Tsuneari Fukuda
Tsuneari Fukuda | |
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福田 恆存 | |
Born | 25 August 1912 |
Died | 20 November 1994 (aged 82) Ōiso, Kanagawa, Japan |
Alma mater | University of Tokyo |
Occupation(s) | Dramatist, translator, literary critic |
Tsuneari Fukuda (福田 恆存, Fukuda Tsuneari, 25 August 1912 – 20 November 1994) was a Japanese dramatist, translator, and literary critic. From 1969 until 1983, he was a professor at Kyoto Sangyo University. He became a member of the Japan Art Academy in 1981.[1]
His criticism of the pacifist Japanese establishment of the early post-Second World War era earned him early notoriety, though he is most well-known for his translations of William Shakespeare's oeuvre into Japanese, starting with Hamlet in 1955. He was a frequent contributor to conservative magazines, such as Bungeishunjū, Shokun, and Jiyū. Called a "rhetorician", and a "conjuror of controversy", he frequently used cognitive reframing in his discourse.[2]
Life[edit]
Tsuneari Fukuda was born to Kōshirō and Masa Fukuda on 25 August 1912 in the Hongō ward (now part of the Bunkyō special ward) of Tokyo. His name "Tsuneari" was chosen by novelist Ishibashi Shian, and originates from the works of the Chinese philosopher Mencius.[1] He attended Tokyo Imperial University, where he studied English literature, graduating in 1936. His graduate thesis was entitled "Ethical issues in the works of D. H. Lawrence".
After graduating, Fukuda worked as a secondary school teacher and a publisher.[1] He began his long career as a literary critic with a contribution to the Kōdō bungaku literary magazine in 1937, the article entitled "Riichi Yokomitsu and The Author's Secret". Before and just after the Second World War, he wrote critiques of the works of Ryūnosuke Akutagawa, Isota Kamura, and other modern Japanese writers. In 1947, Fukuda's article Ippiki to kyūjūhiki to (一匹と九十九匹), published in the Shisaku magazine, stirred up controversy about the dividing line between literature and politics, and later came to be seen as one of his representative works. From 1949, he participated in the Japanese–British cultural exchange group "Albion Club" (あるびよん・くらぶ). From 1950 onward, Fukuda's interest shifted away from general literary criticism and critiques of individual writers. Representative works from this period include Geijutsu to wa nanika (藝術とは何か; lit. 'What is Art?'), published in 1950, and Ningen, kono gekiteki naru mono (人間・この劇的なるもの; lit. 'Man, this dramatic being') published in 1956.
What made Fukuda famous, however, was his status as a lone conservative voice amidst a flourishing of progressive thought in post-Second World War Japan. In his 1954 article Heiwaron no susumekata ni tsuite no gimon (平和論の進め方についての疑問; lit. 'Doubts about the advancement of the pacifist theory'), he criticised the pacifism that had become dominant in Japan. Furthermore, he was a strong critic of the post-war reforms to the Japanese language, and in 1955–56, he participated in a public debate with advocates of those reforms, led by Kyōsuke Kindaichi, in which he pointed out what he saw as the illogical nature of the Tōyō kanji list and modern kana usage. On this subject, he released the book Watashi no kokugokyōshitsu (私の國語教室; lit. 'My Japanese language classroom') in 1960, where he advocated for the reversal of the post-war Japanese script reforms, which he argued were irrational and destructive, the preservation of historical kana usage and the abolition of restrictions on the usage of kanji. Fukuda himself never adopted the style mandated by the reforms, writing in historical kana and traditional kanji, though some publishing houses converted his writing into modern usage after his death.
His representative works as a literary translator include Shakespeare's Macbeth, Hamlet, Richard III and A Midsummer Night's Dream, Ernest Hemingway's The Old Man and the Sea, and Oscar Wilde's Salome and The Picture of Dorian Gray.
In the 1950s, Fukuda also wrote and produced plays, including Kitty Typhoon and also The Man Who Stroked a Dragon.[3] He was linked to Shingeki, and in 1955 he did a production of Hamlet with Hiroshi Akutagawa, son of Ryūnosuke Akutagawa, playing the lead role. He also wrote a 1957 essay Directing Shakespeare, which dealt with his views on the subject of directing Shakespearean plays. Later he did a Japanese version, based on his translation, of A Midsummer Night's Dream.[4] In addition, he helped found the Kumo Theatre Company (present-day Theatre Company Subaru) and received the Yomiuri Prize multiple times.[5]
He died at the age of 82 from complications related to pneumonia at Tōkai University Ōiso Hospital on 20 November 1994.[1]
See also[edit]
References[edit]
- ^ ab c d "福田恆存 ~〈戦後〉に異議あり 保守の論客~" (PDF) (in Japanese). 神奈川県立図書館. 2014. Retrieved 28 July 2014.
- ^ Takeuchi, Yō (2012). メディアと知識人 - 清水幾太郎の覇権と忘却 (in Japanese). 中央公論新社. p. 308. ISBN 978-4120044052.
- ^ "Oxford Encyclopedia of Theatre and Performance: Fukuda Tsuneari". Answers.com. Retrieved 1 December 2013.
- ^ Kishi, Tetsuo; Bradshaw, Graham (19 December 2006). Shakespeare in Japan by Tetsuo Kishi, Graham Bradshaw, pgs 29-53. ISBN 9780826492708. Retrieved 1 December 2013.
- ^ Cody, Gabrielle H.; Sprinchorn, Evert (2007). The Columbia Encyclopedia of Modern Drama, Volume 1 edited by Gabrielle H. Cody and Evert Sprinchorn, pg 497. ISBN 9780231144223. Retrieved 1 December 2013.
