連載「あの海の向こうに 植民地で教えた先生」一覧
朝日新聞デジタル
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あの海の向こうに 植民地で教えた先生
全5回あの海の向こうに 植民地で教えた先生
植民地時代の朝鮮半島で、国民学校(小学校)の教師として子どもたちを教えた女性が富山に健在だ。あの時代を振り返り、いま、何を思うのか。第1回
「先生、お会いしたいです」 植民地で教えた私に手紙が
■あの海の向こうに~植民地で教えた先生~(1)(全5回)立山連峰をのぞむ富山市郊外のサービス付き高齢者向け住宅。ここで暮らす杉山とみさんは7月で満100歳の誕生日を迎えた。自室の箱には、韓国から届いた・・・[続きを読む]
2021年08月15日 21時00分
第2回
教育勅語の暗記、拒んだ友に… 植民地で教師になるまで
■あの海の向こうに~植民地で教えた先生~(2)(全5回)日中戦争は泥沼化し、欧州で第2次世界大戦が勃発する1939(昭和14)年。植民地朝鮮で生まれ育った杉山とみさん=富山市=はこの年の春、大邱高等女・・・[続きを読む]
2021年08月16日 17時00分
第3回
2人は学校に戻らなかった 「皇国臣民」を育てる教壇で
■あの海の向こうに~植民地で教えた先生~(3)(全5回)太平洋戦争が始まる1941(昭和16)年の春、杉山とみさん=富山市=は植民地朝鮮の大邱で初めて教壇に立った。朝鮮人の子どもたちが通う達城国民学校・・・[続きを読む]
2021年08月17日 17時00分
第4回
娘さん、もうここは日本じゃない 全てが一変したあの日
■あの海の向こうに~植民地で教えた先生~(4)(全5回)つらい出来事で、いつだったか記憶も薄らいだ。植民地朝鮮の大邱で暮らしていた杉山とみさん=富山市=の家に太平洋戦争後期、四つ上の兄が南方で戦死した・・・[続きを読む]
2021年08月18日 17時00分
第5回
「ゆく言葉が美しければ…」 風雪を超えて教師と生徒は
■あの海の向こうに~植民地で教えた先生~(5)(全5回)釜山港を船が離岸するとき、生まれ育った朝鮮での日々が目に浮かんだ。1945(昭和20)年秋、杉山とみさん=富山市=は引き揚げ船で24年余り暮らし・・・[続きを読む]
2021年08月19日 17時00分
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第1回「先生、お会いしたいです」 植民地で教えた私に手紙が
有料記事中野晃2021年8月15日 21時00分
箱田哲也さんのコメント
あの海の向こうに ~植民地で教えた先生~
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あの海の向こうに ~植民地で教えた先生~①(全5回)
立山連峰をのぞむ富山市郊外のサービス付き高齢者向け住宅。ここで暮らす杉山とみさんは7月で満100歳の誕生日を迎えた。
自室の箱には、韓国から届いた手紙の束が詰まっている。かつての教え子から届いたものだ。「先生、体に痛いところはないですか。お会いしたいです」。韓国語と日本語が交じった文面でつづられている。
「韓国は私にとっては、ふるさと。教え子たちはとても情が深いんです」
そう目を細める杉山さんは1945(昭和20)年8月の敗戦までの4年余り、日本が支配した植民地朝鮮で国民学校(小学校)の教壇に立った。戦時下の皇民化教育。朝鮮の子どもたちを立派な日本人にするのが教師の使命と信じた。
戦後は、戦争教育に関わったことへの自責の念にさいなまれ、教え子との再会を通じて、その苦しみを和らげていく。杉山さんが歩んだ人生は、戦後76年が経過し、戦争を体験した世代が少なくなるなか、貴重な歴史の証言として現代に重く響く。
父・源次郎さんと母・さとさんは富山県旧杉原村で本家の田畑を耕していた。日本が大韓帝国(当時の国号)を併合した後、父は単身、海を渡って朝鮮で生活基盤を築いた。母は四つ上の兄・正雄さんを抱いて後を追った。
両親は朝鮮半島南西部、全羅南道の霊光の農村を新天地に定め、果樹園を経営した。やがて21(大正10)年、杉山さんが生まれる。
霊光で暮らしたのは3歳ぐらいまで。兄が小学生になったが、自宅から歩いて通えないほど遠かった。両親は子どもの教育のため都市への移住を決め、果樹園を手放すことにした。
「生まれ故郷」の穏やかな農村風景は、果樹園の道沿いに咲く白いアカシアの花とともに、杉山さんの脳裏にかすかに浮かぶ。
一家は朝鮮半島南東部にある慶尚北道の中心都市、大邱に移り住む。両親は市中心部の「元町1丁目」に帽子店を構えた。屋号は富山の「富」の字をとって「富屋帽子店」にした。
店では2人の朝鮮人の青年が住み込みで働いていた。両親とも朝鮮語は話せず、朝鮮人の来客があると2人が応対した。「和吉」「一郎」という日本式の名前で呼んでいた。
自宅兼店舗があった目抜き通…
