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「日本国政府に捨てられた中にいた」 旧満州で“難民”となり、家を転々と…戦争は14歳の少女をどう変えたのか【報道特集】
1]
戦後19年。14歳の頃、旧満州で終戦を迎えたノンフィクション作家の澤地久枝さん(93)。
少女時代の戦争体験、そして「新しい戦前」にしないために今伝えたいことを聞きました。
▼TBS NEWS DIG 公式サイト https://newsdig.tbs.co.jp/
戦争ってことを考えた時に配線の時には
えささんは満州え私はね当時の満州ね今の
中国の東北地方ねはい4つの時に行ってる
わけですねでそれ我が家はね理想も何も
なくて父がその大苦で人生を始めての4つ
の時に両親がもういないというかわいそう
な境遇の人ねどうやって大工さんになった
か知らないですよでも大工になってそして
頭領になって何人か人を使うようになって
不景になってで昭和の初年からの日本の不
景ももう深刻でそのアメリカのウォール街
のストリートの大暴落の1年ぐらい前に
日本の経済もダメになってるわけ世界ね
はいそれで父は働いても1円も人もないと
いうことで母は父を見ていてあの放って
おけばこの人はその若いうんのようにその
悪いやつというか不良なの生活にまた行く
んじゃないかと思ってで母がその就職運動
して父は満州へ行ったんですあああのだ
からその皆さんはいろんな満州に理想を
求めてとかって言っておられるけどやがの
場合は何しろその私1人しか子供はいない
けど親子3人がなんとか食べていくために
母が判断をしてそれでマシ行ったのうん
ええだから父は1番の下から働いたうんと
いううちですあそうですかだけどそれはね
下積みで良かったと思うのは私は小学校の
時に差別という言葉を知ってたもんね
つまり日本人の社会の中に差別があった
それはね中学を出ている以上の学歴のある
人たちはやっぱりねそのいい生活をして
ましたねうんうんであの父はその満鉄と
いうところにそ自分で勉強して勤めてあの
試験が受かってま説にうるけれどもここは
ね小学校しか出ていないにとっては厳しい
職場だったと思うのね学歴がないという
ことは非常に悲しいことだったと思うけど
もでも父はあまりそのことを子供の前で
言うことがなかったですねでも私は満州の
生活の底辺に言わばいたと思うのねだから
その引き上げてきてからもの満州の生活が
良かったということは私は言えないですよ
うんうんこれはやっぱりの時代ですよね
うんあの試練は同じように来ましたねその
大学を出てる人にも小学校しか出てない人
にもなぜかと言ったら日本は満州というの
は異業の土地だからうんこれはそのよその
主権のある土地へ行って無理やり作った国
ですからねだからね負けた後は本当に
みんな無惨でしたねあの誰にも守って
もらえないような人たちですよ州の中での
本ってどういう地位にあったんですか日本
人はねやっぱり我が家を含めてねやっぱり
支配する側にいたと思いますねそれはだっ
て中国人はニーアと呼ばれてで日本人に無
なことを言われても反抗しなかったものね
ニーヤっての私は2を歌って2から来たと
思うのよニーやっていうのはねニヤって
いうのはあのあなたっていう意味で使って
いたけれどもでもこれあなたていう2って
いう言葉が中国語にあるから2を誰が
ちゃんと聞かないでニアにしたんじゃない
かと思ってますね
ああそうなんだろう占領者と非占領者
みたいなそういう感じですもうでも満州国
を作ってから占領者って意識はないですよ
うんま満州というところはもうその我が家
のような感じでしたもの
ああ住んでる場所も日本人だけの街ができ
てるわけねだけどそのちょっと外れから
行くと中の家があるわでこれはね中国の
エリートたちの家だけれどもあのレガと
普通はまこんなような色でしょだけどしし
レガっていうのはこんな色なのグレーなの
うんあでだから見るとすぐ分かるそしてね
中国人のその社宅は2階がないの平屋なの
うん
うんだからその建物だけでも違いますね
許さなかったと思いますよ中国人がの建
立てること特にきのようなその決してその
心境というのは首都だからけども首都は
そうではないかもしれないけど輪っていう
のはやっぱりあの北さんていうところが
あってね小京都って言われたような町です
けどここは古いものが残ってましたねだ
から平屋ですようんうん私はね小学校の時
にはね中国人の友達がいっぱいいたの言葉
は何喋ったかは記憶がないけど中国ができ
なければ付き合えないような子たちと一緒
にすぐ隣が道を挟んで隣が小学校中国人の
小学校だからここへしそっち遊びに行って
てここの子たちと仲良くしてたでも女学校
行く頃から行かなくなっただから絶対に
対等なんかではないですよねだからその
満鉄というところで雇われている中国人も
いるわけでもこの人たちはねその言われた
仕事をするだけじゃなくて例えば我が家へ
はそのあの枕ぎってほ鉄道の下にあるあれ
を焚き物にしてたわけとマギをこのままで
は先物にならないから巻きありまマギを
