2022-12-26

別府も戦場となった 西南戦争

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別府も戦場となった
西南戦争(一八七七・ 二5九)と大分県
三重野 勝 人



はじめに
大分県における西南戦争の実態については、すでに詳細な研究論稿が諸書に掲載されている。『大分県史』近代編1 (大分県) ・ 『大分の歴史』(8)(大分合同新聞社) ・ 『豊後路の西南戦争』(釘宮郷喜・平成一一年) ・ 『西南戦争と豊後路』(古藤田太) ・『西南戦争豊後地方戦記』(高野和人青潮社平成九年)などの論稿その他、いずれも詳細に県下各地の戦況を記述して郷土史愛好家の期待に応えている。
本稿は、これら過去の優れた実績を踏まえ、更には新たに編纂された市町村『史・誌』の成果をも援用して、県下の西南戦争史の全貌を改めて整理しようと試みたものである。史料は『太政類典』(「写」大分県先哲資料館蔵) ・『明治十年征討軍団記事』(参謀本部編青潮社)『征西戦記稿』(参謀本部編 青潮社) ・『明治十年騒擾一件』(青潮社平成一〇年)   『熊本鎮台戦闘日記』(復刻版日本史籍協会編東京大学出版会昭和五一一年)などに拠った。
一 西南戦争前夜
戦争の諸要因
西南戦争の最も基本的な要因は、政府による急速な近代化に対応しきれない士族層の動揺にあ「た。そしてそれを背景にして以下に見るような諸事件が重なり、遂には戦争へと道を開いたのである。
第一 に挙げられるのは士族救済をも謀「た征韓論の敗北と 一五参議の下野、ことに陸軍大将西郷隆盛以下篠原国幹(同少将) ・桐野利秋(同前)ら薩摩士族六〇〇名の鹿児島帰郷、第二が、佐賀の乱(江藤新平首謀)以下明治九年にわた 「た一連の士族反乱、そして直接の契機とな「たのが、 一〇年一月の鹿児島私学校党の暴発であ「た。
鹿児島私学校とは、西郷隆盛が下野後、明治七年六月に鹿児島に設立した士族の軍事訓練機関で、.篠原国澣の銃隊学校 (旧近衛兵収容)と村田新八の砲隊学校(旧砲兵収容)からなり、県下に多くの分校を擁した。経費は県庁が負担し、県
令大山綱良も積極的に支持、同校教師・生徒を官吏にも任命したため、私学校党が事実上行政組織を独占するようになっ
 
 
当時の鹿児島県の実態を示す次の史料がある。
廃藩置県以来、 ココニ五年、該県ハ依然トシテ組織ヲ変更セズ、 試ニ看ョ、 士族ノ禄制ハ曾テ変革ナシ。 (中略) 県吏ハ長官ョリ等外ニ至ルマデ、曾テ他県人ヲ容レズ。 サキニ該県ノ士、西郷氏ノ職ヲ辞スルヤ、命ヲ得タズシテ去レリ。近衛兵ハ再三ノ勅諭ヲ顧ミズシテ解散シタリ。近来該県下ニ於テ設ケタル賞典学校ナル者ハ陸軍ノ規則ヲ待タズ、純然タル兵団ノ如シ。私学校ナル者ハ、文部ノ規則ニ従ハズ、宛然タル国事会議所也。且ッ (中略)士族ハ各自銃器弾薬ヲ私蔵シテ、 コレヲ官ニ納メズト云フ
*賞典学校Ⅱ西郷らの賞典禄(明治維新の論功行賞) で設立した陸軍幼年学校
(「評論新聞」明治九年一月投書Ⅱ『史料日本史』山川出
 
このような状况の中で事態をさらに悪化させたことに、 明治一〇年一月、 政府が、鹿児島に所蔵の陸軍省の兵器・弾薬を移送しよとして私学校党に妨害されたことがある。私学校党はこれに憤激し、当該兵器弾薬庫や海軍省所管の造船所を襲撃して銃器・弾薬を強奪しオこ。 この直後の二月初旬、警視庁大警視川路利良(薩摩) が、対私学校党対策のために派遣した中原尚雄警視以下一一〇名の警部・巡査(薩摩出身者) が
 
逮捕され、拷問の結果西郷暗殺計画が発覚した (真偽不明) ことが、 暴発を決定的にした。
一一 熊本城攻防戦と大分県当局の対応
熊本城攻防戦  
「今般政府へ尋問の筋有之」 (二月一二日西郷の県令大山 -
綱良宛て届け)として、 明治一〇年一一月一五日、西郷は一万三〇〇〇の兵を率いて鹿児島を出立した。 これが西南戦争の始まりであるが、西郷軍は一一二日には早くも川尻町に到着し、この日から四月一四日までのほぼ二カ月間にわたり、熊本城 (司令官谷干城)をめぐり官軍と激戦を展開する。田原坂をはじめ周辺各地で官軍西郷軍の間で死闘が繰り返されるが、戦闘の詳細については紙数の関係で割愛する。
"政府問責・上京。を建前として出兵した薩摩軍が、鎮台 (後の師団) の置かれた熊本城を攻撃し、結果として薩摩軍壊滅への道をたどったのは何故であろうか。第一に挙げられるのが明治維新の英傑西郷隆盛に対する絶対的な信頼、 一一が徳川幕府壊滅に官軍の中核として活躍した薩摩軍に対する過信、 そして第三がその結果としての主観的・独善的な情勢判断の誤りであった。熊本鎮台の抵抗を想定した一士族隊員 (熊本隊など) の質問に対し、 薩摩軍幹部の次の応答がその間の実情を良く物語っている。
・台兵もしわが征路をさへぎらば、 ただ一蹴してすぎんの
み、 べつに方略なし。
・なんの戦略かこれあらん、 ただ一蹴してすぎんのみ。
前者は別府晋介、 後者は篠原国幹の言である。西郷隆盛もまた次のように述べている。
・熊本はたちまち城門をひらいてくだるべし。熊本に根拠して九州を風靡せしめ、 ただちに広島をつき、大阪を破り (二月下旬、 三月) 海陸にて東上 (以下略)。
 
(同前掲書) 西郷軍の挙兵に刺激され、或いは同軍転戦につれて、 各地
でこれに同調する士族隊が結成された。 これを党薩諸隊と総称しているが、 以下がそれである。
宮崎県Ⅱ佐土原隊・飫肥(おび)隊・延岡隊・高鍋隊・福島隊。都城隊
熊本県Ⅱ熊本隊・協同隊・竜ロ隊・人吉隊福岡県Ⅱ越智武部党
大分県Ⅱ中津隊・竹田報国隊・佐伯新奇隊県内不安と情報収集
明治四年(一八七一) の廃藩置県以後、 県下においては、同六年に大分・大野・海部・直入にわたる四郡一揆が起こり、死刑四名を含む被処分者一一万七九一三名を出し、 また日田郡でも徴兵反対の強訴、 所謂血税一揆が突発するなど変革期を象徴する激動に見舞われた。西南戦争の起こ「た明治一〇年 -
は、 これら事件の事後処理や前年八月の下毛・宇佐一一郡の大分県編入も無事に終わったものの、 一連の士族反乱の頻発に人心の動揺も察せられる不安定な状况にあった。したかって刻々と伝えられる鹿児島の緊迫した状況に県当局は非常な危機感を抱き、 独自に探索者を現地に潜入させるなどして情報
収集に努めた。 一一月一九日付けの内務省宛の次の上申は、 その一端を示すものである。
 
鹿児島県下ノ景況ハ及電報置(でんばうにおよび)、 猶精々各地へ探索之者派遣致置候得共、 薩界ハ往来ヲ緊鎖致居候義ニ付、 延岡以西ノ事情ハ確タル義難探知(たんちしがたく)候赴ニ付、 左ハ延岡派出探偵者報知ノ概略ニ候。
一、 延岡ニテ聞知スルニ佐土原飫肥高鍋士族モ陸続薩行スト。尤延岡ノ士族モ十四日ョリ宮崎地ヲ発シ公然帯刀銃
 
 
ヲ携へ薩行スト云フ。
せつきようのため 一、 兼テ鹿児島へ為説教入県スル僧徒ハ不残捕縛シ、 (中
 
略)其他々府県ョリ入込居候者ハ勿論、 薩州ョリ東京へ出仕スル官吏巡査等帰省之者モ不残捕縛、 (中略)右ハ西郷隆盛ヲ暗殺ノ聞ヘアルョリ劇徒憤激此三至ルト云フ、
 
就ハ近日ノ内数万ノ兵ヲ以テ東京へ押出ノ景況有之、
(『明治十年騒擾一件』) 一一月一五日の西郷軍の鹿児島出兵で事態が急迫すると、 県は県令(知事)名で、鹿児島県下私学校党の暴発を伝え、 以下の風説取り締り通達を発して県民に注意を喚起した。
こ-っせつ
今般鹿児島県騒動ノ儀ニ付種々巷説モ有之候得共、右ハ同県下私学校生徒過激少年輩無謀ノ挙動ニ出テタル義ニテ、
 
同県有為ノ面々ハ勿論県下一般連及ノ義ニハ無之、 (中略) 然シナガラ景況ニ依リテハ如何様御処分相成哉モ難計矣イ尋彳共 (中略)、 大義名分ヲ明カニシ方向ヲ不謬(やまたす)如何様ノ浮説
 
