2025-09-03

戦後80年 八幡大空襲


戦後80年 八幡大空襲

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39,827 views  Aug 9, 2025  #平和 #空襲 #八幡
#八幡 #空襲 #平和

1945年8月、旧八幡市(現在の北九州市八幡東区・八幡西区)を襲った八幡大空襲。その重要な歴史の一端を体験者の証言を通じて伝えます。

00:00  オープニング
01:12 北九州市平和のまちミュージアム
05:15 証言者インタビュー1
09:10 証言者インタビュー2
13:15 証言者インタビュー3
17:00 証言者インタビュー4

◆番組ホームページ
https://c.myjcom.jp/jch/kyushu_shimon...
Transcript
オープニング
ひ回りの花がありまして、
この土手なんですよ。この根元でうくまっ
てたら
正位団は雨を降るようにいっぱい落ちてき
たんです。もう火の運太
[音楽]
大平洋マキ
4度に渡る空州が北九州市のや襲い
数えきれない命が奪われました。
あの日、必死に生き延びた人々は何を見て
何を感じたのでしょうか?
語り継がれるその痛みの記憶。
今を生きる私たちがその声に耳を傾ける時
が来ています。
[音楽]
北九州市平和のまちミュージアム
北九州市平和の町ミュージアム。
この町が経験した戦争の歴史を伝えるため
映像や写真、identの実物資料や模型
を展示しています。
[音楽]
こちらが実際に使われたという小団の模型
です。
1本2kg実物台の大きさと重さです。
こちらの団がこの緑のですね、M17収束
団という中に110本束ねられて入って
ました。
太平洋のマッキー。日本各地を焼き尽くし
た勝団。
その標的となったのは燃えやすい木造。
つまり軍人ではなくそこで暮らす市民の命
でした。
この団による空習を行ったのがアメリカの
長距離爆撃機B29です。
1近くもの爆弾を搭載できるこの期待は
東京大空襲をめとした各地の空習や広島
長崎への原爆下にも使われました。
そしてその最初の標的となったのが
B29が日本に初めてあの空州に来たのは
八ハ北九州が初めてです。
[音楽]
昭和19年6月16日未
[音楽]
47期のB29が集来し、およそ2時間に
わって激しい爆撃を実行。314人の命が
奪われました。手足が散乱してるような
状況であったっていうのはあの証言され
てる方がいます。
北九州が日本で最初に狙われたその大きな
理由が八幡の存在です。
明治34年に創業を開始した寒性書。
日本で初めて鉄の生産から鉄製品の材料
作りまで一貫生産を可能にした工場です。
その存在は日本の近代化を大きく前進さ
せる言動力となりました。
やがて戦治中には兵器に欠かせない鉄を
大量に生み出す軍産業の中心へと変わって
いきます。
だからこそアメリカにとって真っ先に叩く
べき標敵となってしまったのです。
この空を川切りに終戦までのおよそ1年の
間で八ハは4回に渡りB29の爆撃を受け
ました。
その4回目の空習が最も大きな被害を
もたらした八幡大空襲です。
昭和20年8月8日、45万発を超える
小易団爆撃により八幡は一面の海に
支障者およそ2400人1万4000
個に及ぶが消出市街地の
21%が壊滅しました
[音楽]
その当時の様子を今に語り継いでいる人たちがいます。
ここで死ぬなと、もうその時初めて死ぬを
意識した。
証言者インタビュー1
昭和20年8月8日に起きた八幡大空。
その悲惨さを伝える1人が松尾高森さん
です。現在91歳、
11歳の時、八幡大空襲州に巻き込まれ
ました。
この日はね、あの学校の夏休みで東日だったんですよ。そしたら
[音楽]
10時前にね、空習になったんですよ。
松尾さんはその時目にした衝撃的な光景を絵に書き残しています。
ズせんという音で東の方見たら屋根の上が
ずっと上にね、火柱上がったんですけど
爆弾なんですよ。おそらく50mから
60m上がったと思います。そしたら爆風
がね、バーっと通り抜けるの分かるんです
よ、音が。もうその時初めて死ぬを意識し
きたん。それが最小です。うん。それし
たら僕はただ抜けた。分かったから。あら
また生きとるなと。ほでポっと立ち上がって
30m
ぐらい上がってほで界をげたんです。そしたらもう真っ黒。
真上から見た様子を描いたその絵は町の半分以上が真るとは思えないほど真っ黒に塗りつされています。
[音楽]
煙のカーデン妖切になってるんですよ。煙で。
この川の下からね、久者が出てきたんですよね。それをざーっと見てました。私
[音楽]
松尾さんが書いた矢大空衆州の地図。かなり後範囲にわって煙のカーテンは広がっていたそうです。
