2022-08-29

乙未事変 - Wikipedia

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乙未事変

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乙未事変
Le Journal illustre Korean queen assassination.png
各種表記
ハングル을미사변
漢字乙未事變
発音ウルミサビョン
日本語読み:いつびじへん
ローマ字転写:
英語
Eulmi sabyeon
Eulmi Incident
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乙未事変(いつびじへん)は、李氏朝鮮の第26代国王・高宗の王妃であった明成皇后(閔妃)が1895年10月8日三浦梧楼らの計画に基づいて王宮に乱入した日本公使館守備隊[1]、公使館警察官、日本人壮士(大陸浪人)ら日本人、朝鮮親衛隊・朝鮮訓練隊・朝鮮警務使、高宗の父である興宣大院君派ら反明成皇后朝鮮人の共同で暗殺された事件。閔妃暗殺事件(びんひあんさつじけん)ともいう[2]

真霊君心酔による国政壟断・散財への朝鮮内部からの批判、大院君派との暗殺合戦まで至っていた深い対立、親露派となったことへの日本側の警戒、様々な思惑が一致した末に実行されたため、死後に興宣大院君による平民への身分格下げ措置と日本側による身分回帰措置などで反明成皇后政権同士でも対応に乱れが生じたものの、実行者の一人である禹範善暗殺事件・暗殺犯への減刑措置を持って当時は日本政府・朝鮮王族側で決着とされた[3][4][5]。王妃への評価が異なるため、事変を主導した興宣大院君と息子の高宗間の断絶が決定的となった[6]

概要[編集]

朝鮮王高宗の父大院君
岡本柳之助

1894年3月28日、閔氏政権によって開化派の中心人物金玉均が閔妃の刺客である洪鐘宇回転式拳銃に暗殺された。そして5月31日、閔氏政権に不満をもつ農民が蜂起し、甲午農民戦争が勃発した。農民軍は全州を占領したが、統治能力を失った閔氏政権は宗主国に軍の出動を要請。清の軍隊が朝鮮半島に駐留することを嫌った日本政府は、日本も朝鮮へ出兵することを決定した。閔氏政権が農民に譲歩するかたち(全州和約)で戦争は6月にいったん沈静化した。そのあいだ日本は閔氏政権に内政改革を求めたが、受け入れられず、日清戦争開戦を2日後にひかえた1894年7月23日、日本軍は景福宮を占領した。日本は閔氏政権と対立していた興宣大院君(高宗の父)の復権を行い、開化派金弘集政権を誕生させた。金弘集政権は日本の支援のもと、甲午改革を進めた。日清戦争は日本が勝利し、1895年4月17日、下関条約が締結された。その結果、朝鮮は清からの独立を果たしたが、三国干渉によって日本の影響力が後退すると、甲午改革によって政権を追われていた閔妃とその一族はロシア公使カール・イバノビッチ・ヴェーバーとロシア軍の力を借りてクーデターを行い、1895年7月6日に政権を奪回した[7]下関条約からまだ3か月も経過していなかった。

日清戦争直後にロシア軍の力を背景に行った閔妃勢力のクーデターは、大院君や開化派勢力、日本との対立を決定的にした。こうした中で、日本公使三浦梧楼・軍事顧問岡本柳之助らは前年の王宮占領の再現を狙って、親露派の閔妃を排除するクーデターを実行することにしたとされる[7]が、一方で大院君が軍事顧問岡本柳之助に再三に渡り密使を送っていたことや[8]10月6日に訓練隊を解散し隊長を厳罰に処すとする詮議がなされたことが漏れ伝わったこと[9]で激昂した訓練隊は大院君を奉じ決起することとなった[9]という一次資料も存在している。ただしこの訓練隊の訓練は日本の指導であった事を三浦公使は述べており、その解散を告げられた時三浦公使の頭に、時期が切迫し一日も猶予を許さぬ、という考えが閃いたのだという[10]

1895年10月8日午前3時、日本公使館守備隊・公使館警察官・日本人壮士(大陸浪人)、朝鮮親衛隊・朝鮮訓練隊・朝鮮警務使が景福宮に突入、騒ぎの中で閔妃は斬り殺され、遺体は焼却された[3][4][7]。この時、三浦らは大院君をかつぎだすため、屋敷から王宮へ参内させたが大院君がのらりくらりと時間を引き延ばしたため、事の露見を防ぐために夜明け前に行うはずだった作戦は破綻したとする説もある[11]