 
流言有之候得共、 土民一般本業ニ安ンシ (中略)猥リニ動一)れあるヾ、揺不致様区戸長ニ於テ注意示諭可有之。尚無根ノ流言ヲ申
 
触人心ヲ惑乱スル者有之候へハ直ニ取押可申(もうすべこ)云々。
(『大分県警察史』) 県境警備の強化
一一月一一十一一日に熊本城攻防戦が始まると、 県当局は防備態
勢強化のために矢継ぎ早に対応策を打ち出した。一一十三日に
は士族の帯刀を許可し、 一一十五日には警備要員として士族を募集しその数五〇〇名に達した。また政府に対しては、熊本県と境を接する大分県の特殊事情から早急な警視隊の派遣を
要請し、 三月一日までに警視隊五〇〇名が大分に派遣された。
県境の防備については、 久住方面では到着警視隊を直ちに熊本県阿蘇郡坂梨(一の宮町) の前線に移動させ、 一一重峠に進出した西郷軍に対峙させると共に、 日田方面では津江の防備を厳重にしオこ。 これは越境した西郷軍が日田川の舟運を利用して襲来することを想定したもので、豆田署へは武器弾薬も供給された。南郡宮崎県境の警備は、 延岡ほか宮崎県下の
士族の動きが不穏のため、 佐伯署千束分署を重岡に移し、 武器弾薬を配布して防備を固めた。当時の武器弾薬補充はどの程度ものであったのか、 参考までに豆田・竹田・重岡に関す
る資料を瞥見してみよう。
ちょ-っ
小銃三十挺、 弾薬一挺ニ付三十発、 枢要ノ場所三ヶ所へ拾挺宛置ク事、右ハ警備ノ為ニテ戦争ノ為ニアラス、人民
 
ノ金穀ヲ掠フ場合防制ノ為故当方ョリ戦フへカラスノ注意
書アリ。 尚当日竹田署へ弾薬九百発、重岡藤丸警部へ小銃一一十挺弾薬六百発を送リ居レリ0
(『明治十年騒擾一件』)
三 増田宋太郎と中津隊の挙兵
中津士族の挙兵
官軍のみで死傷三〇〇〇、小銃弾丸一日一一四万5四〇万発、
砲弾同一〇〇〇発を費やし、 一一週間にわり激戦の続いた田原
坂も三月一一十日には官軍に征せられ、 また同日参軍(参謀) 黒田清隆の率いる官軍支援隊が長崎から八代南方に上陸し、
熊本城攻防戦も官軍優勢の内に推移する展開となった。
三月三十一日夜、増田宋太郎ら中津士族五八名の挙兵は、熊本情勢の推移に注意を集中していた県当局の意表に出るものであった。直後大分県宛てに出された戸長原田直好の上申書は当時の状況を次のように伝えている。 ( )内・句読点は筆者註
今三十一日午後十一一時砲声三発相聞、継テラッパ音聞候
ニ付、何事力ト起上リ(中略)直ニ用務所へ出張ノ心得ニ
 
テ出掛候処、舟町四ッ辻ニテ承候へハ用務所ョリ一町計ノ所、以(まも)今(って)三四十人抜刀ニテ警察所打崩シ候赴承込(・つけこみ)候ニ付、
用務所へ罷越(まかりこし)見、 (中略)御門、戸鎖有之ニ付、山内砲声両三発聞ュ大区用務所へ罷越見候へ共区長モ不居合(いあわせず)、依テ (中略) 民会議長菅沼新へ罷越、 方角士族一一聨区学校へ相も,っすべき つかまつり集可申積ノ内、既ニ県庁へ火手上リ探索仕見候処、御用達小畑利四郎宅へ多人数入込貢金掠奪ノ様子、継テ各ニ金子持合候様ノ町宅へ罷越候趣ニ付、多分金子奪取候様ニ相聞(あいきこゅ)、全躰暴発ノ者( 左ノ者哉、当士族モ少々(組合候哉(や)=モ あいさっせられ も,っさず被相察候へ共、何分夜陰ニテ碇ト見留付不申承候へハ、西
 
ノ方ョリ賊参候由相聞候、賊勢凡六十人計ト申事ニ御座候。右取敢(とりあえす)御注 候。何分大変ノ次第既=士族招集防禦等議長
 
ト畍合(1は、しあ)中、賊ハ既ニ差シ出立ノ様子ニ有之候、道路ノ風聞
 そうそっ とりとめなく ままニ、堀無公ハ殺害ニ逢候由、倉卒中不取留候〈共承リ候儘申上候也。十年四月一日午前一一時三十分。
倉卒Ⅱ忙しく慌ただしい様
 (C太政類典』) 他方、 四月上旬に発せられた複数の内務省への「上申」 によれば、 この挙兵は、 「中津士族田舎新聞社長増田宋太郎、
ゆるゆる 一ソつきょ
桜井貫一郎、梅谷安良並大分郡淵村平民後藤準平(純平)」らを巨魁とした「党類凡五六拾人」 で、支庁・警察署・区裁判所へ侵入発砲、支庁へ放火し、支庁長一一等属馬渊清純外属官二人を殺害、且公金を略奪して直ちに大分本庁へ向け南下
 
挙兵の背景と檄文
増田宋太郎ら中津隊のこの時期における挙兵には、 い ゝ よる背景あるいは動機が存在したのであろうか:それを解く鍵に増田宋太郎の手になると考えられる決起の「檄文」がある。三通からなり、 いずれも挙兵した三月一一一十一日から四月一日にかけて中津やその周辺四日市などに掲示されたものである。
<今般義挙ノ儀ハ我輩多年抱蔵ノ宿志ニシテ、別ニ檄文モ有之候へ共多忙中一々御報知難及(およひかたく)候、然ルニ昨今各地差出置候探偵者帰県、本月廿六日佐賀士族事ヲ挙ケ、同廿七日福岡ニ続キ、同三十日秋月ニ応シ府中出発、米柳モ亦将(まさ)ニ発セントス。我輩独(ひし」ー)時機ニ後レハ国民ノ義務何ヲ以テカ
 
 
立ン、故ニ事頗(こ」ふ)ル軽挙ニ渉ルト雖モ今夜激発ニ及べリ。此
 
段豫メ御通知可申トノ所、嫌疑ヲ恐レ切迫ニ立至候義ハ万
謝ノ至ニ候。諸君我輩愛国ノ微(ひち)衷(ゅう)ヲ憐察アラハ、老者ハ少
 
者ヲ鼓舞シ壮年ノ徒ハ事ヲ同(じく) シ、協心戮カ共ニ御
 
助アランコトヲ、若今回御着手難相成候ハヾ緩々御後挙御依頼願申上候也。
明治十年三月卅一日
・微衷Ⅱささやかな真心 ・米柳Ⅱ久留米、柳川? 中 津 有 志 御 中
・戮カⅡ協力する ・府中Ⅱ?
い'/、りよ っ 
新政党
 方今官吏ノ徒、上ハ天子ノ宸襟(しんきん)ヲ悩シ下ハ人民ノ苦情た。くま」しゅ,っしゅうれんヲ顧ミス、私意ヲ逞シ収斂ヲ極メ残忍苛酷至ラサル所ナシ、我輩憤激ニ堪ス之ヲ掃除セント欲ス。各県モ亦同論ニ出テ、 本月一一十六日佐賀、同廿七日福岡、同三十日秋月皆共=義 兵ヲ挙鎮台巡査ヲ鏖(し」りこ)ニセリ。我輩亦時機ニ後レス本日事ヲちゅ)〕挙賊吏ヲ誅戮シ、上ハ天子ノ叡慮ヲ安シ下ハ人民ノ艱苦ヲ救ハント欲ス。諺ニ謂フ、上ニ習フ下ハ区戸長等モ亦官威ヲ假リテ人民ヲ苦シメ、無用ノ民費ヲ増シ私欲ヲ謀ル等不埒ノ所業少カラス。依テ人民方モ此時ヲ失ハス各申合セ、
右等ノ儀詳細探索ヲ遂ケ申出ニ於テハ即チ捕縛シ吟味ノ上
処分ニ及フべク、其罪明白ナル者ハ直ニ召捕差出候テモ不
 
苦候事。
新政党軍議所
両豊人民御中
(『太政類典』) 檄文<は、決起がかねてからの志であり、 各地士族の決起
に共同行動をとることが「国民ノ義務」 であり、老若を問わ
ず後に続くことを呼びかけた決意表明である。三通の檄文の
内嚆矢の役割を果たすものと推定される。これに対して は、
「私意ヲ逞シ収斂ヲ極メ残忍苛酷」 な政府藩閥官僚の腐敗と
圧政か地方へ及んでいるとし、 行政末端の区戸長をも攻撃対
象と位置付け、 これの誅罰一掃を一般人民に呼びかけたもの
である。 これは士族的な視点と一=ロうより人民(農民) 的な視
点に立った論旨と一言うべきもので、 一一日に宇佐郡敷田村の戸
長交渉に端を発した下毛・国東・速見一一万の農民一揆を事前に予測したものと考えることも出来る。中津隊中核の一人で、かって明治三年の大分郡等四郡一揆の指導者であった平民後藤純平の存在とも無縁ではなかろうと推測される。
第三の檄文は、 『太政類典』 によれば四月四日筆記の 「大
分県上申」 にこれが記されており、 前記 、  の檄文は同十三日筆記の 「上申」 に記載されている。 『征西戦記稿』 は、 <、  を中津脱出後の途上で掲示したものとし、第三の檄文
を決起当初の中津町内掲示文としている。次に一小すように長文にわたるものであり首謀者増田宋太郎直々の構想になるものであろう。
方今我国ノ大勢ヲ熟視スレハ、 東ニ魯(ろ)国(こく)アリ西ニ英国ア
 