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第2回教育勅語の暗記、拒んだ友に… 植民地で教師になるまで
有料記事中野晃2021年8月16日 17時00分
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あの海の向こうに ~植民地で教えた先生~②(全5回)
日中戦争は泥沼化し、欧州で第2次世界大戦が勃発する1939(昭和14)年。植民地朝鮮で生まれ育った杉山とみさん=富山市=はこの年の春、大邱高等女学校を卒業し、ソウルにあった「京城女子師範学校」の演習科に入学した。
当時17歳。親元を離れての寮生活に心躍ったが、外出は自由にできず、規則による統制は厳しかった。起床や消灯の合図では軍隊式のラッパの音が響きわたった。戦意高揚のためか、敷地内には戦闘機が置いてあった。
生徒は朝鮮各地のほか「内地」からも集まっていた。同級生が日本人だけだった女学校までとは異なり、日本人と朝鮮人の生徒が机を並べて学んだ。
京城女子師範学校時代の杉山とみさん。寮の敷地内にあった戦闘機の前で=杉山さん提供
朝鮮総督府が設置した官営学校だけあり、教育内容は徹底して「皇民化」を目指すものだった。
校舎でも寮でも口にできるのは日本語だけ。「吾等恵まれて皇国(スメラミクニ)に生まる」にはじまり、皇国臣民としての大義を説く校訓をまず頭にたたきこまされた。
授業はすべて日本に関する内容だった。国語では清少納言など日本の古典を学んだ。音楽では、君が代と日本軍歌の「海ゆかば」、日本の祝日である紀元節など四大節の唱歌をオルガンで弾けるようになることが必須の課題だった。
真冬に吐息がまつげに凍り付くような厳寒のなか、仁川まで一日中歩き続ける「耐寒行軍」という精神鍛錬の行事もあった。
師範学校時代に訪れた平壌の玄武門前で。1940(昭和15)年ごろ撮影=杉山さん提供
朝鮮の子どもたちを天皇陛下のために尽くす立派な皇国臣民に育てあげる。そんな植民地教育の先頭に立つ教員養成が師範学校の役目だった。
杉山さんは身の引き締まる思いで日々の授業にのぞんだ。もともとは熱心な教員志望ではなかったはずだが、まじめに学ぶうちに、真綿に水が染みこむように自身の「皇民化」はすすんでいた。
しかし、朝鮮人の友人の内心は違っていたのかも知れない。後でそう考えさせられる出来事が起きた。
教育勅語を暗記する宿題が課…
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第3回2人は学校に戻らなかった 「皇国臣民」を育てる教壇で
有料記事中野晃2021年8月17日 17時00分
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あの海の向こうに ~植民地で教えた先生~③(全5回)
太平洋戦争が始まる1941(昭和16)年の春、杉山とみさん=富山市=は植民地朝鮮の大邱で初めて教壇に立った。朝鮮人の子どもたちが通う達城国民学校で4年生を受け持った。
朝鮮語の使用は絶対禁止。皇居の方角に頭を下げる「宮城遥拝(ようはい)」、天皇皇后の御真影と教育勅語をおさめた奉安殿への最敬礼を繰り返させた。「私共は心を合わせて天皇陛下に忠義を尽くします」などと声をあげる「皇国臣民ノ誓詞」の復唱も連日させた。
2年目には1年生の担任に。入学式の日、杉山さんは新入生の服の胸部に、創氏改名した日本式の氏名を書いた名札を縫い付けた。
創氏改名 朝鮮総督府が皇民化政策の一環で1939年、朝鮮民事令を改正し、40年に実施。朝鮮の姓名から日本式の氏名にするよう求めた。伝統的に祖先を重用する朝鮮の人々に対し、応じなければ不利益を被るとして職場や学校などを通して届け出を迫った。
運動場での青空教室。杉山さんが「すわりなさい」と呼びかけると、子どもたちは「スワリナサイ」と声をそろえてまねした。1年生はまだ日本語が分からなかった。「一日も早く日本語を覚えさせなければ」。そんな思いを強くした。
いま、杉山さんは「子どもたちはどんなにもどかしかったでしょう」と想像する。不慣れな日本式の名前で呼ばれ、何よりも自分たちのことばを口にできず、つらかっただろうと。
大邱神社前で国民学校の子どもたちと。1943(昭和18)年ごろ撮影=杉山さん提供
学校行事は戦争色が濃くなっていた。学芸会では、後醍醐天皇のために命を奉じたと敬われた武将、楠木正成が主役の「大楠公(だいなんこう)」を子どもらに演じさせた。戦地の兵隊に送る慰問袋に入れる絵巻物も作らせた。軍部に献上する「国防献金」のため、松笠拾いやタニシ捕りをさせた。
国民学校には朝鮮人の教員もいたが、待遇に差があり、日本人だけ上乗せの手当があった。新任の杉山さんの給与は、家庭をもつ朝鮮人の先輩より高かった。
職員朝礼は校長室の神棚の前であり、楠木正成が後醍醐天皇への忠義を詠んだという歌を全員で朗詠し、心身を引き締めた。