なお、日本公使館守備隊は鎮静化のため王宮の警備を行った[9]、侍衛隊と訓練隊との衝突は軽微なものとなった[9]、大院君の護衛に日本人が参加することなどについて三浦梧楼は黙認した[12]などとする日本側の記録もある。

事件の背景と性格[編集]

日清戦争が終わると、日本とロシアが朝鮮半島の支配権を争うことになった[13]。日本側は大院君に接近し、これに対して閔妃は、日本人の影響下にあった訓練隊を解散しロシアの教官による侍衛隊に置き換えようとしたので日本公使館は危機感をもっていたのである[14]

興宣大院君と閔妃の深い対立

事件の背景には、興宣大院君と閔妃の権力闘争(大院君が閔氏一族によって摂政の座を追われた1873年の最初の失脚以来、20年以上にわたって凄惨な権力闘争を繰りひろげていた)、改革派(開化派)と守旧派(事大党)の路線闘争、さらに朝鮮半島をめぐる日本の安全保障問題、日本との覇権争い、日清戦争後の日本とロシア帝国の覇権争いがあった。そのため、日本公使三浦梧楼らの主導による親露派の閔妃を排除するためのクーデターとする説が日本における歴史研究のほとんどで採用されているとの見解があり[15]、歴史事典の多くがこの説を明記している[3][4]

朝鮮側の関与については、朝鮮王室内部クーデターに見せかける意図で興宣大院君や朝鮮の訓練隊が利用されたとする説[7][16]の他、朝鮮側が首謀しているとする説や決定的証拠がなく不明とする見解が存在している[17][18][19][20]#朝鮮政府内部首謀説参照)。

事件直後に行われた朝鮮国内の裁判では、興宣大院君を事件の首謀者とする朝鮮王朝内の権力闘争としての判決が出ている[21]

日本政府の対応[編集]

駐朝鮮公使三浦梧楼

10月10日、日本政府は実情調査のため小村寿太郎外務省政務局長を京城に派遣。三浦は10月24日に免官処分が下され、小村が後任となった。また特派大使として井上馨が京城に派遣された[22]

三浦をはじめ事件に関与した容疑のある外交官、軍人らには帰朝命令が、日本人民間人には退韓が命ぜられた。軍人8人は第五師団の軍法会議にかけられ、三浦ら48名は謀殺罪等で起訴され、広島監獄未決に収監されたが[22]、首謀と殺害に関して[18]は証拠不十分で免訴となり、釈放された[23]

日本国内における裁判にあたっては、朝鮮政府(金弘集政権)が事件は朝鮮政府内部のもので大院君に責任があるとし[24]、その内容で決着をさせようとする朝鮮政府(金弘集政権)からの意向が日本へ伝えられていた[25]

事件発生時、京城領事館一等領事であった内田定槌は外務次官の原敬宛に事件関連の私信8通を送っており、閔妃を殺害したのが朝鮮人守備隊の陸軍少尉であること(10月8日付)、「若し之を隠蔽せざるときは、我国の為め由々敷大事件と相成」ため事件への日本人の関与を隠蔽する工作を行っていること(10月11日付)を報告している[26]

また、後に与謝野晶子の夫となる与謝野鉄幹も加わっていたとされたが、当日に木浦で釣りをしていたアリバイがあったとして、広島地裁検事局は免訴とした。

朝鮮政府の対応[編集]

朝鮮では閔妃暗殺の2日後(10月10日)、閔妃の死亡が一般に公表される前に大院君が閔妃の王后の地位を剥奪し、平民に落とす詔勅が公布される[27]。なおこの時、閔妃の死亡はまだ公表されていない(その後、小村壽太郎の助言もあり、11月26日に再び王后閔氏に復位している[24])。

朝鮮の裁判では、「王妃殺害を今回計画したのは、私です」と証言した李周会(前軍部協弁=次官)をはじめ、朴銑(日本公使館通訳)・尹錫禹(親衛隊副尉)[21]の3人とその家族を三浦らの公判中の同年10月19日に処刑した[28]