そしてその煙に覆われたエリアの中にあっ
たのが現在のJR八幡駅からほど近い小山
高さ30mほどの高いこの山は当時八幡
最大の暴空号として整備されていました。
八の母だったんですよ。ほれで私もあの人
はいいの。入ったらもう命助かる女は死ぬ
にたところはその牧が八田で一番悲劇だっ
たんです。
そこがもう1番でね、広く焼けてるんです
よ。そこらその牧が煙をシ達する
あれがないね。
ないもんだから煙はドんど入った。出たら
もう日の海ですから出にも出れない。ほれ
で煙で窒速しと窒息し夜け信念ないんです
よ。
私の近所のお姉ちゃん学どに出た
お姉ちゃんがね空信になってそこに入った
んですね。それで亡くなってる。はい。
300名が死んだったって聞いてますけど
、その1人だったんです。
現在小山は切り崩され、公園として整備さ
れています。
八ハ大空襲州の悲劇を今に伝える象徴とし
てその一角には戦下に倒れた多くの命を
痛む慰例刀が静かにんでいます。
証言者インタビュー2
小池山保にですね、あの、避難したのは多分昭和
19年の8
月のにあの空習があったんですよね。そん時に。
で、これは
当時小山のそばに住んでいた
川原省さん。
これ動的にパンれるんだ。
[音楽]
しかし幸運にも大空の直線。
川原さん一家はおよそ
1.5km
離れた場所へ引っ越します。そして迎えた昭和
[音楽]
20年8月8日の朝
いきなり近くに爆弾が落ちたと思うんですよ。
ドーンというものすごきな音がしてですね
、家全体がビリビリビリっとこう揺れて
それから爆風であの家中の窓ガラスが全部
こなコナに言われて吹き飛んだです。その
後あのハートあの避難ちゅうか逃げ始める
んですけどもそういう始まり方やったです
ね。その時は本当だったら小池暴久に行き
たいんだけども、引っ越したから遠くなっ
ていけないからですね。あの近くの崖に
掘られた小さなそうですね、大人の人が
立って3人か4人入れるかなというような
牧に避難をしました。避難したらですね、
どのくらい経ったか時間ももはっきりし
ないんでだけども、私たちの目の前の1m
か2mぐらいの先にですね、あの、
ドスっというなんか嫌な音されてて、一発
の消油団がですね、片めにつきさったり
です。で、もう後ろからすぐに猛烈な勢い
でですね、火を吹き始めたいですね。で、
母はですね、その火を消そうとしてですね
、を防語に溜まってた。
水で濡らして何度も何度も叩いたけど全然消える様子なかったですね。もう危ないからここ出ようってそのあの僕を飛び出しました。
火の手が迫る中暴空号を出た川原さん。しかし外は空の真っただ中。空には無数の戦闘機が飛び交っていたと言います。一
番向こう側に写真がありますね。
あれP40のはサンダーボルトという
アメリカの戦闘機なんですけど、あれが
16機来てですね、逃げ回る市民を急者し
てまったんですね。急者する時はですね、
あの急行化してくるんですけれども、
急交化する時ですね、片きと言うんですか
ね、キューンとこんな嫌な音を立てて、
あの、急行化してくる。だからもうすぐ
わかんないんですね。あの、来たら。だ
からもう来たらひたすらあの
体ちくしてねそれてくれ、揃れてくれ、
揃れてくれて一生懸命に祈ってましたよね
。本当に怖かったですね。もうただもう
怖いということだけしかなかったです。
長空襲が収まり過ろじて命をついだ川原
さん家族が見たものは
見渡す限りね真っ黒になって夜の方から
広がってね言葉あれですよもうもう至る
ところに市民の消費体がもう転がっと
るちゅう感じですよ
逃げられなくて焼けてんですよね。で、と
いうことはですね、火がずっと迫ってきて
、ああ、もう自分は逃げられないなって
思った時はどんな気持ちやったかって思う
んですよ。どんな思いをして死んでいった
んかなって思うんですね。
最も爆撃が激しかったという川原さんがい
たエリア。
その同じ場所で空習を受けたのが杉の子
さんです。
正油団は雨を降るようにいっぱい落ちてき
たんです。
証言者インタビュー3
昭和20年8月8日に起きた八幡大空襲。
その時爆撃が最もひどいエリアにいた1人
が杉野け子さんです。
当時小学2年生。恐怖の時間は一発の爆弾
から始まりました。
もうどか
ていうような
すごい音で落ちた表紙で八条の8枚の畳が
ボっと一斉に上がったんですよ。
そしたら母が行くよ。
って一言。それは
いざという時は桃園の球場に逃げようねと
いうもう暗黙の領先
に決めていた桃園球条。
ここにたどり着くまで激しい空が杉野さん
たちを襲いました。
正山は雨を降るようにいっぱい落ちてきた
んです。逃げようと言って外に出たけれど
も真っ暗。下はもう
