메하라 반지는 공학 박사 로 도요타 자동차 상무 이사와 도요타 중앙 연구소 대표 이사 소장을 맡았다. 연애의 실패로 마음에 상처를 입고 카바레를 경영하고 있던 곳을 도요타 키이치 로에 끌려 기술의 세계에 복귀해, 후에 도요타 코로나 를 설계했다. 저서에 기술자로서의 경험을 정리한 「순중의 불순」(여명서방, 1974년), 자전적인 「평범 속의 비범」(佼成出版社, 1990년)이 있다. 소설가의 오구리풍잎 은 양모·순의 형에게 해당된다. 마찬가지로 소설가인 코나카 요타로 는 양모의 조카 남편에 해당한다.

장남에게 예술 학자 · 미학자 로 교토 조형 예술 대학 예술 학부 교수의 우메하라 켄이치로 , 그 아내는 노벨 상학자 후쿠이 켄이치 의 딸 미야코 [ 19 ] . 장녀에게 바이올리니스트로 교토 조형 예술 대학 비상근 강사의 우메하라 히마리, 그 남편은 교토 조형 예술 대학 부학장으로 건축가의 요코우치 토시토 [ 20 ] .

교우 관계
가장 친한 친구는 쿄다이 철학과의 동급생인 하시모토 미네오 와 후지사와 레이오 , 리츠메이칸 대학 근무 시대에 동료였던 시라카와 시즈 가 있다. 어렸을 때 가장 친했던 것은 겐료코 였다고 한다.

경대철학과의 4년 선배에 해당하는 우에야마 하루헤이 도 가장 친한 친구이며, 우에야마에게 초대되어 당시 교토대학 인문과학연구소 교수의 쿠와하라 타케오 와 알게 되어 교우를 깊게 하여 지우를 얻게 된다.

시마 요타로 와는 오랜 교우가 있어, 시마의 작품인 ' 공해의 풍경 '의 정직한 비평을 냈지만, 그를 격노시킨 이래, 2명은 개 원숭이의 사이가 된다. 그 후는 와쓰지 테츠로 문화상 의 전형위원을 서로 맡은 인연으로 사이가 고쳐, 사마의 사망에 관해서는, 추도문도 쓰고 있다( 국제일본문화연구센터 설립 이전, 우메하라는 사마에게 평의위원으로서 선출하려고 간청했지만, 거절되었다).

생전에 교류는 없었지만, 미시마 유키오 와 같은 연령이며, 미시마의 사후에 우메하라의 도약이 있었기 때문에, 「미시마가 자신에게 옮겨갔다」라고 생각하고 있다. 타카하시 카즈미 와는 교우가 있어, 타카하시의 죽음 후, 자신은 긴 것을 쓰게 되었기 때문에, 타카하시가 옮겨 갔다고 말하고 있다.

사상
우메하라 일본학
40세가 지날 때까지 단저는 없었다. 스스로 저작권의 자서에서 말하는 바에 따르면, 이것은 "처녀작이라는 것은 머리끝부터 꼬리까지 모두 독창적이어야 한다"는 자기 신념 때문이었다고 한다. 1965년, 불상 안내의 텔레비전 프로그램의 사회를 해, 이것을 책으로 한 「불상-마음과 형태」를 사와 타카켄 , 모치즈키 노부나리 와의 공저로 간행, 매일 출판 문화상 을 수상. 1967년 중공신서 로부터 『지옥 의 사상』을 간행하여 고대부터 미야자와 겐지 , 다자이지 에 이르는 기술을 실시해 베스트셀러가 된다.

그 후, 일본 불교의 연구를 실시해, 석가 에서 인도 불교 · 중국 불교 를 거쳐 가마쿠라 신불교 까지를 말하는 장편의 불교사 「불교의 사상」(공저)을 저술했다. 게다가 많은 대담 등의 책, 「미와 종교의 발견」등의 논문 집간행의 뒤, 창간된 문예 잡지 「스바루」를 무대로, 고대사에 관한 연구적 평론의 연재를 시작한다. 이 박한 지식에 의한 대담한 가설에 의해, 「우메하라 고대학」 「우메하라 일본학」 「원 령사관」이라고 불리는 독특한 역사 연구서를 다수 저술하고 있다. 우메하라 일본학은 주로 3개의 기둥으로 이루어진다.