さんしよくけい ん ・つ。刀、刀
リ皆蚕食鯨呑セントシ、 亜国モ亦欲スル所アリテ我隙ヲ窺 しゅ・つてきフ加之討台ノ役ョリ怨ヲ清国ニ結ビ、 四方皆讐敵ニシテ国
 
勢ノ危キ累卵ョリモ甚シ。此時ニ際シ宜シク外勢ヲ張リテ
 
内情ヲ鎮ズベキニ、却テ政府一一三ノ大吏(中略)海内ヲ苛 ちゅ・つあん刻シ外夷ニ阿順シ、苟且偸安国権ヲ失墜シ、私意放縦民権
 
ヲ剥奪シ内怨ヲ積ミ、 外侮ヲ甘シ卑屈極ナク暴政至ラザルナシ欠之ニ金貨濫出国債繁殖、我一一千五百三十余年ノ獨立 一
  ル つ帝国ヲシテ終ニ外夷ノ制御ヲ受ケシメントス。 (中略) 曩
 
日先参議江、/藤前原ノ如、 国基民権ノ不立ヲ憂慮シ挽回ヲ謀ルモノヲ目 ルニ賊ヲ以テシ、 亮(毫?) モ大義名分を問ハズ之ヲ残戮(ざんり/、)誅滅シ、 今国家ノ棟梁中興ノ一兀老タル陸軍大将正三位西郷隆盛ヲ始、少将桐野篠原等ノ忠臣ヲ刺客ノ刄
 
ニ殪サントスルニ至ル、 大逆無道天地共ニ容レズ、 (中略) 、しゅ・つて  一そ覊~また国家ノ讎敵人民ノ残賊ニシテ抑又天子ノ賊臣ナリ。之ヲ倒シ之ヲ廃シ以テ内ハ一国ノ元気ヲ振起シ、 外ハ度(?)際条約ノ風律ヲ確定シ、後来ノ安全ヲ固クスルハ臣子ノ職分
 
国民ノ義務盡サヾルべカラズ。今聞、西郷公闕下ニ至ラントス、而シテ賊吏私人前路を妨クルト。我輩モ亦神州人民、と,つべ、憂国ノ衷情傍観座視スルニ忍ヒス、投袂蹶起シ賊ヲ南豊ニ討シ忠臣ノ進路ヲ開カント欲ス。 (後略)
 
明治十年四月
新政党別軍
・魯国Ⅱロシア ・討臺ノ役Ⅱ一八七一年台湾出兵
 
・闕下Ⅱ宮城の門の下 ・大吏Ⅱ官職の高い役人
・擁蔽(ようへ)Ⅱ覆い隠す ・叡旨Ⅱ天子の意志 :矯(た)め(-z)Ⅱまげる
 
・海内Ⅱ国内 ・阿順Ⅱ機嫌を取り従う
・偸安Ⅱ目前の安楽のみ求める ・曩(どう) 日Ⅱ先日
 
・投袂Ⅱ発奮する ・蹶(けっ)起(ご)Ⅱ決起
(『太政類典』十) 檄文の糾弾する対象は、当時の日本が当面する政治・経済・社会・外交など多面にわたっている。 その要旨は、欧米列強の対日政略と台湾出兵に起因する対清関係の緊張が、 日本国の独立を危うくしているにもかかわらず、政府は「外勢ヲ張リテ内情ヲ鎮ズベキ」 であるのに 「外夷ニ阿順」 し、 「私意放縦民権蹂躙」を欲しいままにして人民の恨みを買っている。加えるに 「金貨濫出国債繁殖」財政・経済も破綻、 このままでは皇紀一一五〇〇有余年の歴史を誇る「独立帝国」も「外夷ノ制御ヲ受ケ」亡国の運命を辿らざるを得ない。 これが前段である。
後段は、明治七年(一八七四) の佐賀の乱に始まる一連の
士族反乱を「国基民権」 の 「挽回」を図る義挙として評価し、さらに西南戦争へと連なった西郷隆盛の 「卒兵東上」 の行動を正当化し、 これを妨害する政府「大吏」 の対応を 「大逆 
道」として打倒を呼びかける内容からなっている。
この論旨の背景には、 祉韓論敗北に至る一連の経過と、封
建的家禄の全廃 (秩禄処分)等士族層の特権剥奪と困窮、地租改正と過重な税負担による農民層の困窮、 さらには新産業 -
育成など近代化を最優先する財政策の行き詰まりなどの事態 が想定されていると見ることも出来る。しかし、士族反乱や旧態依然たる鹿児島県下のありようを前提とした西郷隆盛の「卒兵東上」 を義挙としていることから見れば、 基本的には不平士族の立場に立ち、強引かっ性急な手法で近代化を推進する政府(岩倉・大久保らが主導) に挑戦状を突き付けたと言,つべき性格のものであろう。

新思潮と増田宋太郎
この檄文には 「外夷」という尊王攘夷思想に付随する一=ロ葉と共に、 「国民ノ義務」、「人民天賦ノ権利」、あるいは「国威」、
 
「独立帝国」などの語彙が使用されている。増田宋太郎は、九歳から尊王攘夷運動の思想的背景をなした平田篤胤派の国学を渡辺重し カ石り丸まる (道生館主宰)に学び、明治三年、母堂を迎えるべく帰郷した洋学者福沢諭吉の暗殺を企てるなど、その感化は浅からぬものがあったと推察される。尊王攘夷は、明治維新の変革に賭けた志士たち共通の大義であるが、異国を「外夷」と蔑称することは、「開国和親」の国是や福沢諭吉の著書『学問のすゝめ』 ・『文明論之概略』などが爆発的な売れ行きを示したことから見て、漸次克服されるべき段階にあった。彼の思想経歴がそれを妨げたのであろう。
後者については、宋太郎が新時代の思潮を積極的に摂取して、自己を支える思想的基盤を再構築しようとしたことの反
映ではないかと考えられる。明治九年慶応義塾の門を叩いた
(一一度目) ことや、田舎新聞編集長を引き受け、あるいは共憂社を設立して自由民権運動への関与も取り沙汰されるのは、このことの証しでもあろう。勿論このような内部変革への試みが何らの逡巡もなく実践されることは不可能であり、ために宋太郎は、小倉県の命のもと佐賀の乱への介入を試み、長崎、鹿児島へと足を伸ばし、慶応義塾での洋学研鑽にも挑戦しようとした。この新思潮を摂取し、自由平等への関心を高めたことが、前近代的な思想経歴と相俟って近代化を急ぐ政府の専制的な姿勢を許容することを不可能としたのではなかろうか。増田宋太郎挙兵の理由を、「檄文」の中に探れば、以上のように結論づけることも可能ではなかろうか。ちなみに同郷従兄弟の福沢諭吉の『学問のすめ』や『文明論之概略』が刊行されたのは、明治五年5九年にわたる時期で彼の新思潮出会いの時期と重な「ている。 参考までに、戦後斬罪に処せられた後藤純平のロ供書から、挙兵直前の一一六日の会合における宋太郎の発一言を紹介しておこう。
宋太郎ノ持論(、我政府暴政多ク維新以来茲=十年、基 一
いまた き一よ-っ ごよ-っ礎未立ス人心恟々趣向スル処ヲ知ラス、支那台湾ノ役ョリ 萩熊本ノ変アルモ必竟政府其処置ノ宜キヲ得サルニ生ス。然ル=今又 家ノ柱石タル西郷大将ヲ斃(たおさ)ントスル=至ル。
 
大臣ノ奸謀已ニ如此。天下ノ人民豈此ノ暴政府ヲ恃マンヤ。真理アル処ニ従フハ人生ノ義務況ンヤ利害得失ヲ直論シ江湖ニ告ルハ新聞記者ノ本務ナリ。
(『太政類典』十)
中津隊陽動作戦と大分県庁攻防戦 
中津で支庁長馬渕らを殺害、警察署を襲撃した増田ら挙兵士族(中津隊)は、四月一日南下を始め、 途上「檄文」を
掲示し、同志を集めながら大分本庁へ向かった。途上、宇佐宮司・御許山石垣坊・高田署巡査などを加え南進、 さらに後藤純平らに率いられた一隊は、 日出頭成(豊岡) から海路で西大分へ上陸、本隊は別府で別府村の佐藤感一 ・茂太郎・猛太郎・堀助七(従兄弟同士) ・石垣村出身矢田宏(同親族)
宇和島士族など六名が加わった。(「別府史談」第四号安部和也論稿・ 『大分県警察史』)
中津隊は、 一一日午後一時三十分には早くも大分県庁に到達し、庁舎(旧府内城)を守備する香川真一県令、吏員・巡査ら一五〇名と激しい銃撃戦を展開した。夕暮れになり中津隊は、県庁攻略のないままに刑務所や市中に放火して別府に向かった。放火による被害は、香川邸をはじめ勢家、沖の浜、船頭町方面にわたり四、五〇〇軒か焼失した。なお県当局は、中津脱出の一巡査から第一報を受けるや、坂梨の警視隊へ救援を要請すると共に、士族を巡査として採用、 その数は、杵築一五、 日田一〇、鶴崎三〇、計五五名に達した。
中津隊の陽動作戦“県庁襲撃の狙い
県側の「上申」によれば、別府に退いた中津隊に対しては、三日早朝坂梨から到着した警視隊と巡査隊が追撃を始め、 これに浅間艦が加わって撃退に成功したとある。その間の経過については次のように伝えている。  
蓋シ是ョリ先海面浅間艦ノ来ルヲ見テ狼狽先ヲ争テ逃レタリシ、少頃アッテ海兵及支道ノ兵モ亦来会シ、共ニ逃賊ヲ追跡シテ南方ノ嶮山ヲ攻撃スレ共、賊巧ニ嶮峰深林ヲ右旋左折シ 距離漸ク遠カリ、 (中略) 爾後各方面ョリノ報知ニ拠レハ速見郡東山村(別府市)、大分郡時松村(挾間町) ヲ経テ小挾間村(庄内町) ニ至リ馬数頭強奪シ、速見郡川上村ノ内字嶽本(湯布院町) ニ出、馬匹一一一十頭斗、人夫多人数ヲ強募、飛ニ似タリ、同郡谷川村ノ内湯ノ平(湯布院
町) ニ投宿、四日午前第八時頃発程、玖珠郡湯坪(九重町) ニ泊シヌト云一 一  
 