割る人はその中国の人が地に言われてき
てるわけはいはいで私が覚えてるのはね
遠足に行ってで母がその遠足に持たせて
くれた炊き込みご飯のおにぎりおにぎりが
ま3つあったとしたら1つしか食べないで
あと2つはちゃんと包んで持って帰ってき
てうんで母親にこれはどうするって自分で
聞いたわけそそうしたらそのニアが来てる
からあげればいいでしょって言われて私は
悪い気持ちはないのよ自分も食べたもんだ
からでうんあげようと思って言ったしたら
プヤほっていらないって言われてこの言葉
の強さねそん時私はやっぱり叱られたと
思ったそれは忘れませんよそういう関係よ
それは何だろういやいらないそのいらない
よ日本人に施しなんかもらうかってことだ
と思う
ああこちらは子供ですよ小学生だから見れ
ば分かりますよねだけどプヤって言った
あの言葉の強さはねノっていうのよりも
もっと強かったでもそういうものは忘れ
ないですよ
ねでもだからと言って日本と中国の関係が
分かったかと言ったらそれはその場限り
でしたね引き上げてきて何年も経ってから
満州というものを考えるようになってあ
あの時のあれは彼が本当に自分の意思で
行った脳だったなと思った
もの経験してる人はいっぱいいると思うわ
よ満州にいた人でそういう中国人といやで
も接点があるんだからでもその対当な接点
ではないんですよね使われてるものと使う
ものの立場
です負けたとなるとそこ一体どうなっ
ちゃうんだってことですよねあのねあの道
を挟んで隣が中国人の学校でここにねもう
そのソ連が参戦した8月9日より以前から
だと思っと日本の兵隊さんがいたの大勢屯
してたのねで指揮官に当たる上官はみんな
逃げていないので兵隊さんたちはどうして
いいかわかんないからここにいてね官逃げ
たのいないの上官いないのだからその指揮
官がいないからあの日本は負けたってこと
まだわからないでその時に兵隊さんたちは
どうしたかていうと近所のうへ来て我が家
なども勢の兵隊さんが来てお風呂へ入る
わけうんでその平太さんはそのお風呂へ
入ってわやでみんなこう寝そべったりして
ましたよ何にもできないのよ
ね上官逃げた上官いないのだから命令を
する人が逃げていないのよと兵隊さんてね
本当に運の主って言うけれども兵隊さん
たちもね逃げていいのか逃げればいいん
ですよ誰も逃げない
のそこでね何が来るかって言うと何日か
20日ぐらいしてそれ軍が真中してきたで
私なんかも見に行きましたねすごい大きな
戦車だったで戦車の前にそのボロボロの軍
もう本当にボロボロの軍服を着たソ連の
兵隊が座っていたでもこの時にはまだ女
がりはなかったですね兵隊さんたち見た
わけ日本の兵隊さんもでこの夕方から兵隊
さんたちはソ連の捕虜になってでその先人
君の歌っていうのがあるのねうんでそれを
歌いながらみんなちゃんとその大後を組ん
でで捕虜になりにみんな行ったそれまで
何にもできないで我が家お風呂に入って
昨日までお風呂に入りに来てた人たが全部
捕虜になっていったそれでね捕虜になって
いく時にね銃とかねその軍隊に関係のある
ものマントとかいろんなものをねしって
いるわけですよねみんなその万人の小学校
の庭にみんな置いてくわけでこんなに軍旗
の山ができたのね一晩眠った次の朝は
中国人が来て全部持っていって何にも
なかった日本人は怖いからね我が家兵隊
さん置いてたものをねもらったものなんか
みんなそこへ持って行ってたのつまり日本
の兵隊とは関係がありませんっていうため
になんかいろんなものもらったわよカパと
かねでもねそれ食べればいいねみんなその
時に持ってって捨てた
の怖かったんだやっぱ日本軍と関係あ
るっていうだけでうんそうなのね何そるか
わかんないでもね最初はその何にもしない
兵隊さんでその次にそのボロボロ来てたん
兵隊さんが来て我が家もドアなんかまだ
閉めてないから入ってきてで時計が欲しい
だろうと思って置時計なんか渡すと何にも
取らずに出てったのその次に来たのは女
がりこの時に来たのはね私もよく覚えてる
けどね我家はねその南満州じゃない北国境
の方からね初会してきた日本人家族を
それぞれの家庭が引き受けていてうちも3
家族ぐらいだったのねそれでどうして入っ
てきたかわからないけれどもある日ねもう
冬が来てるから10月ぐらいの時ですけど
ね2人の青年証拠が入ってきたのねで私は
その時ねあのいろんなおばさんもいるわけ
だから私はねあの自分の付けにこしかけて
りんごかじってたのそしたらね入ってきた
ね証拠がねサーベル抜いてねその切先私の
とこに来たのよそれでねあの来て引き寄せ
られてで私は必死になって抵抗したわけね
ということがあったでこの時は何も起き
なったけれどもで抵抗していてこの2人の
その青年証拠は出てったのよねで1人が
残ったんだってで私は玄関の方の押入れ
物置きに隠れたのその後とねうんであの
そこに小さくなっていたらまた戻ってきた
のよでそこへ物置き入ってこようとしたの
ねで母が抵抗したのねで私はこっちから見
てるわけねで母が抵抗してるなと思ってで
母は抵抗してうんどうにもこの人たち