福田恆存
福田 恆存 ふくだ つねあり | |
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誕生 | 1912年8月25日 東京市本郷区駒込東片町 (現在の東京都文京区)[1] |
死没 | 1994年11月20日(82歳没) 神奈川県中郡大磯町東海大学医学部付属大磯病院[1] |
墓地 | 妙大寺 |
職業 | 作家 翻訳家 評論家 劇作家 演出家 |
言語 | 日本語(歴史的仮名遣) |
国籍 | 日本 |
最終学歴 | 東京帝国大学文学部英文学科卒業 |
活動期間 | 1937年 - 1994年 |
主題 | 文芸評論 戯曲 英米文学 |
文学活動 | 国語国字問題 |
代表作 | 『人間・この劇的なるもの』(1956年) 『私の國語敎室』(1960年) 『私の英國史』(1980年) |
主な受賞歴 | 岸田演劇賞(1955年) 読売文学賞(1961年) 菊池寛賞(1980年) 芸術院賞(1981年)[2] |
デビュー作 | 『作家の態度』(1947年) |
子供 | 福田逸(次男) |
福田 恆存(ふくだ つねあり、1912年(大正元年)8月25日 - 1994年(平成6年)11月20日)は、日本の評論家、翻訳家、劇作家、演出家。現代演劇協会理事長、日本文化会議常任理事、日本芸術院会員[1]。
平和論への批判を早くから行った保守派の文化人で、同時期にはシェイクスピア戯曲作品の翻訳、演劇上演も行った。産経新聞の論壇誌「正論」は、福田と田中美知太郎、小林秀雄等の提唱によって1973年(昭和48年)に創刊された。文藝春秋社の「文藝春秋」、「諸君」、自由社の「自由」などの保守派総合雑誌への寄稿でも知られた。
「レトリシャン」や「論争の手品師」といわれ、一流のリフレーミングの使い手でもあった[3]。著書に『人間・この劇的なるもの』(1956年)、『私の英国史』(1980年)、戯曲『キティ颱風』(1970年)など。
経歴[編集]
1912年(大正元年)8月25日、東京市本郷区(現:東京都文京区東部)にて、東京電燈株式会社の社員であった父・幸四郎、母・まさの長男として生まれる。「恆存」は石橋思案の命名で、『孟子』に由来する[1][4]。第二東京市立中学校(現:東京都立上野高等学校)で高橋義孝と同級。旧制浦和高等学校を経て1936年(昭和11年)に東京帝国大学文学部英吉利文学科卒業。卒業論文は「D・H・ロレンスに於ける倫理の問題」。
大学卒業後は中学教師、出版社、団体職員などで勤務した[1]。1937年(昭和12年)に第一次『作家精神』の後継誌である『行動文学』の同人となり、「横光利一と『作家の秘密』」などを発表、文芸評論を始めた。他に戦前や戦後間もない時期に発表された嘉村礒多、芥川龍之介らに関する論考が文芸評論での主な作品である。また、1947年(昭和22年)に『思索』春季号に発表された「一匹と九十九匹と」は、政治と文学の峻別を説く内容で、「政治と文学」論争に一石を投じた。この作品を福田の代表作とみなす見解も多い。『群像』1948年6月-7月に「道化の文学―太宰治論」を発表。1949年(昭和24年)より日英交流のための団体、あるびよん・くらぶに参加[5]。
昭和20年代後半期より、文学への関心は次第に個別の作家論や文芸批評を離れていった。この時期の代表作は、芸術をより根本的に論じた1950年(昭和25年)の『藝術とは何か』(要書房)や、芸術・演劇論から人間論にまで展開した1956年(昭和31年)の『人間・この劇的なるもの』(新潮社)などの著作である。1950年、多摩美術大学で教授を務めた[6]。
福田恆存の名を世間で有名にしたのは、進歩派全盛の中での保守派の論争家としての活動であった。1954年(昭和29年)に『中央公論』12月号に発表した「平和論の進め方についての疑問」で、進歩派の平和論を批判。また戦後の国語国字改革を批判し、1955年(昭和30年)から翌年にかけての金田一京助たちとの論争で(「国語改良論に再考をうながす」「知性」1955年10月号など)「現代かなづかい」・「当用漢字」の不合理を指摘した。その集大成が歴史的仮名遣のすすめを説く『私の國語敎室』(新潮社、初版1960年(昭和35年)、読売文学賞受賞)である。著書全ては歴史的仮名遣で書かれたが、出版社の意向で文庫再刊の一部等は現代かなづかいを用いている。1969年(昭和44年)から1983年(昭和58年)にかけては荒木俊馬が創設した京都産業大学で教授を務めた。
翻訳家としての代表作は、シェイクスピア「四大悲劇」を初めとする主要戯曲、ヘミングウェイ『老人と海』、D・H・ローレンス最晩年の評論『アポカリプス論』(初版は邦題『現代人は愛しうるか』白水社、1951年(昭和26年)に初刊)、ワイルド『サロメ』、『ドリアン・グレイの肖像』である。
劇作家、演出家としても活躍。1952年(昭和27年)に文学座に入り、『ハムレット』、自作の『龍を撫でた男』などの演出を担当するが、文学座の看板女優・杉村春子との意見の相違から、1956年(昭和31年)に退座。1963年(昭和38年)、かつて福田が手がけた『ハムレット』で主演を務めた芥川比呂志や、仲谷昇、岸田今日子、神山繁ら文学座脱退組29名と財団法人現代演劇協会を設立し、理事長に就任。同協会附属の「劇団雲」では、シェイクスピア劇の作・演出を担当する。
やがて芥川と対立すると、協会内で新たに「劇団欅」を設立し、「劇団雲」から手を引いて芥川らと一線を画するようになった。1975年(昭和50年)に芥川、仲谷、岸田、中村伸郎ら「劇団雲」の大部分が現代演劇協会を離脱し、「演劇集団 円」を設立すると、「劇団雲」の残留派と「劇団欅」を統合し、「劇団昴」を結成した。1977年(昭和52年)から1979年(昭和54年)には、フジテレビ系列の政治討論番組『福田恆存の世相を斬る』(世相を斬るシリーズにおいては第3代目)の司会進行でテレビ出演もしていた。この時期には韓国大統領朴正煕と親交があり、没時に回想記も発表した。
1987年(昭和62年)から1988年(昭和63年)にかけ『福田恆存全集』を刊行したが、平成に入ってからは、いくつかの雑誌に数ページ分の随筆・所感を書いた以外は執筆発表を行わず、『福田恆存翻訳全集』が完結した翌年の1994年(平成6年)11月20日に、肺炎により東海大学医学部付属大磯病院で没した[1]。享年82。戒名は実相院恆存日信居士[7]。12月9日に青山葬儀所で本葬・告別式が行われた。葬儀委員長は作家阿川弘之で、林健太郎、久米明等が弔辞を述べた。墓所は居住した神奈川県大磯町の妙大寺にある。
主な業績は、前記の『全集』や『翻訳全集』にまとめられた。ただ自選のため、短編の論文随想に加え唯一の新聞連載小説である『謎の女』(新潮社、1954年(昭和29年))をはじめ、生前刊行の全集・著作集には、未所収のままの論考著作も多い。