高宗は露館播遷後に事件についての再調査を実施し、事件が日本人士官の指揮によるものであること、日本人壮士らによって閔妃が殺害されたこと、「朝鮮人の逆賊」が日本人を補助していたことなどを調査結果としてまとめ、ソウルで発行されていた英文雑誌に掲載した[29]

史料によると高宗と純宗は殺害現場にいたことが記録されている[30]

高宗は1906年、韓国統監代理長谷川好道を謁見した際に「我臣僚中不逞の徒」(私の部下の中に犯人が居た)と述べており[31]、また、ロシア公使館から閔妃暗殺事件の容疑で特赦になった趙羲淵(当時軍部大臣)[32]禹範善(訓錬隊第二大隊長)・李斗璜(訓錬隊第一大隊長)・李軫鎬(親衛第二大隊長)・李範来(訓錬隊副隊長)・権濚鎮(当時警務使)の6名について、「王妃を殺害した張本人である」として処刑を勅命で命じている[33][34]

殺害現場にいた純宗は、「乙未事件ニ際シ、現ニ朕ガ目撃セシ国母ノ仇」と禹範善が「国母ノ仇」であることを目撃したと報告しており、また禹範善自身も「禹ハ旧年王妃ヲ弑セシハ自己ナリトノ意ヲ漏セリ」と自らが閔妃を殺害したと自白している[35]。禹範善は、純宗が放ったとされる刺客の高永根と魯允明によって広島県呉市において1903年(明治36年)11月24日暗殺され[36]、1907年2月4日、広島控訴院で高永根は無期、魯允明は12年の刑が言い渡された。同年に統監府は趙羲淵以下6名を特赦することを決定したが、その際、純宗は「閔妃殺害の犯人である禹を殺した高永根を特赦すれば、乙未事件はここで初めて解決し、両国間数年の疑団も氷解する」として高永根も特赦するよう要求している[35]

事件の首謀者・関係者[編集]

実際の暗殺の首謀者や実行者は誰であったかについては複数の学説が存在しているものの、日本における歴史研究のほとんどでは三浦梧楼らの計画に発し、その指揮によるものとする[15][3][4][7][16]。堀幸雄は、「玄洋社、関東自由党、熊本神風連の子弟ら50人が安達謙蔵を部隊長に王宮に乱入し閔妃を殺害したのである。」と書いている[37]

事件当時、在朝鮮日本公使館一等書記官であった杉村濬は、回顧録『明治廿七八年在韓苦心録』(1904年)で自らが「計画者の中心」であると述べ、閔妃を中心とする親露派を排除するため大院君や訓練隊を利用したクーデターであったと告白している[16]。また裁判では「手段は前年7月の王宮占領に比べ、はるかに穏和で、前年の挙を政府は是認している以上は、後任公使がこれにならって行った今回の挙もこれを責めることはできない」との内容の供述を行って[38]いる[39]

当時外務省領事官補だった堀口九萬一が事件翌日の1895年10月9日に送った書簡が2021年に発見され、その書簡には、「(王宮への)進入は予の担任たり。塀を越え(中略)、漸く奥御殿に達し、王妃を弑し申候」と書かれていることがわかった[40]。事件後の広島裁判で堀口九萬一は無罪となり、外交官に復職し、諸国に赴任した[41]

日本政府が直接関与したかについては否定的な見方が多く、秦郁彦は日本政府の関与については「証拠不足」との見解を示している[42]。背後関係について言及した近年の学説では、崔文衛による前任の公使であった井上馨の主謀論[43]金文子による井上が「更迭」され、後任として三浦が川上操六ら大本営の意を受けて送り込まれたとの説[44]がある。なお、事件当時における見方としては内田定槌が原敬に宛てた私信(前述)があり、政府の意思ではないだろう(「我政府の内意に出でたるものにあらざるべし」)が、前年の王宮占領と同様に政府が追認する可能性があるため処分について当惑していると記されている(10月19日付)[26]

福澤諭吉関与説[編集]

安川寿之輔金文子は、「閔妃は、微妙なバランス感覚による外交政策を得意にしていたが、日本では事件後ことさら閔妃を誹謗し、事件を閔妃と大院君との権力闘争の帰結として面白おかしく描くような言説が流布されたとし、そうした情報操作には福澤諭吉の関与があった」と主張している[45][46][47]