引き上げてで今夜この家族は全部殺してや
るって言って出ていったそうよそれが
ロシア語がね分かると生してる朝鮮の人が
我が家も父が連れてきていたわけ妻とむ
赤ちゃんを連れてねでその朝鮮の人は
みんなこう言ったって言うのよねで私は
そのよそのうちに疎をしてでもやっぱり
その恐怖で吐い
た吐いた
でもね私はだから何も起きなかったって
言えるけれどもでも知ってる人の中には
連れて行かれて2週間も返されなかった人
があるでそういうその返されない2週間に
何をされたかていうことはみんな分かって
いるけれどもでも誰も何も言わなかった
です
ねでも警察はないし軍隊もないんですよ
その軍隊はむざむざと全員捕虜になるよう
なになっていたんだ
もん難民生活はものすごく長くつい1年間
ぐらいいそうですね住んでいた家を出され
てで点々としましたねうん
ああ難民っていう言葉は今私たちの言葉で
言え
ば中東の国が壊れてシリアとか
あリビアとかそういうアフガニスタンとか
そういうところから逃れてヨーロッパの
ところにあの船の中にいっぱい人がいて
途中溺れ死んだりなんだりたくさんそう
いう人たちを称して難民称してねあるいは
東南アジアから出てきた人たちがえこれも
密行してきてみたいなそういう文脈でしか
日本の今の若い人たちは自分たちに関係
ないと思って見てるでしょうねだけどでも
今の若い子たちの祖父母は確実にその海外
にいた人たちは難民ですだってでねその
日本国の政府っていうものはゼロだもの
あの何のあの保護もしなかったですね
そしてねあの今記録を見てみるとねそ外交
官がねあの海外にいる日本人はねなるべく
その今のいる場所でねそれまでの仕事を
続けて長くいてもらいたいっていうこと
言ってるものだ仕事なんか続けられる状態
じゃないです
よ完全にだから日本国政府も捨てたんです
よ
私はだから今そのいろんな資料を読んでい
てねあこの捨てられた中にいたんだと思い
ます
ねだけどね帰ってきた頃ね引き上げ者って
いうのはねやっぱりあの差別の言葉だった
引き上げ者が帰ってきてもらいたくないん
ですよね日本にいる人たちはだってこれ
だけの枠の中で生活していたらあげてきて
これを大きくするっていうのは何の手立て
もないんだもんとみんな自分の生活守るの
一生懸命だからだからその私は忘れられ
ないのは引き上げてきてま1年の難民生活
の後で引き上げてきた時にねお前たち人間
の川来た毛物だって言われたのを覚えてい
ます
ねでもそれくらいの憎しみがあったわ
ようんだけどやっぱりその1年ちょっとの
その難民生活は私を変えただろうと思うわ
ねうんやっぱり難民生活って辛いもんです
よねだってねお風呂もないしね洗濯もでき
ないし
ねやっぱり外で水字をしてっていう生活は
辛いです
よお風呂なんか入れないというどうしてた
ですかんお風呂なんか入れないと
そう入たああ1年の中で1回だけえっとね
難民生活中にねその社宅で過ごしてる時は
あの多数家族になってからもまだお風呂に
は入れたと思うけれども特にひどくなった
のは廃線の翌年の4月にあの兵で弊社で
暮らすようになってからはお風呂はないの
ねないおせだってあの筋するところも外
ですもんうん組んできてそこで水流をして
ていう生活だからそ今ここに暮らしている
けれども明日どうなるか分からないつまり
占領者というものがいてで日本人社会と
いうものは言われるまま
に従う以外にはないんですからそれともう
1つは伝線病はすごく蔓延したああの発信
チブスっていうのがすごく蔓延してこれで
大勢の人がなくなりました
ね病気に対して無抵抗なんだ
もん子供も死んだし大人も死んだ特に
収容所で死ん
だ病気になってもお医者さんがいないのよ
ねその伝線病だからね1軒の家で1人が
8cmブスになると次の人もなるのだから
2人3人って病人が出るんですよねそれで
我家の場合は近くにね衛星兵出身のがいた
のうんでその人が引き受けてくれてうちの
父親とその家のアジとは2人はその人の家
へ行ったのねそれで助かったんです
ね私が引き受けるからって言って連れてっ
てくれた
のささんたち子一家がえ引き上げたのは
いつ頃です
か林から本店へ出て店に出て引き上げ列車
で本店へ出てそれから店からこれ時間は別
としてね本店から近県近県っていうところ
行ってで近県から近県の収容所にしばらく
いてそれからまたあの列車に乗せられて港
へ行ってそこに来ていたアメリカの常陸用
集てに乗せられて帰ってきたん
ですこれはどのぐらいの大きさのもんなん
ですかどれぐらいて言われても何とて言え
ないけれどもすごい数の人そんなに大きな
船ではないですねああだから限界ななんか
ではひどく揺れたしええあれでも2000
Tか3000Tぐらいあったんですかね
そんなもんだろうと思う乗ってたのはどの
ぐらいの数の人が乗ってたんですか乗って
いた
数何人乗れたんですか
ね私は人数なんかよく覚えてないけれども
でも500人前後だと思ううんこういう
船底ですようんうんあの上陸予集だからね
うん
うん戦争終わったらアメリカも使わなく
なった船を回したわけですよ引き上げにね