2007年(平成19年)11月より、福田逸(次男・明治大学商学部教授。また演出家・翻訳家・財団法人「現代演劇協会」[8]理事長として演劇活動を継いだ)等の編集により、『福田恆存評論集』(麗澤大学出版会、カバー装丁)が刊行完結した(下記の全集・著作集を参照)。
福田恆存と論壇[編集]
福田は、「平和論の進め方についての疑問」以降、論壇から「保守反動」呼ばわりされ、「村八分」の処遇を受けたと述懐している[9]。『朝日新聞』論壇時評(1951年10月〜1980年12月)では、「平和論の進め方についての疑問」以降、言及が即座に無くなったわけではなく、1966年までは比較的言及されているが(言及数24)、しかし肯定的に取り上げられているのは17で31人中第28位となり、中野好夫 (49)、小田実 (40)、清水幾太郎 (39) の半分以下となる[10]。さらに、否定的に取り上げられているのは7であり、否定的に取り上げられる割合は30・8%となり、31人中のトップとなる[10]。
ベトナム問題が論壇をにぎわしているのは、これで四ヶ月目だが、今月になって目立つことは、アメリカの政策を支持する論文の登場である。中でも、一番むきになってこの役をはたそうとしているのは、福田恒存の「アメリカを孤立させるな」(文芸春秋)であろう。福田はいろいろなことを、いわば文学者的特権で、証明なしに言っている(後略)— 『朝日新聞』論壇時評1965年6月22日
しかし1967年以降からは、肯定的・否定的に関わらず言及されなくなり、竹内洋は「『保守反動』評論家というレッテルが定着したのだろう」と述べている[10]。このように福田は論壇では否定、そして無視されていくようになる[12]。坪内祐三は、福田が『問ひ質したき事ども』(1981年)を刊行したころは保守論壇からも完全に孤立していた、と評している[13]。
評価[編集]
堀内克明は、著書『誤訳パトロール』(1989年、大修館書店)で『恋する女たち』(新潮文庫)の福田のテキストから、「a long, slow look」を「遠いどんよりしたまなざし」としている語その他を「初歩を誤った」誤訳であると指摘している(堀内によれば、この表現は正しくは「ゆっくり、じっと」という、距離ではなく時間としてのlongとslowであるとする)。
小川高義は『老人と海』の新訳(光文社古典新訳文庫、2014年)あとがき解説で、老人の「aloud」を福田が「叫ぶ、ののしる」など感情的に翻訳している点を批判し、老人の性格描写および近現代の用法からその語は単に「口にした」程度のものである、と述べている。
漫画家の小林よしのりは、福田の「人間は生産を通じてでなければ付合えない。消費は人を孤独に陥れる」(「消費ブームを論ず」1961年 原文原題は本字体歴史的仮名遣い)[14]について、『修身論』で自身のスタッフに「福田恆存のこの言葉を噛みしめよ」と、一章を割いて取り上げている[15]。
著作[編集]
評論[編集]
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- 以下は没後刊
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- 語句集
- 『日本への遺言 福田恆存語録』(文藝春秋、1995年、文春文庫、1998年)
- 中村保男・谷田貝常夫編 - ※著作を軸に約300篇の語録断章を編む
- 『滅びゆく日本へ 福田恆存の言葉』(河出書房新社、2016年6月)
- 佐藤松男編 - ※著作全体から約400篇の語句を編み解説
戯曲・小説[編集]
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翻訳[編集]
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- エーヴ・キュリー
- 戰塵の旅 ロシア篇(坂西志保との共訳、日本橋書店、1946年)
- ※アジア篇も刊行予告されたが未刊。
- アーネスト・ヘミングウェイ
- T・S・エリオット
- カクテル・パーティ(小山書店、1951年 / 創元文庫、1952年)
- 現代世界文学全集 (26) T・S・エリオット(新潮社、1954年)、『カクテル・パーティー』、『一族再会』、『寺院の殺人』を所収。
- エリオット全集 (2) 詩劇(中央公論社、1960年、改訂版1971年、新装版1981年)、同上。
- オスカー・ワイルド
- ワイルド語録(池田書店、1950年)
- 獄中記(新潮文庫、1954年、改版1968年)
- サロメ(新潮社、1958年 / 岩波文庫、1959年、改版2000年)
- ドリアン・グレイの肖像(新潮文庫、1962年、改版1967年、新装改版2004年)
- アーサー卿の犯罪(中央公論社、1952年 / 福田逸との共訳、中公文庫、1977年)、短編集
- J・M・バリー
- ジェームズ・サーバー
- 現代イソップ(万有社、1950年)
- SEXは必要か(E・B・ホワイト共著、南春治との共訳、新潮社〈一時間文庫〉、1953年)
- D・H・ロレンス
- 恋する女たち(新潮文庫 全3巻、1952年 / 改版全2巻、1969年)
- ※旧版は1950年-1951年に「ロレンス選集 9・10」で刊行(小山書店、上・中巻のみで中絶)
- G・K・チェスタトン
- バーナード・ショー
- 聖女ジャンヌ・ダーク(松原正との共訳、新潮社、1963年)
- ヘンリク・イプセン
- ヘッダ・ガーブラー(中央公論社、1979年)、※英訳版より翻訳
- ソポクレス
- コリン・ウィルソン
- アウトサイダー(河出書房新社、1957年)、※中村保男との共訳
全集・著作集[編集]
- 福田恆存著作集(全8巻、新潮社、1957年-1958年)、3巻目までは創作集、他の5巻は評論集
- 福田恆存評論集(全7巻、新潮社、1966年)、5巻目までは上記新版
- 福田恆存全集(全8巻、文藝春秋、1987年-1988年)、実質は自選集、第7巻に年譜、第8巻は創作集
- 福田恆存翻訳全集(全8巻、文藝春秋、1992年-1993年)
- 福田恆存評論集(全20巻別巻1、麗澤大学出版会、2007年11月-2011年3月)
- ※当初は全12巻別巻1で、2009年中に完結予定だったが同年に変更。別巻はホレイショー日記・年譜、著書目録、索引ほか。
- 福田恆存戯曲全集(全5巻別巻1、文藝春秋、2008年11月-2011年5月)
- 別巻は「劇場への招待」、「私の演劇白書」、「觀客への訴へ」ほか。
- 福田恆存対談・座談集(全7巻、玉川大学出版部、2011年4月-2012年10月)
主な編著[編集]
- 芥川龍之介研究-作家研究叢書(新潮社、1957年)
- 國語問題論爭史(新潮社、1962年)- 著者名は福田だが、実質は門下生土屋道雄がまとめた。
- 土屋道雄『國語問題論爭史』(玉川大学出版部、2005年)、ISBN 4472403153 - 増訂版