(『明治十年騒擾一件』平成十年青潮社) しかし、鹿児島城山で投降し斬刑に処せられた後藤純平の「ロ供」 では、大分県庁襲撃の真のねらいは、 次のように述べられている。
宋太郎・ (梅谷)安良・ (桜井)貫一郎ト四人ニテ薩兵ニ達スルノ策ヲ議ス。時ニ官兵豊後ロへハ二重峠ヲ厳守セ 。之ヲ破レハ直ニ大津ノ薩軍に通ス。依テ衆議ノ末、右
 
八十名ヲ分テ中津ヲ襲ヒ、直ニ大分ヲ襲ハハ二重峠ノ官兵ノ、麦′ィー顧一 シ二重峠ノ守ヲ捨テ大分ヲ援シ其虚ニ乗シテ右峠ヲ越へ大津ニ達セント決議ス。 (『太政類典』十) 「ロ供」によれば、大分県庁襲撃は、中津隊の西郷軍への合流を確実に成功させるための陽動作戦であったことになる。挙兵が謀られた会合では、純平が決起の時期尚早を質問したのに対し、宋太郎が「田原ハ已ニ破レ大山県令ハ縛ニ就キタリト云、風聞空ク時日ヲ移セバ大事去ラン、且ッ兵ハ詭道ナリ同心協力奇策を用レハ薩軍ニ達スル蓋シ甚タ難キニアラズ」 (「ロ供」)と述べ、中津支庁・大分県庁襲撃を決したという。大分県庁襲撃後の彼らの敏速な行動を見れば、県庁襲撃は陽動作戦と見るのが妥当であろう。
中津・大分を襲撃後別府に退いた中津隊は一一重峠に到達するが、状況は予想の通りであった。「ロ供」を続けよう。
(別府から)昼夜兼行一一重峠ニ到ルニ、果シテ官兵ハ皆引退キ居候ニ付、無難大津ニ出テ宋太郎・安良ョリ一一本木西郷ノ本陣ニ届ケ出指揮ヲ待ッ内、桐野ョリ中津ノ隊ヲ一隊トナシ、三官ヲ定可置旨達シアリ。 (同前掲書) 中津隊の最後
西郷軍に合流した中津隊は、熊本撤退後に再編された西郷軍の奇兵隊(隊長野村忍介) の配下に編入され各地を転戦、長井村で西郷軍が事実上壊滅した後も西郷らと行を共にし、
鹿児島城山に籠城した。増田宋太郎らは討ち死に、後藤純平は降伏し裁判の結果斬罪に処せられ、中津隊の歴史は幕を閉じた。鹿児島県令、長崎県からの通知は、増田らの最後を次のように伝えている。
・中津ノ賊魁増田宋太郎ハ既ニ打チ取リタリ、後藤純平ハ死体ハ分ラネドモ然シ攻撃ノ際脱賊一人モ無之故、之モ多分ハ死シタルへシ。 (「九月一一十六日鹿児島県令より電報」) ・国事犯御県下大分郡淵村平民後藤純平、九州臨時裁判所ニ於テ刑名宣告ノ上引渡相成候ニ付、本日廿一一日斬罪決行候条此段御通知候也。 (「十月一一十五日長崎県より通知」) なお、後藤純平の判決文はつぎの通りであった。
其方儀曩ニ旧日田県ニテ凶徒聚集ノ科ニ依リ懲役十年ノ刑ヲ受ケ在留養親ノ為メ収贖免役セラル、身ヲ以テ西郷隆盛ノ逆意ニ與セント兵器ヲ弄シ衆ヲ聚メ増田宋太郎等ト謀リ大分県中津支庁ヲ襲撃ノ砌自ラ党與十余名ヲ率ヒテ警察署ヲ襲ヒ銃器弾薬ヲ略奪シ及ヒ大分市中ヲ放火スル科ニ依リ斬罪申付ル。
 
明治十年十月廿一一日
《賊徒ロ供宣告及刑名表・後藤純平分》
(『太政類典』十)
四 竹田攻防戦
 
 
奇兵隊の重岡急襲
四月十五日、陸軍中将山県有朋の正面軍と黒田清隆の背面軍が熊本城に入城し、 西郷軍の熊本鎮台攻略作戦は失敗に終わった。官軍の攻撃に後退を余儀なくされた西郷軍は、 四月一一十一一日以降移動を始め、 木山(益城町)、 矢部 (矢部町)、椎葉を経て四月一一十八日人吉(人吉市) へ拠点を移した。この間部隊を振武隊など九隊に再編、 ここで野村忍介率いる奇兵隊も編成された。四月三十日、奇兵隊は江代を発し椎葉を経由して延岡に進出しここを根拠地とした。総勢一一〇個中隊三〇〇〇余名で、 エ兵隊・砲兵隊をも整備する最精鋭であっ
 
五月十一一日早朝、奇兵隊三5四〇〇名が、 熊田 (宮崎県北川町) から赤松峠を越え佐伯警察署重岡仮分署を急襲した。五月十三日付け征討総督宛の上申書はその状況を次のように伝えている。
当県管下豊後国重岡駅分署へ昨十一一日不意ニ賊襲来、
 
同署詰巡査尽(こ」こAJ)ク散乱其内五六名同村ノ内田野村ヱ遁レ候
 
ヲ後ョリ五六発砲発致シ候趣、小野市郵便脚夫ョリ急報ニ及候、而(しかして)重岡分署ョリハ未タ何タル報知モ無之故虚実
 
未タ判然不致、併シ何歟大小異変有之事歟ト被察(さっせられ)候条、
此段不取敢(とりあえす)上申候也。 (『大分県警察史』)
 
「上申」 によれば、 分署防備の巡査は「尽ク散乱」して山中や近在の村に逃れ、急を県庁・佐伯・竹田各署及び熊本鎮台などに告げているが、 この 「散乱」 の背景には、 県当局が中津隊の動静に目を奪われ、豊日国境の警備を疎かにしたことがあった。
既述のように、重岡分署には、 三月に小銃一一〇挺、 弾薬六 〇〇発が配備されていたが、 四月三日付けで「今般中津士族 一暴発」を理由としてこれらを「差出」よう通達している。 この結果が、 巡査の 「散乱」と死亡一一名の犠牲者を生んだのである。『征西戦記稿』 で当時の状況を瞥見して見よう。
 
十三日夜十一時十余名の巡査ひそかに山を下り、 向町の某家に至り巡査三名と共に其の服を変じ十四日午前七時久住に向ふ、茲に於て区戸長を会し賊の侵入を告げ人民に布告す、 この地巡査三十名あるも銃僅に十八挺にして弾丸四発に過ぎず到底抗すべからず。
『熊本鎮台戦闘日記』も「見張番ノ者既ニ賊侵入ノ旨ヲ報ス、然リト雖トモ之ヲ防クニ兵器ナク不得止(やむをえす)(中略)各警察署ニ報知スルノ手順ヲナスニ決定ス」と記し、 その直後分署を出たところで「前後ョリ砲撃(銃撃)」され「即死一一名其
他ハ辛フシテ散乱」したと記録している。なおこの時藤丸宗蔵警部(分署長)は竹田署、熊本鎮台に急報後、竹田署への帰途西郷軍に捕縛され処刑されている。
奇兵隊の重岡侵攻は、周辺町村ことに佐伯町民に深刻な影響を与えた。『佐伯市史』 に引用された「明治十年西南之役における佐伯・臼杵一一城市実況記」 (佐藤鶴谷) によれば重岡占領の報を聞いた町民は、 「壮者は老幼を椥け、家財を収め、争ふて難を付近の村浦に避け、 街寂々、 一縷の炊煙登るを見ず」という状况になったという。
豊後進攻の背景
重岡を突破した奇兵隊の先鋒一六〇は、直ちに宇田枝(清川村)、原尻(緒方町)、片ケ瀬(竹田市)を経て竹田町へと
 
侵入した。他方『三重町誌』によれば、大野郡三重市場には一二日に奇兵隊の通牒があり、翌一三日には「其地(三重市)
通行致スニ付人馬ノ用意ヲ為可シ」 (『征西戦記稿』)と触れがあったが、何事もなかったという。このことについては、
『大分県警察史』に次の一文が掲載されている。《五月十四日総督本営へ上申》
十三日午後四時先鋒ト相見へ凡五十名大野郡市場着、重岡へ襲来ノ賊凡一千人、豊後地ニハ寸兵モナシ、甚懸念
 