長い階段ですよねうんあのなんていうか
看板までねはいはい看板までねで私たちは
その幸いなことにこの上の方のこのヘの
ところに当てられてここにいたけれども
友達に会いに行くのはこのはしご団をこう
やって降りてから怖いですよあの長いはご
段ねでもそうやって会いに来ました
ねその頃のことで語っていただけることは
ありますかその乗られた船のことで水槽
っていうのがあった人が船で死ぬでしょ
そうするとねちゃんと包んで水槽にするの
ね水であの水のつまり海に投げるの水槽
ですねそうだからねこの時はねやっぱり
生まれて初めての経験ですからね水槽に
会うなんてねでやっぱり私たちはカパに出
てで見守ってましたんでしっかり積まれた
ものがね
あの千美に吊されてで落とされるのよねで
船は落とした後ぐるっとこう一周してで
警笛を鳴らしてでまた進んでいくという形
の水槽っていうのを生まれて初めて見
たはさんそれご覧になっててどんな気持ち
をしましたんですかまあねでもあの時の
神経っていうのはねうんやっぱり負けたと
さんからのもう人が変わったような神経に
なってるから耐えられたんですよね
いちいちなんか怒ったりなんかしてない
もん
ね感情はなくなるの感情はもう自分も抑え
ていたと思うけれどもうん感情はないです
ねでも船が出て両頭半島が向こうの方に
見えた時にはあの声で別れていくんだって
いうそういう干渉はあったんですよ
やっぱり私は満州に非常に執着があった
ああもう2度と来ることはないと思って
いるしだけどまその両と半島は旅順があっ
て大連があって修学旅行でいたところだ
けどもまつまり満州の見納めねうんで船だ
からそのノロノロ走ってるからいつまでも
見えるのよねでもそん時になんかやっぱり
故郷から離れるって感じがあったんですよ
あそうみんなそういう気持ちを思ったと
思う故郷じゃないんだけどね
ああ船の航路ではどのぐらいの時間かかっ
たんですか近県から出ていや富山なんかに
は関係ないからえっと近県からなんか
真っすぐに来て限界なだで揺れてそして
博多だったと思いますなるほど
その数日ん何日かかったんですかいやそれ
がね記憶ないんですけど1週間ぐらい
かかったような気がするけれどうんもう
大体日数なんかをカウントするような余裕
なんかないですよねそうね大体そのこちら
は子供だからうんの何日かかってなだと
考えてないですようんだけど親たちはうん
手持ちの食料がいつまで持つかというよう
なことがあるじゃないですかうんうんうん
うん船の食事ではとても足りないからうん
うんだから私はもう船に乗ってしまって
から私はもう大人みたいな生活してたけど
船に乗ってからもう子供の領域に帰ってる
からうん記憶がないですね何していうのは
記憶がないなともかくその上陸できないん
じゃないかと思っていた病人が1人船の中
で出たらその船は止めてかれるんですよ港
の外
に1人でも出たら船船そのものが止め
られるわけ上陸できないので博多へ着いた
時ね何隻か止められていたのうんうんで
私たちの船も誰か1人でもその赤金とか
そういうものが見つかればそうなったのね
だけど誰も出なかったのね幸いなことにだ
からうん博多港にいられる時間はほとんど
いなくて上陸しましたねうんうんで上陸し
てねあの最初にやられたのはDDTを巻か
れたでもう頭の上からもう真っ白になる
ほどでDDTなんてものを知らないから
あの本当にあのもう真っ白になってで外を
見たらね建物の外を見たらねアメリカ兵が
ね日本の女の人を抱いてるわけよこれも
ショックでした
ね何もそんなとこで抱き合わなくたって
いいと思う
けどうんでも粉まみれになって出ていた時
に目にしたのは米兵に抱かれてる日本の女
だったこれも忘れないですよ
ねで博多のあの港にあったそのこんな三角
みたいな屋根だけあるのとこに一晩止まっ
てそしてその引き上げる下で帰ったんです
====
「九条の会」唯一の生き残りが語る“憲法”と“沖縄”、そして若者に託す希望…「新しい社会を生きていくと自覚してほしい」【報道特集】
2]
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戦後19年。14歳の頃、旧満州で終戦を迎えたノンフィクション作家の澤地久枝さん(93)。
少女時代の戦争体験、そして「新しい戦前」にしないために今伝えたいことを聞きました。
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Transcript
私はあの1963年からほぼ10年
1973年まで作家のゴミ川純平さんの
助手だったわけですでその助手って言って
もいろんな助手があると思うけど私の場合
はゴミ川さんの対策の戦争と人間について
のあの基本的な資料を調べるそして中央書
という仕事を約10年やったわけねで私は
その前歴史を先行してもいませんから編集
者としてのキャリアが9年ぐらいあった
けれども体を悪くしてやめてでゴミカさん
のとこでゼロから始めたわけですで今その
延長上に延長戦上にあると思ってますね
ああやっぱりゴミ川さんの上昇されたって