- 現代日本思想大系 32 反近代の思想(筑摩書房、1965年)- 福田名義での解説担当だが、実際は西尾幹二による口述筆記。
- 中国のすべて 日本の将来(企画・監修、高木書房、1973年)
- ソ連のすべて 日本の将来(同、高木書房、1974年)
- 教育のすべて 日本の将来(同、高木書房、1974年)
- 新聞のすべて 日本の将来(同、高木書房、1975年)
- 国家意識なき日本人 日本の将来(同、高木書房、1976年)
- 中国はどうなるか 続・中国のすべて 日本の将来(同、高木書房、1976年)
- 憲法のすべて 日本の将来(同、高木書房、1977年)
- 朝鮮半島のすべて 日本の将来(同、高木書房、1977年)
- 福田恆存 世相を斬る(サンケイ出版、1978年)‐ ※日曜午前のテレビ番組でのゲストとの対談。
音声[編集]
- 福田恆存講演 第1集 日本の近代化とその自立 (新潮カセット、新潮社、1996年4月)- 第1・2集は連続講演「処世術から宗教まで」。
- 福田恆存講演 第2集 理想の名に値するもの(新潮カセット、新潮社、1996年6月)- 1976年3月から1977年3月にかけ三百人劇場で行われた。
- 福田恆存講演 第3集 近代日本文学について/シェイクスピア劇の魅力(新潮カセット、新潮社、1996年8月)
評論・研究[編集]
- 井尻千男 『劇的なる精神 福田恆存』日本教文社〈教文選書〉、1994年6月。ISBN 4-531-01517-7。
- 井尻千男 『劇的なる精神 福田恆存』徳間書店〈徳間文庫 教養シリーズ〉、1998年7月。ISBN 4-19-890934-2。
- 岩本真一「第3章 福田恆存の「近代の超克」論―「言葉」と「共同体」」 『超克の思想』水声社、2008年12月。ISBN 978-4-89176-704-4。
- 遠藤浩一 『福田恆存と三島由紀夫 1945〜1970』麗澤大学出版会(上下)、2010年4月。ISBN 978-4-89205-596-6・ISBN 978-4-89205-597-3。
- 岡本英敏 『福田恆存』慶應義塾大学出版会、2014年4月。ISBN 4-7664-2128-0。
- 川久保剛 『福田恆存 人間は弱い』ミネルヴァ書房〈日本評伝選〉、2012年7月。ISBN 4-623-06388-7。
- 金子光彦 『福田恆存論』近代文芸社、1996年5月。ISBN 4-7733-5405-4。
- 久米明 『僕の戦後舞台・テレビ・映画史70年』河出書房新社、2018年11月。ISBN 4-309-27985-6。後半が師・福田恆存との回想記。
- 向坂隆一郎 『回想の向坂隆一郎』向坂隆一郎追悼集編集会、1984年。[17]
- 斎藤禎 『文士たちのアメリカ留学 一九五三~一九六三』書籍工房早山、2018年12月。ISBN 978-4904701546。[18]
- 辻村明「偽善との戦い―孤高の精神 福田恆存」 『自分と戦った人々』高木書房、1993年4月。ISBN 4-88471-042-8。
- 土屋道雄 『福田恆存と戦後の時代 保守の精神とは何か』日本教文社〈教文選書〉、1989年8月。ISBN 4-531-01511-8。
- 坪内祐三「「一九七九年の福田恆存」および「丸山真男か福田恆存か」」 『ストリートワイズ』晶文社、1997年4月。ISBN 4-7949-6301-7。
- 坪内祐三「「一九七九年の福田恆存」および「丸山真男か福田恆存か」」 『ストリートワイズ』講談社文庫、2009年4月。ISBN 978-4-06-276332-5。
- 坪内祐三「一九八二年の「福田恆存論」」 『後ろ向きで前へ進む』晶文社、2002年8月。ISBN 4-7949-6540-0。
- 中村保男 『絶對の探求 福田恆存の軌跡』麗澤大学出版会、2003年8月。ISBN 4-89205-467-4。
- 西尾幹二「「素心」の思想家・福田恆存の哲学」 『真贋の洞察』文藝春秋、2008年10月。ISBN 4-16-370370-5。
- 西部邁「「言葉の弓射る」精神の書 〈福田恆存全集〉刊行に寄せて」 『ニヒリズムを超えて』角川春樹事務所〈ハルキ文庫〉、1997年11月、170-173頁。ISBN 4-89456-362-2。 - 日本文芸社(1989年)を改訂。
- 西部邁「保守思想の神髄――福田恆存」 『日本の保守思想』角川春樹事務所〈ハルキ文庫〉、2012年5月、224-264頁。ISBN 978-4-7584-3662-5。 - 『思想史の相貌』(世界文化社、1991年)を改題・改訂。
- 西部邁「106 福田恆存」 『学問』講談社、2004年4月、342-344頁。ISBN 4-06-212369X。
- 浜崎洋介 『福田恆存 思想の〈かたち〉 イロニー・演戯・言葉』新曜社、2011年11月。ISBN 978-4-7885-1263-4。
- 福田逸 『父・福田恆存』文藝春秋、2017年7月。ISBN 416-3906886。
- 福田逸 『父・福田恆存』文春学藝ライブラリー、2021年6月。ISBN 416-8130924。
- 前田嘉則 『文學の救ひ 福田恆存の言説と行為と』郁朋社、1999年4月。ISBN 4-87302-0204。
- 持丸博、佐藤松男 『証言 三島由紀夫・福田恆存 たった一度の対決』文藝春秋、2010年10月。ISBN 978-4-16-373250-3。
- 『総特集 福田恆存―人間・この劇的なるもの』河出書房新社編、2015年5月。ISBN 4-309247091
- 入門・福田恆存、インタビュー、メモワール、福田恆存論セレクション、福田恆存への10の視点、単行本未収録作品、主要著作30作ガイドほか
註[編集]
- ^ a b c d e f “福田恆存 ~〈戦後〉に異議あり 保守の論客~” (PDF). グレート・ワークスの世界 ―近現代日本の思想と学問―. 神奈川県立図書館. 2014年7月28日閲覧。
- ^ “福田恒存”. デジタル版 日本人名大辞典+Plus. コトバンク. 2012年6月23日閲覧。
- ^ 竹内洋 『メディアと知識人 - 清水幾太郎の覇権と忘却』中央公論新社、2012年、308頁。ISBN 978-4120044052。
- ^ “孟子 盡心上”. 中國哲學書電子化計劃. 2012年6月21日閲覧。 “人之有德慧術知者,恒存乎疢疾”
- ^ 同会の出版部編集委員として活動。会誌『あるびよん』の編集委員を務める。『あるびよん』創刊号、新月社、1949年
- ^ http://www.shiro1000.jp/tau-history/tama-zoukei/tama-zoukei.html
- ^ 岩井寛『作家の臨終・墓碑事典』(東京堂出版、1997年)283頁
- ^ 設立50年目の2013年秋に一旦解散した。
- ^ 『福田恆存全集 第三卷』「覚書三」
- ^ a b c 竹内 2011, p. 289.
- ^ 竹内 2011, p. 288.
- ^ 竹内 2011, p. 290.