杉山さんが教壇に立った達城国民学校の卒業記念写真。1944(昭和19)年ごろ撮影=杉山さん提供
戦時統制が強まるなか、衝撃的な出来事が起きる。
日本の憲兵が突然、学校にや…
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第4回娘さん、もうここは日本じゃない 全てが一変したあの日
有料記事中野晃2021年8月18日 17時00分
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あの海の向こうに ~植民地で教えた先生~④(全5回)
つらい出来事で、いつだったか記憶も薄らいだ。
植民地朝鮮の大邱で暮らしていた杉山とみさん=富山市=の家に太平洋戦争後期、四つ上の兄が南方で戦死したことを知らせる通知が届いた。
どこで、どうして兄は死んだのか具体的な情報は伝えられず、遺骨も遺品も届かなかった。兄は結婚して間もなく出征した。新妻との間に双子の娘が生まれたことも知らず、父の帽子店を継ぐ夢も断たれた。
1945(昭和20)年1月、杉山さんは4年近く教壇に立った達城国民学校から、大邱師範学校付属国民学校へ異動になった。
「内地」は米軍の無差別爆撃を受けるようになり、大勢の市民が犠牲になった。朝鮮は本格的な空襲に見舞われることはなかったが、学校では連日のように防空壕(ごう)への避難や機銃掃射から身を守る訓練を繰り返していた。
45年8月15日。
学校は夏休み中だった。正午に重大放送があるとの知らせが入り、ラジオの前で耳をすませたものの、よく聞き取れなかった。一緒に聞いた父は黙っていた。夕方近くになり、町中が歓声で騒然とし始めた。
「トンニプ、マンセー(独立…
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第5回「ゆく言葉が美しければ…」 風雪を超えて教師と生徒は
有料記事中野晃2021年8月19日 17時00分
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あの海の向こうに ~植民地で教えた先生~⑤(全5回)
釜山港を船が離岸するとき、生まれ育った朝鮮での日々が目に浮かんだ。
1945(昭和20)年秋、杉山とみさん=富山市=は引き揚げ船で24年余り暮らした朝鮮を去った。
福岡から列車を乗り継いで両親の郷里の富山に戻り、旧杉原村の親類宅に身を寄せた。慣れない農作業に汗を流し、行商もした。
皇民化教育の最前線で戦争に協力したという後ろめたさと、朝鮮の教え子たちへの申し訳なさから「二度と教壇に立つまい」と心に誓っていた。
だが、戦後の教員不足の中、たびたび教職復帰の誘いが来た。「困っている子どもがたくさんいる」と説得され、47年、出産で休む教員の後を受けて小学校の教壇に立った。教える内容は様変わりしていた。
一方、朝鮮半島は激動期が続いた。解放後、北緯38度線を境に南側を米軍、北側をソ連軍が分割占領した。48年には韓国と北朝鮮が相次いで建国し、南北に分断される。
引き揚げまで杉山さん一家を助けてくれた大邱の達城国民学校の教え子、金正燮(キムジョンソプ)さんからは再会を願う手紙が富山に届いたが、やがて朝鮮戦争(50~53年)で音信不通になった。
札幌冬季五輪大会が開かれた72年、思わぬ形で金少年の消息を知った。札幌駐在の韓国領事として活躍していた。夫人は杉山さんを慕っていた教え子の金三花(キムサムファ)さんだった。五輪後、27年ぶりの再会を果たし、3人で一緒に「春の小川」や「アリラン」を歌った。
1976年、31年ぶりに訪れた韓国で教え子たちが開いた歓迎の宴に韓服を着て参加した杉山さん(右から2人目)=杉山さん提供
76年、杉山さんは帰任していた金夫妻の招待を受け、31年ぶりに「生まれ故郷」の韓国を訪ねる。ソウルの金浦空港では教え子や師範学校時代の同窓生が出迎えてくれた。
4年余り教壇に立った大邱にも向かった。バスが着くと、民族衣装姿の女性が「先生」と駆け寄って来た。手をとりあった。
歓迎の宴で、杉山さんは皇民化教育でみんなを無理に日本人にしようとしたと過去を振り返り、わびた。ずっと自責の念にさいなまれ、口にせずにはいられなかった。教え子たちはただ静かに話を聞いていた。
日本や日本人への不信感からか、出席を拒んだ教え子もいた。「先生が謝罪した」と伝え聞いたようで、その後の訪韓時には姿をみせてくれた。
1976年、31年ぶりに大邱の達城小学校(旧・国民学校)を教え子たちと訪れた杉山さん(前列左から3人目)=杉山さん提供
気がかりなままの教え子がいる。達城国民学校の4年時に担当した朴小得(パクソドゥク)さん。卒業後、当時の担任らに「働きながら勉強もできる」と勧められて「女子勤労挺身(ていしん)隊」に加わり、富山の軍需工場に動員された。
杉山さんは両親の郷里が富山…
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