いうゴミ川さんは戦争ですよあの人の
テーマはね人間の条件に始まってねでその
戦争でゴミ川さんも最後に招集されて生き
もう4人しか生き残りがいなくてで最後は
ゴミカさんしか生きていないといううんに
なっただからゴミさんにとっては戦争と
いうものをね日本人の生活の中から抜きに
しては絶対に考えられないというテーマ
だったわけそれでその人間の条件では書き
きれなかったものを戦争と人間という
ところ作品で時代もその最初の構想では
東京裁判極東国際軍事裁判まで書くあれ
でしたけれども昭和3年のあの中国出平
から書き始めてという非常にの大きな構想
の女子を私はやってで中というものをね
その長い文章になってもいいと言われてで
もそのずっと名前を伏せていましたからだ
からその男の分隊でずっと中かいてたのよ
無名でねだからそうね18巻のうちの14
巻ぐらいまではそうでしたねうんまそう
いう仕事をしてだから今の私はその延長
戦場にあると思ってますあそうですかはい
やっぱ
ゴミ川さんのあの戦争を巡るええだから
ゴミ川さんが自分の人生と戦争というもの
をやられたようにゴミカスがなくなった後
はやっぱりそれを受け継いでいるところが
私は無意識のうちにあると思いますね
ああ九条の会はいっていうのを作られた
じゃないですかはいでその呼びかけ人の
1人として名を連ねられてるでしょはい
救助のきのこのただ1人になった正直言い
ますけどねよくこんなに立場や意見の違い
がある人たちが九条の帰って1つの会
なんかを作れたなと思うわけですよえでも
一緒に講演会行きましたからねこの
メンバーでいや例えばだって大江健三郎
さんと織田誠さんな全然違いますよ違って
もいいんですよ1つの目的がね共通ならば
つまり救助を守ろうというその立場ならば
それ大さんもも田さんもないのよみんな
そのために一生懸命やったんですその国ん
ですよですよねだから台なんかは本当に
半分ぐらいの人が言ってますよ加藤さんも
行ったし美木夫人も行ったし私も行ったし
井久さんも行ったそういう風にねその講演
会を全国でやったのよねもう本当に盛でし
たねこれまで1回も改正されてないんです
からそうですよねでこれは変えるべきじゃ
ないっていう風にやっぱり国民はあの思っ
ていて
えそれあの現実としてあるんだと思うん
ですがえ一生懸命変えようとしてる人たが
いるでょもう実質においてねそのえっと
憲法の条文を骨抜きにして違う現実があり
ますうんはいでそうではないと言ってまだ
憲法だと言ってる人たちもいる世の中には
ねそれで憲法なんて言うけどねこれ六法
学生六法だと思いますけどこの六方前書の
何ページでもないんですよねうん本当にね
これぐらいページ数しかないんですでも
憲法の全文なんかを時々読んでみるけども
非常にい日本語ですね私はねいいと思い
ますねあのもう短い文章だからねあのいい
ですよでもこれはの平和ということとそれ
からの日本は武器を持たないそから戦争は
しないとことを球場ではっきり言ってる
わけでこれは今の日本っていうのはもう
憲法違反もいいとこじゃないですかあの
自衛隊がねどんどん大きくなってねこの
憲法の救助とどれだけ今日本の現実がの
置かれているかっていうことはねみんな
考えた方がいいですよだけど憲法をね
変えるということをね例えばそのその時の
政府が自民党である社会統計であれねの
憲法を変えると言ったらこれは反撃強い
ですよだからみんないじらないのいじら
ないでどんどん実質を変えたのねこのね
この目くらましみたいなものはすごかった
と思うでねその気がついてる人たちは
みんな反対してきたけどもそれが大きな
ものにならないしなんとなくこの臭いもの
に蓋をするみたいにねあんまり触れないで
おこうっていう感じのものもあったでも
もうここまで来てみたらもうアメリカと
日本と自衛隊とアメリカ軍とがその1つの
その組織としてね軍隊としてので統合部
なんていうのかな統合令部をね司令部を
作ろうとしてるでしょでもうこれはね戦争
行くそのための準備ですよでアメリカは
世界中でやってるじゃないですかドンパチ
をねでその国のそのなんて言うか
な頼りになる相棒になろうとしてるわけ
日本はねでその日本も制度を変えようとし
てますよ国会前にあの安保法制の時に
私たちメディアの人間も僕は特にあの問題
ってのはものすごく大きな問題だと思った
んでええ安保法制に反対するあれ今から
考えるとなんであんなに熱気があったんだ
と思うぐらいものすごい大きな運動になり
ましたよねえあのいくつも集会があったん
ですそしてね鳥越さんから連絡があってね
つまりいろんなところでみんながやってる
のに何我々は何もしなくていいのかって
いう鳥越さんが私に質問したんですよだ
から何かやりましょうってことで私たちは
声をかけて170人かのの参道の人ね
呼びかけの中心になる人たちをねもう本当
にねあのそういう文章を書いたことがない
からねあの時は苦労しましたああでも大勢
の方が賛同してくださってで当日は本当に
あの私は本当に参加してるけれどもあの
入れないっていう感じでしたすごい数の人