- ^ 『諸君!』1997年11月号、呉智英・坪内祐三「福田恒存から断筆・筒井康隆まで戦後論壇この50人・50冊」
- ^ 『福田恆存全集 第五卷』文藝春秋、1987年。
- ^ 小林よしのり 『ゴーマニズム宣言PREMIUM 修身論』マガジンハウス、2010年、203-206頁。
- ^ 昭和37年から昭和55年にかけ九州で、四度行った講演と問答集
- ^ 新潮社での編集者で、退社後は演劇関係で福田を支えた
- ^ 「第9章 アメリカから帰った福田恆存は、「文化人」の「平和論」を果敢に攻撃した」を収録。著者は文藝春秋「諸君」などでの担当編集者
参考文献[編集]
- 竹内洋『革新幻想の戦後史』(中央公論新社、2011年10月)ISBN 978-4120043000
- 福田逸『父・福田恆存』(文藝春秋、2017年7月)ISBN 978-4163906881
関連項目[編集]
포톤 헝춘
후쿠다 쿠존 후쿠다 츠네 아리 | |
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탄생 | 1912년 8월 25일 도쿄시 혼고 구 고마고 메 히가시카타초 (현재의 도쿄도 분쿄구 ) [1] |
사망 | 1994년 11월 20일 (82세몰) 가나가와 현 나카군 오이소초 도카이 대학 의학부 부속 오이소 병원 [1] |
묘지 | 묘대사 |
직업 | 작가 번역가 평론가 극작가 연출가 |
언어 | 일본어 ( 역사적 가명견 ) |
국적 | 일본 |
최종 학력 | 도쿄제국대학문학부 영문학과 졸업 |
활동기간 | 1937년 -1994 년 |
주제 | 문예평론 희곡 영미 문학 |
문학 활동 | 표준 중국어 문자 |
걸작 | 『인간·이 극적인 것』(1956년) 『내 국어 감실』 (1960년) |
주요 수상 경력 | 기시다 연극상 (1955년) 요미우리 문학상 (1961년) 기쿠치 히로시상 (1980년) 예술원상 (1981년) [2] |
데뷔작 | 『작가의 태도』(1947년) |
어린이 | 후쿠다 일 (차남) |
후쿠다 쿄존 (후쿠다 츠네 있어, 1912년 ( 타이쇼 원년 ) 8월 25일 - 1994년 ( 2009년) 11월 20일 )은 일본 의 평론가 , 번역가 , 극작가 , 연출가 . 현대연극협회 이사장, 일본문화회의 상임이사, 일본예술원 회원 [1] .
평화론 에 대한 비판을 일찍부터 실시한 보수파 의 문화인으로, 동시기에는 셰익스피어 희곡 작품의 번역 , 연극 상연도 실시했다. 산케이신문 의 논단지 「정론」은 후쿠다와 다나카 미치타로 , 고바야시 히데오 등의 제창에 의해 1973년(쇼와 48년)에 창간되었다. 문예춘추사의 ' 문예춘추 ', ' 제군 ', 자유사의 ' 자유 ' 등 보수파 종합잡지 에 대한 기고로도 알려졌다.
「레트리션」이나 「논쟁의 마술사」라고 불리며, 일류의 리프레이밍 의 사용수이기도 했다 [3] . 저서에 '인간·이 극적인 것'(1956년), '내 영국사'(1980년), 희곡 '키티 조풍'(1970년) 등.
경력 [ 편집 ]
1912년 ( 타이쇼 원년) 8월 25일, 도쿄시 혼고구 (현: 도쿄도 분쿄구 동부)에서, 도쿄 전등 주식회사 의 사원이었던 아버지·유키시로, 어머니·확실한 장남으로서 태어난다. 「치존」은 이시바시 사안 의 명명으로, 「묘자」에서 유래한다 [1] [4] . 제2도쿄시립중학교(현:도쿄도립 우에노고등학교 )에서 다카하시 요시타카 와 동급. 구제우라와 고등학교를 거쳐 1936년 ( 쇼와 11년)에 도쿄 제국 대학 문학부 히데요시 리 문학과 졸업. 졸업논문은「D・H・로렌스 에 있어서의 윤리 의 문제」.
대학 졸업 후에는 중학교사, 출판사, 단체직원 등에서 근무했다 [1] . 1937년 (쇼와 12년)에 제1차 '작가 정신'의 후계지인 '행동문학'의 동인이 되어 '요코코 리이치와 '작가의 비밀'' 등을 발표, 문예평론 을 시작 했다 . 그 밖에 전전이나 전후 얼마 되지 않은 시기에 발표된 가무 라 료타 , 아쿠타가와 류노스케 등에 관한 논고가 문예평론에서의 주된 작품이다. 또, 1947년 (쇼와 22년)에 「사색」춘계호에 발표된 「1마리와 99마리와」는, 정치와 문학의 준별을 설명하는 내용으로, 「정치와 문학」논쟁 에 일석 을 던졌다. 이 작품을 후쿠다의 대표작으로 간주하는 견해도 많다. 『군상』 1948년 6월-7월에 「도화의 문학-다자이 치론」을 발표. 1949년 (쇼와 24년)부터 일영 교류를 위한 단체, 어느 비욘·쿠라부에 참가 [5] .
쇼와 20년대 후반기부터 문학에 대한 관심은 점차 개별 작가론과 문예비평을 떠나갔다. 이 시기의 대표작은, 예술 을 보다 근본적으로 논한 1950년 (쇼와 25년)의 「예술이란 무엇인가」(요서방)나, 예술·연극론으로부터 인간론에까지 전개한 1956 년 ( 쇼 와 31년)의 '인간·이 극적인 것'(신쵸샤) 등의 저작이다. 1950년, 다마 미술 대학 에서 교수를 맡았다 [6] .
후쿠다 쿄존의 이름을 세상에서 유명하게 한 것은, 진보파 전성 중에서 보수파의 논쟁가로서의 활동이었다. 1954년 (쇼와 29년)에 「중앙 공론」12월호에 발표한 「평화론의 진행 방법에 대한 의문」으로, 진보파의 평화론을 비판. 또 전후의 국어 국자 개혁 을 비판해, 1955년 (쇼와 30년)부터 다음 해에 걸친 가네다 이치쿄스케 들과의 논쟁으로(「국어 개량론에 재고를 고무한다」 「지성」1955년 10월호 등) 「현대 가나즈카이」·「당용한자」의 불합리를 지적했다. 그 집대성이 역사적 가명견 의 주장을 설하는 『내 국어 감실』(신쵸샤, 초판 1960년 (쇼와 35년), 요미우리 문학상 수상)이다. 저서 전부는 역사적 가명견 으로 쓰여졌지만, 출판사의 의향으로 문고 재간의 일부등은 현대일까를 사용하고 있다. 1969년 (쇼와 44년)부터 1983년 (쇼와 58년)에 걸쳐서는 아라키 토시마가 창설한 교토 산업대학에서 교수를 맡았다.
번역가로서의 대표작은 셰익스피어 '4대 비극 '을 비롯한 주요 희곡, 헤밍웨이 '노인과 바다 ' , D.H. 우루카」시라미즈샤, 1951년 (쇼와 26년)에 초간), 와일드「살로메」, 「도리안 그레이의 초상」이다.