『고사기』의 신화에 관한 독특한 해석. 논문 「신들의 유축」으로 전개. 『고사기』의 신화를 사실도 아니고, 전혀 픽션이라고 하는 것도 아닌, 후지와라 부비 등에 의한 율령 국가 의 「이데올로기의 책」이라고 하는 해석이다. 동시에 '고사기'를 설교한稗田阿礼은 후지와라 부비 등이라는 설을 세운다.
호류지에 건립에 관한 독특한 해석. 『숨겨진 십자가 -호류지론』( 1972년 )에서 전개. 호류사 를 성덕태자 일족의 영을 봉쇄하고 진정하기 위한 사원으로 하는 설. 그 중에서 대담한 가설을 간행해 매일 출판문화상 을 수상하고 있다.
감 본인 마로 의 평생에 관한 신설. 「수저의 노래」(1972년 - 1973년)로 전개. “감 본인 마로는 낮은 신분으로 젊어서 사망했다”는 근세 이후의 설에 차이를 주고, 높은 신분이며 고령이 되어 형사했다고 하는 설. 정사에 남는 인물, 카키모토 가루 를 감본인 마로로 한다.
우메 원설의 신봉자의 유명인에게는 이자와 모토히코 가 있다(단, 「수저의 노래」가 성립되지 않는 것을 소설 「사루마루 환시행」으로 주장하고 있다).

비판
국문학 , 고고학 , 역사학 의 입장에서는 비판도 많다. 예를 들면, 호류사를 성덕태자 일족의 진혼의 사원으로 하는 사고방식에서는 사카모토 타로의 「호류지 원령사설에 대해」(『일본역사』 제300호)를 시작으로 엄격한 비판이나 반론이 나오고 있다. 또 '물바닥의 노래'에 있어서의 감본인 마로수 사형설은, 마스다 카츠미 등에 의해 비판 논문이 제출되고 있다.

불교 학자의 가미야 겐쇼 는, 요시모토 타카아키 ·우메하라 맹·나카자와 신이치 의 3명의 공저 “일본인은 사상했는가”(신시오샤)에 대해, 이 3명은 “불교의 기본적인 “상식”마저 모르고 마음대로 발언을 반복하고 있다” “본서를 써 평의 대상으로 선택한 것은, 그러한 어려운 것을 단지 팔기에 맡길 수 없었기 때문일 뿐”이라고 격렬하게 비판하고, 단순하고 기본적인 오류나 모호하고 설명 부족한 부분도 적지 않다고 고언을 나타내고 있다 [ 21 ] .

또 우메하라는 국제일본문화연구센터 (일문연)의 창설에 힘쓰고 1987년 닛분연의 초대 소장으로 취임했다. 그러나 닛분연에 대해서는 당시의 나카소네 내각 과의 거리의 근접이나 구상으로부터 불과 수년만에 설립에 이른 경위, 소장을 맡는 우메하라의 학자로서의 자질 등이 각 역사 학회에서 문제시되고 있었다 [ 22 ] . 그러나 그 중에서 정말 비판되고 있던 것은 소장을 맡는 우메하라의 연구 자세 그 자체였다. 2016년의 일문연에 관한 토론회에서 미야지 마사토 는, 「학문이라고 하는지, 철학도 아니고 역사도 아니고, 그러한 생각을 태연하게 말한다는 것은 견딜 수 없다」라고 우메하라의 학문 자세 그 자체가 학계로부터 혐오되고 있었다는 것을 밝히고 있다 [ 23 ] .

인류 철학
'인류철학'은 초기 서양철학 · 실존주의 연구, 그리고 일본문화연구·우메하라 일본학을 거쳐 2013년 '인류철학 서설'(이와나미 서점)에서 제창된 철학적·윤리학적 주장이다.

우선 우메하라는 그리스 철학 을 기원으로 하는 서양 문명에 특징적인 철학 philosophía의 본연의 자세를 지적한다. 「중국 철학」이나 「인도 철학」이라고 하는 부르는 방법은, 서양 철학의 기준에 맞추어 그렇게 부르고 있을 뿐이며, 「철학 philosophía」는 아직 서양 철학밖에 없다,라고 우메하라는 말한다. 우메하라는 서양 문명의 틀 안에 머무르지 않는 모든 문명·문화권, 지구의 모든 인류에 대응할 수 있는 '인류철학'을 세우려고 하고, 그 열쇠가 되는 개념을 불교 용어 '초목 국토오 다카미불'로 제시한다. "인류 철학 서설"에서는 우선 근현대 철학의 비판적 검증이 이루어지고 있으며, 르네 데카르트 , 프리드리히 니체 , 마르틴 하이데거 를 주요 비판 대상 (긍정적으로 평가하고 있다는 점과 우메하라 자신이 영향을 받는다. 서점 철학에 있어서의 인간 중심주의의 문제와 그것을 서양 철학의 틀 안에서 극복하려고 하는 것의 한계가 논해지고, 그 위에 ‘초목국토오 모두 성불’에 이르는 논의가 전개되고 있다.