朝鮮政府内部首謀説[編集]

事件直後に朝鮮政府は朝鮮国内で行った裁判で興宣大院君(高宗の父)の首謀とする判決が出たことや[21]、朝鮮人実行犯の証言等から、事件の首謀者を大院君とする見解は根強く[17]、また閔氏一族の横暴や怨嗟の声が国中に満ちていることを憂慮していた朝鮮人らが積極的に参加していたとの見解や[48][19]、決定的な証拠がないため不明とし、実行犯が日本人か朝鮮人かを巡って、小説やノンフィクション、テレビドラマなどで現在でも様々な意見や主張が出されているとも言われる[20]

金弘集政権は事件後、大院君に責任があるとし、大院君を宮闕外に退かせること、王妃を復位すること、関係者を処罰することが重要であるとして、これを内閣に提出している。兪吉濬によれば、これは大院君にすべての責任を負わせて、政権が責任を免れようとしていたものとし[24]、その一方で兪吉浚はアメリカ人牧師モールスに送った手紙に、「大院君が日本公使館に頻繁に出入りして、閔妃殺害を日本に要請したのは大きな間違いだ」と書いていた記録が残っている[49]

『日本と韓国』の著者であり、終戦時には全羅南道の知事であった八木信雄は、閔氏政権が訓練隊を解散させようとし、事件前日の10月7日に解散通告をしてきたため、訓練隊の幹部が閔妃勢力との決闘を決意し、閔妃の政敵である大院君の力を借りて事を進めようとしたが、これを知った三浦が岡本を大院君のところへ送り、共にクーデターを決行しようという密約を結んだと述べている。また、事件直後の内田定槌による報告では「今回の事変は全く大院君及三浦公使の計画に基きたるもの」と両者の計画であったしており[50]、これらの報告に沿って、日本国内における裁判では三浦と大院君との密約が事実として述べられている[18]。しかし、三浦は事件直後に「何か特約でもあったことか」と明治天皇の言葉を伝えた侍従・米田虎雄に対して「(大院君は)唯自分の言ひなり次第になった訳で、約束も何もない」と答えたと晩年に回想している[51]

他にも大院君が事件に強く関わっていたとする次のような言及がある。

19世紀末にロシア人ゲ・デ・チャガイが編集した『朝鮮旅行記』の『1895年-1896年の南朝鮮旅行』の章に、ロシア参謀本部のカルネイェフ中佐が「1895年11月26日に実行された王妃暗殺では、間違いなく大院君がかなりの役割を演じていた」と発言していたことが記述されている。韓国の独立運動家にして大韓民国臨時政府第2代大統領だった朴恩植も閔妃暗殺犯を興宣大院君だと指摘した[17]

目撃者[編集]

純宗・高宗ら王族[編集]

息子である純宗禹範善が「国母ノ仇」であるとし、それを現場で目撃したと証言している。禹も自分が王妃を殺害したと自ら漏らしたとされる[52]。また現場にいた高宗は「我臣僚中不逞の徒」(私の部下の中に犯人が居た)と述べている[31]。1907年にも、純宗は明成皇后殺害の犯人である禹を暗殺した犯人らを特赦すれば、乙未事件することで決し、両国間数年の疑団も氷解するとし、反明成皇后派の興宣大院君死亡していたため、減刑措置が和解案として実行されている[5]

外国人[編集]

景福宮の警護にあたっていた侍衛隊の教官はアメリカ人将軍のウィリアム・ダイWilliam McEntyre Dye)で、ロシア人御用技師アレクセイ・セレディン=サバチン(Алексей Середин-Cабатин)とともに事件を直接目撃した。この経緯についてはイザベラ・バードの『朝鮮紀行』に詳述されている[53]

事件後と影響[編集]

露館播遷[編集]

事件後、ロシアはソウルに水兵100名を上陸させ、日本と諸外国の緊張が高まる中、ダイらアメリカ兵、ロシア代理公使ヴェーベルも関与したカウンタークーデター事件春生門事件が発生。翌年に高宗がロシア大使館で政務を行うようになる露館播遷へとつながっていく。

大院君と高宗の決定的亀裂[編集]