극작가, 연출가 로서도 활약. 1952년 (쇼와 27년)에 문학자 에 들어가 『햄릿』, 자작의 『용을 쓰다듬은 남자』 등의 연출을 담당하지만, 문학자의 간판 여배우 스기무라 하루코와의 의견의 차이 로부터 1956 년 (쇼와 31년)에 퇴좌. 1963년 (쇼와 38년), 한때 후쿠다가 다룬 '햄릿'에서 주연을 맡은 아쿠타가와 히로시나, 나카타니 승, 키시다 쿄코, 카미야마 시게라 문학자 탈퇴조 29 명과 재단법인 현대 연극 협회 를 설립 , 이사장으로 취임. 이 협회 부속의 ' 극단 구름 '에서는 셰익스피어 극의 작·연출을 담당한다.
이윽고 아쿠타가와와 대립하자 협회 내에서 새롭게 '극단관'을 설립 하고 '극단 구름'에서 손을 잡고 아쿠타가와 등과 일선을 획하게 되었다. 1975년 (쇼와 50년)에 아쿠타가와, 나카타니, 키시다, 나카무라 신로 등 「극단 구름」의 대부분이 현대 연극 협회를 이탈해, 「연극 집단 엔」을 설립하면, 「극단 구름」의 잔류파 와「 극단관을 통합해 극단창을 결성 했다. 1977년 (쇼와 52년)부터 1979년 (쇼와 54년)에는, 후지TV 계열의 정치 토론 프로그램 “ 후쿠다 탄존의 세상 을 베는”(세상을 베는 시리즈에 있어서는 제3대째)의 사회 진행으로 TV 출연 했다. 이 시기에는 한국 대통령 박정희 와 친교가 있어 몰 때 회상기도 발표했다.
1987년 (쇼와 62년)부터 1988년 (쇼와 63년)에 걸쳐 “후쿠다 쿄존 전집”을 간행했지만, 헤세이에 들어가고 나서는, 몇개의 잡지에 몇 페이지분의 수필·소감을 쓴 이외 는 집필 발표를 실시하지 않고, 「후쿠다 쿄존 번역 전집」이 완결된 다음해인 1994 년 (2009년) 11월 20일에, 폐렴 에 의해 도카이 대학 의학부 부속 오이소 병원 에서 몰렸다 [1] . 향년 82. 계명은 실상원 추존일 신거사 [7] . 12월 9일 아오야마 장의소 에서 본장·고별식이 열렸다. 장례위원장은 작가 아가와 히로유키 로 하야시 켄타로 , 쿠메 아키 이 조사를 말했다. 묘소는 거주한 가나가와 현 오이소초의 묘 대사 에 있다.
주요 실적은 위의 '전집'과 '번역전집'에 정리되었다. 단지 자선을 위해서, 단편 의 논문 수상에 가세해 유일한 신문 연재 소설인 「수수께끼의 여자」(신시오샤, 1954년(쇼와 29년))를 비롯해, 생전 간행의 전집·저작집에는, 미소 수 의 그대로의 논고 저작도 많다.
2007년 (헤세이 19년) 11월부터, 후쿠다 히로시 (차남· 메이지 대학 상학부 교수.또 연출가 · 번역가 · 재단법인 “현대 연극 협회” [8] 이사장으로서 연극 활동을 잇는) 등의 편집 에 의해, 「후쿠다 쿄존 평론집」(여자와 대학 출판회 , 커버 장정)이 간행 완결했다(하기의 전집·저작집을 참조).
후쿠다 쿄존과 논단 [ 편집 ]
후쿠다는, 「평화론의 진행 방법에 대한 의문」이후, 논단으로부터 「보수 반동」이라고 불려져, 「무라야 분」의 처우를 받았다고 술회하고 있다 [9] . 「아사히 신문」논단 시평(1951년 10월~1980년 12월)에서는, 「평화론의 진행 방법에 대한 의문」이후, 언급이 즉시 없어진 것은 아니고, 1966년까지는 비교적 언급되고 있지만 (참고수 24), 그러나 긍정적으로 다루어지고 있는 것은 17로 31명 중 제28위가 되어, 나카노 요시오(49), 오다미(40), 시미즈 기타로(39) 의 절반 이하 가 된다 [ 10 ] . 게다가 부정적으로 다루어지고 있는 것은 7이며, 부정적으로 다루어지는 비율은 30·8%가 되어, 31명중의 톱이 된다[10 ] .
예를 들면, 도유중인 은 다음과 같이 다루고 있다 [11] .
베트남 문제가 논단을 붐비고 있는 것은, 이것으로 4개월째이지만, 이달이 되어 눈에 띄는 것은, 미국의 정책을 지지하는 논문의 등장이다. 그 중에서도, 제일 무키가 되어 이 역을 맡으려고 하고 있는 것은, 후쿠다 항존의 「미국을 고립시키지 말라」(문예 춘추)일 것이다. 후쿠다는 여러 가지를 말하자면 문학자적 특권으로 증명 없이 말하고 있다(후략)— "아사히 신문" 포럼 논평, 1965년 6월 22일
그러나 1967년 이후부터는, 긍정적·부정적으로 관계없이 언급되지 않게 되어, 타케우치요는 「『보수 반동』평론가라는 레텔이 정착했을 것이다」라고 말하고 있다 [10] . 이와 같이 후쿠다는 논단에서는 부정, 그리고 무시되어 가게 된다 [12] . 평내 유조 는 후쿠다가 『문질질할 일들』(1981년)을 간행한 무렵은 보수 논단으로부터도 완전히 고립되어 있었다고 평가하고 있다[13 ] .
평가 [ 편집 ]
호리우치 카츠 아키 는, 저서 「오역 순찰」(1989년, 대수관 서점)에서 「사랑하는 여자들」(신시오 분고)의 후쿠다의 텍스트로부터, 「a long, slow look」를 「멀리 돈보다 가까워」라고 하는 말 그 외를 「초보를 잘못한」오역이라고 지적하고 있다(호리우치에 의하면, 이 표현은 정확하게는 「천천히, 가만히」라고 하는, 거리가 아니라 시간으로서의 long과 slow라고 한다).
오가와 타카요시 는 『노인과 바다』의 신역( 광문사 고전 신역 문고 , 2014년) 후기 해설에서 노인의 'aloud'를 후쿠다가 '부르짖는, 노노루' 등 감정적으로 번역하고 있다는 점을 비판하고 노인 의 성격 묘사 및 근현대의 용법으로부터 그 말은 단순히 「입으로 한」 정도의 것이라고 말하고 있다.
만화가 고바야시 요시노리 는 후쿠다의 "인간은 생산을 통해서만 어울릴 수 없다. 소비는 사람을 외로움에 빠진다"("소비 붐을 논하지 않고"1961 년 에 대해, 「수신론」에서 자신의 스탭에게 「후쿠다 쿄존의 이 말을 씹어라」라고, 1장을 나누어 다루고 있다[15 ] .
저작 [ 편집 ]
평론 [ 편집 ]
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- 다음은 후속 조치가 아닙니다.