至急出兵相成度、僅少ノ県官巡査ニテハ迚モ大敵難支、今一報ニ依リ一時難ヲ避ル心得ニ有之云々。
*なお註として、「詳シクハ騒動雑報八巻ニアル五大区七小区(現一一一重町)区長及巡査宇野九良蔵ノ報知ニアル旨記シアルモ失セリ」の一文がある。
破口を開いたのはいかなる戦略に拠るもので(奇兵隊が延岡を拠点として重岡分署を襲撃、)あろうか。これ(豊後侵攻の突) について『大分県警察史』は、官軍が人吉方面の激戦で日向・ 豊後方面の防備に手が届かず、 その虚をついて奇兵隊が後方を撹乱し、勢 を関門方面に延ばす計画であ「たとしている。竹田占領(五/-三5ニ九)
五月一三日、奇兵隊の先鋒部隊は竹田町へ侵入した。資料
は次のように伝えている。
《警部報告》 五月十四日大分県警部某本営ニ至リ急ヲ
 
報シテ日ク。本月十一一日日州屯集ノ賊三一・ 許豊後重岡ニ至リ、翌十三日竹田ニ進入シ所在金穀ヲ略奪シ、暴威
 
ヲ以テ士族及ビ土民ヲ脅聚(さ」よ・つーしの)シ将ニ久住肥豊ノ境ノ嶮ヲ扼
 
セントシ、中津ノ士族モ亦賊ト気脈ヲ通セリト。
(『明治十年征討軍団記事全』) 進攻部隊は、・先ず警察署・裁判所・区戸長役場、官員の下宿を悉く破壊して行政諸機関を制圧すると共に、軍資金を確保するために登高社を襲撃、預金九千円を略奪などした。この日守備に当たる警察屯所の巡査は一四、五名で、奇兵隊の急襲に銃器弾薬も処理出来ないまま山中に非難した。 一四日には後続部隊も到着し、総勢は一八〇〇名に達した。『竹田市史』 によれば、奇兵隊は本営(本町浪花屋) を設置し、喚問所を四カ所に置き疑わしい者を留置尋問するとともに、要所には歩哨を立てて人馬の出入り、 ことに出る者については厳しい尋問をおこなって情報が外に漏れることを警戒した。町民に対しては銃器弾薬の供出命令を出し、さらに弾薬製造所を寺院・小学校など三カ所に急設して戦闘力の強化を図った。また一九日には久住・三重方面に兵士を出動させ食糧徴発の手を伸ばし、久住だけでも一一〇〇石以上を集め、各村から馬五〇余頭を徴発して城原へ運び、城原からは替馬を使って町内の商家の倉庫にそれらを収糸内しオこ。 これらの事実を見ると、奇兵隊は肥後・豊後・日向を結ぶ竹田の戦略的な重要性を十分に考慮し、 ここを拠点として勢力の挽回を図り、東
上への活路を開こうとしたものと推察される。不成功に終わったとはいえ、竹田を占拠した奇兵隊の一部による大分県庁襲撃作戦は、そのような戦略に基づくものであろう。
挫折した大分県庁襲撃作戦
竹田を占拠した奇兵隊の一部は、五月十六日大分県庁襲撃を図「たが、県側が事前に防備を固め、巡査隊を増強し軍艦孟春の大砲一一門を庁内に設置、また沖の浜に支援の水兵を上陸させるなどしたため、急遽矛先を鶴崎方面に転向した。時に鶴崎には、十一一日に東京を発し、佐賀関に到着後十六日に大分県庁に向かいつつあ「た警視隊一一四五名があ「た。これ 一
は県庁防衛の急を告げる県の指示によるものであったが、途 上鶴崎で西郷軍の夜襲を受け多数の死傷者を出した。資料は次のように伝えている。
《惣督府ヱ石井權中警視ョリ電報 五月一七日付》
 
昨日權令ョリ屡々及御報知候通賊徒切迫ニ付夫々防禦手配セシ処、賊徒我カ備ヱアルヲ知リ避ケテ鶴崎ニ向フ、時ニ佐賀関ニ上陸ノ東京巡査当地へ繰込之途中行逢ヒ巡査ハ退テ鶴崎ニ次(や去〕)ル、午後十一時頃賊急ニ其旅館ニ切込ミ巡査死傷一一三名即死一名アリ 巡査ハ今暁五時海路ョリ当地へ引揚、賊ハ直ニ戸次ヱ向ケ引揚グ、多分再ヒ竹田へ引返ス  0 (『明治十年騒擾一件』) 報国隊の結成
県下では先に、増田宋太郎らが自らの意志により中津隊を結成して挙兵西郷軍に合流したが、竹田では奇兵隊の強圧と一部士族の誘導により、竹田報国隊か結成された。
『竹田市史』 によれば、主導者は竹田士族堀田政一で、 一七日、組合伍長名義で密かに各戸に廻文を廻し、戸ごと一四歳から四〇歳までの男子一名ずつを西浦町正覚寺に出頭させた。説尋には油屋田島武馬があたったが、彼は商用で鹿児島滞在中共鳴するところがあり西郷軍に従軍し、竹田進攻の道案内を務め帰郷したという。
報国隊結成に際しては、 これに賛同せず逃亡した者もあったが、奇兵隊侵攻の際の町民に対する脅迫的な一一一〕動から、後難を恐れて結成に加わった者もあった。次のようオよ↑青圭長、、」刀ゝ宍可
 
せられている。
竹田士族ハ凡五百名賊ニ応ジ、 過半ハ背従ノ徒ニテ、賊乱入ノ際不服ノ者ハ即席刺殺スペシ、規(忌)避ノ者ハ妻子ヲ斬戮スペシ等申唱へ凶暴威迫ヲ極候上、其編隊使用スルャ新旧交互離背ヲ相防候由、士民一般頗ル厭悪致シ自首ノ者数十名有之申候、内部ョリ破壊候へバ至極
ノ都合ト帰順ノ道ヲ開キ折角誘導致居候。
(西村内務権少書記官より内務省宛て・ 『太政類典』九) 報国隊の結成されたのは五月一九日で、編成は四個小隊・砲兵一一個小隊、総勢六〇〇であった。前記資料からも窺えるように結朿は強固でなく、官軍が竹田を解放後緒方で多数が降伏、堀田が残り一五〇名を率いて犬飼、臼杵、 日向路にかけて転戦したが、 八月一七日日向長井村で堀田以下四五名が降伏、 その幕を閉じた。なお堀田は一〇月六日斬罪に処せられ三四歳の生涯を終えた。
激戦・竹田攻防戦
五月一三日以降、鎮台兵・久留米駐屯軍・警視隊などからなる官軍が三方面から竹田へ迫った。熊本鎮台兵からなる主力は恵良原から玉来へ進み奇兵隊と交戦した。
賊ハ竹田ノ旧城其ノ他ノ要所ニ據リ屡々我軍ト戦フ、
我車ハ恵良原村ノ要地を占メ守備ヲ厳ニス。廿一日賊兵来襲ス、我兵撃テ之ヲ走ラス、此ヲ豊後ノ初戦トス。一一十四日未明ョリ進ミ撃テ要衝ノ賊塁ヲ抜キ終日転戦シ警備線ヲ竹田町外五丁許ノ處ニ布ク。一一十七日佐伯ニ侵人スル賊ハ悉ク重岡ニ向テ退キタレド、竹田口ハ尚連日相戦ヒ勝敗未タ決セス。 (『征討軍団記事』)
これに対し奇丘(隊は扇森神社、 お兼さ山、中川神社、崩岩、鬼ケ城の岸壁から銃撃を加え防戦、 官軍の前進を阻んだ。一一十三日に入ると官軍は態勢を立て直し奇兵隊に一斉攻撃を開始した。羽立二十四日にかけて激戦が展開されたが、 ことに中川神社をめぐる攻防は凄まじく、 「現存する同神社の拝殿・壁・柱に残る弾丸のあと」 (『竹田市史』) がそのことを示している。 このような状況の中、 大分を発した 「警視隊徴募隊六個小隊七百余名」 (『大分県警察史』) が二士三日今市へ到着、 さらに竹田街道を進み五月一一五日には法師山を占領、 鏡に至り官軍本隊と合流した。 この警視隊は豊後ロ防御のために東京から派遣され竹田攻防戦から参戦したものである。また二十七日西へ迂回した警視隊別動隊は玉来に到着し同じく官軍本隊に合流した。 この間奇兵隊の奇襲や激しい抵抗に官軍は苦戦を強いられたが、 一一十七日に新たに官軍一大隊が久住街道から平田に到着し、 奇兵隊包囲の態勢が整った。
五月一一十九日、 官軍は奇兵隊に対して総攻撃を開始した。鴻の巣台、 亀甲台地を中心に激戦が展開されたが、 その模様は次のようであった。
第一軍は賊塁につき込みて、銃先をそろえて銃撃すれば、薩軍はここを先途と防戦約一時間に及んだ。 (中略) 時に朝七時、 我軍は放火して向坂ま でかけ登る。 この時薩軍の死体は塁壁のきわに枕並べて数十人、 実に死骸の山を築くとはこのことというか。八時頃第三軍をくり出して、 敵の胸壁を破りて頂上にのぼる。 賊軍は一一手に分かれて敗走した。 このとき丘陵の樹木は砲弾を浴びてことごとく枝を打ちおられて、 あたかも雷の落ちたる木に異ならずである。城の下にある農家はあるいは焼かれ、弾丸のため、 蜂の巣の如くうち破れていた。粟や麦は俵のまま散乱している。丘上の死骸は敵も味方も打ち交りて算を乱しながらここかしこに仆れていて、 まことに悪戦苦闘、 悲壮な光景が偲ばれた。実は流血顔をおおい 死体は混迷して倒るとはこのことである。 この戦闘は午前三時から、 同九時まで六時間、 戦い終るや豪雨あり、古城の戦血を一洗して清めた。
(激戦の状況「警視隊徴募兵戦記」『竹田市史』より) 熊本鎮台の記録には、 「竹田城攻撃ノ部署」 への官軍配置に続き戦闘の模様を次のように記している。
午前三時暁霧ニ乗シ各道兵ヲ進ム、 山砲一門ヲ地獄谷ニ、 山砲一門臼砲一門ヲ中川神社ニ備へ各古城ニ当ル、既ニシテ払暁開戦、 賊各所ノ天険ニ拠リ防戦スト雖トモ我兵進撃ノ猛烈ナルヲ以テ遂ニ拒守スル能、,ス、器械弾薬及屍ヲ捨テ潰走ス、時=午前第七時ナリ、之ヲ遂ヒ竹田ニ入ルヤ、賊道ヲ緒方ニ取リ市街ニ火ヲ放チテ退走、尾撃シテ深草ニ至ル、竹田ノ士族(報告隊)降伏スル者頗ル多シ、竹田ノ市街過半焼失黄昏ニ至リ尚熾ナリ0
(『熊本鎮台戦闘日記』) 戦闘は午前一一時から九時にわたり、官軍の砲撃・放火により、焼失家屋竹田九一七戸、会々一一八五戸に達し、戦死者は官軍六九・警視隊八一、 西郷軍四一・報国隊一一一一、負傷者多数を数えた。 (『竹田市史』)
五月一一十九日の戦闘に敗れた西郷軍は竹田を脱出し、宇田枝から小野市へと退却した。しかし、時を措かず延岡から兵力を補充した奇兵隊は、小野市を出て三国峠・旗返峠を押さえ三重へと進撃、さらに臼杵へと活路を求めて行く。
五 臼杵攻防戦(六月一日5十日)
三重市激闘官軍敗退
小野市方面〈敗退した奇兵隊は援軍を得て兵を再編し、進路を転じて三重市場に侵攻した。官軍はその兵力を少数と誤
 