が集まりましたよねはいはいそうですだ
からそれだけねあの安倍内閣をやることに
のうと思う人がいたわけですねいましたね
だからそしかもその安倍さんがやったこと
はねこれは今も受け継がれていると思う
けども閣議で決めるのよまず良くないこと
をよ閣議で決めてこれがいつの間にか
決まるわけでねそのさ閣議なんかって閣僚
の中にはね問題を起こして首になったり
自分から辞めた人なんかがいるわけじゃ
ないですかそのいい加減な閣議で決めてだ
からあの時だってその閣議が決定をしてで
これは決まったこととして出てきたから
非常に反発があったでもねその閣議を問題
にするところまで行かなかったですねその
後も各位決定ってのはいっぱいあるわ各位
が始まりになるそんなあなたさ悪いけれど
今の政府なんて信用してないですよ私
なんかはねでその政府のやってる閣議が
決めた法律なんか押し付けられてたまる
ものかというのが私の正直な気持ちですね
あの時の熱気はすごかったですねそうです
ねでもそれだけみんなの心の底にはねそう
いうものを許せないというものがあったし
今もあると思うのうんですねでも見た
ところあるように見えないんですよそれが
この社会の問題じゃないですかねうん
なんかその政府の思うままに流されていく
という感じがしますねで私は流されないと
思ってるからうんあの時に多くの人が掲げ
てたプラカードドってあったでしょうこれ
じゃ
ないいやこれじゃないこれでょこれこれ
ですねねさん金太さんに頼んで書いて
もらったんですこれ現物ですかこれこれ
現物だって敷ですもん見てごらんなさい
これ金子さんが実際に書かれた現物そうこ
私はだって頼んだんだものでも金子さんは
本当にねあの私はもう万年のお付き合いだ
けれどもこういうのはそれについてきた
のもいた人でねあスローガンを書きました
がこれで良いかどうかにご連絡ください見
て名前もちゃんと書いてくれたのご検討ご
検討って書いてあるじゃないですご憲章ご
検討って書い金子太さんのそうあこれ記号
だ
えだこれがねあのプリントしたものがだ
から全国にあのパリにもニューヨークにも
掲げる人がいた今はどうかはあの
ものすごい数の人がこれ持ってましたよ
これ
そうなんこれこれ最初にだからやって
くださいって言われたのはささんがかの子
さんに頼まれたのそう
です
ああそれは鳥越さんとその最初にあの全体
でやろうっていうことで100何人かの
呼びかけ人が集まった時にあのじゃあその
何かスローガンがいるんじゃないですかっ
て私が言ったわけよだあなたがいつも言っ
てるのなって言われた私いつもこう言って
たらしい
でそう言われてねでそん時に誰にも相談し
ないでこれを書いてくれるのは金子太さん
以外にはないと私思ったのそれでねでも
その急いでるからその手紙書いてたんじゃ
ありとか会いに行ったんじゃ間に合いです
間に合わないからそれでその息子さんにと
さんの息子さんに電話をかけてで実はこう
いうわけでこういうものをお父様に書いて
もらいたいと思うけれども例えばフックス
なんかでその原稿送ってもいいものだろう
かって言ったら構いなって言われてそれで
バックス送ったのそしてこれが来たんです
だから非常に早く来ました今でもあの直接
国会にねえええ足を運ばれてるでしょう
その3の月日ですかはいはいこの生殺って
の教えていただけますかあのねあの選挙と
いうものがあってその時にそのいわゆる
その選挙民の意思はの現れると思われて
いるけどでも選挙の投票率もずい分ている
しだから選挙によってあの人々の意思が
現れるということは成り立たないと思う
わけでねもっとその各位に対してねその生
の声で私たちはあなたたちのやることに
反対だということを言いたいのよねでも私
は国会行ったこともないしなか議会の中に
入ったこともないのねでもなんか集まろ
うってことで今あそこで毎月3日の日に
これ3日も必然性はないんですよでこれ3
日になると色々ささりもあるけどもでも3
日の日にあの1時から大体20分ですね
経ってみんなが言いたいことをそのつまり
スローガンを胸に掲げるというのが私たち
の集まりですでね中にはねあのもう80代
以上のお母さんがそのの今の政治に反対で
ねで娘さんはね母の代わりに来てますって
いう人いるでその娘さんだってもう70
ぐらいようんうんでもねねいいじゃない
ですかそういうことはねそれでみんなその
完全に諦めて完全な沈黙になったら政治は
もっと簡単にやりたいことをやりますよだ
けどどこかにそのそうじゃないという人
たちがいてそれが何かそのやろうとする時
にもっと横の広がりを持つようになればで
これは必ず影響力があります反対してる人
たちの言おうとしてることはねだから私は
あの3日の日は無理しても行くん
ですその後見つかった色々な文書とか証言
とかを見るとですね沖縄っていう島が本土
防衛のための捨て石にされたっていう琉球
処分って言われるけれどももう処分して
当たり前と思ってんのよね本土の側はねだ
けど沖縄の人たちはねやっぱり本土を向い
てるのねんまだなんとかしてくれるかなと
思ってけど何度でも裏切られてるのよねで