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- 문 세트
- 「일본에의 유언 후쿠다 쿄존 어록」(분예춘추, 1995년, 분춘문고, 1998년)
- 나카무라 호오 · 타니다 조개 츠네오 편 - ※저작을 축으로 약 300편의 어록 단장을 뜨다
- 『멸망하는 일본에 후쿠다 쿄존의 말』( 가와데 서방 신사 , 2016년 6월)
- 사토 마츠오 편 - ※저작 전체로부터 약 400편의 어구를 뜨개질 해설
희곡·소설 [ 편집 ]
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번역 [ 편집 ]
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- 에이브 퀴리
- 도진의 여행 러시아편( 사카니시 시호와의 공역, 니혼바시 서점, 1946년)
- ※아시아편도 간행 예고되었지만 미간.
- 어니스트 헤밍웨이
- T·S·엘리엇
- 칵테일 파티(오야마 서점, 1951년 / 창원문고, 1952년)
- 현대 세계 문학 전집 (26) T·S·엘리엇(신쵸샤, 1954년), '칵테일 파티', '일족 재회', '사원의 살인'을 소수.
- 엘리엇 전집 (2) 시극(중앙공론사, 1960년, 개정판 1971년, 신장판 1981년), 동상.
- 오스카 와일드
- 와일드어록(이케다 서점, 1950년)
- 옥중이야기(신초문고, 1954, 1968년 복각)
- 살로메 (Shinchosha, 1958 / Iwanami Bunko, 1959, 2000 개정)
- 두리안 그레이의 초상 (신조 문고, 1962년, 개판 1967년, 신장 개판 2004년)
- 아서 경의 범죄(중앙 공론사, 1952년 / 후쿠다 히데 와의 공역, 중공 문고, 1977년), 단편 편집
- J·M·배리
- 제임스 서버
- 현대 이솝 (만유사, 1950년)
- SEX는 필요한가( E·B·화이트 공저, 난춘지와의 공역, 신시오샤<1시간 문고>, 1953년)
- D·H·로렌스
- 사랑하는 여자들( 신시오 문고 전 3권, 1952년 / 개판 전 2권, 1969년)
- ※구판은 1950년-1951년에 「로렌스 선집 9・10」에서 간행(오야마 서점, 가미・나카마키만으로 낙태)
- G·K·체스타톤
- 버나드 쇼
- 성녀 쟌느 다크( 마츠바라 마사토 와의 공역, 신시오샤, 1963년)
- 헨릭 입센
- 헤더·거블러(중앙공론사, 1979년), ※영역판에서 번역
- 소포클레스
- 콜린 윌슨
- 아웃사이더(가와데 서방 신사, 1957년), ※나카무라 호오와의 공역
전집·저작집 [ 편집 ]
- 후쿠다 쿄존 저작집(전 8권, 신시오샤 , 1957년-1958년), 3권째까지는 창작집, 다른 5권은 평론집
- 후쿠다 쿄존 평론집(전 7권, 신시오샤, 1966년), 5권째까지는 상기 신판
- 후쿠다 쿄존 전집(전8권, 문예춘추 , 1987년-1988년), 실질은 자선집, 제7권에 연보, 제8권은 창작집
- 후쿠다 쿄존 번역 전집(전 8권, 문예 춘추, 1992년-1993년)
- 후쿠다 쿄존 평론집(전 20권 별권 1, 레이자와 대학 출판회, 2007년 11월-2011년 3월)
- ※당초는 전 12권별권 1로, 2009년 중에 완결 예정이었지만 같은 해로 변경. 별권은 호레이쇼 일기·연보, 저서 목록, 색인 외.
- 후쿠다 쿄존 희곡 전집(전 5권 별권 1, 문예 춘추, 2008년 11월-2011년 5월)
- 별권은 「극장에의 초대」, 「나의 연극 백서」, 「모객에게의 소에」외.
- 후쿠다 쿄존 대담·좌담집(전 7권, 타마가와 대학 출판부, 2011년 4월-2012년 10월)
주요 편저 [ 편집 ]
- 아쿠타가와 류노스케 연구-작가 연구 총서(신쵸샤, 1957년)
- 國語 문제論爭史(신쵸샤, 1962년)- 저자명은 후쿠다이지만, 실질은 문하 생토야 미치오가 정리했다.
- 쓰치야 미치오, "국어 문제에 대한 논쟁의 역사"(다마가와 대학 출판부, 2005), ISBN 4472403153- 증정판
- 현대 일본 사상대계 32 반근대의 사상( 쓰쿠마 서방, 1965년) - 후쿠다 명의에서의 해설 담당이지만, 실제로는 니시오 간지에 의한 구술 필기.
- 중국의 모든 일본의 장래(기획·감수, 다카기 서방 , 1973년)
- 소련의 모든 일본의 장래(동, 다카기 서방, 1974년)
- 교육의 모든 일본의 장래(동, 다카기 서방, 1974년)
- 신문의 모든 일본의 장래(동, 다카기 서방, 1975년)
- 국가의식 없는 일본인 일본의 장래(동, 다카기 서방, 1976년)
- 중국은 어떻게 될까 계속·중국의 모든 일본의 장래(동, 다카기 서방, 1976년)
- 헌법의 모든 일본의 장래(동, 다카기 서방, 1977년)
- 한반도의 모든 일본의 장래(동, 다카기 서방, 1977년)
- 후쿠다 쿄존 세상을 베는 ( 산케이 출판 , 1978년) - ※일요일 오전의 TV 프로그램 에서의 게스트와의 대담.
음성 [ 편집 ]
- 후쿠다 쿄존 강연 제1집 일본의 근대화와 그 자립(신시오 카세트, 신시오샤, 1996년 4월)- 제1·2집은 연속 강연 “처세술부터 종교까지”.
- 후쿠다 쿄존 강연 제2집 이상의 이름에 가치가 있는 것(신시오 카세트, 신시오샤, 1996년 6월)- 1976년 3월부터 1977년 3월에 걸쳐 3백명 극장에서 행해졌 다 .
- 후쿠다 쿄존 강연 제3집 근대 일본 문학에 대해서/셰익스피어극의 매력(신시오 카세트, 신시오샤, 1996년 8월)
평론·연구 [ 편집 ]
- 이지리 치오『극적인 정신 후쿠다 쿄존』일본교문사〈교문선서〉, 1994년 6월. ISBN 4-531-01517-7 .
- 이지리 치오 『극적인 정신 후쿠다 쿄존』도쿠마 서점〈토쿠마 문고 교양 시리즈〉, 1998년 7월. ISBN 4-19-890934-2 .
- 이와모토 신이치 「제3장 후쿠다 쿄존의 「근대의 초극」론―「말」과 「공동체」」 「초극의 사상」수성사, 2008년 12 월 . ISBN 978-4-89176-704-4 .
- 엔도 코이치『후쿠다 쿄존과 미시마 유키오 1945~1970』 레이자와 대학 출판회(상하), 2010년 4월. ISBN 978-4-89205-596-6 · ISBN 978-4-89205-597-3 .