この事件を期に、殺害に関与した興宣大院君と高宗の親子間の亀裂は決定的となり、興宣大院君は失脚した。高宗は3年後(1898年)に興宣大院君が亡くなった際に略式の葬儀しか行わず、高宗自身は父親である興宣大院の葬儀に参列さえしなかった[6]

日本側実行犯」の子孫の謝罪[編集]

2004年に熊本出身の元教師ら20人によって「明成皇后を考える会」が結成された。同会は、日本側実行犯の後裔を捜し出して関連記録を調査、殺害事件の真相究明を目的としている会であるという[54]。同会が2005年に行った謝罪行は、日本のドキュメンタリー番組『テレメンタリー』で「114年目の氷解〜反日感情の原点、閔妃暗殺を見つめた5年〜」とのタイトルで放送された。

2005年5月10日、事件のドキュメンタリーを制作しているプロデューサーのチョン・スウンの要請で、「明成皇后を考える会」の会員10人とともに日本側の実行犯とされる家入嘉吉、国友重章の子孫が入国し、皇后が埋葬されている洪陵を訪れ、土下座[55]して謝罪をしている姿を韓国の報道機関が伝えた。墓地を訪れていた閔妃の曾孫と面会したが、謝罪の言葉を受けた閔妃の曾孫は「謝罪を受ける、受けないは、自分がすることではない。政府レベルの謝罪がなければならない」と語った[56]

このドキュメンタリー番組では「犯人は日本人」としており、「暗殺事件の犯人は朝鮮人によるものであった」という国王・高宗や王子・純宗などの証言を日本の工作とした。

犯行に使用されたとみられる凶器の市民団体の返還要求[編集]

2010年3月、安重根の100年目の命日である2010年3月26日に曹渓宗中央信徒会と文化財返還事業を行う市民団体により[57]発足した韓国の市民団体「肥前刀還収委員会」(崔鳳泰弁護士、ヘムン僧侶)が櫛田神社に対して、玄洋社藤勝顕が1908年に奉納した肥前刀を、韓国に差し出すか、処分するかを要求した[58]。委員会によれば、刀のさやには「一瞬電光刺老狐」と記され、また、神社には皇后をこの刀で切りつけた旨を記した文書が保管されているとし、委員会は「犯人が皇后殺害にこの刀を使ったと自白したにもかかわらず、日本の神社に寄贈されたまま民間が所有しているのは法的に問題だ」と主張している[58]

脚注[編集]