사회 운동 : 구조의 모임
우메하라는 일본국헌법 제 9 조의 개정 저지를 목적으로 하는 사회운동구조 의 모임의 호소인의 한 명이었다 [ 24 ] . 2004년 6월에 9명의 작가·철학자에 의해 결성된 구조의 회는, 그 후, 과학, 스포츠, 종교, 의료 등 각 분야나 지역에서 다수의 지지자를 모았다. 우메하라는 "정치의 흐름이 옳고 오른쪽으로 가고 있기 때문에, 톱니로 쿠조를 지킬 필요가 있다는 의사표시를 하고 싶었다"고 말하고 있다 [ 25 ] . 헌법 9조 교토의 모임의 대표 돌보는 사람으로서 2011년 5월 3일에 개최된 「5·3 헌법 집회」에서 강연을 실시했다 [ 26 ] .

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Takeshi Umehara

From Wikipedia, the free encyclopedia
Takeshi Umehara
Umehara in 1967
BornMarch 20, 1925
DiedJanuary 12, 2019 (aged 93)
Education
Alma materKyoto University
Philosophical work
SchoolKyoto School
InstitutionsInternational Research Center for Japanese Studies
Kyoto City University of Arts
Ritsumeikan University
Main interestsPhilosophy

Takeshi Umehara (梅原 猛Umehara Takeshi; March 20, 1925 – January 12, 2019)[1] was born in Miyagi Prefecture in Tōhoku and graduated from the philosophical faculty of Kyoto University in 1948. He taught philosophy at Ritsumeikan University and was subsequently appointed president of the Kyoto City University of Arts. He is noted for his prolific essays on Japanese culture, in which he has endeavoured to refound the discipline of Japanese studies along more Japanocentric lines, notably in his book Nihongaku kotohajime (日本学事始) written in 1972 in collaboration with Shunpei Ueyama. Aside from his voluminous academic essays on numerous aspects of Japanese culture he has also composed theatrical works on figures as varied as Yamato Takeru and Gilgamesh.

He was appointed in 1987 to head the International Research Center for Japanese Studies, otherwise known by the abbreviation of Nichibunken, established by Prime Minister Yasuhiro Nakasone to function as a centralized academic body collecting and classifying all available information about Japanese culture, both within Japan and abroad. He retired as head administrator of Nichibunken in 1995.

Early years

His mother Chiyo Ishikawa died early while Umehara was being breast-fed, and his father was still a student at Tohoku University. Arrangements were made to have him looked after by relatives, and over New Year 1927, aged 1 year nine months, Umehara was adopted by his father's brother Hanbei Umehara and his wife Toshi, and raised as their foster child.

Throughout his education, from primary through to tertiary level, Umehara was by his own account an indifferent student. He was in his primary school years somewhat of a daydreamer, preferring play to study. After graduating from Tokai High School in Nagoya, he gained entry in 1942 to the Hiroshima Higher Normal School, but withdrew after only two months, and, in the following year, he managed to obtain a place at the Hachikō (Eighth Rank) High School in Nagoya, under its Principal Itō Nikichi (伊藤仁吉). Over the following two years he developed a passionate interest in the philosophies of Nishida Kitarō and Tanabe Hajime, the intellectual leaders of what was known as the Kyoto School (Kyōto Gakuha), a circle of conservative modernists who gave substantial theoretical backing to Japan's imperial outreach during the period known as the 15-year war. Umehara was also attracted by the philosophy of ethics being worked out by Nishida and Tanabe's former colleague, Watsuji Tetsurō, who had now shifted to Tokyo University. Reading their work made Umehara resolve to dedicate his life to philosophy.[2] On graduation from his secondary schooling, Umehara won a place at Kyoto University. By that time, both Nishida and Tanabe had retired, and Umehara's father, a practical man with a career in the Toyota company, initially opposed the idea of him studying philosophy. At his son's insistence, however, he relented and gave his permission. Soon after his admission however Umehara was conscripted into the army, and only managed to return to his studies in September of that year. He graduated in 1948.

Religion

Professor Umehara did research on Japanese religion and Japanese Buddhism. His research followed that of Nishida Kitarō and he initially studied Western Philosophy. He conducted research on western philosophy, including Hellenism and Hebraism in Western Philosophy. In his work, he criticized what he saw as Anthropocentrism in western philosophy.[3]

Noh theatre

In 2008 Umehara began to publish modernized version of Noh theatre.[4]

References

  1.  Influential Japanese philosopher Takeshi Umehara dies at age 93
  2.  Umehara Takeshi, Nihonjin no「ano yo」kan ChūōKōron, Tokyo, 1991 p.164
  3.  『鼎談 梅原猛の世界』(東浩紀; 梅原猛 (July 2012). "草木の生起する国――京都". In 東浩紀 (ed.). 日本2.0. 思想地図β; vol. 3. ゲンロン. ISBN 9784990524357.凡社、1995年)
  4.  Yuka Nishimoto 'Philosopher Takeshi Umehara creates modern-day Noh for today's audiences,' Asahi Shinbun, January 11, 2013

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