- 오카모토 히데토시「후쿠다 쿄존」게이오 요시카쿠 대학 출판회 , 2014년 4월. ISBN 4-7664-2128-0 .
- 가와쿠보 츠요시 「후쿠다 쿄존 인간은 약하다」미네르바 서방 < 일본 평전선 >, 2012년 7월. ISBN 4-623-06388-7 .
- 가네코 미츠히코 『후쿠다 쿄존론』 근대 문예사, 1996년 5월. ISBN 4-7733-5405-4 .
- 쿠메아키「나의 전후 무대·TV·영화사 70년」가와데 서방 신사, 2018년 11월. ISBN 4-309-27985-6 . 후반이 스승 후쿠다 쿄존과의 회상기.
- 무카사카 타카이치로 「회상의 무카사카 타카이치로」 무카사카 타카이치로 추도집 편집회, 1984년. [17]
- 사이토 료 「문사들의 미국 유학 1953~1963」서적 공방 하야마, 2018년 12월. ISBN 978-4904701546 . [18]
- 츠지무라 아키라「위선과의 싸움-고고의 정신 후쿠다 쿄존」 「자신과 싸운 사람들」타카기 서방, 1993년 4월. ISBN 4-88471-042-8 .
- 츠치야 미치오『후쿠다 쿄존과 전후의 시대 보수의 정신이란 무엇인가』일본교문사〈교문선서〉, 1989년 8월. ISBN 4-531-01511-8 .
- 츠보우치 유조「「1979년의 후쿠다 쿄존」 및 「마루야마 마사오인가 후쿠다 쿄존 인가 」ISBN 4-7949-6301-7 .
- 츠보우치 유조 「「1979년의 후쿠다 쿄존」 및 「마루야마 마오나 후쿠다 쿄존인가」」 「스트리트 와이즈」 코단샤 문고, 2009년 4 월 . ISBN 978-4-06-276332-5 .
- 평내 유미 「1982년의 「후쿠다 쿄존론」」 「뒤로 앞으로 나아간다」 아키후미샤, 2002년 8월. ISBN 4-7949-6540-0 .
- 나카무라 호오 '절대 의 탐구 후쿠다 쿄존의 궤적' 레이자와 대학 출판회, 2003년 8월. ISBN 4-89205-467-4 .
- 니시오 간지「「심심」의 사상가 후쿠다 쿄존의 철학」ISBN 4-16-370370-5 .
- 서부 邁「「言葉の弓射る」정신의 책 〈후쿠다 恆存全集〉간행에 들려」 『니히리즘을 넘어』 카도카와 하루키 사무소〈하루키 문고〉, 1997년 11월 , 170-173 쪽 . ISBN 4-89456-362-2 . - 일본문예사 (1989년)를 개정.
- 서부邁 「보수 사상의 신수――후쿠다 쿄존」ISBN 978-4-7584-3662-5 . - '사상사의 상모'( 세계문화사 , 1991년)를 개제·개정.
- 서부 마이 "106 Fukuda Eternal Cun" "Learning" Kodansha , 2004년 4월, pp. 342-344. ISBN 4-06-212369X .
- 하마사키 요스케 “후쿠다 쿄존 사상의 <카타리> 일로니·연극·말” 신요샤 , 2011년 11월 . ISBN 978-4-7885-1263-4 .
- Fukuda Yasushi "Father Fukuda Hengcun" 문학 봄과 가을, 2017년 7월. ISBN 416-3906886 。
- 후쿠다 일 『아버지·후쿠다 쿄존』 분춘학예 라이브러리, 2021년 6월. ISBN 416-8130924 。
- 마에다 카노리「문학의 구히 후쿠다 쿄존의 언설과 행위와」ISBN 4-87302-0204 。
- 모치마루 히로시 , 사토 마츠오 『증언 미시마 유키오・후쿠다 쿄존 단 한번의 대결』문예춘추 , 2010년 10월. ISBN 978-4-16-373250-3 .
- 『총특집 후쿠다 쿄존―인간·이 극적인 것』카와데 서방 신사편, 2015년 5월. ISBN 4-309247091
- 입문·후쿠다 쿄존, 인터뷰, 메모와르, 후쿠다 쿄존론 셀렉션, 후쿠다 쿄존에의 10의 시점, 단행본 미수록 작품, 주요 저작 30작 가이드 외
註[ 편집 ]
- ^ a b c d e f “ 후쿠다 쿄존 ~〈전후 〉에 이의 있어 보수의 논객~ ” (PDF). 그레이트 ·워크스의 세계 ―근현대 일본의 사상과 학문 ― . 일 보기.
- ↑ “ 후쿠다 항존 ”. 디지털판 일본인명대사전+Plus . 코트뱅크 . 2012년 6월 23일 열람.
- ↑ 다케우치양「미디어와 지식인 - 시미즈 기타로의 패권과 망각」중앙 공론 신사 , 2012년, 308페이지. ISBN 978-4120044052 .
- ^ " 맹자는 온 마음을 다해 ". 중국 철학 책 디지털화 프로젝트 . 2012년 6월 21일 접속 . "덕과 지혜와 기술과 지식이 있는 사람은 항상 병들게 된다 "
- ↑ 동회의 출판부 편집 위원으로서 활동. 회지 「아비비욘」의 편집위원을 맡는다. 『아비비욘』 창간호, 신월사, 1949년
- ↑ http://www.shiro1000.jp/tau-history/tama-zoukei/tama-zoukei.html
- ↑ 이와이 히로시 “작가의 임종·묘비사전”(도쿄도 출판, 1997년) 283페이지
- ↑ 설립 50년째인 2013년 가을에 일단 해산했다.
- ^ "Fukuda Hengcun Volume III의 전집" "Shu Shu III"
- ^ a b c Takeuchi 2011 , 289페이지.
- ^ Takeuchi 2011 , 288페이지.
- ^ Takeuchi 2011 , 290페이지.
- ^ 『제군 ! _ _ _ _
- ^ "복전 헝춘 전집, 제5권", Wenyi Chunqiu, 1987.
- ↑ 고바야시 요시노리 『고마니즘 선언 PREMIUM 수신론』 매거진 하우스, 2010년, 203-206쪽.
- ↑ 쇼와 37년부터 쇼와 55년에 걸쳐 규슈에서, 4번 간 강연과 문답집
- ^ 신시오샤에서의 편집자로, 퇴사 후는 연극 관계로 후쿠다를 지지했다
- ↑ 「제9장 미국에서 돌아온 후쿠다 쿄존은, 「문화인」의 「평화론」을 과감하게 공격했다」를 수록. 저자는 문예춘추 '제군' 등에서 담당 편집자
참고 문헌 [ 편집 ]
- 다케우치양「혁신 환상의 전후사」( 중앙 공론 신사 , 2011년 10월) ISBN 978-4120043000
- 후쿠다 야스시 "Father Fukuda Hengcun" ( Bunyichunqiu , 2017년 7월) ISBN 978-4163906881
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