[脚注の使い方]
  1. ^ 参謀本部が指揮を取る京城守備隊とは別の部隊であり、日本公使館が指揮を取る警備隊
  2. ^ 閔妃(びんひ)暗殺事件国立公文書館
  3. a b c d 外務省外交史料館日本外交史辞典編纂委員会 『新版 日本外交史辞典』、872,983頁。"三浦公使は杉村濬書記官、楠瀬幸彦公使館付武官、岡本柳之助朝鮮国軍部兼営内府願問官らと協議して、閔妃の政敵で京城郊外孔徳里に蟄居する大院君を擁して閔妃を倒し親日政権樹立を計画した。(中略)8日早朝、上記計画を決行した。訓練隊・日本軍守備隊・日本警察官・日本人新聞記者・壮士らを動員、大院君を擁して景福宮に入り、王宮護衛の侍衛隊を撃破し、閔妃を殺害、その死体を火葬した。"。
  4. a b c d 「日本公使三浦梧楼の指揮により日本軍人・大陸浪人らの手で閔妃が殺害された」(平凡社『世界大百科事典』)、「日本公使三浦梧楼の指揮により日本軍人・大陸浪人らは、反日派の中心人物と目された閔妃を、10月8日未明王宮内で殺害」(小学館『日本歴史大事典』)
  5. a b 「李朝滅亡」p58,片野次雄 · 1997年 「朝鮮王族も一枚岩でなく、双方の派で殺し合いまでしていたほど反明成皇后である興宣大院君、表立って父を批判出来ないが、明成皇后への身分下げ措置等には反対する高宗と純宗とに別れていた。1898年に大院君が死亡するとそれまで明成皇后と大院君の指示を受けていただけの高宗が実権を握るようになる。1903年に明成皇后殺害した朝鮮人の一人である禹範善が暗殺された。1907年8月31日付往電第31号によると、明成皇后の息子の純宗は明成皇后殺害の犯人である禹範善の暗殺犯らを特赦すれば、乙未事件はここで始めて解決し、両国間数年の疑団も氷解するとして主張していた。反明成皇后派の興宣大院君死亡していたため、双方で減刑措置が和解案となり、主犯は当初死刑判決だったものの、無期懲役で確定となり、無期にも関わらず5年間の懲役で朝鮮半島に返される措置を受けている。」
  6. a b 朝鮮王朝実録 高宗35年2月22日以降を参照
  7. a b c d e 山田朗『世界史の中の日露戦争』(戦争の日本史20)2009年、吉川弘文館p.38,p.39
  8. ^ p492 日本外交文書デジタルアーカイブ 第28巻第1冊(明治28年/1895年)
  9. a b c d p491 日本外交文書デジタルアーカイブ 第28巻第1冊(明治28年/1895年)
  10. ^ 黒竜会 編『東亜先覚志士記伝.上巻』昭和8-10、黒竜会出版部、p525、国会図書館デジタル・コレクション= http://dl.ndl.go.jp/view/jpegOutput?itemId=info%3Andljp%2Fpid%2F1242345&contentNo=296&outputScale=4
  11. ^ 金文子『朝鮮王妃殺害と日本人』2009年高文研、p.305-p.308
  12. ^ p493 日本外交文書デジタルアーカイブ 第28巻第1冊(明治28年/1895年)
  13. ^ 堀幸雄『戦前の国家主義運動史』p24
  14. ^ 堀幸雄『戦前の国家主義運動史』p24-p25
  15. a b 小松裕 『「いのち」と帝国日本(全集日本の歴史 第14巻)』小学館、2009年、240頁。"閔妃殺害事件に関するこれまでの研究史を見ると、ほとんどが三浦梧楼首謀説をとっている。"。
  16. a b c 金文子『朝鮮王妃殺害と日本人』2009年高文研、p.86,p.87
  17. a b c 鄭容和, <文明の 政治思想: 兪吉浚の 近代韓國(문명과 정치사상:유길준과 근대한국)> (文学と知性社, 2004) 93
  18. a b c 日韓外交史料 第五巻 韓国王妃殺害事件 市川正明編 原書房刊 文書番号353
  19. a b 中村粲 『大東亜戦争への道』展転社、1991年、70頁。ISBN 4-88656-062-8
  20. a b 2010年2月12日『毎日新聞』
  21. a b c GK17289_00I0006韓国官報 資料請求番号 奎17289 GK17289_00I0006 開國五百年十一月十四日  號外 1. 裁判宣告書 http://e-kyujanggak.snu.ac.kr/GAN/GAN_SEOJILST.jsp?ptype=list&subtype=02&lclass=17289&mclass=&xmlfilename=GK17289_00I0006_0015.xml http://147.46.103.182/OIS/GAN/VIEWER.jsp?xmlfilename=GK17289_00I0006_0015&tablename=KYS_GAN_N_TBL
  22. a b 外務省外交史料館日本外交史辞典編纂委員会『新版 日本外交史辞典』P872,P983
  23. ^ 新聞集成 明治編年史 第九巻 日清戦争期 時事 1986年1月23日記事
  24. a b c 1895年(明治28年)12月28日付『機密発第98号』
  25. ^ アジア歴史資料センター「十月八日王城事変ニ関スル犯罪人処分方ニ付朝鮮政府部内ノ意向」レファレンスコードB08090168700 明治28年12月26日付機密第53号