私は父が私の早稲田第2文学部の早稲田
行く時の入学金が高くてこのお金払うため
に沖縄に出稼ぎに行ってるのだからその頃
沖縄に2年ぐらい行ってるから手紙も来た
しそれからなんかパーカーか何かの万年室
とボールペンか何かをあの公務店の偉い人
に託して私呼び出されてそれ渡されたのね
で大学生にはもったいないような品です
よって言われてそれもらったけれどねそう
いうことがあって沖縄には関心がずっと
あったわけ早くから船で父が出稼ぎに行く
のも見送りに行ってるしね雨の日にねだっ
てそれ変換前だからパスポート持ってか
なきゃいけもちろんそうその時代に父は
行ったわけで父はそこで病気になったと
思うのね早くに父は51で亡くなってる
からね
ええだからね私は父の病気の始まりは沖縄
だと思うの
ねというようなことがあって私はだから
沖縄で2年あまり住みましたよ自分でねで
え沖縄から引き上げてくる時が2000年
の年でそのだからその沖縄の人たとは
かなり親しく付き合ってるでもうちの親
たちはねまずマンシにいる時にその女学校
は出してやりたいと一生懸命に思ってた
学歴の全くないそのためにその差別も受け
て人生がうまくはいかなかった両親です
からだから長女の私は女学校出そうっての
はその頃の願いねでも私が中国に入って
うんを親たちは尊重したわけよねだけど私
も入学金はどうやって払うのかと思った
もんね1期が3500円ぐらいで3期
ぐらいあったかなまその頃の1万円って
かなり大きなお金すごいお金ですよあそれ
お父さん沖縄に出稼ぎに行った出稼ぎに
行ったのだから沖縄って言われると人事
じゃないんですよあやっぱりねだって父が
2年いられたっていうのは沖縄の人によく
してもらったってことですから
ね今その中国を仮想的とした台湾友二
みたいな形でえ自衛隊がどんどんどんどん
沖縄の人たちの意行を無視してこれは国の
先見事項だみたいなねそういう作ってね
うん安全保障みたいなこうドーンとやって
そこに今事態も送り込んでえやってますよ
ね
えもう1回は沖縄をこう戦場にしようと
いうような大きな動きみたいなものがね今
この時点においてものすごく強まってると
いう風に思ってるんですが私はひどいと
思ってますだってあの米国をだけ考えても
米国にあんなにその立派な車が走ったこと
はないと思うのねで米の人たちはさやか
だけんけもみ一生懸命生きてるわけじゃ
ないですか夜に行ってごらんなさいよねお
魚は値段が安いし暮らしやすいんですよで
ね何も
その友次などと考えている人たちがそこを
基地にしようとしてるけれども米国の人
たちのその生活はどうなるのかと思うのね
でもその今だって米国には滅多にその旅行
者の入れないような秘境のようなところが
あるわようんでもそういうそのには米国の
生活があるんですからそれを守ることが守
るってことだと思うでも今守るはなんか
アメリカと一緒になってなんかそのその国
の侵略とに抵抗することみたいに錯覚し
てると思うのねでも日本は本当に憲法が
あってあの戦争はしないそれから武力は
持たないということを憲法で歌っているん
ですから今その憲法違反ですねこれはねだ
からうんアメリカが何と言おうとその憲法
違反していることの中に沖縄のキリスト私
これ沖縄のキリストだと思うのね沖縄の人
たちの生活なんか何も考えていないからで
もあの沖縄の人たち一生懸命生きてること
をなんで無視するんですかねあの侵略
なんかしてこないって例えばその石垣でも
宮子でもその島々をどっかの国が戦略し
たってどうなりますかそんな何にもいい
ことないですようんだからおしなさいって
言った方がいいわねでそのためにこちらが
そこにねその軍隊を配備してアメリカ軍と
その一緒にやれるような軍隊配備して基地
を作るっていうのは私は間違えてると思う
うんいらないですよねうんうん
え最後になりますが
あの今の若い人たちに対してメッセージを
いだきたいんですけど
ねい人たちに私は期待を持って希望も持っ
ていますでこの人たちがあのちゃんと生き
ていかなければ今私たちが一生懸命生き
てることに意味がなくなるじゃないですか
だからあなたちは私たちの希望を全部託さ
れて新しい時代を生きていく新しい社会を
生きていくんだということを自覚して
欲しいし自信を持ってもらいたいと思う
やっぱり若いっていうのはとてもいいこと
だと思います年を取るとだんだんと希望も
なくすし勇気もなくなっていくけど若い時
っていうのはやっぱり怖いもの知らずで何
でもできるのが若さですから若い人は自信
を持たれるといいと思いますねそれは私は
応援団の1人としてそう思います
ねいやうまくいきますよみんなが希望を
持てば絶望したら絶望からは何も生まれ
ないのよねだから希望を持ちましょう
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제시된 텍스트는
93세의 논픽션 작가인 사와치 히사에와의 인터뷰로,
그녀의 만주에서의 전쟁 경험, 일본 헌법 9조에 대한 견해, 그리고 젊은 세대에 대한 메시지를 담고 있습니다.