ひ火の海。その中を3人で桃園の救助を
目指して
なんとか逃げ始めた。
母と妹と3人必死の思いで桃園の球条に
たどり着き、その周りにある土手に身を
隠すことにしました。
あ、この土です。そこにひ回りの花があり
まして、うずくまったらちょうど隠れる
ぐらいですよね。
爆撃が続く中、ひりに身を潜めた杉野さん
、ふと異変に気づきます。
どのぐらい時間が経ったのか頭を上げてみたら回りが枯れ始めて熱にやられての中に持ってる水分が蒸発していったのでしょうね。
[音楽]
[音楽]
だからそれだけの暑さが
あったわけなんですが、私は
怖さのあまり、飛行機が爆弾落とす怖さの
あまり、その暑さは
感じることができなかった。
この時の記憶から来る恐怖のため、フェンスの先には今でも足を踏み入れることができません。
あそこに行ったら体震えるでしょうね。もう嫌です。もう嫌。何度語ってもえない戦争の恐怖。
[音楽]
[音楽]
証言者インタビュー4
その恐怖を胸に閉まって生きてきた1人の
女性がいます。
今年6月、八ハ大空衆州の経験を語り始め
た高田子さんです。
当時まだ5歳小学校に入る前でした。
入学を待ちにしていた黒崎国民学校に毎日のように訪れていたと言います。国民学校の門からつも妹事とこう覗き寄ったんですよ。だからそれをあのそこの教室の先生が見つけていらっしゃいって言ったのね。おいでおいでって。
[音楽]
そしたらね、折り紙を追ってくれたり、
アラパンに絵を書いてくれて、ここに座っ
てね、あの、一緒に書きなさいって言って
本当に優しい先生でいつでも遊びに
いらっしゃいねって言われてはいって言っ
て、で、それが8月8日につがるわけです
よ。ものすごい
サイレンが鳴って空州やはた大空の日が来
たわけですね。
で、先生がもう後ろから皆さん早く帰るのよ。早くお家に帰るのよって言ってるわけ。それがものすごく一応に残ってて、先生も大変だな。優しい先生だなと。
その後自宅の暴空号に家族で避難した高田さん。しかしそこに危機が迫っていました。
[音楽]
おばあちゃんがなんか胸ぎがするって言っ
て、みんなが止めるのに家に帰るって言っ
てたら屋根を突き抜けて正がに突き刺さっ
て畳がボンボン燃えてる。そしてあのお
ばあちゃんはその燃えてる醤油団
掴んで玄関先に投げたんですよね。で、
もうもちろんかなり焼けとしてたみたいだ
けど、でもね、
もう無が宇宙だったと本当にあの時、あの
おばあちゃんのおかげで家がま、畳が燃え
たんですけどあの前哨しなくて包んだなと
思いましたね。
そして戦後
高田さんはあの優しかった先生への憧れを
胸に教師の道を心志します。
小学校の教団に立ち続け定年まで上げまし
たが、その間教えたに八ハ大空衆州の体験
を話すことは1度もなかったと言います。
太表戦争があってこうだったよ。
日本は戦ったよってその歴史上の事実としては話します。でも自分の体験は話さないんですよ。話せないっていうんか。
[音楽]
そこにあったのは辛い記憶と再び向き合うことへの深い葛藤でした。
5
歳の時の記憶をずっと現稿に書いたんですよ。
たらもう書きてるうちに本当にものすごい
きつくなってあの1ヶ月間ぐらい体調が
悪かったです。でもねやっぱり伝えないけ
ないと思ったのは妹が
私何も八幡のこと何も知らんよってつって
言ったんですよ。ポツンとね。そういうの
を聞いた時にあこれはやっぱりやっぱり
話しとかないけないんだと。
そしたらもうあなた85
とかなんとか言っておられんよとあなたが喋らなもう次喋る人がいないんじゃない自分にそう言い聞かせたわけです。
あの聞き書きをいたしましたの時の今年
6月にまとめ
新たな一歩を踏生踏み出しました。
だからあボさあ団が落ちます。
見上げたか先生の声が聞こえました。く
ちゃん早く帰りなさい。早く帰る。
痛みを耐えてでも伝えたかったのは戦争の
悲惨さと平和への願い。
あの時本当に体調悪い中で語ったんですよ
。体調悪かったけど、ま、乗り越えて
良かったかなと思ってます。
80年前、焼けの原になったとは思えない
ほど力強い復興を遂げた八ハの町。
しかしここには確かに戦争がありました。
あの勝異団が降り注ぐ大空襲州の日を懸命
に生き抜いた人々。思い出すたびに胸に
痛みが走るその記憶。
は今もその光景を構成に伝えようとしてい
ます。
その言葉に耳を傾け語り継いでいくこと。
それが今を生きる私たちに託された思いな
のかもしれません。
[音楽]
八ハの8月8日を忘れないように、
これからも戦後と言えるように。
そしてひ回りの花がいつまでも上を向いて
咲いていられるように。
[音楽]




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