  26. a b 『原敬関係文書』第1巻
  27. ^ 『高宗実録 乙未(三十二)年八月二十二日』
  28. ^ 高宗は露館播遷後に朴銑、尹錫禹に関しては無罪として、補償金200円を出している(閣議決定案 第317号 1896年 4月 25日 第317号)。 別紙로 法部大臣이 청의한 朴銑의 伸冤과 尹錫禹의 褒贈과 그 恤金에 관한 건은 朴銑은 무고하므로 伸冤이 가하고, 尹錫禹는 무고에 의한 것으로 그 官을 복귀하고 褒贈과 恤金은 内閣總理大臣이 별도 供議하기로 결정됨이 가함. 朴銑의 伸冤과 尹錫禹의 褒恤 건은 각의 결정한 취지가 있어, 尹錫禹의 恤金은 200元으로 그 유족에게 下付하고 復官 후 貤贈之典은 上裁를 삼가 청하므로 각의에 供함
  29. ^ アジア歴史資料センター「朝鮮事変ノ公報ト称スル書類ニ関シ京城駐在一等領事内田定槌ヨリ報告ノ件」レファレンスコードA04010025000 明治29年5月19日付公信第98号
  30. ^ 『機密第36号』、『機密第51号』及び『附属地図』
  31. a b 1906年 統監代理長谷川好道韓皇謁見始末報告 顧れば今を距る十二年、我国独立問題の為日清干戈を交へ、其結果日本の勝利に帰し、我国独立の基礎を確立するに至りしは、我国民の日本に向て深く感謝する所なり。然るに、不幸にも中頃王妃殂落事件の生ずるあり。夫れ此事たる、勿論我臣僚中不逞の徒、之を行ひたるも、其背後に日本の勢力を恃んで此に出たるが故に、国民の感情、自然融和を欠き、日韓両国の情誼稍々阻隔を致すに致りて、又止を得ざりし次第なり。最近に及び、露国の勢力漸進し来りて、我国の独立を危くせんとするに当り、日本は再び戈を執って之と交戦し、結局其勝利に帰し、東洋の平和を克服するに至りしは、之亦我国に於て多大の謝意を表する所なり。
  32. ^ 高宗実録 34卷, 33年(1896 丙申 / 대한 건양 (建陽)1年) 2月 11日(陽暦) 3번째기사
  33. ^ 電受第75号 「1. 明治29年2月12日から明治29年2月20日(韓国王露公使館ヘ播遷関係一件)」レファレンスコードB03050313400
  34. ^ 高宗実録 34卷, 33年(1896 丙申 / 대한 건양 (建陽)1年) 2月 11日(陽暦) 6번째기사
  35. a b 1907年8月31日付・往電第31号
  36. ^ アジア歴史資料センター『在本邦韓国亡命者禹範善同国人高永根魯允明等ニ於テ殺害一件』
  37. ^ 堀幸雄『戦前の国家主義運動史』p24-25
  38. ^ 伊藤博文/編「秘書類纂 朝鮮交渉史 中」p.526-p.535(1970年に原書房より復刻)
  39. ^ 原田敬一『日清・日露戦争』(岩波新書)
  40. ^ 永井靖二. “外交官「王妃殺した」と手紙に 126年前の閔妃暗殺事件で新資料:朝日新聞デジタル” (日本語). 朝日新聞デジタル2022年2月8日閲覧。
  41. ^ 松村正義 (2010年). “決断の時・知られざる外交官の舞台 第2回「中南米との文化外交に尽力した堀口九萬一 『外交』Vol.2 (PDF)”. 外務省. 2022年2月8日閲覧。
  42. ^ 朝鮮の皇后・閔妃殺害事件 日本政府高官の手紙見つかる - 朝日新聞2008年6月28日付
  43. ^ 崔文衛『閔妃は誰に殺されたのか』彩流社、2004年
  44. ^ 金文子『朝鮮王妃殺害と日本人』2009年高文研、p.98-p.141,p.358,p.359
  45. ^ 安川寿之輔『福沢諭吉のアジア認識』2000年高文研、p.193
  46. ^ 金文子『朝鮮王妃殺害と日本人』2009年高文研、p.345
  47. ^ ただし、福澤諭吉のものとされる「国家主義」「侵略主義」「アジア蔑視」的な論説が、実際は弟子の石河幹明の手によるものだったとする研究もある。詳細は福沢諭吉の真実を参照のこと。
  48. ^ 名越二荒之助 『日韓共鳴二千年史 : これを読めば韓国も日本も好きになる』明成社、2002年、180-181頁。ISBN 4-944219-11-3
  49. ^ 鄭容和, <文明の 政治思想: 兪吉浚の 近代韓國(문명과 정치사상:유길준과 근대한국)> (文学と知性社, 2004) 93
  50. ^ アジア歴史資料センター「明治廿八年十月八日朝鮮王城事変之報告」レファレンスコードB08090168300 明治28年11月5日付機密第36号。
  51. ^ 『観樹将軍回顧録』
  52. ^ 1907年8月31日付・往電第31号
  53. ^ 「朝鮮紀行」(講談社学術文庫)p.353
  54. ^ 2005年5月9日 朝鮮日報
  55. ^ 同番組によると、「洪陵の前で地面に膝をついて3回お辞儀するのは韓国での仕来りなので、そうして欲しい。」と事前に伝えられていた。
  56. ^ “明成皇后殺人犯の子孫が謝罪”. 中央日報. (2005年5月10日)
  57. ^ 明成皇后殺害凶器「肥前刀」の還収委員会発足Wow Korea,2010/03/26 17:43配信YONHAPNEWS.
  58. a b 明成皇后殺害凶器の肥前刀、日本の神社に返還要求へ」2010.3.25 20:26,聯合ニュース

