姜尚中 「キリスト教・植民地・憲法」(『現代思想』 1995.10)
(4)キリスト教のインターナショナリズム
それは、無教会の中で持っていた人たちの考え方、新渡戸からその後もそうです し、アメリカ研究史もほとんどそこから出てきているわけです。戦後のアメリカ研 究の人脈というのは、ほとんど新渡戸なくしては出てこないと思います。 それはやはり日米関係重視です。ぼくはそれが精神的なバックグラウンドとして あったと思います。だからそのことが新渡戸の持っているインターナショナリズム という面として語られたのです。太平洋の架け橋という。それはちょうど日英同盟 を日本にとってのバイタルな問題と考えた吉田と同じようなものです。 吉田が外務官僚として一番長く赴任していた所は中国と朝鮮半島です。吉田には アジアをむさぼるためにはやはり欧米の覇権国家と結びつくことが大事だという信 念のようなものがありました。だから、太平洋の架け橋という裏側には、実は、ど うやって、いわばアメリカとよしみを通じながら、アジアというものに勢力を広げ ていけるのか、という発想があるわけです。 --帝国主義的インターナショナリズムですね。 ある種のね。ぼくの言葉で言うと、「リベラリズム、ナショナリズム、コロニア リズム」これが「インターナショナリズム」につながっているのです。これは一応 矛盾なく同居している。そのある一面だけを取り出してインターナショナリズムと いう形でいままで評価している。 そのインターナショナリズムは、なるほど軍部からするとインターナショナルで ある。軍部がある種の日本のアウタルキー(孤立的・閉鎖的な自給自足経済圏-引 用者注)をつくりだそうとすれば、間違いなく欧米とは衝突します。でもアジアの 目からみると、それはある種の共同覇権主義というか、そういうものであった。な るほどそれはミリタリズムではない。でもやはりある種のインターナショナルなイ ンペリアリズムであった。その清算は戦後もできていないと思います。 --そもそもそういう視点がまったくなかった。 そうだと思います。そういう意味でのアジアの視点から戦後の無教会なりあるい は無教会の持っている問題性を見ていくことが必要ではないでしょうか。戦後五十 年たって、やっとそういうことに目を向けざるをえなくなってきた。 だから新渡戸の評価と言うのはいろいろな側面があるわけだけれども、間違いな くそれは福沢諭吉以上に自覚的な形での、ある種の、日清戦争以後の日本のナショ ナリズムに対する自負心というものが強かったと思います。もちろん福沢の場合に は後期に国権主義だとして批判されているけれども、次の世代からすれば、一応土 台ができあがってそこからどうやって日本が拡大していくかということになる。台 湾を拠点として、どんどん広がっていくという発想に駆動されています。戦後は形 を変えていますが、吉田政治のような保守主義の伝統の中にも受け継がれていると 思います。 そうとらえていくと、日本の革新的な平和主義の運動が、吉田の基本的なところ を越えていたのかどうか、疑わざるをえません。なぜならば可能な限り軽武装で、 そして日本にとってやばい戦争には介入しないようにエクスキューズする。しかし その保証として、日米安保に頼るからです。 --彼らの天皇観はどうでしょうか。 新渡戸の言説の中で、天皇に対する思い入れというのはすごいものがあります。 後藤新平もそうです。一つの曲がり角は、大正期から昭和にかけての、恐慌前後で す。そこから、ぼくの言葉でいうと、日本に反西欧ということが出てきて、それは たぶん歴史意識がダイアローグからモノローグへ転換していくんです。それはある 種の欧化主義に対する揺り戻しがおきていくんです。それは後藤にも新渡戸にも現 れます。 そういう点では、キリスト教の中にもあるナショナリズムの側面が、色濃く出て くる時代なんです。彼らがいうインターナショナリズムでも、あくまでも大文字の <他者>はやっぱりアメリカなんです。朝鮮とか中国は<他者>ではないんです。 だから自分達の言説を投げかける対象はあくまでも大文字の<他者>としての欧米 なんです。そしてそれは戦後も一貫して同じです。日本をわかってもらえるための 言説のコードというのは大文字の<他者>としてのアメリカに投げかけられたもの なんです。そして、朝鮮や中国が自分達をどう理解するかのために努力したことな ど一度もないんです。 |
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