認し、三十一日早朝これを攻撃すべく進出したが、 一〇〇〇況名をに超つすい奇て六兵月隊十に反一一撃日付さけれ多の政大な府損へ害の報を告被書「はた。次のこよの間うにの述状
べている。
三十一日午前三時頃(官軍)同地進撃、賊塁三四ヶ所ヲ乗取リ町鼻へ突進セシ処、豈図ラン午前一時頃ョリ賊徒千人内外同地へ着陣致シ居リ各地ニ埋伏、三面挟撃セシヲ以テ遂ニ衆しゅ寡うか不てき敵せず、官兵敗退村田大尉外三十名計討死午前八時深野ヲ経テ戸次ニ引揚候都合ニテ、同日竹田ョリノ追兵一小隊計リ玉田近傍=テ交戦是又不利=付賊 勢更張同夜一時六月一日半賊ノ全軍三重市ヲ密発シ、六月一日午前九時過臼杵ヲ去ル一里半計籠ケ瀬ノ壁(襲来。
(『太政類典』十)
 
五月月一一一十一日三重市場で官軍の攻撃を一蹴した奇兵隊は、六月一日午前一時過ぎ密かに三重市を発し、途中さしたる抵抗も受けず臼杵近郊に迫「た。奇兵隊が隠密敏速に三重市を後にしたことは「午前三時我軍各道ョリ三重市ヲ攻撃ス、同第三時一一一重市ニ至レバ賊既=臼杵ニ走ル、其別軍尚一二国峠ノ険ヲ守ル」(「熊本鎮台戦闘日記」)との記録のように、官軍の予想を遥かに超えるものであ「た。臼杵防衛の兵力は、臼杵士族七八五名・来援警視隊一〇〇
名であったが、武器は小銃一一〇〇丁を有するに過ぎなかった。とりあえす防衛隊は、.総督に稲葉頼、参謀に若林永興らを当て、本営を留恵社 (士族授産結社旧藩知事稲葉久通の旧藩士救済基金を基金) に置き、防衛隊を八小隊・輜重弾薬方に編成し、防衛線を津久見峠・籠ケ瀬・山崎に敷いて侵攻に備えた。
臼杵士族・警視隊潰走
戦闘は奇兵隊の圧倒的優勢の内に進んだ。奇兵隊は野津を経て籠ケ瀬ヲ突破、更に臼杵城下への入口を扼する掻懷方面の防衛線をも打破し、資料に見られるように瞬く間に城下を
」白領した。
《六月一一日付・内務卿へ上申》
竹田噸集ノ賊潰走ノ後、 一昨三十一日夜賊徒三重市ヲ発シ臼杵ニ侵入ノ趣ニ付、臼杵へ出張ノ警視隊百名ト臼杵士族協力シ、昨一日午前十時ョリ開戦ノ処利アラスシテ臼杵町へ引上候ヲ、賊ノ追撃烈敷ク午後一時頃迄ニニ臼杵ハ賊ノ有ト相成タル由、戦地ニ出タル士族ノ類続々出庁(大分県庁)申出タリ、死傷モ不尠趣(歩ノ、な力、らさる)ニ候得ハ未タ
 
確ト不相知。 (『明治十年騒擾一件』) 奇兵隊の熾烈な攻撃に惨敗した防衛隊は最後の拠り所であ
 
る旧臼杵城まで退却して防戦したが、午後三、 四時頃には壊滅状態に陥「た。臼杵城が海面に突出して防衛隊の退路を塞ぐ形になったため、 その状况は悲参であった。
旧城 ハ海中ニ突出スルヲ以テ走路ニ困難、海中ニ飛入ル者アリ屠腹スル者アリ縛ニ就ク者アリ軍艦ノバッティラニ乗人リ狙撃セラル者アル等不可一一『〕惨状ヲ極メタリキ。
(同前掲書) 臼杵を占領した奇兵隊は一里内外の要所に防御陣を構築し、各所には哨兵を配置して官軍の反撃に備える一方、官軍軍艦 一を奪「て活路を拓こうと試みたようで、現地からの報告には 次の一文がある。
《六月七日付・山県参軍ヱ回答》
昨六日午前九時五分発ノ電報相達、臼杵ノ賊我軍艦ヲ奪ハント企テ候ニ付、豊後海ヱ出張ノ軍艦並小蒸気船等へ通知致シ置候様御達ノ趣承知候、 (中略)漁舟ト見セ
掛ケ夜間竊(ひそめ~)ニ四国路ヱ渡海モ難計旨ヲモ相聞ヱ居ニ付、 (中略)愛媛県ヱモ通知シ八幡濱宇和島等ノ警備ヲモ致シ候手筈ニ致シ置候得共、 (中略)将又軍艦ノ碇泊場ハ
一定不致候得共、多ハ佐賀関港ニ碇泊致シ臼杵佐伯海ヲ時々警回相成候、
(同前掲書) 西郷軍が初期の目的貫徹をなお目指しているとすれば、 十分に想定される作戦ではある。他方町内では奇兵隊が 「士族ノ財貨ヲ奪略シ」、 「留恵社諸物品ヲ糶売(せりうり) スル等ノ暴挙ニ及」 (『太政類典』) ぶと報告されているが、 留恵社の現有金は事前に他所に転送して被害を免れた。
官軍臼杵を奪還
 
竹田・三重から追撃の官軍は、 戸次ニ集結して反撃の機会を待っていたが、 八日に至り人吉作戦を終えた一一大隊が海路大分に到着したので、 八日から十日までの三昼夜にわたり軍艦浅間・孟春も加わり左翼・白木峠、 中央・松原峠吉野越、
右翼・野津市ロの一一一方から総攻撃を開始した。左翼は午前五時に作戦を開始し「諏訪山ノ絶頂ヲ略取シ直ニ衝突兵ヲ放チ」、中央は「江無田村ョリ喇叭ヲ奏シ猛烈ニ賊ノ塁ニ迫」 り「海陸皷操賊ノ守地市濱ヲ抜ク」。翌一〇日の戦況は次のようであった。
(六月一〇日)我右翼大迂廻ヲ為シ臼杵ノ賊ヲ挟撃セン為姫嶽ニ露営シ天明ヲ待ツ。午前五時左翼及中央ハ正面ヲ攻撃シ、 海軍ハ警固屋村ノ港ョリ之ヲ砲射ス。戦ヒ
 
酣ナルコロニ右翼果シテ彼ノ背後ニ突出シ之ヲ下射ス。是ニ於テ前後ノ攻撃倍々猛烈ナリ、 賊拒守スル能ハス退カント欲スト雖トモ、 退路既ニ我迂廻兵ノ断ッ所トナルヲ以テ火ヲ臼杵城下ニ放チ、 火焔熾(さかん)ナルヲ待チ退路ヲ蔽ヒ道ヲ海岸ノックミ峠ニ通スル間道ニ取リ屍兵器ヲ捨テ逃遁ス。 (『太政類典』) 奇兵隊が放火したのは本営畳屋町御茶屋をはじめ町内各所で焼失民家は三三四戸であった。官軍の一隊は津久見峠から
佐伯へ、 一隊は三重市から重岡へと追撃の手を伸ばすが、 以後戦闘の舞台は県南一帯から宮崎県境へと移る。
戦闘の損害は、 士族戦死者Ⅱ稲葉茂ら四三名・負傷者若林永興ら一八名であったが、 臼杵攻防戦の行賞として、 明治十
 