※なお、『高宗実録』は朝鮮総督府によって編修されたもので、編纂委員には事件の容疑者だった菊池謙譲の名もある。

参考文献[編集]

資料[編集]

  • 日本外交文書デジタルアーカイブ 第28巻第1冊(明治28年/1895年)
  • 近世朝鮮史 (林泰輔著)(早稲田大学出版部 近代デジタルライブラリー 国立国会図書館
  • 「朝鮮紀行―英国婦人の見た李朝末期」(イザベラ・バード (Isabella L. Bird) 著、時岡敬子訳、講談社学術文庫) ISBN 4061593404 
  • 「朝鮮奥地紀行」(イサベラ・バード著、朴尚得訳、平凡社東洋文庫全2巻、1994年) 
  • 「明治100年厳書 288巻 日韓外交史料5 閔妃殺害事件」 (市川正明編、原書房)
  • 有馬頼寧関係文書目録」 国立国会図書館専門資料部 (1989/01) ASIN: 4875822294
  • 「朝鮮旅行記」 『1895―1896年の南朝鮮旅行』の章(ロシア参謀本部中佐カルネイェフ著、ゲ・デ・チャガイ編、井上紘一訳) ISBN 4582805477(平凡社東洋文庫)
  • 「朝鮮王妃事件関係資料」 国会図書館憲政資料室(憲政史編纂会編) マイクロフイルム 整理番号546
  • 「法制局参事官石塚英蔵傭聘ニ付朝鮮政府ヨリ依頼ノ件」朝鮮問題5(公信類) 陸奥宗光関係文書 国会図書館憲政資料室  資料番号 77-2
  • 「新聞集成明治編年史 第九巻 日清戦争」(新聞集成明治編年史編纂會編、財政経濟学会) 昭和33年  
  • The tragedy of Korea'' (Mackenzie, Frederick Arthur著、原書出版: London,Hodder and Stoughton 1908) LC Call Num: DS916 .M2.(邦訳:『朝鮮の悲劇』、訳注:渡部学、平凡社東洋文庫222)ISBN 4-256-80222-3.
  • 「近代外交回顧録(第5巻) 近代未刊史料叢書 (5) 」 (広瀬順晧著、ゆまに書房) ISBN 4897149908

研究[編集]

  • 金文子『朝鮮王妃殺害と日本人』2009年、高文研
  • 木村幹『高宗・閔妃』2007年、ミネルヴァ書房
  • 「閔妃暗殺―朝鮮王朝末期の国母」(角田房子著)ISBN 4101308047(新潮社のち新潮文庫)
  • 武田範之とその時代(滝沢誠著、三嶺書房) ISBN 491490649X
  • 「閔妃は誰に殺されたのか 見えざる日露戦争の序曲」(崔文衡著、彩流社) ISBN 4882028786

韓国[編集]

  • 「梅泉野録 近代朝鮮誌・韓末人間群像」(黄玹著、朴尚得訳、国書刊行会、1990)ISBN-10  : 4336031584
  • 「訳注梅泉野録」(黄玹著、朴尚得訳、文学と知性社 (mun-hak-kwa ji-seong-sa) 3巻) ISBN 89-320-1565-1
  • 강준만, 《韓国近代史散歩 1》 (인물과사상사, 2007)
  • 黄玹, 《梅泉野録》 (허경진 옮김, 한양출판사, 1995)
  • 朴殷植, 《韓國痛史》(김승일 역, 범우사. 1997)
  • 정용화, <문명의 정치사상: 유길준과 근대한국> (문학과지성사, 2004)

関連項目[編集]

外部リンク[編集]

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