만주에서의 전쟁 경험
사와치는 4살 때 부모님과 함께 만주로 이주했습니다. 그녀의 아버지는 일본의 경제 불황 때문에 일자리를 찾아 만주로 갔으며, "이상"을 좇아 이주한 다른 사람들과는 달랐습니다. 사와치는 만주에서의 생활이 어려웠으며, 그녀의 가족은 만주에 거주하는 일본인 사회 내에서도 차별을 경험했다고 회상했습니다. 만주에 거주하는 일본인들은 중국인들을 "니야"라고 부르며 지배하는 입장에 있었고, 중국인 친구들과의 관계도 대등하지 않았습니다.
패전 후, 일본 군 지휘관들은 병사들을 버리고 도망쳤고, 병사들은 혼란에 빠졌습니다. 소련군이 진주한 후, 일본군 병사들은 포로가 되었고, 그들의 무기와 군복은 중국인들이 가져갔습니다. 당시 사와치는 소련군 장교들의 위협을 경험하기도 했습니다. 패전 후 1년 동안 난민 생활을 하면서 집을 옮겨 다녔으며, 씻지도 못하고 전염병이 창궐하는 등 매우 힘든 시간을 보냈습니다. 그녀는 일본 정부가 해외에 있는 자국민을 보호하지 않았다고 지적하며, 자신들을 "일본 정부에 버림받은 존재"라고 표현했습니다. 일본으로 돌아온 후에도, 귀환자들은 일본 본토에 살던 사람들에게 "인간의 가죽을 뒤집어쓴 짐승"이라는 말을 듣는 등 차별을 겪어야 했습니다.
헌법 9조와 평화에 대한 견해
사와치는 작가 고미카와 준페이의 조수로 일하며 전쟁 관련 자료를 조사하는 일을 10년간 했습니다. 이 경험은 그녀의 인생에 큰 영향을 미쳤으며, 헌법 9조를 지키는 ‘9조회’ 운동에 참여하게 된 계기가 되었습니다. 그녀는 9조회의 회원들이 서로 다른 입장을 가졌지만, 헌법 9조를 지키고자 하는 공통된 목표 아래 하나가 되었다고 설명했습니다. 그녀는 헌법 9조가 일본의 무력 불소유와 전쟁 포기를 명시하고 있음을 강조하며, 자위대가 커지고 미국과의 군사 통합이 추진되는 현실은 명백한 헌법 위반이라고 비판했습니다.
그녀는 일본 정부가 각료 회의를 통해 실질적으로 헌법을 무력화하고 있다고 지적하며, 자신은 이러한 정부를 신뢰하지 않는다고 말했습니다. 그녀는 안보 법제 반대 시위에 참여하며 많은 사람들이 이 운동을 지지했음을 회상했습니다. 그녀는 시위에서 사용된 "이것이 아니다(これじゃない)"라는 구호가 담긴 플래카드를 직접 제작자에게 의뢰했다고 밝혔습니다.
사와치는 오키나와가 본토 방어를 위한 "버림돌" 취급을 받고 있으며, 일본 정부가 오키나와 주민들의 의사를 무시하고 기지를 건설하고 있는 것에 대해 비판적인 견해를 드러냈습니다. 그녀의 아버지가 그녀의 학비를 벌기 위해 오키나와로 돈벌이를 갔었기 때문에, 오키나와 문제에 대해 더 큰 관심을 가지게 되었다고 말했습니다.
젊은 세대에 대한 메시지
마지막으로, 사와치는 젊은 세대에게 희망과 기대를 가지고 있다고 전했습니다. 그녀는 젊은이들이 '새로운 사회를 살아갈 것'이라는 자각과 자신감을 갖기를 바란다고 말하며, 자신은 그들을 응원하는 사람 중 한 명이라고 밝혔습니다. 그녀는 희망을 가져야만 절망으로부터 벗어날 수 있다고 강조했습니다.
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