二年八月、賞勲局総裁三条実美より「栗屋勝孝外七百五十名」宛に 「鹿児島逆徒暴挙之際防戦尽力候ニ付其賞金五千円」が下賜された。(稿本『臼杵町史』)
六 薩摩軍の佐伯侵攻
 
西郷軍の佐伯侵攻
五月一一十九日、 竹田の西郷軍は官軍の総攻撃で小野市方面に潰走したが、 その直前の二十五日、 その一隊三〇〇余名は重岡から佐伯に進攻した。警察署・裁判所・学校に乱入破壊
 
した西郷軍は本営を切畑村江良(弥生町) に、駐屯本部を船
 
頭町に置いて、警察官や戸長・士族の探索を厳重に行い、海岸線には歩哨を配して海上をも厳しく監視した。
西郷軍の侵攻にかかわっては、 三月に旧藩主毛利一家が旧藩船で海路大阪に避難したことから、五月初旬の重岡署急襲の際には佐伯町に衝撃が走り、官吏や士族が浮足立っということがあった。初の西郷軍の侵攻は町内を混乱の極に陥れた。現地の史料はその状況を次のように伝えている。
命令下る、賊兵若し佐伯に侵入し来るあらば、直ちに鶴城山頭に号鐘を以てせんと。ここに於て人心いよいよ恟々、 旧藩の士族ら、 その賊に捕へられんことを恐れ、家財をもたらして、 已に僻地に遁れんとする者あり。剛腹の者は止まりて賊に加担を試みんとする者あり。その他公職に携はれる者等は、如何なる難の加はり来らんかを怖れて、甚だしきは山に逃れ、或ひは知己縁者を求めて皆相去る。
(「西南戦記堅田遺聞」 ・『佐伯市史』より) 士族らが知己を頼って周辺村落に避難したことは事実で、
『上浦町誌』(平成八年刊)に次のような資料が引用されている。
小生は賊の未だ乱入せざる暫時前に城下に至り藤田主
幹の実家、矢野君一家の居住を訪ひ、皆伴ふて大分に去らんと用意を整へて至りしに、最早庭闃(げき) として人影も見へず(中略)船を倩ふて城下を離れ、藤田主幹の父君が立ち退きしと聞こへし浅海井浦(城下を距る三里許) に至り:
*記者石井洌造(後最勝海小学校長)、主幹は藤田茂吉
(「郵便報知新聞」明治一〇年六月八日)  
また『鶴見町誌』記載の 「回想」 にも、 「私が丁度十三歳 ノ時、明治十年ノ戦争ガ興ッテ、佐伯町カラ多クノ士族ガオチテキテ、子供ニ字ヲ勉強サセマシタ」(「中浦小学校沿革史」) と、 そのような状况があったことが語られている。
官軍は、五月一一十六日朝、軍艦浅間が大人島守(もり)後(こ)沖に進入、舟艇を海岸に漕ぎ寄せ周辺の探索にかかっ オこ。しかし西郷軍の待ち伏せ攻撃を受け、水兵一一一名中即死一一名、負傷七名を出したため、 浅間艦は約一時間にわたり艦砲射撃で反撃、 (『太政類典』十)、西郷軍を横川(直川村) へ撃退した。
五月三十一日、 西郷軍四〇〇名余が再び佐伯に進攻した。翌六月一日、軍艦孟春が猛烈な艦砲射撃を加えこれを撃退した。砲撃は午前六時から午後四時まで六三発に達したと言われるが、 「西南戦記堅田遺聞」(『佐伯市史』) はその現況を次のよう こ己している。
ここに至り艦長は佐伯城下すでに賊手に落ちたるを察し、百雷殷々、大に砲撃を加ふ。 し、まも残れる馬場の老松なる巨弾の痕跡、人をして当時を偲ばしむ。此の時賊はすでに本営を城山の背後に移して危きを避けいたり。
 
則ち町民田島善助(日向屋)町のために身を挺して艦に至り賊のすでに町内にあらざるを陳じ、以て砲撃の停止を情一1一口ふ。
六月六日西郷軍は再々度佐伯に進入し、残留士族や商家及び町家を厳しく捜索、七日には毛利家の菩提寺養賢寺に彼らを召集して挙兵の趣旨を説明し、従軍、軍資金の提供などを強要したが、士族の中には西郷軍に応じる者もあった。
六月十一一日、官軍が床木(弥生町) に進駐すると、西郷軍は切畑(弥生町) に撤退した。さきに西郷軍に応じた士族は、十三日横川(直川村) において四〇名ほどで新奇隊を結成し 。直見村庄屋から軍資金として数千円を強奪するなどして西郷軍に従い日向各地に転戦したが、 日向長井村での西郷隆盛の解散命令により活動に終止符を打「た。従軍士族四〇人 (このほか数人は出発直後に婦人衣装で脱走)官軍に降伏七名・戦死一一名・脱落生還一一二名であった。
奇兵隊の暴行
侵攻軍である奇兵隊の蛮行については、政府・地方官庁の公文書にも一部が記録されているが、県南の地方では、西郷軍の敗勢か濃厚にな「た関係からか地一兀住民に対する金品 労力の強要・暴行などが頻繁に行われたようである。佐伯町
においては次のような事例が伝えられている。
土器屋の坂本一兀蔵は薩摩軍の行動を罵「たとして捕縛さ れ暴行を受け処刑されようとしたが、長男惣五郎の必死の 助命嘆願で釈放された。
堅田村清原宇太郎は、官軍依頼で偵察の任についたが捕縛され、拷問の末六月一二日撤退途上で衆人かんし中で斬罪に処し、死体を磔にした上腹を断ち割り、後々まで住民に非難された。
古市村龍護寺戸長川野良平は、人夫徴発を命じられたが村民が恐れて応じるものがなく、 その旨一本松屯所の薩摩軍に届けた所、 一隊長に約東を履行しなかったとして一刀を浴びせられた。
七 豊後日向国境の戦闘   (宇目5直川5蒲江山岳地帯)
宇目(重岡) ・直川方面の戦闘
臼杵に侵攻して撃退された奇兵隊は、鏡峠から床木・大坂本・上小倉(以上弥生町)横川(直川村)を経て重岡へと背走、 これを追うように官軍(熊本鎮台兵)は三 から三国峠・小野市へ進攻し重岡を奪還しオこ。 これに対し中津隊を先鋒とする野村忍介配下の奇兵隊援軍一五〇〇が延岡から北上して反撃を始め、六月一一五日以降、梓峠5黒土峠5赤松峠5豆殻峠5陸(カち)地(じ)峠5石神峠5海岸山地(丸市尾・波当津)を結ぶ線で官軍を激しく攻撃し、七月五日から一 一日にかけて戦闘は膠着状態となった。 この間六月一一〇日から七月初旬の両軍の攻防について、『太政類典』は次のように記している。
賊等モ、三国峠旗返峠の一一険頓ニ守ヲ失ヒショリ兵気
 
大ニ折ケタルモノノ如シ、去廿日ノ夜半ニ至リ重岡屯集ノ賊及ビ佐伯ロノ分共一時ニ引拂ヒ日向路へ遁走セリ官車直ニ進ンテ重岡ヲ取、赤松峠ヲ扼シ佐伯ロハ陸地峠へ兵ヲ進メ豊後路ハ総テ官軍ノ有トナリシカ、廿四日ニ
至リ賊等大 ど一諸口一時=襲来非常,劇戦、互=許多ノ死傷アリ 
(十年六月三十日日豊地方ノ戦況 豊後国重岡駅征討軍本営三好判事報告)
蒲江方面の戦闘
県南豊日国境付近の戦闘が激化するにともない  これまで戦火に無縁であるかに見えた蒲江地域にも、西郷軍の小部隊が姿を現すようになった。戦闘が蒲江地域に及び始めたのは、県境での戦闘が膠着状態にな「た六月下旬以降であ「た。「西南役戦地事蹟報告書(各戸長より陸軍省への報告書・『蒲江町史』昭和五一一年記載) によれば、西郷軍侵入当初の状況は次のようである。
・丸市尾浦の状況
(六月一一十五日)字地下に賊より炊出場及び分営等を設け、(二十九日)日向国臼杵郡三河内村に引き払う。 (六月一一十六日)薩摩隊長兵百一一十人余を率い此地に滞
在、但し日向国臼杵郡三河内村より来り、 (三十日)同地に (る。
・葛原浦の状況
(六月一一十六日)正午時、賊軍凡そ五十余人(三河内よ
り)当葛原浦へ進入、言語頗る温厚、聊(いささ)かも暴力を加えず、直ちに三河内村に去る。
奇兵隊が侵攻したのは、丸市尾と葛原の一一浦であった。この背景には日向一一一川内と蒲江地域とを結ぶ道路網の存在があったと考えられる。「西南戦争関係地図」 で明らかなように、丸市尾浦は明石峠・焼尾峠越えで、また葛原浦はツルバ峠越えで三川内へと山道が通じてしオ 
奇兵隊の侵入は六月一一十五日から七月三日にかけて断続的に続いが、浦人に対しては穏やかに接し、必要な施設を設けて撤退している。県境政府軍の反撃
西郷軍の蒲江進出に対しては、 一一十八日以降海軍が艦砲射撃で反撃した。
(六月一一十八日)官軍軍艦より丸市尾浦越田尾峠に屯集する賊軍に向かって発砲す。賊辟易、該峠の守りを捨てて走る。
(六月一一十九日) 葛原浦軍艦回航 葛原浦賊軍砲撃、
凡そ一一三十発、賊軍去る。 (「西南役戦地事蹟報告」) 奇兵隊の侵攻に対しては、海軍は佐賀関を根拠地として豊
 
後水道沿岸一帯で行動していたが、 県境から延岡にかけての
 
戦闘が激化したのに対応して、猪串港を新たな拠点として防 一備態勢を強化した。また波当津には警視隊の本営がおかれた ようで、次の資料がそのことを物語っている。
十三日払暁、猪串港ョリ孟春・鳳翔ノ両艦日州海岸航海ノタメ出発港ニ残ルハ日進・第一一丁卯(ていほう)両艦。午前十時清輝艦人港、続イテ鳳翔艦入港、同艦士官ョリ直聞ニ、 即今川路参軍ノ属篠崎仲ロ、同艦一一テ波当津本営照会ノ儀コレアルニ付、同営ヱ相越スベキ段承リ候(下略)陸軍
 
後備軍、警視隊 御中
明治十年八月十五日 (同「前掲書」 ・ 『蒲江町史』)
なお猪串港は浅間艦も拠点にしており、 「浅間艦本月 Gハ
月)廿七日午後当管下海部郡猪ノ串港ョリ鹿児島港ヱ向ケ発艦」 (『明治十年騒擾一件』)との報告書があり、 艦船が南九州方面一帯にかけて行動していたことを示している。
陸軍による反攻も県南一帯で開始された。直川・宇目(重岡)方面では、 官軍が陸地峠(七月一六日) ・黒土峠(二七日) などを奪回、蒲江方面では七月十一一日石神峠を制した官軍が鳥平山(三川内) へと進み、他の一隊は森崎浦から丸市尾浦に進駐した。またその前日には警視隊からなる一隊が葛原に入り焼尾峠の西郷軍を敗走させ、 波当津県境の津島畑山など諸所に台場を築き前進拠点とした。
県境を境にした戦闘は激烈を極めた。人吉↓宮崎↓延岡と本営移動を図る薩摩軍を追って、政府軍は七月十四日に宮崎を制圧、 さらに延岡へと迫りつつあった。県境の防衛線を突破されることは、薩摩軍本営を南北から挟撃されることを不可避とする。それは薩摩軍の壊滅をも意味した。黒土・陸地峠を奪われた奇兵隊は梓峠に拠ってなお防御陣を固め、 あら
ゆる策を弄して頑強に抵抗した。官軍参謀部は「賊ノ梓峠邊ニ駐屯スル者佛式喇叭ヲ以テ我兵ヲ混乱セントス」 (『熊本鎮台日記』) と官軍諸隊に注意を呼びかけているが、 豊日国境の激戦を他の資料は次のように伝えている。官軍主として堅田口より攻撃を開始す(本営Ⅱ黒沢ロ)。運び出される死傷者は佐伯城下大日寺に収容さる。 (中略)激戦は日一日と甚だし、砲声・銃声遠く鼓を乱打するが如し、格闘戦は嶺に谷間に演出せられ、弾丸雨よりも繁く、樹木は宛然蜂巣の如く打ちなされたるものあり。負傷者には銃創よりも剣創の者多く、戦闘の激烈を窺ふに足れり。
(疋田泉「西南戦記堅田遺聞」) 七月十六日払暁、政府軍の確保した津島畑山の台場に西郷
軍が夜襲をかけた。これか津島畑山の戦いで、 蒲江地域最大 で最後の凄惨な戦闘であった。  
七月十六日 黒沢ロ午前三時半、賊大霧に乗じ日豊の境界古江口を襲撃す。我が兵力戦奮闘すといえども衆寡敵せず。退いて兵をまとめ衝突し、僅かに賊を撃退して旧位に復す。時に午前七時なり。士官一名、下士以下十七名戦死。士官一名、下士以下一一十三名負傷。
 
(『熊本鎮台戦闘日記』) 官軍は八月二日から奇兵隊の防備力の比較的弱い黒澤口から総攻撃を開始した。同日波当津県境を扼する陣ケ峯を攻略した政府軍が一路日向古江へと向かい、 その他の全戦線でも苦戦しながらも優位に戦いを進めた。
八月十五日に入ると情勢は一変した。重岡・仁田原口では、官軍が奇兵隊陣地を奇襲してみると、敵は既に「廠舎ヲ焼テせ 己よ っ
退去」、 黒澤ロでも同ように「諸塁寂寥唯前夜ノ燎火茫々煙ヲ吐クノミ依テ塁内ヲ窺ニ一賊ノ有ルナシ」 (前掲書) とい
う状態で、官軍は容易に県境一帯を突破して熊田・延岡方面へと兵を進めたのであった。
この背景には西郷高盛の西郷車解散の決断があった。八月十四日、西郷軍本隊を攻撃しつゝあった官軍は延岡を占領した。 この情報はいち早く県境で戦闘中の官軍に伝えられ、「黒澤ロ十六日進撃ノ筈ナレトモ賊情変態ニ付明十五日進撃ニ決ス」との作戦変更も行われた。他方延岡を追われた西郷軍は全残存兵力の結集を図り、官軍の包囲網突破を図ったが
 
成功せず、八月十六日、西郷高盛は長井村で全軍の解散を命じ、党薩諸隊を始め多くが官車に降伏した。
こうして豊後での戦闘は終わりを告げ戦争は終末へと向か
 
西郷軍の暴挙
戦争は常に一般住民・非戦闘員に犠牲を強いる。竹田・臼杵・佐伯などでもそのような状況が見られたが、蒲江地域も
同様であった。台場構築や武器弾薬運搬のための人夫の徴発、軍資金や兵糧の強奪などがそれであるが、 以下に記録を列挙しておこう。
  (丸市尾浦)
(六月一一十九日5三十日)人夫を賊に出すこと凡そ百八
 
十人余、悉皆無賃、但し台場築立等に使役せらる。
(葛原浦)
(六月一一十九日5七月一日) 三日間、人夫を賊に出すこと凡そ一一百余人。その役用は台場建築及び荷物運送に係り、遠きは五六里、近きは一一三里に達す。皆脅迫手段に出ず。悉(、に一つ)皆(工ん)無賃。
(七月三日)午後一時頃、 (中略)賊軍の内宮崎十六番小隊長坂本某、 (中略)賊徒七八十名を率い当葛原浦へ
乱入、伍長甲斐茂太郎を捕へんとす。同人危急を脱して蒲江浦に逃る。而して賊同人所持の金三百八十円余、器具衣服等を奪う。其他奪略脅迫せらるる者多し。同日午後四時頃賊徒来りて、 (中略)甲斐茂太郎の長男栄太郎 (当時十三年・後村長県議)を捕え去る。其後賊軍日向国臼杵郡三河内村の守りを捨てて去るに及び、放ち遣る。同日同時、賊徒葛原浦惣代甲斐五一一一郎を捕え、百方脅迫、促すに夥多の金穀を以てす。同浦人民同人が賊軍の為に生命を謬られんことを恐れ、毎戸(戸数七十) より白米一斗金壱円ずつを出す。而して五三郎許さる。
(「西南之役戦地事蹟報告」) 官軍の海上封鎖と村民生活
このような進攻薩摩軍の暴挙に加え、住民の苦難を増幅したことに、戦時に伴う官軍による諸制限があった。ことに地理的条件から、食料や生活必需品の多くを移んに頼らざるを昱ない蒲江地域の人々にとっては、「沿海船舶取締」を名とした航行差し止め措置は死活の問題であった。七月十八日付けの官軍からの報告書には次のような一文がある。
第四大区廿九小区大嶋以南之海面、廻船(貨物船)差留置候処、元来同地方之義ハ米穀等総テ他所ニ仰ギ、偏
てきはい さ、もとめ,られ
ニ商船之糴売ニ取リ来リ候得共、前述ノ通、通船被差留候ニ付近来殆ンド飢餓ニ迫リ、目下難捨置(すておきかたき)旨、当地出張よ ぎ な く警部ョリ申出、情実無余義相聞、且同地方戦闘線モ追々相進ミ既ニ丸市尾ニ警視隊ノ本営ヲ移セリ (一一行書)候
ついては「依然厳禁致置候積ニ有之候」とされ解禁は九月中旬過ぎであった。政府軍への人的物的な直接支援は当然のこととされ、官軍進駐の七月十一二日から八月十五日までの約一カ月間、村民は好むと好まざるとにかかわらず協力を強いら
 
黒沢部落は皆官軍の宿舎になり、 (中略) 女衆(おなごし) は皆毎日炊出しに使われ、男衆(おとこし) は弾丸運び、兵糧の連搬その他橋かけなどに協力した。そのころ六十日間毎日雨が降り続き、炊出しに行く女衆はあなまたぐされ (足指の湿疹) ができて大変困ったという。
(多田太郎吉「西南の役と黒沢」) 地域住民の官軍に対する軍役も含めた人的物的負担については、戦後実績に従い褒賞・補償措置が取られたようである。
 
に付(下略)。
(『明治 十年騒擾この段階では屋形嶋以北が取り上げられているが、一件』)

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